大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月31日 | 創作

<940> 短歌の歴史的考察  (15)       ~ <939>よりの続き ~

      歌は世に 世は歌に連れとは言はる 世は人の世を言ふものにあり

 太平洋戦争の戦時下というのは昭和十六年十二月の米英に対する宣戦布告から我が国の敗戦によって終戦を迎える昭和二十年八月までの四年余を言うのであろうが、昭和六年(一九三一年)の満州事変まで遡ってその前段があり、そのころから既に言論統制などが徐々に厳しさを増し、文化活動の制限もあって、短歌の世界にも大きく影響した。

 然るに、その統制の時代は十数年に及ぶわけであるが、その制約の時代は封建時代に比べ極めて短かったことが言える。だが、その制約は封建時代の比ではなく厳しかった。また、敗戦による国土の疲弊は全土に及び、敗戦後の統治を連合国の米国に委ねなくてはならなかったことも大きな相違で、この終戦では、明治維新以上の変革がなされ、実感されたと思われる。

                                         

 何と言っても、帝国憲法を廃し、民主憲法が誕生したこと。これが大きかったと言える。新憲法による民主主義の導入による教育の変革があり、主権在民による個人主義的考えが推し進められ、職業、結社、宗教の自由等が認められ、言論、表現の自由によって国民の暮らしからものの考え方まで大きく変わって行ったのである。

 これは特筆されるところで、このような制度の大変革が文化活動にも大きく関わって来たわけである。で、国土の疲弊と国民の困窮状況はあったものの、国民のたゆまない努力によって暮らしの安定な状況を生み、文化活動なども着実に広げられ活発になって行ったのである。この個人主義をともなってある言論、表現の自由が個別、個人的おのがじしの抒情歌たる短歌にとっていかに適合してあったかは言うまでもない。

 以上のような世の中の変革の中、以後における短歌は再び庶民、即ち、一般国民の間に浸透し、市民権を得て、現在に至っているのである。短歌の時代分けで、明治維新から太平洋戦争の終戦までを近代短歌とし、終戦から現在までを現代短歌と呼ぶならば、この個人主義的自由の時代である現代は、個別、個人的おのがじしの抒情歌たる短歌にとって実に住みよい環境にあることが言える。この特徴をして現代はあると言え、現代の短歌はまさに隆盛の時代にあるということが出来るのである。

 現代の歌人並びに短歌作品については夥しく見えるので、ここではそれを省略し、短歌の現状から次の項目について考察してみたいと思う。その一は短歌隆盛のこと。その二は口語短歌の登場。その三は短歌における芸術論についてである。写真はイメージで、緑。

 

 

 

 

 


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2014年03月30日 | 創作

<939> 短歌の歴史的考察 (14)     ~ <938>よりの続き ~

      短歌とは斯くあるものか 時過ぎて思ふ空なるひとひらの雲

 明治時代に入って市民権を得た短歌は、自我解放の経験によって、表現の幅を大きく広げ、大正、昭和へと向かうことになる。ここでは第二次世界大戦の太平洋戦争時までの短歌の動向に触れ、その時代との関わりについて見てみたいと思う。

 維新後の時代は、天皇中心の絶対主義国家を目指し、封建制度を廃して身分の平等を掲げた国民解放運動、西洋文明の導入による文明開化、富国強兵と殖産興業の振興、これにともなう海外への進出などが国の大きな方針としてあった。このような国力の発展を目指す中で、覇権主義の方針が採られ、日清、日露の戦争に打って出、これに勝利した。これが明治時代の末で、大正時代には第一次世界大戦に参戦し、海外への進出を一層強めることになった。

  大戦勝利の勢いが景気を下支えし、民意は上がり、護憲運動と絡んだ大正デモクラシーの時代を迎えた。反面、軍部の力が強まり、戦時の景気が後退して、大正七年(一九一八年)の米騒動をはじめとして、九年の世界恐慌、十二年の関東大震災と深刻な事態に直面し、こうした内外の事情によって、国政にまずい状況が生じて来た。

