大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年09月08日 | 祭り

<1100> 唐招提寺の観月讃仏会

        慈悲無量唐招提寺観月会

 中秋の名月に当たる八日夜(午後六時から午後九時まで)、奈良市五条町の唐招提寺で恒例の観月讃仏会が催され、多くの参拝者でにぎわった。この法会は開祖鑑真和上の遺徳を偲び、和上とともに名月を楽しむという趣向によって毎年名月の日に行なわれているもので、午後六時前から金堂で法要があり、公開された御影堂では献茶式が行なわれた。

  境内は午後六時から無料開放され、本尊の盧舎那仏坐像や、薬師如来立像、千手観音立像などが安置されている金堂内陣に灯りが点され、堂の全面が開かれて、法要が進められた後、一般の拝観が行なわれた。夜が更けるに従って暗くなった外面に三尊像が浮かび上がり、境内は荘厳な雰囲気に包まれた。

   

  また、普段は立ち入りが制限されている御影堂の前庭にも入ることが出来(五百円必要)、この庭にも多くの来訪者が訪れた。庭から鑑真和上と名月を楽しむという設定で、堂は開け放たれ、来訪者は、折しも東の空に上がった中秋の名月とともに、堂内を彩る東山魁夷画伯の襖絵などを鑑賞した。庭には献茶台が設けられ、月見団子、里芋、季節の果物、秋の七草などとともに裏千家による献茶が供えられ、中秋の観月の庭はゆったりとした時の流れの中、三々五々訪れる人々で更けて行った。 なお、御影堂の庭は撮影禁止のため写真に出来なかった。

 写真は左から暗闇に浮かびあがる金堂の三尊像(向って左から千手観音、本尊の盧舎那仏、薬師如来)、金堂前の円柱の間からのぼって来た中秋の名月。仏前で法要を営む僧侶。


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2013年12月29日 | 祭り

<848> 薬師寺のお身拭い行事

        新しき 年に向かひて お身拭ひ

 二十九日、奈良市西ノ京の薬師寺で恒例のお身拭いが行なわれた。お身拭いはすす払いと同じで、仏像に溜まった一年の埃を拭って新しい年を迎えるもの。午後一時から大きな注連縄飾りが掲げられた白鳳伽藍の金堂(本堂)で、本尊の薬師三尊像(国宝)の魂を抜く法要が営まれ、その後、僧侶や全国から参加した薬師寺青年衆のボランティア約五十人が鏡餅を搗くとき用いたお湯を使って、薬師如来像と脇侍の日光、月光の両菩薩像の埃を一斉に拭った。その後、大講堂や東院堂などでも諸仏像のお身拭いが順次行なわれていった。

     

 この日は、法要の後、普段はお目にかかれない我が国最古の彩色画で知られる福徳円満の吉祥天女画像(国宝)が納められた厨子が金堂の正面、薬師如来像の前に置かれ、開扉された。これも迎春準備のためで、一旦閉じられ、三十一日の深夜に行なわれる吉祥天悔過法要で再び開扉され、一月十五日まで開かれる。薬師三尊像のお身拭いのときは堂内が参拝者でいっぱいになった。

 写真は左から金堂に掲げられた大注連縄のお飾り。本尊薬師如来像のお身拭いとお身拭いの後の薬師如来像の尊顔(ともに金堂で)。彌勒如来像など諸仏像のお身拭いと青年衆によるお身拭い(ともに大講堂で)。


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2012年10月22日 | 祭り

<416> 2012・ 秋祭り (4)  菟田野のみくまり祭

       老若も 男女も集ひ 秋祭り 

 二十一日、宇陀市菟田野の宇太水分神社(うだのみくまりじんじゃ)で、秋の例大祭のみくまり祭が行なわれ、勇壮な太鼓台などが繰り出し、多くの人出でにぎわった。宇太水分神社は稲作立国に力を注いだ第十代崇神天皇の勅祭と伝えられる神社で、稲作に欠かせない水を司り、南の吉野水分神社(吉野郡吉野町の吉野山)、西の葛木水分神社(御所市関屋)、北の都祁水分神社(奈良市都祁友田町)とともに大和の東西南北に配された四所水分社の一社として知られる。

                                   

