2010/05/31 記
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父が帰ってきた。にこやかな顔で戻ってきたので、無難に過ぎたかと思って父をよく見ると、父は昨日の追加衣類を着ていなかった。汚したかなと思いつつ階段介助のヘルパーさんとふたりで父を受け取ったそのとき、父の身体から腐敗した尿の匂いが立ち上がった。玄関先の椅子に父を移し、靴を脱がせると車椅子に乗せたクッションが湿って、たまらない悪臭を発していた。
役割を終えて帰ろうとする送迎係の男性に事情を聴いたが、自分は移動係だからわからないという。事業所の中には、送迎をボランティアさんや、外注の介護タクシーに頼んでいるところがある。ところがこのシステムだと、職員の方に様子を聞いたり依頼したりする情報交流がうまく行かない。今回の男性はボランティアさんだった。かといって情報仲介は中途半端に断片化するのは目に見えていた。
私が送迎係の男性と話している間にも、父は勝手に立ち上がろうとして、階段介助のヘルパーさんに制止されていた。父は次に起きる事態に先に対応しようと思うと、思いに隠されて場面が消える。例えば、ベッドメイクをするので、椅子に座らせているときも、いつもシーツを敷いている最中にベッドに戻ろうとする。目の前で起きている状況がつかめない。それならと説明しながら制止しても無駄。すぐにもみ合いになって、結局力づくで椅子に戻すことになる。今回も玄関から階段までの数mを自力で進もうとして、ヘルパーさんを払いのけそうになって、私が飛び込んで押さえ込んだ。と…父が臭いのである。ズボンなどが湿っているわけではない。父を観察していると、とんでもないものを見つけてしまった。
父の肩に太い指の白い跡が残っていた。乾いた泥がついていたのだ。よくみると同じ側のズボンの膝の部分にこすれた跡があり、泥汚れがついている上、靴の同じ側の外側の縫い目に細かな砂がすり込まれていたのだった。転んだのは明らかだった。立ち歩き騒動の間に送迎係の男性は帰ってしまった。
階段途中で父は崩れて腰を何回も下ろしそうになった。それも転んだ側の腕をかばっている風だった。転んだなという推理は確信に変わった。
階段介助は横につく者と後から支える者がいる。私は父が落下したときのことを考えて、階段介助のヘルパーさんと相談した上、私は階段下側を支えることになっている。下から持ち上げていくので、父の尻が私の鼻先に来る。たまらなかった。しかしおかしなことに尻は濡れていないのだった。腰砕けになる湿気た父を抱えれば悪臭は私の胸元に移る。茅ヶ崎駅南口の女性路上生活者は失禁している。彼女の周囲数mは、眼にしみるような尿の悪臭が漂っている。(最近は風呂に入れているようだが)、それと同等の強烈な匂いだった。車椅子上で失禁したにしては、衣類が乾いている。紙パンツも事業所の使う尿取りパッドに中身が変わっていたが乾いているのだった。足は転んだ側の膝が小さな内出血を起こしていた。
持ち帰った鞄をみて驚いた。昨日の衣類は手付かずの状態でビニ袋に入ったままであり、日誌には「落着いて生活し、食事も順調に食べている」とあって、転んだことは書いていなかった。
3泊4日の間、どのような生活をしていたのかは読み取ることが出来ない。電話をかけて質問することしかなかった。母と相談。2回、不可解なことが続いた。これから交渉の労力を考えると、緊急時以外、利用を避けるという対応にすることにした。私の信条には合わないが、これ以上厄介ごとが増えるのは実際限界だからだ。
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父はその夜、夕食をかき込むと、睡眠薬が入っていたかのように昏々と眠り続け、翌日午後まで眼を覚まさなかった。ベッドは手がつけられない尿浸しとなり、毛布を抱えてころがってしまう父をベッドから下ろすことは結局できなかった。
