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OKYO図書館紀行

010.21『TOKYO図書館紀行』より

東京都北区立中央図書館

 赤レンガ図書館の愛称で親しまれている東京都北区立中央図書館は平成20年に完成したばかり。赤レンガ部分は1919年に建てられた東京砲兵工廠銃包製造所の建物がベースになっている。この場所では日露戦争の時代から太平洋戦争終結まで弾丸がつくられ、その後は米軍や自衛隊の倉庫などになっていた。図書館として生まれ変わることがなければ、たいていの人は足を踏み入れる機会はなかっただろう。

 施設は新築部分と赤レンガ倉庫が一体化した構造。倉庫という言葉からイメージするような圧迫感はまったくなく、開放的な雰囲気だ。その理由のひとつは屋根にある。I階カフエから天井を見上げると、屋根を支えるトラス構造三角形を組み合わせた形)の鉄骨が見える。この天井と頑丈な壁面のおかげで柱が少なく開放的だ。ちなみにこの鉄骨は、日本初の官営製鉄所・八幡製鉄所で製造されたもの。建物を楽しみたいという人は、壁にも注目してみよう。ここのレンガは北区内の窯で焼かれたものもあり、それぞれ製造場所を示す刻印が押されている。コツは壁の根元をチェックすること。基礎とのつなぎ目で上部が露出しているレンガを眺めていけば、100年前に押された貴重な印を見つけることができる。

 ユニバーサルデザインの館内には段差がなく、通路もゆったり。書架も車椅子で本が取れる高さになっている。椅子はデンマークの老舗家具メーカー、フリッツ・ハンセンのものなど。さりげない贅沢は、長時間滞在してもらえるように、という工夫。うれしいことに、中庭テラスで読書をすることもできる。

千代田区立日比谷図書文化館

 2011年11月に開館した「千代田区立日比谷図書文化館」は、それまで長く都民に親しまれてきた都立日比谷図書館の正三角形の建物を改修したもの。都立から区立への移行に伴い、四番町歴史民俗資料館の機能が加わり、さらに蔵書も一部変更されている。また指定管理者として「日比谷ルネッサンスグループ」(小学館集英社プロダクション、大日本印刷、図書館流通センター、シェアードービジョン、大星ビル管理)という、民間企業の共同事業体が管理運営を手がけるようになった。

 入館するとそこには受付とコンシェルジュ。ホテルのフロントのような落ち着いた雰囲気だ。I階は大半がミュージアムで、おもに千代田区の歴史を見ることができる。その奥にあるカフェと地下のレストランでは図書フロアの本を持ち込むことができ、読みながらの飲食がOKだ。またカフェで「館内で飲みます」と伝えれば、閲覧室に持ち込めるようフタ付きでのテイクアウトも可能。慣れないと尻込みしてしまうが、温かいコーヒーや抹茶ラテ片手に図書館を利用できるのは大きな魅力。このカフェと併設されたショップでは、ステーショナリーとともに新刊書も売られている。「図書館で本を買う」とはなんとも不思議な感じだが、考えてみれば、本はもともと商品でもある。これまでの枠にとらわれない「図書館」としての新たな試みだ。

 図書フロアは2階、3階。こちらにも新しい図書館を創造しようという意欲が感じられる。話題のテーマを掲げた棚があちこちにつくられており、図書館がチョイスした関連書籍が並ぶ。そこには明治・大正期に発行された大変貴重な古書も少なくない。書庫では眠っていた資料が、こうして書架に並ぶと 1本」として息を吹き返すから不思議。もうひとつの目玉は「日比谷カレッジ」。地下ホールや4階の会議室を使い、本にまつわるさまざまなテーマの講座、ワークショップ、イベントを積極的に行っている。

 こうした意欲的な試みを通じて、これからの図書館はどのように進化していくのか。そのひとつの形が具体的に集約されているのが4階の「特別研究室」。書架(内田嘉吉文庫、旧一橋図書館蔵書など昭和初期以前発行の貴重な和書・洋書約2万冊を実際に手に取れるよう開架にしている)と、有料32席の個人ブース閲覧席(無線・有線LAN・電源完備)で構成されるこの空間。ここではただ本を検索して読むだけでなく、「こんな本があった」「この本の新しい価値に気づいた」という利用者同士が発表・議論をする「私の発掘本」などのセミナーを定期的に開催している。長い間書庫で眠っていた本が、陽の目を浴び、手に取られ、語られることで、また新たな発見や創造を生み出している。

まち塾@まちライブラリー

 まち塾@まちライブラリーは「館」のない図書館。現在、東京・横浜に10ケ所、大阪にBケ所設置されているすべての本棚が「まちライブラリー」だ。本棚はカフェ、ゲスト(ウス、シェアオフイス、お寺、薬局、居酒屋、雑貨店、時計店、古本屋、私設図書館などに設置され、蔵書の内容も冊数もさまざまだ。それでもれっきとしたライブラリーである。管理しているお店でお願いをすれば、本を借りることができる。会員登録(無料)し、昔懐かしい「貸出カード」を記人する。返却日は本棚によって異なる。必須ではないが、返すときに「感想カード」を記入したり、自分で推薦したい本を寄託することもできる。

 まち塾@まちライブラリーの提唱者・礒井純充さんは六本木ヒルズ・森タワー上層階にある「アカデミーヒルズ」の創設・運営に携わってきた人物。アカデミーヒルズは六本木ライブラリー平平河町ラィブリーといった会員制ライブラリーを通じて、ビジネスに直結した都市型の学びを提供する場として大きな成功をおさめてきた。しかしその一方で、礒井さんは組織や巨人施設にできることには限界があると感じたという。そこで注目したのが、魅力的な「個人」だ。不況や閉塞感が叫ばれる世の中でも、肩書きや地位に関係なく、自分の足で立ち、前に進む人たちはたくさん存在する。こうした人とコミュニケーションをとる場があれば、社会に活気がでるのではないか。そして始まったのが、個人目線でのミクロな文化活動「まち塾」だ。「まちライブラリー」はその実践のひとつとして2011年にはじまった。

