大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年12月31日 | 写詩・写歌・写俳

<3273>  余聞 余話 「二〇二〇年大晦日」

      晦日蕎麦今年も逝きし人のあり

 今年、二〇二〇年は何と言っても、新型コロナウイルスの感染症に悩まされた年だった。その猛威は全世界に及び、日本でも感染第三波にあり、収まる気配はなく、越年して感染者を増やす勢いである。晦日蕎麦でこのウイルス禍を断ち切りたいところであるが、打つ手はなく、ワクチン待ちというの実情と言えよう。

 今に至って、なおも猛威が止まらない新型コロナウイルスの災禍について、以前このブログで取り上げた南方熊楠の言葉が思い返される。「科学では10を3に除し切るほどのこともならぬものなり、また、哲学などは古人の糟粕、言わば小生(熊楠)の歯の滓一年一年とたまったものをあとからアルカリ質とか酸性とか論ずるようなもので、いかようにもこれを除き畢らば事畢る」という言葉。この言葉が新型コロナウイルスの感染拡大事情における考え方として適切であるということ。

               

 何だかんだと解決策を探る見解百出。ああでもない、こうでもないと毎日論の展開がなされているが、何のことはない、ウイルスがなくなれば、事は畢るのである。これは極めて単純明快な解決の道であるが、この単純なことが複雑多様化した現代社会では行えないということか。私なんかは、熊楠の言うところを実践するような対策が施されるのが真っ当な考えだと思うが、国が進めているGo Toキャンペーン事業は感染者を増やすやり方で、それも半端でない多額の予算を用いて進めている。それは、思うに、何かマッチポンプ的で、全く理解出来ない。

 事を収束するにはウイルスの除去をもって臨むのが一番であるが、その逆に増やすやり方をしているのである。だから、ワクチンによる防御に期待しながら、変異したウイルスが見つかり、日本にも侵入して来たと、また、右往左往し始めている。くどいようであるが、熊楠が言うように、ウイルスをなくするような方策を採るのが一番で、ウイルスを増やすようなやり方は改めるべきである。以上、行く年来る年に思うことではある。 写真は我が家の晦日蕎麦。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年12月30日 | 創作

<3272>  作歌ノート   ジャーナル思考 (十)

               聞け足らぬ見よなほ足らぬ思ふ身の思ひの在処思へばなほも                 在処(ありか)

             Observe and analyse

             Know and build

             Out of research poetry comes.

                                            John Griason

 これは十九世紀イギリスの記録映画の第一人者ジョン・グリアーゾンの言葉である。この言葉には記録映画がいかにして作られるべきかということが述べられているが、この言葉は人生訓としても意味の深い言葉として受け取れる。言葉は命令形であるが、末尾に「足らぬ」を付けてみれば、人生訓としての色合いがより鮮明になって来る。つまり、次の歌のような意味合いになる。

    見よ足らぬ聞けなほ足らぬ解するに築くに足らぬゆゑになほあれ

        なほ足らぬなほまだ足らぬ語るにはその観察もその認識も

    足らざれば足らざるままに行くほかはあらぬがしかしよしとは言へぬ

   観察が足りない。分析も足りない。ゆえに、認識することも、構築することも十分にはなされない。足りない観察や分析のために懐疑が生まれ、推理と想像が逞しくなる。その推理や想像が美しく豊かであればよいが、貧しければ、足りない調査の分、推理も想像も貧しくならざるを得ない。もっとよく観察し、もっとよく分析し、その上でしっかり認識し、構築しなければならない。美しく感動的な詩は如何にして生まれるか。そのことをよく承知しなければならない。

    見よよく見識れよく識らば自づから足るなり足れば詩歌は生るる           生(あ)

   あなたの明日は、あなたの今日にかかっている。今日あることは、明日への思いに繋がる。しっかり見、しっかり聞き、しっかり感じ、そして、しっかり分析し、しっかり認識すること。そうすれば、あなたの明日は自ずから開かれたものになるだろう。

   グリアーゾンの言葉はこのように言っていると理解される。この言葉をよく実践したのはウオルト・デイズニーの記録映画『砂漠は生きている』であった。超スローモーションのサボテンの開花シーンなどが評価された画期的な作品だった。では、もう一度グリアーゾンの言葉を聞いてみよう。

                    Observe and analyse

           Know and build

            Out of research poetry comes.

