NHK「ブッダ 真理のことば」より
苦悩のメカニズム
強烈な精神集中の結果、ブッダが悟ったこの世の真理を「四諦」と言います。人間の苦悩が生まれ出るプロセスを分析し、それにどのように対処すべきかを説いた「仏教の基本方針」です。先ほど少し述べたベナレスでの「初転法輪」の際、弟子たちに向かって説いたのが四諦でした。
ブッダによれば、この世の真理には「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」という四つの局面があります。「苦諦」とは、この世はひたすら苦しみであるという「一切皆苦」の真理。「集諦」は、その苦しみを生み出す原因が心の中の煩悩だと知ること、「滅諦」とは、その煩悩を消滅させることで苦が消えるという真理、そして「道諦」は、煩悩を消滅させるための具体的な八つの道を実践することです。
このように、苦しみの原因を、外的な物理現象ではなく、自分の心の在り方へもっていくところに仏教の特徴があります。たとえば病人がいて、病気の苦しみの原因を病気そのものだと考えるなら、その解決方法は、病気を治すことや病気にならないようにすることだということになります。それが可能なら、問題はすべて解決です。
しかし、私たちが生きものである以上、病気をなくすことはできません。医療によって生存期間を延ばすことはできても、病気そのものを完全になくすことなど不可能です。これに対して、苦しみの原因が病気そのものではなく、永遠に健康なままでありたいといった心の願望にあるのだと考えるなら、解決方法はその気持ちを変えるほうに向かいます。人間は誰もが老い衰え、病気になる。その事実を正しく受け入れることができるように自分の心を変えていく。それが苦しみを消す唯一の道だ、ということになるのです。
先ほど「道諦」は「煩悩を消滅させるための具体的な八つの道」という説明をしましたが、これを仏教では「八正道」と言います。中身は、「正見(正しいものの見方)」「正思惟(正しい考え方)」「正語(正しい言葉)」「正業(正しい行い)」「正命(正しい生活)」「正精進(正しい努力)」(正念二正しい自覚)」「正定(正しい瞑想)」です。言葉にすれば、なんのことはない、正しい生活を送れと言っているだけのようですが、その「正しい」という形容詞が重要です。それは、自分中心の誤った見解を捨て、この世の有り様を客観的に合理的に見るという意味を含んでいます。そのような姿勢で日々の行動を律していけば、煩悩を消すことができると言っているのです。
『ダンマパダ』では、四諦八正道について、次のように言っています。
仏と法と僧に帰依する者は、四つの聖なる真理、すなわち「苦」と「苦の発生原因」と「苦の超越」と「苦の終息へとつながる八つの聖なる道」とを正しい智慧によって見る。(190、191)
冒頭の「仏と法と僧に」というのは、「仏」=ブッダ、「法」=ブッダの教え、「僧」=サンガ(僧団)という仏教の三つの重要な要素のことで、あわせて「三宝」と言います。聖徳太子が「十七条憲法」の中で「篤く三宝を敬え」と言った、あの三宝です。
よりどころは自分
ブッダが創始した仏教、すなわち「釈迦の仏教」の最大の特徴は、外の力に頼らず、あくまでも自分の力で道を切り開くという点です。
これは、それまでの宗教の通念を覆す考え方でした。仏教が現れる以前、インド社会はバラモン教の教えに支配されていたのですが、それは、この世は超越的な存在(ブラフマン=梵)の上に成り立っており、自己(アートマン=我)が幸福になりたかったら、その超越存在との一体化を目指せ、という考え方だったからです。これを「梵我一如」と言います。
しかし、ブッダはその考え方を採らず、「頼るものは自分だけ」という信念をもって、みずからの苦悩を解決しようとしました。少し強い言い方をすると、ブッダはバラモン教を全否定して登場してきたのです。ある意味では、きわめて過激な新思想の旗手だったとも言えます。
『ダンマパダ』では、次のように言っています。
自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済者を手に入れるのだ。
どこにもよりどころを求めず、一個人の力で人生の苦しみを解決するというのは、そう簡単にできることではありません。しかも、苦悩が生まれるメカニズムが「わかった」というだけではダメなのです。メカニズムを理解したうえで「実践」して、「自分を変える」ところまでやらなければなりません。そのためには、毎日毎日瞑想して、悟りに至るまでに一生かかるというのが修行です。否、一生かかっても無理かもしれません。
ですから、「釈迦の仏教」の目標は、「永久に到達できない目標に向かって、一歩でも近づけるよう努力し続けること」とも言えます。そのくらい困難な目標ゆえに、雑務の片手間に修行する程度ではとうてい足りず、本気で悟りを志すならば、やはり出家するしかないということになるのです。
キリスト教では、信者になることはあっても、「出家」というようなことはあまり言いません。神を信じる心が日々の暮らしの中で表現できていれば十分だからです。この点も、二つの宗教の異なるところです。
では、二千五百年も昔の世界で、人生の苦しみを離れるために、倦むことなき自己鍛錬を説いたブッダの言葉を二つほど挙げて、この回を終わりにしましょう。
この身体を、瓶のように「もろいものと」知り、この心を、都市のように[堅固なものとして]打ち立て、智慧という武器で悪魔と戦え。そして勝ち取ったものは、それに執著することなく護っていけ。
戒や誓いだけでは手に入らず、あるいは博学であることや、瞑想の体得や、人気のない場所での寝起きによっても手に入らない、凡夫では味わうことのできない出離の安楽を、私は得た。修行者(比丘)たちよ。煩悩が消滅するまでは、気を許すな。
