大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年11月30日 | 万葉の花

<455> 万葉の花 (58) かへるで (加敝流弖、蝦手)=カエデ (楓)

       紅葉照る 幸福論を 聞きにけり

    吾が屋戸にもみつかへるで見るごとに妹を懸けつつ戀ひぬ日はなし                                   巻 八 (1623)  田村 大嬢

   児持山若かへるでのもみつまで寝もと吾は思(も)ふ汝は何(あど)か思ふ                           巻十四 (3494) 詠人未詳

 かへるではカエデの古名で、カエデ類の葉の形がカエルの広げた手に似るからで、『万葉集』にはこの1623番と3494番の二首に登場する。概ね温帯地域に属する我が国は春夏秋冬が際立つ四季の国で、この地域の特徴として落葉樹が多く見られることである。この落葉樹は四季によってその姿を異にする特色があり、春には芽を出し、夏には枝葉を茂らせ、秋には紅葉(黄葉)して、冬には葉を落として裸木の姿になる。

 落葉樹はこの四季の巡りの過程において、ほぼすべてが葉を落とす前に色づきを見せ、紅葉(黄葉)状態に至り、秋から冬の初めにそれが集中する。この紅葉(黄葉)を万葉時代には「もみち」とか「もみつ」と呼んで、その美しさを称揚し、多くの歌にも残しているが、この紅葉(黄葉)する落葉樹の中でも、とびきりの美しさを発揮し、目を引くのがカエデの類で、このかへるでの登場する二首はそれを物語るものと言ってよい。

 かへるでが登場する二首について見れば、紅葉(黄葉)する景色の中で、一際鮮やかな色彩のかへるで、即ち、カエデに注目しているのがわかる。1623番の大孃の歌には「吾が屋戸に」とあるので、自分の家の庭か傍に位置して存在するかへるでであり、植えらたものである可能性が強く、その美しさによって庭にも植えられたことが言えるように思われる。

 一方、3494番の歌は「児持山」とあり、この歌が東歌であることから、群馬県の子持山(利根川を挟んで赤城山と対峙する山)とする説が強く、この山の若いかへるでの勢いのある鮮やかさが想像されるところで、やはり、紅葉(黄葉)の中で、かへるでが注目され、それに目をやって恋歌を仕上げているのがわかる。言わば、カエデのかへるでは、昔から紅葉(黄葉)中の代表的な樹種として認識されていたことが言える。

                           

 カエデはカエデ科カエデ属の総称で、一般にはカエデと言ったり、モミジと言ったりするが、植物学上の区別はなく、全てカエデに属する。ただ、葉の切れ込みによって園芸の世界では区別がなされ、葉の切れ込みが深いイロハモミジ(タカオモミジ・イロハカエデ)、ヤマモミジ、オオモミジ(ヒロハモミジ)などをモミジの呼称で呼び、葉の切れ込みが浅いハウチワカエデ、ウリカエデ、ウリハダカエデなどをカエデと呼んでいるようである。

 カエデは一般に楓の字が用いられるが、これはマンサク科のフウのことで、中国に自生し、日本には自生しない。カエデの漢名は槭(しゅく・せき)が正しいと言われる。カエデの類は北半球の温帯から暖帯に約二百種が分布し、その中の二十種ほどが我が国に自生している。大和にカエデの類は多く、判別は葉の形や花、樹皮などの違いによる。もちろん、園芸種を含めればもっと多くなることはほかの園芸植物と同様である。

 大和には近場でイロハモミジ、オオモミジ、ウリカエデ、ウリハダカエデ、イタヤカエデ、エンコウカエデなど、標高一〇〇〇メートル以上の山岳にはハウチワカエデ、コハウチワカエデ、オオイタヤメイゲツ、コミネカエデ、ナンゴクミネカエデ、チドリノキ、アサノハカエデなどが見られる。

                                                                       

   果たして、『万葉集』に詠まれたかへるでのカエデはどのようなカエデだったのか。山岳に分布するものを除けば、イロハモミジかオオモミジかヤマモミジか、それともウリカエデの類かと想像される。因みに、カエデ類の花は地味で、目立たないものが多く、当然のごとく、歌にも登場していない。  写真は上段左からイロハモミジ、オオモミジの紅葉、ウリカエデの黄葉。花は下段左が雌雄同株のイロハモミジ。右が雌雄別株のウリカエデの雄花。いずれも低山や里の近く、公園などで見かけられる。花はともに春。

 

