大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2012年07月31日 | 万葉の花

<333> 万葉の花 (25) せり (芹子、世理)=セリ (芹)

       芹咲いて ゐたる水辺に 子らの声

    あかねさす昼は田賜(たた)びてぬばたまの夜の暇(いとま)に摘める芹これ                          巻二十 (4455) 葛城王

   大夫(ますらを)と思へるものを太刀佩きてかにはの田居に芹そ摘みける                              巻二十 (4456) 妙觀

 セリについては、このブログの最初に登場してもらった。昨年のお盆前のころであったが、今回は「万葉の花」として、そこに焦点を当てて触れてみたいと思う。『万葉集』にセリの見える歌は巻二十のこの二首のみであるが、この二首は、当時、セリが食用として貴重な摘み草であったことを示す歌として鑑賞することが出来る。

  葛城王は美努(みぬ)王を父、県犬養三千代を母とする敏達天皇五世の孫と言われ、聖武天皇の妃、光明皇后の異父兄に当たり、後に母三千代が賜った橘姓をもらって臣籍に下り、橘諸兄を名乗った人物である。その後、藤原不比等の四子が相次いで病死することにより大納言に推され、右大臣、左大臣にものぼり、実権を握ったが、藤原氏の巻き返しによって引責辞任に追いやられるに至り、悲運に見舞われた。その一生は、仏教の進展に寄与し、大伴家持との親交によって『万葉集』にも関わったとされ、奈良時代に浅からぬ足跡を残した人物の一人である。

  命婦(みょうぶ)は宮中の雑務を任された従五位以上の女官で、歌は葛城王が班田の司に任ぜられ、山背の国(京都府南部の地)に赴いていたとき、「班田を分かち与える仕事が忙しく、夜の間に摘んだセリですよ」と思わせぶりにそのセリに添えて命婦らに贈ったのに対し、内命婦妙観(せちめうくわん)が「大の男が刀を差してカニのいる田などでよく摘んでくれたものですね」と少し揶揄する諧謔の気分をもって返したもので、贈答歌の典型のような歌であるが、歌に掛け合いの気分が見えるところは気の置けない互いの親しさが表されているところがあっておもしろい。で、この歌は葛城王が橘諸兄と名乗るようになった後の宴で、披露されたものとして、その経緯が歌の左注に見える。

  それはさておき、ここで注目したいのは、セリを誰が摘んだかということである。歌の内容からしてそれは高貴な男性たる葛城王自身であり、それを敢えて歌に詠んでいる。これは単なる思わせぶりではなく、自分で摘んだことをそれとなく、しかし、しっかりと贈り先の相手に伝えている。これは自分がどこで摘んだかということを相手に知らせることが当時の常識のようになっていたのではないかということが思われ、打ち砕けた言い方でそれを伝えているということが出来る。では、それがどうしてかを以下に考察してみたいと思う。

  摘み草については、現代人より当時の人の方が知識も実践力も豊富であったと想像される。それは摘み草に毒草のリスクがあり、毒草との見分けが必要だったからであるが、自分で摘むということによって、この野草が有するこのリスクに対することが出来たからである。つまり、葛城王はそこのところを実践しているわけで、「誰が摘んだか知れないものなど贈りませんよ」と暗には言って相手を安心させていると考えられる。この贈答歌は双方の信頼関係によって成り立ち得ている歌と言えるわけである。このことについてはほかにも事例の歌がある。『古今和歌集』巻一「春歌上」にある次の歌にそれを見ることが出来る。

    君がため春の野に出でて若菜つむわがころもでに雪は降りつつ                                     光孝天皇

 この歌は「仁和のみかど、みこにおはしましける時に、人にわかなたまひける御うた」という詞書があることから、光孝天皇が親王であったときの歌で、仁和は年号、君は陽成天皇の摂政藤原基経とされる。所謂、親王が雪の降る中で摘んだ若菜を親密にしていた基経に贈ったのである。この歌はその若菜に添えられた歌で、『小倉百人一首』にも採られ、人口に膾炙した歌であるが、ほのぼのとした麗しい光景が浮かんで来る。