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私の数少ない異性の友人のご母堂の訃報が届いていた。私が2000年の末、交通事故入院したとき、奔走してくれた恩人だった。直木賞を目指したこともある看護婦業の傍ら、リアルな主婦目線の短編を書くアマチュア文筆家でもあった。その頃から、私がフリースクール的な私塾を運営して依頼の出番のない小中学生向けの仕事、児童書を使った教材開発(理系図書中心)の副産物のような自薦良書を娘さんの誕生日に送り続けてきていた。中にはサブダのアリスのように、飛び出し本技術の粋を凝縮したような不思議な書もあったが、一貫して叙情的な視角と編集者の創造的な意図が表れた絵本を選ぶことが多かった。
その娘さんの誕生日が迫っていた。通販ではカードを使わない主義なので、代引きで一度私の手元に書籍が届けられ、それを再梱包して送り出していた。今回はボローニャ展を通過した同時進行の構成技術のものもあった。先方が大変な時期に発送が重なってしまった。場面が違えば迷惑にもなる。まずかったなあと思いつつ、行き違いを後悔していた。
娘さんは今年中学校に入学。書の内容もだいぶ変わってきたが、私は作家の表現を察する批評の眼が育てば、絵本や写真集、詩集などは年齢は関係ないと思っている。ただ、いつもの通りの間の悪さ。私が出会う青年に負けない、世間の流れの外にいる者の、すり合わせの悪いしょうもなさを感じている。
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2010/06/01 記
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朝、父が転倒した。ベッド脇の椅子を吹き飛ばして、サイドテーブル上にあった陶器の皿やらガラスのコップも割れて破片が飛び散っていた。我が家のすぐそばのゴミ出し場に可燃ゴミを出そうと準備していた6時少し前の出来事だった。私が動き出すと父も雰囲気を察知して動き出す。だから私が外に出ているわずかの間に父が自己を起こすことがしばしばある。今回もそれに似ていた。
動き出す父に大声で制止し、やぶれそうにきついフリーサイズの介護用使い捨て手袋を無理やりはめるのももどかしく、急いで周辺の危ない破片や、二次の事故が起きそうな破片が散って垂れ下がった毛布をベッド外に片付けた。常に用意してある買い物袋の中に新聞紙を敷いて、ガラス等の破片をぶち込み、ガムテープの粘着面で、ざっと周辺の細かい破片を取り去ってから、父をうつ伏せにする。
腹が極端に出ているので、うつ伏せは苦しいのか父は徹底的に嫌がる。私の腕をつかみ、引き寄せて立ち上がろうとし、このやり方では絶対起きることができた試しがないので、父の手をほどき両手を四つんばいの股の間にいれさせ、腰を上げさせていく。幼児の立ち方だ。ところが今回は父は全くいう事を聞かなかった。
結局父の背後にまわって両脇に腕を入れて、私の背筋の力で、強引に父を引き上げた。父は不安なのだろう、当たり構わずものにつかまろうとし、更に近くにあるペットボトルや、トイレットペーパーなどを周辺に投げ出してしまった。母が締めたふたのゆるいペットボトルの蓋が開き、周囲は水浸しとなった。
私の判断力がにぶっていた。ベッドに父を戻してしまったのだ。たちまち、パジャマの下に下げている紙パンツの上から尿が洪水のように漏れだしてしまい、ベッドと枕がたちまち尿浸しになってしまった。床の水を拭いて、父を再び椅子に座らせてシーツ交換する。と父はポータブルトイレに突進しはじめた。パジャマに溜まった尿を振りまいて、私に倒れ掛かってきたのだった。父は残りの尿をトイレに出したかったのだろうが、床拭き作業は元の木阿弥。寄り切るように元の椅子に座らせたが、私のシャツは尿浸しとなってしまった。敵意の険しい表情を見せる父を前に、階段下では母が、重いゴミ袋と格闘して玄関を出ようとしていた。今度は母が痛みを訴えることになると、大声で「袋出しはやめろ」と声を出すが聞こえない。窓辺に走りよって庭にいる母を制止。すると背後で父がベッドに戻ろうと立ち上がってしまったのだった。
私の大声を叱られていると勘違いした父は私を押しのけ、新しいシーツが敷きかけのベッドに入り込んだ。駆けつけて格闘の末、父をベッドサイドに座らせた。私の眼鏡は肘打ちを食らって、なんとか鼻に止まっていた。
