大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年09月07日 | 万葉の花

<2442> 万葉の花 (140) やますげ・やますが (夜麻須氣・山草・山菅・夜麻須我) = カンスゲ(寒菅)の類

         寒菅の花咲き恋のうねりかな

     山菅の実成らぬことを吾によせ云はれし君は誰とか寝(ぬ)らむ                          巻  四  (564)   大伴坂上郎女

     あしひきの名に負ふ山菅押し伏せて君し結ばば逢はざらめやも                           巻十一 (2477) 柿本人麻呂歌集

     あしひきの山菅の根のねもころに止まず思はば妹に逢はむかも                             巻十二 (3053)    詠人未詳

     妹待つと三笠の山の山菅の止まずや恋ひなむ命死なずは                                巻十二 (3066)    詠人未詳

 集中にやますげ、やますがは長歌一首と短歌十二首の計十三首に見え、原文においては山菅、山草、そして、万葉仮名によって表記されているが、ここでは山菅に一括して述べて行きたいと思う。まず、十三首を概観すると、「黒髪山の山菅に」(2456)や「三笠の山の山菅の」(3066)と詠まれているところから、山に生えるスゲであることが言える。

   また、冒頭第一にあげた564番の歌に「実成らぬ」とあるのでこの点が注目される。ほかには「山菅の乱れ」(2474)、「山菅の思ひ乱れて」(3204)、「山菅押し伏せ」(2477)とあり、これは葉の状態もって言っているものと見て取れる。そして、「山川の水陰に生ふる山菅」(2862)、「山菅の背向(そがひ)に」と詠まれ、これらについても葉並びに葉に被われた山菅の姿に関わって表現されていると見えること。更に「山菅の根のねもころに」(2863・3053・3291)と見える歌が三首あり、なお加えて、「山菅の根し長く」(4484)と詠まれていることなどを総合してみると、山菅という植物が如何なる植物かということが想像されて来ることになる。

   考えられるのは、山に生えるスゲの類であること。加えて葉が多く、乱れやすく、押し伏せることが出来、葉がほかの葉と背くようになること、また、実を生じないという印象にあることが言える。これらの条件からカヤツリグサ科のカンスゲ(寒菅)の類が導き出されて来ることになる。因みに、ユリ科のジャノヒゲ(蛇の髭・リュウノヒゲ)、ヤブラン(薮蘭)などあげられ、山菅に当てる説があるが、これはジャノヒゲ、ヤブランの塊根につけられた漢名(生薬名)麦門冬(ばくもんどう)にやますげの古名があることによる。しかし、実に特徴のあるジャノヒゲやヤブランでは「実成らぬ」という564番の歌の表現に合致しないことになる。スゲ類に実が生じないわけではないが、目立たない点においてカンスゲ説は納得される。

             

  という次第で、冒頭にあげた歌の意を順に見て行きたいと思う。まず、564番の大伴坂上郎女の歌。この歌は「大伴坂上郎女の歌二首」という詞書を有する二首中の一首で、「山菅のように実の成らぬ間柄であるのに、私とわけがあるように言い立てられるあなたさまは本当のところどなたと寝ていらっしゃるのやら」というほどの意に解せる。これは、この歌の前に置かれている大伴宿祢百代の恋の歌四首に応じたもので、題詞等から宴における遊び心による歌と見て取れる。『万葉集』にはこの類の歌がところどころに挟まれて見えるところがある。

   次の2477番の歌は、「山菅」までが序の歌で、「押し伏せて」を導き起こしている用法の歌と知れる。歌の意は、「よく知られた山菅を押し伏せるようにあなたが強いて縁を結ぶならどうして私と縁を結べないことがありましょうか」と水を向ける恋に積極的な女の情が見える歌で、山菅をカンスゲと見るならば、実に意味深長な歌に思えて来るところがある。