 水分(みくまり)は、『古事記』の神話(神々生成の条)によるもので、伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が次々に神を生み、日本国を形成してゆくが、このときに「水戸神(みなとのかみ)、名は速秋津日子神、次は妹速秋津比賣神を生みき。云々」とあって、この水戸神が天之水分神(あめのみくまりのかみ)と国之水分神(くにのみくまりのかみ)を生むことによって、この神々が水を司るということで、ここに由来していると言われる。

                                      

 この由来により、水分(みくまり)と名のつく神社は概ね水源の地や川上に造られ、水を司る前述の速秋津日子神及び妹速秋津比賣神、天之水分神、国之水分神を祭神として祀っている。宇太水分神社では速秋津日子神と天之水分神、国之水分神を祀り、妹速秋津比賣神は近くを流れる芳野川の上流六キロメートルの地にある惣社水分神社(そうしゃみくまりじんじゃ)に祀られている。

 みくまり祭は、水の神であるこれらの神に収穫を感謝する歓びの祭りであるが、祭りはこの妹速秋津比賣神が秋たけなわの旧暦九月二十一日(現在の十月二十一日)に宇太水分神社へ神輿でお渡りし、夫神である速秋津日子神に会われるという設定で、平安時代に遡ると言われる。近年、中断されていたが、平成に至って復活し、十月の第三日曜日に行なわれるようになった。今年は二十一日と日曜日が重なった。

                                    

 渡御の神輿(重要文化財に指定されているため運行するのはレプリカ)は槍振や花傘などに導かれ、六キロメートルを歩き、前後して地区を代表する六基の太鼓台が練り、宇太水分神社に向った。姫神の宮入りがあると、祭りはクライマックスに達し、境内では太鼓台が次々に練り合いを見せ、見物する人たちを興奮の渦に巻き込んだ。


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2012年08月20日 | 祭り

<353> 大柳生の太鼓踊り

        あをあをと 大和国中 青葉月

 十八日、奈良県の無形民俗文化財に指定されている大柳生の太鼓踊りが奈良市大柳生町の営農組合交流館広場で行なわれた。新聞の記事によると、今年が最後であるという。踊りは雨模様の中で行なわれたようであるが、室町時代から継承されて来た太鼓踊りの終焉は単なる感傷では済まされない重要な意味を含んでいるということで、この踊りの終焉について少し考えてみた。

 大柳生の太鼓踊りは、五穀豊穣や子孫繁栄を願って地元の夜支布(やぎゅう)山口神社の氏神に奉納するもので、大柳生町三地区の当屋(当番の家)三家が毎年持ち回りで、氏神を自邸に招き、邸内の庭で行っていたが、近年、踊り手の若者が少なくなり、現在の広場で三地区全体から踊り手を集め行なうようになった。しかし、それでも踊り手が確保出来ない状況に陥ったため、今年限りで取り止めることにしたという。

 大柳生町は奈良市街から山一つ東に越えた大和高原の一角に位置する農業が中心の町で、近くには大和茶で知られる茶畑なども広がるところであるが、若者の流出が止まらず、太鼓踊りの中止に繋がった。この取り止めは大柳生町の事情によるものであるが、この中止は大和全域が抱える事情を含むもので、我が国全体にも及ぶ産業構造に関わる問題であり、地域社会の存立をも危うくしている現代社会の象徴的な現れとして捉えるべき問題でもあることが言える。

 太鼓踊りの取り止めは、橿原市地黄の野神行事の一つである「地黄のススツケ祭り」が少子高齢化によって子供の人数が少なくなって立ち行かなくなり、取り止めに追い込まれ、神事に関わる部分のみが細々ながら続けられている状況と同じで、我が国が抱える社会の変貌を物語るもので、その在り方や行方など考えさせられるものとしてあるのがわかる。

 この間、山の辺の道で、七十歳代のミカン農家の主人と話していて聞いたのであるが、天理市柳本町付近の農家千戸の中で後継者に心配のない農家はわずかに五十戸足らずであるという。大和国中の農業には一番いい立地のように思われるこの辺りでと、耳を疑うような話だったが、後十数年もすれば、この辺りは雑草の繁る荒れ地になるだろうと悲観的な言葉が出る。今は青々とした水田が広がっているが、後継者のいない農家は実際のところどうするのだろうか。今でも既に山側の上部は畑が雑木に被われているところもあるという。こういうところを見ると、もっと綿密なリサーチが必要で、それに基づく対処がなされるべきであると思われるのであるが、どのような方策が取られるのであろうか。聞く側も悲観的になる話ではあった。

