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OCR化した10冊

『「西洋」の終わり』

 不平等と公平性

 野蛮な来訪者

 西洋の運命

『21世紀 ICT企業の経営戦略』

 鴻海とシャープの経営の相違および買収後の展望

  シャープのものづくりと、その経営不振の要因
   オンリーワンの系譜と技術開発へのこだわり
   シャープの経営不振の要因

  鴻海の概要と特徴、危うさ
   EMSとは
   鴻海とは
   郭氏のビジネスセンス
   短いリードタイム
   リスクテイク
   高度な生産技術
   人材獲得・待遇
   鴻海の危うさ

  鴻海によるシャープ買収の、台湾における背景
   台湾企業によるクロスボーダーM&Aの増加
   台湾政府による日台閣の産業連携推進
   台湾企業の技術導入のスタンス

  鴻海の、シャープ買収の意図
   有機EL
   白物家電
   上流工程進出

  シャープの今後は
   堺ディスプレイプロダクトからの復活からの示唆
   鴻海の傘下に入ることのメリットと懸念

  日台連携の今後、日本企業のものづくりの今後への示唆
   日台連携の今後への示唆
   日本企業のものづくりの今後への示唆

『洋裁文化と日本のファッション』

 シンガーミシン

『地域の足を支えるコミュニティバスデマンド交通』

 安易にデマンド型交通を導入させない対策

  デマンド型公共交通の問題点
   コスト面
   「予約・登録証」がバリアになる

  MM(モビリティー・マネジメント)の導入
   MMとは
   取組み事例
   バスマップの作製

  二部料金制の採用
   二部料金制とは
   二部料金制導入に向けた課題
   筆者が考える二部料金制

  持続可能な地域をめざして
   安易な幼稚園・小学校の統廃合を控える
   病院・医院の維持

  筆者が考える過疎地の公共交通の姿
   幼稚園・旅館・自動車学校のバスの活用
   郵便局の集配車の活用

『援助関係論入門』

 他なる人

  「他なる人」とは
  「他なる人」と向き合うこと
  援助者の逸脱
   怠惰と善意
   透明化の問題
  人間の尊厳
   理解しているという思い込み
  援助関係の特徴
   「困っている人」としてのクライエント
   援助場面での一方的な透明化

『ダークサイド・スキル』

 ダークサイド・スキル実践編

  絶好調だった無印良品はなぜ苦境に陥ったのか
  急激な拡大政策が裏目に出る
  印鑑の多さは他責合戦の成れの果て
  先に行動を変えないと意識は変わらない
  いちばん使いにくい奴がいざというとき役に立つ
  つまるところ大事なのは結果を残す人間
  トップが現場の声を集めるときの副作用
  勘と経験を排除する「MUJIGRAM」
  現場を変えるヒントは他社にある
  五合目社員と粘土層が情報の行き来を遮断する
  デッドラインだけ決めて、やり方はすべてまかせる
  自分と同じタイプを後継者に選ぶな
  非主流派が活躍する時代
  会社は社長の人格以上にはならない

『男子劣化社会』

 家父長制神話

 パワーとは何か?

 「男らしくしなさい」--感情を抑えることの代償

 夕ブー

 みんなのための正義?

 いわゆる賃金格差をなくす困難さ

 シンメトリーな男女関係はセクシーでない

『マルセイユの都市空間』

 移民社会の変容

  第一次世界大戦期以降の人口移動
  移民構成の多様化
  第二次世界大戦からアルジェリア独立戦争まで
  帰還民問題の諸側面
  顕在的「他者」としてのアルジェリア人移民
  アルジェリア版「マルセイユの晩鐘」事件