   次の3053番の歌は、「山菅の根の」までが根の「ね」と「ねもころに」の「ね」の同音によって「ねもころに」を導く序の用法の歌と知れる。「ねもころに」は「ねんごろに」という意であるから、「山菅の根の細かに絡み合っているようにねんごろに止まず心を寄せていたなら妹に逢うことが出来るだろうか」というほどの意になる。

  今一首の3066番の歌は、「三笠の山の山菅の」が「や」の同音によって「止まず」を導く序の役目にある歌で、2477番や3053番の歌の用法と同じく、「妹に逢う時を待つとて、命のある限りは、止まず恋続けることだろうか」というほどの意に取れる。このほかの歌も男女間の恋の情を山菅をもって述べているのがうかがえる。4484番の大伴家持の歌「咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり」も男女の情に関わるところの歌、山菅との絡みが思われる歌である。 写真は左から花を咲かせるカンスゲ、実が特徴のジャノヒゲとヤブラン。

 


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2018年08月13日 | 万葉の花

<2417> 万葉の花 (139) さうけふ (〇莢) = サイカチ (皀莢)、ジャケツイバラ (蛇結茨)

          旺盛に否したたかに夏の草

   〇莢(さうけふ)に延ひおほとれる屎葛(くそかづら)絶ゆることなく宮仕せむ              巻十六 (3855) 高宮王

 集中に〇莢(さうけふ)の見える歌は巻十六の「高宮王の数種の物を詠む歌二首」と題された二首中のはじめ、冒頭にあげた3855番の短歌一首のみで、歌の意は「そうきょうに這い広がりまといつく屎葛のようにいつまでも絶えることなく宮仕えしよう」となる。二首目の3856番の歌は「婆羅門の作れる小田を喫(は)む烏 瞼(まなぶた)腫れて幡幢(はたほこ)に居り」とあり、二首の中の〇莢、屎葛、婆羅門、烏、幡幢が、詞書にある「数種の物」ということになる。言わば、この二首は宴会か何かの座興に披露された諧謔を込めた遊びの歌と解せる。高宮王は伝未詳の人物であるが、相当の知識人であったことが想像される。

 それはさておき、〇莢(さうけふ)とは如何なる植物なのか。これがここでの本題である。まず、くそかづら(屎葛)の項で触れたとおり、くそかづらはマメ科のつる性多年草であるヘクソカズラ(屁糞葛)のことで、全体に独特の臭気があるのでこの名がある。他物に絡まりついて伸び、八、九月ごろ外側が白く、内側が紅い小さくかわいらしい鐘形の花を咲かせる。この花のイメージによりヤイトバナ(灸花)、サオトメバナ(早乙女花)の別名も有する。このつる性多年草が絡まると詠まれているのが〇莢(さうけふ)である。

          

 では、本題の〇莢(さうけふ)について見てみよう。〇莢の〇は褐色の実の色を示し、香ばしいという意。莢はさやで、豆果の果実をいう。〇は皀に同じである。このことを踏まえて、〇莢(さうけふ)を見ると、即ち、皀莢に等しく、中国の本草書『本草綱目』(1596年・李時珍)に喬木類五十二種の中に皀莢が見えることから、〇莢(さうけふ)は高木である今のサイカチ(皀莢)と見て取れる。また、牧野富太郎はサイカチについて、「和名ハ古名西海子ノ転化セシモノナリ、故ニ又さいかいし或ルハさいかいじゅトモ云ヘリ」と図鑑の中で言っている。

  サイカチは川岸や原野に生えるマメ科サイカチ属の落葉高木で、大きいものは高さが二十メートル、直径が一メートルにも及ぶ。葉は偶数羽状複葉で、互生する。雌雄同株で、花期は五、六月ごろ。短枝の先の穂状花序に淡黄緑色の小花を多数つける。果実は豆果で、長さが二十センチから三十センチの扁平でねじれたさやになる。若葉は食用とし、さやは煮汁を洗濯用の石鹸代わりとし、果実は利尿、去痰の薬用として来た。