 まちラチビフジーが注目するのは、参加する「人」である。「この本借りたいんです」と声をかけたり、感想カードを書くのはちょっとした手問だ。しかしその手間はコミュニケーションのきっかけになる。本棚をみて「あの本を置いたらいいかも」と寄託するのも同じだ。礒井さんにとっての「本」は「大阪のおばちゃんがくれるアメ」であり、相手との距離を縮めるためのツールなのだという。こうして本を介してつながった人々が一堂に会したのが、2011年11月23日に日比谷図書文化館を貸し切っておこなわれた、まちライブラリー初の大規模イベント「人〃のライブ(ウス」である。

 このプロジェクトではPR活動をほとんどしていない。しかし「1人からやれるまちの文化活動」の輪は、人の縁を通じて、少しずつ、しかし着実に全岡に拡がっている。
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統計から見る図書館

010.4『図書館を読む』より

図書館の活動を評価するのにさまざまな利用統計が使われます。来館者数、登録者数、貸出冊数、予約件数、レファレンス件数などですが、中でも貸出冊数は大変重要な統計になります。図書館の総合力がこの貸出冊数となって表れてくるといってもよいかと思います。そのため、図書館評価の指標としていろいろな形で使われます。

一つは、貸出密度。貸出冊数を設置人口で割ったもので、人ロー人当たりの貸出冊数になります。図書館活動の推移を見たり、他の図書館との比較をしたりによく使います。例えば、二〇〇六年度の岡山県内の市町村立図書館全体の貸出密度は五・一冊(全国平均五・二冊)です。これは全国の都道府県の中では十三番目です。一番は滋賀県の八・四冊、かなり開きがあります。岡山県の実力はこんなものではないはずです。

もう一つは、行政効果や効果比。サービス量を金額に換算(貸出冊数×平均単価)して使います。岡山県立図書館を例にとると、百二十万冊×平均単価=約三十六億円のサービス量となります。これから図書館費を引いたものが県民への還元額、行政効果となります。二十五億円以上の還元がなされたと考えられます。また、図書館費で割ると行政効果比となります。投じた資金が何倍になったかです。先の場合は四倍となります。

還元額は図書館活動が活発になればなるほど増えていきます。実際にお金が還元されるわけではありませんが、知識・情報がみなさん自身に、また生活や仕事や学校等の場で活かされていきます。

水や石油は使えば使うほど環境破壊や資源の枯渇につながりますが、図書館の知識や情報は使えば使うほど人を豊かにし、地域を活性化させてくれます。

(一)岡山県内市町村立図書館の貸出密度と全国比較

 岡山県内市町村立図書館全体の貸出冊数は、一時足踏みした年がありましたが、専任職員の減少や資料費の減額にもかかわらずまず順調に伸びてきています。しかし、その数字を貸出密度(市民一人当たりの貸出冊数)で全国と比較してみますと、二〇〇六年度あたりから全国平均を下回るような状況になっています。図書館界をとりまく状況が厳しい中ですが、最近貸出密度は全体として伸びています。しかし、その伸び方は岡山県よりも全国平均の方が少し大きくなってきています。順位も十位前後だったものが十七位と大きく後退しています。東京都や滋賀県の約九冊と比べると岡山県の五・六冊とはかなりの開きを感じます。岡山市立・倉敷市立・岡山県立図書館と資料費が一億円を超す図書館が三館(現在は倉敷市が約九千万と一億を少し切っている)もある県はそんなにありません。図書館ネットワークも全国に誇れるほどに充実しています。まだまだ大きく伸びる余地があるように思えます。

(二)貸出密度の高い上位十県 (二〇〇九年度)

 東京都と滋賀県が約九冊(人ロー人当たりの個人貸出冊数)とずば抜けています。二都県は独自の図書館振興策を作り、都県立図書館自体の拡充だけでなく、市区町村立図書館の設置、振興を図ってきました。東京都は「図書館政策の課題と対策」を策定し、一九七一~一九七六年度にわたって充実した振興策を実施してきました。レベルの高い本格的な助成事業としては最初のもので、東京都下の図書館整備を飛躍的に促進しました。また、滋賀県は一九八〇年代から振興策を実施しており、全国でも最低水準に近かった滋賀県の図書館界を大きく変えていきました。県としての整備基準を設け、市町村側の自己努力を求めつつ建設費と継続した資料費補助を行い、図書館開設の準備に当たっては専門職の館長の確保を指導するなど、振興策の中身は全国的に大きなインパクトを与えるものでした。こうした背景があって東京都も滋賀県も図書館設置率は高く(滋賀県は百パーセント)、それぞれの図書館活動もレベルの高いものとなっています。ただ、滋賀県では最近県立図書館の資料費が全国平均の約六千万を下回るような事態に至っていること、また、東京都については区立図書館で窓口業務の外部委託が拡大していること、職員の有資格者率が全国平均よりもかなり低いこと等心配な面も多く出てきています。

(三)岡山県内町立図書館に見る行政効果及び行政効果比(二〇〇八年度)

 県内の町立図書館を表にしましたが、平均値で見てみます。図書館に投入した費用・図書館費は約二千百万円です。図書館が町民に提供できたサービス量は金額に換算すると(貸出冊数×平均単価)約一億二千百万円にもなります。これから図書館費を引くと町民への還元額・行政効果となるわけですが、約一億円にもなります。また、図書館費で割った場合の行政効果比をみると約五・七倍と、図書館への二千百万円の投入が五・七倍にもなった、大変大きな効果が見てとれます。

