大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年06月30日 | 祭り

<1030> 夏越しの大祓い

          老いの身が 茅の輪をくぐる 通りゃんせ

 今日は六月の尽日、今年の半分が無事に過ごせたことに感謝し、残りの半分を無事に過ごせるように願って行なわれる夏越(なご)しの大祓いの日で、各地の神社では穢れを祓う神事と厄除けの茅の輪くぐりが行なわれた。この行事は恒例になっていて、大和でも多く見られる。今日は磯城郡田原本町蔵堂(くらどう)の村屋坐弥冨比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)でも行なわれるというので出かけてみた。

 六月三十日の夏越しの大祓いは十二月三十一日の年越しの大祓いとセットになっている厄除け神事の一つで、大宝元年(七〇一年)に制定された大宝律令によって定められた宮中の年中行事として始められ、夏越しの大祓いは六月(みなつき)祓いとも呼ばれ、茅で作った茅の輪くぐりをして穢れを払うのが慣わしとして見られ、夏の風物詩になっている。

   水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶといふなり            (『拾遺和歌集』・平安時代

 村屋坐弥冨比売神社の夏越しの大祓いは午後四時から四隅に忌竹を立て、周囲に四手縄を張って結界とした拝殿前の庭で行なわれ、まず、神主を先頭に氏子や参拝者が正面に作られた直径一.五メートルほどの茅の輪をくぐって結界内に入り大祓いは始められた。

     

 この神社の大祓いは、茅の輪くぐりで穢れを払った後、配られた紙の人形に三回息を吹きかけて戻し、次に四手をつけたチガヤをもらって体に触れるように左右に振って、これも戻し、最後に麻に見立てた紙切れを手渡され、それを自分の体に振りかけるように散らして穢れを落とし、約一時間ほどで大祓いは終了した。

 大祓いの神事が終わると、結界の四手縄が神官によって切られ、参加者の穢れを払った茅の輪や紙の人形、四手のついたチガヤ、麻に見立てた紙片などが参拝者全員によって神社の裏を流れる初瀬川(大和川)に運ばれ、橋の上からそれらを投げ落して流した。

 この神社の地は、壬申の乱のとき、天智天皇の近江軍を大海人皇子(後の天武天皇)軍が迎え撃ったとされるところで、官道の中ツ道が通っていた場所に当たり、この夏越しの大祓いの行事がその当時から始められたことが思われる。また、神社の境内には平野部では珍しいイチイガシの巨樹が見られ、社叢が奈良県の天然記念物に指定されていることとこの大祓いの行事に何か重なるようなところがうかがえる。

 写真は左から茅の輪をくぐる参拝者。大祓いの神事に参加した人たち。参拝者の穢れを払って戻されたチガヤ。茅の輪などを川へ流しに行く人々。橋から初瀬川(大和川)に茅の輪などを投げ落して流す人たち。


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2014年06月29日 | 写詩・写歌・写俳

<1029> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (73)

              [碑文]     かすが野のいにしへさまに木を草をのこす園にて春逝かんとす                         宮 柊二

 この宮柊二の歌碑は奈良市春日野町の春日大社神苑の萬葉植物園にある。この植物園は春日大社表参道の二の鳥居に差しかかる手前、東大寺口から来る北参道と交わる地点の北の一角約三ヘクタール(九千坪)の木々に囲まれた中にあり、参道を隔てた向かいには奈良公園のシカの保護、管理に当たっているシカの角切りでお馴染みの鹿苑がある。昭和七年(一九三二年)に昭和天皇の賛同などにより、『万葉集』ゆかりのこの地に出来たもので、最も古い万葉植物園として全国的に知られている庭園である。

 現在の園内は、五穀の里、万葉の園、藤の園、椿園などが設けられ、万葉植物と目される約三百種の草木が植栽され、自由に散策して見られるようになっている。万葉の園には中央に池があり、その池を巡る展示コースが設けられ、展示用の万葉植物が万葉歌と万葉植物の説明を添えて並べられ、季節ごとに花も観察出来るようになっている。

                          

 春日大社は藤原氏の氏神として知られ、フジが紋に用いられているように境内やその周辺にはフジが多く、萬葉植物園でもフジに力を入れ、藤の園には二十種、二百本のフジが育てられている。ツバキも多く植えられ、草花では奈良県では絶滅種とされ、全国的にも珍しい染料植物のムラサキなどが見られ、四季を問わず、万葉植物の花が楽しめる。歌碑の歌は柊二がこの万葉の庭園を訪れて詠んだものであることが一読してわかる。多分、晩年の作だろう。