  一方、平安時代中期の『倭名類聚鈔』(938年・源順)には「本草云、〇莢、造夾二音、加波良不知、俗云、虵結」とある。虵はヘビで、この説明によると、カワラフジ(河原藤)の別名で知られるジャケツイバラ(蛇結茨)が考えられる。

  ジャケツイバラはマメ科ジャケツイバラ属のつる性の落葉低木で、枝がつる状に伸びることから、長くくねったヘビに因みこの名があるという。マメ科だがイバラとあるのは枝に鋭い刺があることによる。葉は偶数羽状複葉で、互生する。花期は五、六月ごろで、長さが二、三十センチの総状花序に黄色の花を多数つける。「花は黄なれども、形藤に似たるゆゑ、かはらふぢと名づく」と江戸時代の『大和本草』(1709年・貝原益軒)にいうごとく、別名をカワラフジ(河原藤)といい、3855番の歌も、「さうけふの」ではなく「かはらふぢの」と読む御仁もいる。果実は扁平なさやの豆果で、サイカチに似て、熟すと褐色になる。種子を日干しにして乾燥したものを雲実(うんじゅつ)といい、煎じて服用すれば、解熱、下痢止めに効くという。

  歌の中のさうけふ(〇莢)は宮仕えの宮に譬えられているので、つる性低木のジャケツイバラよりも高木でどっしりとしているサイカチの方が宮にぴったり来るという見解があれば、屎葛のヘクソカズラはサイカチのような大きい木に這い上ることはなく、低木であるカワラフジのジャケツツイバラの方が自然であるという見解も見られる。どうなのであろうか。 写真は左の二枚がサイカチ。右の二枚がジャケツイバラ。 なお、「〇莢」の〇に当てはまる漢字は草冠に皀。

 


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2018年07月31日 | 万葉の花

<2405> 万葉の花 (138) は じ (波自) = ヤマハゼ (山櫨)

       平成のゆく夏抒情歌の日本

 ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降(あも)りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より 波自弓を 手握り持たし 真鹿児矢(まかごや)を手挟み添へて 大久米の 大夫健男(ますらたけを)を 先に立て 靭(ゆき)取り負(おほ)せ 山川を 磐根さくみて 踏みとほり 国覓(くにまぎ)しつつ ちはやぶる 神を言(こと)向け 服従(まつろ)へぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へ奉りて 秋津島 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 皇祖の 天の日嗣と 継ぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽くして 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)と 言立てて 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを あたらしき 清きその名そ おぼろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖の名断つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫(ますらを)の伴(とも)                  巻二十 (4465)   大伴家持

 この長歌は、詞書に「族(やから)に喩(さと)す歌一首 短歌を併せたり」とあり、短歌二首を含み、左注に「右は、淡海真人三船(おうみのまひとみふね)の讒言に縁(つらな)りて、出雲守大伴古慈斐(おおとものこしび)宿祢解任せらる。是を以ちて家持此の歌を作れり」とある。

 政権の権力闘争が燻っていた天平勝宝八年(七五六年)、実権の座にあった藤原仲麻呂に反目していた淡海三船が朝廷を誹謗したとの讒言があり、出雲守の大伴古慈斐が連座したとして三船とともに衛士府に拘禁される事件が起きた。どうも仲麻呂による当を得ない告訴だったようで、二人は三日後に放免されたが、このとき大伴一族の危機を覚えた家持はこの長歌と短歌二首をもって一族に訴えたのである。

 家持は権力争いには与さず、アウトサイダー的存在ではあったが、生真面目に仕事をし、部下思いの篤いところが万葉歌の端々に見える人物の印象がある。その印象は家持が大伴氏の長としてあったこと、そして、地方任官も辞さない朝廷への恭順の念が強かったことにもよる。この恭順の念と長としての一族への思いがこの諭しの歌を生んだと見ることが出来る。

