大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年10月13日 | 祭り

<771> 往馬大社の火祭り

        秋晴れや 祭りの幟 高々と

 十三日(日)に生駒市壱分の往馬大社(いこまたいしゃ)で恒例の火祭りが行なわれ、多くの人出でにぎわった。往馬大社は生駒谷十七郷の氏神で、創建ははっきりしないが、『延喜式』神名帳には「往馬坐伊古麻都比古神社二座」とあり、正倉院文書にも見える古くから鎮座する神社である。二座というのは伊古麻都比古(いこまつひこ)と伊古麻都比賣(いこまつひめ)の男女一対の神で、大神神社の三輪山と同じく、生駒山を御神体にしている神社である。

                  

 この二神に加え、鎌倉時代以降、応神天皇を神格化した武運の神さまである八幡神への信仰によったが、明治時代に二神が再び主祭神になり、現在に及ぶ。この男女一対の神は火燧木神(ひきりきのかみ)と呼ばれ、昔は木と木を擦り合わせて火を熾したが、擦り合わせて火を作り出すのは木製の杵と臼で、この二神を杵と臼、つまり、凸と凹である男女一対の神とした。これは『古事記』の国生み神話の男女神である伊邪那岐命と伊邪那美命の二神と同じく、和合によって成就するということであろう。往馬大社は創建のはじめから火を燧(き)り出す(火を作り出す)杵と臼の木に宿る神であった。

                                                      

 この神の霊力を恃み、天皇即位礼の大嘗祭に亀甲を焼いて占う火を熾すため、往馬大社の神木である波波迦(ははか・今日いうところのウワミズザクラ)を火燧木として用いる習わしが起こり、今上天皇のときも往馬大社のウワミズザクラが用いられたという。この火祭りはこの火燧木神に因んで行なわれるもので、起源は鎌倉時代以前に遡ると言われ、奈良県の無形民俗文化財に指定されている。以前は旧暦八月十一日に行なわれていたが、現在は社会情勢により、体育の日の前日に行なわれるようになった。

  火祭りの進行は南座と北座に分れ、両座が競う形で行なわれるのが特徴的である。これは競うことによって神への奉仕を速やかに、且つ、確実に行なうという思いによるものであろう。まず、祭りを仕切る弁随(べんずり)をはじめとする行列に先導され、祭神六基の神輿が拝殿下の御旅所に当たる高座に入り、祭りは始まった。

                         

 その後、南座と北座に分かれ、手渡しで神饌を供える御供上げが競われ、次に大御幣が持ち出され、宮司が順に振って行くと、今度は南座と北座の大松明が持ち出され、これにススキの穂で作った御串(ごごうし)を刺す競争が行なわれた。これは「おはな」と呼ばれる花飾りで、豊作祈願を意味するものだと言われる。これが終わると、巫女神楽があり、弁随の舞いが披露され、いよいよ祭りのクライマックスである火取りの行事に移る。

 高座の下に、南座と北座の火取りの若者二人が麻殻で作った二つの松明を待った。暫くすると、高座の奥で松明に火がつけられ、その松明を受け取った火取りの二人は勢いよく速さを競って高座七段の石段を駈け下った。今年は北座が勝利を収めたが、どちらが勝っても神さまへの奉仕に変わりはないということであろう。走り抜けた松明は御串に火を移し、ススキを立てた二基の大松明も燃やされた。ススキの焼け残りは御利益があると言われ、持ち帰る人が多く見られた。

 写真上段は御旅所に入る神輿と神饌を手渡しする男衆(右)。写真中段は左から大御幣の奉納、御串を大松明に挿し立てる若者たち、巫女による剣の舞い。写真下段は松明を持って石段を駆け下りる二人の火取り役。


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2013年10月12日 | 祭り

<770> 秋 祭 り

          秋日和 祭り太鼓に 誘はるる

  近年の気象状況は、夏が非常に暑く、冬が暖かく、春と秋が短く、四季にめりはりのない感じを受ける。今年は猛暑が続き、十月に入っても真夏日になるといった具合で、暑さに辟易した年であった。で、未だに半袖が仕舞えないが、月日は確実に移り行き、大和は秋祭りの季節である。