苦悩のメカニズム
強烈な精神集中の結果、ブッダが悟ったこの世の真理を「四諦」と言います。人間の苦悩が生まれ出るプロセスを分析し、それにどのように対処すべきかを説いた「仏教の基本方針」です。先ほど少し述べたベナレスでの「初転法輪」の際、弟子たちに向かって説いたのが四諦でした。
ブッダによれば、この世の真理には「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」という四つの局面があります。「苦諦」とは、この世はひたすら苦しみであるという「一切皆苦」の真理。「集諦」は、その苦しみを生み出す原因が心の中の煩悩だと知ること、「滅諦」とは、その煩悩を消滅させることで苦が消えるという真理、そして「道諦」は、煩悩を消滅させるための具体的な八つの道を実践することです。
このように、苦しみの原因を、外的な物理現象ではなく、自分の心の在り方へもっていくところに仏教の特徴があります。たとえば病人がいて、病気の苦しみの原因を病気そのものだと考えるなら、その解決方法は、病気を治すことや病気にならないようにすることだということになります。それが可能なら、問題はすべて解決です。
しかし、私たちが生きものである以上、病気をなくすことはできません。医療によって生存期間を延ばすことはできても、病気そのものを完全になくすことなど不可能です。これに対して、苦しみの原因が病気そのものではなく、永遠に健康なままでありたいといった心の願望にあるのだと考えるなら、解決方法はその気持ちを変えるほうに向かいます。人間は誰もが老い衰え、病気になる。その事実を正しく受け入れることができるように自分の心を変えていく。それが苦しみを消す唯一の道だ、ということになるのです。
先ほど「道諦」は「煩悩を消滅させるための具体的な八つの道」という説明をしましたが、これを仏教では「八正道」と言います。中身は、「正見(正しいものの見方)」「正思惟(正しい考え方)」「正語(正しい言葉)」「正業(正しい行い)」「正命(正しい生活)」「正精進(正しい努力)」(正念二正しい自覚)」「正定(正しい瞑想)」です。言葉にすれば、なんのことはない、正しい生活を送れと言っているだけのようですが、その「正しい」という形容詞が重要です。それは、自分中心の誤った見解を捨て、この世の有り様を客観的に合理的に見るという意味を含んでいます。そのような姿勢で日々の行動を律していけば、煩悩を消すことができると言っているのです。
『ダンマパダ』では、四諦八正道について、次のように言っています。
仏と法と僧に帰依する者は、四つの聖なる真理、すなわち「苦」と「苦の発生原因」と「苦の超越」と「苦の終息へとつながる八つの聖なる道」とを正しい智慧によって見る。(190、191)
冒頭の「仏と法と僧に」というのは、「仏」=ブッダ、「法」=ブッダの教え、「僧」=サンガ(僧団)という仏教の三つの重要な要素のことで、あわせて「三宝」と言います。聖徳太子が「十七条憲法」の中で「篤く三宝を敬え」と言った、あの三宝です。
よりどころは自分
ブッダが創始した仏教、すなわち「釈迦の仏教」の最大の特徴は、外の力に頼らず、あくまでも自分の力で道を切り開くという点です。
これは、それまでの宗教の通念を覆す考え方でした。仏教が現れる以前、インド社会はバラモン教の教えに支配されていたのですが、それは、この世は超越的な存在(ブラフマン=梵)の上に成り立っており、自己(アートマン=我)が幸福になりたかったら、その超越存在との一体化を目指せ、という考え方だったからです。これを「梵我一如」と言います。
しかし、ブッダはその考え方を採らず、「頼るものは自分だけ」という信念をもって、みずからの苦悩を解決しようとしました。少し強い言い方をすると、ブッダはバラモン教を全否定して登場してきたのです。ある意味では、きわめて過激な新思想の旗手だったとも言えます。
『ダンマパダ』では、次のように言っています。
自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済者を手に入れるのだ。
どこにもよりどころを求めず、一個人の力で人生の苦しみを解決するというのは、そう簡単にできることではありません。しかも、苦悩が生まれるメカニズムが「わかった」というだけではダメなのです。メカニズムを理解したうえで「実践」して、「自分を変える」ところまでやらなければなりません。そのためには、毎日毎日瞑想して、悟りに至るまでに一生かかるというのが修行です。否、一生かかっても無理かもしれません。
ですから、「釈迦の仏教」の目標は、「永久に到達できない目標に向かって、一歩でも近づけるよう努力し続けること」とも言えます。そのくらい困難な目標ゆえに、雑務の片手間に修行する程度ではとうてい足りず、本気で悟りを志すならば、やはり出家するしかないということになるのです。
キリスト教では、信者になることはあっても、「出家」というようなことはあまり言いません。神を信じる心が日々の暮らしの中で表現できていれば十分だからです。この点も、二つの宗教の異なるところです。
では、二千五百年も昔の世界で、人生の苦しみを離れるために、倦むことなき自己鍛錬を説いたブッダの言葉を二つほど挙げて、この回を終わりにしましょう。
この身体を、瓶のように「もろいものと」知り、この心を、都市のように[堅固なものとして]打ち立て、智慧という武器で悪魔と戦え。そして勝ち取ったものは、それに執著することなく護っていけ。
戒や誓いだけでは手に入らず、あるいは博学であることや、瞑想の体得や、人気のない場所での寝起きによっても手に入らない、凡夫では味わうことのできない出離の安楽を、私は得た。修行者(比丘)たちよ。煩悩が消滅するまでは、気を許すな。