 


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2012年11月29日 | 写詩・写歌・写俳

<454> 続・青空に思う

  どんな人生も 過酷に出来ている 競い合いつつ 消耗し 老いに向い 悩みを生じ 誰もが みんな そうして 生きている そうだ そうなのだ 確かに 過酷は 避けられない けれども ここには 幸せの 歓びもある 小さくても 構わない 人生は 過酷だから その幸せは ほんの ちょっぴりでも 大いに 歓迎される 青い 青い 青空の下で

 <452>に続いて、「青空に思う」を今少し。 晴れ渡った青空を見ていると、加えて思われることがある。青空に奥行を思う心には、吉川英治の『宮本武蔵』の「波騒は世の常である。 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを」というラストの文章に重なって来るところがある。そこには一つの超越された真理に近いものが見て取れる。

 私たちの限られた目と波騒に歌い躍る雑魚の群に対し、青空には奥行があり、百尺下の水には深さがある。ここには生を地上に営む者への存在論的考証における比喩的メッセージがあり、思われるのは奥行を感じさせ、深さを言わしめる深遠の精神である。ところで、その奥行が奥行として思われ、水の深さが深さとしてあるには、そこに対比出来るものが何かあれば、より一層それを認識することが出来る。

 写真を見ていただければわかると思うが、左の写真には青空に比較出来る紅葉した木々が写っている。これに対し、右の写真には青空しか写っていない。どちらに奥行を感じることが出来るか。それは対比するものがある方、つまり、紅葉が写り込んでいる写真の方であろう。これは紅葉する木々の一端が比較に役立っているということである。鳥の群でも写っていれば、『宮本武蔵』のラストの文章とその説明によりぴったりだったかも知れないが、残念ながらそういう写真は撮り得ていない。

                                           

 しかし、ここにおいて、今一つ重要なことは、意識すること或いは感じるという心の在り処というものがそこには欠かせないということである。そして、意識し感じることだけで終わるのではなく、なお思うことが必要であるということである。そこには、私たちが私たち主体をその奥行、或いはその深さから客体視して思う想像力が働かねばならないということである。これについてはベルトラン・ヴェルジュリの『幸福の小さな哲学』(原章二・岡本健訳)の一文が参考になる。ヴェルジュリは「歓びについて」の中で、次のように言う。

「人間の条件から出発するかぎり、善は理解できない。人間の主観性がすべてを相対化するとき、どうして善を定義できようか。ある人にとって善であることも、別のある人にとっては悪かもしれない。 しかし、存在論的な地平に立てば話は変ってくる。そこでは善は、神と人間との関係において、完全な調和が実現されている状態として定義される。」

 つまり、真の善たる真理の側からものごとを見る目がことに当たっては必要であるということを言っている。これは宇宙飛行士が地球を離れて地球を見たときに感じたことに似る。人間同士、或いは、国同士が憎み合って喧嘩をしたり戦火を交えたりするなどということが全く愚かなことに思えて来る(飛行士の証言)ことが言われているが、これは自らを客体視して神と人間の調和において見出される思いにおける善というものに重なるところがある。

 我が国における最近の外交は、尖閣諸島の問題一つを見ても、敵対的様相を先鋭化して展開するやり方に向い、政治の右傾化が進みつつあるように思われるが、こういう問題にも、この宇宙飛行士的なものの考え方が私たちの知恵として必要に思われて来るのである。親和なく敵対するところに開かれて行く道は決してない。何故ならば、そこには相手があり、相手も必ず敵対して臨んで来るからである。ヴェルジュリが言う「存在論的な地平に立て」その関係を見るならば、敵対関係においては一方が善であれば、一方はそれを悪と見なす。その逆も当然のこと起こり得るから、そこには緊張関係のみが高まり、何一つ開かれる思考というものはなされず、良好な関係はもたらされないということになる。

 この状況を喜ぶのは、そういう局面を弄ぶ政治家であり、国家間で言えば、その両国の敵対関係で何らかの利益を得る国乃至は企業、或いは人物ということになる。善というのは私たちの都合によってあるものではなく、神(自然)の下に定義されてあるものであるということである。互いというものは、人間にしても、国家にしても、何故、子供のように無邪気に楽しく親和して行けないのだろうか。子供だっていじめなどがあるではないかという声が聞かれそうであるが。子供にいじめが展開されている状況は子供の中で大人の世界が反映しているのである。青空は何処までも青く、誰が何と言おうとも青い。みんなこの奥行のある青空の下に生を得ているのである。このことに少しでも意識が至れば、多少は穏やかな気持ちになれ、自他の関係にも作用する。

