大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年03月31日 | 写詩・写歌・写俳

<3364> 野鳥百態 (7)  仲よしのイカル

 繁殖期は別にして、群れで行動する野鳥は結構多く、概して仲がよい。大和地方で見られる身近なものではスズメ、カラス、メジロ。ほかにもムクドリ、シジュウカラ、エナガ、ヒレンジャク、カワラヒワ。水鳥にも見られ、カモの類、サギの仲間のアマサギなど。そんな中にアトリ科のイカルがいる。

 群れの効用は集団的自衛が一つにはある。これは弱い生きものの知恵と思える。海水の魚で言えば、イワシ、淡水の魚ではメダカなど。草木で言えば、か弱い一年草が群生し、大量の実(種子)を生ずるに似る。要するに弱い生きものは数を頼みに生き継いでゆく。そして、その群には仲のよさがうかがえる。ときには、接触し過ぎてトラブルを起こすこともあるが、直ぐに仲直りをし、群の関係性は概ね協力的で、統一され、平和である。

        

 今年の春先、大和地方ではイカルの姿がよく見られた。イカルの好物であるエノキの実が豊富な年周りに当たり、その実の多かったからか。エノキの実は直径数ミリの球形で、秋に熟し、赤味を帯びるが、その時期を過ぎ、冬から次の年の春先にかけて柄がついたまま黒く干乾び、地上に落ちる。その落ちた実を求めてイカルの群はやって来る。

   実は極めて堅いが、イカルは自慢の太く丈夫な黄色の嘴で実の殻を割り、ピチピチと心地のよい音を立てながら食べる。その音が一斉に聞こえるので、群の食事時だとわかる。よく見ていると、みな勤勉に落ちている実に向かっている。ときに頭をもたげ、コミュニケーションを取るような仕草も見られる。接触し過ぎて、諍いも起きるが、その喧嘩はしつこいものではなく、すぐに仲直りをする感がある。

 イカルの古名にマメマワシやマメコロガシとあるのは、やはり、誇る丈夫な黄色の嘴によるのだろう。この嘴から発する鳴き声は特徴的でよくとおり、イカルの声と直ぐわかる。この鳴き声を昔の人は「ヒジリコキー」と聞いた。ヒジリは聖、コは子で、キーは調子を高く発して用いていたようで、嘲る意味に聞こえたのだろうとは柳田國男の『野鳥雑記』が述べるところ。また、サンコウチョウ(三光鳥)の名もあるが、この名は「月星日」と鳴くからという。

 言わば、イカルは太く鮮やかな黄色の丈夫な嘴が特徴で、その嘴から発せられる鳴き声も高らかに聞こえるゆえ昔から話題になったが、思うに、群は仲がよくなくては成り立ってゆかない。イカルの最近の観察でそういう印象を受けた。群を嫌う鳥でも、ヒタキ科の鳥のように、着かず離れず、雌雄で仲のよい鳥も多い。それはそれで、また、生を育んでいるのである。 写真は仲良く会話しているように見えるイカル(左)と群れで落ちたエノキの実を啄むイカル(右)。

   嘴も 眼も 翼も 啼き声も

   イカル イカルガ サンコウチョウ

   声高らかにヒジリコキー

   何はともあれヒジリコキー

   仲のよいのが一番だ


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2021年03月30日 | 写詩・写歌・写俳

<3363>  余聞 余話 「聖徳太子1400年遠忌法要間近の法隆寺」

      古に想ひのロマン誰もみな遠き昔に関はりある身

 サクラが満開の斑鳩・法隆寺は聖徳太子1400年遠忌の御聖諱「聖霊会舞楽大法要」を四月三、四、五日に控え、準備が進められている。法要会場の西院伽藍は参道や各伽藍に大小の幡(ばん・はた)が掲げられ、五重塔の相輪には五色の吹き流しが春の風に翻り、満開のサクラとともに明るく華やいでいる。 写真は風に翻る幡と吹き流しが遠忌を告げる法隆寺西院伽藍(左)、満開のサクラと吹き流しが翻る五重塔の相輪(中)、中門前に立てられた遠忌法要を知らせる立札(右)。

                     

 四月の聖徳太子1400年遠忌法要の日程は次の通り。

  三日(土)法華・勝鬘講(開白)――午後零時半ごろ、本尊聖徳太子像(七歳像)と仏舎利奉安の神輿の行列が南都楽所の道楽とともに東院伽藍(夢殿)から西院伽藍に向かう。午後一時半ごろ、西院伽藍内会場で、南都楽所の舞楽奉納、唄、散華に続き、読経まで厳修。