 図書館活動は、その効果がなかなか見えにくいだけに注目されない弱さがありますが、少し視点を変えて図書館活動を数字に置き換えてみると、図書館が持つ力の大きさが分かりやすくなります。しかもこの数字は資料の貸出し以外の図書館サービスを加算すると更に大きくなるわけです。

(四)貸出密度が高い他県町村立図書館の行政効果及び行政効果比(二〇〇八年度)

 岡山の町立図書館に見る行政効果・比を先に見てみましたが、ここでは全国の町村立図書館で極めて活動が盛んな五つの図書館を取り上げてみました。

 図書館に投入する費用に対してサービス量、行政効果、行政効果比がいかに大きいものであるか分かります。図書館での資料の提供がもたらすものは、経済的な視点からもその効果が見てとれますが、数字には現れない利用者の豊かな人生、生活にも貢献していることは間違いのないところです。
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2011年度は1307冊。累計は14430冊

豊田市図書館の27冊

 331.72『科学による反革命』

 290.93『ブータン』

 336.3『「ぐちゃぐちゃチーム」の「ばらばらメンバー」をひとつにする方法

 292.14『value in Seoul for Beauty』

 188.84『絶望しそうになったら道元を読め!』「正法眼蔵」の「現成公案だけを熟読する ネットで3時に予約して、17時に受け取る

 007.63『計算機と脳』

 320.4『法の世界へ』就職する、結婚する、契約を結ぶ、事故に遭う、etc. 法律が、生活のあらゆる場面で、問題解決のための「魔法のカギ」になります。さあ、「法の世界へ出発しましょう。

 391.1『戦争社会学ブックガイド』現代世界を読み解く132冊 解説があまりにも短く、いい加減

 596.23『調理場という戦場』「コート・ドール」斉藤政雄の仕事論

 201ブル『世界史的考察』

 611.3『食の終焉』グローバル経済がもたらした、もうひとつの危機

 498.36『徹夜完全マニュアル』どうしてもがんばらなくてはならない人の

 451.85『「地球温暖化」神話』終わりの始まり 日本は2006年度から国・地方・民間を合わせて20兆円を使ってきました。CO2の排出が減った形跡はまったくありません。財政難だといいながら巨額な血税をドブに捨て、いまも捨て続けているのです。

 010.21『TOKYO図書館紀行』3時に岡崎図書館に予約を入れた。17時に図書館に行ったら、新刊書に残っていた

 010.8『図書館施設特論』ベーシック司書講座・図書館の基礎と展望

 010.21『「図書館年鑑」2009・2010.2011「図書館関係資料」集成』

 007.3『世界一受けたいソーシャルメディアの授業』人生を変える6つの授業とソーシャル人としての生き方

 010.4『図書館を読む』

 590.4『90歳ヒアリングのすすめ』日本人が大切にしたい暮らしの知恵をシェアしよう

 748『とやま森の四季』

 983『「罪と罰」を読む』<知>の危機とドストエフスキー

 519.8『恐怖の環境テロリスト』
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スタバの風景

未唯へ

 ツイッターとは別にフェイスブックを行いましょう。実名の世界です。その分、文章は選びます。つぶやきでなく、未唯空間そのものを出します。

 ICレコーダーのランプが小さいので、論臆しているか分からない。。

未唯空間の全体

 何となく、全体が見えてきました。限界を話します。

 未唯空間に反映しないといけないけど、未唯空間自体のシンプル化を先にします。大きな所は、キャッチフレーズを明確にします。カントではないけど。

新刊書の期処理

 図書館は2011年度の締めです。岡崎は4/1になるので、2012年度です。1300冊を超えたけど、だから、何だというのか。

 歴史哲学のジャンルは難しいです。

行為者としてのファッシズム

 行為者になるのは止めましょう。ヒットラーにしてもトロッキーにして、不幸になりました。

 歴史をファシズムから始めたのは、正解です。現在の歴史も政治もそこから始まっています。民主主義もギリシャではなく、ナチから始まりました。そして、まだ、本当の民主主義に至っていない。

スタバの風景

 松坂屋が開店前なので、待ちの人でスタバが混んでいます。ふだんよりも、年齢層が高い。

 スタバでの読書で感じたこと

 スタバで外人同士で大きな声でしゃべっています。

 外人はなぜ、大きな声を出すのか。そう言えば、この間の地下鉄の時もそうです。話し相手の日本人の声も大きくなります。

マクドナルドとモスのバーガー

 マクドナルドの「てるたま」単品は300円です。セットにすると630円。単品を食べました。ごちょごちゃして、さほど、おいしくない。それでいて、腹だけは膨れる。

 比較のために、そのあと、モスバーガーです。

 最初にテリヤキを食べた時には、ビックリした。毎週水曜日にミヤミヤとプールに行っていた。その前に、マクドナルドで腹ごしらえしていたが、モスがおいしいということで、出かけて行きました。
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大テロル勃発

538.9『ロシア宇宙開発史』より

グルシコはガス発生器で、コロリョフはロケット・プレーンで苦闘していたとき、第三研究所(反動推進研究所はすでに第三研究所と改名していた)は激震に見舞われた。大テロルである。一九三二―一九三四年の大飢饉を農村の統制強化で何とか乗り切った共産党書記長ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・スターリンは政界のみならず広範な分野にわたる大粛清に乗り出した。