 


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2012年11月28日 | 写詩・写歌・写俳

<453> 霜 の 朝

        霜の朝 子らの声して 通りけり

 午前六時半、妻が窓の外を見て、「霜が降りてる」と言うので見てみると、隣の屋根が一面真っ白になっていた。今冬初めての大霜である。早速、カメラを取り出して霜を撮りに出かけた。今日の大和は朝方日本晴れの晴天で、放射冷却によるものか、冷え込んだ。そろそろ本格的な冬の到来である。霜はさきがけ、次は木枯ということになるのだろう。師走はもうそこ。

                                                                

 霜の写真を撮っていると、子供たちが頬を真っ赤にして登校するのが見えた。昔と変わらない光景である。登校する子供たちを見ていると、遥かに遠い昔のことであるが、竹馬の友が思い出された。    霜の朝 けんちゃんたっちゃん 少年期


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2012年11月27日 | 写詩・写歌・写俳

<452> 青 空 に 思 う

           見しことを真実(まこと)と思ひ詠みなすが青空の奥の奥の奥行

 私たちは私たちの見聞をもって真実と見なす向きがある。しかし、南方熊楠も言っているように、見聞には等差があり、一の見聞は二の見聞に劣り、二の見聞は三の見聞に及ばないということがある。言わば、一の見聞は二の見聞に、二の見聞は三の見聞に、一の見聞だけ確率において真実に遠いということになる。これは見聞がイコール真実でないことを言っていることでもある。よく言われる言葉に「百聞は一見に如かず」という諺がある。この諺は聞くことが見ることに及ばないということを言っているもので、現場に立つか立たないかの違いをいうものであるが、見るということも完璧でないことを暗には言っていると知れる。

  例えば、鈴木牧之の『北越雪譜』は述べている。「凡(おおよそ)物を視るに眼力の限りありて其外を視るべからず」と。肉眼をもって雪を見れば、一片の鵞毛のごとくにしか見えないが、これを、顕微鏡を借りて見れば、鵞毛は多数の雪花を寄せ合わせて出来たものであることがわかるという。これは、つまり、肉眼の限界を言うものにほかならず、見るということが完璧でないことを物語るものである。この例で言えば、私たちの日々は概ね間違ってはいないにしても、真実という意味においては随分とその観察は雑で、過誤に塗れているということも言えるわけである。

                         

 然るに、私たちの営む世界でもっとややこしいのは、「鵜を鷺」というように、黒を白と言い張る思惑が随所に働いてその現象が見え隠れしているということである。これは、自他の関係において己の思惑を反映させようとすることによるものであるが、その底意を見抜くことが出来ないというところがあるわけである。また、詭弁を弄するというようなとき、その詭弁に惑わされることが往々にしてある。ほかにも、ご都合主義というようなこともある。都合による思惑が見抜けなくて、言葉を発する側の都合に乗せられるということも往々にしてある。

  果して衆議院の選挙であるが、政治の世界は一種の権力闘争で、これを争うところにおいては、「鵜を鷺」と言って除けることもあれば、詭弁を弄することもあるし、ご都合主義も罷り通る。民主主義の制度下では、その争いの最たるところとして選挙があると言ってよいが、どの政党、どの候補者の言っている言葉が真実に近いか、有権者は吟味しなければならない。しかし、政治家の言葉は巧みで、聞く方はその言葉に乗せられ、惑わされ、誤った選択をする場合も往々にしてある。ここでいう「誤り」とは自分の思いと違った方向に政治を動かすというところにある。そこで有権者の私たちは、このとき、はたと真実が見抜けなかったということに対して、見えて見えざる真実というものが如何に把握し難いかということをつくずくと思わせられるのである。

  そのときには、見聞をもって間違いのない真実と見なし、歌などにも詠むのであるが、「当たらずとも遠からじ」と言いながら、もの足りないところが気にかかったりするわけで、もっと酷い場合などには、裏切られたなどという言葉も飛び出して来る次第である。ということで、「青空の奥の奥の奥行」という下句の発見に至ったという次第である。要するに、青空には奥があり、見れば見るほど奥が深く、その奥行において考察し、作歌もしなければならないという気持ちが湧いて来るということである。能力に欠けるものとしては、この奥行への思いがより真実に近づき、よりよい歌をなすことが出来、よりよい道を未来へ開くことになると思われるのである。


