大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年04月14日 | 写詩・写歌・写俳

<1311> 春の黄色い花

             川筋を 一面黄に 染めゐるは 外来の花 西洋芥子菜

 春は黄色い花が目につく。中でもポピュラーなのはタンポポで、これはどこでも見られ、知らない人はいないはずである。しかし、その種に話が及ぶと、紛らわしく、見分け難いということがある。ほかには菜の花の類が黄色い花の代表格で、春を彩るが、これも種に及ぶと紛らわしく、一言では言えないところがある。

  「菜の花の中に城あり郡山」(森川許六)と句に詠まれたごとく、江戸のころから戦前のころまで、大和では菜の花のアブラナが平野を一面に染めるほど作付けされていた。これは菜種から灯火用の種油を採るのが主な目的で、花は春の風物詩のようになっていた。今は農作物の作付けに変化が及び、菜の花畑がどこまでも広がるような光景は見られなくなった。これは電灯の普及などによるもので、時代の要請が言えるところである。

  こうして田畑の菜の花が少なくなったのに反比例するように、近年、菜の花の仲間のセイヨウカラシナが勢力を拡大して川筋などを黄色に染める現象が見られるようになった。これは香辛料のからしにするカラシナの外来種で、明治以降、我が国に入って来たものが野生化したものである。

                   

  思えば、時代はグローバル化に向かい、いよいよ海外との交流が盛んになって、植物のみならず、人間の世界、即ち、外国人の姿も多く見られるようになったことがあげられる。奈良県は観光県で外国人が多くやって来るが、近年、その姿に変化の見られることが思われる。増加していることに加え、最近の外国人観光客は、インターネットの情報にもよるからか、行動範囲が広く、ツアーなどの集団のみならず、個人的に行動する旅行者も増え、いよいよグローバル化の様相を呈して来た観がある。 写真は川筋一面に花を咲かせるセイヨウカラシナ(大和川の河川敷で)。

                                 *                                    *                             *

  ところで、最近、各地の社寺において油のようなものが撒き散らされるという奇妙な被害報告がなされる事件が奈良や京都を中心として各地に広がっている。犯行が短時日に多くの場所に及んでいることと、社寺に集中して起きていることから犯行は単独ではなく、複数によると考えられ、社寺ばかりに被害が集中していることから宗教上のいやがらせと見ることが出来る。このような犯行例はいままでにないことで、何か気色の悪いところがある。

  それも夜間誰もいないような時間帯にやるのではなく、ほかの観光客に紛れて犯行に及んでいることで、一層不気味さを感じさせる。思うに、この事件はいたずらの範疇の事件であろうが、そんなに軽くはないような気がする。言わば、テロのような手口であるから、被害はさほどでないにしても軽視は出来ないところがある。社寺のような場所で、警備は如何なものかとも思われるが、対策を取る必要があるのではないかというふうに思えるところのある事件ではある。

 


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2015年04月07日 | 写詩・写歌・写俳

<1310> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (100)

       [碑文]  吉野山 こぞのしをりの道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ                        西  行

 この歌碑は吉野山の中千本から上千本へ向う登り口のところに位置する竹林院の群芳園前庭に昭和二十二年(一九四七年)建てられたものである。群芳園は千利休作、細川幽齋改修による回遊式庭園で、大和三庭園の一つにあげられている名園である。

   竹林院は、その縁起によると、聖徳太子が開いたお寺で、椿山寺と呼ばれ、その後、弘仁年間(八一〇年から八二四年)に空海が入り、常泉寺と称した。これを南北朝時代に後小松天皇の勅によって竹林院と改め、明治初年の神仏分離令によって廃寺になったが、戦後、修験道系の宿坊を有する一寺院として再興し、現在に至っている。

  この西行の歌碑については、「西行法師笈を留む記念」と竹林院縁起の案内板に見えるように、西行がこの寺に宿を借りたことによるということなのだろう。では、碑文の歌について見てみたいが、その前に西行の生涯をまずは辿っておきたいと思う