一九三四年一二月一日、スターリンの後継者の最右翼と見られていた共産党書記、党組織局・政治局委員セルゲイ・キーロフが暗殺された。暗殺実行犯の背後にジノヴィエフ派がいたとして(冤罪であった)、かつてのスターリンの盟友ジノヅィエフ、カーメネフなどが逮捕され、一九三五年一月、裁判で懲役刑の判決を受けた。これはまだ序の口で、一九三六年七月の党中央委員会秘密書簡は、「反革命テロリスト行為」を企画している反革命破壊分子(トロツキストなど)と戦うことを呼びかけたが、この書簡が大テロルの直接の引き金となった。ジノヴィエフ、カーメネフが再び逮捕され、八月、裁判にかけられて死刑の判決を受け(第一次モスクワ裁判)処刑された。九月、内務人民委員(内務大臣にあたる)に二コライ・イワァノヅィチ・エジョフが就任し、一一月には対象が「反革命テロリスト行為」に加えて「サボタージュ・妨害行為」にまで拡大される。一二月には第八回ソヴィエト大会で大テロルの理由づけを行ったと言われる新憲法(スターリン憲法)が採択された(一二月五日)。田中・倉持・和田の『ロシア史』は次のように述べている。新憲法の眼目の一つは、社会主義建設の基本的完了と無階級社会(厳密にいえば敵対的勢力の存在しない社会)の成立を宣言する点にあった。(中略)もはや敵対階級は消滅したとされている以上、そのようなものの存在は国内の社会的構造からは説明できず、(そのようなものが発見された場合)外から送りこまれた『帝国主義のスパイ』=『人民の敵』として説明するしかない。ここに敵対階級消滅論は、一方では国民統合のイデオロギーとして、他方では異端者を『人民の敵』と説明するイデオロギーとして二重の機能をもつことになる。(中略)スターリン憲法による『民主化』と大量テロルとは表裏一体のものだったのである。

一九三七年一月の第二次モスクワ裁判で重工業人民委員代理ピャタコーフが逮捕され裁判にかけられ、彼の逮捕に抵抗した重工業人民委員オルジョニキーゼは自らへの波及は避けられないと観念して二月に自殺した。

二月二三日から三月五日にかけての党中央委員会総会でスターリンが、「面従腹背者」の摘発を呼び掛ける大演説を行って、これを契機に大テロルは拡大し、エジョフの指揮する内務人民委員部は「人民の敵」の逮捕・粛清に着手する。

大テロルは、当初は政治家、高級官僚が対象であったが、やがて軍部にも波及し、第三研究所(旧反動推進研究所)生みの親であるトゥハチェフスキー元帥をはじめとする上級将校八名が一九三七年五月二六日逮捕され、拷問と非公開軍事裁判の結果ドイツのスパイの容疑で「人民の敵」であるとの判決を受け処刑(銃殺)された。処刑が新聞第一面で報道されたのは六月一二日であった。これを皮切りに軍の幹部が大量に逮捕・銃殺された。五人の元帥のうち三人、一五人の軍司令官のうち一三人、五七人の軍団長のうち五〇人が処刑されたという(五人の第二ランクの将官(元帥)のうち三人、第二ランク(大将格)の二〇人全員、六七人の軍団長のうち六〇人、一九九人の師団長のうち一三三人、三九七人の旅団長のうち二I二人が消えたと述べている文献もある)。スターリン独裁を脅かしそうな軍人を粛清したにしては数が多く、軍粛清の真の原因はいまだに明らかではない。ただ、スターリンはスマートかつ有能で人望があり、自分の言うことをきかないこともあるトゥハチェフスキーを忌み嫌っていたことは事実のようである。

その後大テロルは、軍のみならず社会のさまざまな層に及び、密告が奨励され、とくに組織の幹部クラスが続々と逮捕された。逮捕された人々は、ほとんどが身に覚えのない罪状で拘留された。そして、同僚、友人たちを共犯者として白白することを強いられ、その結果、芋づる式に、多くの人々が「人民の敵」として逮捕されることとなった。

逮捕者たちは、逮捕されるとロシア刑法法典第五八条第七項と第一一項で起訴された。法律の条項は長文であるが敢えて要約すると、前者は「国家の正常な活動の破壊・妨害行為」、後者は「犯罪行為の準備と実行を目指す組織への参加」となり、これらの一方でも適合すると判断されると「人民の敵」となる。取り調べが予審判事によって行われるが、逮捕者の供述書は、逮捕者の所属する組織内の共産党員があらかじめ作成し、取り調べ時に、殴る、蹴る、眠らせない、座らせない、身長より短い檻に入れる、逆さに吊るして棒でたたくなどの肉体的拷問や、妻子の逮捕(妻は矯正労働収容所送り、子供は「子供の家」と呼ばれる孤児養護施設送り)をほのめかす精神的拷問を加えて無理矢理被告に署名させるのである。大テロルと呼ばれた一九三〇年代後半のテロルの犠牲者(処刑と強制労働収容所での死者)の数は一五〇万~三〇〇万人と推定されている。

二〇〇二年に国際歴史透明化ならびに権利擁護協会「メモリアール」は「スターリン粛清者リスト」を公開し、それによって、次のようなことがわかった。このリストは逮捕者中の要人リストで、内務人民委員部で作成され、スターリン、モロトフ、カガノヅィチ、ウォロシーロフ、ミコヤン、コシール、ジダノフ、エジョフらより構成される委員会に提出され、委員(全員出席ではなく、彼らのうちから四人がその時々で選ばれた)によりカテゴリー、2のマークが付けられた。カテゴリーは銃殺刑にしてよいことを意味した。リストは最高裁判所軍参与会に送られ、一五~二〇分の短い裁判ののち判決が言い渡され、カテゴリーは八○~九〇%が銃殺刑が宣告され、早ければその日のうちに、遅くとも数日内に刑を執行された。そして、そのほとんどは外部に発表されず、家族にも知らされなかった。
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ムッソリーニがギリシアに侵入したかった理由

