大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年10月31日 | 万葉の花

<425> 万葉の花 (49)  たまばはき (多麻婆波伎、玉掃)= コウヤボウキ (高野箒)

         たまばはき 秋を点して 語るごと

    玉箒刈り来鎌麻呂室の樹と棗が本とかき掃かむため                 巻十六 (3830) 長忌寸意吉麻呂

   始春(はつはる)の初子のけふの玉箒手に執るからにゆらく玉の緒              巻二十 (4493)   大 伴 家 持

 たまばはきが登場する歌は集中に二首。冒頭にあげた歌がその二首である。まず、3830番の意吉麻呂の歌は「長忌寸意麻呂の歌八首」とある中の「玉掃、鎌、天木香(むろ)、棗を詠む歌」の詞書をもって詠まれているもので、「玉箒を刈って来い。鎌麻呂よ。室の木と棗の木の下を掃除するために」という意である。ここに詠まれている一連の歌は宴を楽しませる戯れ歌で、歌の中の鎌麻呂はそういう人物がほかにいたのではなく、自分の意吉麻呂をもじって、「意吉」を「鎌」に替えたと考えてよいのではなかろうか。

 意吉麻呂は紀伊国を本拠にする長氏の出で、東漢系の渡来氏族と言われ、経歴の詳細は詳らかでないが、柿本人麻呂に続く持統、文武天皇時代に登場する歌人で、『万葉集』には十四首が見られ、巻十六の物名を詠み込んだ遊び感覚の歌八首によって宴席での即興を得意とする一面をのぞかせた教養を誇る歌人として知られる。

 たまばはきは玉を飾った箒の玉掃で、歌が詠まれた万葉のころにはコウヤボウキが箒に用いられていたため、たまばはきはコウヤボウキとされる。このたまばはきは4493番の家持の歌にあるように、蚕床を掃くのに用いられ、この箒を玉で飾り宮中における儀礼の一品として作られ、后妃(女子)の親蚕を意味するものとして帝王(男子)の躬耕を象った辛鋤(からすき)とともに正月初子の日にこの二品を飾って、その年の養蚕と農耕の繁栄を祈ったものとされる。この辛鋤と玉箒は、今も正倉院の御物として伝えられ、たまばはきがコウヤボウキである決定的物証になっている。

 詞書によると、4493番の家持の歌は、天平宝字二年の正月三日、初子に当たる日に聖武天皇の勅によってこの日の祝いの席で詩や歌が奏上されるのに合わせて作られたもので、「初子の日、玉箒を手にしたら飾りの玉の緒が(快く)揺れた」とその日の歓びを詠んだのであるが、「大蔵の政に依りて奏し堪へぬのみなり」と左注に記されるごとく、大蔵の仕事が忙しく、その祝いの宴席に出席出来なかったため、歌は日の目を見なかったということである。

 この歌は後の世の歌人たちが称賛しきりなほどの歌で、当人には自信作であったろうから、このときの家持の無念が如何ほどであったか、この左注はこの間の事情を彷彿させ、当時の心境が見えるようで、興味が持たれる。歌の間の文言に遺恨の情は感じられないが、家持には『万葉集』によって歌が闇に葬られることなく蘇ったことに感慨一入のものがあったのではないかと想像される。

 なお、コウヤボウキはキク科コウヤボウキ属の落葉小低木で、山地の日当たりのよい林縁などに生え、細くしなやかな枝を一メートルくらいに伸ばし、その先端に九月から十月ころにかけて白いアザミに似た頭状花をつける。関東以西、四国、九州に分布し、大和でも各地の低山や丘陵地で見ることが出来る。

                                     

 この細くてしなやかな枝の特徴により、箒にされたもので、コウヤボウキの名は真言宗のメッカ、高野山の僧侶がこのコウヤボウキの枝で箒を作り、これを用いたことによると言われる。別名はタマボウキ。仲間にナガバノコウヤボウキがある。こちらは花が少し小振りで八月から九月ごろ葉腋につく特徴がある。写真は左がたまばはきのコウヤボウキ。右がナガバノコウヤボウキ。大和ではともに自生するが、コウヤボウキは各地に見られ、ナガバノコウヤボウキよりも圧倒的に多い。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年10月30日 | 写詩・写歌・写俳