母が「お前が出さないから、ゴミを捨ててきた」と、悠々と父の部屋に入ってきたときは、嘆きに息が詰まった。これを繰返していては、いずれ私がつぶれてしまう。
母に応援を頼みふたりでシーツを敷きなおし、父の汚物を整理して、私はシャワー。その頭上で今度はTVが爆発するような大音量を上げ始めた。父がベッド上から、孫の手を使ってTVを点けたのだった。父はリモコンが使えない。固定電話の子機も操作できない。ラジカセはついに私が買ってきてから一度もまともに作動したことがない。パンツ一丁で駆け上がって音量を直した。騒音に裏の家のシャッターが開いた。まだ深夜ではなく、朝でよかったのだ。
結局起こされてしまった。
朝刊を抱えて寝室に戻っていった母は、一眠りして眼ざめたとき、案の定、腕と首、腰の痛みを訴えただけではなく、手足のこむら返りにのたうち始めてしまった。「ツムラ68」という芍薬甘草湯をぬるま湯で飲ませ、上向きで足を折った状態を作らせた。もうベッド傍らから父のパンツ交換は無理。介護をやれる状態ではないのがわかるのだった。
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私は父の朝食を作りながら、ポメラを使って、5/18懇談会の公開配布用の報告原稿を打ち込んでいた。11時には入所先の相談員面談にでかけなければならなかった。平塚の特養が1ヶ所と、老健が1ヶ所だった。いずれも個室を準備していたが、特養は受け入れ男性比率が極端に少なく、男性職員が少ないことがわかった。提携病院は茅ヶ崎からは、時間外にとても通えないところだし、話を聞いても救急時は厚木市方向に行くことが多いと聞いて、順待ちの可能性もさることながら利用は無理と判断した。駅が近くても小田急線沿いは条件が悪い。相模線厚木駅の乗り換えが引っかかるのだった。
老健は海側。こちらは病院入院は隣で近いが、老健入所者の平均利用期間は1~2年だという。茅ヶ崎の某病院系老健と似たものを感じて、有料ホームや個室入院の稼ぎの匂いがした。結局この日の成果はなかった。茅ヶ崎に戻り橋本に巡回にでかけ、行きに寒川図書館に本を返し、相模線に乗り遅れ、コンビニで握り飯を買って食べる。爺ぃがこれをやると全く似合わない。ホームの長いすに腰掛けて、高校生カップルの邪魔だが隣に座り、十分に嫌がられたのを肴に食事を終えた。
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橋本の空き時間に、ポメラの5/18懇談会レポートの原稿は、夜間傾聴用の携帯にrom経由で送りメールに直し、iPhoneに転送した。ポメラとiPhoneはポメラの仕様の関係でデータ交換しにくいのだ。新ポメラはQRコードでポメラからデータを送り出すことが楽になったが、逆は出来ない。こうして原稿は仕上げられた。結局家に戻るまで間に合わなくてPCから送ることになったのだが、巡回途中の車中の操作は、やはりポメラよりPhoneが勝る。席に座らなければポメラは使えないからだ。
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都教委から7/15の障碍者就労の報告ビデオの申込書が送られてきた。早速返送。後はチラシをと手がけるが、ことが進まない。父の介護の中断や、母の嘔吐などがあるが、明日、販売員Tさんの飲酒と購入者との関係軽視によって、販売資格の剥奪を彼に切り出さなくてはならないからだった。ビッグイシューは、販売者さんとの信頼関係の中で相互に作り出すものだ。販売時の酒気帯びは勿論のこと、販売者さんのよく見える場所で飲酒したり、決まった曜日の決まった時間に販売していなかったりすれば、前者は利益が飲み代に消えているという批判は避けることが出来ない。ビッグイシューの東京事務所にも彼への批判連絡が届いていた。私の出合った日も彼は酒気帯びだった。その収入はバイト収入から得たものとしても、ビッグイシューの収入は自立支援の意味が込められている。彼は以前にも飲酒と収支のためにHL支援の会が販売を停止した経過があった。二度目だった。
夜間傾聴:□□君(仮名・こちらから)
橋本2君(仮名)