       

  西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)という。義清は元永元年(一一一八年)武士の家柄(父は康清)に生まれ、徳大寺実能の随身となり、鳥羽院の北面の武士として兵衛尉にまで昇進したが、突然、家も妻子も捨てて、保延六年(一一四〇年)二十三歳の若さで出家した。法名は円位、西行とも号し、隠遁生活に入った。最初の五、六年は京洛に庵居していたが、三十歳前後で、高野山に移り、真言僧としての修業生活を始めた。その後、五十歳のとき西国行脚に出て、四国を旅し、九州まで足を延ばしたとも言われる。

  当時は武家が台頭し、源平が競う時代で、福原遷都があり、頼朝が伊豆に挙兵した激動の始まりを告げる年になった治承四年(一一八〇年)、西行は六十三歳にして熊野から伊勢に赴き、二見の辺りに住まいした。それからも旅を行ない、文治二年(一一八六年)、六十九歳にして東大寺再興の沙金勧進の目的で奥州平泉への行脚を行なった。

  これ以外にも、熊野詣では四季を問わず何回も試み、『古今著聞集』が「大峰二度の行者なり」と西行について触れているように、大峰山脈の尾根筋を辿る奥駈の修験道の行場の峻嶮な道なき道を行き来してもいる。そして、建久元年(一一九〇年)二月十六日(現在の四月はじめ)、 「願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃」 と願った通り、河内国の弘川寺において七十三歳の隠遁、漂泊の生涯を閉じた。

  西行はその隠遁、漂泊にあって歌を生きがいに生涯を遂げたが、その歌の中でも花と月に触れて詠むことが多く、花月の歌人として知られ、大峰奥駈の深仙の宿で詠んだ月に寄せた歌には 「深き山に澄みける月を見ざりせば思ひ出もなきわが身ならまし」 とある。花ではサクラをこよなく愛し、 「仏には桜の花を奉れわが後の世を人とぶらはば」という歌を残してこの世を去ったのであった。

  殊に吉野山のサクラに魅せられたことは碑文の歌でわかるが、ほかにも、 「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にも添はずなりにき」 と詠み、 「谷の間も峰のつづきも吉野やま花ゆゑ踏まぬいはねあらじを」 と詠むなどサクラの花を求めて吉野山を巡り歩いた様子がうかがえる。

  吉野山は大峰山脈の北端に当たり、吉野川左岸に始まる吉野から熊野に及ぶ大峰(大峯)奥駈の峰入りの北の出発点に当たるところである。修験道の祖役小角(えんのおづぬ)がヤマザクラに蔵王権現の尊像を彫って祀ったことを契機に、ヤマザクラは神木化され、その後、吉野山は信者の寄進によってヤマザクラが増え、西行の時代には天下に知られるサクラの名所になっていた。

   西行がこの吉野山のヤマザクラに触れて魅せられたのはいつのことであったか。初期の「花十首」で既に吉野のサクラを詠んでいるが、これは「大峰二度の行者なり」に関わりがあるのではないかという。初度の大峰は出家前で、そのとき既に吉野山の実際のサクラに出会っていたかも知れない。

  碑文の歌から推察するに、「昨年枝を折って目印にした道を変えてまだ見たことのない方の花を訪ねよう」ということなので、西行には最低でもニ年に渡って吉野山のサクラを訪ねていることになる。その時期については、高野山を拠点にしていた三十五、六歳ころのことではないかと言われる。

  吉野山の最上部、奥千本に位置する金峯神社の奥に「苔清水」という旧跡があるが、これは西行の 「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」 という歌に因むもので、この歌から西行がこの近くに草庵をつくり住んでいたと察せられ、それが高野山を拠点にしていた時代、三十五、六歳のころではないかという。

