大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~小筥集

2013年10月31日 | 写詩・写歌・写俳

<789> 大和寸景 「リンドウの咲く山里」

       ゆく秋の棚田の畦の草むらに惜しむべく咲く竜胆の花

 晴れ渡った秋天に誘われて奈良県生駒郡の平群の里を歩いた。平群は大阪奈良府県境の生駒山系の山並と矢田山系の矢田丘陵に挟まれ、真ん中を北から南に竜田川が流れる。川の両側に集落が見られ、山際に向って棚田や畑が見える地形にあり、小菊の産地として知られるところである。紅葉には少し早いが、稲刈りはほぼ終えられ、棚田の辺りは秋の深まりが感じられる。

 もう、そろそろリンドウの咲くころではないかと思い、リンドウが自生する棚田の畔に行ってみた。棚田は放棄されたようになって雑草が生い茂り、以前とかなり様子を異にしていたが、それでもリンドウはそんな雑草の中で花を咲かせていた。

                 

 田が荒れているのは、持ち主に何かの事情が生じたのだろう。田も管理する者がなくなると、あっという間に荒れてしまう。これも、世の中の趨勢なのかも知れない。とにかく、これは移ろう世の中の一つの姿にほかならない。野生のキキョウはすでにこういう山里でも見られなくなって久しいが、リンドウなども消えて行く運命にあるのだろうか。そう思って見ていると、何か惜しまれて来る。

  ほかには、ススキとサクラタデを撮った。テントウムシがエノコログサに来て、しきりに実を食べているのが見られたので、これも撮った。テントウムシには、今少しの間が食い溜めのとき。厳しい越冬が待ち受けている。リンドウが花を終えると山里は冬に入る。 写真は左からススキ、リンドウ、サクラタデ、エノコログサの実を食べるナナホシテントウムシ(いずれも生駒郡平群町で)。


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2013年10月30日 | 写詩・写歌・写俳

<788>  塔

        悼まれて逝く人ありしその日にも塔は巧まず 天を指しゐき

 諸行無常はこの世。生あるものはいつか滅びる。今年も幾人か、悼まれながら他界した。中には惜しまれながら。だが、その間も塔は何も巧まず、変わることなく天を指している。塔が天地の間の筆ならば何と記すか。逝くものには哀惜の情を。では、塔によせる歌をなお幾首か。

      日々仰ぐ塔にしてあるその眺め少し傾き見えゐることも

      今日に今日 今日の眺めに今日の塔 少し鬱なる心の中に

      晴の日も曇の日もまた雨の日も愚直のごとく立ちゐある塔

 日々塔を見上げていると、「おや」と思うことがある。「今日は少し傾いているぞ」と。そんなふうに。それは塔が傾いているのではなく、見ている自分の眼の方がおかしいのであるが、みな自分本意だから、これになかなか気づかない。そういう自分も気づかないでいることが多く、このような歌も生まれることになる。

                              

 また、自分本意で見る塔は、自分の心の中に現われ、鬱々としてあるときなどは励ましてくれる存在になる。これは一つの例。一は十に及ぶと言って差し支えないから、ほかのことにも重ねて言えよう。言わば、塔は日々、移ろうように見える。だが、いつも愚直なほど微動もしないで存在している。ふと、松尾芭蕉の不易流行の言葉が思われた。移ろう時はすべてに及ぶが、根幹には不動の何かがある。その何かに寄せていたのが行脚の俳人芭蕉ではなかったか。

      わが思ひのみにあらざる理の塔にしてある眺めなりけり

      あまたなるこころ汲ましめ塔はある 千年超の空中に立ち

 だが、もちろんのこと、塔は自分だけのものではない。我が思いにのみ接するのではないことが塔のあるべき姿で、そこにあるみんなとともに見上げていることが言える。そして、塔は見上げる個々のこころに映る存在で、これは塔の齢だけあることである。そして、塔は日々を重ね、古塔ならば、千年を越えてその存在を示していることになる。

 塔は三重も五重も仏舎利、即ち、お釈迦さんの骨を納めている精神の上に建てられている建造物であるが、私たちにはその真意よりも、天を指して建てられた姿としての大きさや美しさに惹かれるところがある。では、今一首。人生を送るにおいて見え隠れする塔の存在を詠んだ歌。塔とは天を指して立つ憧れの象徴。 写真はイメージ。左は薬師寺三重塔(西塔)。次は順に法隆寺五重塔、興福寺五重塔、薬師寺三重塔(西塔)の相輪・水煙部分。

