大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月31日 | 祭り

<576> 薬師寺の花会式

        花会式 稚児が主役の 日なりけり

  速いもので、三月も今日限りである。大和は午前中雷を伴う激しい雨が降ったが、午後には止んで、薬師寺(奈良市)の花会式に出かけた。弁当と野点の濃い茶をいただき、練行衆の入堂と稚児行列を拝見した後、山田法胤大導師の法話を聞いた。

                                          

 花会式は修二会の薬師悔過法要のことで、練行衆の籠りの行法が連日行なわれ、四月五日の結願法要の鬼追い式をもって終わりとなる。悔過とは過去の過ちを悔い改めることで、誰もが知らず知らずに犯している罪過をこの薬師の法要において悔い改め、すべての人の幸せに繋げるという仏法の恒例の行事である。

 金堂の本尊薬師如来や脇侍の日光、月光の両菩薩には梅、桃、桜、山吹、椿、牡丹、藤、杜若、百合、菊の十種の造花が献花され、堂内は一段と華やいで見えた。参拝者の合掌に迎えられて練行衆が入堂した後、拍手で稚児たちが迎えられると会場は明るい雰囲気に包まれた。

                                               

 その後、大導師の法話を兼ねた挨拶があり、これを聞いて薬師寺を後にした。法話で印象に残ったのは、教育のあり方を一考し、世の中を立て直すようにすることが必要であるというような話があったことである。今の世の中は世代がばらばらで絆に乏しく、これを改めて行かなくてはならないというような言葉だった。

 経済の立て直しもさることながら教育に力を注ぐことが肝心であるというような話に同感を覚えた次第である。思うに、いくら経済をよくしても、今のようなばらばらになった世代間の人間関係のままでは、社会は決してよい方向には進まない気がする。世代間の絆を取り戻し、まとまりを得た社会にするには、やはり、教育が欠くべからざるところで、子供に対するに止まらず、大人にも必要なことが言えると思う。ときに、このような法話を聞くのも意義あることだと思いながら拝聴した次第である。

 

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月30日 | 写詩・写歌・写俳

<575> 大和郡山お城まつりの桜

       あなたにも あなたにも頭上 桜花

 第五十三回大和郡山お城まつりが二十九日から始まり、天気に恵まれた三十日、満開になった桜を見に出かけた。城址の各所を巡り、写真に納めたので、今日はその写真の披露。大和の平野部はどこも満開ではなかろうか。明日は天気が崩れるとの予報が出ているので、今日が最高の人出になったのではないだろうか。お城の一帯も多くの人出でにぎわった。お城まつりは四月十二日まで。   

     これ以上咲いてはならぬ桜花 明日は無情の雨と聞くなり

                                                 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月29日 | 創作

<574> 掌 編 「花に纏わる十二の手紙」 (10)  桜 (さくら)         <573>よりの続き~

          西行の 桜が今年も 咲くころと なりにけるかも 寝釈迦を思ふ

 神さま、この世においては、例えば、生まれながらにして身体不自由を強いられる者がいるかと思えば、何不自由もない裕福な家に生れ、何不自由なく過ごせる者もいる。こういう光景を目にしたりすると、あなたに対し、不公平と理不尽を訴えたくなるが、俺たちにはきっとあなたの真意が見えないだけで、わからないまま、ときには狂喜したり、慟哭したり、憤怒を覚えたりする。そして、俺たちは概ねそうした光景に感情を高ぶらせながらも妥協しながら生きているような気がする。

  で、神さま、俺たちはあの世とかこの世とか、地獄とか極楽とか、因果応報とか輪廻転生とか、そういうことを考えついて、あなたの創造してあるこの世を理解し、納得しようとして来た。そこで、「罪なことをすれば、地獄行きで、この世で裁かれずば、あの世で裁かれる」というような言い方などもなされることになる。これはこの世の生き方に関わることで、俺たちにこのような考えを持たせること自体がもしかして偉大なあなたの意志かも知れない。そう思えたりもする。

 神さま、つまり、この世はわからないことだらけで、わからないことには疑念が生じ、それには思いが絡んで来るから、この世は思いの坩堝にあると言わざるを得ない。だが、思いをもって臨んでも、なお思いが晴れなければ、思いは更に募り、果ては悩みを生むことになる。その悩みの深いものを苦悩と呼ぶが、俺たち生きとし生けるものにとってこの苦悩は必然のものかも知れない。俺たちの苦悩は、つまり、俺たちに及ぶことの出来ない神さま、あなたの力に起因しているものであって、疑念へ真摯に向き合う者ほどこの苦悩の深さを探るに至ることになると言え、苦悩を深めることは、つまり、より神さまあなたに近づくことが出来ることになるのではないかと思えたりもする。