 宮柊二は大正元年(一九一二年)、新潟県北魚沼郡(現魚沼市)に生まれ、俳句を嗜んでいた父の血筋であろう、長岡中学在学当時から短歌を作り、浪漫派の北原白秋に師事した。だが、昭和十四年(一九三九年)に日本製鉄入社とほぼ同時に応召し中国北部山西省(現河北省)等の戦地に一兵卒として赴き、足かけ五年の間、激戦地を転戦し、かろうじて生き延び、帰国した。その後、戦地の体験を詠んだ歌集「山西省」を世に問い、注目されるに至り、現実主義的短歌の実践者として自歌の展開をし、昭和二十八年(一九五三年)、短歌結社コスモスを主宰、歌誌コスモスを創刊して歌人への道を確固たるものにした。

 以後、歌の道に励み、十三冊の歌集を出すとともに後進を育て、戦後の短歌界をリードした。また、宮中の歌会始めに選者として登用されるなどして、昭和五十二年(一九七七年)、芸術院賞を受賞した。晩年は糖尿病、関節リュウマチ、脳梗塞といった病との闘いが続き、大腿部の骨折もあって入退院を繰り返した後、急性心不全の発作によって、昭和六十一年(一九八六年)十二月に七十四歳の生涯を閉じた。

                  

  この歌碑は、碑陰に曰く、昭和六十年(一九八五年)五月六日、即ち、柊二が亡くなる一年半ほど前にコスモス短歌会によって建てられたものである。園内にはほかにも、会津八一、釈迢空(折口信夫)、前川佐美雄・緑夫妻の歌碑、それに、島崎藤村筆による万葉歌碑などが配置されているが、園を訪れて詠んだ歌はこの歌碑一つである。 

 この歌碑は椿園に置かれているが、この碑に接していると、一つの感慨に見舞われる。宮柊二の代表作は戦地の体験に基づく歌集『山西省』などの歌に見られるが、その代表作を思い浮かべながら、この歌碑に見入っていると、こんなやさしい和やかな歌を詠む心の持ち主に以下のような歌を詠ませた殺し合いの戦争というのはまことに残酷で、罪なものだということが思われて来る。

    あかつきに風白みくる丘蔭に命絶えゆく友を囲みたり  ( 『山西省』 )

   ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す  ( 『 同 』 )

 激戦の中では、敵も味方もなく、善悪などもなく、ただ殺し合う。やらなければ、互いに自分の方がやられる。つまり、戦地というのは究極のところ殺すか殺されるかである。こういう状況は歌人宮柊二のような体験者でなければわからないことかも知れないが、平和の中で暮らして来た私たちにも想像することは出来る。このような歌を思うと、今、取り沙汰されている集団的自衛権の容認による平和憲法九条を骨抜きにするような政治家の動向が思われて来るところで、気軽にやってくれるじゃあないか、いい気になるなと言いたくなる。彼は晩年次のようにも述懐して詠んでいる。

    中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ  ( 『 純 黄 』 )

 このように詠む彼は、歌碑の歌で、今に伝えられ、育くまれる万葉植物に平和の趣を見ている。ここには人間も植物もみな同じ生命の持ち主たる存在で、遠い昔からその生命を繋いで今ここにあることへの思いが感じられる。この歌碑の歌にはその命の殺し合いである戦争を糾弾する歌と心の底では通じているようで私にはよくわかる歌である。ずっと守り続けて来た平和の精神を愚かにも放棄して戦争をやる国にする意向が悲しいかな現実になろうとしている。 写真上段は春日大社の萬葉植物園の正面入口と展示された万葉植物の列。下段は左から柊二の歌碑、藤の園のフジ、黄蝶とムラサキの花。  万葉の 花に平和な 春の風

 


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2014年06月28日 | 写詩・写歌・写俳

<1028> かもめのジョナサン

           人生の一つのかたち示しつつ 烈風(かぜ)に向かひてジョナサンが飛ぶ

 四半世紀ほど前のことであるが、現役時代、何年の何月であったかはよく覚えていないが、ある企画のため夏の青森を訪ねたことがある。下北半島の恐山から津軽半島の川倉地蔵へ、みちのくの地蔵信仰を探求のための旅であった。早朝に奈良の自宅を出て、大阪空港から青森空港まで飛び、空港で車をレンタルして青森の旅を始めた。

 青森市から下北半島を睦奥湾に沿って一路北上し、恐山まで。途中、貝柱定食の昼食を摂り、恐山に着いたのは午後二時過ぎだった。早速、仕事に取りかかり、夕暮れまで賽の河原の地蔵尊や神秘に満ちた宇曽利山湖などの写真を撮った。その日は恐山の宿坊に泊めてもらい、次の朝、脇野沢の瀬野港からフェリーで津軽半島の蟹田まで平舘海峡を渡り、金木町の川倉地蔵に回った。

