<1443> 大雪の紅葉
冬になり切れず大雪迎へけり
一年の季節を二十四等分して表した二十四節気の十二月七日は二十一番目に当たる暦の上の大雪(たいせつ)だった。この日から昼間が一番短い十二月二十二日の冬至の前日までが大雪の期間で、今まさにこの節気に当たる。季節風である北西の風が強くなり、風花という言葉があるようにときとして雪の舞うのが見られ、全国的に冬一色になる師走真っただ中の時期である。
ところが、今年は少々様子がおかしい。今ごろになって紅葉の盛りを迎えている。里山も平野部も木々の色づきがピークを迎え、美しく映えて見える。やはり、エルニーニョ現象の影響による温暖化のためだろうか。昨日は天気に恵まれ、生駒山系の平群町鳴川の千光寺から鳴川峠付近までの往復四キロほどを歩いたのであったが、今を盛りの紅(黄)葉がそこここに見られた。
で、秋だか冬だかわからないというところで、ふと思った。こういうときドキュメントを重視する写生主義の俳人はどのように作句するのだろうかと。つまり、心、気持ちでは冬なれども、身、感覚ではまだ秋ということで、俳句が重視する季語の扱いに迷いを生じはしないかというよなことが思われて来たのであった。言わば、気持ちは大雪の時期なので冬ということであるが、ドキュメントとしては盛んな紅(黄)葉の時で、紅(黄)葉は秋の季語である。で、また、季語が二つでは納得出来ない御仁もいるに違いないと思えたりもする。
これは、ひとえにエルニーニョが悪いと、そのように言ってしまえば問題はないのかも知れないが、五七五の短詩の世界は悩ましい。これは自然と暦がぴったり来ない経緯によるが、自然は神の領域のことであり、暦は人の知恵の賜もの、ときに齟齬を生じるのは当然と言えば当然で、俳句などはそこを斟酌しなければならないということになる。
何も嘘を言っているわけではないんだけれども、俳句の世界ではこういう自然と暦の間の悩ましさがつき纏って来る。自然というのは絶対的神の存在で変えることは出来ない問題であれば、人智の暦の方を柔軟に考えて取り扱うほかにないと言える。 写真は二点とも今が盛りの紅(黄)葉(平群町の鳴川渓谷で、九日に撮影)。