大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2022年06月24日 | 創作

<3810> 写俳二百句(143) カタツムリ

               蝸牛行き惑ふほどの動きかな

                       

 雨の朝を歩く。民家の御影石の砂粒を固めてつくったような塀にカタツムリが一匹這うのが目にとまった。雨はカタツムリを行動的にするようであるが、その動きは実に遅い。二つの触角が微妙に動いているので生きているのがわかるが、実にスローモーである。

   蝸牛もしや思案の最中か

 いつごろからこの塀に取り付いているのか。そして、何処まで行く気なのか、そのスローモーな動きは並み外れている。私はあまり敏捷でないので、てきぱきこなさなければならない仕事に就いていた関係でよく「そんな悠長なことでは、何も出来ずに一生が終わってしまう」などと揶揄されたことがあったが、そんな私ながら、カタツムリのスローモーな動きは度はずれて見える。

   蝸牛今日はどこへの旅ならむ

 ところが、小一時間ほど歩いて、同じ道を引き返し、その場所に差しかかったのであったが、蝸牛は姿を消し、周辺も調べてみたが、何処にもその姿はなかった。カメラを向けたので警戒して動かなかったのかも知れない。のろまでも慌ただしく動き回るものでも、みなそれなりに生きていると、姿の見えなくなったカタツムリを思ったのであった。 写真は塀の壁を這う蝸牛。

   蝸牛ゆるりゆるりも旅である

 

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年10月07日 | 創作

<3550> 余聞 余話 「ナシ 梨」

                                     

     梨を食う

    ああ 梨を食う

    生きていればこそ

    生きているゆえにこそ

    すべては ある

    そうだ すべては

    あるのだ

    梨は美味しい

    ああ 実に美味しい

 ここに一顆の大ぶりのナシがある。皮が茶色っぽい赤ナシの一種である。ニイタカというナシであろうか。一人で一顆はとても食べ切れない大きさである。ニジッセイキのような青ナシよりもこちらの方が歯触りもよく私の好むところ。一昔前のオクサンに似るが、こちらの方がずっと甘味が強く、美味しい。

    梨が美味しいのは

    未来があるからだ

    それもみんなに

            分け隔てのない

    未来があるからだ


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年09月29日 | 創作

<3543> 作歌ノート  曲折の道程(二十)

               人生が淋しさつのる旅ならば白鶺鴒の須臾の輝き

 辛さや淋しさのない人生などなかろう。みな平然と生きているように見えるが、人はそれなりに辛さや淋しさを味わいながら孤独を抱いて生きている。そして、その辛さや淋しさをいかに飼い馴らし、克服して行くか。人によってはそれに気づかないでいるものもいるだろうが、人生においてこの克服の課題は大切である。で、支え合うというようなことも言われたりする。

 書物を読み、書物に勇気づけられるということもある。音楽を聴き、音楽に慰められるということもある。絵画を見、絵画によって晴れやかな気持ちになれるということもある。演劇に心を癒すということもある。このように心を解放してくれるという点において、書物も音楽も絵画も演劇もみな同じような効用にあると言えよう。

                               

   私の場合、落ち込んで気持ちが塞ぐようなときには野山に出かけて自然に触れることにしている。自然には思惑がなく、直で、直は私の心にとって一番の癒しになるからである。例えば、白鶺鴒の須臾の輝き。私にとって、この輝きはまたたく星のそれに似ている。

 貴方が人生において、もし淋しさのつのるような思いに至ることがあったら、是非この歌を思い出してほしい。淋しさがつのればつのるほど白鶺鴒の須臾の輝きは一層美しく輝く。切羽詰まったようなとき、この白鶺鴒の須臾の輝きが貴方の心にも現出することを願いたい。白鶺鴒でなくても、白鶺鴒と同等の何かを持つことを奨めたい。思いに沈むときには野山に出かけてみよう。そこここで白鶺鴒の須臾の輝きのごとく直である光景に出会うことが出来るはずである。 写真は岩にとまる白鶺鴒

 


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2021年05月17日 | 創作

<3410> 写俳百句 (58)  梅雨入り

          梅雨入りや万物に雨 雨の時

            

 気象庁は昨日、近畿、東海地方の梅雨入りを宣言した。近畿地方において五月十六日の梅雨入りは平年よりも半月以上早く、これまでで一番早い梅雨入りで、経験がない。何に起因しているのか、今日は降ったり止んだりのどんよりとした蒸し暑い一日だった。