  神さま、このように考えてみると、生きとし生ける俺たちはみな切なくも哀れな存在だと言えるのではないか。貧富や身分の上下など個々にその差はあっても、みな切なさと哀れを抱いて生きている同じ位相にあるもの同士である。その同じ位相の切なくも哀れな者たるゆえに愛おしさとか思いやりとか、そういうような気持ちが俺たちには互いに生まれて来る。切なくも哀れなこの俺たちにとって、この愛おしさとか思いやりといった気持ち、愛の姿はかけがえのないものではないか。俺はこの齢になってそう思うようになった。

 神さま、しかし、最初に言ったとおり、どんなに言っても、この世ではみな時の過ぎ行く間にあって、一様にいつかは死を迎え、死に順じなければならない。そして、これのみが俺たちにははっきりと言える神さまあなたの示す道であると思う。つまり、俺たちにとってこの道のみが唯一はっきりしていることだと言える。この世の風景は神さまあなたの創造するところを俺たちが受け入れている風景にほかならない。理不尽に見えることも、それは俺たちの能力において感じる理不尽に過ぎないのではないか。この世には、あまりにも過酷に思えることもあるけれど、神さま、あなたからすれば、それは生きとし生けるすべてのものの上にあるもので、過酷も何もみな死に及んで得心に至る。これは、除外例のない誰もがみな行き着く同じ道であり、神さまのさ庭の公平な風景の中の一景である。俺はこの歳になってこのことをよく思うようになった。

  神さま、つまり、この世の風景はあなたの風景であり、俺たちが生きるということは、あなたの風景の中に位置するということにほかならない。言わば、これはあなたのまにまにあるということであり、そのまにまにあって、あなたに信を寄せて過すことの出来る幸せとありがたさを俺はこの齢をもって思う次第である。 

                                                             

      ねがはくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ                                                    西 行

  神さま、西行はこのように詠んだ。これは、釈迦にあこがれ、あなたに祈りを込めて詠んだものにほかならない。西行の思いは、美しい風景のもとで死にたいというもの。西行にとって、美しい風景とは自然そのものであり、桜花はまさに自然の中で最も美しいものであった。所謂、死ぬときということは生きる最後を意味する。つまり、西行はもっとも美しい自然の風景のもとで最後を生きたかった。つまり、西行はもっとも美しい風景に抱かれながら死を迎える幸せを願ったのだと思う。

  西行はこの歌のとおり、陰暦二月十六日に亡くなり、願いを叶えた。神さま、あなたを諾いながら、あなたが創造した最高に美しい(少なくとも、西行はそう思っていた)桜花のもとで西行は逝った。そんな西行を思いながら、「咲くもよし、散るもまたよし」という春の日中の桜花が神さま、あなたのまにまに咲くことを、俺は今思っている。終わりに近づきつつある俺の人生に重ねて。

  この手紙は、神埼真一という老爺が自分の一生をかえりみながら、信を抱いている己の神に対して読み上げた呟きの一部である。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月28日 | 創作

<573> 掌 編 「花に纏わる十二の手紙」 (10) 桜 (さくら)

             咲くもよし 散るもまたよし 桜花 神のまにまに ありけるところ

 神さま、俺も七十九歳になる。この歳になると、あと何年かと思う。平均寿命の八十歳からすれば、俺もあと僅かである。平均がそれだから、俺と同じ歳で既にあの世に行ってしまった者も少なくない。俺はまだ元気だし、死ぬ時期がわかっているわけではないからそんなに深刻に考えたりしないが、体力の衰えは確かである。あと十年はわからない。それで、最近よく思う。生きとし生けるものはみな同じだということを。

 男も女も、金持ちも貧乏人も、頭のいい奴も悪い奴も、善人も悪人も、職業はもちろん、地位などに関係なく、みな一様に老いぼれて死んで行く。過去にいかなる栄光があっても、いかなる恥辱があっても、それらすべてを飲み込んで、時は流れ、時は止まるところを知らず、生きとし生けるものを滅びに向かわせる。俺たちにはその道しかない。それを思うと、みな同じだという気がする。

                                                     

