大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年02月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1522> 閏年、閏日

         悲願には祈願 祈願にはそして二月尽 来る芽吹きの季節

 今日は二月二十九日。四年に一度巡って来る閏年(うるうどし)の閏日(うるうび)である。これは地球が太陽を回る実際の時間と暦の上の時間にズレがあるためで、実際は一回一年をかけて回るのに三百六十五日と五時間五十分ほどかかるのに対し、暦では一年を三百六十五日と計算しているためである。

  つまり、暦では実際と一年で五時間五十分ほどの誤差が生じ、その時間だけ足りなくなり、四年で約一日分が不足することになるので、この不足分を補うために四年に一度二月に一日を加え調整しているわけである。これが二月二十九日という日である。言わば、二月二十九日は特別な日ということになる。今年がその巡りの年で、東京オリンピックの開催が予定されている二〇二〇年がやはり閏年ということになる。

                                                               

 二月二十九日というのは何か得をしたような気分の一日であるが、この二十九日に生まれた人には厳然と二月二十九日があるわけで、誕生日は四年に一回しか回って来ないことになる。だが、これではあまりにも気の毒なので、我が国では見なし誕生日として二月二十八日を当てる慣わしになっているようである。

  それにしても二月という月は、立春月とは言え、これは暦の上のことで、実際には寒い日が多く、春は三月からというのが気分の中にはある。で、二月の終わりを指す「二月尽」という言葉には特別な響きがあると言ってよい。大和地方では東大寺二月堂の修二会の本行お水取りの行事が三月一日から始まり、三月十四日、正確には十五日深夜に満行を迎える。奈良では「お水取りが終わると春になる」と言われるほどで、お水取りは春の魁的風物詩としての存在感がある。

  三月に行なわれるのに修二会とは如何にと思う御仁も多いに違いない。修二会は修二月会のことで、昔は旧暦の二月に行なわれていた法会で、仏教寺院では修正会という法会もある。こちらは正月に行なわれる法会で、一年の初めに行なわれるものである。二月堂のお水取りの場合は、現在、三月一日から本行が行なわれている次第である。言わば、大和地方、殊に奈良においての「二月尽」というのは、感覚的に更新する年次の大いなる節目に当たり、その節目を意味するところがある。 写真は日めくりの二月二十九日。


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2016年02月28日 | 創作

<1521> カワセミとカイツブリ (2)

         かいつぶり型とかはせみ型の生 人にも言へる個性思へば

 カワセミはよく水に潜るカイツブリに向かって「水の中はどんな具合になっているんだ」と訊いた。カイツブリは「知っての通り、この池の水は綺麗なんで、結構見通しがいい」と答えた。と、カワセミはすかさず、「池の真ん中辺りには何かあるんだ」と訊いた。カイツブリはカワセミが池の中のことに全く疎いのを知って、少々得意になって続けた。

「真ん中は深く広々として自由自在に泳げる。ので、潜る訓練に適した場所なんだ」と。 カワセミは得意げに話すカイツブリに、なお、「どのくらい潜っていられるんだ」と訊いた。カイツブリは「いつも池の真ん中辺りで訓練しているんだけど、二、三分なら自信がある」と答えた。「ほう、二、三分か、長いようで短いんだろうな。その間に小魚を射止める。まさに神業だよな、それは」。カワセミはその場面を想像しながらそう言った。

        

 カイツブリはカイツブリでカワセミが気になって訊ねた。「どうしてそんなに美しい羽を持っているんだ」と。これに対し、カワセミは「この美しい羽と大きなくちばしは神さまから授かったものだと母親から教わった」と答えた。カイツブリは続けて、「何であんなに素早く飛ぶことが出来るんだ」と訊いた。カワセミは即座に応えて「毎日欠かさずやっている訓練のお陰だよ」と言った。そして、「お前さんもやってるじゃーないか、訓練。そう、失敗を重ねて。それを経験して生かす。失敗は向上に繋がる」とつけ加えた。

 「私はね、素早く飛ぶことが出来る君が羨ましくて、沖で訓練するとき、飛ぶことにも挑戦して懸命になっているんだが、水面すれすれにしか飛べない。もっと高く飛べたらどんなにいいかと思うんだが、なかなか君のようには飛べない」とカイツブリは述懐するように言った。これを聞いてカワセミは「ぼくも実は水の中を自在に泳げるお前さんが羨ましくて、ほかの池で潜る稽古をしているんだが、一向に上達しない。そればかりか、魚を捕える瞬時の感覚も鋭さが欠ける破目になっているみたいで、情けないことになっていると最近思うようになった」と答え返した。