 思うに、梅雨入りが早いということは、梅雨明けも早いと考えておいた方がよいのではないか。そして、梅雨明け後、暑くなるのも早まる。つまり、今年の夏は早いうちから暑くなると見ていた方がよい。とにかく、梅雨入りが異常に早いのは異変に違いない。 写真は咲き始めたウツギの花。

                   ❊                       ❊

 新型コロナウイルスの影響により賛否が真っ二つの世論にある東京五輪の開催について、主催者は予定通りの日程(七月二十三日から八月八日、パラリンピックは八月二十四日から九月五日)で開催の意志を固めているようで、そのような政治の動向がうかがえる。果たしてこれでよいのか。新型コロナウイルスの感染状況とともにこの梅雨入りの早いのも気になるところである。

 もっと適切な時期があるにもかかわらず、何故無理を通してこの時期にオリンピックを断行しなければならないのか。もともとそこのところに疑義があった。これにコロナウイルスの感染拡大が加わった。前回の東京五輪は秋天の下で開催された。あのときと同じように秋に行なえば、ワクチンももっと行き渡り、競技にも好適な季節で、観客も入れられ、競技に臨む選手にもよい。何故、最悪のタイミングで開催するのか、全く理解出来ない愚の骨頂であるとしか思えない。

 この最悪のタイミングによる開催日程には一つの理由があると言われる。それはアメリカのテレビにおける放映権によってテレビ局の意向、つまり、マネーが絡んでいるからと言われる。所謂、この仕儀は放映権料によるマネーに五輪が歪められているという。この噂は間違いないのだろう。

 二〇二〇東京五輪のドタバタは、新型コロナウイルスの脅威もさることながら、このテレビ局のエゴによって狂った日程の選択がもとにあって展開していると見なせる。このエゴに何も言えず、そのテレビ局の思惑に追随し、加担している主催者の光景が五輪という人類の美徳を冒していると見て取れるところが何とも情けない光景として見えて来る。果たして東京五輪は出来るのであろうか。

           

 エゴを通し抜いて行なうとして、ホスト国日本はこれでよいのか。七年前の秋に行われたIOC(国際オリンピック委員会)の総会におけるプレゼンテーションの際、喝采を得たスピーチの「おもてなし」の精神ははたしてこのドタバタにあって発揮出来るのだろうか。このどたばたで、内向きの対策ばかりが取りざたされ、世界から迎えるお客さまを十分にもてなすことが出来るのかどうか。金メダルを競う競技だけがオリンピックではない。平和に基づくスポーツの祭典であり、親和の構築が大切である。一テレビ局の思惑に振り回される悪弊は除いた方がよい。

 果たしてコロナウイルスの感染拡大のどさくさでこの「おもてなし」が出来るかどうか。ワクチンの行き届いているアメリカや中国のような大国から、まだ感染状況に収まりが見られないウイルスに不安を抱く国の多い中で、大会に参加しても、事前合宿の練習も思うにまかせないような大会では不公平限りなく、参加者には不平、不満が出るであろう。すでに、合宿を受け入れがたいとしてキャンセルする自治体が五十以上になっているという。どうしようもない有様である。

 十分に準備が出来るホスト国日本はメダル獲得に有利だろうが、メダルを多く獲得すればするで、この点の指摘がなされよう。五輪関係の医師や看護師を確保だけが問題点ではない。果たして、「おもてなし」の配慮は五輪実行の関係者の間に共有されているのだろうか。梅雨明けになって感染がぶり返して来なければよいが、梅雨入りの異常に早いことにも心配がつき纏う。 写真は梅雨入りで曇天模様の大和地方。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2021年01月15日 | 創作

<3288> 写俳百句 (36)  チューリップの球根植え付け

                          寒中の球根一つ一つに夢

                           

 四季によって花畑の模様替えをしている奈良県営馬見丘陵公園では、寒中の今、一本松古墳の東側一帯の新しくつくられた花畑を加え、各所で春に向かってチューリップの球根が植え付けられている。九十種、約六十万球。球根は一様で見分けがつき難いが、花は童謡に唄われるように多彩を誇る。花は四月に予定しているチューリップフェアにはその色鮮やかな花を見せる。

   昨年は新型コロナウイルスの猛威によりフェア自体は中止になったが、花はみごとに咲いて来園者の目を楽しませた。今年は昨年の四十万球から二十万球の増で、見応えがあるという。 写真は帯状に花畑の土床に配列されて植え付けられるチューリップの球根。春には一球一花による配列の色彩の妙が楽しめる。 球根の夢寒中を制すれば