大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2016年04月08日 | 祭り

<1561> 仏 生 会 ( 花 祭 り )

             仏生会 釈迦の産湯の 甘茶かな

  四月八日はお釈迦さんが誕生した日で、誕生を祝う行事が各お寺で行なわれる。灌仏会、仏生会、降誕会、浴仏会、龍華会とお寺によって呼び方が異なり、誕生日が花の時期に当たるので、花会式とか花祭りと呼ぶところもある。今日は東大寺の大仏殿の前で行なわれた仏生会の花祭りに出かけた。

 この誕生日につきものなのがお釈迦さんの誕生仏に甘茶を掛ける催しで、東大寺では大仏殿の正面石段上にスギの葉で被いアセビとツバキの花で荘厳した花御堂が設えられ、中に甘茶を満たした水盤が置かれ、その中央の台上に「天上天下唯我独尊」と唱えたとされるお釈迦さんの誕生仏(金銅製)が安置されていた。

                 

 私が訪れたときには、既に法要は終わり、一般の参拝者が誕生仏の花御堂に列をつくっていた。お参りする前にアマチャヅルを煮出して作られた甘茶が振る舞われ、それをいただいた後、高さ数十センチの金銅製誕生仏に甘茶を掛け、お釈迦さんの誕生日を祝った。

 大仏殿の境内ではベニシダレザクラが満開で、花会式や花祭りの名に相応しく、華やいだ雰囲気があり、大半が外人観光客である参拝者は魅了されたような面持に見えた。私も列に並び、甘茶をいただき、誕生仏に甘茶を掛けた。いただいた甘茶ははじめほろ苦く少し時が経つと口中いっぱいに甘さが広がり、功徳を得たような気分になった。 写真は甘茶をかけられるお釈迦さんの誕生仏と甘茶掛けの順番を待つ人たち。

 因みに、お釈迦さんは紀元前五世紀、インド北部の部族出身で、本名はゴ―タマ・シツダッタ。お釈迦さんはブツダとよく言われるが、ブツダは尊崇して用いる言葉で、ゴータマ・ブツダと呼ばれ、ブツダを漢訳すると仏陀になる。仏教というのはブツダの教えという意で、これを見てもわかるように、仏教は、つまり、お釈迦さんの説いた教えに因むものである。

 


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2016年03月01日 | 祭り

<1523> 東大寺二月堂のお水取り

         水取りや 大松明の 火の気負ひ

 三月一日お水取りで知られる東大寺二月堂の修二会の本行が始まった。本尊の十一面観世音菩薩に一年分のお香水を供え、万民の穢れを払い、世の中の人たちの幸せ、世界平和、護国安泰、五穀豊穣などを祈願する十一面悔過と呼ばれる法要で、今日から十四日までの二週間、十一人の錬行衆という僧が二月堂に籠り、補佐する人たち三十数名によって行なわれる。

  法要は連日、深夜、未明にも及び、一日六回、日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝に行なわれる六時の行法で、この間、連夜に渡って初夜の行法に向かう錬行衆の足許を照らす道明かりの大松明が運行され、松明の炎が二月堂の舞台を走るので、お水取りとは言われるものの、お松明とも呼ばれるように火祭りの趣も見て取れる。

                                 

  ということで、二月堂の舞台下広場にはお水取りの象徴であるこの大松明の運行を火の粉を浴びながら見ようと詰めかける見物衆でいっぱいになる。殊に二月堂下の閼伽井屋の若狭井から若狭の清水とされるお香水を汲んで十一面観世音菩薩に供える十二日夜(十三日の深夜)はお水取りのクライマックスで、この夜には一回り大きい籠松明が運行されることにもより、見物衆は超満員に膨れ上がる。

  このお水取りは、天平勝宝四年(七五二年)に東大寺を開山した良弁僧正の高弟で、二月堂を造ったされる実忠和尚(じっちゅうかしょう)によって始められ、以来、一度も途絶えることなく続けられ、今年(平成二十八年・二〇一六年)で千二百六十五回を数えると言われる。

  なお、大松明の運行は午後七時からで、十二日の籠松明と最終日の十四日を除くほかの日は、錬行衆の一人が準備のため明るい間に堂に入るため、大松明は十本運行される。初日の今日は、底冷えのする寒い夜になったが、鐘の合図とともに予定通り行なわれた。 写真は舞台の廻廊を走る大松明の炎 (多重露光による)。

 