<424> 権威について

      厳しかる 日々連綿の 思惟にして ありける言葉 明晰であれ

 このところ報道のチョンボが目につく。「ips心筋患者に移植 米で初の臨床応用」という見出しで一面トップを飾った読売新聞等の大誤報もその一つである。この記事はips細胞の研究で京大ips細胞研究所長の山中伸弥氏(50)がノーベル医学生理学賞を受賞した直後だっただけにセンセーショナルなネタで、新聞社も跳びついたものと思われる。

 この記事は、ハーバード大客員講師、森口尚史氏(48)が発表したもので、米国の病院で心不全患者六人にips(新型万能細胞)から心筋の細胞をつくり、移植して治療に成功したというものであった。しかし、これが新聞等に記事化された後、虚偽として問題になったという次第である。

              

 この発表の疑わしさは日を追うごと次々に出て来る感じであったが、もともとからしてこの発表には疑わしいところがあった。新しい医療技術によって手術を成功させて開かれるこの種の記者発表は、倫理にも関わるところから患者の了解を得て、手術を手がけた医療チームが行なうというのが通例で、その手術に携わった一研究員が単独で会見に臨むことはまずあり得ないことである。

 もし、一研究員が発表したとしても、チームでやっている手術であれば、手術に携わった医師などに詰めの取材をするのが鉄則のはずである。そもそも森口氏は看護師の資格を持つ一研究員であって、医師の資格を持たないというから、担当した医師の話は必要であったはずで、そこの確認がなされなければ手術が成功したなどということは言えないはずであることは当然考えられたはずである。しかし、読売新聞等は取材に当たってそこのところを欠いたのである。

 以上の点からしても、誤報した記事の詰めの甘さがうかがえるが、ここで思われるのが、この件には一つの落とし穴があったということである。それは権威という落とし穴である。言わば、大学に関わりを持つ研究者ということで、記者たちは信頼した。それも超一流のハーバード大であり、東大の客員研究員の肩書を有していたということが信頼に繋がった。この大学の権威が発表者のバックボーンになり、記者たちも騙されたということである。つまりは、肩書きに弱い一面がここに至って露呈したということではないか。

 これは日ごろの取材態度というか、記者の習性が現われたものであると言ってよいように思われる。多分、取材に当たった記者は発表記事ばかりを書いているのではなかろうか。そんなことが想像される。発表記事は発表者を疑ってかかることがまずない。会見の質問は記事内容のわからない部分に限られる傾向がある。よって、今回のような誤報が生れたと言ってよい。

 以前、どこかで述べたかと思うが、二十世紀のドキュメンタリー映画制作者、ジョン・グリーア―ソン(John Grierson)に一つの言葉がある。彼は情報を収集し伝える側にいる者がいかにあるべきかについて次のように言っている。「Observe and analysis. Know and build. Out of research poetry comes.」と。意訳すれば、「ものごとはよく観察せよ、そして、よく分析せよ。その分析に基づいてよく知り、よく認識せよ、そして、よく構築せよ。そうすれば、こうした一連の調査によって美しい詩が生まれて来る」というのである。この言葉は、ドキュメントに携わる自分自身に言い聞かせていることは言葉の命令形で発せられていることでわかる。しかし、この言葉は、記録映画に携わる者のみならず、報道記者など取材者全般にあてはめて言える教訓と取れる。

 発表記事というのはこのジョン・グリーア―ソンの言葉のほぼ全部を発表者に委ねる気楽さがあるわけで、このような気楽さから生れる記事には今回のような落とし穴が生じやすいわけである。もちろん騙しは最も酷い例であるが、記者が誘導されて記事を書かされるということも発表記事にはあることを記者たちは知っておく必要がある。このような仕儀に及んだ記事は昔から提灯記事と揶揄されたものである。