289.3『ムッソリーニ』より

なぜムッソリーニがギリシアに侵入したかったのかという理由は、エヴェレストのようにそこにギリシアがあるからということ以外には、完全に明らかであるとは言えない。彼がギリシアを欲しがったことは一度もなかった。少なくともある種の道徳的口実を持ち出すことが可能なフランスやイギリスの領土については、そうしたことがあったのではあるが。戦略的にはシチリア海峡を抑えるマルタ島のほうがはるかに重要で、はるかに獲得しやすい目標だった。一九四〇年六月にムッソリーニがただちにマルタ島を奪取しなかったとき、イギリスは驚いた。ムッソリーニはギリシアをイタリアのものにしたいと言ったことは一度もなかったが、コルフのようなギリシアの島のひとつかふたつにはつねに視線を向けていた。イデオロギー的視点から見てもギリシアは敵ではなかった。当時のギリシアは半ファシスト国家で、首相であるイオニス・メタクサス将軍はローマ式敬礼を取り入れてギリシア式敬礼と呼んでいた。しかしながら、ギリシアの国王ゲオルクニ世は親英的で、イギリスはイタリアに脅威を与えるためにギリシアのなかに海空軍の基地を設置したいと願っていた。

だが、侵入の真の理由は、ムッソリーニの並行戦争戦略がそれを求めたことだった。彼には自分の力だけで打ち破ることができる敵が必要だった。それさえできれば、講和会議の席に戦勝国として登場できるからだった。ムッソリーニは最初にユーゴスラヴィアヘの侵入を考えたが、ヒトラーはユーゴスラヴィアに三国同盟への参加を働きかけていたので、これに反対してムッソリーニを説得した。二番目の、だが決定的な理由は、十月十二日にドイツ軍が一例によってムッソリーニには最終段階まで通告することなく、ルーマニアに進撃したことだった。そのねらいはドイツが必要とする年間の石油量一〇〇〇万トンのうち七〇〇万トンを供給していたルーマニアの油井を「保護する」ことだった。この年の六月にロシアがバルト三国を占領し、続いてルーマニアの北東部を占領していた。スターリンが次にルーマニアの油田地帯へ動くことをヒトラーは怖れた。ヒトラーはまたイギリスによるその破壊工作も怖かった。ルーマニアの石油はユーゴスラヴィアもしくはハンガリーを経由してドイツに運ばれたため、バルカン地域はドイツの生命線となっていた。しかし、ムッソリーニはユーゴスラヴィアと残りのバルカン地域を自分の影響圏と考えていた。最初はフランスで、今度はバルカンで、ヒトラーの唯一の関心は枢軸の利害ではなく自分の利害であることは明確だった。エンリーコ・カヴィーリア元帥がこの当時指摘したように、イタリアはドイツによって「少しずつ《誤魔化されて》いた」。

ヒトラーによるルーマニア占領はムッソリーニを「憤慨」させた、とチァーノは日記に書いている。ムッソリーニはチァーノに言った。「今度はわたしが彼を同じ目に遭わせてやる。わたしがギリシアを占領したことを彼は新聞紙上で知ることになるだろう。これで釣り合いがとれるというものだ」。さらに念を入れてムッソリーニはつけ足した。「ギリシアをやっつけるのに苦労するようなら、わたしはイタリア人であることをやめる」。したがって信じられないように思えることだが、公式の敵国であるイギリスに対してではなく、公式の同盟国であるドイツに対する緩衝材として、ムッソリーニはギリシアを欲したのである。ひとたび決意を固めると、ムッソリーニは、国境地域でのギリシアの暴力行為など、宣伝のためのいい加減な口実をいろいろとでっち上げた。

それでも彼の本当の目標はギリシアではなくエジプトだった。八月二十二日にようやくムッソリーニは軍事命令のなかで、イタリアの優先目標は北アフリカにおいてイギリスからエジプトを奪うことであり、ギリシアとユーゴスラヴィアはたんなる「観察と監視」の対象となることを明らかにした。八月十九日の電報のなかでグラツィアーニに伝えたように、彼がねらっていたのは、ヒトラーのイギリス侵入とイタリア軍の攻勢を一致させて、「最大の衝撃」を与えることだった。エジプトの喪失はイギリスにとって致命傷になるだろう、と彼は言っている。しかし、ブリテンの戦いの敗北に結びついたヒトラーのルーマニア占領は、ムッソリーニにギリシア侵入の決意を抱かせることになり、エジプト進出のプランは当面取り下げられた。

ドイツ軍がルーマニアに侵入してから三日後の十月十五日、ムッソリーニはヴェネツィア宮殿で開かれた会議でバドーリョと将軍たちに対してギリシアヘの侵攻を決定したことと、それを二週間にも満たない二十六日に開始すべきことを伝えた(侵攻はその期限よりも二日遅れた)。彼は攻撃の理由を次のように説明した。「これらの目的をわれわれが達成したとき、イギリスに対して地中海のなかでのわれわれの立場を改善することができるだろう」。アルバニアのイタリア軍司令官セバスチァーノ・ヴィスコンティ・プラスカ将軍は、自分には七万人の兵力があり、これらの部隊がアルハニア国境のエピルスに橋頭堡を確立できることを信じている、と発言した。彼の推定では、ギリシア軍にはわずか三万人の兵力しかいないとのことだった。あとになって、自分の評価を守るために、バドーリョは準備不足を理由として侵攻に反対したと思わせようと試みることになる。しかし、その会議で唯一ハドーリョが表明した留保条件は、ギリシア全土を占領下に置くことに成功した場合必要な師団の数は倍-すなわち二〇個師団になる、ということだった。だが、ムッソリーニからの圧力を受けて、ヴィスコンティ・プラスカは当面三個師団の増派で足りると発言した。だが、ギリシア軍兵士の数はヅィスコンティ・プラスカ将軍の推定の一〇倍だったのである。