  昭和時代に入ってからも世界が恐慌に見舞われ、国際的な圧力が強まるなか、覇権主義は押し進められ、六年(一九三一年)に満州事変、十一年に日華事変が起き、その翌年、国家総動員法が公布され、十六年(一九四一年)ついに太平洋戦争に突入したのであった。

                                         

 明治維新の文明開化とともに市民権を得た短歌は、自我の解放によって従来の和歌として継がれて来た短歌を革新したが、その革新は五七五七七の短歌がもともと有する個別、個人的おのがじしの抒情歌としての特質に合致するものであったから、そこには、歌人のいろんな見方や考え方が表出され、バラエティーに富んだ作品が生まれたのであった。

  この一旦獲得した市民権は解放された自我とともに継がれて、次の時代の大正、昭和へと向かった。で、大正時代は世の中の景気のよさに始まったが、内外の諸事情によって景気は徐々に悪くなり、世界の趨勢に巻き込まれる形で第二次世界大戦の太平洋戦争に入って行くという最悪の状況に陥ることになるわけである。この世の中の動向により、短歌の世界も動いて行った。

  明治時代には短歌における三つの大きな流れがあったが、作歌における考え方の違いなどにより、分派が進み、多くの同人誌が出されるようになった。例えば、夕暮の『詩歌』、白秋の『地上巡礼』、哀果の『生活と芸術』、柴舟系の『水甕』、空穂の『国民文学』、太田水穂の『潮音』などが見られた。また、ヒューマニズムを掲げた同人誌『白樺』に属する歌人もあった。つまり、この時代は、結社による短歌界の姿が顕著に見られるようになり、この状況はなお発展しながら現在に至り、静かにも活発に展開しているのである。

  なかでも写生を基本にする作歌手法による『アララギ』の活動が根強くあり、赤彦、茂吉、憲吉のほか土屋文明、釈迢空、平福百穂らが活躍した。信綱の『心の花』には利玄のほか川田順、伊藤白蓮、九条武子らがいた。また、啄木の歌風を継いだ社会生活派には哀果があり、口語短歌の道を探るべく、新短歌協会を立ち上げ、『芸術と自由』を出した。ほかにも、歌壇外の歌人として会津八一の活躍があげられる。一方、白秋が派閥を越えて呼びかけて生まれた雑誌『日光』が見られたのも大正時代の短歌の面影である。

  昭和時代の前期は、前述したように、国家的状況に思わしくない出来事が続き、戦争への足音が聞こえる中、プロレタリア文学の活動が見られ、これによって『プロレタリア短歌集』が出された。だが、これは発売禁止になり、これにともなうように、国家権力による弾圧が厳しくなって行った。この時代に活躍したのが坪野哲久や渡辺順三らであるが、社会が国粋的に傾斜して行く中で市民権を得て来た短歌の活動も妖しくなって行ったことが言える。

  という次第で、当時は、これら思想性によって詠まれた短歌があった一方、伝統的な短歌も見られたが、短歌全般に緊迫の度を増して行く時局の影響を受ける形で、その作歌活動は衰微して行ったのであった。この状況に抵抗するかのように短歌総合雑誌の『短歌研究』と『日本短歌』が創刊されたのは一つのニュースであった。これは昭和七年(一九三二年)のことで、短歌ジャーナリズムのさきがけになったことが言える。

 戦時下になると、国権による文化活動への干渉が著しくなり、厳しさを増して、言論統制が行なわれ、これは短歌にも及んで、作歌はことごとく愛国歌や戦争讃歌といった言わば、国権に都合のよい歌が世の中に出るという短歌の偏った姿を見せるようになった。その一例が昭和十七年(一九四二年)に出された「愛国百人一首」であった。

