大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年07月07日 | 祭り

<309> 蓮華会の蛙飛び行事

      梅雨空に 声立ち上がる 蔵王堂

 吉野山の金峯山寺蔵王堂(本堂)で、七日、蓮華会の法要とこれにともなう蛙飛びの行事が行なわれた。蓮華会は修験道の祖、役小角(役行者)が産湯をつかったと伝えられる大和高田市奥田の捨篠池(弁天池)でハスの花を採取し、本尊の蔵王権現に供えて行なう法要で、この日の午前中、舟を出して摘み採った百八本のハスの花を午後、本堂の蔵王堂に運んで行なわれた。続いて八日には山上ヶ岳の大峯山寺に向かうという。

 蛙飛びの行事は、平安時代の中ごろ神仏をののしった男がワシに浚われ、断崖で震えているのを通りかかった高僧が見かけて男を蛙の姿に変え助けた故事に因むもので、蓮華会に続いて行なわれた。この行事は奇祭の一つとして奈良県の無形民俗文化財に指定されている。

 七日の吉野山は厚い雲に被われ、雨が降ったり止んだりの空模様だったが、そんな中、着ぐるみの青蛙を乗せた太鼓台が練りながら、ハスの花を持参した一行をケーブルの吉野山駅(山上駅)まで迎えに行き、行事は始まった。地元の若い衆が担ぐ太鼓台とハスの花を運ぶ一行が仁王門の急な石段を一気に登り、本堂に到着すると、待っていた参拝者や見物衆からどっとどよめきの声が上がった。

                                  

 太鼓台が本堂前の広場で練った後、青蛙が二人の担ぎ手に背負われて本堂に入り、続いてハスの花が運び込まれ、講などの一行が入って蓮華会の法要になった。「般若心経」などの読経の後、青蛙が表に姿を見せ、蛙飛びが始まった。左右二人の僧の前に進み出た青蛙は神妙な面持ちで手をつき、僧の戒めの言葉に聞き入った。最後に蔵王権現の前で改心し、元の人間の姿に戻り、一件落着して、蛙飛びの行事は終わった。

                                     

  仏教に「十善戒」というのがある。不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口  不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見である。つまり、「殺生をしてはいけない。盗みをしてはいけない。不正に淫らなことをしてはいけない。嘘をついてはいけない。言葉を飾り立てて惑わせてはいけない。悪口を言ってはいけない。二枚舌を用いてはいけない。貪ってはいけない。憎み怒ってはいけない。よこしまなことはいけない」という戒めである。

 改心して人間の姿に戻った蛙飛びの青蛙は、この「十善戒」で言えば、さしずめ悪口を戒められたことになるが、悪口をはじめ、十悪はそれぞれ心に生じるものであれば、心を改めなくてはならないということになる。犯を繰り返す例を耳にすることがあるが、再犯は心が改まらず、定まらないから起きると言えるだろう。

 つい最近、オーム真理教の逃亡犯が逮捕されたが、まだ、オームの呪縛から逃れられずにいるという報がちらほら聞かれる。これなどは青蛙と真逆の心理で、心が改まらないところにある。行事に参集した善男善女には蛙から人間に戻るその青蛙の所作にユーモアが感じられたりして、見物も和やかで、青蛙に声援が飛んだりした。


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2012年06月18日 | 祭り

<290> 率川神社の三枝祭

        ゆりまつり みな皇女(ひめみこ)の 艶やかさ

 十七日、奈良市本子守町の率川(いさがわ)神社の例祭三枝祭(さいくさまつり)が行なわれ、多くの人でにぎわった。率川神社は推古天皇元年(五九三年)に大神神社の摂社として開かれた奈良市で一番古い神社とされる。主祭神は『古事記』や『日本書紀』でお馴染みの神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと・『古事記』では富登多多良伊須須岐比賣命、またの名は比賣多多良伊須氣余理比賣命)で、この姫神を中に挟む形で、左右に父母神が祀られ、子を守る「子守明神」の名でも呼ばれる神社である。

 三枝祭は飛鳥時代の大宝元年(七〇一年)に発せられた大宝神祇令に遡る古くからある祭りで、媛蹈鞴五十鈴姫命が住まいしていた三輪山近くの狹井河(大和川の支流に当たる現在の狭井川)の畔に佐韋(さゐ)と呼ばれる山由理草(現在でいうササユリ)が沢山咲き誇っていて、『古事記』によれば、神武天皇との出会いの場にもなり、結婚に至ったことにより、祭りはこのササユリに因んで、ちょうどササユリの開花時期に当たる十七日に行なわれるところとなり、百合祭りの別称でも親しまれることになった。

 祭りは午前十時半から行なわれ、ササユリで飾られた黒酒(くろき・濁酒)、白酒(しろき・清酒)を入れた樽が奉納された後、昔の衣装に身を包み、ヒカゲノカズラを鬘(かずら)にして、芳しい三花のササユリを手に四人の巫女が「うま酒みわの舞」を奉奏し、神前に華やいだ雰囲気を見せた。午後からは七媛女(ななおとめ)やゆり姫、稚児などが列をつくり、市内を巡り歩いて、艶やかさを見せた。