(校正1回目済み)
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父が帰ってきた。にこやかな顔で戻ってきたので、無難に過ぎたかと思って父をよく見ると、父は昨日の追加衣類を着ていなかった。汚したかなと思いつつ階段介助のヘルパーさんとふたりで父を受け取ったそのとき、父の身体から腐敗した尿の匂いが立ち上がった。玄関先の椅子に父を移し、靴を脱がせると車椅子に乗せたクッションが湿って、たまらない悪臭を発していた。
役割を終えて帰ろうとする送迎係の男性に事情を聴いたが、自分は移動係だからわからないという。事業所の中には、送迎をボランティアさんや、外注の介護タクシーに頼んでいるところがある。ところがこのシステムだと、職員の方に様子を聞いたり依頼したりする情報交流がうまく行かない。今回の男性はボランティアさんだった。かといって情報仲介は中途半端に断片化するのは目に見えていた。
私が送迎係の男性と話している間にも、父は勝手に立ち上がろうとして、階段介助のヘルパーさんに制止されていた。父は次に起きる事態に先に対応しようと思うと、思いに隠されて場面が消える。例えば、ベッドメイクをするので、椅子に座らせているときも、いつもシーツを敷いている最中にベッドに戻ろうとする。目の前で起きている状況がつかめない。それならと説明しながら制止しても無駄。すぐにもみ合いになって、結局力づくで椅子に戻すことになる。今回も玄関から階段までの数mを自力で進もうとして、ヘルパーさんを払いのけそうになって、私が飛び込んで押さえ込んだ。と…父が臭いのである。ズボンなどが湿っているわけではない。父を観察していると、とんでもないものを見つけてしまった。
父の肩に太い指の白い跡が残っていた。乾いた泥がついていたのだ。よくみると同じ側のズボンの膝の部分にこすれた跡があり、泥汚れがついている上、靴の同じ側の外側の縫い目に細かな砂がすり込まれていたのだった。転んだのは明らかだった。立ち歩き騒動の間に送迎係の男性は帰ってしまった。
階段途中で父は崩れて腰を何回も下ろしそうになった。それも転んだ側の腕をかばっている風だった。転んだなという推理は確信に変わった。
階段介助は横につく者と後から支える者がいる。私は父が落下したときのことを考えて、階段介助のヘルパーさんと相談した上、私は階段下側を支えることになっている。下から持ち上げていくので、父の尻が私の鼻先に来る。たまらなかった。しかしおかしなことに尻は濡れていないのだった。腰砕けになる湿気た父を抱えれば悪臭は私の胸元に移る。茅ヶ崎駅南口の女性路上生活者は失禁している。彼女の周囲数mは、眼にしみるような尿の悪臭が漂っている。(最近は風呂に入れているようだが)、それと同等の強烈な匂いだった。車椅子上で失禁したにしては、衣類が乾いている。紙パンツも事業所の使う尿取りパッドに中身が変わっていたが乾いているのだった。足は転んだ側の膝が小さな内出血を起こしていた。
持ち帰った鞄をみて驚いた。昨日の衣類は手付かずの状態でビニ袋に入ったままであり、日誌には「落着いて生活し、食事も順調に食べている」とあって、転んだことは書いていなかった。
3泊4日の間、どのような生活をしていたのかは読み取ることが出来ない。電話をかけて質問することしかなかった。母と相談。2回、不可解なことが続いた。これから交渉の労力を考えると、緊急時以外、利用を避けるという対応にすることにした。私の信条には合わないが、これ以上厄介ごとが増えるのは実際限界だからだ。
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父はその夜、夕食をかき込むと、睡眠薬が入っていたかのように昏々と眠り続け、翌日午後まで眼を覚まさなかった。ベッドは手がつけられない尿浸しとなり、毛布を抱えてころがってしまう父をベッドから下ろすことは結局できなかった。