                                                      

 秋祭りというのは、神社を単位に昔から行なわれている地域の祭りが主で、稔りを祝い感謝する収穫祭、または感謝祭の趣が色濃い祭りである。これは、農業など第一次産業が暮らしの主流であったころからの習わしであるが、近年、会社勤めの人が増え、一同に会しやすい休日に祭りが行なわれるようになったため、十月の連休を祭りに当てるところが多くなった。

                                      

 ということで、大和(奈良県下)では十二日からの連休に秋祭りが集中しているようである。祭りは神さまを迎える初めの日の宵宮と神さまと共に過す本番の本宮の二日間行なわれるのが普通で、今日十二日(土)は連休初日に当たり、宵宮のところが多く、斑鳩の里でも龍田神社と斑鳩神社でこの秋祭りが始まり、十二日の今日は宵宮だった。

                            

 斑鳩の里の秋祭りは着物や法被姿の男衆が太鼓台を担いで練り歩くのが特徴で、両神社合わせて七基の太鼓台が繰り出した。中でも斑鳩神社の祭りは神社から二キロほど離れた法隆寺境内に御旅所があり、神輿に乗った神さまがこの御旅所までお出ましになり、それを祝って各町の太鼓台が法隆寺境内に集結して練るというものである。

 この斑鳩神社の秋祭りを見ていると、この日は神仏、つまり、神さまと仏さまが一体で見られる日で、神仏融合の和に基づく精神が法隆寺という古いお寺に展開しているということが思われる。多神教である我が国の民族的宗教観あるいは風土的信仰心というものがこの光景の背景にはあるのだろう。こういうのは誰かの尽力がなくては叶わないからそういう経緯も考えられる。明日十三日の本宮も晴れるようなので、何よりである。

  写真上段は法隆寺境内に入る斑鳩神社の神輿。写真中段は左が法隆寺境内で練る斑鳩神社の太鼓台。右は終結した斑鳩神社の太鼓台と神輿に観光客も加わり、一杯の法隆寺東参道(後方は夢殿)。写真下段は三枚とも町中を練る龍田神社の氏子たちによる太鼓台。


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2013年08月30日 | 祭り

<727> 三輪素麺感謝祭

         品をもて 冷やし素麺 すする女(ひと)

 三十日、桜井市三輪の大神神社で、特産品の三輪素麺の出荷販売に感謝し、来年度の業績伸展を祈願する三輪素麺感謝祭が行なわれた。地元の三輪素麺工業協同組合(九十一軒)と三輪素麺販売協議会が毎年この日に行なっているもので、拝殿での神事の後、神前の広場で、恒例の「三輪素麺掛唄」などが三輪そうめん音頭保存会や組合婦人部の女性たちによって奉納された。

  三輪素麺は奈良時代に三輪山の水とこの地方でとれる麦によって保存食を作り、飢饉などに備えたのが始まりであると言われ、これが時代を下るに従って今のような素麺になり、特産化したとされ、元は大神神社の祭神の御神託によると言われる。

                      

 この日は台風の影響で蒸し暑い一日だったが、かすりの着物に前掛け姿などの女性たちは「大和国ん中 そうめん日和 神山(おやま)おろしが そよそよと 掛けてそうめん 白妙に 揺れてゆかしい 三輪の里 ハアー みんな出て来て そうめん掛けヨ 三輪の苧環(おだまき)恋しかろ」と「三輪そうめん音頭」や「三輪素麺掛唄」などの踊りを奉納した。写真は左が「三輪素麺掛唄」、右が「三輪そうめん音頭」の踊りを披露し奉納する女性たち。手にしているのは素麺に見立てた白妙の糸と布 (大神神社の拝殿前で)。

 

 


