大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年02月28日 | 祭り

<179> おんだ祭り (御田植祭) (9)
      春を呼ぶ おんだ祭りの人の輪に 日本(くに)の大事を 思ひつつ入る
  おんだ祭り(御田植祭)を見学のため、大和三山の一つ畝傍山の西麓にある畝傍山口神社に出かけた。山を隔ててちょうど反対側の東麓には初代神武天皇が祀られる橿原神宮がある。社の創始は不明であるが、延喜式神名帳に「大和国高市郡畝傍山口坐神社」とあるから千三百年以上前に遡る古社で、神功皇后が応神天皇を産んだところと言われ、地元では安産の神として知られている。
  祭りは午後に行なわれ、神前での神事の後、拝殿においてお田植えの所作が披露された。所作役は田主のひょっとこ、牛を使う天狗、牛、田主の嫁さんであるおたやん(お多福)の四人で、それぞれに面をかぶり、口上を述べながら田の準備、田起こし、籾播き、田植えと順を追って所作の披露があり、祭りは最後に参列者へ苗松を配って終わった。
                                                 
  写真は左から勢揃いした所作役、田を均すひょっとこ、牛を使って代を掻く天狗、種蒔きのひょっとこ、田植えをするひょっとこ、弁当を届けるおたやん、弁当を食べるおたやんとひょっとこの夫婦。
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  おんだ祭り(御田植祭)はこれまで七神社において見て来たが、いずれも五穀豊穣と子孫繁栄を祈願して行われ、予祝の意をもってなされ、趣向を凝らした所作の披露がつきもので、牛の登場を見る共通点がある。何処のおんだ祭り(御田植祭)もいつごろ始まったか定かでないが、主食である米の生産、つまり、稲作に関わって行なわれて来た祭りであり、どの祭りもかなり昔から行われて来たのがうかがえる。
  見学していると、この祭りは田舎の片隅の神社で行なわれているものが多く、民俗的色合いが濃く、現代においてはどこか忘れられたような存在ながら、伝統を守り、今に至っているのがわかる。そして、祭りの趣旨は現今の私たちにとって決して疎かに出来ない重要な意味を含んでいるように思われて来るところがある。
  我が国の食料自給率は年々下がって、今やカロリーベースで三十九パーセント(平成二十二年度)と言われる。これは、即ち、食料を海外に依存する姿勢の現れとであって、農業の行末を暗示するものであるが、この食料自給率の低下は我が国にとって極めて憂慮すべき大きな問題であると思える。

 三十九パーセントということは、六十一パーセントが輸入に頼らなくてはならないわけで、低下傾向がなお続けば、食料が石油と同じ状況に陥る。つまり、食料が自主的に確保出来ない状況に至る。これは何を意味するか。ここのところをよくよく考えなくてはならない。石油と同じように私たちの意志に関わらず、世界の状況に左右されて、価格の変動が行われ、私たちはこの変動によって常に不安を強いられることになる。
  昨今、話題になっているTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の問題などもこの点が心配されるわけである。自由化というのは互いにおいて公平に実施されれば理想的であるけれども、互いの利害によって阻害される面が生じて来るようなことも起きる。金融における価格の変動などはそのよい例である。
  例えば、石油価格の変動に一喜一憂しているのが昨今であるが、この価格が操作されている点を見てもわかる。自給率がなお下がれば、これが食料にも及んで来ることを十分に考慮しておかなければならない。米国が一つに農業国である理由は食料というものを自給するという考え方を国が基本として持ち、それを全うしているからにほかならない。
  我が国における石油のように無いものはどうしようもなく、輸入に頼らなくてはならないが、主食である米のように作れば叶うものは自国で作り、賄うべきで、安い米が食べられるからということで、国内の生産者を圧迫してまで輸入の政策を推し進めれば、原発事故と同じ憂き目に遭うことは誰もが想定出来る。輸入品はいつどんな理由で価格が吊り上がるかわからない。この不安を自ら買うようなことは決してよくない。
  地域の人たちに支えられて細々ながら続けられているおんだ祭り(御田植祭)を見ていると、この小さな祭りが、なお、農業(稲作)の健在を示しているものであることがわかるが、祭りの持続が、低下に歯止めのかからない食料自給率にも関わりのあることで、私にはこの祭りが来年もまた変わりなく行なわれることを願わずにはいられないのである。大げさに聞こえるかも知れないが、私たちにとって、おんだ祭り(御田植祭)は我が国が安心していられる国の一つの証左的風景にほかならないと、私には見えるところがある。