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私の数少ない異性の友人のご母堂の訃報が届いていた。私が2000年の末、交通事故入院したとき、奔走してくれた恩人だった。直木賞を目指したこともある看護婦業の傍ら、リアルな主婦目線の短編を書くアマチュア文筆家でもあった。その頃から、私がフリースクール的な私塾を運営して依頼の出番のない小中学生向けの仕事、児童書を使った教材開発(理系図書中心)の副産物のような自薦良書を娘さんの誕生日に送り続けてきていた。中にはサブダのアリスのように、飛び出し本技術の粋を凝縮したような不思議な書もあったが、一貫して叙情的な視角と編集者の創造的な意図が表れた絵本を選ぶことが多かった。
その娘さんの誕生日が迫っていた。通販ではカードを使わない主義なので、代引きで一度私の手元に書籍が届けられ、それを再梱包して送り出していた。今回はボローニャ展を通過した同時進行の構成技術のものもあった。先方が大変な時期に発送が重なってしまった。場面が違えば迷惑にもなる。まずかったなあと思いつつ、行き違いを後悔していた。
娘さんは今年中学校に入学。書の内容もだいぶ変わってきたが、私は作家の表現を察する批評の眼が育てば、絵本や写真集、詩集などは年齢は関係ないと思っている。ただ、いつもの通りの間の悪さ。私が出会う青年に負けない、世間の流れの外にいる者の、すり合わせの悪いしょうもなさを感じている。
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2010/06/01 記
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朝、父が転倒した。ベッド脇の椅子を吹き飛ばして、サイドテーブル上にあった陶器の皿やらガラスのコップも割れて破片が飛び散っていた。我が家のすぐそばのゴミ出し場に可燃ゴミを出そうと準備していた6時少し前の出来事だった。私が動き出すと父も雰囲気を察知して動き出す。だから私が外に出ているわずかの間に父が自己を起こすことがしばしばある。今回もそれに似ていた。
動き出す父に大声で制止し、やぶれそうにきついフリーサイズの介護用使い捨て手袋を無理やりはめるのももどかしく、急いで周辺の危ない破片や、二次の事故が起きそうな破片が散って垂れ下がった毛布をベッド外に片付けた。常に用意してある買い物袋の中に新聞紙を敷いて、ガラス等の破片をぶち込み、ガムテープの粘着面で、ざっと周辺の細かい破片を取り去ってから、父をうつ伏せにする。
腹が極端に出ているので、うつ伏せは苦しいのか父は徹底的に嫌がる。私の腕をつかみ、引き寄せて立ち上がろうとし、このやり方では絶対起きることができた試しがないので、父の手をほどき両手を四つんばいの股の間にいれさせ、腰を上げさせていく。幼児の立ち方だ。ところが今回は父は全くいう事を聞かなかった。
結局父の背後にまわって両脇に腕を入れて、私の背筋の力で、強引に父を引き上げた。父は不安なのだろう、当たり構わずものにつかまろうとし、更に近くにあるペットボトルや、トイレットペーパーなどを周辺に投げ出してしまった。母が締めたふたのゆるいペットボトルの蓋が開き、周囲は水浸しとなった。
私の判断力がにぶっていた。ベッドに父を戻してしまったのだ。たちまち、パジャマの下に下げている紙パンツの上から尿が洪水のように漏れだしてしまい、ベッドと枕がたちまち尿浸しになってしまった。床の水を拭いて、父を再び椅子に座らせてシーツ交換する。と父はポータブルトイレに突進しはじめた。パジャマに溜まった尿を振りまいて、私に倒れ掛かってきたのだった。父は残りの尿をトイレに出したかったのだろうが、床拭き作業は元の木阿弥。寄り切るように元の椅子に座らせたが、私のシャツは尿浸しとなってしまった。敵意の険しい表情を見せる父を前に、階段下では母が、重いゴミ袋と格闘して玄関を出ようとしていた。今度は母が痛みを訴えることになると、大声で「袋出しはやめろ」と声を出すが聞こえない。窓辺に走りよって庭にいる母を制止。すると背後で父がベッドに戻ろうと立ち上がってしまったのだった。
私の大声を叱られていると勘違いした父は私を押しのけ、新しいシーツが敷きかけのベッドに入り込んだ。駆けつけて格闘の末、父をベッドサイドに座らせた。私の眼鏡は肘打ちを食らって、なんとか鼻に止まっていた。