  風土とは斯くあるものか夏津軽 冬は厳しきところと聞きぬ

  地吹雪を語る津軽の人の声 短き夏の旅の夕暮

  この日は太宰治の生家で知られる斜陽館に泊まり、翌日は竜飛崎まで足を延ばし、一日かけて津軽半島を往復した。十三湖などを見て青森空港まで引き返し、そこで車を返して帰路についた。このときの仕事はそんな二泊三日の旅だった。

                                                          

 この旅の途中、瀬野港で『かもめのジョナサン』(リチャード・バック著、五木寛之訳)の主人公ジョナサン・リヴイ ングストンに出会ったのである。それは確かに強風の中で訓練するかもめのジョナサンことジョナサン・リヴイングストンだった。海に突き出た突堤の上空三十メートルくらいのところでただ一羽、ヘリコプターがホバーリングするように長い間強風に向かってじっとひとところに停まっていた。それは本当に長い間だった。

 突堤の彼方には平舘海峡と睦奥湾が広がり、海は空を映して青く、その濃紺とも言える青色の海面にずっと彼方まで白波が立って見えた。一点に停まってほとんど動かずにいるジョナサンには羽に相当な力がかかっているはずであるが、それほど風を気にしている様子はなかった。もしかしたら風の力を利用する訓練をしていたのかも知れない。

 とにかく、長い間だった。フェリーを待つ三十分ほどの間、ずっとひとところに停まっていた。何のためであろう。ジョナサンには群を離れてただ一羽でいるということにどんな意味があるというのか。その姿には孤独が感じられたが、決して、暗くはなく、その姿には漲る力のようなものが見受けられた。これこそジョナサンのジョナサンたるところ。私にはジョナサン・リヴイングストンを見たという気持ちになった。

  フェリーが入港してからもジョナサンはホバーリングの姿を変えることなく、ただ一羽、突堤の上空に停まってほとんど動かなかった。あれは確かに羽の少し大きめなかもめのジョナサンことジョナサン・リヴイングストンに違いなかった。

 「すべての生活の隠された完全な原理をすこしでも深く理解するために、研究と練習と努力とを決して途中でやめてはならぬ」と、かもめの長老がジョナサンに言って聞かせたあの言葉が蘇って来た。「すべての生活の」「隠された完全な原理を」「すこしでも深く」「理解するために」「研究と練習と努力とを」「決して途中で」「止めてはならぬ」と、言葉の断片が詩人の言葉さながらに私の記憶の中で蘇って来た。

 ジョナサンは長老の言葉をよく理解した。いまの存在は生まれてこの方の努力の結果である。ジョナサンは確かに人生の一つのかたちを示すものであり、その行動は教訓に満ちている。かもめのジョナサンことジョナサン・リヴイングストンの空中静止はフェリーが出航してからもなお続けられただろう。おそらくはその日以後も。で、それは、私にとって記憶に残る一つの眺めだった。

 以上は二十数年前の雑記であるが、今もよく覚えている。人生には努力の結果が反映される。かもめのジョナサンの物語はこのことを語り、パート3で完結したものと納得していた。だが、このほどパート4を加えた完結版が出たという。まだ、読んでいないが、話によると、ジョナサンは孤独な訓練の努力によって高度な技術を習得し、成功者になるが、そこから堕落が始まり、どん底へと向かう。しかし、また、そこから立ち直って本来の自分を取り戻すという筋立てのようである。

 ジョナサンはかもめであるが、人間に等しい存在であることはわかる。内容は哲学的であるが、人生に迷いが生じて来るということは宗教的問題も含んでいると言ってよかろう。一は十に及び、十は百、千、万の多数に及び、社会の傾向に結びつき、影響して来る。このかもめのジョナサンは孤独な存在であって、完結部分のパート4は既に四半世紀前に書き上げていたようであるが、そのときには、ジョナサンが成功者になったパート3までを発表しのだという。

 つまり、その時代は、パート4が受け入れられないような発展途上の社会状況にあったと作者のリチャード・バックは考えていたようである。だが、時代が進み、堕落と反省と出直しが必要な時代現象が現在の社会に見られるに至り、このパート4を加え、完結版として今回出版し直したということらしい。