    塔一基見え隠れする道にしてつまづけばまた上りとなりぬ


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2013年10月29日 | 写詩・写歌・写俳

<787> ポット菜園

       時雨空 これも大和の 眺めなり

 我が家では最近、庭にポットを置いて、それに花ではなく野菜を植えている。秋の初めごろ蒔いた水菜や春菊、便利菜が芽を出し、食べられるくらいになった。大きい野菜は無理だが、トマトやピーマン、キュウリくらいならポットで育てられる。もっぱら妻がやっていることで、ミニトマトとピーマンのあとに水菜と春菊を植えている。まだ、今年はやって来ないが、山にエサがなくなる冬場になると、ヒヨドリがやって来て、まず、山茶花の花を突き出し、次に春菊や水菜を突くようになる。

 今日はその春菊を摘んで、吸い物に入れて食べた。摘んでも次から次へと葉を出して来るので、来春まで食べられる。春菊には勢いがあって、ヒヨドリが来てもあまり気にならない。むしろ、二人とも来るのを楽しみにしているくらいである。いつもペアでやって来るので夫婦だろうと思う。一羽が去るともう一羽も去って行くという具合で、仲のよさが伝わって来る。

                           

 昨日とは一転し、今日の大和は、時雨の空模様になり、冴えない一日だったが、それでもポットの野菜たちは瑞々しく見えた。わずかな庭のスペースであるが、日当たりがよく、私たちには気分の和む場所である。世間はいろいろと忙しなく事件や事故やら、また、政治の蠢きなどがあり、私のような行動範囲の狭い人間にもずかずかと入り込んで来て、気分を乱されることがあるけれども、時折り目をやるこの庭の光景は、そんな世間の騒々しさとは一線を隔した聖域のようで、何か気分を和ませてくれるところがある。

 


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2013年10月28日 | 万葉の花

<786> 万葉の花  (113)  う も (宇毛) = イ モ (芋)

       ほどのよさ 伊予の河原の 芋煮会

   蓮葉(はちすは)はかくこそあるもの意吉麻呂が家にあるものは芋(うも)の葉にあらし   巻十六 (3826) 長意吉麻呂

 集中にうものイモが登場する歌はこの一首のみ。この歌は巻十六の由縁ある雑歌の項に見える「長忌寸意吉麻呂の歌八首」と題されている歌群の中の一首で、蓮の葉を芋の葉に比して詠んでいる歌であるのがわかる。意吉麻呂は柿本人麻呂とほぼ同じ藤原京時代の渡来系人物と見られ、この八首のほかに持統天皇の行幸に従駕して詠んだ歌など旅の歌六首が『万葉集』に採られている。

 意吉麻呂の十四首はすべてが短歌で、巻十六の八首については、宴席などで詠まれた戯笑歌、即ち、戯歌(ざれうた)と見られ、豊富な語彙とそれにともなう比喩的表現を楽しむ知的遊びの色濃い形式の歌と言われている。遊びとしての歌は『古今和歌集』の物名歌などにも見られるが、冒頭にあげた意吉麻呂の歌をはじめとする巻十六のこれらの歌群は、以後の勅選集にその姿を見ることはなく、『万葉集』の幅の広さを特徴づける歌として見ることが出来る。

 歌の意は「蓮の葉というのはあのようにこそあるものなのだなあ。それに比べ意吉麻呂(自分)の家にあるものはどうも芋(うも)の葉のようである」というものである。だがこれは比喩の歌であって、宴席の会場で見かけた女性であろうか、その容姿に惹かれて、その女性を蓮の葉に見立て、自分の妻女を芋の葉だと言って、相手を持ち上げた歌であると言われる。つまり、この歌は一種諧謔的趣向による歌で、宴席の笑いを誘ったことが想像される。

  これについては、巻十六の3835番の歌に 「勝間田の池はわれ知る蓮(はちす)なし然(しか)言ふ君が鬚(ひげ)なきごとし」 とあり、勝間田の池に生える蓮を詠んだものであるが、冒頭にあげた長意吉麻呂の3826番の歌と同様、蓮を女性になぞらえていることがこの歌の左注によってわかる。所謂、類似歌としてあり、この左注によると、新田部親王が外で遊んで帰ったとき、寵愛する側近の婦人に勝間田の池の蓮が素晴らしかったことを話した。そこで、その話に対し、婦人がこの歌を詠んでやり返したというもの。

 歌の意は「嘘をおっしゃい、勝間田の池はよく知っています。蓮など生えていません。あなたさまが言っている蓮とは女性のことでしょう。勝間田の池に蓮があるなんて、あなたさまにひげがないとおっしゃるのと同じですよ」と言っているわけである。言わば、この歌は問答歌の返歌の形を取った歌として見ることが出来るように仕立てられている。

