大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年02月02日 | 祭り

<1495> 若草山の山焼き

         春はそこ 春はそこまで 枯れ草原

  一月二十三日に行なわれた奈良・若草山の山焼きは雨模様の中で焼かれ、湿気のため三十三ヘクタールのうち、周辺の二割ほどしか焼くことが出来ず、延期されているが、二月八日午前九時より奈良県庁の職員らによって再び点火され、焼かれることになった。 

          

  麓から見ると、ほとんどが枯れた草原でススキが繁っている。焼かれると山肌が黒くなり、末黒(すぐろ)と言われ、春の季語になっている。所謂、野焼きや山焼きをした後の黒々とした焼け跡をいうもので、草原の更新、即ち、芽立ちを促す目的による。ススキの茅原で行なわれる場合が多い。若草山の山焼きもこれに同じで、ススキの芽立ちを促す。 写真は再び焼かれる若草山。黒く見えるところは一月二十三日に焼かれた跡。


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2014年08月15日 | 祭り

<1076> ほうらんや火祭り

       ほうらんや 炎昼に焔を 奉る

 お盆の十五日、橿原市東坊城町の春日神社と八幡神社で大松明を担いで奉納するほうらんや火祭りが行なわれた。まず、地元の六地区の氏子たちが午前中、各地区で割竹を編み、丸くして、その中にワラや竹笹などを詰め、縄を回して縛り、先端部分に燃えやすい菜種殻を取りつけ、「えび」と呼ばれる注連縄をした合計大小十数個の松明を作り、炎暑の午後一時半から、まず、春日神社で奉納があり、次いで、午後四時から八幡神社で同様の奉納があった。

         

 大松明は大きいもので、直径が1.5メートル、長さが三メートル、重さは四百五十キロ。春日神社では東坊城町の弓場、川端、大北、出垣内の四地区の大松明、八幡神社では同町の大北、川端、弓場、万田、出垣内と古川町の六地区の大松明が奉納された。火がつけられて燃えあがる大松明を浴衣姿の氏子たちが順次担いで境内を練り歩いた後、大松明の火を神前に据えて奉納を終えた。

 この火祭りは無病息災、虫送り、雨乞い等にかかわる民俗的恒例の祭りとして、大和では風物詩としてあり、昭和五十七年(一九八二年)に奈良県の無形民俗文化財に指定され現在に至っている。お盆に行なわれるが、仏教の伝来よりも起源が古いとも言われ、仏教とは関わりがないという。また、「ほうらんや」の名称の由来については、豊年万作の「ほうねん」から来ているのではないかと言われているが、定かではない。 写真は左が春日神社、右二枚が八幡神社のほうらんや火祭り。

 

 

 


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2014年08月14日 | 祭り

<1075> 続 盆 踊 り

       盆踊り あの子の浴衣 姿かな

 盆踊りについては、このブログ<711>で触れたが、奈良県の南端、南紀熊野に近い十津川村に、国の重要無形民俗文化財に指定されている大踊りと称せられる小原、武蔵、西川三地区の盆踊りがある。この盆踊りに歌われる音頭の中に、私が子供のころ岡山の田舎で聞いた盆踊りの音頭に似ているものがあることについて今少し触れてみたいと思う。

 私の郷里は備前の瀬戸内海に面したところで、その盆踊りの音頭は出だしのところを今も忘れることなくすらすら歌える。その出だしの部分は既に<711>で紹介しているが、「盆の十五日に 踊らぬ奴はよ 猫か鼠か鷄(にわとり)かよ あらよいよいよい」というものである。これは、盆踊りでは最大と言われる阿波踊りの「踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ損々」に似て、踊りの中に加わることを促している。

 この田舎の盆踊りについては、歌い手がいつも隣町から来て櫓に上がって歌っていた。踊りの会場が家から近かったので会場に出向かなくても歌は聞こえて来た。寂びのある男の声で、何となく哀調があった。歌は江州音頭だと聞き及んでいたので、十津川の大踊りの歌をラジオで聞いたときは、同じ歌い回しに大変驚いた。その後、伊勢神楽のことが思われ、これは文化の繋がりを示すものだと自分を納得させたのであった。

                                                              

 で、十津川の大踊りは一度見てみたいという気持ちでいるが、未だその機会がない。なので、まだ確認は取れていないが、音頭は確かにこの耳で聞いた。それはよく似ている調子であった。この音頭の話に似ているのが前述した伊勢神楽で、これも以前触れたと思うが、子供のころのことである。麦秋から田植えの終わるころにかけて、毎年、伊勢神楽の一座がやって来て、門付けをして回った。その門付けの獅子舞いが、奥宇陀の曽爾村や御杖村で行なわれている獅子舞いに酷似しているのである。この獅子舞いを曽爾村の門僕神社で初めて見たときもびっくりした。

 門付けの一座によって、伊勢神楽の獅子舞いは備前岡山の片田舎にまで知られていたのであるが、一座にはどの辺りまでが行動範囲だったのだろうか、箱を設えた車を曳いてやって来た。獅子が真剣を用いたり、獅子舞いに鷄が登場し、獅子をからかって怒った獅子が狂い回るというのも同じで、このことが十津川の大踊りの音頭にも重なって思われて来たのである。

