<237> 奈良公園の芝草
生は自分本位に出来ている
これを基にして
すべての生きものは
その生を展開している
そのすべての中の個々は
個々それぞれに
自分を本位として
ほかの個々の生を
許容しながら
互いに生きている
どんなに大きくとも
どんなに小さくとも
みなこの本位に基づき
許容とのバランスによって
その生を成り立たせている
奈良公園の芝生はいつ見ても奇麗に見える。それなりに手入れがなされているからだろうが、芝刈りなどという光景は一度も目にしたことがない。しかし、よく見ていると、シカがせっせと芝草に向かって口を動かし食べている。言うならば、シカが芝刈り機の役目を担っていることがわかる。
その奈良公園のシカは千頭を越えているようであるが、それは千の草刈り機をもって芝草を刈り込んでいることになる。それも毎日欠かさず、休むことなく隅々まで。よって、あんなに広大な芝原がいつもみごとに保たれているわけである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/1a/8290ec95218d586ef8c6e96bd4cda8e9.jpg)
芝草というのは根が強く、食べた先から葉を伸ばす勢いがある。しかし、雑草が生えて、その雑草に被われ、日当たりが悪くなると勢いがなくなり、雑草に負けて駄目になる。ところが、シカは芝草と同時に雑草もこまめに食べてゆくので芝草にはよい環境が保たれることになる。 さらに、シカはところ構わず糞尿をし、その糞尿が芝草に効用となり、役立っている。糞尿が芝草の養分になることは言わずもがなであるが、この糞尿のお陰というか、影響によって立入禁止の規制が行われなくても人の立ち入りが抑えられるというわけで、ここにもシカの芝草に対する効用が言える。
糞尿と言えば、どんな糞尿も不浄なもので、住宅地などではイヌやネコがこの件で非難の的になり、『吾輩は猫』の中でもこの問題を扱ったが、奈良公園のシカは神のシカという位置づけがあり、国の天然記念物で、観光資源としても役立てられていることから「奈良公園は糞尿公園」などという陰口はされても、それ以上に問題化されることなく今に至る次第である。
つまり、奈良公園のシカと芝草は私たち人間に対する互いの効用のバランスにおいて成り立っていることが言えるわけである。これは、紀伊山地のシカが食害によって私たち人間との敵対関係を生じているのと対照的で、考えさせられるが、紀伊山地の場合はシカが生きる上の効用において、自他のバランスを欠いていることによるわけで、その関係上、強者の人間側がシカの駆除という手段に出るという次第になっているのである。
つまり、奈良公園の芝草はシカとの自他におけるバランスの上に成り立っており、公園を利用する私たちをも納得させていると言ってよい。この公園の芝原にマクロレンズを向けてズームインしてみると、春には花が見られる。花は地味なものであるけれども矮小化しつつ咲いている。植物があるからは、花が見られるのは当たり前であるが、芝原に花は一つの発見で、感動ものである。そして、加えるところ、シバの花の傍らに一、二年草のツメクサが生え、シカの食害を免れて白い五弁花を咲かせているのを発見した。これはシバの花以上に感動的で、そこには、いじらしくも、明日への希望を繋ぐ姿があった。
ツメクサは芝草の陰で、その強靭な根に寄り添いながら護られているのがレンズを覗いていてわかった。シカが食べ残して行った幸運の花と言ってよかろう。この花を撮っているとき冒頭の詩の発想を得た。生は如何なる生も自分本位に生きているけれども、自他の生のバランスの上に成り立っていると言える。 写真は左がシバの花。右がツメクサの花 (奈良公園で)。