ムッソリーニのギリシア侵攻に関するヒトラーに対する説明は、筋書きの一部しか語っていなかった。十月十九日の日付がある、ラーロッカーデッレーカミナーテにおいて手書きで書かれた手紙のなかで、十日以内に、海空軍基地設置の許可を得たばかりのイギリスに対する先制攻撃として、ギリシアに侵攻することを伝えた。「ギリシアは地中海におけるイギリスの戦略的拠点のひとつである」と彼は説明した。同じ手紙のなかでムッソリーニはフランスに対するイタリアの要求について詳細に述べており、それは「不可欠の点」であるとともに、「枢軸とフランスの関係を明確にする」べきときが来ている、と伝えた。イタリアにとっては不可欠でも、ヒトラーにとってはそうではなかった。ギリシア侵攻もまた、フランスに関してヒトラーに圧力をかける企てだった。
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使える環境を実現するネットワーク

未唯へ

 席替えで、思い通りになったけど、遠い。その間に、変な男が二人はいっている。今日はお休みでした。

 ロッテリアは930円のバーガーセットです。夕食用だということです。マクドナルドよりも激しい。

ネットワークの推移

 2000年から見た時の2005年のネットワークから始めた。2000年から仕掛けました。Sa-ネットの母体。それだけでは能力不足なので、衛星も企画しました。5年後には、衛星を超える地上線になると見込みました。そのためには、凸凹になった、ネットワークをキッチリしたカタチにしないといけない。それも2005年には完成させたかった。

 実際に、2005年になってみると、ネットワークの進化が止まっていた。デバイスの方に関心が移っていた。衛星はそのまま、ダラダラと目的もなく、続きました。ネットワークも凸凹のまま、2006年のSa-ネットを向かえました。それから5年後、価格的にも性能的にも、NGNと比較すると見劣るものになっていた。

 価格を調整すると同時に、ベースをNGN並にすることを決めました。当然、衛星配信の代替を可能にする線を求めました。地上での大量配信を現実にすることによって、バラバラな回線種別を上げることを要求すると同時に、独自ネットを設置している所にインパクトを与えます。2015年レベルでは、全国均一な高速回線を前提とした、ライブラリ使用を可能にする。

使える環境を作り出す

 その均一なイントラをインターネットにつなげることが、今回の内容です。もう一つは,システムをいかに簡単にするのか。その理由は維持のためではない。使える環境を作り出します。自分たちが環境を作れるようにしていく。

 コンテンツはプル型ではなく、プッシュ型にしていく。プッシュ型だと、限定されてしまうし、そのためのメニュー画面が必要となる。メニュー一つ変えるのでも、何百万円もかかります。インターネットのようにありモノを使っていくという、世界です。それとお客様とつながるようにするために、お客様のツールとコンテンツにつなげていく。

ネットワーク会社の取り込み

 これらを実現するには、K社をこちらに組み込まないといけない。N社との関係とか商売との関係というけど、それ以前の問題です。今のK社では邪魔です。ネットにしても、5年前に企業間で約束したことを果たしていない。それを条件として、K社を採用したのに。企業用のニーズを大切にしないと、2015年にK社の地上回線は残っていないでしょう。ケータイ会社だけになっている。

グループでの合意形成

 グループでの合意形成はどうしても、(積)になります。つまり、共通部分だけ。一人増えれば、それだけ、結論は減ります。核になるものではなく、ずれるだけです。(和)であれば、一人一人が大きくなることで、全体が大きくなるが、積である以上は一人の能力以下になります。

 お互いが根本の部分で理解できるわけではないから、動けなくなります。合意形成できません。これが組織の悪さです。そのために、組織は上から答を決めて、分配するだけのことです。上がそれだけの能力を持っていれば、それなりにうまくいきます。今は、上が決められる時代ではないです。下から、決めていくしかないけど、積での合意形成では動けません。

 (和)にするということ、そこまで許すということ、それを可能にするのが本来の知恵です。皆、色々なことを考えて、それをローカルで試して、それらをつなげていく。

 クルマでも一緒です。一台をどう作るのかを企画するのはいいけど、その間に各部品の設計者が知恵を出して、作り出すことになります。最初から、こういうものだと固定してしまうと、知恵が出ません。

地域活性化のための合意形成

 これは地域活性化にとっても、大きな要素です。組織の呪縛をいかに抜け出すかです。個人のアイデアレベルを上げないと、地域のアイデアが増さないので、個人の活性化が要求されます。NPOでも、それでいかに自己実現するのか、自分のアイデアを試すという場が必要です。大きな組織になるほど、アイデアを試す機会が減ります。

豊田市図書館

 4時半前に豊田市図書館に到着しました。今日はやたら、哲学の本が多いです。ハイエク全集の二冊も含まれます。これらは新刊書フリークは見向きもしません。それと3.11関係も大量に残っています。27冊です。トートバック二つに一杯です。本当に重たい。

 夜中の3時に頼んだ本が一冊、用意されていました。ある面、便利になりました。岡崎図書館に依頼した本は、豊田市図書館の新刊書コーナーにありました。キャンセルしないといけない。
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環境社会の因数分解の表現