 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と『信長公記』で織田信長は言っている。神さま、この世をこんな風に達観した信長の言葉を思い浮かべてみると、俺たちには、この世をやっと夢、幻と言って納得するくらいにしか能力のないことがわかる。いがみあっても、見栄を張りあっても、あくせくしても、どんなに生きても、みんな一様に齢を重ねて死んで行く。多少長生きをしても、この道理を拒むことは出来ない。これこそ人智の及ばない天道を司る創造主たる神さま、あなたの智慧の様相だ。

  旧弊の上につくり上げられた人間の奢りを打ち倒さんとした信長の大胆な行動はこの短い言葉によく見える。叡山焼き討ち。俺はこれを信長の無神論に結び付けるのは間違っていると思う。天下を奪った後に企図実行した楽市楽座のような施策を思うとき、神さま、あなたに対する信長の自信のようなものが見える。もちろん、過信だったのだが、それが見える。神さま、人間があなたの鞭を持つことは許されないが、信長の自信はこの短い言葉の内にある思想をして、あなたの鞭を携え、そして、振るったのだと俺は思う。信長のこの狂気にも見える振る舞いに後世の評価が相半するのはそのためではなかろうか。

 で、神さま、あなたの設えたこの世という世界を考えてみるに、俺たちにはわからないことばかりであるということが出来る。今になって、俺は気づいた。自分が何一つわかっていない存在だということが。そして、今までわからないままに妥協し、或るは有耶無耶に生きて来たような気がする。俺に接し、この身を過ぎて行った美しさとか醜さとか、喜びとか悲しみとか怒りとか、それらは一体何であったのか。わかっているようで、わかっていないことが言える。

  わからなければ、当然のこと、そこには疑念が生じ、疑念には想像が働き、思いを巡らせるということが必要になって来る。俺は母親の乳房より離れてこの方、今に至るまで思いを巡らせることなくやって来たことはない。それはわからないことばかりの中で過して来たからである。年を重ねるに従って思いを巡らせることはますます増えている。だから、この世というのは思いを巡らせるためにあると言ってもよいくらいだ。

  神さま、では、わからないということはどういうことなのだろう。それは自分の能力が及ばないことを意味すると俺は思っている。わからないと言えば、自分がこの世に生れ来たったこと自体すでにわからないことだ。これについては、先人もいろいろと智慧を働かせ考えた。あの世の続きがこの世であるとか、この世の続きがあの世にあるとか。死ねば何かに生まれ変わって、また、この世に現出するとか。地獄、極楽、輪廻転生等々、考えに考え、これらのことも考えついたということである。

  しかし、これを裏返せば、この世が俺たち生きとし生けるものにはわからない世界だということではないか。わからなければ、不安になる。不安と言えば、神さまあなたのことが一番に思われる。すべてを統べるあなたに逆らって生きていないかという不安。それで、俺たちは逆らった報いとしての地獄を思ったりする。今の安心が身後の安心につながることはわかるが、わからないことばかりの中では、俺たちは安心を求める道の険しさを思うほかない。

  神さま、あなたが創り出したすべてのものに対し、それを否定するようなことをあなたが好むはずはなく、あなたの好まないことを俺たちがすれば、あなたは俺たちに罰の鞭を振るうだろう。それをあなたが創り出したすべてのものの平等性において考えれば、俺が俺以外のものに対する対処のあり方、例えば、他人を傷つけたりすることの良し悪し。どんなに過酷なことでも、それがあなたの意に沿うものならばそれを受け入れるべきこと等々、そんなことを、わからない不安の中で俺たちは思い巡らせている。例えば、因果応報のこと。これは、神さま、あなたを意識してある身後の安心に繋げるべくある教訓ではないか。   ~ 次回に続く ~

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年03月27日 | 写詩・写歌・写俳

<572> 大和の歌碑・句碑・詩碑 (6)

     [碑文1]    むらさきは灰さすものそつば市のやそのちまたに逢へる子や誰                                    詠人未詳                        [碑文2]      たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道ゆく人を誰と知りてか                                        詠人未詳

 この碑文1、2の二首は『万葉集』巻十二の問答歌の項に並んで見える碑文1が3101番、碑文2が3102番の男女の歌で、原文では3101番の男の歌が「紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十街尒 相兒哉誰」とあり、これに対する3102番の女の歌が「足千根乃 母之召名乎 雖白 路行人乎 孰跡知而可」とある。この問答歌は、遣隋使に続く遣唐使が行き来していた飛鳥時代、海石榴市(つばいち)と呼ばれる交易市のにぎわう辻などで行なわれていた老若男女が集う歌垣において詠まれたものと言われる。所謂、若い男女の出会いの歌で、現代風に言えば、軟派的な様相がうかがえる歌である。当時はこの歌垣で仲よくなった男女もいたのではなかろうか。 下の写真は海石榴市における中国との交易の絵。(桜井市の金屋河川敷公園で)。