 明日への希望

  市中心部の「アラブ化」
  ベルザンス街区の再開発
  魅力ある地中海の港町ヘ

『世界の廃墟・遺跡60』

 デトロイト

 錆びゆく自動車の街

 デトロイトにギアを入れると…

 そして逆走

 朽ち落ちたデトロイト中心

 ミシガンセントラル駅

 ミシガン・ビルディング

 デトロイトの未来

『秩序の砂塵化を超えて』

 「現象」としての「イスラーム国(IS)」 国家・脱国家・超国家

  「反国家」の「組織」としてのIS
   国内権力闘争から生まれた「イラク・イスラーム国」
   「反国家」の「組織」としての実態

  「脱国家」の「国家」としてのIS
   ISは「国家」なのか
   「未完の物語」としての「シリア分割」
   「脱国家」のオルタナティヴ

  「超国家」の「思想」としてのIS
   共鳴する世界中のジハード主義者
   反知性主義的「思想」ゆえの訴求力
   「ぐれ」の一形式としての普遍性

  「組織」、「国家」、「思想」の連環

 現代イスラーム経済の挑戦 ポスト資本主義時代の新たなパラダイムのために

  飛躍する現代イスラーム経済

   広がる実践の裾野
   なぜイスラーム経済は発展したのか

  イスラーム経済のアイデンティティ・クライシス

   急成長するイスラーム金融
   何がイスラーム金融の「イスラーム性」を担保するのか

  現代に再興するイスラーム社会経済システム

   伝統的経済制度の再生という新たな挑戦
   現代に再生するワクフ
   社会と再びつながるイスラーム経済

  利己主義と利他精神が共存する新たなパラダイムの可能性
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利己主義と利他精神が共存する新たなパラダイムの可能性

『秩序の砂塵化を超えて』より 現代イスラーム経済の挑戦 ポスト資本主義時代の新たなパラダイムのために

イスラームの理念に適った経済システムを現代世界に再び作り出そうとする現代イスラーム経済の挑戦は、1975年9月にたった一つの銀行から始まった1)。それから、およそ40年が過ぎ、その実践はイスラーム世界の各地に浸透し、しっかりと根を下ろしている。また、当初は金融に限られていた業種も、2017年現在では食品、日用品、アパレル、ツーリズムと裾野が広がり、ムスリム(ィスラーム教徒)たちが日々の暮らしで接する機会も格段に多くなった。

このような現代イスラーム経済の実践は、そもそも、欧米列強の進出によってもたらされた近代資本主義の弊害を克服するために、イスラーム独自の経済パラダイムを提起することをめざして始まったものである。「イスラーム経済の父」とも称される近代南アジア最大のムスリム思想家サイイド・アブル・アアラー・マウドゥーディーは、英領インド時代に行った講演(1941年10月)で、近代資本主義がもたらした富や資源の偏りや社会的不公正を排除し、適度な成長を可能にするための新しい経済のあり方をイスラームから提案したいと述べている。

では、イスラーム経済の今日の隆盛は、そうした当初の目的の実現を意味しているのだろうか。その答えの半分はイエス、半分はノーである。「イエス」と言えるのは、現代イスラーム経済の実践が、たしかに近代資本主義にはない独自の経済活動に取り組み、一定の成功を収めたからである。とくに、貸付の利子をとってはならないというイスラームの教義に適った経済活動を見事に具現化したイスラーム金融は、その最たる例である。

金融取引に利子があって当然と考える私たちからすれば、無利子と金融の結びっきは明らかに矛盾である。 BBCや『ウォールストリート・ジャーナル』も、実践開始間もないころ、イスラーム金融の試みを「voodoo economy(呪術的経済)」と福楡したことがある。しかしこのような冷ややかな視線を尻目に、イスラーム金融は利子によらない金融手法を見事に開発し、多くの顧客を獲得することに成功した。拓楡していた側にいた欧米諸国は、いまや官民挙げてイスラーム金融の振興に乗り出すまでになっている2)。また、2007年に発生した世界金融危機の際には、これからの望ましい金融システムのあり方として、イスラーム金融に全世界の注目が集まった。このエピソードは、近代資本主義とは異なる独自の経済パラダイムとして、イスラーム経済がすでに多くの人々に認知されていることを物語っている。

