<938> 短歌の歴史的考察 (13) ~ <935>よりの続き ~
人が世にあり世に人が歌ひける いつの時代においても見えて
前述したように、世の中の体制が変わったからと言って、その変化が直ぐに文化的状況に現れるということはまずない。これは文化の一端にほかならない短歌の状況にも当てはめて言えることで、維新当初の時代人は文明開化を叫び、旧来を廃して新しい道を開く意志に燃えていたけれども、それを実践するには時が要った。で、近代短歌もそのような時を要した道筋を辿ったことがうかがえる。
で、新派が登場して来る前、なお、因習的に固定されて来た歌道の雪月花、言い換えれば、花鳥風月の趣味を汲む素養としての和歌たる短歌は明治時代の半ばごろまで見られたのであった。明治二年(一八六九年)、宮中に御歌所の前身が設立され、歌会始めが行なわれるようになり、同七年からは国民一般の詠進を求め、同十二年に詠進歌の優秀作が披講されるようになって、この歌の催しは宮中の恒例行事として定着し、今に至っている次第である。
この宮中和歌の御歌所派、または、宮内省派の流れを汲むのが桂園派と呼ばれる歌人たちであった。また、国学者などによる古典派も見られ、これに民間人も加わって、明治のごく初期の時代はあった。文明開花の声は発せられていたものの、なお、旧来の和歌によって短歌はあった。
その後、明治十五年(一八八二年)、『新体詩抄』が刊行されるに及び、伝統的な旧来の詩形は否定されるところとなり、いよいよ西洋の影響を受けることになった。これが短歌に及んだことは当然と言えるところで、まず、明治二十四年(一八九一年)に落合直文が『新撰歌典』を編んで新しい短歌の道を示した。尾上柴舟、金子薫園といった歌人がその派にあって近代短歌の先駆けになった。
だが、これらの短歌に飽き足らずあった与謝野鉄幹(寛)が東京新詩社を起こし、機関誌『明星』を創刊して短歌の革新に火をつけた。明治二十六年(一八九三年)のことで、旧派の歌を批判し、ますらおぶりの新風を標榜して、若い層に迎えられ、与謝野晶子、山川登美子、窪田空穂、平出修、茅野雅子といった面々が加わり、封建的因襲や旧道徳からの解放に挑み、恋愛の歌などに大胆な表現を用い、話題になった。晶子の歌集『みだれ髪』はその代表的な作品と言える。
一方、この新詩社に対し、俳句の革新に当たっていた正岡子規が短歌にも言及し、明治三十一年(一八九八年)、「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載し、『古今和歌集』を退け、『万葉集』や実朝の『金槐和歌集』を称賛して、写生によるリアリズムの手法を短歌にも取り入れた。こうして子規は根岸短歌会を立ち上げ、機関誌『馬酔木』を創刊した。これに参加したのが、伊藤左千夫や長塚節、岡麓らであった。子規の死後、明治四十一年(一九〇八年)、左千夫は『アララギ』を創刊し、子規の遺志を継いだ。この派には「実相観入」による更なる短歌の近代化を目指した斎藤茂吉がいた。
また、当時はこの鉄幹の主観的浪漫主義の新詩社と子規の客観的現実主義の根岸短歌会の対立的な短歌の流れに、佐佐木信綱の竹柏会があった。信綱は明治三十一年、『心の華』(のちの『心の花』)を創刊し、二つの対立する主張とは別に、新旧歌風の折衷する短歌の道を示し、短歌革新の一翼を担った。これには木下利玄らが参加した。
『明星』の勢いは自我の解放を訴える中、晶子ら女流歌人の情熱的詠歌によって盛り上がり、奔放で浪漫的表現の自在に加え、吉井勇や石川啄木、更に北原白秋を迎えて歌壇の中心をなすほどになった。だが、現実離れした空想とそれによる頽廃享楽的歌風に陥るところとなり、社会的支持を失う結果になって、短歌は自然主義や写生を基本に置く『アララギ』などに傾斜してゆくことになった。このような流れの中、森鷗外の主催する観潮楼歌会が各派の歌人を集めて歌会を催し、対立する会派の融和を図って、新しい短歌の在り方に試みを示した。この鷗外の試みは近代短歌における一つの試行であったが、これは明治四十一年から四十二年のことである。
このような成り行きで、『明星』の歌風に翳りが見え始め、登場したのが前述した現実生活やその人生を題材にした自然主義の短歌で、これに拠ったのが前田夕暮であり、若山牧水、土岐哀果(善麿)らであった。そして、近代短歌の一つの傾向となる社会主義的短歌の確立に多大な影響をもたらしたのが石川啄木で、当時の社会情勢を反映して、歌集の『一握の砂』と『悲しき玩具』は歌人のみならず、世間一般の注目を集めたのであった。これは明治時代末から大正時代はじめのことである。
その後、『明星』の唯美主義的頽唐派であった勇や白秋らは明治時代の末、『明星』に代わる『スバル』を出し、象徴主義へと向かい、後期浪漫主義と呼ばれる派をなして作歌活動に当たった。また、『アララギ』は『万葉集』に傾斜した左千夫から島木赤彦や斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉らに引き継がれ、大正、昭和の時代へと短歌の道を継いで行った。特に、茂吉の処女歌集『赤光』(大正二年)は近代短歌の一つの到達点として高く評価されたのであった。
このように見てみると、維新以後の明治時代における近代短歌の流れは、大きく三つの本流に分かれ、それに幾脈かの支流があって、豊かなデルタをなしたと言える。そのデルタにおける作品がどんなにバラエティーに富んでいたか、また、デルタを形成した歌人たちがどれほどであったかがそこには示されている。この流れとデルタの眺めは、やはり、短歌が庶民の域にまで浸透したこの時代の政治的体制によって現れた世相の反映と見てよいように思われる。
別の言葉で言えば、短歌が市民権を得たということであり、自我の覚醒とともに明治という時代がいかなる時代であったかがわかる。短歌の歴史においてこの時代は画期的な時代であった。では、ここに各派の代表的な歌人の歌をあげてみよう。これらの歌には近代短歌の萌芽の勢いのようなものがうかがえる。 写真はイメージで、水面の輝き。
緋縅(ひおどし)の鎧を着けて太刀佩きて見ばやとぞ思ふ山ざくら花 落合直文
われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩(うた)の子恋の子あゝ悶えの子 与謝野寛
くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る 正岡子規
大門のいしずゑ苔にうづもれて七堂伽藍ただ秋の風 佐佐木信綱
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野晶子
やるせなき春のワルツの舞すがた哀しくるほし君の踊れる 北原白秋
はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る 石川啄木
のど赤き玄鳥(つばくらめ)二つ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり 斎藤茂吉
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく 若山牧水
向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ 前田夕暮
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径 木下利玄