   美しく感動的な詩は如何にして生まれるか。それは、心を虚にし、よく見、よく聞き、そして、よく認識し、よく構築することであると言っている。

                                                                    ❊

             有罪と無罪の間にある思ひたとへば天網恢々のこと

 本当のことに近づいたとしても、私たちの能力で、それに触れることは十中八九出来ない。触れることが出来なければ、そこに懐疑が生まれる。そして、私たちは、その本当のものに至れず、懐疑のままでいなくてはならない。これはあまり気分のよいものではない。そこでなるべく真実に近づくよう努めるということになる。それで、一歩真実に近づいたとしても、完璧ではなく、妥協が待っている。ときには「あなたにとって真実でなくても、私にとって真実である」というようなことも言われる。しかし、事実にあれやこれやのあるはずはない。こういうふうに考えると、人の口に上る真実の言いが方便に過ぎないということも言えて来る。

                                                 

 真実が明快に示されないことは裁判の中でもよく現れ、指摘される。全能の神でない私たちは、有罪(罪の重さ)と無罪(罪の軽さ)を決めかねる。昨日有罪であったものが、今日は無罪という光景を私たちはどれほど見て来たか。これは、努力にもかかわらず、いかに私たちの見聞が怪しく、調査が行き届かない中で裁判に向かい、妥協して来たかということを示すもので、私たちは、その限界のもどかしさの中でよく神的存在の顕現を望んだりする。

 「天網恢々疎ニシテ漏ラサズ」というが、そのようなことを望み、「私たちで裁けないなら、神さまが」というような声も聞こえて来る。しかし、その望みは、裁く側や傍観者である第三者だけが抱く思いではなく、裁かれる側にもある思いであるはず。特に無罪と言い切れる自信のある裁かれ側は、裁かれている歯がゆさの中で、なお一層その思いをつのらせ、或るは見えない本当の犯人に対し、「あの世へ行けば地獄だ」 というような思いを抱くのではなかろうかと思えたりする。 写真はカット。裁判の惨さを伝えた記事の切り抜き(ブログ記事と写真との直接の関係はない)。

  法により裁かるるとは言はるるが裁くは人の意によれる            意(おもひ)

  裁判の「破棄」の記事より顕ち来たる犠牲となりし者の辛酸

  真実のかけらを掬ふ耳目ありだがなほ掬ひ得ざる真実

  神はなぜ明かさざらむか掬ひたくゐて掬へざる真実の闇

  見よ足らぬ聞けなほ足らぬ足らぬまま裁かれし人の惨憺の生

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年12月29日 | 写詩・写歌・写俳

<3271>  余聞 余話 「我が家の食事」

      足るを知り知りて思ひをありがたくする日々重ね常たらむこと

 我が家の食事は取り皿方式ではなく、膳方式によっている。私は私の膳。妻は妻の膳。昔は取り皿方式だったが、私が大病をして、カロリー制限を必要とするようになってから膳方式になった。妻の図らいによる。取り皿方式では、好きなものを幾らでも食べ、好きでないものには手を出さないということが起きて、食に偏りが生じる。これに対し、膳方式は、自分の膳に載るものは全ていただくわけであるから好き嫌いの偏りがなくなる。

 この膳方式であれば、個々の食生活におけるカロリー計算が出来、私のようにカロリー制限をノルマにしているものの食管理には打ってつけで、これは食事を賄う妻の考えによる。朝食はパン食になって久しいが、私と妻の膳は微妙に異なる。私は一日1800から2000カロリーであるのに対し、妻は1500カロリーほどで、この違いの差による。

           

 膳方式に切り替えたころは、量も少なく、味も薄目で、もの足りない感じがあったが、今は量にも薄目の味にも慣れて三食いずれも美味しくいただき、完食している。取り皿にしなければならない鍋物では我が家流、その中身について、一人何個と決めて具材を揃える。すき焼きの肉などはあらかじめ分けて置いて、自分が管理して、自分以外のものには食指を伸ばさないというやり方をしている。おでんなんかでも好きなものばかりは食べられないように決めている。