  人に任せればいいのにと、現代人には不思議なように思われるが、ここでも、親王自らが雪の降る中で摘み草をしているのである。これは摘み草に毒草のリスクがあるということを当時の人々は知悉し、親王にしても野草の知識に詳しかったのではないかと想像される。つまり、「私の摘んだものですから安心して食べて下さい」というメッセージが葛城王の歌にも光孝天皇の歌にも込められていることが想像される。摘み草の歌に男性の歌が結構多いのも、これを意味するものではなかろうか。貴賎、男女を問わず、当時は摘み草が習慣的に行われていたのであろう。『万葉集』の冒頭、雄略天皇御製の長歌にもそれがうかがえる。

  そこで、セリという植物であるが、セリはセリ科の多年草で、全国的に分布し、湿地を好むところがあり、大和でも各地に見られる。「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草」と詠まれ、セリは春の七草の第一番にあげられているが、これは、秋の七草が『万葉集』巻八の山上憶良の「萩の花尾花葛花瞿麥の花女郎花また藤袴朝顔の花」(1538)の歌により花を基準に選ばれているのに対し、食材を基準に選ばれたもので、正月の七草粥でお馴染みのものである。

  このようであるから、春の七草がいつどのような花を咲かせるか、案外知る人は少なく、セリにもそれが言える。セリは夏の盛りのころ複散形花序に白い小さな花を密に咲かせる。群生することが多く、一面に花の見られることもある。毒草で知られる仲間のドクゼリに似るが、殊に若菜摘みのころは判別し難く、毒草に無頓着な人がセリと間違えてドクゼリを食べ命を落としたということが科学の進んだ現代でも聞かれる。

  判別は根茎を見るのが一番で、ドクゼリはタケのような節のある太い根を持っているので、根によって見分けることが出来る。セリ科にはほかにも似たものがあるので、野生のセリにはあまり手を出さない方がよいように思われる。とにかく、セリは万葉のころから摘み草として食用にされて来たが、毒草のリスクがそのころからあったはずで、歌のニュアンスなどからもそれがうかがえると言える。

  因みに、『延喜式』によれば、セリは食用として植えられてもいたから、当時の人のセリに対する知識は現代人よりもはるかにあったと思われる。しかし、ドクゼリの恐怖は誰もが持っていたに違いなく、野草に食の比重が高かった当時の暮らしにして思えば、その恐怖の思いは現代人の比ではなかったと言える。 写真は左から水辺に群生し花を咲かせるセリ。複散形花序が特徴のセリの花。池の傍に生え、花を見せるドクゼリ。

                                              

 

 

 

 

 

 


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2012年07月30日 | 写詩・写歌・写俳

<332> 暑中お見舞い

        一は二と考える

      二は三と考える

      一は即ち 百、千に及ぶ

      自分一人にあらずと考える

      悲しみも 辛さも

      自分のものであるが

      自分一人だけが

              抱えているものではない

      暑中のことも 然り

      これは ここに

      生を得ているものすべてに

      関わることなのである

              暑中お見舞い申し上げます

 このところの暑さは尋常でなく、個々それぞれに及び、影響を及ぼす。この暑さに集中力を欠き、生活のリズムも狂わされる。頭の回転は鈍くなり、このブログも暑さの中でもがく感なきにしもあらず、体力に加え、精神力も試されるといった次第。この暑さの所為か、連日と言っていいほど救急車のピーポーの音が聞かれる。命に係わるような病気をした身には、その東奔西走する救急車のピーポーの音が耳につく。その救命に関わる音を聞くたび、救急車にその身を委ねている人のことが思われる次第である。救急車のピーポーの音はまさに「急げ急げ」と呼ばわりながら走っているように聞こえる。

  このような暑さの続く日々には、何か涼しくなるものをといろいろ思い巡らせるのが常で、水辺が恋しくなったり、冷たいものを口にすることなどを考えたりする。花火大会なども「納涼」と言われるから、暑気祓いの目的もあると言えよう。家ではよしずをしたり、風鈴を提げたり、これは昔からの知恵。今はクーラーの効いた部屋に籠るということであろうが、節電が呼びかけられている状況では気持ちが落ち着かず、クーラーなどなかった時代のことを思い起こしたりすることになる。

  ということで、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」というような言葉にも思いが至る。で、暑さ寒さなどは心の持ちよう一つによるというような精神論なども聞かれることになる。ここで思いつくのが滝水の涼ということで、滝水の写真をもってブログの記事にし、この暑さの中のお見舞いに代える次第である。とにかく、諸兄、諸氏には、ご自愛のほどをと申し上げたい連日の猛暑ではある。

