大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年08月31日 | 写詩・写歌・写俳

<1092> 水 底 の 石

        ゆく川の流れは何処 あこがれてゐる身の思ひ 水底の石

 水は流れる。遡上した鮎たちは流れとともに下る季節。猫柳が銀白色に輝いて見えた春先の岸辺の眺めが懐かしい。今は代わって薄や荻の出番である。子供たちの声は徐々に遠ざかり、夕になるとどこからともなく虫の声が聞こえる。

 時は過ぎゆく。間もなく紅葉の季節を迎えるだろう、そこここの山。次は雪の季節。寒風に薄や荻は枯れ萎れ、そして、また、猫柳が芽吹く春の訪れを迎える。空の雲は千変万化。移りゆく定めを思わせる。川の水はその空を映して流れ、止まず流れ、飽きることのない四季の巡り。

 流れる水は何処へ流れ下るのか。広い海にあこがれているのだろうか。にぎやかに、また、ときには静かに流れはとめどもない。涯は果して何処なのか。水底の石は呟く。「我は思う身」と。

                                  

  中島みゆきは歌う。「おまえ おまえ 海まで百里 坐り込むには まだ早い 砂は海に 海は大空に そしていつか あの山へ」と。――「小石のように」あこがれを抱く身がここにも見える。流れゆく水にも言えよう。移りゆく時を抱いているものたち。

  小石は山にあっては見はるかす大岩の一片であった。昼は太陽の恵みに与かり、夜は満天の星に語りかけることの出来る存在であった。その一片は大岩を離れ、いつしか小石となって岩を離れ、山を下り、砂になって流れの中。その流れ下るもののあこがれの先は、果たして広い海であろう。だが、まだその先があると中島みゆきは歌う。

 水底の石は水の流れを見送りながら、ときに沈黙を破って、そのものたちに声をかける。「俺もそのうち後を追ってゆくよ」と。みんな涙ぐましい存在なのだ。よく考えてみれば、あこがれ焦がれは故郷で、故郷は母の胎内。言わば、水底の石も流れゆく水も等しく人生の裏表。それは長くも短くも時の流れに寄り添いながら生まれ故郷を指す回帰への旅。そうに違いない。「砂は海に 海は大空に そしていつか あの山へ」である。

 

 


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2014年08月30日 | 写詩・写歌・写俳

<1091> アシナガバチの巣

       ゆく夏や 足長蜂は 巣にゐたり

 我が家にはアシナガバチが棲みついている。よく巣が見つかる。というよりも、アシナガバチは襲って来るというイメージを持っている庭いじりをよくする妻がアシナガバチの飛ぶのを見て、巣を見つけ出すというのが正しい。身近を飛ばれると怖いらしく、かなり気にしている。この妻のアシナガバチに対する動向はほぼ毎年のことであるが、一度は戸袋の中、一度はク―ラ―の室外機の内側にといった具合で、今年はニ階のベランダの下側に巣を見つけた。昨年は隣家の石垣の間に作っていた。

                                                           

 巣は幼児の握り拳ほどの大きさで、十匹ほどがその巣に取りついて巣を守っているように見える。頭上の高いところなので妻には手出しが出来ないようで、巣はそのままになっている。昨年も隣家の石垣だったのでこの巣も手出しが出来なかった。だが、石垣の巣はいつの間にかなくなった。誰か処分したのだろう。私には子供のころから馴染みのあるハチなので、直ぐ傍を飛んでいても全く気にならない気安さがある。アシナガバチも我が家が棲みよいからやって来るのだろうというぐらいに思っている。

  アブの類は人を目がけて襲って来るから要注意であるが、アシナガバチはこちらが何も仕掛けなければ襲って来ることはまずない。人間の側から言えば、ハエやカの方が始末に負えない。ミツバチでもハナバチでも花があればやって来る。それだけのことで、何も手出ししなければ無害なハチたちである。もちろん、スズメバチやクマバチのような攻撃的で、刺されると被害が甚大なハチには注意が必要で、駆除することも止むを得ないが、アシナガバチは見かけほど怖いハチではない。