 その家持の朝廷に対する恭順の思いは、古来より皇祖とともにある大伴の名誉と信頼が揺るぎなくあったからで、その矜持によってこの一連の歌は発せられたとうかがえる。詞書の「諭す」という言葉が、家持の並々ならぬ心情を伝えている。仮に家持が三船らに同調し、次に起きる橘奈良麻呂の乱に連座していたら『万葉集』はこの世になかったかも知れない。

 その意味においてこの長歌並びに短歌二首を見れば、この一連の歌は記念すべき歌ということになる。言わば、血気に踊らされない礼節の人家持の人物像がよくあらわされた歌と見ることが出来る。この長歌と短歌二首は一族の私的な関係性によって詠まれた歌であるが、公的にも影響した歌ではなかったかと思える。では、長歌の意を見てみたいと思う。岩波書店の『日本古典文学大系』は次のように大意をまとめている。

 「(わが大伴氏は)、天の磐戸を開いて高千穂の嶽に天から降下された皇祖、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御代から、梔弓(はじゆみ)を手に握り持ち、真鹿児矢を手挟み加えて、久米部の勇士を先に立たせ、靭(ゆき)を負わせ、山や川の磐根を踏みしだき、踏み通って国土を求めて東征し、荒々しい国つ神を服従させ、服従しない人々をも和らげ、掃き清めてお仕え申上げ、神武天皇が大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱を立派に立て、天下をお治めになられたというが、その皇位の継承者として、相継いで生れて来られた大君の御代御代、隠すことない赤心を天皇のお側に尽くして、お仕え申上げて来た祖先伝来の官職であるぞと、特に言葉をかけてお授け下さった立派な清い家名である。これこそ子孫が将来、幾世もうけ継ぎ、見る人は次々に語りつたえ、聞く人は鏡と仰ぐべき、朽ちさせてはならない、汚れのない立派な家名である。ゆめ、おろそかに思って、かりそめにも、祖先の名を絶ってはならない。この大伴氏と名を負った大夫たちよ」と。

 これは大伴氏の遠祖、天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して弓矢を携えて先駆けをつとめ、大いに働いたという『古事記』、『日本書紀』の伝承をあげ、祖先の功績を回顧し、大伴の誇るべき名を断つようなことがあってはならないと、一族を諭したということである。

 以上、前置きが長くなったが、この長歌の中に出て来る「はじゆみ」の「はじ」がここでは問われるところの本題である。原文では「波自由美」と万葉仮名の当て字が用いられているが、この「はじゆみ」は『古事記』と『日本書紀』の天孫降臨に際する天忍日命が持っていた弓であることは明らかで、これらを総合して考える必要がある。『古事記』では「天之波士弓」、『日本書紀』では「天梔(はじ)弓」と原文表記に見える。

              

 『日本書紀』の「梔(はじ)」が今一つわかり難いが、ハジは櫨で、ハゼとも言われ、この木で作った弓は優れた弓だったようで、この点から今日言われているヤマハゼ(山黄櫨)、或いは、ヤマハゼに極めてよく似るヤマウルシ(山漆)があげられている。ともにウルシ科ウルシ属で、ほかにも同属にはリュウキュウハゼのハゼノキ(黄櫨)や中国原産のウルシ(漆)があるが、これらは栽培目的で導入されたものが野生化して今にあるもので、神代の昔から存在していたとは考え難く、ヤマハゼ乃至はヤマウルシであるとされている。

 これに加え、ヤマハゼには「ネバノキ」、「ヤマアヅサ」等の地方名があり、弓材に適している名であることなどからヤマハゼが第一候補として見られ、ヤマウルシもヤマハゼと呼ぶ地方があり、よく似るところからこちらも弓にしたと見られるわけである。因みにヤマハゼは実からロウが採れ、ヤマウルシは樹皮からウルシが採れる。だが、今日ではハゼノキとウルシの方が生産性がよいため、こちらが植えられ、ヤマハゼとヤマウルシは雑木然として見えるところとなっている次第である。 なお、『万葉集』にはじの見える歌はこの一首のみである。