 そう言えば、月日の経つのは速い。滝水の涼は昨年も取り上げた。全く同じネタと気づくが、日々の積み重ねには間々あることと、自分に言い訳しながら滝水啓上という仕儀に至った次第。まずは御了承を。 

                            


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2012年07月29日 | 写詩・写歌・写俳

<331> 打ち上げ花火

      子らの声 あがりて花火 上がりけり

 夏の風物詩である花火大会の時期になった。昨夜は東京の隅田川の花火大会が開かれ、新名所のスカイツリ―とともにテレビで見たが、昨夜は大和でもささやかな打ち上げ花火の大会があった。大和川の近く、斑鳩町の商工祭りの催しの一環で行なわれたもの。近くでは王寺の花火大会が知られていたが、商店街の疲弊に伴い中止して久しく、以来、我が国の景気は戻っていない感じがする。

 ささやかでも続いていることはよいことで、夜空に上がる花火とその音に対する夏の夜の気分は風物詩にふさわしい光景である。写真は自宅の二階の窓から撮ったものであるが、表では子供たちの声がにぎやかにしていた。打ち上げ花火は私たちの気分を盛り上げる。オリンピックの開会式でもその景気づけに打ち上げ花火は欠かせないものになっている。今回のロンドン五輪でも、開会式に用いられ、会場を盛り上げた。

 商工会の打ち上げ花火は僅かな本数で、時間も短かったが、打ち上げ花火の雰囲気はあった。研究熱心な写真の愛好家は斑鳩三塔を絡めて撮れる位置などに赴いているのかも知れない。とにかく、花火大会の時期になった。全国的にも大きい富田林市のPL花火芸術の花火大会は八月一日である。

  それにしても、連日の猛暑。昨日は我が家でも三十五℃を越した。この連日の暑さの結果、集中力を欠くところとなり、このブログもまとまりが悪くなって来た。花火を撮りながら、この夏の暑さを如何に凌ぐかを思った。

                                    


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2012年07月28日 | 写詩・写歌・写俳

<330> 山上ヶ岳 随想

    この世にはさまざまな出来事が見られる

    出来事はみな生きているものたちの証

    見るべくあり 聞くべくあり 思うべくある

 山上ヶ岳(一七一九メートル)に天川村洞川の清浄大橋から表参道を登ると洞辻茶屋で尾根筋の大峯奥駈道に出合う。この洞辻茶屋の出合まで登ると急に見晴らしがよくなり、風景が一変して、山頂への目標が見えて来る。気分が開け、再び登りにかかる。そこからは鐘掛岩や西の覗などの岩塊や絶壁が連なり、修験道の修行の場が見られ、御岳にやって来たという実感が湧いて来る。山頂は大台ヶ原に等しい準平原の広場になっていて、修験道の根本道場である大峯山寺が広場の一角を占め、下方の参道脇には宿坊が点在し、祈りの場としての印象がうかがえる聖の地になっているのがわかる。

 山頂には三つのルートから登れるようになっているが、二股になっているところを含め四箇所に女人禁制の結界門があり、そこより山上側には女性の立ち入りが出来ないようになっている。殊に、五月三日から九月二十三日の開山期間中は厳しく、まずこの期間中に結界内に女性の姿を見ることはない。つまり、山上ヶ岳の登山者はすべて男性ということになる。私の場合、信仰心があって登るわけではないが、この山だけは、ほかの山にはない雰囲気がいつ登っても感じられる。これはやはり女人禁制の山であるからに違いない。

 山上ヶ岳の女人禁制については、性の差別であるという抗議の声も聞かれるところであるが、この男性の修行の場である山に対して、この山に立ち入る身として私にも感じられるところがあるので、それを少し書いてみたいと思う。これは、いつだったか触れたことがあるが、如何に時代が変わっても変わらない男女の間柄というものがある。性同一も言われるが、この世の中は男女によって成り立ち、その男女の人間関係が基にあっていろいろな出来事が生まれ、事件なども起きている。ということがあって、世の中のこの根本のところを男性だけの場にして見つめる効用というものがこの女人禁制の山、山上ヶ岳の空間にはあるということが求められて来た。

 このことを踏まえて女人禁制の男が占有する山上ヶ岳の空間を考えるに、女性には性差別のように思われるところのこの空間が、この世の中において有用な一面を持っていることがうかがえ、この空間の意味というものが思われて来ることになる。この空間で出会うのは、言うまでもなく男性ばかりであるが、この男性ばかりの光景というものが重要な意味を持っていると私には思える。