  昨年同様、妻には今年もあきらめ気味であるが、アシナガバチには平穏な日々が続いていると言えようか。人間でも同じようなものであるが、敵対すれば如何なる場合もその関係はよくなくなり、争いごとになる可能性が強くなる。攻撃されれば、防御に止まらず、やり返すというのが常で、それが生き死に関わるほどであれば、弱い立場の虫でも抵抗して来ることになる。

  無暗な排除などはせず、アシナガバチの棲息の場も提供してやるのがよいように思われるが、アシナガバチに恐怖心を抱いている妻には、この考えになかなか得心がいかないようである。ということで、生は葛藤、妻とアシナガバチには冷戦状態で、私は傍観者を決め込んでいるといった具合である。 写真はニ階ベランダの裏側に作られたアシナガバチの巣。  夕青き微光の中をあがりゆく足長蜂は足を垂らせり (北原白秋)

 


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2014年08月29日 | 植物

<1090> 金剛山に秋を告げる花

     花に見ゆ 秋は山より 下り来る

  このところ急に涼しくなり、今日はカトラ谷経由で金剛山に登った。目的はいつもの通り、歩くことと野生の花を観察するため。曇天で湿気が多く、快適な登山とは言えなかったが、それなりに花は見られた。その花を数えてみれば、みんな秋を告げる花である。今夏もいろいろとあったが、出会う花を見ていると、時は滞ることなく歩を進めていると実感される。

 花を生殖器官と言ったのは誰だったか。いろいろと定義され、ほかにも命の象徴とか灯、また希望、過程、使命、命の継ぎ穂、アピール等々。そして、「花は時間に属している」(中西進「花のかたち 日本人と桜」)とも言われる。で、「年々去来の花」を世阿弥は『風姿花伝』の「花伝第七別紙口伝」に「そもそも、花というものは、万木千草のいずれの花もが、四季の内の定まる時節に咲くものであって、その時節を待ち得て咲いたのが珍しい(新鮮である)からこそ、人々が賞翫するのである。(略)草木の花はどんな花でもいつかは散るもので、散らずに咲き残る花はない。散るからこそ、また咲く時節がやってきて、珍しさがはじまるのだ」と言っている。

 金剛山にも、この「年々去来の花」である秋の時節を告げる花々が咲き始めた。見るところ、先がけの花と盛りの花が見られる。花は昨年と同じ顔ぶれであるが、年々歳々相似て違う理。これはまさしく、命に等しく言えることで、今年の花は今年の花である。では、今日出会った中から七つの花を紹介したいと思う。 

                   

         写真は左からクサアジサイ、オタカラコウ、シシウド、カワチブシ、ヤマホトトギス、アレチマツヨイグサ、クズ。

 

 


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2014年08月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1089> 写真について (3)

            写真は真を汲み取ることにある

     真とはいわゆる真実の真を指す

     私たちは言わば真実の真に憧れ

     それを欲求のうちにもっている

     写真はこの真実の真に関わるが

     真の如何なるに重きを置くかで

     写真のあり方見方は変わるから

     写真の題名や説明は大切になる

 写真の初源が投影された映像をトレースして作画する絵画の手法にあったことは先に触れた通りである。これは絵画におけるリアリズム(現実主義)への指向によるもので、産業革命によって登場を見た中産階級の欲求にも支えられ盛んになっていった肖像画に代表され、進化して肖像写真に現れた。我が国においても、写真技術が伝来した幕末から明治時代の初期には、カメラの性能にも起因するが、同じような状況が写真には見られた。言わば、そこには絵画よりも実像に近い存在の絵が出来上がるという期待があった。つまり、写真の原点は写真が有するこのリアリティーに目が向けられたところにある。

 その後、写真はカメラ、レンズ、感光剤の開発が各方面でなされ、日進月歩、段階的にその技術を伸ばし、二百年足らずで、今のデジタル化の時代を迎えているわけで、これについては前述した通りである。初源の十九世紀は絵画との接点が強かったが、写真技術の向上にともない、カメラが小型化するに至り、写真はその独自性を発揮し、それに魅せられた写真家とともに二十世紀は写真の時代と言ってもよいほど写真が盛んになったのであった。

                      