 この愛国歌の状況は、短歌にとって忠君を掲げるところの封建時代と似たような状況が見られ、個別、個人的おのがじしの抒情歌たる短歌が国権に利用される形で用いられ、その短歌の特質が発揮出来ない思うにまかせない状況に陥ったのである。当時、戦争歌集は出されたが、「これは愛国的感動を中心とした戦意昂揚の歌であって、真の人間的な精神にささえられたものでないために文学としての永遠性をもたぬものである」と、検閲の制限を受けた当時の短歌は後世の厳しい評に曝されることになった。

 なお、これは戦時下に出されたものではないが、戦地で殉死した学徒兵が戦地あるいは戦地に赴くときに詠んだ歌や手記を集めた『きけわだつみのこえ』の短歌がある。これは封建時代の武士に始まった辞世の歌と死に直面した意識のなかで詠まれたという共通点が認められる。そこには公のみが認められ、私を滅していなければならない状況があった。そして、死に際するとき、やっと自分の私の思いというものが発し得たのである。これは何とも悲痛なものと言わざるを得ない。では、その『きけわだつみのこえ』の中から一首。これは「昭和十六年東大医学部卒業。十七年一月軍医となり、十九年十月一日ベリリウ島にて戦死。二十八歳。 出征前夜」という前書を有する歌である。

    あすいゆくわれのほころびをつくろわんとたらちねの母はあかりをつけぬ                                    榊原大三

 この歌は、死を覚悟して戦地に赴く前夜、母の姿に見入るその束の間のひとときを詠んだもので、思いはいかほどであったろうかと思われる。公の束縛の下にあってもの言えぬ男児が、戦地に向かう自らの死に際してやっと呟いたこの一首の真実は短歌の本領で、これこそ短歌の力というものであろうことが思われるのである。 写真はイメージで、壁。

 

 


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2014年03月29日 | 創作

<938> 短歌の歴史的考察  (13)    ~ <935>よりの続き ~

       人が世にあり世に人が歌ひける いつの時代においても見えて

 前述したように、世の中の体制が変わったからと言って、その変化が直ぐに文化的状況に現れるということはまずない。これは文化の一端にほかならない短歌の状況にも当てはめて言えることで、維新当初の時代人は文明開化を叫び、旧来を廃して新しい道を開く意志に燃えていたけれども、それを実践するには時が要った。で、近代短歌もそのような時を要した道筋を辿ったことがうかがえる。

 で、新派が登場して来る前、なお、因習的に固定されて来た歌道の雪月花、言い換えれば、花鳥風月の趣味を汲む素養としての和歌たる短歌は明治時代の半ばごろまで見られたのであった。明治二年(一八六九年)、宮中に御歌所の前身が設立され、歌会始めが行なわれるようになり、同七年からは国民一般の詠進を求め、同十二年に詠進歌の優秀作が披講されるようになって、この歌の催しは宮中の恒例行事として定着し、今に至っている次第である。

 この宮中和歌の御歌所派、または、宮内省派の流れを汲むのが桂園派と呼ばれる歌人たちであった。また、国学者などによる古典派も見られ、これに民間人も加わって、明治のごく初期の時代はあった。文明開花の声は発せられていたものの、なお、旧来の和歌によって短歌はあった。

                                     

 その後、明治十五年(一八八二年)、『新体詩抄』が刊行されるに及び、伝統的な旧来の詩形は否定されるところとなり、いよいよ西洋の影響を受けることになった。これが短歌に及んだことは当然と言えるところで、まず、明治二十四年(一八九一年)に落合直文が『新撰歌典』を編んで新しい短歌の道を示した。尾上柴舟、金子薫園といった歌人がその派にあって近代短歌の先駆けになった。

 だが、これらの短歌に飽き足らずあった与謝野鉄幹(寛)が東京新詩社を起こし、機関誌『明星』を創刊して短歌の革新に火をつけた。明治二十六年(一八九三年)のことで、旧派の歌を批判し、ますらおぶりの新風を標榜して、若い層に迎えられ、与謝野晶子、山川登美子、窪田空穂、平出修、茅野雅子といった面々が加わり、封建的因襲や旧道徳からの解放に挑み、恋愛の歌などに大胆な表現を用い、話題になった。晶子の歌集『みだれ髪』はその代表的な作品と言える。