                                                      

 今回の誤報にも言えることであるが、記事が誰のもので、誰に有益に働くかということが大切であって、権威などは本来その記事化される情報の真偽に関わりのないはずであるが、読者への優位性という点において必要とされ、記事における権威づけが行なわれる。この間、触れた週刊朝日の騒動は、自らの権威によって記事の優越性を読者に認めさせようとするものであったが、その権威が返って裏目に出て、墓穴を掘る仕儀に至った。今回の誤報は他者の権威に寄った結果、その権威に欺かれたということである。言わば、両方とも、権威というものに寄り添ったことが裏目に出たものと言える。

 言うならば、調査(取材)とは、観察と分析と認識と構築(表現)を十分に果たすことにあると言え、権威が必要とされるのはその調査(取材)の補完の役目にほかならず、それ以上でも以下でもないということで、調査(取材)の不十分はかかる誤報を生み、人心を惑わせるようなことになるというわけである。読者に及ぼす明晰な言葉は十分な調査(取材)の観察、分析、認識、構築(表現)の一連の作業によってなされるものと言える。これに一つでも不十分があれば、十分な結果(記事)には遠くなる。新聞とは世の鏡。日々を映す。記者とは観察力と分析力と認識力と理解力と判断力と表現力。加えて、信頼される力である。つまり、記者というのは世の中に対して大きな影響力を持つものである代わりに厳しさが要求される仕事ではある。正しく世を映すべし。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年10月29日 | 写詩・写歌・写俳

<423> 2012・紅葉 (大台ケ原)

        紅葉を 迎へし山の 暖かさ

 紅葉(黄葉)は北の高い山に始まり、徐々に移って、南の低地に終わる。この紅葉前線は、南に始まる春の桜前線とは逆で、三ヶ月ほどかけて南下する。これは四季を有する冷・温帯域の落葉樹に発するもの。樹種によって違いが見られ、紅くなる葉もあれば黄色になる葉もあって千差万別、その彩りは樹種の数だけあると言ってよく、みごとである。

                            

  このため、紅葉(黄葉)の時期になると自然林に被われる冷・温帯域の山では多くの落葉樹がそれぞれに彩りを見せるので、山肌が一変し、それは自然が織りなす錦の美しさである。その彩りは大半が紅系統と黄系統の色で占められ、この二つの色は暖色であるので、山は紅葉(黄葉)の時期になるとはなやぎを見せるとともに暖かさを感じさせるものとなる。

 日本列島の東部で言えば、北海道の大雪山辺りに点された紅葉(黄葉)が蔵王山辺りに移り、名所の日光を経て、平地に至る。これを近畿圏に当てはめて言えば、北アルプスの立山辺りに点された紅葉(黄葉)が加賀の白山や兵庫県の氷ノ山辺りに移り、それが低山に移って、低地の各地に及ぶということになる。

                                               

 これを大和に見れば、まず、標高の高い紀伊山地の大台ケ原山や大峰山脈の尾根筋に点る。これが例年十月の初旬から中旬のころで、そこから日を追うように麓に向って移り行き、平地では十一月の下旬から十二月の上旬のころ見ごろになる。

 という次第で、今日は大台ヶ原へその紅葉(黄葉)を見に出かけた。日出ヶ岳から正木ヶ原を回って大蛇まで往復した。山頂付近の紅葉(黄葉)はほぼ終わっていたが、大台ヶ原ドライブウエイの全域でみごとな紅葉(黄葉)が見られた。大蛇嵓からの紅葉(黄葉)もよかったが、風が強く、人出も多かったので、十分には撮影出来なかった。

  ドライブウエイから眺める紅葉(黄葉)は今週いっぱいが見ごろではないかと思われる。晴天で光線状態のよい午前中が撮影にはよいように思われる。ドライブウエイからはこれからの時期雲海の見られる日もある。写真はともにドライブウエイからの撮影。上段の写真に見える道路は大台ヶ原ドライブウエイ。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年10月28日 | 写詩・写歌・写俳