 決められたものを食べ、完食してもカロリーオーバーにならないようにしているわけである。多分、人さまの家の量や味と比べてみると、我が家の方が量が少なく、薄味だと思うが、量については、働き盛りのときほど体力(エネルギー)を使わないので少ない点の心配はなく、薄味なのは慣れもあって十分美味しくいただいて不満はない。

 要は「足るを知る」ということではないかと思う。腹満腹、美味を尽くすその欲求は限りもあらずのグルメ番組がテレビなどでは大いに流行っているが、日ごろにあっては「足るを知る」がものをいう。私にとって我が家の膳方式の食事でほぼ足りている日々の食とは言える。 写真は私の朝食の膳(野菜サラダのケース・左)と妻の朝食の膳(野菜の具材が多いスープのケース・中)、今日の我が家の晩食のおでん(おでんは二食分・右)。


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年12月28日 | 創作

<3270>  作歌ノート   ジャーナル思考 (九)

               風に木々そよぎつつある真昼間の公園脇の殺人事件

 人は人ゆえに人を憎しみ、人は人ゆえに人を殺める。人はやはり、よかれあしかれ人に関わって生きている。犬に噛まれても犬を憎むのでなく、犬の飼い主を憎む。今日もまたその憎しみによるものか、殺人事件があった。私たちは「ころし」と呼ぶが、人が人を殺めることにほかならない。殺めるという行為は、即ち、意をもって人の命を奪うこと。殺人には必ず何らかの動機がある。現場で取材に当たりながら私たちは犯人の動機と行動の子細を探る。―――この記事は私が写真記者の立場にあるとき記したもので、殺人事件に思いを巡らせたもので、次のように思いをめぐらせている。

 事件によっては犯人が特定出来ない場合もある。そんなときには物証などを手がかりに推理してみたりするが、「ころし」をいま少し突き詰めて考えてみると、人は自身の内にある人をして人を憎しみ、自身の内にある人をして人を殺めるということが言える。それは、因果の果てというか、誇るべき人と生まれながらというか、そういうことで、犯人が割り出され、詳しく調べられた結果などを知ると、大概は動機が人に対するものであるのがわかり、「なるほど、そうだったか」と納得させられるという具合になる。

                               

   で、犯人は人に生まれず、鳥にでも生まれていれば、人を憎むこともなければ、人を殺めることもなかったに違いないと、そういうふうに思えて来ることもある。ゲーテは「人間こそ、人間にとって最も興味ある存在であり、恐らくは、また、人間だけが人間に興味を感じさせる存在であろう」(『ゲーテ格言集』高橋健二編訳)と言っている。何というか、事件はいつも人と人との関わりから生まれるものと言え、哀れを含んでいる。

 もちろん、殺人は極端な例であるが、その因果の端緒には私たちの日常におけるやりきれない腹立たしさのようなものが少なからずあるのではないかと思われる。この腹立たしさ(鬱憤)のような感情は誰もが経験するところであろう。で、この腹立たしさのような感情の上に極端な殺人事件も起きるのであって、ゲーテが言うように、人は人ゆえに人に関わり、拘ってその因を生むのであろうことが思われる。また、欲望の果てに人を殺めたり気づつけたりすることもある。色欲や金欲がその例であるが、これにしても、生が有する哀れななりゆきにほかならない。

  これやこの人を憎むも自らの人をしてなす心と思ふ

  憎むこと憤ること妬むこと人は人ゆゑに人に拘る

  人をして人を憎しみ人をして人を殺むる人と生まれて

  人にして人を憎しみ人にして人を殺むる哀れと言へる

  人ゆゑに人を殺むるその因果人に生まれてとは人の声

  憎しみの果てと思へるまた殺人(ころし)曇天が引き鉄かも知れぬ

  殺めたるものと殺められしもの二人の間の因縁因果

  人が人を殺めなくてはならぬとは聞けば哀れな言ひ訳けなども

      事件にはいつも臭ひが付き纏ふ人間臭といふその臭ひ

      事件にはいつも被疑者と被害者に加ふるところ傍観者あり

      今日もまた人を殺めし事件(こと)のあり人と人との関はりにして

                              ❊

 この殺人で、最近、動機のよく理解出来ない事件が増える傾向にあると言われる。なぜ動機があるのに動機が理解出来ないのか。それは、一つに社会自体がその動機について理解しようとしないか、理解したくないという意思を働かせる傾向にあるからではないかと思われる。