他方、イスラーム経済の発展を手放しで喜んでいない人々も多くいる。それが、前述の問いかけに対して「ノー」と言わざるを得ない部分である。彼らは、イスラーム経済の現状が、必ずしも当初めざしていた独自のパラダイムの実現に結びついていないと考える。より踏み込んだ言い方をすれば、イスラーム経済の現状は、近代資本主義の単なる模倣であり、従来の制度やしくみにイスラームという宗教的なラベルを貼り付けたに過ぎないと批判する。このような現状認識に立って、現代イスラーム経済の原点に立ち返り、ポスト資本主義時代を担う新たな経済パラダイムの提起をも予感させるような実践に取り組もうとする人々も出てきている。

本章では、そうした新たな経済パラダイムの生成を予感させるような現代イスラーム経済実践の最新事例として、「ワクフ」と呼ばれるイスラーム独自の財産寄進制度の再生プロジェクトに着目する。そして、そのプロジェクトに参画している行為主体がどのような新しい社会経済システムを生み出そうとしているのか、そのダイナミズムの描写を試みる。

本書全体の構成との関係で言えば、本章が取り組むテーマは、行為主体の次元に着目したものであり、とくに、行為主体のミクロレペルでの経済行動が、マクロレペルでどのような新しい制度やシステムに帰着するかを考えることが課題であると言えよう。こうした課題を意識しながら、本章で取り上げる新しい社会経済システムの特徴と意義を考えることで、近代資本主義の限界を身近に感じ、新たな経済パラダイムを渇望し始めている私たちがそこから何を学べるのかについても、想いを巡らせてみたいと思う。

なお、本章が取り上げるワクフの再生プロジェクトのフロンティアは、束南アジアのシンガポールである。イスラームあるいはイスラーム世界というと、中東が中心であるという認識がいまだに根強い。しかし、現代イスラーム経済の画期的なアイデアや実践が常に「周縁」地域から登場していることは、多くの事実が物語っている。前述の南アジア(環ィンド洋域)の思想家・マウドゥーディーの発言はその典型である。近年では、そのイノペーションの軸足が、さらに東(=東南アジア、インド洋と太平洋の漫遁域)に移りつつある。したがって、本章で論じるシンガポールにおける現代イスラーム経済の最新実践は、本書がめざす「環太平洋パラダイム」構築の一翼を担うものでもあると言えよう。

近代資本主義の力は強い。400年以上世界に君臨してきた歴史が如実にそれを物語っている。現代イスラーム経済実践の草創期から、その思想的バックボーンとして来し方行く末を眺めてきたイスラーム経済学者のウマル・チャプラは、2007年に世界金融危機が起こり、世界中でイスラーム金融に注目と期待が集まったときに、「長い間存続してきた近代資本主義型金融システムが、イスラーム金融の提起する急進的な構造改革を受け入れると考えるのは、あまりに期待のしすぎであろう」と発言している。イスラーム経済に精通しているからこそ、その可能性と限界を冷静に分析した言説である。

その上でチャプラは、「しかし、イスラーム金融が提起するいくつかの原理は、グローバル金融システムの健全性と安定性を実現するために不可欠なものとなるはずだ」と続ける。チャプラによれば、この発言は、現代イスラーム経済の叡智(ィスラーム経済知)は、イスラーム世界だけのものではなく、ポスト資本主義時代の新たな経済パラダイムを渇望するすべての人々にとって有用であることを主張するためのものだという。

ここでチャプラが意図しているのは、イスラーム経済知の普遍化の試みである。信仰がベースにあるイスラーム経済の実践にそのベースを共有していない非ムスリムが敢えて取り組む動機はそれほど大きくない。利子禁止の教義にもとづくイスラーム金融に多くの非ムスリムが参画しているのは、そこから得られる経済的利益があるからである。イスラーム金融のさらなる市場拡大のために、そうした非ムスリムを狙った競争力優先の商品を開発することによるアイデンティティの危機については、すでに述べた通りである。

イスラーム経済知の普遍化とは、そのようなイスラーム経済の近代資本主義への一方的な擦り寄りではなく、イスラーム経済の実践が提起する独自の経済ビジョンやしくみを、宗教的言辞を使わずに概念化・モデル化することを指す。それによって、信仰を共有しない非ムスリムでも有用性や実行可能性が理解・活用できる、いわば「誰でも使える」普遍的な経済知に昇華させることを意図している。

