<1271> このごろ思うこと
移りゆく この世にてあり 生きるとは 自らの夢 汲ましむること
移り変わって行くことについて、これは近辺においてもうかがえる。五年経ち、十年経ちして、時が積み重ねられてゆくと、その間に様子が変わり、何かのきっかけでそれに気づくということがある。自分に無関係なものであれば、それほど気にならないが、関心のあることには意識が向かい、自分の気分にも影響して来ることになる。よくも悪くも、時の流れは何れにも関わり、自分の上にも影響を及ぼして来る。
町並然り、日々の生活然り、我が家の周りでも、娘が結婚して家を出たとか、元気だった奥さんが倒れたとか、独り暮らしのお年寄りが介護施設に入って、その家が空家になったとか、ここ数年の間で見てもいろいろな人生模様の中で変化が見られた。ということは、これからの十年を思い巡らせても、今が昔というのは当然のことで、それなりの変化が生じるのであろうことが思われる。
こうした過ぎ行く日々に意識が向かい、感覚されるということは、私がそれなりの年齢に至ったからに違いない。言わば、若い時分には時の移ろいによる外界の変化などにはほとんど気など止めず、高村光太郎の「道程」のように、ただひたすら「僕の後ろに道は出来る」くらいに思って歩いていた。これは「遠い道程」が想起されるからで、それは若者の特権であると言ってよい。だが、この人生の道程に諦観をもって臨む年齢になると、尻込みも来たして来ることになるのは誰にも言えることではなかろうか。
年齢が高じてこのような境地に至っても、人生は夢の中に違いない。けれども、既に人生の道程は「遠い道程」の認識にはなく、そこに展開されている現実の熱情の中にも諦観のニ文字が絡んで見え隠れしているといった具合である。そして、その諦観の中には多少の経験によって得た教訓のようなものもちらちらとして見え、一日一日が思われたりするのである。
未来よりも過去の方が遥かに長くなった年齢からして言えば、希望がなくては生きて行くに難しいとは言え、無理なく一日一日を過して行ければよいと、そのようにも思えるところがある。日々を積み重ねて一年一年があるわけであるが、一年の通過儀礼のように、その節目には感謝の念も湧いて来ることになる。そして、二月も明日で終わりであるというふうな感慨も湧いてくるという次第である。
日々の過ぎて行くのが実に速く感じられる昨今。よいのか、悪いのかは別にして、とにかく、安心して日々の営みが叶えられれば言うことはない。春めく日差しを受けて、枯れ原だった草原がいつの間にか生命の喜びを感じさせる緑になって私の気持ちにも伝わり来るのが今朝の日差しには見られた。これは諦観の身にあっても一つの至福のときを意味する。矛盾しているようであるが、これが生きとし生けるものの営みの現れというものであろう。 写真は雪景色の原っぱと日差しを受けて明るい若草の原っぱ。 枯れ原は 若草色に蘇り 日差しの恵み 汲み入れてゐる