             

 この二首が並べられた歌碑が春日大社の萬葉植物園に建てられている。建立は昭和十五年で、晩年の島崎藤村の揮毫による。金属板に彫り込んだものを自然石にはめ込んだ碑である。3101番の男の歌の方は、私の知る限り、今一つ、海石榴市があったとされる桜井市金屋の山の辺の道の傍ら、海石(柘)榴市観音堂に向かう道の角のところに作家今東光の筆による石碑がある。

 これは、萬葉植物園の方が染料植物である紫草(むらさき)に因むのに対し、金屋の方は歌の詠まれた海石榴市の歌垣の場所に由来するものである。なお、海石榴市の海石榴はツバキのことで、日本のツバキ(多分ヤブツバキであろう)が中国に渡り、中国では海外から渡来したものに「海」の字を当てる習わしがあり、ツバキの花がザクロ(石榴、柘榴)に似ていたため、海を渡って来たザクロという意によって海石榴(海柘榴)と名づけられたと言われる。 下の写真は左二枚が春日大社萬葉植物園の歌碑。その右は今東光筆の歌碑。右端は花を咲かせる紫草(むらさき)。萬葉植物園が誇る万葉植物の一つである。

                                     

  この名が逆輸入されて、日本に入り、記紀や『万葉集』、『出雲風土記』などの古文献にも用いられた次第である。ツバキは霊木と見られていたので、交易市ではツバキを植え、これをシンボルとしたため、よって海石榴市と呼ばれるに至ったのではないかと言われる。なお、椿という字は中国にもあったが、別の木の名称で、我が国ではこれに関係なく、ツバキのために作られた国訓の字で、広義には国字であるとの見方もある。

 金屋の東光筆の方は「灰」と「仄」が似ることによって「灰」を「仄」(ほの)として、「紫はほのさすものぞ海石榴市の八十のちまたに逢へる子や誰」と綴られている。これはどういうことなのであろうか。どちらでも意味は通るが、歌の内容としてはかなりニュアンスの違ったものになる。

  この歌の「灰指す」は、紫草(むらさき)を染めつけにするとき、ツバキの灰を媒染剤に用いることを言うもので、このツバキの灰が紫草染めには一番よいとされていたことがこの歌の見どころで、「灰」は何ものにも代え難い男の比喩としてあり、これを「仄」にした場合、「灰」の比喩が効かなくなることが言える。これについて、今東光は「書写の誤り」と言っているようであるが、ここは、「灰」が「仄」を含むことをもって鑑賞する一つの見方として歌碑を楽しむのもよいかと、そのようにも思えて来るところがある。

 ちょっと強引かも知れないが、例えば、三好達治の「郷愁」という散文詩に見られる「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる」というような例に沿ってこの「仄」を解釈するのもおもしろかろうと言えるわけである。そう見れば、この東光筆の歌碑も一つの見解として受け止められる。もちろん、「灰」の解釈を心得た上での話ではあるが。

  つまり、この「灰」は男の比喩で、詠人自身を言い、紫草(むらさき)の「紫」は女を言っていると知れる。つまり、男の歌は「紫が灰によって染め上げられるように、女は男次第であり、ツバキの灰が一番であるよ。ここにその私という一番の男がいる」と自信たっぷりに、「この自分に今日逢えるのはどこの娘であろう」と言っている。これに対し、女(娘)の方は「母がいつも私を呼ぶ名を申してもよいけれど、そういうあなたはどこのどなたでしょう」と、名も名乗らないような男に私は靡きはしませんよと返しているのである。東光の筆は「灰」の中に「仄」があるように、男にやさしさが内在していることをこの歌の鑑賞に入れる意味において言えば、おもしろかろうと思われる。

 なお、昨今のツバキは、日本産のツバキと中国産のツバキが西洋に渡り、西洋でつくられた園芸種が多数逆輸入され、七千種を越えるほど膨大な数に及び、セイヨウアジサイと同じく、海石榴(海柘榴)の展開が著しい状況になっていると言われる。ツバキの写真は大和郡山市池之内町の椿寿庵での撮影による。  それぞれに 容姿を競ふ 椿かな