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2012年11月26日 | 万葉の花

<451> 万葉の花 (57)  さはあららぎ (澤蘭)=サワヒヨドリ (沢鵯)

     草もみぢ 人恋しさに 出で立てば

   この里は継ぎて霜や置く夏の野に吾が見し草はもみちたりけり                  巻十九 (4268)  孝謙天皇

 この歌にさはあららぎ(澤蘭)の名は出て来ないが、題詞に「天皇と太后と共に大納言藤原の家に幸(いでま)す日に、黄葉(もみち)せる澤蘭(さはあららぎ)一株を抜き取りて、内侍佐佐貴山君に持たしめ、大納言藤原卿と陪従(へいじゅ)の大夫等とに遣賜ふ御歌一首」とあり、この歌を命婦に読み上げさせたとあるから、歌の中の「見し草」がさはあららぎ(澤蘭)であることがわかる。ほかには登場を見ないので、さはあららぎ(澤蘭)は集中にこの一首のみ登場を見る植物となる。

 これは、梧桐(ごとう)の三首(巻五 810 番の琴娘子、 811 番の大伴旅人、812番の 藤原房前)と同様で、歌にその名は登場しないものの、題詞によって明らかにそれとわかる例である。天皇は聖武天皇を継いだ第四十六代孝謙女帝で、太后は母の光明皇后ということになる。親密であった藤原仲麻呂の邸を訪れたとき、さはあららぎ(澤蘭)一株を抜き取ってこれを題に歌を披露したもので、挨拶歌と言ってよい歌である。

 澤蘭については、『倭名類聚鈔』(938年)に「澤蘭 和名佐波阿良々木一云阿加末久佐」とあり、沢の傍に生える蘭(あららぎ)と言っている。「阿加末久佐」は赤味草という意で、茎が赤味を帯びてよく目につくからであろう。「蘭」は一般にラン科植物に当てられる字であるが、古代中国では香りのよいフジバカマに当てていた。宋の時代になってラン科植物に当てられるようになるまでは「蘭」がフジバカマを指す字であった。両者とも蘭では紛らわしいので、ラン科の方は「蘭花」、フジバカマの方は「蘭草」として区別するに至り、我が国でも、元はフジバカマのことを「蘭」と書いて「あららぎ」と言っていた。宋の時代に重なる平安時代以降、ラン科の植物に「蘭」の字が当てられ、フジバカマは「藤袴」と言うようになって現在に至る。

 フジバカマの「蘭」(あららぎ)が我が国の文献上に初出するのは『日本書紀』の允恭天皇の条で、皇后が姫君のとき庭に植えられていた「蘭」を馬上の役人に所望され、一茎取って与えたという挿話がある。役人は山に入るとハエが多いので、それをもって追い払うというわけで、当時からフジバカマが庭などに植えられていたことを物語る。 『大和本草』(1709年)はこのフジバカマの「蘭」を「眞蘭」と述べて「澤蘭」と区別している。ここでフジバカマの仲間であるヒヨドリバナやサワヒヨドリが考えられるわけで、「澤蘭」(さはあららぎ)が沢の傍に生えるという『倭名類聚鈔』の説明からして湿地に見られるサワヒヨドリがあげられるところとなる。

                

 サワヒヨドリ(沢鵯)はキク科フジバカマ属の多年草で、日本全土に分布し、湿原や湿った田の脇などに生える。高さは八十センチほどで、夏から秋にかけて、真っ直ぐに立つ赤みのある茎の先端に小さな頭状花を多数咲かせる。花は白いものや赤みを帯びるものなど変化が見られ、ヒヨドリバナやフジバカマに似るが、フジバカマのようなよい匂いはなく、ヒヨドリバナほど枝を曲げ広げることがないので判別出来る。

 フジバカマは古い時代に渡来した外来と言われるが、サワヒヨドリもヒヨドリバナも在来で、全国的に分布する。大和ではフジバカマの野生は絶滅したとされているが、サワヒヨドリもヒヨドリバナもよく見かける。この中で人気のあるのはフジバカマで、昔からよく植えられ、和歌にも詠まれて来たが、野生が少ないのでサワヒヨドリを代用した話も聞く。因みに山地の草原には変種のヨツバヒヨドリが生え、大和でも見られる。 写真は左からサワヒヨドリ、フジバカマ(園芸種)、ヒヨドリバナ、ヨツバヒヨドリ。