 で、これは太鼓踊りが取り止めになった大柳生町が抱える事情と全く同じであることが言える。こういう深刻な問題を抱えているところが大和のいたるところに見られるのが現代の抱える状況なのである。この問題は国家の計に関わることで、工業国を目指して来た我が国の産業構造における行き詰まりと市場優先による拝金主義的政策における第一次産業の辿って来た道の現れと言ってよく、一地域の個別的な問題に止まらない深刻さを示すもので、これは、都市部とも関連し、考えを巡らさなくてはならない問題としてあり、政策的知恵が求められるのんびり構えていられないところのものがあると言ってよい。

                    

 思うに、国には市場経済に左右されないような地に足のついた地道な産業の育成に当たり、まともな家庭生活が営める社会環境の整備、構築が必要で、食料の自給率ぐらいはもっと高めるぐらいの政策を取ることが望まれる。そうすれば、自ずと少子化の問題などは解消し、活力のある社会が蘇ることになる。杜甫の五言律詩『春望』にいう「国破山河在」は、これを裏返しに言えば、山河があれば破れた国もまた立て直すことが出来ることを示している。しかし、その山河(例えば田園風景)が荒れてしまっては、私たちの精神状況にも関わることで、ゆゆしきことと知らねばならないわけで、冒頭の句が思われて来るのである。写真の太鼓踊りは十年ほど前に担当当屋の邸前で行われたもので、夜中に行なわれる踊りは実に華やかだったのを覚えている。

              


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2012年08月17日 | 祭り

<350> 賣太神社の阿礼祭

        阿礼祭や 継ぎ来し子らの 踊りの輪

 お盆の十六日、環濠集落で知られる大和郡山市稗田町の賣太(めた)神社で、第八十三回阿礼祭(あれさい)が行なわれた。賣太神社は『古事記』の編纂に当たり筆記者の太安万侶に語り聞かせたと言われる稗田阿礼を祀る神社で、阿礼祭は『古事記』の神話をお話の原点とする考えに基づき、阿礼を「お話の神様」と讃え、昭和五年(一九三〇年)に始められた祭りである。

  お盆の期間は人の集まりもよいことから八月十六日に行なわれるようになったということで、テーマが「お話」であることから、参加者には語り聞かせの対象である子供たちが多く、盆踊りさながら輪になって踊る「阿礼さま音頭」なども子供たちが主役で進行される。ほかにも歌や紙芝居なども登場し、この日一日境内はにぎわった。

                                      

 お盆の前後は、毎年、暑い日が続き、今年も変わりなく、この日も猛暑に見舞われ、朝から強い日差しだったが、境内は樹木が多く、木陰があって暑さを凌ぐにはよかった。十二年前にもこの祭りを見学したことがあるが、そのときに比べると、見物人が多いように思われた。これは、和銅四年(七一二年)の『古事記』編纂から一三〇〇年という節目の年に当たるからだろうか。テレビなど報道関係の取材者も目についた。

 元気な子供たちの踊りの輪を見ていると、最近ニュースになった大和郡山市の人口減の話が信じられない光景として受け取れるが、世間全般からすれば、やはり、少子化は現実のものなのだろう。そんなことにも思いがいって、この記事中でその比較などのため、新旧の写真を並べてみた

  思うに、十二年前の踊子は既に二十歳を過ぎ、子の母になっている踊子もいるに違いない。その子がまたいつかこの踊りの輪に加わる。こうして世代は引き継がれて行く。建国の時代に関わった稗田阿礼に因む子供たちの踊りの輪は今年八十三回を迎えたわけで、これからも継がれて行くだろうが、建国の原点である子供たちが少なくなって行くこと、つまり、少子化ということがやはり気になるところである。写真は左が十二年前の「阿礼さま音頭」の踊りの輪。右は今回の踊りの輪である(いずれも、賣太神社で)。