 一方、この新詩社に対し、俳句の革新に当たっていた正岡子規が短歌にも言及し、明治三十一年(一八九八年)、「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に連載し、『古今和歌集』を退け、『万葉集』や実朝の『金槐和歌集』を称賛して、写生によるリアリズムの手法を短歌にも取り入れた。こうして子規は根岸短歌会を立ち上げ、機関誌『馬酔木』を創刊した。これに参加したのが、伊藤左千夫や長塚節、岡麓らであった。子規の死後、明治四十一年(一九〇八年)、左千夫は『アララギ』を創刊し、子規の遺志を継いだ。この派には「実相観入」による更なる短歌の近代化を目指した斎藤茂吉がいた。

  また、当時はこの鉄幹の主観的浪漫主義の新詩社と子規の客観的現実主義の根岸短歌会の対立的な短歌の流れに、佐佐木信綱の竹柏会があった。信綱は明治三十一年、『心の華』(のちの『心の花』)を創刊し、二つの対立する主張とは別に、新旧歌風の折衷する短歌の道を示し、短歌革新の一翼を担った。これには木下利玄らが参加した。

  『明星』の勢いは自我の解放を訴える中、晶子ら女流歌人の情熱的詠歌によって盛り上がり、奔放で浪漫的表現の自在に加え、吉井勇や石川啄木、更に北原白秋を迎えて歌壇の中心をなすほどになった。だが、現実離れした空想とそれによる頽廃享楽的歌風に陥るところとなり、社会的支持を失う結果になって、短歌は自然主義や写生を基本に置く『アララギ』などに傾斜してゆくことになった。このような流れの中、森鷗外の主催する観潮楼歌会が各派の歌人を集めて歌会を催し、対立する会派の融和を図って、新しい短歌の在り方に試みを示した。この鷗外の試みは近代短歌における一つの試行であったが、これは明治四十一年から四十二年のことである。

  このような成り行きで、『明星』の歌風に翳りが見え始め、登場したのが前述した現実生活やその人生を題材にした自然主義の短歌で、これに拠ったのが前田夕暮であり、若山牧水、土岐哀果(善麿)らであった。そして、近代短歌の一つの傾向となる社会主義的短歌の確立に多大な影響をもたらしたのが石川啄木で、当時の社会情勢を反映して、歌集の『一握の砂』と『悲しき玩具』は歌人のみならず、世間一般の注目を集めたのであった。これは明治時代末から大正時代はじめのことである。

  その後、『明星』の唯美主義的頽唐派であった勇や白秋らは明治時代の末、『明星』に代わる『スバル』を出し、象徴主義へと向かい、後期浪漫主義と呼ばれる派をなして作歌活動に当たった。また、『アララギ』は『万葉集』に傾斜した左千夫から島木赤彦や斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉らに引き継がれ、大正、昭和の時代へと短歌の道を継いで行った。特に、茂吉の処女歌集『赤光』(大正二年)は近代短歌の一つの到達点として高く評価されたのであった。

  このように見てみると、維新以後の明治時代における近代短歌の流れは、大きく三つの本流に分かれ、それに幾脈かの支流があって、豊かなデルタをなしたと言える。そのデルタにおける作品がどんなにバラエティーに富んでいたか、また、デルタを形成した歌人たちがどれほどであったかがそこには示されている。この流れとデルタの眺めは、やはり、短歌が庶民の域にまで浸透したこの時代の政治的体制によって現れた世相の反映と見てよいように思われる。

 別の言葉で言えば、短歌が市民権を得たということであり、自我の覚醒とともに明治という時代がいかなる時代であったかがわかる。短歌の歴史においてこの時代は画期的な時代であった。では、ここに各派の代表的な歌人の歌をあげてみよう。これらの歌には近代短歌の萌芽の勢いのようなものがうかがえる。 写真はイメージで、水面の輝き。

