<333> 万葉の花 (25) せり (芹子、世理)=セリ (芹)
芹咲いて ゐたる水辺に 子らの声
あかねさす昼は田賜(たた)びてぬばたまの夜の暇(いとま)に摘める芹これ 巻二十 (4455) 葛城王
大夫(ますらを)と思へるものを太刀佩きてかにはの田居に芹そ摘みける 巻二十 (4456) 薩妙觀
セリについては、このブログの最初に登場してもらった。昨年のお盆前のころであったが、今回は「万葉の花」として、そこに焦点を当てて触れてみたいと思う。『万葉集』にセリの見える歌は巻二十のこの二首のみであるが、この二首は、当時、セリが食用として貴重な摘み草であったことを示す歌として鑑賞することが出来る。
葛城王は美努(みぬ)王を父、県犬養三千代を母とする敏達天皇五世の孫と言われ、聖武天皇の妃、光明皇后の異父兄に当たり、後に母三千代が賜った橘姓をもらって臣籍に下り、橘諸兄を名乗った人物である。その後、藤原不比等の四子が相次いで病死することにより大納言に推され、右大臣、左大臣にものぼり、実権を握ったが、藤原氏の巻き返しによって引責辞任に追いやられるに至り、悲運に見舞われた。その一生は、仏教の進展に寄与し、大伴家持との親交によって『万葉集』にも関わったとされ、奈良時代に浅からぬ足跡を残した人物の一人である。
命婦(みょうぶ)は宮中の雑務を任された従五位以上の女官で、歌は葛城王が班田の司に任ぜられ、山背の国(京都府南部の地)に赴いていたとき、「班田を分かち与える仕事が忙しく、夜の間に摘んだセリですよ」と思わせぶりにそのセリに添えて命婦らに贈ったのに対し、内命婦薩妙観(せちめうくわん)が「大の男が刀を差してカニのいる田などでよく摘んでくれたものですね」と少し揶揄する諧謔の気分をもって返したもので、贈答歌の典型のような歌であるが、歌に掛け合いの気分が見えるところは気の置けない互いの親しさが表されているところがあっておもしろい。で、この歌は葛城王が橘諸兄と名乗るようになった後の宴で、披露されたものとして、その経緯が歌の左注に見える。
それはさておき、ここで注目したいのは、セリを誰が摘んだかということである。歌の内容からしてそれは高貴な男性たる葛城王自身であり、それを敢えて歌に詠んでいる。これは単なる思わせぶりではなく、自分で摘んだことをそれとなく、しかし、しっかりと贈り先の相手に伝えている。これは自分がどこで摘んだかということを相手に知らせることが当時の常識のようになっていたのではないかということが思われ、打ち砕けた言い方でそれを伝えているということが出来る。では、それがどうしてかを以下に考察してみたいと思う。
摘み草については、現代人より当時の人の方が知識も実践力も豊富であったと想像される。それは摘み草に毒草のリスクがあり、毒草との見分けが必要だったからであるが、自分で摘むということによって、この野草が有するこのリスクに対することが出来たからである。つまり、葛城王はそこのところを実践しているわけで、「誰が摘んだか知れないものなど贈りませんよ」と暗には言って相手を安心させていると考えられる。この贈答歌は双方の信頼関係によって成り立ち得ている歌と言えるわけである。このことについてはほかにも事例の歌がある。『古今和歌集』巻一「春歌上」にある次の歌にそれを見ることが出来る。
君がため春の野に出でて若菜つむわがころもでに雪は降りつつ 光孝天皇
この歌は「仁和のみかど、みこにおはしましける時に、人にわかなたまひける御うた」という詞書があることから、光孝天皇が親王であったときの歌で、仁和は年号、君は陽成天皇の摂政藤原基経とされる。所謂、親王が雪の降る中で摘んだ若菜を親密にしていた基経に贈ったのである。この歌はその若菜に添えられた歌で、『小倉百人一首』にも採られ、人口に膾炙した歌であるが、ほのぼのとした麗しい光景が浮かんで来る。
人に任せればいいのにと、現代人には不思議なように思われるが、ここでも、親王自らが雪の降る中で摘み草をしているのである。これは摘み草に毒草のリスクがあるということを当時の人々は知悉し、親王にしても野草の知識に詳しかったのではないかと想像される。つまり、「私の摘んだものですから安心して食べて下さい」というメッセージが葛城王の歌にも光孝天皇の歌にも込められていることが想像される。摘み草の歌に男性の歌が結構多いのも、これを意味するものではなかろうか。貴賎、男女を問わず、当時は摘み草が習慣的に行われていたのであろう。『万葉集』の冒頭、雄略天皇御製の長歌にもそれがうかがえる。
そこで、セリという植物であるが、セリはセリ科の多年草で、全国的に分布し、湿地を好むところがあり、大和でも各地に見られる。「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七草」と詠まれ、セリは春の七草の第一番にあげられているが、これは、秋の七草が『万葉集』巻八の山上憶良の「萩の花尾花葛花瞿麥の花女郎花また藤袴朝顔の花」(1538)の歌により花を基準に選ばれているのに対し、食材を基準に選ばれたもので、正月の七草粥でお馴染みのものである。
このようであるから、春の七草がいつどのような花を咲かせるか、案外知る人は少なく、セリにもそれが言える。セリは夏の盛りのころ複散形花序に白い小さな花を密に咲かせる。群生することが多く、一面に花の見られることもある。毒草で知られる仲間のドクゼリに似るが、殊に若菜摘みのころは判別し難く、毒草に無頓着な人がセリと間違えてドクゼリを食べ命を落としたということが科学の進んだ現代でも聞かれる。
判別は根茎を見るのが一番で、ドクゼリはタケのような節のある太い根を持っているので、根によって見分けることが出来る。セリ科にはほかにも似たものがあるので、野生のセリにはあまり手を出さない方がよいように思われる。とにかく、セリは万葉のころから摘み草として食用にされて来たが、毒草のリスクがそのころからあったはずで、歌のニュアンスなどからもそれがうかがえると言える。
因みに、『延喜式』によれば、セリは食用として植えられてもいたから、当時の人のセリに対する知識は現代人よりもはるかにあったと思われる。しかし、ドクゼリの恐怖は誰もが持っていたに違いなく、野草に食の比重が高かった当時の暮らしにして思えば、その恐怖の思いは現代人の比ではなかったと言える。 写真は左から水辺に群生し花を咲かせるセリ。複散形花序が特徴のセリの花。池の傍に生え、花を見せるドクゼリ。