 殊にそのリアリティーは、絵画の追随を許さず、一つには商業主義や大衆化に迎えられ、一つにはドキュメントを適える方法として評価され、フォトジャーナリズムの分野を開いて行った。中でも、戦争の描写に写真は大きく関わり、写真の記録としての重要性が認識されるに至った。そして、これと同時に写真が象徴としてあることも認識されるところとなったのである。これは写真家の勇気と努力にもよるが、写真の成長の姿でもあったと言ってよい。写真はリアリティーを有する存在であるから、その時々の時代を写し取り、その時代を象徴するものになった。時が過ぎて振り返り見るとき、その写真の象徴としてある意味がよくわかると言え、写真の真が時と所の実体であるということを物語るものであることがわかるのである

 二十世紀は如何にあったか、また、昭和は如何にあったか、このことに思いを馳せるとき、写真はその問いによく答え得ると言ってよい。これはやはり写真の初源のころから気づかれていた写真が写生に等しくリアリティーを有しているからであると思われる。では、ここで写真の特性について私見を少々述べてみたいと思う。 思うに、私には、概して次の五つの特性が写真には秘められていることが言える。記録性、発見性、芸術性、信憑性、象徴性。ほかにも考えられるかも知れないが、概ねこのようではないかと思われる。

 記録性―――写真の多くはこの役目に属するが、殊に記録が有効に働きとしてある写真は調査、報道に関する写真がこれに該当すると言ってよいように思われる。調査や報道には観察が重要で、観察は写真のみによるものではないが、観察に写真は大いなる働きをなす。それは写真に記録性が秘められているからである。

  二十世紀のドキュメンタリー映画制作者で、記録映画の先駆者として知られるイギリス人ジョン・グリーア―ソン(John Grierson)は情報を収集し伝える側にいる者がいかにあるべきかについて次のように言っている。「Observe and analysis. Know and build. Out of research poetry comes.」 と。

  意訳すれば、「ものごとはよく観察せよ、そして、よく分析せよ。その分析に基づいてよく知り、よく認識せよ、そして、その認識したものをよく構築せよ。そうすれば、こうした一連の作業(調査)から美しい詩が生まれて来る」ということになる。つまり、十分に観察し、記録することによって美しい詩が生まれて来るという次第である。ここで言っている詩とは報道の記事に等しく、その意義は大多数の人々に受け入れられる。写真は記録性においてまずは成り立っているということがわかる。

 発見性―――私たちは多くの情報を自らのものにして暮らしている。しかし、その情報は全体からすると微々たるものである。そういう意味で言えば、私たちの日々は新しい情報を常に加えながら暮らしているということになる。この情報の中で、視覚によってもたらされるものは多く、その中でも写真(映像)によるものは結構多いと言える。ここに写真の発見性が認められるわけであるが、ここでは写真の機能に即する発見を指す。これは前述したが、ブレッソンの「決定的瞬間」にも関わるところで、シャッターとシャッタースピードが捉える被写体の瞬間の映像がこの発見性を言うところである。また、未知の被写体にカメラを向けて撮り得た写真などもある。これは写真家の努力によるが、写真の醍醐味でもあると言ってよい。

 芸術性―――感動性と言ってみてもよかろう。これは視覚に訴える美の対象としての価値評価に属する領域の写真で、絵画との対比で語られるところがあるが、写真はカメラのレンズを通して来る光を扱うという特徴がある。カラ―写真の色彩も光の三原色の捉え方にあるから、やはり、光による。その光の捉え方の美しさが、まず、写真の芸術性には関わる。そして、今一点は被写体の有する形や動きの美しさを表現するところより来るものがある。

 信憑性―――信頼性とも言える。写真の真は真実の真であると言って来たが、写真はカメラの能力においてこの真を写し取る。この意味で言えば、写真は概して信憑性(信頼性)を得て、信頼されるに足りている。証明写真なんかがその典型例であるが、その信憑性(信頼性)を悪用して嘘写真を作ることを人間の姑息は時に行なうから、これについては写真を読む力というものを私たちは鍛えてゆかなくてはならないと言える。