 あれは江州系の音頭ではなく、伊勢系の音頭ではなかったか。獅子舞いに同じく、鶏が登場するのも偶然ではない気がする。文化交流の繋がりで言えば、昔から信仰の道として伊勢路が知られている熊野に近い十津川は近州に馴染みはなく、伊勢の方が濃密である。言わば、伊勢の影響の大きいところである。このことをして思えば、大踊りの音頭は伊勢音頭に関わることが考えられる。

  そこで郷里の備前岡山のことであるが、河内音頭の河内を遥かに越えて備前岡山まで、獅子舞いはもとより、盆踊りの音頭も伊勢が浸透していたことが思われる次第である。今日はその盆の十四日である。明日、明後日にはどこかで、盆踊りの音頭が聞こえて来そうである。因みに、大和の北西部は河内に近い関係もあって、主流は河内音頭のように思われる。写真は盆踊り(左)と曽爾の獅子舞い。


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2014年08月07日 | 祭り

<1068> 大仏さんのお身拭い

         みんなして 大仏さんの お身拭い

 立秋の七日、奈良は晴天で、空には夏を象徴する雷雲と秋の雲である絹雲が同居する朝だったが、東大寺大仏殿では年に一度の大掃除が行なわれ、本尊の盧舎那仏坐像(大仏さん)のお身拭いがあった。午前七時から大仏さんの魂を抜く法要があり、七時半から斎戒沐浴した白装束にぞうりを履いたお寺の関係者やボランティアの人たち約百六十人が一斉に掃除に取りかかった。

                     

  坐高十五メートルに及ぶ大仏さんのお身拭いは約三十人がかりで、高いところは天井の滑車から吊るされたゴンドラに乗り、一番高い頭部の螺髪部は専門の鳶職人が行なうなどし、はたきによって約二時間かけ一年のほこりを払った。

                     

 一般の参拝、見学は午前七時半に開門され、開門時には約五百人が並んだ。お身拭いが始まると、大仏殿内は見物する人たちでいっぱいになり、写真に収める人でごったがえした。ほこりは舗装されていなかった昔ほどではないということであるが、それでも目に見えるほどで、お身拭いの後は大仏さんもさっぱりしたという面持ちに感じられた。

 また、大仏殿では大掃除の後、消火点検の一斉放水が行なわれた。仏さまのお身拭いは正月前に行なわれるのが通例であるが、東大寺の大仏さんは寒い時期を避け、八月七日に行なわれ、これが恒例になっている。写真は上段左から大仏さんのお身拭い、お身拭いを撮る見物の人たち、大仏殿内に舞うほこり。下段左から一斉放水、中門上の掃除、開門前に並ぶ人たち。

 


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2014年07月19日 | 祭り

<1049> 風鎮祭の千燈明に思う

         風鎮祭 継ぎ来て今に あるこころ

 十九日の夕、斑鳩の里の龍田神社で、五穀豊穣と無病息災等を祈願する風鎮祭の千燈明が行なわれ、これに合わせて近隣の人たちによる夏祭りの盆踊りが催された。千燈明は、種油が入れられた直径八センチほどの白いかわらけに、安堵町の伝統工芸の燈芯が入れられ、これに次々と奉納の灯が点された。この祈願の燈明は数段の長い棚に並べられ、神前の浄闇をほのかに照らし彩った。

 夏祭りの盆踊りは戦争で中止になっていた千燈明が復活したのに合わせて行なわれるようになり、今年で十二回を数えるという。地元の青年団が中心に開いているもので、境内の中央に櫓が組まれ、その櫓を囲んで踊り手が輪になり河内音頭などに合わせて踊った。今日から夏休みとあって、子供連れの姿が多く見られ、夜店も出てにぎわった。

        

 龍田神社は三郷町に鎮座する龍田大社の勧請によって生まれた新宮と言われ、天御柱と国御柱の二神を主祭神とする風神で知られる。龍田大社でも七月のはじめに手筒花火による風鎮祭が行なわれるが、この祭りはこの風神に災いのないことなどを祈願して行なわれるものである。

 奈良盆地は年間降水量の少ない瀬戸内気侯帯に属し、昔から旱魃の被害に悩まされて来た。一方、地形的に盆地の水が中央を東西に流れる大和川に集中するため、雨が続くとすぐ洪水を引き起こすという風土性にあって、『日本書紀』によると、農業に力を入れた第十代崇神天皇のとき大和川の左岸に水を司る広瀬の神を祀り、右岸に風を司る龍田の神を祀って、飢饉が起きないように祈願した。

 龍田の神の始まりはこの崇神天皇によるとされるが、時代が下って第四十代の天武天皇も、この広瀬と龍田の神への信仰が篤く、祈願を絶やさなかったことが『日本書紀』には記されている。これは、いわゆる、奈良盆地の地形と気象による風土性によるところで、地元におけるこのささやかな祭りも、『日本書紀』から言えば、この風土性に基づくもので、遥かに遠い三、四世紀に遡る龍田の神につながることが思われる。祭りを楽しんでいる人たちを見ていると、これはやはり歴史のある大和の一面だと思えて来る。 写真は左から祭りでにぎわう龍田神社、神前での千燈明、櫓を組んで行なわれる盆踊り。