<3270> 作歌ノート ジャーナル思考 (九)
風に木々そよぎつつある真昼間の公園脇の殺人事件
人は人ゆえに人を憎しみ、人は人ゆえに人を殺める。人はやはり、よかれあしかれ人に関わって生きている。犬に噛まれても犬を憎むのでなく、犬の飼い主を憎む。今日もまたその憎しみによるものか、殺人事件があった。私たちは「ころし」と呼ぶが、人が人を殺めることにほかならない。殺めるという行為は、即ち、意をもって人の命を奪うこと。殺人には必ず何らかの動機がある。現場で取材に当たりながら私たちは犯人の動機と行動の子細を探る。―――この記事は私が写真記者の立場にあるとき記したもので、殺人事件に思いを巡らせたもので、次のように思いをめぐらせている。
事件によっては犯人が特定出来ない場合もある。そんなときには物証などを手がかりに推理してみたりするが、「ころし」をいま少し突き詰めて考えてみると、人は自身の内にある人をして人を憎しみ、自身の内にある人をして人を殺めるということが言える。それは、因果の果てというか、誇るべき人と生まれながらというか、そういうことで、犯人が割り出され、詳しく調べられた結果などを知ると、大概は動機が人に対するものであるのがわかり、「なるほど、そうだったか」と納得させられるという具合になる。
で、犯人は人に生まれず、鳥にでも生まれていれば、人を憎むこともなければ、人を殺めることもなかったに違いないと、そういうふうに思えて来ることもある。ゲーテは「人間こそ、人間にとって最も興味ある存在であり、恐らくは、また、人間だけが人間に興味を感じさせる存在であろう」(『ゲーテ格言集』高橋健二編訳)と言っている。何というか、事件はいつも人と人との関わりから生まれるものと言え、哀れを含んでいる。
もちろん、殺人は極端な例であるが、その因果の端緒には私たちの日常におけるやりきれない腹立たしさのようなものが少なからずあるのではないかと思われる。この腹立たしさ(鬱憤)のような感情は誰もが経験するところであろう。で、この腹立たしさのような感情の上に極端な殺人事件も起きるのであって、ゲーテが言うように、人は人ゆえに人に関わり、拘ってその因を生むのであろうことが思われる。また、欲望の果てに人を殺めたり気づつけたりすることもある。色欲や金欲がその例であるが、これにしても、生が有する哀れななりゆきにほかならない。
これやこの人を憎むも自らの人をしてなす心と思ふ
憎むこと憤ること妬むこと人は人ゆゑに人に拘る
人をして人を憎しみ人をして人を殺むる人と生まれて
人にして人を憎しみ人にして人を殺むる哀れと言へる
人ゆゑに人を殺むるその因果人に生まれてとは人の声
憎しみの果てと思へるまた殺人(ころし)曇天が引き鉄かも知れぬ
殺めたるものと殺められしもの二人の間の因縁因果
人が人を殺めなくてはならぬとは聞けば哀れな言ひ訳けなども
事件にはいつも臭ひが付き纏ふ人間臭といふその臭ひ
事件にはいつも被疑者と被害者に加ふるところ傍観者あり
今日もまた人を殺めし事件(こと)のあり人と人との関はりにして
❊
この殺人で、最近、動機のよく理解出来ない事件が増える傾向にあると言われる。なぜ動機があるのに動機が理解出来ないのか。それは、一つに社会自体がその動機について理解しようとしないか、理解したくないという意思を働かせる傾向にあるからではないかと思われる。
では、どうしてそういうことになるのか。それは、事件の動機が社会自体に向けられてあるにもかかわらず、社会とは関係なく、事件が本人自身に起因し、その責はすべて本人に帰するとする考えをもって事件を処置しようとするからではないかという気がする。本人を異常な特別者にしてこれを事件の因とし、事件の決着に導かんとするやり方である。
例えば、最近、加害者側が弁護に用いる手法を思い起こせばわかる。何かと言えば、犯人の精神的異常性を弁護に用い、犯人を異常者(廃人)にしてしまい、このことによってことの始末をつけようとする精神鑑定の傾向が見られることである。
これは、加害者の動機を十分に解明出来ない第三者による裁きの限界を示すものであるとともに、加害者を異常者(廃人)と決めつけることによって加害者が最悪の判決を免れる効果がもたらされるからで、弁護の一つの戦略乃至は手法としてあるように思える。
そして、そこには裁判の底に社会そのものもが有する社会の病弊たる事件を社会に起因していると認めたくない心理があり、それが働いて無意識のうちに事件の社会性を打ち消したいとする動機が加わるからではないかという気がする。所謂、社会の自意識作用が事件処理に働くからと考えられる。
別の言い方をすれば、事件が個人の異常な特質に発したもので、社会とは関係せず起きたものとする見方によって事件を片付けたいという意思が働くからではないかということ。この事件に対する仕儀は妥協的光景で、最近の刑事事件の裁判を見聞するにつけ、このことが思われる。
殺人事件は個人的な異常資質乃至は個人間の対人関係を背景にして起きる場合と社会の様相に起因する場合とがあるが、見分けがつけ難いような事件もある。犯人が捕まってもその動機がはっきり解明されず、有耶無耶のうちに妥協をもって終わるという感じのケースもある。
動機が単純な場合は事件解決にもやもやは残らないが、動機が社会に向けられた鬱屈した心理状態にあるような場合は事件が解決してもすっきりしないことがある。時代も背景も異なるので一概には言えないが、社会を背景に起きる事件では魯迅の『阿Q正伝』が思い出される。
『阿Q正伝』は、阿Qという人物の心の葛藤を通して一九一一年辛亥革命当時の中国社会のありさまをつぶさに描いた小説であるが、阿Qは周囲の人と関わりながら心の葛藤を募らせ、ついには社会の様相に巻き込まれて死に追いやられる。果たして、殺人事件は究極のものであるが、その動機を探るに、それは、いずれにしても、人が自分のうちのある人をして人を殺めるということにほかならず、それは今も昔も変わらないと言えるように思われる。 写真は殺人事件の記事の切り抜きと魯迅の『阿Q正伝』の文庫本。