未唯へ。あなたは孤独を感じる時はありますか? こういうことを私はあなた達に聞いたことはありません。それは私自身が聞かれたくない質問だからかもしれません。
「未唯への手紙」の「自分」編のサファイア循環の最初が「孤独」から始まり、「自分」編そのものが、「未唯への手紙」の最初の章です。全ての始まりが「孤独」です。
瀬戸内寂聴の『孤独を生ききる』914.6セトを読みました。「生ききる」というところに、深さを感じました。さまざまな孤独に対して、庵で話をしている設定です。「愛の中の孤独」「マイホームの中の孤独」「失った愛の中の孤独」「男の背中の孤独」「未亡人の孤独」「愛人の孤独」「別れなくても孤独」「空閏の孤独」「男の方が孤独」「老いの孤独」について、一夜ごとに説法されています。このような相対的な感覚は私の孤独感ではありません。
あえて言えば、「生ぜしもひとりなり、死するも独なり」の件です。
私の好きな法語とは、「生ぜしもひとりなり、死するも独なり。されば人と共に住するも独なり、そいはつべき人なき故なり」というのです。この前に、「万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり」という言葉があります。これは一遍上人が、臨終の心がまえを説いた法語です。
ひとりで生れてひとりで死んでいく、そういうひとりで生れひとりで死すべきものとして、人間は造られ、この世に送りだされているのです。もともと人間は孤独なのです。それが人間の宿命なのです。だから生きていく時、それをしっかり覚悟しておかねばならないけれど、人は孤独の淋しさに耐えられないから、それを直視して、まともに見つめようとしないのです。
私の孤独感は、池田昌子さんの「我々、それぞれが寄る辺なき魂として、この無辺際の宇宙の中で、どこから来てどこへ行くのかを全然知らない。それが、どういうわけだか、人はある人の腹の中に宿り、親子となる。数十年かの親子の縁を結ぶことになるのですが、その前後、無辺際の宇宙の中で、瓦いに互いが誰であるのか、完全に闇のうちに沈んでいます。いずれ我々、宇宙の旅人なんですから。」の方が当てはまります。
一人ぽっちという、孤独ではなくて、宇宙の中での孤独です。死ねばすべてなくなるし、生まれてきた理由もわからない、絶対的な孤独。だから、絶対的愛の存在にすがろうとした。
「未唯への手紙」の「自分」編のサファイア循環の最初が「孤独」から始まり、「自分」編そのものが、「未唯への手紙」の最初の章です。全ての始まりが「孤独」です。
瀬戸内寂聴の『孤独を生ききる』914.6セトを読みました。「生ききる」というところに、深さを感じました。さまざまな孤独に対して、庵で話をしている設定です。「愛の中の孤独」「マイホームの中の孤独」「失った愛の中の孤独」「男の背中の孤独」「未亡人の孤独」「愛人の孤独」「別れなくても孤独」「空閏の孤独」「男の方が孤独」「老いの孤独」について、一夜ごとに説法されています。このような相対的な感覚は私の孤独感ではありません。
あえて言えば、「生ぜしもひとりなり、死するも独なり」の件です。
私の好きな法語とは、「生ぜしもひとりなり、死するも独なり。されば人と共に住するも独なり、そいはつべき人なき故なり」というのです。この前に、「万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり」という言葉があります。これは一遍上人が、臨終の心がまえを説いた法語です。
ひとりで生れてひとりで死んでいく、そういうひとりで生れひとりで死すべきものとして、人間は造られ、この世に送りだされているのです。もともと人間は孤独なのです。それが人間の宿命なのです。だから生きていく時、それをしっかり覚悟しておかねばならないけれど、人は孤独の淋しさに耐えられないから、それを直視して、まともに見つめようとしないのです。
私の孤独感は、池田昌子さんの「我々、それぞれが寄る辺なき魂として、この無辺際の宇宙の中で、どこから来てどこへ行くのかを全然知らない。それが、どういうわけだか、人はある人の腹の中に宿り、親子となる。数十年かの親子の縁を結ぶことになるのですが、その前後、無辺際の宇宙の中で、瓦いに互いが誰であるのか、完全に闇のうちに沈んでいます。いずれ我々、宇宙の旅人なんですから。」の方が当てはまります。
一人ぽっちという、孤独ではなくて、宇宙の中での孤独です。死ねばすべてなくなるし、生まれてきた理由もわからない、絶対的な孤独。だから、絶対的愛の存在にすがろうとした。