チャプラは、イスラーム金融が構想された初期のアイデアに、健全で安定した金融秩序形成の鍵があると考え、それらを1)損益を応分負担する金融取引の優越、2)レバレッジ(自己資本以上に投資すること)の抑制、3)実物経済の活性化に寄与する金貸しの重視、4)債権譲渡の制限といった一般のバンカーでも理解可能な概念に置:き換えて、それらにもとづく望ましい金融システムを提起している。

それでは、本章が取り上げてきたイスラーム金融を活用したワクフ再生の取り組みが提起するイスラーム経済知とは何か。それは、「各行為主体の徹底した利己主義によって生成される富の社会還元システム」ではないだろうか。まず、ワクフの設定は、教義に忠実に生き、あの世で自らが救われたいと思うムスリムによって行われる。ここには構造的に利他心が入り込む余地はない。なぜなら、彼らは、稼いだ富を困っている他者のために使えば自分が天国に行ける教義に従っているに過ぎないからである。

そして、ワクフ再生資金は、ムスリム・非ムスリムを問わず、純粋に金儲けを動機として集められる。資金を出す人々の多くは、どれだけこのプロジェクトから利益が得られるかを判断基準として、出資の可否を決定する。再生後のワクフ物件が多くの収益をあげればあげるほど慈善・福祉活動が充実するが、その背後には、出資者たちによる厳格な費用便益計算が隠れている。こうして、行為主体がおのおの利己主義を徹底することによって「利他的なもの」が充実するという特異なシステムがワクフというしくみを中心に生成しているのである。

このような利己主義と利他的なものが絶妙に共存する21世紀型のイスラーム社会経済システムからは、利己主義の蔓延や暴走によって様々な弊害を生みだしている現在のグローバル資本主義とも、利己主義の抑制による利他的なものの再興を訴える傾向にあるこれまでのポスト資本主義論とも一線を画す、前世紀の理論化が構想しえなかった新たなパラダイムの可能性を感じずにはいられない。

ただし、脱領域性を特徴とするこのシステムは、国家による制度設計や国民経済の存在をその存立条件としている今の世界経済システムといった前世紀の「常識」と正面から対立することは免れ得ない。それは、レベルは異なるが、第3章で指摘された「国家」と「市場」の一筋縄にはいかない関係と似ている。今後こうした前世紀の「常識(=国家や国民経済)」との付き合い方を模索するなかで、このシステムの新たなパラダイムとしての実際のフィージビリティ(実行可能性)もおのずと判明するであろう。

さらにワクフの設定の動機付けの脱宗教化や、他の類似する従来の慈善・福祉制度と比べたときの優位性の解明など、21世紀型イスラーム社会経済システムを自家薬寵中のものにするには、ミクロなレペルにおいて解決すべき課題も少なくない。しかし、近代資本主義の限界を身近に感じ、新たな経済パラダイムを渇望しながらもその決定打を打ち出せないでいる私たちこそ。イスラーム経済のフレッシュな実践が提起しているこの経済知の活用を真剣に考えるべきではないだろうか。よりよい未来を描くためのバトンはすでに私たちの手許にあるのだ。
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「組織」、「国家」、「思想」の連環

『秩序の砂塵化を超えて』より 「現象」としての「イスラーム国(IS)」 国家・脱国家・超国家

イラクとシリアにまたがる地域に突如出現した「イスラーム国(IS)」は、いわゆるイスラーム過激派としての姿にどこか既視感を覚えさせつつも、今日の世界にさまざまな課題を突きつけた。 ISは、両国の政治的混乱--イラクでは2003年のイラク戦争以来の内政の混乱、シリアでは2011年の「アラブの春」の一環としての紛争--を深刻化させるだけでなく、越境的な宗教国家の建設を目指すことで、国民国家から構成される今日の中東の地域秩序そのものを揺るがした。また、ISのメンバーやシンパによるテロリズムは世界中に拡散しており、翻って、各国における排外主義や極右政党の台頭の一因となっている。このように、ISは中東の内部に局所的に出現したイスラーム過激派であると同時に、今日の世界を特徴づける一つの「現象」と捉えることができる。