  四日(日)法華・維摩講(中日)――午後零時半ごろ、西院伽藍唐門から西院伽藍内会場に向け行列。午後一時半ごろ、舞楽奉納、南都隣山による厳修。

  五日(月)管弦講(結願)――午後零時半ごろ、東院伽藍から西院伽藍大講堂へ行列。午後一時半ごろ、南都楽所の舞楽奉納。太子和讃などを管弦楽に合わせ厳修。法要終了後、本尊聖徳太子像並びに仏舎利奉安の神輿、東院伽藍へ。


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2021年03月29日 | 写詩・写歌・写俳

<3362>  余聞 余話  「春霞あるは黄砂に思う」

                 見ゆるものよりも見えざるもの多し見えざるものは確かさに欠け

 奈良盆地の青垣の山並に囲まれた大和平野は、春になると濃い霞(黄砂のときもある)がかかり、青垣の山々も見えなくなるほどひどくなることがある。新型コロナウイルス禍による二度目の春であるが、黄砂襲来、その春霞によって見通しの悪い風景の中に立って「見えない」ということについて思いが巡った。

 私たちには見えるものより見えないものの方が圧倒的に多い。肉眼で見えるものは視野(視角)にあるものに限る。だが、視野(視角)にあっても遠距離にあるものや極めて微粒のもの、全く光のない場合、逆に光が強すぎる状況、また、超スピードで動いているもの。可視光線以外の波長、例えば赤外線とか紫外線とか、視力が及ばない場合。また、遮るものに邪魔される場合等々が考えられる。

                               

   これに加え、私たちには現在以外の時に属するもの。例えば、過去や未来のもの(生前や死後)のもの。他者が思うところ(心のすがた)なども見えないものに属する。肉眼で言えば、視覚に障害のある場合。そして、思うに、見えて見えざるということがあること。それは、意識の集中がなく、見過ごしてしまうということ。また、見ようとしない意志が働く場合。ほかにまだあるだろうか。

 とにかく、私たちには目(肉眼)で捉えられなければ、結果、不自由を感じ、落ち着かず、ときには不安を抱くに至ったりする。ということで、なるべく見えるようにその方法を取るべく努力する。例えば、超微粒のウイルスは肉眼で見えないので、ウイルスを確認するには機器や検査薬を用いるということになる。いま流行っている新型コロナウイルスの感染症ではPCR検査等によっている。そして、そのようにしても見えないものについては、想像を働かせるということ。つまり、想像力が求められる。

 しかし、私たちの生は一様でなく、見えることによってかえって気分を害したり、悩みを深くするということが起きる。例えば、病気のことでも言える。癌に罹り、癌の病巣を指摘されたりした場合、それを知ると知らないでは、心の状態が異なる。ということで、見えるということは知るということに連動し、この点、聞くよりも見る方が確実性が高いことは諺にもある。「百聞は一見に如かず」と。そして、見えず、知らずにいる方がよいという場合もあり、「知らぬが仏」などということも言われる。

   言わば、「見る」とは、観察するということであり、観察は知ることで、聞くよりも見る方がより確実性があるということになるわけであるが、真の姿を知るために私たちは見聞し、接して見ることを重視するのである。そして、見ることが不可能な場合、聞くという手段を取る。それでもわからない場合は想像力を働かせるということになる。 写真は黄砂による春霞で、青垣の山並が霞んでほとんど見えない状態の大和平野。

 


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2021年03月28日 | 写詩・写歌・写俳

<3361> 野鳥百態 (6)  ヤツガシラの冠羽

                 

      カメラの放列に向かって

      ときおり頭上の冠羽を

      翳し広げて見せる

      旅鳥 ヤツガシラ

      誇りか威嚇か

      広げただけで

      カメラの目が

      一斉に意識立ち

      シャッター音が

      小気味よく響く

      冠羽の付け根には

      生気溢れる眼光が

      カメラに向かって

      輝きを加える

 南方から北方への旅の途次にある旅鳥ヤツガシラが一羽草地の広がる馬見丘陵公園(奈良県)に立ち寄った。長旅に備えて栄養を補給し、体力をつけるために違いない。墳丘の草地に降り、這い出した虫を細長い嘴で啄み、ときおり休んで、頭上の冠羽(かんう)を扇のように広げて見せていた。