やっと、因数分解も最後です。といっても、環境社会ですので、7つのジャンルとは別のテーマです。この部分について、どのようなイメージなのか上げます。

環境社会(8-8)の因数分解

8.8.1 市民生活の様子
 社会システム ①→② ③→④
  ①社会コミュニティ構築
  ②市民主体社会
  ③地域の活性化
  ④社会システムの再構築
 循環型社会 ①→②→③ ④
  ①使うことが主体
  ②コンパクトな単位
  ③循環型
  ④コミュニティで保証
 地域の活性化 ①→②→③ ④
  ①市民コミュニティ
  ②さまざまな手段でつながる
  ③市民センサーで状況把握
  ④コラボレーション
 社会変化を促す ①→②→③ ④
  ①名目は環境問題解決
  ②コンパクトな市民生活
  ③コンパクトシティ
  ④さまざまな選択肢

8.8.2 市民が強くなる
 自立・自律する ①→②→③ ④
  ①市民が主役
  ②社会レベルを引き上げ
  ③武装化して、自立する
  ④市民参画
 学習し、伝える ①→②=③ ④
  ①アイデアを重視
  ②社会コミュニティで実現
  ③市民の専門性
  ④市民サービス
 市民の結びつけ ①⇔②→③ ④
  ①都市の弱いつながり
  ②農村の強いつながり
  ③地域として独立
  ④多様な結び付け
 幸せのカタチ ①=② ③→④
  ①エネルギーで幸せになれない
  ②駐車場よりガーデニング
  ③全体の幸せが自分の幸せ
  ④人間がスマートセンサー

8.8.3 社会システム
 地域が独立 ①⇔② ③→④
  ①大きな単位の道州制
  ②自治体の権限
  ③多様なコミュニティ
  ④地域で支援
 全体効率 ①⇔②→③ ④
  ①コミュニティでいいとこ取り
  ②国は大きなこと
  ③全体効率を上げる
  ④クラウド・企業と連携
 クライシス対策 ①→②、③ ④
  ①クライシスは起こる
  ②それ以前に行うこと
  ③その後に行うこと
  ④地域として対策
 企業の役割 ①、②→③ ④
  ①商品が戻ってくる設計
  ②循環型の商品の取扱い
  ③新しい責任制度
  ④市民から始まる循環

8.8.4 ゆるやかな変革
 個人の活性化 ①⇔②→③ ④
  ①カリスマが支配
  ②別次元のコミュニティ
  ③市民会議
  ④生まれてきた理由
 ゆるやかなネット ①→② ③⇔④
  ①個人が核
  ②要件での組み合わせ
  ③組織のような固いもの
  ④柔らかいつながり
 組織巻き込み ①→②→③ ④
  ①市民生活を守るサービス
  ②企業のエネルギー対策
  ③組織でアピール
  ④コミュニティを支援
 世界へアピール ①→②→③ ④
  ①市民主体にする
  ②国・行政・企業が支援の連鎖
  ③新しい民主主義
  ④アジアの国
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哲学は、ある意味で、私の生命でした

289.3『ニールス・ボーアの時代』より ボーアと哲学

新しい物理学の創設者、研究指導者、研究所創立者、基金調達者、難民救援者、実験科学の指揮者、そして世界一周旅行者としてのボーアを見てきたが、次に、われわれは20世紀の重要な哲学者の一人としての彼に出会うことになる。ボーアは1920年の後半から、この領域で本領を発揮した。この頃、彼は物理学における相補性の精密化を開始し、別の分野への拡張に足を踏み入れていった。しかし、彼は、それよりずっと早く、学生時代から哲学的問題に強い関心を抱いていたことがわかる。

哲学者とは何か?『ブリタニカ百科事典』によると、哲学は一般名辞であって、使用する人と使用された時代によってその意味と範囲がかなり大きく変化した。『オクスフォード英語辞典』に書かれている哲学者の九つの明確な定義を読めば啓発されるところもあるが、これからの話に必要というわけではない。哲学に対するボーアの考え方そのものに沿ってこの章を進めよう。

まず、ボーアが哲学を全体としてどう捉えていたか見てみよう。

ボーアの相補性に関する最初の論文になる1927年のコモ講演でいくつかの草稿に、「量子論の哲学的基礎」という表題が付けられていることにはすでに触れた。また彼は、1957年11月の最初のカール・テイラー・コンプトン講座のためにマサチューセッツ工科大学(MIT)へ行ったときには、6回の講演全体に対して、「原子物理学の哲学的教程」という表題を選んだ.

この講座の冒頭で、ボーアはあらかじめ聴衆にことわっている。「私は哲学に対して十分な学識をもち合わせておりません。したがって、皆さんは、この演題からアカデミックな哲学的内容を期待しないでいただきたい。

こうした演題を掲げながら、すぐそれを否定するという対比の仕方ほど、ボーアの哲学全般に対する姿勢を見事に表現した事例を私は他に知らない。私の考えでは、ボーアは何よりもまず物理学者であった。しかし、彼のある考えが哲学的であるといわれたとしても、それが彼を哲学の専門家とみなしていることにならなければ、彼は決して反論しなかったであろう。

ボーアの哲学に対する考え方と哲学者に対する態度とは区別しないといけない。彼がとくに敬愛されたデンマークにおいてさえ、ボーアの貢献に対して哲学者の間から皮肉を込めた批判的な論評が多く現われた。ファウルフォルトは、2人の哲学教授が書いたテキストを私に見せてくれた。その2人は1950年代にコペンハーゲン大学の哲学課程で教鞭をとっていたが、その授業の中で学生に対し、ボーアはまったく間違っていると話していた。こうした意見やその他同じような意見は、後のボーアの意見を説明するのに大いに役立っている。「いろいろの人がいますが、哲学者と呼ばれる人で相補性とはどういうことなのか、本当に理解している人はいないと言ってよいのではないかと思います。……科学者と哲学者の関係はとても奇妙なものです。……問題は科学者と哲学者の間に直接何らかの理解が生まれる望みがないことです。]ボーアは哲学者の集会に出席したのち、私の友人イェンス・リンハートにその日のことを話した。「私は重大な発見をしました、とても重大です。哲学者たちがこれまで書いてきたことは全部まったくの戯言です(……er det rene vaas)。」