 象徴性―――私は報道写真について、記録性もさることながら、象徴性に長けた写真が求められていると思って来た。今もその考えに変わるところはない。嘗て、中国の四川省で大地震があり、多くの校舎が倒壊し、子供たちに多数の犠牲者が出た。そのときの写真に被災して亡くなった子供の鉛筆を握り締めた右手のアップ写真が新聞の一面に掲載された。この写真は部分的ではあるが、遺体を扱った写真であるため、当時、物議を呼んだ。死者の尊厳とか、家族への配慮とか、いろいろと掲載に対する非難の言葉が出た。だが、私にはその非難に疑問が生じた。率直に言って、その写真に感動を覚えたからである。思うに、この写真に疑義を挟んだ論評は、この写真を単なる報道の記録として見たことによるからだと私には思えた。

  この写真は単なる記録ではなく、大地震を象徴した写真として受け止めるべきものと、私には直観され、常識的に見えるこれらの非難が不当に思われた。この写真が象徴としてあるというのは、まず、授業中に起きた震災であること。即死であったろう彼は一生懸命勉強していたのである。これこそ彼の名誉であり、尊厳であって、この写真が尊厳を冒しているという論評は当たらない。

  彼は若い命をむざむざ落としたが、この写真は彼が懸命に生きていたことを実証し象徴したもので、そう受け止めるのが人情であると言ってよい。そして、写真は校舎が手抜き工事によって被害の拡大を招いたという告発をもしており、更に、国の一人っ子政策にあって、子供をなくする親の気持ちをも訴えかけている写真だった。この写真は、報道写真が記録性だけでなく、象徴性をも有し、フォトジャーナリズムの真骨頂がこの象徴性にも裏打ちされていることを思わせた。

 以上、写真について述べて来たが、写真は主に時と所の光を有する実体を捉える作業であり、そのリアリティーに活路を見出して来たことが思われる。写真は左から爆発炎上するドイツの飛行船「ヒンデンブルク号」。暗殺されたキング牧師の葬儀で、娘を慰めるキング未亡人。ヌードと静物。アンドロメダ銀河(230万光年の渦巻き銀河)。  ~終わり~

 


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2014年08月27日 | 写詩・写歌・写俳

<1088> 写真について (2)

        写真の真は時と所の実体を意味する

      時を捉えてないものは写真と言えず

      所を捉えてないものも写真とは言えない

      時も所も特定出来ない写真はあるが

      それは私たちの肉眼の能力において

      特定出来ないまでのことにほかならない

     真を写す写真は真たる時と所の実体なくしては

     成り立ち得ない特性にあるからである

  写真は絵画と異なり、実景を写し取ることに特徴を有している。これは写真技術の進歩とともに認識されて来たことは前述の通りであるが、それを叶えようとするには使いやすいカメラの開発が不可欠で、カメラの性能と写真技術の向上が求められるところとなり、その希求に沿ってカメラや写真技術の開発は進められて来た。ダゲレオタイプ時代のカメラは大きく機動性に欠けるもので、被写体をカメラの前に持って来なければならないようなところがあった。カメラの歴史はまず、この不便さを克服し、使いやすいものにすることから始まった。

 十九世紀半ば、クリミア半島を舞台に繰り広げられたクリミア戦争やアメリカの南北戦争のとき写真が記録の役割を果たしたが、その記録に役立てられたカメラは、絵画では得られない写真独自の表現の道を開いたと言われる。南北戦争の北軍の統帥であったリンカーンは写真を記録に用い、自分自身もその写真に納まっているほどで、報道写真の生みの親とも称せられている。だが、なお、そのときは写真撮影に大がかりなセットがなくてはならず、ドキュメントをこなすには甚だ不便なものであった。写真はそもそも絵画の脇役的存在としてヨーロッパに展開したが、アメリカにその技術が渡り、合理主義的アメリカの風土に接することによって、フイルムの登場とハンドタイプの箱型カメラの登場を見るに至り、写真はその機能を飛躍的に伸ばし、その表現領域を広げていったのであった。

               

 ヨーロッパでも十九世紀末になるとドイツで写真関連の技術開発が進められ、箱型の単玉カメラが登場するなどし、写真は華々しい展開が見られる二十世紀へと歩を進めて行った。まず、一番に登場したのが「二十世紀初頭の巨頭」と呼ばれるアメリカ人の写真家アルフレッド・スティーグリッツで、彼のスナップ手法による作画は写真の本領を発揮したものと言われ、絵画的写真から次の時代への方向性を示したのであった。これはひとえに写真技術の進歩にともなうもので、カメラはいよいよ小型化の時代に向かった。