 冠羽は一種の飾り羽で、相手に対するコミュニケーションとか威嚇に用いられると言われるが、カメラの放列に対してスターそのものの雰囲気が見られた。コロナ禍の密を気にしながらもカメラは一斉に冠羽のヤツガシラに焦点を当て、その表情を追った。

   冠羽を持つ鳥は結構多く、大和地方で見られる野鳥の中にもヒヨドリ、ヒバリ、カシラダカ、オオヨシキリ、タゲリ、コサギ、ゴイサギ、カンムリカイツブリ、キンクロハジロ、ミヤマホオジロ、ヒレンジャクなどがあげられる。だが、ヤツガシラの冠羽は特権を得たもののように群を抜いて見事である。

 普段は畳んで頭の後へ倒し仕舞い込んでいるが、用いるときは橙黄褐色で先が黒色の羽を立てて扇状に広げ、ときに震わせるような仕草を見せる。この日は一羽だったので、相手とのコミュニケーションではなく、カメラの放列に囲まれたことによる威嚇か、それとも見栄による冠羽立てだったのかも知れない。それにしても、冠羽は見事にカメラの目を魅了した。 写真は冠毛を閉じた状態(左)と開いた状態(右)のヤツガシラ。

 


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2021年03月27日 | 植物

<3360> 野鳥百態(5)  ベニマシコの尻景。

         ベニマシコの主食は草木の実

              枯れた草叢にやって来て

      草の実を食べる姿が見られる

      セイタカアワダチソウの

                  穂になってつく実が

      ことのほか好きなようで

                  よく啄んでいる

      この食べる実にして見るに

      ベニマシコは

      やさしい小鳥だと思う

 ベニマシコは紅猿子。全長15センチほどのアトリ科の小鳥で、夏は北海道、東北地方、秋から春先にかけては暖かい南に移り、大和地方では越冬し、その姿が池の傍の草叢や枯れ葦原などで見られる。オスはほぼ全体が紅色を帯び、メスは褐色を帯びる。ベニマシコ(紅猿子)の名はオスの目元が紅色でサルに似ることによるという。

 草木の実を主食とし、小さな実の生る木や実をつけた枯草の中などでその実を啄む。セイタカアワダチソウの穂になってつく実がことのほか好きなようで、セイタカアワダチソウの群生するところによく現れる。ベニマシコは警戒心が強く、近づくと草叢に逃げ込み、姿を晦ますので、撮影には出て来るのを待つ忍耐がいる。

                                                   

この度は、オスであるが、頭隠して尻隠さずの格好、肛門が口を開けている尻の写真を撮るに至った。生きものは、概して、食物を口から摂取し、腹でそれを消化して、栄養分を吸収する。その後、尻の肛門から不要になったものを排泄する。鳥の場合は糞として出す。排泄される糞は不浄なものとされるが、ウグイスの糞のように美顔や染色の染み抜きなどに利用されることもある。

 ベニマシコは主に草木の実を食べるので、糞も元は草木の実が主であるから、それほど神経質になることもなかろうと思える。これは草食動物であるシカの糞に類するところ。奈良公園ではシカの糞がそこここに散らかっているが、それほど気にならない。

ところが、最近、ころころと丸い糞に混じって大きく柔らかな糞が見られるようになった。これは公園を訪れる人が与えるものによってシカの雑食性が進んでいることを物語るものであろう。人間の大便に近く、始末が悪くなって来た。それにしても、ベニマシコの肛門は少しも汚れたところがなく、奇麗に見える。

近年、全国各地でニワトリの鳥インフルエンザが蔓延し、原因がツルやカモなどの渡り鳥にあるとされ、野鳥への風当たりが強く、警戒されているが、この話は鳥の生息域と食に関わる話で、草木の実を主食にしているベニマシコのような小鳥にはほぼ関わりのないことであろう。

ベニマシコの尻に大きく口を開けた肛門の写真は、失礼とは思うが、よく撮れている。肛門が開いているのは何故か。糞をする前の一瞬か、それともオナラの一瞬か。小鳥もオナラをするのだろうか。そんなことも、この写真からは思いが巡る。ベニマシコには失礼したが、丸見えの尻はカメラの目に語りかけて来るものがあった。 写真は尻丸出しのベニマシコのオス。