2010/06/18 記
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朝の10時からの北里東病院着となると、8時台から家を出発せねばならない。夜間傾聴は、4時前に終了しても、記録作業が約1時間弱かかる。終わらせてから仮眠を取って8時に起きるために、四肢がしびれているような感覚で目が覚める。早鐘にような鼓動。午前中の用事は堪える。
母を早めに起こして、診察券・保険証のチェック。相模大野はホームグラウンドだが小田急線がこの時間、座れないことがあるので、事前に時刻表をチェックして、相模線原当麻駅からタクシーに乗る。バスは北里大学病院行があるが本数が少なく、終点から病院間巡回マイクロバスに再度乗らないといけないので、タクシーがいい。寒川もそうだが、タクシーの田舎料金は高い。
神経内科検査があった。頚部・脊椎のレントゲン撮影のように、いくつかの基本的な検査に加えて、かなり細かい筋電図を取ったようだ。針が痛かったと母。
母の歩行は明らかに浮いている。それが眼から来るものか、耳鼻科領域のものか、内分泌系や、ストレスなどの総合判断をしないと、個々の科の検査では原因に迫るものが得られない。眼科手術の際、ボトックス治療を施した顔面の眼の周囲が眼を開けていられないほどの違和感と痛みがあるのだと、母が症状を説明する。眼科医からは、十日目あたりから効果が出てくるが、その前は炎症の痛みが続くと予告編があった。だからその範囲ではあるのだが、ともに病院まで連れ添っている最中にも、低い段差のつまづき、自転車の横切り見落とし、階段段数の読み違いなどの危うい場面が数回あった。これはかなり危険。遠出はボトックスの炎症がある間は避けたほうがいいと母を説得した。母は驚いたような眼差しに変わりつつある。落着くまで1ヶ月はみないとという話。
ともあれ、神経内科検査と言っても、長い時間はかかるまいと踏んで、病院の食堂で軽食を済ませて検査室に戻るも、母の姿はなかった。検査室が複数に分かれているので、困って受付に質問して、入室禁止の初めの検査室に問い合わせをしてもらった。母はまだ検査の途中だった。まるまる2時間。母は疲れた顔をして部屋を出てきた。これで検査結果は30日まで待たなくてはならない。
勿体無いから路線バスで帰ると主張する母の説得をしたが、言う事を聞かないので、原当麻方向に誘導したが、母はさっさと横断歩道を渡って相模大野方向のバス停に向かってしまった。あとでこれは外食をしたかったのだとわかったが、足元が不安定なまま、混雑した路線バスに立っていることが影響しまいかと気が気ではなかった。案の定、相模大野の降車場に降りた母は、階段を昇れないと立ち尽くしていた。20分のバスでさえ、ぐらぐらして歩くのが不安と母は訴える。相模大野のバス停は、橋上駅を結ぶエレベータがあるので母を誘導し、母の求めに応じて自然食の店で昼食を取った。
しかし、今日は父がショートステイから帰宅する日でもあって、14時半の父の帰宅時間が迫っていた。母を急かせるわけにも行かず、私が先に帰ったとしても、異常を訴える母をひとりにするわけににもいかず、ともあれ母を藤沢まで小田急線で移動し、母をそこからタクシーに詰め込んで帰った。父の帰宅15分前セーフだった。しかしゆとりが無い。ずれたら、階段昇降ヘルパーさんと、送迎のホーム職員さんを庭先に待たせてしまうところだった。時間に追われている感覚が鬱陶しい。
母はそのままベッドに潜り込んだ。私は受け入れ態勢を整えるため、父のベッド周りと玄関の準備をしていると、ヘルパーさんが到着した。それを追うようにホームの送迎車が到着した。父はご機嫌である。不機嫌の始末するよりは、腹立たしくてもいいかと無理やり自分を納得させ、父を引き取った。
階段上りはむちゃくちゃ。腰が抜け、左右に揺らいで危ない状態。1回座らせたが焦って立ってしまう。言い聞かせ「休もう」と、ヘルパーさんとふたりで説得。燃え上がる父に突き落とされそうになった。必死の思いで父を押し上げてベッドに寝かせた。途端に大きな屁が出て悪臭が漂ってきた。便だった。焦って作業シーツを敷いた。父はこういうときに失禁するからだった。これも危ないところだった。父は横向きになって、賢明に紙パンツを脱いでいたのだ。
尿はあふれ出し、尿取りパッドで男性器を包み、素手のまま処置。ヘルパーさんは、次の契約が待っていた。新しい紙パンツに替えたところで、汚物ゴミを持ってヘルパーさんの書類に印鑑を押すために階段を降りた。