         緋縅(ひおどし)の鎧を着けて太刀佩きて見ばやとぞ思ふ山ざくら花                                            落合直文

   われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩(うた)の子恋の子あゝ悶えの子                                        与謝野寛

   くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る                                                    正岡子規

   大門のいしずゑ苔にうづもれて七堂伽藍ただ秋の風                                                                佐佐木信綱

   やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君                                                        与謝野晶子

   やるせなき春のワルツの舞すがた哀しくるほし君の踊れる                                                    北原白秋

   はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る                                      石川啄木

   のど赤き玄鳥(つばくらめ)二つ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり                                           斎藤茂吉

   幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく                                                      若山牧水

   向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ                                                      前田夕暮 

   曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径                                                   木下利玄

 


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2014年03月28日 | 祭り

<937> 薬師寺の花会式

     うららかに 善男善女 花会式

 三月二十八日の大和は、日中雲一つない快晴の天気になり、四月下旬から五月上旬並の暖かさになった。で、修二会の花会式が行なわれている奈良市西ノ京の薬師寺に出かけた。花会式の薬師悔過法要は三十一日の結願、鬼追い式まで行なわれる。このところの暖かな天気で一気に花を咲かせたのであろう、エドヒガン系の薄墨桜が満開だった。法要はこの日、中日を迎え、よい天気とあってうららかに行なわれた。

                                 

 思い返せば、薬師寺の花会式はこれで三年連続である。東大寺や法隆寺も散策するのにいいところであるが、薬師寺の境内も広々としていて気分の和むところである。一昨年は三月三十日から四月五日の間行なわれ、四月二日。昨年は今年と同じく三月二十五日から三十一日まで行なわれ、三十一日の最終日に出かけた。今年は三日早いということになる。

 今年はフラワーデザイナーの長渕悦子(旧姓志穂美悦子)さんによる「聖観世音菩薩に捧げる花展」が、東院堂で開かれているというので大宝蔵殿の北陸の古美術展とともに拝見した。花展は見馴れない花が多かったけれど、豪華に活けられた生花などによって荘厳された堂は、国宝の金銅仏である聖観世音菩薩立像の御姿とともにまことよい眺めであった。

                 

 その後、寺僧の法話を聞いて帰った。薬師寺では、法話を聞かないうちは帰れない。そんな気分で、訪れるといつも聞いているが、今日も半時ほど法話を拝聴して帰った。機知に富んだユーモアたっぷりの話に、久しぶりよく笑った。  写真上段は満開の薄墨桜と法要に向う練行衆の列。下段は献花に囲まれた聖観世音菩薩像の前で挨拶に立つ長渕さんと参拝者で混雑する東院堂。では、今一句。 花会式 仏に花の うららかな


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2014年03月27日 | 写詩・写歌・写俳

<936> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (66)

        [碑文]       うらうらに照れる春日にひばりあがり情(こころ)悲しもひとりしおもへば                               大伴家持

 この歌は『万葉集』巻十九の4292番に「二十五日、作る歌一首」の詞書をもって見える歌で、天平勝宝五年(七五三年)二月二十五日の作である。六年間に及んだ赴任地の越(富山県)より帰京し、少納言の任にあった三十二歳ころのもので、家持の代表作として知られる。この歌は巻十九の最後を飾る歌であるが、日付によって日記風に載せられ、私家集的趣のある中の一首である。二十三日の日付が見えるが、この歌の前に置かれている二首も有名な歌で、家持の作風がよく示されている万葉後期の歌であるのがわかる。

      春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鴬鳴くも                        (4290)                              

   わが屋戸のいささ群竹(むらたけ)吹く風の音のかそけきこの夕(ゆふべ)かも       (4291)

 これがその二首であるが、ここに言われる日付はすべて旧暦であるから現在で言えば三月に詠まれたことになる。家持はうららかな春日にヒバリが空高く揚がり、頻りに鳴くのを聞いた。なお、この歌群に続く巻二十のはじめの方にホトトギスを詠んだ歌があり、これも家持の歌であるが、これらの歌を見ていると、鳥に対する万葉人の捉え方に一つの特徴があるのに気づく。