<422>  いじめについて

          言葉とは 人の意に添ふ ゆゑなれば 悪意にあれば 悪意を孕む

 言葉というものは人の意志によって発せられることがほとんどであるから、悪意をもって使えば、その言葉は悪意を孕んだものになり、悪意が反映されることになる。自由に話せる現代においては、言葉に意志としての悪意が孕めば、自由に話せるがゆえにかえって始末の悪いことになりかねない。言葉の暴力というようなことが言われるが、いじめに用いられる言葉などがその例と言える。

 「表現の自由」という言葉は、一昔前までよく使われた言葉で、とても耳触りのよいものであった。しかし、自由になった昨今、使われることも少なくなったように思われるが、ときに使われるのを聞いていると、「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるようなことがある。それは自由をはき違えていることがあるからである。

 一昔前までは、「表現の自由」という言葉に、言論(表現)を弾圧する側に向かって発するものであるという一つの前提になる認識が、言う方にも聞く方にも多少ながらあった。そして、私たちは「表現の自由」という言葉を誰に向かって発すべきかということをよく心得ていた。

 ところが、昔に比べ自由になった昨今では、自由だから何を言っても構わないというような風潮が強くなり、「表現の自由」がその風潮の盾になるというふうに、言う方の都合によって使われることが多くなり、目につくようになった。そして、言葉を発する側の意志がセンセーショナルな方に働き、伝える内容がおもしろければよく、思いやりがないこともまま見られ、それが言葉の暴力となって表面化し、本来は弱いものの側に立って、標榜しなければならない「表現の自由」ということが、反対に言葉に痛めつけられる弱いものの側に向かって言い訳のごとく使われることもあるようになった。

  こういう具合に、言葉というものが、話すものの意志によって発せられ、悪意に添えば悪意を孕み、大いに人を傷つけることにもなるという次第で、私たち現代人は、このことを自由に話せる状況にあるゆえ、よくよく承知しておかなくてはならないということが言えるわけである。いつの時代にも課題は尽きないが、この言葉の問題は今の時代の課題の一つとしてあげられる。

     表現の自由と言葉の暴力と諸刃における言葉をおもふ

     言葉には思ひが纏ふ己がじしあるひは軽くあるひは重く

 以上は以前に認めた文章と短歌であるが、今回の橋下大阪市長の出自に関わる週刊朝日の記事についての騒動で思い出したのであった。この騒動を一見して感じるのは現代社会の風潮を象徴しているのではないかということである。昨今、子供たちの間にいじめが蔓延し、自殺者も出てクローズアップされているが、今回の記事の件はその子供のいじめにおけるやり方や構図によく似ているところがある。

                                                                                            

  いじめは一人に対して複数をもって攻撃する。そして、その攻撃は言葉を含む暴力をもって行なわれるのが特徴としてある。子供のいじめにも共通するが、その一人の弱みにつけ入り、暴力をもって相手の心理に打撃を与える。そして、それは巧妙にして、密かに行なわれ、相手に有無を言わせない。今回の記事もこのケースを思わせる。

 ところが、今回の場合は、いじめを受ける側に立った橋下市長がインターネットの呟きシステムのツイッターを武器にして、これを公にして反撃したために、このいじめの構図が崩れて、逆にいじめる側の朝日新聞出版社が世間から問われることになったのである。 記事中の差別に関わる内容は糾弾されて然るべきで、言うに及ばない。ここで採り上げるのはその差別の問題ではなく、この記事にいじめの構図が見えるということである。出版社側が速やかに記事差し止めを図り、謝罪する方向に至ったのはこの点に気づいたからであると思う。