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2016年02月23日 | 祭り

<1516> 古 都 奈 良

           奈良は今 お水取りへと 日一日

 歴史に彩られた古都奈良というところは古社寺が多く、その昔から毎年巡り来る行事をそれぞれにこなしながらその営みを続けている一面が見受けられる。その行事というのは、各社寺それぞれ古式に則って行なうもので、行なう人たちは変わっても、「恒例」と言われるごとく、昔ながらの変わらない様式に従って行事は繰り返されている。これは新鮮味に欠けるところなきにしもあらずであるが、行事は伝統となって、一年の巡る季節を告げる風物詩のようにもなり、親しまれて今に至っているところがある。

                  

 奈良の冬から春への時季で言えば、師走に行なわれる春日若宮おん祭があり、正月を迎えてからは、若草山の山焼き、各社寺の節分祭、そして、春本番を前に、東大寺二月堂の修二会のお水取りがある。お水取りを見ても、毎年、同じことが行なわれるのであるが、同じことを繰り返すゆえに伝統が生まれ、この伝統を絶やさないことが営みの無事と持続を意味するところとなり、そして、その行事によって巡りの季節を私たちに感じさせるという具合になる。

 私たちにとって一年の巡りには気持ちの上のメリハリが大切で、その意味から言っても、毎年同じときに行なわれる恒例行事というのはその役割も担ってあると言える。古都奈良における古社寺の年中行事にはそうした一面があると言ってよい。「お水取りが終わると、奈良には春が訪れる」と言われるのも、私たちの気持ちにメリハリをつける意味があると思える。 写真は若草山の山焼き(左・多重露光による)とお水取りで、二月堂の廻廊を走る大松明の炎(右・長時間露光による)。


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2016年02月14日 | 祭り

<1507> ひ な 飾 り

             慈しみ 雛出す妻の 齢かな

  今年もひな祭りの話が聞かれる時期になり、このほど我が家でもひな飾りを出した。ひな飾りが出ると、遠い昔が偲ばれ、懐かしい気分になる。ひな祭りは五節句の一つである上巳(じょうし・じょうみ)の節句に合せ、三月三日に女の子の健やかな成長を願って行なわれるもので、男の子を祝う五月五日の端午の節句と対比される。端午の節句には武者人形を飾ったり、鯉のぼりを立てたりするが、上巳の節句のひな祭りにはその名の通り雛人形を飾って祝う。

                                                              

 最近は新暦で行なわれるところがほとんどであるが、私の子供のころまでは旧暦で行なうところが多く、私の田舎でも旧暦で行なっていた。旧暦の三月は今の四月に当たるので、モモやサクラが花を咲かせ、モモの花を飾ったことから、霊力が尊ばれるモモをもって桃の節句とも言われるところとなった。新暦ではモモの花は間に合わないので、室咲き(温室育ちの花)をもって対応している向きが見られる。

 上巳とは三月の最初の巳の日のことで、ひな祭りは平安時代に貴族の子供たちの間で行なわれていたひいな遊びから伝わったものとされ、豪華な段飾りが登場したのは江戸時代以降だと言われる。もともとは上巳の日に人形を作り、この人形で体をさすり、身の穢れを人形に移して水に流し、厄払いをしたことによると言われ、今でも川にひなを流す流しびなの風習が遺されているところがある。

  いつのころからか、上巳の日に変わり、三月三日がひな祭りの日になり、旧暦から新暦に引き継がれ、今に至る次第である。なお、今日は男女の日、バレンタインデーである。 教訓:努力なしに幸せを得る道はない。 幸せは 男女一対 雛に見ゆ   見よ思へ 遠き道 また 春が来ぬ


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2016年02月12日 | 祭り

<1505> ゆるきゃらのテーマソング

         ゆるきゃらも 一役買って 春を呼ぶ

 地域おこしのため三年前誕生した奈良県河合町のゆるきゃら「すな丸」のテーマソングがこのほど出来上がり、昨日行なわれた廣瀬神社の砂かけ祭りで披露された。「すな丸」は砂かけ祭りの「砂」に因む名で、この日が三歳の誕生日に当たり、誕生祝いに披露された。全国公募していた歌詞の中から地元と地元以外の作品一点ずつを選び、地元の米田俊二さんが作曲した。

               

 砂かけ祭りの[庭上の儀]の前に地元のふるさと河童合唱団の子供たちの美声によって二曲続けて披露された。はじめに地元のMASAKOさん作詞の「みんなのすな丸くん」、続いて長崎県の石井昭吉氏の「すんすん すな丸」が歌い上げられた。 写真は上段左がゆるきゃらの「すな丸」。右は「すな丸」のテーマソングを披露する河合町のふるさと河童合唱団の子供たち。下段は二曲の歌詞。

           

 なお、隣接する王寺町のゆるきゃら「雪丸」と広陵町の「かぐやちゃん」が誕生祝いに応援参加。参道には露店が並んで終日にぎわった。