 三枝祭の「三枝」はササユリが一茎に三つの枝を出して、それぞれに花を咲かせることから三枝・佐韋(さゐ)と呼ばれ、子孫繁栄に繋がると思われたこと。また、「三枝」を「さきくさ」とする見方もあって、「さき」は「幸」で、幸せを意味するものであるというので、縁起のよい花として見るわけである。『万葉集』には「さきくさ」(三枝)の歌が二首見えるが、一首に「春さればまづ三枝(さきくさ)の幸くあらば後にもあはむな恋ひそ吾妹」(巻十、1895・柿本人麻呂歌集)とあり、「春されば」と断っているので、この場合は夏に花をつけるササユリではなく、春に花を咲かせるミツマタ(三椏)であろうというのが定説になっている。だが、ササユリも三枝であるところからこれに重ねて思われる次第である。

 「さきくさ」(三枝)の見える今一首は山上憶良の長歌(巻五、904)で、これには愛しい我が子を中にして親子三人で寝る幸せな光景に「三枝」を比喩に用いて詠まれており、率川神社の御子姫神を中心にして左右に父母神が祀られている本殿の姿に重なるところがあり、この長歌の「三枝」の場合はササユリと見たい思いが人情として湧いて来るところがある。

 このような観点からこの祭りを見ると、「三」という数字がキーワードになっているのが覗える。つまり、この祭りは「三」の縁起によっている。一つには前述の通り、「三枝」の「三」がある。次は率川神社が御子の姫神を挟んで父母神の三神が、一間社春日造・桧皮葺の三殿を本殿とする社に仲良く鎮座し、「三」の数字が見えることで、これは一家の繁栄を示し、「子守明神」としての姿に関わっている。

 次に、率川神社が三諸山とも称せられる三輪山を御神体とする大神神社の摂社であること。ここにも「三」の数字が見える。三輪山の「三」については、私の知識にないが、一例としては、拝殿と御神体の間に三つ鳥居があげられる。これにも「三」の数字が含まれ、やはり三輪山を御神体とする檜原神社の三つ鳥居とともに有名で、この三つ鳥居の「三」にも関心が持たれる次第である。ここでは長くなるので触れないが、三つ鳥居は太陽の運行に関わるとも言われる。

 また、「三」の「み」は実の「み」で、美の「み」でもあり、「み」は巳(蛇)にも通じ、三輪山伝説の祭神が蛇神とされる大物主神(大己貴神・大国主神)であることにも「三」の数字への思いは巡りゆくことになる。  写真は上段左から奉納されるササユリの花で飾られた白酒の樽(モニターテレビによる)、ササユリを手に舞いを披露する四人の巫女たち。下段は市内を巡り歩くゆり姫や稚児たちの一行。

                                         

                                     

 


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2012年06月17日 | 祭り

<289> 虫 送 り

       虫送り 稲青々と 育ちゐる

 大和高原の一角、天理市最東部の山田町で、16日夕から宵にかけて虫送りの行事が行なわれた。生憎の雨模様だったが、各自松明を持って列をなし、稲の苗が青みを増す田園の道を歩いた。この行事は虫の駆除と供養を兼ねて行なわれるもので、昔から行なわれているという。

  これは稲作における予祝の意をもってなされるおんだ祭りの御田植祭や蛇(龍)を崇めて水の確保を祈願する野神の蛇巻きの祭りに続いて行われる行事で、豊作祈願であるのが見て取れる。また、害虫が悪霊の仕業と見て、悪霊の退散を願って行なわれるものとも言われる。『平家物語』で知られる平家の武将斎藤実盛が敗死した際、騎乗していた馬が稲の切り株につまずいて討たれたことから実盛の怨霊が稲の虫になって稲を食い荒らすという逸話が生まれtこあ。この稲の虫を実盛虫と呼び、虫送りをこの逸話に因んで実盛送りと呼ぶ地方もあるという。

 このように虫送りというのは、害虫に悩まされて来た農家の悩みによって生まれたもので、全国的に見られる稲作に関わる行事の一つであるが、農薬の普及に伴い多くの地域で廃れていったと言われる。そんな事情下、今も残っているのがこの大和高原の一角にある山田町の虫送りで、集落の絆ともなっていると言われ、天理市はこの行事を貴重なものとして、無形民俗文化財に指定している。

 この日は降ったり止んだり、梅雨特有のぐずついた天気であったが、雲の切れない空模様の下、午後六時半から下山田、中山田、上山田の順に虫送りが行なわれた。町内の蔵輪寺住職による読経の後、祭壇の蝋燭の火が松明に移され、前庭に積んだ柴に火が点けられると、子供も交えた農家の人々が各自持参した松明に火を移し、御札を先頭に太鼓を打ち鳴らしながら地区内の道、約二キロの間、松明の列をつくって歩いた。