                                                                   

 うもはイモ(芋)の古い呼び方で、芋は平安時代初期の『倭名類聚鈔』に、和名を「以閉都以毛(いへついも)」(即ち、家の芋)と言い、葉は荷(はす)に似て、根はこれを食すことが出来ると言っている。山の芋に比して言われたもので、今の里芋のことであるのがわかる。冒頭にあげた意吉麻呂の3826番の歌に帰れば、妻を言っている「うも」はイモで、イモは妹(いも)をも表していると取れる点、この歌の技巧がより巧みであるのが思われて来るところである。

 しかし、この歌を今少し探ってみると、蓮も芋も主に根茎を食し、この点で言えば、芋は蓮に劣るとは言い難く、見映えはわるいものの実質的な価値という点では決して引けを取らず、むしろ、芋の実績を採る御仁もいるのではないかと察せられる。これによく似た例歌が大伴家持の歌に見えるので参考になる。それは、妻を蔑にして遊女にうつつを抜かす部下を喩して詠んだ長歌の反歌4109番の歌で、「紅(くれなゐ)は移ろふものそ橡(つるばみ)の馴れにし衣(きぬ)になほ若(し)かめやも」 と詠んでいる。この歌を意吉麻呂の歌に比してみると、他所の女性である蓮の葉は紅で染めた衣であり、自分の妻であるうもの葉は橡(つるばみ)で染めた衣であることが言える。

 それにしても、似るということは、いいこともあるもので、代用が利く。以前にも触れたが、私の子供のころ、実家(岡山)では、お盆になると精霊棚を作り、先祖の霊を迎えた。そのとき蓮の葉の代わりに里芋の葉を用いて、その葉に水を掛けていたのを思い出す。里芋は庶民的な作物で、自給自足で賄っていた。秋が収穫時期で、全国各地で芋煮会が催され、風物詩になっているところも見受けられる。 写真は左が里芋、右が蓮。

 

 


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2013年10月27日 | 写詩・写歌・写俳

<785> 四社神社の獅子舞い

       獅子舞ひに 夫婦獅子あり 秋日和

 晴天の二十七日、奈良県宇陀郡御杖村菅野の四社神社(ししゃじんじゃ)で例大祭の獅子舞奉納が行なわれ、出かけてみた。四社神社は、天照大御神をはじめ、天照大御神の母神である伊邪那美命(熊野さん)、第十五代応神天皇(八幡さん)、天照大御神が岩屋に隠れたとき、祝詞を上げて大御神を誘い出す一役を担った天津児屋根命(春日さん)の四神を祭神とする神社で、この名がつけられ、昔は四社大明神とも称せられた。

 第十代崇神天皇のとき、飢饉が頻発し、天皇は三輪山の神の神託によって、それまで皇居内に祀っていた天照大御神を、皇女豊鋤入姫命(とよすきいりびめのみこと)をお世話役の斎宮(いつきのみや)として皇居外に祀らせた。

  大御神は最初、三輪山の麓の檜原神社近くの笠縫邑(かさぬいむら)に祀られたが、その後、豊鋤入姫命より斎宮を引き継いで御枝代(みつえしろ)になった第十一代垂仁天皇の皇女倭姫(やまとびめ)のとき、各地を転々とし後、最終的に今の伊勢神宮に落ち着いたとされる。この四社神社もその地の一つに数えられ、檜原神社と同様、元伊勢と呼ばれている。

                  

  四社神社は村社の格式にあるが、由来は古く、大和の三輪の地より伊勢に通じる伊勢本街道脇に位置するため、ここを通ってお伊勢参りに行く人々の往来が多く、往来する人々は必ずこの神社に立ち寄って参拝したと言われる。ここの獅子舞いは、隣接する曽爾村の門撲神社(かどふさじんじゃ)の獅子舞いに似て、伊勢神楽の系統を引き継ぐものと見受けられる。これは伊勢神宮を中心とする古代の文化的伝播の姿を遺すもので、大和に見られる伊勢音頭に等しいところがうかがえる。

  少子高齢化で、舞う人が減少しているが、地元では貴重な無形文化財である獅子舞いを絶やしてはならないと、菅野獅子舞保存会をつくり、今年も子供たちを交えて稽古を重ね、祭りに備えて来たという。 写真は笛、太鼓、鉦の音に合わせ、威勢よく舞う獅子舞い。「今年もお陰で豊作でした」という喜びの挨拶があった。