 登山道で擦れ違う者は互いに「ようお参り」と挨拶を交わすが、すべては男性同士、同性であることに気づく。これはどういうことを意味するかと言えば、男女から成り立っているこの世の中で、わずかな場所とわずかな時間ではあるけれど、この空間では男女を切り離し、男性だけになって、そこに自分という男性の身を置くということによって、男女からなるこの世の中というものを見ることが出来るからである。これは経験しないとなかなかわからない感覚であるが、異性を交えない男性だけの世界の大らかさというものがそこには生まれ、この雰囲気の空間から男女の関わりというものが根本にある私たちの日ごろの暮らしというものを顧みることが出来るからである。

  このようにしてある山上ヶ岳の女人禁制の空間は、男女間の差別の場というよりも、男女からなる世の中の人間関係における一つの大きなテーマに対してある空間であって、世の中全般における効用と位置付けて考えた方がよいように私には思えるのであるが、これは山上ヶ岳に登るにつれて感じられて来ることで、この空間に女性が全くいないという実際によるものである。十人、二十人のグループで登る一行にもよく出会うが、これらの一行に老若の違いはあっても、女性は全く含まれていない。ここがこの空間が意味する肝腎なところで、一行の雰囲気を実に不思議なものにしている。何かリラックスと言ってもいいような、大らかな気分が見て取れる。

 これはその集団の中に異性たる女性が含まれていないからで、日ごろ私たちは気づかずにいるけれども、男性は女性を、女性は男性をどこかで意識しながら暮らし、この生活環境の中で、例えば、いい恰好をして見せるようなことから来る緊張感に縛られたりするわけであるが、こんな生活環境から一時的ではあっても、この禁制の空間に身を置くことによって、この気づいてはいないかも知れない緊張感から気分を解き放つことが出来るからである。

 それは一時的であるにしても、否、一時的であるがゆえに効用となることが言える。山を下り、この禁制の空間を出れば、また、男女の交わる世の中、つまり、日ごろの生活環境の中に戻るわけであるが、男性だけの山上ヶ岳での精神的経験は、その意味において役に立つ。信者から毎年一回は登るということをよく聞くが、これなんかはこの禁制の山の効用がよく浸透している現れと言える。西の覗の断崖からロープで逆さに吊リ下げられた大の大人が、誓いの言葉を言わされるとき、周囲からどっと笑いが立ち上がったりしても、それが少しも嫌味なく感じられるなどは、その効用のよい例であるように思われる。

 そんな風景を見たりすると、世の中の事件などはこの男女のことが根にあって起きているのではないかと思われて来たりする。で、或るは、いじめに関わる自殺の問題なども、因を辿れば、本人同士の問題に違いはないが、本人同士以前に、親との関わりや先生との関わりがあり、もっと突き詰めて言えば、根本のところに生存競争の一面とも言える男女から成り立っている世の中との関わりがあると言え、山上ヶ岳の禁制の空間に見る精神的意義のことなども思われて来るのである。

                            

 このように見て来ると、いかに近代化された民主主義の世の中にあっても、男女からなるところの人間関係は今も昔も根本のところは変わりなく、いろんな面にその影響が現れ、これを因にした事件なんかも起き、今も世の中をぎすぎすしたものにしていることがわかる。そして、このような世の中にあっては、一時的ではあるにせよ、自分の身を禁制の空間に置いて自分及び自分に関わる人間関係を見つめることの精神的な意義、効用というものが認められるわけで、ここに女人禁制の必要性が指摘出来ることになる。

 山上ヶ岳の女人禁制は男女から成り立っている私たちの暮らしの中の一つの知恵と言ってよいもので、これは修験道の開祖、役行者の崇められる指標にもなっているストイックに通じると言える。 で、これは提案でもないが、この男女の世の中における効用としてある禁制の場を女性の側も持ち、どこかに山上ヶ岳に等しい男子禁制の御山というものを運営することがあってもよいのではないかということで、私にはこれを奨めたい気もする。女性も上ヶ岳のような禁制の場を持てば、男女平等の意味の上においてもよかろう。女人禁制をなくするよりも、世の中の効用としては、むしろこちらの方がよいように思われる。どうであろうか。写真は左が山上ヶ岳の山頂広場にある大峯山寺。右は絶壁をなす西の覗。