 ヤマハゼは高さが八メートルほどになる落葉小高木で、葉は奇数羽状複葉、小葉は卵状長楕円形で、鋸歯はなく、先はやや尖る。小葉の裏面は緑白色。花期は五月から六月ごろで、円錐状の花序に黄緑色の多数の小花をつける。雌雄別株で、雌花序より雄花序の花数が多く、ボリュームがある。実は核果で、秋が深まるころ黄褐色に熟す。本州の関東地方以西、四国、九州、沖縄に分布し、国外では、朝鮮半島、中国、台湾などに見られるという。心材は鮮黄色で染料に用い、辺材は淡灰白色で寄木細工などに用いられる。

 ヤマウルシはこれも高さが八メートルほどになる落葉小高木で、葉は奇数羽状複葉、小葉は卵形から楕円形で、成木の葉には鋸歯がなく、先が急に尖る。花期は五月から六月ごろで、円錐状の花序を垂れ下げ、黄緑色の多数の小花をつける。雌雄別株で、雌花序より雄花序の花数が多く、ボリュームもある。実は核果で、秋に熟す。北海道、本州、四国、九州に分布し、国外では朝鮮半島、中国、南千島などに見られるという。樹液に触れるとかぶれる。 写真は果期のヤマハゼ(左)と花期のヤマウルシ(右)。

 


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2014年04月16日 | 万葉の花

<956> 万葉の花 (118) かつら (桂、楓) = カツラ(桂)

          かつら咲く 「花か」と訊けば 「花」の声

        目には見て手には取らえぬ月の内の楓の如き妹をいかにせむ                   巻 四 (632)    湯 原 王

      向つ岡の若楓の木下枝(しづえ)取り花待つい間(ま)に嘆きつるかも            巻 七 (1359 ) 読人不知

      黄葉する時になるらし月人の楓の枝の色づく見れば                     巻 十 (2202)  読人不知

      天の海に月の船浮け桂楫かけて漕ぐ見ゆ月人壮子                          巻 十 (2223)  読人不知

 『万葉集』に樹木のカツラ(桂)が登場する歌は四首で、一首を除き、ほかは「月の桂」の用法によって見える歌である。これは月にカツラが生えているとする中国の俗信によるものである。原文では2223番の歌だけが「桂」の字を用い、ほかの三首は「楓」の字を用いている。「楓」はマンサク科のフウにもカエデ科のカエデにも用いられる字体であるが、カエデの方は誤認によるとされている。『倭名類聚鈔』によれば、「楓」を「乎加豆良(おかつら)」、「桂」を「女加豆良(めかつら)」と説明し、ともに月と抱き合わせで詠まれていることから万葉歌における「桂」と「楓」は同じものであることが言える。

 カツラ(桂)はカツラ科の落葉高木で、大きいものでは樹高が二十数メートルにも及び、株立ちになることが多く、北海道から九州まで分布し、谷沿いなどでよく見られる。山と渓谷社版『樹に咲く花』によるとカツラ属は日本と中国に二種一変種が分布し、カツラ自身は日本固有の樹種という。葉は両面とも無毛の心形で、裏面は粉白色を帯び、秋には黄葉する。落葉するころ微かな香が漂うので、一説には「香出(かづ)」が和名の由来としてあげられている。なお、柄を有する葉は対生する。

                                                

  雌雄別株で、花は葉の開出前に花弁も萼もない紅紫色の雄しべや雌しべが目につく花を枝ごとにほぼ対生してつける。花はフサザクラによく似ているが、フサザクラは花が互生するので判別出来る。雄花と雌花では雄花がよく目につく。『倭名類聚鈔』が言う「乎加豆良」と「女加豆良」はこの雌雄別株を言うものと考えられる。 だが、万葉歌ではその区別はない。 写真はともにカツラの雄花。