本章は、ISという「現象」の見取り図を示し、その動態を理解するための視座の検討を目的とする。 ISを扱うことは、本書の設定する分析次元で言えば「行為主体」、トピックは「政治」にそれぞれ対応するが、それを「現象」として捉えることで、「環太平洋パラダイム」の構築に向けた一つのヒントを導き出してみたい。

2014年6月の「建国」宣言と強大な軍事力を背景にした急速な勢力拡大を受けて、ISに関する多くの著作が日本や欧米諸国、さらには中東諸国でも刊行された。その多くは、主にISの歴史や思想を扱ったものであり、イスラーム過激派の「組織」としての成立過程や特徴を浮き彫りにしている。また、その営みを通して、イラクとシリアにおける「国家」としての支配の実態や、ジハード主義の「思想」とテロリズムの世界的拡散の背景を明らかにすることに寄与している。

ISを「組織」としてのみ捉える見方は、彼らを悪魔化しようとする世界規模の世論と共鳴するかたちで、世界から断絶されたイラクとシリアの内部に巣くうイスラーム過激派の人間集団としての側面が過剰に強調されることによって、結果的にISという「現象」に対する視野を狭めてしまう副作用をともなう。

国内外の主要なマスメディアは、イスラーム教徒一般への配慮から「過激派組織TS」、ないしは「自称『イスラーム国』」といったかたちで--ポリティカル・コレクトネスの観点から--、ごく一部の特異な人間集団としての側面を強調している。しかし、ISの「組織」としての意思や能力をもって「現象」全般を説明する方法は、すべての「現象」が彼らによって主体的に引き起こされているかのような錯覚を招くおそれ、言い換えれば、彼らの存在を実態よりも過大に評価してしまう危険がともなう。

それを象徴するのが、2014年8月に開始された米国主導の「有志連合」によるイラクとシリアで活動する「組織」としてのISへの空爆作戦であろう。こうした「テロとの戦い」が世界中でのテロリズムを抑止できたかといえば、むしろ逆の効果をもたらし、欧州や中東での「ISによるテロ」の拡散を助長してきた。

本章では、ISを「現象」として捉えるために、「組織」、「国家」、「思想」の三つの視座からの分析を行い、その融合の可能性を検討する。具体的には、ISの三つの特徴、すなわち、①現行の政府に対峙する「反国家」の「組織」、②国民国家の構造的・認識的枠組みを超越する「脱国家」の「国家」、③世界規模で共鳴者を生み出す「超国家」の「思想」の分析を行う。この三つの視座は、分析のレベルで言えば、ナショナル(national)、トランスナショナル(trans-national)、スープラナショナル(supra-national)にそれぞれ対応する。

ISを今日の世界を特徴づける一つの「現象」として、「組織」、「国家」、「思想」の三つの視座から捉えてきた。そこで明らかになったのは、ISの三つの側面が個別に存在するのではなく、それぞれ「反国家」、「脱国家」、「超国家」の側面から一つの連環を築いている実態であった。

「反国家」の「組織」としての快進撃は、「脱国家」としての「国家」--すべてのムスリムが「国民」となり得る「イスラーム国家」--を標榜している事実に支えられていた。そして、その「国家」が他ならぬイラクとシリアの地で生まれた背景には、両国が紛争によって「破綻国家」と化したことだけではなく、「未完の物語」としての「シリア分割」という構造的問題があった。

イラク戦争と「アラブの春」によって既存の国民国家が構造的・認識的に大きく動揺するなかでISは、それを単純に再生させるのではなく、新たなオルタナティヴを提示する勢力として台頭した。さらにISは、自らが築いた「国家」の保全と版図の拡大を掲げ、世界中のムスリムにジハードを呼びかけた。この「超国家」の「思想」としてのISは、瞬く間に世界中に拡散し、各国で共鳴者によるテロリズムを誘発した。逆説的なことに、その「思想」の内実が貧弱であるがゆえに、ムスリムのみならず非ムスリムの共鳴者をも生みだす普遍性を帯びる可能性を見せた。

