<425> 万葉の花 (49) たまばはき (多麻婆波伎、玉掃)= コウヤボウキ (高野箒)
たまばはき 秋を点して 語るごと
玉箒刈り来鎌麻呂室の樹と棗が本とかき掃かむため 巻十六 (3830) 長忌寸意吉麻呂
始春(はつはる)の初子のけふの玉箒手に執るからにゆらく玉の緒 巻二十 (4493) 大 伴 家 持
たまばはきが登場する歌は集中に二首。冒頭にあげた歌がその二首である。まず、3830番の意吉麻呂の歌は「長忌寸意麻呂の歌八首」とある中の「玉掃、鎌、天木香(むろ)、棗を詠む歌」の詞書をもって詠まれているもので、「玉箒を刈って来い。鎌麻呂よ。室の木と棗の木の下を掃除するために」という意である。ここに詠まれている一連の歌は宴を楽しませる戯れ歌で、歌の中の鎌麻呂はそういう人物がほかにいたのではなく、自分の意吉麻呂をもじって、「意吉」を「鎌」に替えたと考えてよいのではなかろうか。
意吉麻呂は紀伊国を本拠にする長氏の出で、東漢系の渡来氏族と言われ、経歴の詳細は詳らかでないが、柿本人麻呂に続く持統、文武天皇時代に登場する歌人で、『万葉集』には十四首が見られ、巻十六の物名を詠み込んだ遊び感覚の歌八首によって宴席での即興を得意とする一面をのぞかせた教養を誇る歌人として知られる。
たまばはきは玉を飾った箒の玉掃で、歌が詠まれた万葉のころにはコウヤボウキが箒に用いられていたため、たまばはきはコウヤボウキとされる。このたまばはきは4493番の家持の歌にあるように、蚕床を掃くのに用いられ、この箒を玉で飾り宮中における儀礼の一品として作られ、后妃(女子)の親蚕を意味するものとして帝王(男子)の躬耕を象った辛鋤(からすき)とともに正月初子の日にこの二品を飾って、その年の養蚕と農耕の繁栄を祈ったものとされる。この辛鋤と玉箒は、今も正倉院の御物として伝えられ、たまばはきがコウヤボウキである決定的物証になっている。
詞書によると、4493番の家持の歌は、天平宝字二年の正月三日、初子に当たる日に聖武天皇の勅によってこの日の祝いの席で詩や歌が奏上されるのに合わせて作られたもので、「初子の日、玉箒を手にしたら飾りの玉の緒が(快く)揺れた」とその日の歓びを詠んだのであるが、「大蔵の政に依りて奏し堪へぬのみなり」と左注に記されるごとく、大蔵の仕事が忙しく、その祝いの宴席に出席出来なかったため、歌は日の目を見なかったということである。
この歌は後の世の歌人たちが称賛しきりなほどの歌で、当人には自信作であったろうから、このときの家持の無念が如何ほどであったか、この左注はこの間の事情を彷彿させ、当時の心境が見えるようで、興味が持たれる。歌の間の文言に遺恨の情は感じられないが、家持には『万葉集』によって歌が闇に葬られることなく蘇ったことに感慨一入のものがあったのではないかと想像される。
なお、コウヤボウキはキク科コウヤボウキ属の落葉小低木で、山地の日当たりのよい林縁などに生え、細くしなやかな枝を一メートルくらいに伸ばし、その先端に九月から十月ころにかけて白いアザミに似た頭状花をつける。関東以西、四国、九州に分布し、大和でも各地の低山や丘陵地で見ることが出来る。
この細くてしなやかな枝の特徴により、箒にされたもので、コウヤボウキの名は真言宗のメッカ、高野山の僧侶がこのコウヤボウキの枝で箒を作り、これを用いたことによると言われる。別名はタマボウキ。仲間にナガバノコウヤボウキがある。こちらは花が少し小振りで八月から九月ごろ葉腋につく特徴がある。写真は左がたまばはきのコウヤボウキ。右がナガバノコウヤボウキ。大和ではともに自生するが、コウヤボウキは各地に見られ、ナガバノコウヤボウキよりも圧倒的に多い。