ボーアの気に入るような哲学者の定義は『オクスフォード英語辞典』ではとても見つからないが、次のようになるだろう。専門家と哲学者の違いは何か? 専門家とは、いくつかの事柄についてあることを知り分かろうと研究をはじめ、研究がすすむにつれて知識が増し、知るべき事柄は少なくなり、っいには知るべき事柄はなくなり、それについてあらゆる事柄を知って終わる人のことである。これに対し哲学者とは、いくっかの事柄についてあることを知り分かろうと研究をはじめ、研究がすすむにつれて分からないことが増し、ついにはすべての事柄にっいて何も分からないで終わる人のことである。この章のはじめに掲げた、「哲学を嘲笑することは真に哲学的である」というパスカルの言葉には、彼に訴えるものがあっただろうと私は思いたいのだが、1951年にデンマーク哲学心理学会の名誉会員に選ばれるとボーアはそれを喜んでいた.
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賢者の政治

『世界を変えた哲学者たち』より ハイエク……民主主義にご用心

●ハイエクは民主主義者ではない

 ハイエクは勤勉である。七十歳を過ぎた年齢で『法と立法と自由』という分厚い本を書いた。これは全三巻からなり、第一巻(一九七三年)では「自生的秩序」、第二巻(一九七六年)では「社会正義の幻想」を論じる。そして一九七九年、八十歳の年には第三巻を出し、そこで政治制度を論じることになる。

 この政治論がしかし奇妙なしろものなのである。

 ハイエクは自由主義者であるが、民主主義者ではない。個人の自由を至上のものとするが、しかし民主主義(大衆民主主義)はきらいである。大きらいである。ハイエクの哲学を解く鍵はむしろここにある。
●民主主義は危険である

 自由であるとはどういうことか。それは「拘束のない状態」である。政府からとやかく命令されない状態である。政府からみれば、あまり権力を使えない状態、権力の制限された状態である。これが自由の普通の意味である。

 しかし民主主義はそうではない。民主主義とは民衆の意志が権力をつくる、政府を拘束するということである。

 ある政治権力(政府)が正統とされるのは、その権力による支配が民衆の意志によって承認されているからである。

 民主主義においては民衆の意志は絶対であり、制限されることはありえない。民衆の意志が制限されるのであれば、それは民主主義ではない。

 したがって、民衆の意志によって成立した政府の権力は制限されない。その権力は、民衆の同意があるかぎり、無制限である。民衆が望んだことを政府は実行しなければならない。

 自由主義では政治権力は制限される。しかし民主主義では政治権力は全能となるのである。
●民主主義を抑制する

 したがって政治権力は、もし民衆が望むのであれば、自生的秩序(自由な市場経済)に遠慮なく介入するだろう。富者に累進税を課し、相続税を徴収するだろう。そうした税金を民衆のために再分配するだろう。

 これではいけない! 民主主義のもとでは自由がこわされる!

 こうして、民衆の暴政から自由を救い出すために、ハイエクは古代ローマの元老院のような政治システムを考案するのである。

 ハイエクのプランによればこうである。

 年齢四十五歳から六十歳までの人びとからなる「立法院」をつくる。国民は四十五歳になると自分たちの同世代から(比較的少数の)議員を選ぶ。この議員たちの任期は十五年であり、再選はない。六十で定年である。

 立法院の議員たちには、引退後の生活の心配をしなくてもいいように、引退後は裁判官などのポストが提供される。こうすることによってこの議員たちは利害団体の圧力から解放され、自由に政治を考えることができる。

 この立法院は政府にたいして大きな権力をもつ。政府が計画する政策はすべて「自生的秩序」に違反していないかどうか、この立法院の審査を受け、そしてその承認を必要とする。

 これがハイエクのプランである。
●賢者が監視する

 この立法院とは別に「第二院あるいは行政院」というものがつくられる。

 行政院の議員は選挙で選ばれ、その多数派が政府をつくる。この政府と行政院とを立法院が監視・監督するのである。

 問題は立法院の議員の選出であるが、ハィエクはくわしいことは書いていない。「地域ごとに指名された委員が彼らのなかから代表者を選ぶ」とある。

 また、立法院の議員になれるのは、「すでに生活のなかで力量をしめしている人びとだけ」とある。つまりは、同世代の人びとから、社会の有力者・名士が選ばれ、彼らが自分たちのなかから立法院の議員を選出する、というシステムであるらしい。
●名望家の支配

 これは名望家政治の復活ではないか?

 民衆による選挙の拘束から解放された名望家たちが、民衆によって選出された多数派の政府を監視するのである!

 ハイエクは累進課税制度や相続税にも反対するのであるが、その理由はそうしたものによって由緒ある名家・上流家庭が消滅するというものであった。

 ハイエクの自由社会には民衆のレベルとは別個の次元にある名家が不可欠であるようにみえる。この「名望家」たちが自生的秩序の保護者となる。

 実に奇怪な光景ではなかろうか。

●ハイエクが本当に恐れたのはなにか?

 彼が本当に恐れていたのは社会主義ではない。民衆による支配である。

 自由は民衆の暴政から防衛されなければならない。自然(自生的秩序)にまかせていてはたよりない。そこで賢者による支配が構想される。

 なんと奇妙な自生的秩序であることか!
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