突然、ガタガタンという音と同時に父が転倒。部屋に駆け上がってみると、紙パンツを膝まで下ろした父が、ポータブルトイレ脇にころがっていた。周囲は軟便が飛び散っていた。一瞬も気を許すことが出来ない介護戦争が再開されていた。さすがに母も異常を感じ、父の部屋に入ってきたが、父を力づくで椅子に座らせ、紙パンツ交換してから、ベッドシーツの再交換、床の清拭と父の誘導を終えて部屋を出て、洗濯済ませて、両手を消毒石鹸液で洗浄。着衣を交換、シャワーを浴びた。その間、母は父が歩き出さないように見張りをしていた。
帰宅1時間半後、近所で食材を補充し、食材を母に渡して、まるで北里に戻るように小田急相模原巡回に向かった。途中、ビッグイシュー販売のEさんと電話で調整。巡回後、北茅ヶ崎駅から歩いてサポセンへ。ジャスコで紙パンツを閉店ぎりぎりの売り場で買い求めて、紙パンツと一緒に駅に戻り、やむなしと判断してバーミャンで中華丼を3つ買い求めて、01系統に乗って帰宅した。途中、踏切りに足止めされたが、踏み切りの警戒音は鼓動のようでたまらなかった。
23時には消灯の紙パンツ交換。仮眠1時間ほどで夜間傾聴待機が始まる。午前中の用事は地獄なのである。
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24日に市の障碍者団体連絡協議会がある。そこで30分「わーく」編集部の年間予定と企画呼びかけの時間をいただいた。その際のプレゼン資料を作り始めた。独自の読み物には出来ないけれど、関連抜粋集程度にはできるだろう。夜間傾聴の待機中、その情報切り出しの作業をしていたのだが、始めるとマウスをにぎったまま眠ってしまう。母が午前3時半ごろ、トイレに起きてきたが、私は傾聴中だったという。その母を私は気付かなかった。母ではないが宙に浮いていたのだ。傾聴では無責任になりかねない事態。19日は緊急以外の傾聴は遠慮して欲しいとメールを流した。
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自作紫蘇ジュースを飲む。夜明けが早い。これから寝る。
夜間傾聴:小田急相模原君(仮名)
橋本2君(仮名)
(校正1回目済み)
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朝の10時からの北里東病院着となると、8時台から家を出発せねばならない。夜間傾聴は、4時前に終了しても、記録作業が約1時間弱かかる。終わらせてから仮眠を取って8時に起きるために、四肢がしびれているような感覚で目が覚める。早鐘にような鼓動。午前中の用事は堪える。
母を早めに起こして、診察券・保険証のチェック。相模大野はホームグラウンドだが小田急線がこの時間、座れないことがあるので、事前に時刻表をチェックして、相模線原当麻駅からタクシーに乗る。バスは北里大学病院行があるが本数が少なく、終点から病院間巡回マイクロバスに再度乗らないといけないので、タクシーがいい。寒川もそうだが、タクシーの田舎料金は高い。
神経内科検査があった。頚部・脊椎のレントゲン撮影のように、いくつかの基本的な検査に加えて、かなり細かい筋電図を取ったようだ。針が痛かったと母。
母の歩行は明らかに浮いている。それが眼から来るものか、耳鼻科領域のものか、内分泌系や、ストレスなどの総合判断をしないと、個々の科の検査では原因に迫るものが得られない。眼科手術の際、ボトックス治療を施した顔面の眼の周囲が眼を開けていられないほどの違和感と痛みがあるのだと、母が症状を説明する。眼科医からは、十日目あたりから効果が出てくるが、その前は炎症の痛みが続くと予告編があった。だからその範囲ではあるのだが、ともに病院まで連れ添っている最中にも、低い段差のつまづき、自転車の横切り見落とし、階段段数の読み違いなどの危うい場面が数回あった。これはかなり危険。遠出はボトックスの炎症がある間は避けたほうがいいと母を説得した。母は驚いたような眼差しに変わりつつある。落着くまで1ヶ月はみないとという話。
ともあれ、神経内科検査と言っても、長い時間はかかるまいと踏んで、病院の食堂で軽食を済ませて検査室に戻るも、母の姿はなかった。検査室が複数に分かれているので、困って受付に質問して、入室禁止の初めの検査室に問い合わせをしてもらった。母はまだ検査の途中だった。まるまる2時間。母は疲れた顔をして部屋を出てきた。これで検査結果は30日まで待たなくてはならない。