                                          


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2012年07月27日 | 万葉の花

<329> 万葉の花 (24) かほばな (可保婆奈、可保我波奈、容花、㒵花)=ヒルガオ (昼顔)

       昼顔や なほ伸び上がる 文月かな

     高円(たかまど)の野辺の容花(かほばな)面影に見えつつ妹は忘れかねつも             巻 八 (1630)   大伴家持

   石はしの間間に生ひたる皃花(かほばな)の花にしありけりありつつ見れば                      巻 十 (2288)   詠人未詳

   うち日さつ宮の瀬川の可保婆奈の恋ひてか眠らむ昨夜(きそ)も今夜も                          巻十四 (3505)  詠人未詳  

   美夜自呂(みやじろ)の砂丘辺(すかへ)に立てる貌が花な咲き出でそね隠(こ)めて偲はむ                                                                                                                                                                   巻十四(3575)  詠人未詳 

 『万葉集』にかほばなは冒頭にあげた四首に見える。家持が坂上大孃に贈った長歌の1630番の反歌は「高円の野辺のかほばなではないが、その花の面影にあなたが見えて忘れることが出来ないでいる」というほどの意で、この歌からは妻帯間もない初々しい家持と大嬢の気分が伝わって来る印象の歌になっている。それはさて置き、この歌は「秋相聞」の中にある歌なので、ここに出て来る「容花」は秋の花ということになる。

 詠み人が詳らかでない2288番の歌は、かほばなを女性に喩えた歌であるが、これも「秋相聞」の中にあるから、秋に咲く花ということになる。で、その意は「あなたは石の間に生える可愛らしいかほばなにほかならない。ずっと見ているだけの私だが」となり、あきらめの気分が漂う恋心が見て取れる歌であるのがわかる。

 詠み人が不明の3505番の歌は、「宮の瀬川の傍に生えるかほばなのような可愛らしいあなた、昨日の夜も、今日の夜も私と同じように恋して寝ているのだろうか」というほどの意で、これも恋の歌である。また、詠人未詳の3575番の歌は、「みやじろの砂丘辺に立っているかほばなのあなた、人目につくようには咲き出さないでほしい」というほどの意で、恋しい人を独り占めにしておきたいという心理が働いている歌である。

 つまり、四首ともかほばなを恋しい人に重ねてイメージし詠んだ歌であるのがわかる。その花は美しく可愛らしい印象を受ける。そこで思われるのが、かほばなが現在のどんな花に当たるかということで、後世はいろいろと思いを巡らせて来た。

 この四首の歌から該当する条件をピックアップしてみると、まずは秋に咲く花であり、野辺、川辺、砂丘の辺りに咲く花ということが言える。次に昼に咲き夜萎む花であること。また、立って咲く花であること等があげられる。で、カキツバタ、オモダカ、ムクゲ、ヒルガオなどの説が出ているが、ヒルガオが四首に見える条件によく合致していると言え、有力視されている。ヒルガオとするならば、3575番の砂丘辺の花はハマヒルガオ(浜昼顔)が想起されれ、花はヒルガオに似るので、これもヒルガオと見たことが出来る。

 ヒルガオはヒルガオ科のツル性多年草で、日当たりのよい原野や道端などに生え、鉾形から矢じり形の葉をつけ、六月ごろから八月ごろにかけて淡紅色の漏斗状の花を咲かせる。ときに遅咲きのものは秋にも見られる。昼咲いて夜萎むのが特徴で、この特徴によりこの名がある。全国的に分布し、大和でも道端や川岸などで見られる。仲間のアサガオは庭などに植えられ、野生のものは少ないが、ヒルガオはその逆で、ほとんどは野生で、植えられたものは珍しい。他の草木などに巻きついて這い上がるように花をつけるので、立って咲くイメージもある。

 俳句の季語では、アサガオが秋に対し、ヒルガオは夏であって、夏の印象が強く、この点は『万葉集』のかほばなと一致しないところがある。言わば、かほばなをヒルガオとする説は決定的条件に欠けるということも言え、契沖の『代匠記』などがあげる「一種に限らず、秋の美しい花を指す」という見解もあり得ることに繋がっている。以上、これらのことを総合的に考えると、有力視されているヒルガオに落ち着くと言えようか。しかし、どちらにしても推察の域を出るものではない。