  現在、近くに西行庵なる小さな草庵が見られ、中に西行を模した木彫の坐像が安置されている。西行を敬愛する松尾芭蕉が門人とともに秋の「野ざらし紀行」と春の「笈の小文」の二度に渡って、この「苔清水」の旧跡を訪れ、 「露とくとく心みに浮世すゝがばや」 、「春雨のこしたにつたふ清水哉」という句を詠んで西行に和したが、庵には触れていないので、当時はなかったのだろう。現在の庵はともかくとして、西行は草庵に寝泊まりしながら吉野山を巡り歩き、桜刈りを楽しんだのだろうと思われる。

  碑文の歌は西行の家集である『山家集』には登場を見ず、晩年に藤原俊成に判を依頼した自歌合わせの「御裳濯河歌合」に見られ、『新古今和歌集』にも選ばれて、巻一の春歌上に見える。写真は左から竹林院の西行の歌碑、西行庵と西行像、吉野山のヤマザクラ。 西行と 芭蕉とこの身の 桜かな

 なお、「大和の歌碑・句碑・詩碑」 はこの西行の歌碑をもって百回に及び、目的を果たすに至った。まだ、気になる碑がないではないが、これを一つの区切りとして終わりとし、このブログも日々の更新にピリオドを打って、ときに記すべきものがあれば記して行くことにしたいと思う次第である。このブログを開いて頂いた諸兄諸氏にはまこと御礼申し上げる次第。もちろん、終わったわけではありませんが、とりあえず。まずは、ごあいさつまで。ありがとうございました。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2015年04月06日 | 写詩・写歌・写俳

<1309> 散り敷くサクラの花に寄せて

      散る花に 寄する思ひの 昨日今日 昨日に勝る 心を汲まむ

 大和路でサクラ(ソメイヨシノ)が咲いて見ごろを迎えたのは四月に入ってからだったが、ちょうどよい満開の時期に天候不順になり、今年の花は長持ちしそうにない。昨日、今日の雨模様の中、花は散り急ぐのを余儀なくされている。で、雪かと見紛う散り行く花と散り敷く花の光景がそこここの花見所で見受けられた。言わば、昔も歌に詠まれた光景である。では、二、三その雪に重ねた花の例歌をあげてみよう。

   沫雪かはだれに零ると見るまでに流らへ散るは何の花ぞも                   『万葉集』  巻  八 (1420)   駿 河 采女

   みよし野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける               『古今和歌集』 巻一 春歌上 (60)  紀友則

   又やみんかたののみのの桜狩花の雪散る春の明けぼの                   『新古今和歌集』 巻二 春歌下 (114)  藤原俊成

 『万葉集』の歌では「花は白梅であろうか」との声もあり、巻五に「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」(822・大伴旅人)や「妹が家に雪かも降ると見るまでにここだも乱(まが)ふ梅の花かも」(844・小野國堅)といった歌も見え、『万葉集』における雪と見紛う花は白梅というのが通例と言え、サクラではないようである。ウメは中国が原産で、庭園に植えられ、身近な光景として見られたことが思われる。

           

 『古今和歌集』の歌はサクラの花を詠んだもので、これはヤマザクラに相違ない。で、この花は散る花ではなく、今を盛りに咲く花を積もった雪に見間違うと詠んでいる。次の『新古今和歌集』の例歌も同じくサクラの花を詠んだものであるが、こちらは散る花を降る雪に重ねているのがわかる。

 「かたの」は交野で、在原業平の『伊勢物語』でお馴染みのサクラの名所である。物語の八十二段には次なる名高い問答歌が見える。即ち、「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と言えば、「散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき」と対している。ともに、サクラの花へのこだわりがうかがえる。

 このサクラの花へのこだわりは、時代が下って現代になってからも続いている。晩唐の詩人千武陵の「勸酒」と題した五言絶句に「勸君金屈巵 満酌不須辭 花發多風雨 人生足別離」というのがある。この漢詩を井伏鱒二は「この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」と訳し、一躍知られることになったが、この詩を受けて寺山修司は次のような言葉を発している。

    さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう

    はるかなる地の果てに咲いている野の百合は何だろう

    さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう

    やさしい やさしい夕焼とふたりの愛は何だろう

    さよならだけが人生ならば 建った我が家は何だろう

   さみしい さみしい平原にともす灯りは何だろう

   さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません

 散り行く花は無常とも更新とも取れようが、元に戻れない時の特質における生の個をして言えば、やはり行き着くところはみな同じ「さよならだけが人生だ」ということになる。咲いて散る花に雪を連想し、人生を重ねるに、今も昔も変わらずあるところの心模様ではある。 写真はこのところの風雨によって散り敷いたサクラの花。まさに雪景色の観があった。

 


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2015年04月05日 | 写詩・写歌・写俳

<1308> チューリップ

        チューリップ 咲く花園へ 乳母車

 私がよく訪れる奈良県立の馬見丘陵公園(河合町、広陵町)では「馬見チューリップフェア」が開かれており、色とりどりの花が見ごろを迎えている。フェアは今年二回目で、昨年よりも十万球増やし、花の道エリアを中心に三十万球が植えられているという。

       

 チューリップはユリ科チューリップ属の球根植物で、トルコの辺りが原産地とされる。草丈は三十センチほどで、四、五月ごろ中央から花梗を伸ばし、その先端に六弁花を開く。花色が種々に及ぶので、園芸品として好まれ、唱歌の「チューリップ」のように咲き出すのが待たれる花である。和名は漢名と同じく、鬱金香(うこんこう)と呼ばれ、この名は黄色の染料植物であるウコン(鬱金)から来ていると言われるなどしているが、その由来ははっきりしていない。別名には蓮花水仙、百合牡丹、牡丹百合などがある。

  栽培は十六世紀中ごろオーストリアのトルコ大使によって発見され、大使がウイ―ンに持ち帰ったのが始まりと言われ、その後、全欧に広がった。殊に十七世紀中ごろ栽培に適したオランダで盛んに栽培されるようになり、チューリップの愛好者が増え、大流行するに至った。そのピーク時は、投機の対象となって、チューリップ狂を生み出すほどの人気を博し、オランダでは、チューリップが一大産業化し、世界第一の生産国になり、世界に輸出されるようになった。

 我が国には江戸時代に渡来したが、愛好家の一部に止まり、その魅力が発揮されるのは近年、大正時代に入ってからだと言われる。最初、新潟県で生産され、富山県などに広がった。現在では富山県が第一の生産県としてその名を馳せている。なお、多くの花の中で、チューリップはカーネーションとともに世界で屈指の生産量を誇る花になっている。  写真は馬見チューリップフェアで見ごろになったチューリップ(奈良県北葛城郡河合町の馬見丘陵公園で)。 では、今一句。  チューリップ 絵本にまづは 出会ふ 

 


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2015年04月04日 | 写詩・写歌・写俳

<1307> 春 雨

     春雨や いのち潤し ゐるものら

  花に嵐のたとえもあるが、嘆くにはあらず。春の雨には滋養の恵み。サクラが咲いて、ヤナギが青み、クヌギ林が芽吹き出す。ああ、時を得て、生命(いのち)を育む一木一草。この雨を喜ばぬものはない。まさに、滋養、否、慈愛の雨。この雨にけぶり匂い立つ感を得ているものたち、みな、生命(いのち)のほかにはあらざるものたち。声なき声にして萌え出づる一木一草。

           春雨小雨が降ってゐる

         昨日の悲しみ癒すごと

      しとしとしとしと降っている

         今日の新たな日のために

         降るものとこそ思うべし

         言わば滋愛の小雨なり

         一木一草それぞれに

           耀くときの来ることを

                                                                  

  なお、今日、四日夜は皆既月食が見られるはずであったが、月は姿を見せてくれなかった。大和地方は雨こそ降らなかったが、厚い雲に遮られ、花の季節の天体ショ―は見ることが出来なかった。週末だったが、雨模様の予報があったからか、夜桜見物もちらほらといったさびしい人出だった。 写真はライトに浮かぶ夜桜。花月の歌人西行の気分でいたが、残念ながら月は全く見られなかった。