大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年02月11日 | 祭り

<162> 江包・大西のお綱祭り
         大和路は お綱の祭り 春めきぬ
 大和の十一日は寒の緩みの晴天で、日射しが柔らかく春めいて暖かく感じられた。この日、三輪山を近くに望む桜井市の初瀬川(大和川の上流)の南北に位置する江包(えつみ)と大西両地区の人々によって 男綱と女綱を合体させる奇祭のお綱祭りが行われ、多くの見物人で賑わった。
 祭りは、 洪水によって初瀬川(大和川の上流)に男女の二神が流されて来たのを北岸の江包が男神を、南岸の大西が女神を助け、二神が正月に結婚式を挙げて夫婦神になったという話があって、これに由来するという。新藁で作った重量が六百から七百キロに及び、約二百メートルの尾をつけた巨大な男神の男綱を江包から、これも巨大な女神の女綱を大西から初瀬川の傍にある素戔鳴(すさのう)神社に運び、神社の鳥居前で、入舟の儀によって合体させ、縁結びをするというものである。
 毎年旧暦の正月に当たるこの日に行なわれるもので、祭は「お綱はんの結婚式」「お綱さんの嫁入り」「綱掛け祭」「お綱かけ」などとも呼ばれ、親しまれている。 男根を模った男綱は九日に作られ、江包の春日神社に待機、女陰を模った女綱は十日に作られ、 大西の市杵島(いちきしま)神社に待機させ、十一日に女綱が先に素戔鳴神社に運ばれ、後から男綱が運ばれ、 男女二神の男綱と女綱の合体が行われる。
 男神が女神を待たせるというのが祭りの一つの諏向で、この日は仲人が七回半往復して急かせたところでやっと男神の男綱が動き出すという具合で、午後十二時半過ぎに合体を果たし、入舟の儀の結婚式が整った。
 男女の綱を運ぶ途中、綱の担ぎ手が田に入り、泥んこになりながら泥相撲を取るのもこの祭りの見どころであるが、これは泥んこになることで五穀豊饒に繋げる思いがあるからであろう。 結婚はもちろん子孫繁栄を意味するもので、これらを総合してみると、この祭りもおんだ祭り(御田植祭)に等しく、予祝であることが想像出来る。
                                
 因みに、この二神は素戔鳴尊(すさのうのみこと)と稲田姫(いなだひめ)であると言われ、『古事記』の神話に登場する須佐之男命(すさのうのみこと)と櫛名田比賣(くしなだひめ)であるという。
 須佐之男命は荒ぶるため高天原を追放され、出雲の地に降り立ったが、このとき、その地で人々を悩ませていたヤマタノオロチ(大蛇)を退治し、櫛名田比賣を娶った。 お綱祭りの起源は定かでないが、この土俗の婚儀の祭りは『古事記』のこの神話に基づいていることは確かで、その重要性から県の無形民俗文化財に指定、国の重要無形民俗文化財にも指定されることになっている。
 須佐之男命は櫛名田比賣との新婚生活に入ったとき「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」とその新婚を寿いで歌にしているが、これが五七五七七の短歌形式になっていることから、この歌が和歌(短歌)の起源と言われる。また、 須佐之男命は荒ぶる神として知られ、 京都・八坂神社の祭神で、 真夏に行なわれる祇園祭りは須佐之男命の魂を鎮め、災害がないようにという願いによって行なわれるものであるが、 このお綱祭りは出雲の神話の方に因むものであって、 祇園祭りとはその趣を異にするのがわかる。お綱祭りではあの新婚を寿いだ歌の気分が思い起こされる。
 なお、 二神の結婚によって姻戚関係ということであろうか、江包と大西の間では今もって婚儀の整ったことがないという。 真偽のほどはよくわからないが、そのように言われているようである。不思議と言えば、不思議である。  写真は左から女綱を運ぶ大西の人々(後方は三輪山)、 男綱を運ぶ江包の人々、泥相撲、 素戔鳴神社のエノキに架けられた女綱、男綱を待つ女綱、 男綱を呼びに行く縁結びの仲人役(後方は女綱)、男綱が女綱に乗りかかって縁結びはめでたく成立(手前が男綱)。