 「そうだなー」とカイツブリはわかったという気になって、ひとり言のように呟いた。「羨むということは、所詮、自分に自信がないからなんだが、自信なんてなくて当たり前のようなことにまで私たちは対象を広げ、それに対してああでもない、こうでもないと考える。これがいわゆる羨望に繋がる」と。そして、なお、加えて言った。

 「言わばね、そこのところなんだと思う。気づいたよ。君を羨んだって所詮君のように美しくはなれないし、あんなスピードでなんか飛ぶことは出来ない。その代わりと言っては何だが、私には君に出来ない水に潜るという得意技がある。この得意技を究めることが実は大切なことなんだ」と。

 このカイツブリの話を聞いて、カワセミは思った。そういうことなんだ。「ぼくがカワセミのカワセミたる美しい羽と身に不釣り合いなほど大きなくちばしを持ち得ているのは、神さまの思し召し、お陰に違いない。とするならば、その神さまからの賜物を大切にし、一心に磨くこと、ほかを羨望することはこの一心の妨げにこそなれ、この身のためにならない」と。そして、カワセミはなお思った。これは俺だけのことではなく、生きとし生ける神さまから授かった命あるもの全てに言えると。言わば、カワセミはカイツブリとの対話によって教訓を得たのであった。

                         *                                       *

 然るに、思われるのであるが、カワセミの茶色のお腹と瑠璃色の羽の色合いは、水中の魚の目線からして、枝にとまるカワセミが空を背景にするときその自然の風景に溶け入ってわかり難くなる色合いではなかろうかということ。カワセミは今日何匹目か、小魚を捕え、小枝から飛び去って行った。カイツブリは果してどれほどの小魚を、その得意な潜りによってものにしたのだろうか。ともに失敗を繰り返しながら日々を送っている。言わば、その生の日々はまさに訓練と実践である。訓練は明日への発展を約束し、実践は今を生きる何ものにも代えがたい意味を持っている。

 言わば、神さまからの賜物である生来の個性というのは何ものにも代えがたい大切にすべきもので、このカワセミとカイツブリの話にはこの教訓が秘められている。 写真はイメージで、カワセミ(左)とカイツブリ(右)。なお、カワセミには忍耐力、カイツブリには行動力が思われる。


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2016年02月27日 | 創作

<1520> カワセミとカイツブリ (1)

        羨望は 己に出来ぬ それゆゑに 湧き来る相手に 対する思ひ

 雨量の少ない瀬戸内海の気侯帯に属する奈良盆地の平地部、所謂、大和平野は年間降水量が想像以上に少なく、大きな河川もないところから、用水確保の溜池が極めて多い特徴がある。こうした土地柄を反映した溜池の中に周囲一キロほどの上池、下池という名の連なる池が葛城郡にある。半分ほどは雑木林に囲まれ、よく自然が残っているため、野鳥が多く、今は辺り一帯が自然公園として開かれ、バードウォッチングの観察ポイントにもなっている

 その池の一角に葦の群生する湾処があり、その湾処の浅瀬には小魚が多く、ときにその小魚を狙ってサギやクイナが現われるが、よく姿を見せるのはカワセミとカイツブリで、ほぼ毎日のようにやって来る。カワセミは水辺に伸びた落葉小高木の小枝によくとまっている。くちばしが身の丈に似合わないほど大きく、背羽が瑠璃色、腹が茶色をした美しい鳥なので直ぐにわかる。カイツブリはコガモより一回り小さく、よく水に潜るので、他の水鳥と見わけがつく。

                      

 今日は、この池のカワセミとカイツブリから想像を膨らませたお話である。こうした野鳥なども想像力を逞しくして見ると、観察も一団と楽しくなって来る。 カワセミもカイツブリもこの湾処によく姿を見せるので互いに相手をよく知っている。この場所に来る目的は、サギやクイナに等しく、ともに小魚が狙いで、カワセミはひたすら定位置にしている雑木の小枝にとまって好機を待ち、一方のカイツブリは間隔を置いて水中に潜り小魚の群を追っている。それはまさしく静と動の姿で、剣豪の宮本武蔵と佐々木小次郎を想起させるところがある。