 これは、いつかどこかで触れたことであるが、真理のようにいつの時代にも変わらない不変なものがある一方、評価とか価値観といったものは時代や個々人によって異なりを見せるものがある。『かもめのジョナサン』の今回の出版し直しは、このことをよく表しているのではなかろうか。現代社会に訴え得るパート4を当時既に書き上げていたということは、作者リチャード・バックの洞察力が思われるところである。

 この話は大和に直接関係のないことであるが、この度、『かもめのジョナサン』の完結版が出版されたということで取りあげてみた。写真は『かもめのジョナサン』の文庫本。昭和六十三年五月の版で、三十一刷とあるからそのころに読んだものである。

 


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2014年06月27日 | 万葉の花

<1027> 万葉の花 (128)  うり (瓜) = マクワウリ (真桑瓜)

        父母の家懐かしき真桑瓜

 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさね                    

                                      巻五(802) 山上憶良 

 集中にうりの見える歌はこの憶良の802番の長歌のみである。この歌は「子等を思ふ歌一首」の題詞に加え、等しく生きとし生けるものに心を傾ける大慈悲心の釈迦ですら愛するは子に勝るもののないことを言っている。ましてや、私たちの誰が子を愛さずにいられようかという内容の序文をもってある歌で、「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも」という反歌をともなっている。

 この歌は神亀五年七月二十一日の歌の間に挟まれて配置されている歌で、この並びから、憶良が筑前の国守として九州に在任していたときの歌であることがわかる。ちょうど大宰府には長官職の太宰帥として大伴旅人(家持の父)が赴任し、二人はよく歌をし、ほかの歌人も加わって筑紫歌壇をつくり、、歌による交流が行なわれていた。この歌もそのときの一つに数えられようか。憶良六十八、九歳のときの作である。年齢からすると、この「子ども」というのは、自分の子というよりは家族の中の子供全体をイメージしているようなニュアンスであり、子供を宝に思う憶良の考え方、つまり、思想性がよく現われていると言える。

  という次第で、この長歌の意は「ウリを食べれば、子供に食べさせたいと思い、クリを食べれば、なお一層子供が偲ばれる。このように愛しく思われる子供というのは果たして何処から来たのだろうか。まなかひ(眼前)にもとなかかりて(わけもなく)思い浮かび、やすいしなさね(眠れない)」となる。この意を受けてある反歌の方は「世間では銀や金や玉など金目のものが大切に言われるが、それより何より、子供に勝る宝はない」と言っている。この歌は、つまり、自分が食べているウリやクリを子供たちに食べさせてやりたいという子供に思いを傾ける親心の歌で、万葉歌における憶良という歌人を仏教の精神に則った慈愛の人と特徴づける歌として受け止めることが出来る。

                                                 

  ウリはウリ科の蔓性一年草で、種類が多く見られるが、生食として子供にも好まれるものとしてはマクワウリが該当すると言われる。マクワウリは蔓が地上に長く延び広がり、長柄のある浅く掌状に裂ける葉を互生し、夏に黄色い五深裂した花を咲かせる。実は長さが十五センチほどの卵状楕円形または円形で、白緑黄色に熟し、縦に縞の出来る特徴を持っている。果肉は芳香があり甘い。マクワの名は美濃国真桑村(岐阜県)が産地で、名高かったことによる。ホゾチの別名を持つが、これは「臍落ち」から来ているもので、『古事記』にはこのホゾチで登場を見る。「臍落ち」は臍(へそ)の緒が取れる意で、マクワウリはよく熟すとへたが蔓から自然に剥がれて取れるからで、完熟したマクワウリをいうものである。

  マクワウリはインド原産と言われ、野生のウリを改良して栽培されるようにしたものとされ、我が国には中国を経て紀元前にはすでに渡来していたと見られ、縄文時代の唐古鍵遺跡(奈良県)から種子が出土しているほどである。一方のクリも古くから知られ、青森市の三内丸山遺跡など多くの縄文遺跡からクリの巨木柱が見つかっているので、憶良が詠んだように、万葉当時はウリ(マクワウリ)もクリも食用に供せられ、貴重な食べ物としてあったことがうかがえる。

  最近では、マクワウリなどのウリ類は西洋から導入されたメロンに押されて姿を少なくしているが、戦後間もないころは、ウリの主役として私の故郷でも、夏になると、このマクワウリやキンウリがスイカなどとともに土間の片隅の籠の中に置かれていた。ウリと言えば、憶良と違って、私には故郷の父母と過ごした遠い昔の子供のころの光景が蘇る。 写真はウリの花。