 一九九九年、イーストマン・コダックが箱型カメラブロー二ーを出し、この時代の主流であった乾板によるカメラと競うことになった。ヨーロッパでもドイツにおいて小型カメラの開発が行なわれ、一九二五年、エルンスト・ライツによって24×35ミリ判の35mmカメラ ライカⅠが出された。ライカは小型で使いやすい堅牢なカメラとしてスナップ写真に好適で、「決定的瞬間」の美学で知られるフランス人の写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンはこのライカを肌身離さず持ち歩き、この愛機によって多くの優れた写真を生み出した。殊に戦争の世紀と言われた二十世紀の報道写真には欠かせないカメラとなり、ほかの写真家ともども大いに用いられ、ライカは不朽の名機としてその名を残したのであった。

 レンジファインダーのライカはこうして一世を風靡したが、ほどなくして、レフレックスカメラが登場し、戦後に至って、一眼レフカメラの革新が見られ、一九四八年、ペンタプリズムと跳ね上がりミラーを使用したアイレベルファインダーの一眼レフカメラが登場し、五〇年代にはカメラメーカーが一眼レフカメラに凌ぎを削るに至った。一眼レフカメラは撮影レンズを通して被写体を見ることが出来るため、ファインダーで見たままを写真に仕上げられる特徴があり、撮影レンズを通さず他の窓から被写体を見るレンジファインダーカメラとは異なり、フレーム(写真の写る範囲)が確認しやすく、超望遠レンズや超広角レンズも使いやすい利点がある。

 その後、自動露出や自動ピントのカメラ、一本で広角から望遠までこなすズームレンズが登場し、撮影と同時に写真が出来上がるインスタントカメラも現われ、大判写真のテスト撮影や締め切り時間に追われる報道写真などに利用されて来た。その後、デジタルカメラの開発がなされるようになり、今世紀に入るころになると、高画素数の競争がメーカーの間で展開され、その結果、報道写真やコマーシャル写真の分野にもデジタル化が進み、今やフィルムレス時代に至り、携帯電話(スマホ)にもこのデジタルカメラが内蔵され、誰もがカメラマンの立場にいる時代になった。携帯電話はインターネットに接続され、通信手段にも用いることが出来るので、誰もが世界に向けて撮影した写真を発信することが出来るようになった。

 多数を対象とした瞬時における双方向のコミュニケーションを可能にした情報通信の革命であったインターネットと軌を一にして写真のデジタル化は進み、パソコンの機能と連動して今やなくてはならないものになった。このデジタル化は銀塩写真からの決別を意味し、写真における革命と言ってよい。なお、写真の歴史を見るに、今一つカラー写真の歴史がある。次にこのカラー写真について触れ、写真の歴史については終わりたいと思う。カラー写真はネガカラ―方式とポジカラ―方式があり、ネガカラ―は加色法の光の三原色の赤、青、緑によるそれぞれの分解版をモノクロの銀塩方式で作り出し、その分解版を重ねて光を当て、実像を作り出すという方式である。ポジカラ―もこの三原色と補色の関係にある減色法の絵具の三原色を利用し、フィルターや発色作用等によって作り出す。

 カラー写真の研究開発は十九世紀ごろから行なわれ、近代的なカラ―フィルムが登場したのは一九三五年のイーストマン・コダックのコダクロ―ムが最初で、次の年にドイツのアグファが出したことで知られる。なお、日本における写真は西洋の模倣から始まり、江戸時代の嘉永元年(一八四八年)にお目見えし、幕末の安政四年(一八五四年)、薩摩の島津斉彬の銀板による肖像写真が最初とされている。カメラは木製の箱型で、外国産のレンズが用いられていた。

 日本の写真は戦後飛躍的に発展し、カラー写真については一九四〇年に国産のフィルムが出されている。なお、デジタルカメラにおいては日本のメーカーは優れており、世界をリードするに至っている。以上、写真の歴史と変遷を大まかに見て来た次第で、次に写真の特性について触れてみたいと思う。写真は左からブレッソンの「英国王戴冠式」。ロバート・キャパの「ノルマンディー上陸作戦」。(以上『世界の写真家』より)。光の三原色の図解(『カラー写真の写し方』より)。カラー写真の例、アケボノツツジ。 ~ 続 く ~