 ここで思われるのが、日本のカツラ(桂)が日本固有の樹種で、中国には存在しないということである。つまり、「月の桂」と言われて来た中国のカツラと日本のカツラは異なるカツラではないかということ。これは、この「月の桂」の俗信が中国からもたらされたとき、日本においてはカツラ科のカツラ(桂)に当てたと想像出来る。

 因みに、中国における桂はモクセイ科のモクセイやクスノキ科のニッケイのような香木に当てられ、楓は前述したようにマンサク科の落葉高木で、江戸時代に渡来した中国原産であるから万葉当時日本には存在していなかった樹種であり、また、楓をカエデとすることも誤りであるとされるから、『万葉集』に見られる「桂」も「楓」も文字のみが用いられ、日本特産のカツラ(桂)をもってこれに当てたということになる。

 では、以上の点を踏まえ、湯原王の632番の歌から順に歌意を見てみたいと思う。まず、632番の歌は、相聞の項に見える歌で、「目には出来るけれども、手にすることの出来ない月のかつらのような妹を如何にすればよいのだろうか」という意である。次に、1359番の歌は譬喩歌の項に見える歌で、詠人未詳であるが、男の歌であるように思われる。その意は「向かいの岡の若かつら、その下枝を取り、花を待つ間も嘆いていることだ」というほどになろうかと思われる。下枝も花も女と見なすことが出来る。

 また、次の2202番の歌は、秋の雑歌の項に見える歌で、その意は「どうも黄葉のときが来たらしい。月の中のかつらが色づくのを見ている」となり、2223番の歌は擬人法によるもので、その意は「天の海に月の舟を浮かべ、かつらの櫓をもって月の男が漕いで行くのが見える」となる。

 


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2012年05月18日 | 万葉の花

<259> 万葉の花 (1) うまら (宇万良)=ノイバラ (野茨)

      野茨の 車窓より見え こころ旅

   道の辺の うまらの末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を はかれか行かむ            巻二十 (4352) 丈部鳥

 「うまら」はうばらの転とされ、うばらはいばらのことで、いばらは棘のある低木の総称としてあるが、「うまら」は最もポピュラーな現在のノイバラ(野茨)に当たると目されている。『万葉集』に「うまら」の登場を見るのはこの一首のみである。この一首は防人の丈部鳥(はせつかべのとり)が出征して旅立つとき、女性(妻であろう)との別れに際して詠んだ心情を吐露した歌で、「道端の野茨の枝先に這って絡まる豆蔓のように縋りつく君(お前)を置いて別れてゆかねばならないのか」というほどの意である。「道の辺のうまらの末に這ふ豆の」までが「からまる」を導く序になっている歌で、この序の用法は『万葉集』をはじめとする古歌によく用いられているものである。

 ノイバラはバラ科の落葉低木で、日当たりのよい川岸から丘陵地や山地まで広い範囲に生え、特に多いのが原野で、沖縄を除く全国各地に分布する。普段は雑木や雑草に紛れて姿ははっきりせず、その存在はもっぱら棘によるが、五月になると芳香のある白い花(普通は五弁)を咲かせるのでよく目につく。大和でもよく見られ、五月から六月の花の時期には電車の窓からも線路脇の原野などに株を張って一面に咲く白い花を見ることが出来る。 

           

 被われた棘には閉口させられるが、なかなか実用的な木で、幹は園芸用のバラの台木にされ、花は香料に、赤い果実は「営実」と呼ばれ、利尿薬にされる。ノイバラにはミヤコイバラ、ヤブイバラ、モリイバラ、ヤマイバラなどほかにもよく似た仲間があり、間違いやすいが、花のつき方、葉や棘の形などで判別出来る。与謝蕪村の「愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら」の「花いばら」もノイバラか。

 なお、この歌には今一つ「豆」という植物が詠み込まれており、「からまる」とあるからツル性で、ノイバラと場所を同じくして見えることからこの豆は限定されるが、この「豆」については別に項を立てて考察してみたいと思う。 写真は草叢の中で群生し花を咲かせるノイバラ。