   では、どうしてそういうことになるのか。それは、事件の動機が社会自体に向けられてあるにもかかわらず、社会とは関係なく、事件が本人自身に起因し、その責はすべて本人に帰するとする考えをもって事件を処置しようとするからではないかという気がする。本人を異常な特別者にしてこれを事件の因とし、事件の決着に導かんとするやり方である。

   例えば、最近、加害者側が弁護に用いる手法を思い起こせばわかる。何かと言えば、犯人の精神的異常性を弁護に用い、犯人を異常者(廃人)にしてしまい、このことによってことの始末をつけようとする精神鑑定の傾向が見られることである。

   これは、加害者の動機を十分に解明出来ない第三者による裁きの限界を示すものであるとともに、加害者を異常者(廃人)と決めつけることによって加害者が最悪の判決を免れる効果がもたらされるからで、弁護の一つの戦略乃至は手法としてあるように思える。

   そして、そこには裁判の底に社会そのものもが有する社会の病弊たる事件を社会に起因していると認めたくない心理があり、それが働いて無意識のうちに事件の社会性を打ち消したいとする動機が加わるからではないかという気がする。所謂、社会の自意識作用が事件処理に働くからと考えられる。

   別の言い方をすれば、事件が個人の異常な特質に発したもので、社会とは関係せず起きたものとする見方によって事件を片付けたいという意思が働くからではないかということ。この事件に対する仕儀は妥協的光景で、最近の刑事事件の裁判を見聞するにつけ、このことが思われる。

 殺人事件は個人的な異常資質乃至は個人間の対人関係を背景にして起きる場合と社会の様相に起因する場合とがあるが、見分けがつけ難いような事件もある。犯人が捕まってもその動機がはっきり解明されず、有耶無耶のうちに妥協をもって終わるという感じのケースもある。

 動機が単純な場合は事件解決にもやもやは残らないが、動機が社会に向けられた鬱屈した心理状態にあるような場合は事件が解決してもすっきりしないことがある。時代も背景も異なるので一概には言えないが、社会を背景に起きる事件では魯迅の『阿Q正伝』が思い出される。

 『阿Q正伝』は、阿Qという人物の心の葛藤を通して一九一一年辛亥革命当時の中国社会のありさまをつぶさに描いた小説であるが、阿Qは周囲の人と関わりながら心の葛藤を募らせ、ついには社会の様相に巻き込まれて死に追いやられる。果たして、殺人事件は究極のものであるが、その動機を探るに、それは、いずれにしても、人が自分のうちのある人をして人を殺めるということにほかならず、それは今も昔も変わらないと言えるように思われる。 写真は殺人事件の記事の切り抜きと魯迅の『阿Q正伝』の文庫本。

 


大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2020年12月27日 | 創作

3270> 写俳百句 (29)      師走寒波の一景

                        尉鶲ふくれて師走寒波かな

                               

 ジョウビタキのメスがすっかり葉を落とし裸木になったウメの木にとまって体をまんまるにしているを見かけた。寒さが厳しくなると小鳥たちはこの体形になる。ジョウビタキも同じで、なぜ寒いと丸くなるのだろうと思う。丸まって毛の中に空気の層を作り、その空気の層によって外の寒さを遮断するのかも知れない。そうなのだろうか。そんなことを思い巡らせいていたら、飛び立ち、先の枝に移った。飛ぶときは普通の体形に戻っている。

 細く痩せて見えるより丸く膨らんで見える方が見ている側には気分が和む。目は厳しい寒さの中でも変わらず、円らで可愛らしい。ときに訝しげにこちらを見ることがあるが、円らな目はやはり可愛らしい。ジョウビタキ(尉鶲)はヒタキ(鶲)の一種で秋の季語であるが、私には底冷えの日の庭に訪れる師走の鳥。その印象が強い。 写真は寒さに膨れ上がるジョウビタキのメス。