大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年03月07日 | 吾輩は猫

<187> 吾輩は猫 (10)    ~<185>よりの続き~
         欲望の 数限りなき 生ゆゑに ありける思ひ 数限りなし
 人間のことについて、今少し話を続ければ、吾輩の観察するところ、次のようにも言える。人間には概ね次の三つのタイプがある。そのタイプは神さまがお出ましになる人生の営みに弱り切っているようなときによく現われる。 一つは辛抱するタイプ、今一つは無気力になるタイプ、三つ目は自暴自棄になるタイプである。この三つのタイプを典型としてそれぞれの特質をみるに、大方は辛抱するタイプで、彼らは辛抱して過ごすが、無気力と自暴自棄になるタイプもいる。 辛抱して過すタイプは目立たないが、無気力タイプは厭世的になり、自殺に陥ることもある。 また、 自暴自棄のタイプは分別なく他者を巻き添えに事件を起こすことがある。 後者二つのタイプは異常なこととして処理され、よく目につく。
 この三つのタイプに照らしてみるに、はたして今の世の中はどうであろうか。その状況を眺めると、最近、人間社会に後者二つのタイプが目につくのに気づく。 これは取りも直さず人生に弱り切っている人間の増えていることを示すもので、当然のことながら、 今の世の中が決して住みよいとは言えないことを物語るものにほかならず、悩める社会を表わしていると言わざるを得ない。
 世の中が住みよくないという御仁はいつの時代にもいて、それにともない不平不満の声も聞かれるのであるが、 自殺者が多いとか他人を巻き添えにするような 事件が多発するとかは、 世の中全体が窮屈で住み難くなっているからと言ってよく、漱石先生は「住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」と言って、詩人等の芸術家を称揚し、精神の涵養を説いた。
 これは百年以上も時代を遡る賢者の述べるところであるが、今の人間はこのような言葉などすっかり忘れ去ってしまったか。 昔に比べて芸術が劣り、哲学が失われているとは思わないが、芸術も哲学も万人末端にまでは行き届いていない感じがある。 温故知新による進化の途にある世の中において先生の言葉を小難しいなどと誰が言い得よう。 芸術も哲学も長じたけれど、それよりも膨らむところの欲望の勢いが邪魔立てして、人間を足り足らわせないとみえる。
 で、「理不尽と思へど人はそれぞれと考へなほし星空を見る」(作者忘却)というような新聞の投稿歌なども生まれるのであるが、生きて行くということの難しさ。 とにかく、 臨床の処方急なることもさることながら、結果事情の後追い対策にきゅうきゅうとして、その対処としての制度や規則ばかりが幅を利かせ、頼るはこれのみという状況は実に貧しく情けない感じがする。
 このように、 寛容の心が欠如した冷徹な施策ばかりの貧寒たる精神状況に吾輩などは猫の立場ながら多少客観的に今の人間社会が見えて来る。前にも述べたが、猫はその人間に接っして生きているゆえにこの人間社会の状況が気になるのである。で、この状況を思うとき、二十世紀を自認する先生の猫に対し、進化を述べて憚らない二十一世紀の後発の利にある吾輩としては情けなく、笑われてしまいそうな気がする。  (以下は次回に続く)