   木(こ)の暗(くれ)の繁き尾の上(へ)を霍公鳥鳴きて越ゆなり今し来らしも         (4305)

 これが巻二十に見られる家持のホトトギスの歌で、ヒバリにしてもウグイスにしてもこのホトトギスにしてもみな鳴き声によって季節の到来を告げる鳥であるのがわかる。いわゆる、その鳴き声に季節を感じて歌にしているわけである。この碑文の4292番のひばりの歌は、うららかな春日の中、空高く揚がって盛んに鳴くヒバリをひとり見ている家持の心模様がよく伝わって来る。「悲し」というのはひとりに和している心境であろう。「ひとり」は一人か独りか。原文では「比登里」と万葉仮名表記になっている。空高く揚がって鳴く一羽のヒバリに通う「ひとり」の心持ちは麗らかな春日のゆえにかえって深くなる。

                                                                       

 三月中旬のよく晴れた暖かな日、ヒバリの写真を撮るために奈良市の平城宮跡に出かけたら、広々とした大空のそこここにヒバリが高く揚がって鳴いているのが見られた。見られたとは言うもののよほど目を凝らして見ないとわからないほど小さく、「声はすれども」といった具合で、写真撮影には難儀したことではあった。

  で、ヒバリの撮影に当たりながら、家持もこれと同じヒバリの声を聞いて心を動かされたのだと思えて来た。そして、ヒバリもその鳴き声に心を通わせた人間も生き継いで今にあり、今もその昔と同じようにその鳴き声を聞いているのだということが思われた。

 家持の私邸は平城宮とは目と鼻の先の佐保にあったから、平城宮跡の空高くに揚がって鳴いているヒバリは家持が聞いたヒバリの子孫かも知れない。そんなことは千分の一もなかろうとは思われるが、その昔から生き継いで来たことに間違いはないところで、そんなことにも思いが行った。

  ヒバリはスズメ目ヒバリ科の里の鳥で、田畑や草原でよく見かける。繁殖期の春になると雄が縄張りを主張して、よく空高く舞い揚がり、声高に鳴くので、これを揚げひばりと呼ぶ。このヒバリの姿を家持の4292番の歌は詠んでいるわけである。ヒバリの名は一説に、晴の日に空高くで鳴くので「日晴」から来ていると言われる。漢字の雲雀も空高くに揚がる習性によって生まれたものだろう。

 ところで、万葉歌碑を訪ね歩いていると、『万葉集』のお膝元である大和に家持の歌碑が少ないことに気づく。家持の歌は集中に四百七十三首、全体の一割を超える歌数に上る。にもかかわらず、歌碑になっているものがほんのわずかで、不思議なほどである。柿本人麻呂の歌碑と見比べてみると、その差の大きいことがうかがえる。

 これにはいくつかの理由があるだろう。その最大の理由は越中や因幡など地方への赴任期間が多く、長かったこと。特に越(富山県)赴任時の六年間に二百二十三首に及ぶ歌を作るなど、大和以外での作が多く、その中によく知られる歌が見られることがあげられる。また、人麻呂など万葉前期の歌人に比べ、家持の歌には地名を特定出来る歌が少ない点もあげられる。言わば、これは『万葉集』における時代的特徴の現われを示すものと言ってよかろう。

 この4292番のヒバリを詠んだ歌碑は、奈良市春日野町の氷室神社正面石段横に建てられている。平成十四年、奈良市に万葉歌碑を建てる会が建てたもので、碑としては新しい部類に入る。なお、歌碑の直ぐ傍にはよく知られるシダレザクラの古木があり、奈良では一番早くに花を見せるサクラで、ちょうど今が見ごろである。 写真は左から家持のヒバリを詠んだ歌碑(氷室神社境内で)。青空の中でさえずるヒバリ(平城宮跡で)。満開に近い氷室神社のシダレザクラ。    雲雀あがる 平城宮跡 縄張りに