母が「お前が出さないから、ゴミを捨ててきた」と、悠々と父の部屋に入ってきたときは、嘆きに息が詰まった。これを繰返していては、いずれ私がつぶれてしまう。
母に応援を頼みふたりでシーツを敷きなおし、父の汚物を整理して、私はシャワー。その頭上で今度はTVが爆発するような大音量を上げ始めた。父がベッド上から、孫の手を使ってTVを点けたのだった。父はリモコンが使えない。固定電話の子機も操作できない。ラジカセはついに私が買ってきてから一度もまともに作動したことがない。パンツ一丁で駆け上がって音量を直した。騒音に裏の家のシャッターが開いた。まだ深夜ではなく、朝でよかったのだ。
結局起こされてしまった。
朝刊を抱えて寝室に戻っていった母は、一眠りして眼ざめたとき、案の定、腕と首、腰の痛みを訴えただけではなく、手足のこむら返りにのたうち始めてしまった。「ツムラ68」という芍薬甘草湯をぬるま湯で飲ませ、上向きで足を折った状態を作らせた。もうベッド傍らから父のパンツ交換は無理。介護をやれる状態ではないのがわかるのだった。
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私は父の朝食を作りながら、ポメラを使って、5/18懇談会の公開配布用の報告原稿を打ち込んでいた。11時には入所先の相談員面談にでかけなければならなかった。平塚の特養が1ヶ所と、老健が1ヶ所だった。いずれも個室を準備していたが、特養は受け入れ男性比率が極端に少なく、男性職員が少ないことがわかった。提携病院は茅ヶ崎からは、時間外にとても通えないところだし、話を聞いても救急時は厚木市方向に行くことが多いと聞いて、順待ちの可能性もさることながら利用は無理と判断した。駅が近くても小田急線沿いは条件が悪い。相模線厚木駅の乗り換えが引っかかるのだった。
老健は海側。こちらは病院入院は隣で近いが、老健入所者の平均利用期間は1~2年だという。茅ヶ崎の某病院系老健と似たものを感じて、有料ホームや個室入院の稼ぎの匂いがした。結局この日の成果はなかった。茅ヶ崎に戻り橋本に巡回にでかけ、行きに寒川図書館に本を返し、相模線に乗り遅れ、コンビニで握り飯を買って食べる。爺ぃがこれをやると全く似合わない。ホームの長いすに腰掛けて、高校生カップルの邪魔だが隣に座り、十分に嫌がられたのを肴に食事を終えた。
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橋本の空き時間に、ポメラの5/18懇談会レポートの原稿は、夜間傾聴用の携帯にrom経由で送りメールに直し、iPhoneに転送した。ポメラとiPhoneはポメラの仕様の関係でデータ交換しにくいのだ。新ポメラはQRコードでポメラからデータを送り出すことが楽になったが、逆は出来ない。こうして原稿は仕上げられた。結局家に戻るまで間に合わなくてPCから送ることになったのだが、巡回途中の車中の操作は、やはりポメラよりPhoneが勝る。席に座らなければポメラは使えないからだ。
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都教委から7/15の障碍者就労の報告ビデオの申込書が送られてきた。早速返送。後はチラシをと手がけるが、ことが進まない。父の介護の中断や、母の嘔吐などがあるが、明日、販売員Tさんの飲酒と購入者との関係軽視によって、販売資格の剥奪を彼に切り出さなくてはならないからだった。ビッグイシューは、販売者さんとの信頼関係の中で相互に作り出すものだ。販売時の酒気帯びは勿論のこと、販売者さんのよく見える場所で飲酒したり、決まった曜日の決まった時間に販売していなかったりすれば、前者は利益が飲み代に消えているという批判は避けることが出来ない。ビッグイシューの東京事務所にも彼への批判連絡が届いていた。私の出合った日も彼は酒気帯びだった。その収入はバイト収入から得たものとしても、ビッグイシューの収入は自立支援の意味が込められている。彼は以前にも飲酒と収支のためにHL支援の会が販売を停止した経過があった。二度目だった。
夜間傾聴:□□君(仮名・こちらから)
橋本2君(仮名)
(校正1回目済み)