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2013年08月03日 | 祭り

<701> 御所市のススキ提灯

       夏の夜の ススキ提灯 御所音頭

 三日、御所市で市制施行五十五周年記念の夏イベントが行なわれ、葛城公園において夜間の部の「幻想の灯」と題する催しがあり、市内各校区から集まったススキ提灯をはじめ、和太鼓や地元の御所音頭などに合わせ踊りが披露されるなどしてにぎわった。ここでは、その中のススキ提灯について触れてみたいと思う。

                       

 ススキ提灯は奈良県の無形文化財に指定されている鴨都波(かもつば)神社のものなど、市内の各神社の夏祭りや秋祭りに繰り出される竿灯様の提灯で、その形は、稲積みを模ったものであるとか、稲の穂を意味するとか言われ、夏祭りでは実りを祈り、秋祭りでは実りに感謝するために奉納されるものであるという。

 この提灯は、数メートルの竹竿を支柱にして四本の横木を組み、その横木に「御神燈」と地区名の書かれた高張提灯を上から二、四、四と十張三段に組み上げ、支柱の先端に御幣を取りつけて作る。市内の自治会ごとに総計百六十本ほどあるという。鴨波神社の祭りでは鴨の宮若衆会の精鋭たちがススキ提灯を投げ渡したり、片手で掲げたりして神社まで練り歩き、奉納する。なお、鴨波神社のススキ提灯は、七月十六日の夏祭りと十月の体育の日の前々日の秋祭りで奉納される。

                              

 三日の夜は、市内八校区から百本近い「ススキ提灯」が葛城公園に集合し、盆踊りなどとともに会場を盛り上げた。金剛、葛城の山並が夕闇にすっぽりと姿を消すころになると、灯が点された「ススキ提灯」が浮かび上がり、まさに幻想の灯となった。最後に鴨都波神社の若衆会のメンバーによって祭りのお練りが再現され、大小のススキ提灯が披露され、見物する人たちを魅了した。その後、夜遅くまで盆踊りが続き、会場はにぎわった。 写真は御所市の葛城公園で行われたススキ提灯の催し。ススキ提灯がこれほどの数一堂に集められたのははじめてという。

 


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2013年03月31日 | 祭り

<576> 薬師寺の花会式

        花会式 稚児が主役の 日なりけり

  速いもので、三月も今日限りである。大和は午前中雷を伴う激しい雨が降ったが、午後には止んで、薬師寺(奈良市)の花会式に出かけた。弁当と野点の濃い茶をいただき、練行衆の入堂と稚児行列を拝見した後、山田法胤大導師の法話を聞いた。

                                          

 花会式は修二会の薬師悔過法要のことで、練行衆の籠りの行法が連日行なわれ、四月五日の結願法要の鬼追い式をもって終わりとなる。悔過とは過去の過ちを悔い改めることで、誰もが知らず知らずに犯している罪過をこの薬師の法要において悔い改め、すべての人の幸せに繋げるという仏法の恒例の行事である。

 金堂の本尊薬師如来や脇侍の日光、月光の両菩薩には梅、桃、桜、山吹、椿、牡丹、藤、杜若、百合、菊の十種の造花が献花され、堂内は一段と華やいで見えた。参拝者の合掌に迎えられて練行衆が入堂した後、拍手で稚児たちが迎えられると会場は明るい雰囲気に包まれた。

                                               

 その後、大導師の法話を兼ねた挨拶があり、これを聞いて薬師寺を後にした。法話で印象に残ったのは、教育のあり方を一考し、世の中を立て直すようにすることが必要であるというような話があったことである。今の世の中は世代がばらばらで絆に乏しく、これを改めて行かなくてはならないというような言葉だった。

 経済の立て直しもさることながら教育に力を注ぐことが肝心であるというような話に同感を覚えた次第である。思うに、いくら経済をよくしても、今のようなばらばらになった世代間の人間関係のままでは、社会は決してよい方向には進まない気がする。世代間の絆を取り戻し、まとまりを得た社会にするには、やはり、教育が欠くべからざるところで、子供に対するに止まらず、大人にも必要なことが言えると思う。ときに、このような法話を聞くのも意義あることだと思いながら拝聴した次第である。