大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年06月07日 | 祭り

<279> 今里・鍵の蛇巻き (2)

      日照りあり 大雨ある ゆゑなる 蛇巻き

 私がこの蛇巻きの祭りを見逃すことになったのは、祭りが旧暦による端午の節供(現在の六月五日)に行なわれるという認識が頭の隅にあったからである。古い資料には六月五日とある。このような古式に則って行なわれる祭りは概ね旧暦の日取りで行なわれるものであるが、時の事情や時代の要請によって変更することがある。それを迂闊にも見落としていた。

  日取りにしても人数にしても古式にはみなそれなりに意味がある。だが、時の事情はその意味を考慮に入れず、その時の事情に合わせなくてはならないということがある。蛇巻きの祭りの日取りの変更がまさにこの例である。。変更は相当前からのようであるが、節供の六月五日に行なわれていたのを、六月の第一日曜日に変更した。今年は三日だった。元は端午の節供の行事なので五日と決まっていた。ところが、近年、農家でも勤めに出る人が増え、日曜日でないと人が集まらない。このため、祭りを日曜日に行なわざるを得なくなり、五日に近い第一日曜日に行なうようになったという次第である。

 また、この蛇巻きの祭りでは参加する若者の年齢規定にも変更が見られるに至った。昔は十三歳で大人の仲間入りをしていたので、成人を祝うのはこの年齢だった。で、男子の成人を祝う祭りでもある蛇巻きの祭りでは蛇巻きの頭を担ぐ主役に十三歳の男子が中心になり、今里の蛇巻きでは十三歳から十五歳がその役に当たった。ところが、最近、この地区でも少子高齢化が進み、若者が減少して、欠員の事情が生じて来た。このため、年齢を十二歳に引き下げざるを得なくなった。

 これでは大蛇を担ぐことによって成人への自立を促し、一人前の大人にさせる祝いの証である蛇巻きを担ぐ意味も薄れて来ることになるが、少子化という現実には抗えず、年齢も変更せざるを得なくなった。これは苦肉の策と言わざるを得ないが、このような祭りの内容変更は近年になって徐々に現われ、祭りが形式化して来ている証と受け取れる。これはおんだ祭り(御田植祭)にも言えることであるが、蛇巻きの祭りに見られるような様変わりはこれからいよいよ著しくなるのではないかと思われる。

 もちろん、これは祭りのみでなく、暮らしの全般に及んでいることで、文化の影響と取るべきことかも知れない。で、古式の祭りに顕著にそれが現れているということではないか。歴史を振り返り、比較すれば、それは祭りのみでなく、各方面に明らかに生じている現象であることがわかる。これは、我が国の文化が中国の影響を色濃く受け、それを日本式の文化に育て上げて来た色合いが強く、宗教や思想などにもそれが現われ、私たちの日常の暮らしにも浸透していたのであったが、近代になって西欧文明が世界を席巻する中で、当然のごとく日本にも影響が及び、日常の暮らしにも入り込んで来たことによるのが大きいと言えるように思える。

 それが敗戦による混乱期を経て、いよいよその度を増して、あらゆる点において欧米化が進められ、暮らしの隅々にまでその欧米化の影響が浸透し、生活様式さえも変えていった。文化は高いところから低いところに流れると言われるが、強いところから弱いところへ影響するものでもある。この欧米化の状況は今後も当分の間続き、私たちの暮らしに影響して行くだろうと思われるが、その傾斜の一辺倒な様相に流されまいとするところも見られるのがおんだや蛇巻きの祭りに見られることが指摘出来る。私たち日本人にとって古式の祭りというものが単なる郷愁的な行事というに止まらず、新旧の変化の間にある問題と考えるならば、重要な意味を持っていることがわかる。

 日本が農耕民族を主流にしてあることは歴史を繙けばわかる。このことを踏まえて思うに、農耕というのは一年の四季をもってサイクルとし、暮らしを成り立たせている。これは、第一次産業の中で、漁業や林業や牧畜業とは異質なもので、作物の不作というリスクが常ながらある。で、それに対して蓄財ということが求められ、重視されて来た。漁師は板子一枚命を張って仕事をするわけであるが、漁に出れば、いつでも収入を得られるという利点があり、ために「宵越しの金は持たない」という気質が身につく。しかし、農業はそのようにはいかない。収穫までには日月がかかり、その間には旱魃があったり、洪水に襲われることがある。

 ゆえに、祈願のおんだや蛇巻きの祭りも行なわれるわけで、貯め置くということが必要となり、これが農業には不可欠である。日本人が貯蓄好きであるというのは農耕民族の知恵の何ものでもなく、暮らしの備えにほかならず、これが所謂日本人の気質になったのであって、第一次産業で言えば、牧畜業を元にする欧米と根本的な違いがある。初期の牧畜は広い原野を求めて行った。移民によるフロンテイア精神などはそこに培われたわけであるが、これは土地(田畑)に固執する日本人の農耕精神とは大きくかけ離れている。

 というようなことで、フロンテイア精神の夢の実現を推し進める科学的合理主義による物質文明に彩られた欧米の消費娯楽優先の精神は日本の農耕文化とは微妙に歯車の合わないところがあった。しかし、文化は高く強いところから低く弱いところへと流れるように、敗戦後の日本はいよいよ欧米化の勢いを見ることになった。で、農業の変質も大いに見られることになったが、この農耕民族的風土の血筋による日本人気質はまだ個々人の精神の中に残って果ててはいないところがあると言える。

 敗戦後のこうした欧米化の波の中で国は大借金をしてしまうという状況に陥っているのが現況であるが、それでも私たち(国民)が何とかこの状況を凌いでいるのは、この農耕民族としての気質たるところを個々人がなお堅持しているからだと言える。で、私には、この農耕に見る精神というものが日本人の個々の中で崩れ、失われていくとき日本という国が真に危くなり、さ迷うことになるときだと思われる。

 私が祭りの変更の問題を重要なことであると言ったのはこのためである。小さな田舎の集落の祭りではあるけれども、蛇巻きの祭りにはこういう点も見逃せないところがある。六月五日が六月の第一日曜日に変更したことも、十三歳が十二歳になったことも、気にするほどのことはないと言えば、そのようにも思えるが、よく考えれば重要な精神的な意味を含んでいることと知れる。歴史のある土地柄にある大和だからこそ感じられるのかも知れない。

 蛇巻きの祭りはごく小さな祭りであるが、一つに風土、今一つに人材というものを語っている。最後になったが、和辻哲郎の『風土』論を思い出した。原発事故を含む東日本大震災にも言えることであるが、復興においては風土と風土に育まれて来た人とを大切にしなくてはならない。一集落の小さな祭りと東日本の大被災地を同列には出来ないが、その底には同じ精神的な意味をなすものが流れている。大和には下の写真のような風景が各地に見られるが、この風景が押し寄せて来る外来の現代化の様相に飲み込まれ、失われてゆくとするならば、日本人の精神的土壌も崩れてゆくことになるだろう。 写真は早苗の植えられた風景。左は桜井市狛の棚田。右は斑鳩の里(後方は法起寺の三重塔)。