 この謝罪の方向は、いじめが発生してそのいじめが世間に問われてもなおいじめを認めなかった大津市の中学校や教育委員会の失態に比べ、対応に差のあるのがうかがえるが、これはその記事に対していじめを認識し、大津事件の轍を踏まないことを出版社が認識したからであると言える。この件に、もし、橋下市長が何も言わず、泣き寝入りしていたならば、記事は続けられていただろうし、悪く仕立てられる橋下市長には相当の痛手になっただろう。だが、反撃したことで、ここに一つのいじめの構図が浮き彫りになり、記事の差し止めとなって、出版社側は社会から糾弾され、それなりの措置を取ったのである。

 ここで議論になるのが、公人の立場は何を言われても間違いでなければ、言葉を返して反論出来ないかという問題である。これは公人に個人としての人権が認められるか認められないかということで、完全に認められないという見解はいささか偏見的であると、今回の記事差し止めの件を見ても思えるのである。公人も一人間としての個人的人権はある。今回の記事はこの個人的人権の部分に触れ、政治の本質論を歪めてかかろうとしたわけである。つまり、政策論でも何でもなく、個人的攻撃を企てたに過ぎないということになる。

 で、ここで一つ言えることは、記事にして読者に読ませるのであるから密かに行なわれるといういじめには当たらないとする見解もあるということが指摘される。だが、ここが今回の騒動の一つのポイントであると私には思える。言わば、ここには新聞社(マスメディア)という権威が大きな傘になっていて、その権威の傘に擁護される形で記事がなされているということである。これは毒をオブラートに包むに等しく、秘匿の要件に値する。橋下市長はこの権威のオブラートを剥いで、戦いを挑んだと言ってよい。

  ところで、今回の騒動の成り行きを見ていると、いじめにおける一つの対策が見えて来るような気がする。いじめられる側はいじめに臆して小さくなるのが常のパターンであるが、いじめに対しては臆するのではなく、いじめに立ち向かって、そのいじめを衆目に曝すという方法を取ること。このことが一つの対策方法としてあることを今回の件は物語っていると言える。

 いじめが陰湿なのは、秘匿の方法をもって、密かに行なわれるからで、見て見ぬ振りをしてその秘匿状況を持続させた学校側の責任は実に大きいと言え、いじめの問題はここのところを見定めて行くことが大切で、いじめられる側がいじめの実態を衆目に曝すことをその対策として実行して行けばいじめは確実に少なくなるのではないかということである。何ごとも悪いと思われることは隠れてやる。このことはいじめの問題にも通じるということを思えば、この方策には実効性があると言える。ただ、体面を繕う学校という閉鎖された営みの場を変革しなければ、このことも実効にはつながらないだろうし、いつまでもなくならないだろう。そう思える。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年10月27日 | 写詩・写歌・写俳

<421> 絵 画 展

        収穫の 秋とは言へる 絵画展 

 秋たけなわの今日このごろ。秋と言えば、実りの秋、収穫の秋、味覚の秋、食欲の秋。それに、行楽の秋、スポーツの秋、読書の秋、芸術の秋。これが私たち四季の国日本の季節の巡りにおける秋という季である。すべてにおいて充実の季節と言えようか。

 今日は、知人が参加して活動しているグループの絵画展を見に行った。毎年この時期に一年の成果を披露するもので、隣の室でも作品展が行なわれていた。まさに芸術の秋であり、収穫の秋である。絵一枚一枚にははっきり言って上手下手が感じられないわけではないが、みな筆のタッチに個性があり、一枚一枚の絵に主張するものが見える。これも一つの収穫。会員にはこの展示を区切りとして、また、次の一年へとステップする。

                          

 最近は高齢者が増えて、このような趣味を生かしたグループが増えている。そのグループは大きく分けて、文化的なものとスポーツ的なものに大別され、それは千差万別で、数えあげれば切りがないほどである。中でも絵をする人は結構多く、絵にもいろいろあって、日本画があれば油絵の洋画があるといった具合である。しかし、どちらにしても、みな、その活動には切磋琢磨がうかがえ、成果の発表を一つの励みとし、絵画展なども開かれることになる。そして、その発表時期が秋という季節になるわけである。 絵一枚 絵一枚 一枚の秋 ということが言えるように思われる。