勿体無いから路線バスで帰ると主張する母の説得をしたが、言う事を聞かないので、原当麻方向に誘導したが、母はさっさと横断歩道を渡って相模大野方向のバス停に向かってしまった。あとでこれは外食をしたかったのだとわかったが、足元が不安定なまま、混雑した路線バスに立っていることが影響しまいかと気が気ではなかった。案の定、相模大野の降車場に降りた母は、階段を昇れないと立ち尽くしていた。20分のバスでさえ、ぐらぐらして歩くのが不安と母は訴える。相模大野のバス停は、橋上駅を結ぶエレベータがあるので母を誘導し、母の求めに応じて自然食の店で昼食を取った。
しかし、今日は父がショートステイから帰宅する日でもあって、14時半の父の帰宅時間が迫っていた。母を急かせるわけにも行かず、私が先に帰ったとしても、異常を訴える母をひとりにするわけににもいかず、ともあれ母を藤沢まで小田急線で移動し、母をそこからタクシーに詰め込んで帰った。父の帰宅15分前セーフだった。しかしゆとりが無い。ずれたら、階段昇降ヘルパーさんと、送迎のホーム職員さんを庭先に待たせてしまうところだった。時間に追われている感覚が鬱陶しい。
母はそのままベッドに潜り込んだ。私は受け入れ態勢を整えるため、父のベッド周りと玄関の準備をしていると、ヘルパーさんが到着した。それを追うようにホームの送迎車が到着した。父はご機嫌である。不機嫌の始末するよりは、腹立たしくてもいいかと無理やり自分を納得させ、父を引き取った。
階段上りはむちゃくちゃ。腰が抜け、左右に揺らいで危ない状態。1回座らせたが焦って立ってしまう。言い聞かせ「休もう」と、ヘルパーさんとふたりで説得。燃え上がる父に突き落とされそうになった。必死の思いで父を押し上げてベッドに寝かせた。途端に大きな屁が出て悪臭が漂ってきた。便だった。焦って作業シーツを敷いた。父はこういうときに失禁するからだった。これも危ないところだった。父は横向きになって、賢明に紙パンツを脱いでいたのだ。
尿はあふれ出し、尿取りパッドで男性器を包み、素手のまま処置。ヘルパーさんは、次の契約が待っていた。新しい紙パンツに替えたところで、汚物ゴミを持ってヘルパーさんの書類に印鑑を押すために階段を降りた。
突然、ガタガタンという音と同時に父が転倒。部屋に駆け上がってみると、紙パンツを膝まで下ろした父が、ポータブルトイレ脇にころがっていた。周囲は軟便が飛び散っていた。一瞬も気を許すことが出来ない介護戦争が再開されていた。さすがに母も異常を感じ、父の部屋に入ってきたが、父を力づくで椅子に座らせ、紙パンツ交換してから、ベッドシーツの再交換、床の清拭と父の誘導を終えて部屋を出て、洗濯済ませて、両手を消毒石鹸液で洗浄。着衣を交換、シャワーを浴びた。その間、母は父が歩き出さないように見張りをしていた。
帰宅1時間半後、近所で食材を補充し、食材を母に渡して、まるで北里に戻るように小田急相模原巡回に向かった。途中、ビッグイシュー販売のEさんと電話で調整。巡回後、北茅ヶ崎駅から歩いてサポセンへ。ジャスコで紙パンツを閉店ぎりぎりの売り場で買い求めて、紙パンツと一緒に駅に戻り、やむなしと判断してバーミャンで中華丼を3つ買い求めて、01系統に乗って帰宅した。途中、踏切りに足止めされたが、踏み切りの警戒音は鼓動のようでたまらなかった。
23時には消灯の紙パンツ交換。仮眠1時間ほどで夜間傾聴待機が始まる。午前中の用事は地獄なのである。
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24日に市の障碍者団体連絡協議会がある。そこで30分「わーく」編集部の年間予定と企画呼びかけの時間をいただいた。その際のプレゼン資料を作り始めた。独自の読み物には出来ないけれど、関連抜粋集程度にはできるだろう。夜間傾聴の待機中、その情報切り出しの作業をしていたのだが、始めるとマウスをにぎったまま眠ってしまう。母が午前3時半ごろ、トイレに起きてきたが、私は傾聴中だったという。その母を私は気付かなかった。母ではないが宙に浮いていたのだ。傾聴では無責任になりかねない事態。19日は緊急以外の傾聴は遠慮して欲しいとメールを流した。
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自作紫蘇ジュースを飲む。夜明けが早い。これから寝る。
夜間傾聴:小田急相模原君(仮名)
橋本2君(仮名)
(校正1回目済み)