 突然、水面めがけて弾丸のように飛翔し、水飛沫を上げて瞬時に小魚に襲いかかるカワセミは、しかし、失敗することも間々ある。これに対し、カイツブリも大きい水掻きを持つ足の力によって、水中を自在に泳ぎ、小魚を捕える。しかし、カイツブリも水面に浮び上がるまでの間、「何をしていたのか」と問われるような光景、即ち、くちばしに獲物の小魚が見られないことが間々あるといった具合である。

  ともに得意とする早業には訓練と経験がものを言うようで、これには涙ぐましい日常の努力が必要で、ともに前向きに取り組んでいるが、小魚を捕まえたときの得意満面な表情をカワセミにしてもカイツブリにしても互いに垣間見るとき、カワセミはカイツブリに、カイツブリはカワセミに少なからぬ羨望を抱くという心理が働くのであった。カワセミはカイツブリのように水中に潜れたらどんなにいいだろうと思い、カイツブリはカワセミの陽光を浴びて瑠璃色に輝く一閃の飛翔に甘美なものを感じ、自分もその一閃の飛翔に挑戦してみたい心持ちになったのであった。 写真は捕えた小魚を銜えるカワセミ(左)とカイツブリ(右)。  ~次回に続く~

 


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2016年02月26日 | 植物

<1519> 咲き始めた春の花

             春が来る 冬を凌いで 確かなる 明るく豊かな 色彩かかげ

 今年はウメの開花が早いと思っていたら、静岡県河津町のカワヅザクラが二週間ほど早く満開を迎えたというニュースがテレビで放映された。という次第で、注意しながらいると、ハンノキは既に花期を終え、萎れた花穂が地面に落ち、その花からバトンを受け取るように公園ではサンシュユが黄色い花を咲かせ始めた。これも早く、気分が急かされるところ、自生するヤブツバキもどんどん咲き出している。もう、この春の勢いは誰にも止めることは出来ない。そんな感じである。

          

 花を見ていると、本当に美しいと感心させられるが、それとともに、その美しさは機能に組み入れられ、植物自体に役立てられているのが見て取れる。これはまさしく自然の配するところであって、何というか、無駄がない。つまり、自然の美しさは無駄のない美しさだということが出来る。 写真は春の花。左からストック、ヤブツバキ、咲き始めたサンシュユ。花はそれぞれであるが、どの花も勢いのある瑞々しい色をしている。

  恵まれて来るもの 恵まれざるに来る もの それぞれにありて 生あり

  欠けたるには 補ひが要る 補ひには 補ふ力  力量が要る


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2016年02月25日 | 創作

<1518>  演歌 「古都奈良慕情」の歌詞

      奈良はまづ 奈良公園に 鹿の群 春日御宮 数ある御寺

 ご当地ソングのための作詞を試みた。題名は「古都奈良慕情」。奈良の特徴的な事がらを織り交ぜて男女二人が古都の奈良に魅せられ、春夏秋冬を訪ね歩くという設定による。 なお、歌詞の「一日」は「ひとひ」、「御仏」は「みほとけ」、「掌」は「て」、「宮跡」は「みやあと」、「若宮」は春日若宮おん祭。なお、お水取りは三月一日が本行入りなので春であるが、「お水取りが終われば春が来る」と言われるので、お水取りについては冬の殿という認識によった。  写真は左から藤の花(春日大社の砂ずりの藤)。湧き上がる夏の雲。盧舎那仏である東大寺の本尊大仏さん。師走に行なわれる大和の祭りの殿を担う春日若宮おん祭の行列。春を呼ぶ東大寺二月堂の修二会のお水取りで見られる大松明の運行。

          

               (一)

       馬酔木 桜 藤の花 

          咲き継ぐ春の うららな一日

          奈良公園を そぞろに二人

        歩けば そこここ 鹿の群

        ひととき 戯れ 触れ合う心

          ああ うるわし 古都の奈良

             (二)

        若草 高円 春日山

      あおめる夏の 山並 一日 

       平城宮跡 たたずむ二人

       望めば 白い雲の峰

      ひととき 照らされ 点せる心

      ああ はるけし 古都の奈良

              (三)

      如来 菩薩 盧舎那仏

      いませる秋の えにしの一日

      堂塔 伽藍 訪い行く二人

      仰げば 微笑む 御仏よ

      ひととき 掌合せ 祈れる心

      ああ とうとし 古都の奈良

            (四)

     若宮 山焼き お水取り

     巡りの冬の にぎわう一日

     集える人なか 寄り添う二人

     語れば 幸せ 胸のうち 

     ひととき つのれる 愛しい心

     ああ こよなし 古都の奈良