 松明の列は夕闇に浮き立ち、幻想的に見えることもあって、大和の風物詩の一つになっている。松明の火と煙とによって害虫を追い払うという。その松明の火を見ていると、その願いが何か叶えられるように思われた。松明は最後、雨で増水した川縁に投げ入れられて終わったが、虫送りの意味がよくわかる光景だった。この行事が虫供養でもあることは「虫送り」の名によく表されていると言える。

 御札は最初と最後に立てられ、これをもって標(結界)とするようである。つまり、虫送りをした領域においては虫封じが完了したことになる。写真は左から住職による松明への点火、燃え上がる柴の火を各自の松明に移し取る人たち、山間の田の道を行く松明の行列。行列の先頭を行く御札と太鼓、水田に映った松明の火、夕闇に火の帯が出来た虫送り(五秒の長時間露光による)の列、川辺に投げられなおも燃える松明と傍に立てられた御札。

                                                         


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2012年02月19日 | 祭り

<170> おんだ祭り (御田植祭) (6)
      日差しには 春が宿れり お田植ゑの 祭りの豊年舞ひも華やぐ
  今日は磯城郡田原本町の鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)のおんだ祭り(御田植祭)を見学に出かけた。 厳しい寒波で、日本海側では記録的な大雪の報であるが、大和は好天に恵まれ、日差しに明るさの見られる一日だった。 大和はこの時期、連日のようにどこかでおんだ祭り(御田植祭)が行なわれ、春が近いことを告げている。
  鏡作神社は天照国照日子火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)と 石凝姥命(いしこりとめのみこと)、 天糠戸命(あまのぬかとのみこと)の三神を祀り、社伝によると天照国照日子火明命は第十代崇仁天皇のとき、 神鏡が作られ、試鋳した鏡を御神体として祀ったもので、人格神ではない。その名前からみて、天皇が皇居に祀っていた天照大神の分身(魂)と見なしたのであろうことが想像出来る。
  因みに、崇仁天皇の御代には洪水などの災害や飢饉が多発し、このため天皇は天照大神を同じ屋根の下に祀るのはよくないとして、三輪山の西麓に当たる檜原神社付近に遷したのであった。鏡作神社の由来はこの時の話に関わるものか。その後、天照大神はなおも変遷を重ね、最終的に今の伊勢神宮に祀られるに至ったことはよく知られるところである。。
  また、 石凝姥命は天の岩戸に隠れた天照大神を誘い出すために用いた八咫鏡を作った神と言われ、天糠戸命は石凝姥命の父の系譜に当たる神で、 このニ神はこの辺りに集まっていた鏡作りの祖とされ、 祀られたと言われる。 社伝と『日本書紀』の記述に合わない点が見られ、真偽のほどはよくわかっていないが、神話に関わることであるから、 それほど目くじらを立てるほどのことでもないように思える。 どちらにしても、鏡作神社が由緒の古社であることに変わりないと言えるだろう。
                    
  また、おんだ祭り(御田植祭)については、 いつごろ始められたか不明であるが、 神社の付近には日本有数の弥生時代の環濠遺跡である唐古・鍵遺跡があり、二千年以上前から稲作が大規模に行なわれていたことがわかっており、古墳時代以降も稲作地帯として栄えた地域であることを考えると、おんだ祭り(御田植祭)も古い歴史を有していることが考えられる。
  さて、祭りであるが、午前中に拝殿で祈願の神事が取り行われ、午後には女性による「お田植舞」と「豊年舞」が拝殿前の庭で披露され、続いて男性による「牛使い」の所作が神田に見立てられた境内中央の庭で行われた。その後、松苗を植え、餅撒きが行われて祭りは終了した。二つの舞(踊り)は地元婦人会と小学生の二十数人が紺絣に赤い襷と前垂れ、水色の手甲脚絆に檜の花笠という昔ながらの華やかな出で立ちによって笛、太鼓、笏などに合わせて踊り、見物衆の目を引いた。
                       
 「牛使い」の方は牛が主役の所作であるが、 ここの牛は茶色い牛で、二人が一組で被るので、四本足になり、リアルであった。牛が暴れるほど豊作になると言われるだけに、所作役も心得たもので、今年もよく暴れた。暴れ過ぎて転ぶことも四、五回に及んだが、 今年も豊作間違いなしというところである。牛役にはまことに御苦労さま。好天の下、神社はときおり笑いが起ち上がる何よりの一日だった。
  今回はおんだ祭り(御田植祭)に関わりの深い牛について触れてみたいと思っていたが、 祭りの記述が長くなってしまったので次回に回すことにした。 写真は上段左から五枚目までが「お田植舞」、 六枚目からは稲穂を持って踊る「豊年舞」。 下段左から供えられた牛面、太鼓で所作の開始を告げる役、 順に鍬を使い、 畦をつくり、籾を播く所作役、牛使いと牛役の所作、転んだ牛役、松苗を植える白丁の所作役たち。