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2014年06月26日 | 写詩・写歌・写俳

<1026> W杯のジャパンイレブン敗退に思う

       悔しさの中に一種の清しが見ゆる敗れしジャパンイレブン

 サッカーのW杯で、日本代表は一勝も出来ず、決勝リーグに進めなかった。なぜ、こんなに盛り上がるのかと思われるほど盛り上がったが、残念な結果になった。この盛り上がりについては、サッカーというスポーツが世界中どこの国でも愛され親しまれているからだろう。極めて単純なルールの下で一個のボールを追う。そのひたむきな選手たちの動きと絡み合いが十一人同士のチームワークによって展開する。前半四十五分、後半四十五分。その試合は過酷で、その過酷からゴールのネットを揺らす醍醐味がサッカーにはある。その連携されたボール運びはグラウンドの選手だけでなく、応援する観客をも一体にさせる力がある。子供たちの間にサッカー人気が出ているのもわかる気がする。

 予選の一次リーグは三試合で、勝利することは出来なかったが、選手たちにはよくやったと思う。全身汗まみれの姿を見ると負けを攻める気にはなれない。他国の選手に比べ、小さな日本人の体格からしてハンディーがある。それを精神力とチームワークで補いつつ戦った。ただ一つ言えることは、三試合が一貫した試合運びにならなかった迷いの生じたこと、それだけが残念に思われる。

                 

 三試合を見て思うのは、やはり、守りがしっかりしていなければ、結局は勝てないということである。一方に、攻めて点を取らなければ勝てないという論があり、確かにそれは言えるし、「攻撃は最大の防御」とも言われる。だが、これは相手を考えない自分のみを考えにおいた論であるように思われる。対戦する両方を同時に見て論ずるならば、守備に勝る方が勝ちに繋がる率が高いということが言える。

 サッカーのようにチームで対戦するゲームでは、攻撃する方に目が向けられ、報道などもそちらに向けられる傾向にあるが、チームの強さは守備で相手の攻撃を凌いぐところにある。1-4で敗れたコロンビア戦はそれをよく示していたと思う。日本がいくら攻め上がってもコロンビアの守備力は堅かった。ということは、コロンビアが攻撃もさることながら、守備にも長けていた。それに比べ、日本はどうだったか。コロンビアは一瞬の隙をついてカウンター攻撃を仕掛け、なんなく点を積み上げた。

 日本は守備より攻撃に重点を置いた布陣で臨んだ。いわゆる、守備を疎かにした。これは一敗一分けの戦績上致し方なかったか。しかし、ここに一貫性がなかったように思われる。いくら点を取ってもそれ以上に点を取られれば試合には勝てない。つまり、この試合は攻撃力の差もさることながら、守備力の差によって敗れたということが出来る。これはこれからの教訓にしなければならないところだろう。

 サッカーは十一人のメンバーでやり、主に攻撃陣と守備陣によってゲームを作って行くが、守備に力を注ぐということは、守備陣だけが守備に力を注ぐという意味ではない。そこに攻撃陣も加わるということである。思うに、コロンビアのカウンター攻撃は、攻撃が最大の防御であることを地で行っているわけであるが、そこには守備が基本にあることを忘れてはならない。

 今回の予選リーグで、ギリシャが決勝進出に勝ち残ったが、ギリシャには十人で戦った日本戦に引き分けて勝ち点1を得たことが大きかったと思う。この二戦目のギリシャ戦を振り返れば、はっきりわかる。ギリシャはレッドカードで一人退場処分になって、十人で戦うに至り、守りを固める作戦に出た。日本は攻めに攻めたがギリシャは守り通した。これはギリシャの守備力が日本の攻撃力を凌いだことを示すもので、この凌いだ結果としてギリシャは決勝リーグに進むことが出来たのである。言わば、ギリシャの決勝進出は守備力によることが言える。つまり、守備を固めて、攻撃に出た結果の現われである。

 ところで、これはサッカーの日本代表だけの話ではない。今の安倍内閣にも通じるところではないかという気がする。外に打って出ることばかり考慮して、守備を蔑にしてはいないか。攻撃ばかりに目が行っている間に守備が疎かになり、結局は思う通りにならない。そういうことになりはしないか。TPPなどはどのように交渉しているのだろうか。華々しく政策を打ち上げているが、果して守備の足もとは大丈夫か。財政一つをとっても甚だ覚束ないところがある。

 どこかの国にカウンター攻撃、あるいはフェイントをかけられてあたふたしないように願いたいものである。改めて思うに、生の基本は攻撃力よりも守備力である。守備の基本がしっかりしていれば、攻めの失敗もなんとかなるが、守る基本が出来ていなければ、痛手を受ける。もちろん、これは戦備の話ではない。国の有り方としての問題である。