こうしたISの「組織」、「国家」、「思想」の三つの側面の連環を「現象」として、包括的に捉えるには、既存の社会科学と地域研究の協働が不可欠となるだろう。いずれか一つの側面からISを分析することは、おそらく既存のディシプリンでも可能である。しかし、特定の側面のみに目を奪われ、他の側面との相互の関係を過小評価したとき、それは、単なる分析上のアポリアだけでなく、現実の政策にも深刻な問題を生むことになりかねない。

例えば、ISの過激な「思想」が、敵と味方とを峻別する鮮烈な二分法的世界観と、イスラーム世界が異教徒や不信仰者・背教者に攻撃されているという過剰な被害者意識に支えられていることは、イスラーム政治思想の専門家が知悉するところである。しかし、現実のテロ対策の現場では、「組織」としてのISを武力によって壊滅させるという方法、具体的には、シリアとイラクの実効支配地域に対する軍事作戦が採用された。確かに軍事作戦は「組織」の壊滅を導くことなる。だが、それによって「思想」が持つ訴求力は高まり、結果的に他の国や地域で共鳴者を増やすことにつながることも警戒すべきであろう。

また、軍事作戦によって「国家」としてのISを壊滅させることも、それが「未完の物語」としての「シリア分割」における多様な国家構想の一つとしてのイスラーム国家の理念一般を否定するものになれば、結果的にそこに暮らす人びとの主体的・創造的な国家建設の営みをやせ細ったものにしかねない。既に中東の各地ではイスラーム主義者たちをISと同一視し、十把一絡げに「テロリスト」として排除する動きが高まっており、翻って、それがイスラーム過激派になる者を増やすという悪循環を引き起こしている。

こうした分析上および政策上のアポリアのなかで、本章ではISの「組織」、「国家」、「思想」の諸側面を、「国家」をキーワード--「反国家」、「脱国家」、「超国家」--に融合的に捉える視座について検討した。これは結局のところ「システム・体制」の拠り所としての現行の国家の行き詰まりを浮き彫りにするものであり、第1章で論じられた権威主義の強化や第2章の民主主義の揺らぎと問題意識を共有する。

「現象」としてのISを捉えるための融合的な視座については、いまだ問題提起の域を出るものではないが、線形的な従来の社会科学の思考やそれに基づく政策のあり方を問い直し、今日の世界が経験している新たな課題の本質を捉え、新たな知を創出するための契機となりうるであろう。
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書くことを中心とする生活

書くことを中心とする生活

 まず。一つのことから始めよう。書くことを中心にする生活にするためには、テーマですね。未唯空間への反映が主になる。そのためのキッカケとか刺激は自分で作り出すしかない。

 私の世界に向かってのアピールになります。他者の世界は関係ない。私は私の世界の境界線は私が自由に決められる。これは放り出されたモノの特権です。全てを私のモノにすることもできるし、小さく小さくすることもできる。

机のスペース

 机の上を書くスペース、読むスペースを追加しよう。この机はずっと、食卓だったモノだから、拡がる。スキャナーと映らないテレビはそのままにしておく。

自分に対するアピール

 ネームプレートを使って、「私は私の世界」をアピールしよう。何に対して。自分に対して。

 スケジュールをシステム化するのは、ノートで対応して、仕組みにを作り出す。仕組みより御も動機ですね。思考・行動に対するスケジュール。

疲れないペンはない

 クロスを使い始めたが親指が疲れる。昔使っていた、パワータンク1.0を文房具屋で探したが見るからない。名古屋のハンズで探しましょう。

 書くペンで内容が変わってくる。お気に入りのペンは何本ももっていた方がいい。気分で変えていく。

何を託されているのか

 ICレコーダーから書き起こしをしていて、時々、ビックリすることがある。こんなことを考えていたんだ.こんなことを言っているんだ。それはあたかも、ムハンマドが洞窟の中でご託宣を記述している姿を想像させる。だから、クルアーンには絶対に聞き間違え、書き間違いがあると思っている。

『「西洋」の終わり』

 「「西洋」の終わり」はぐだぐだ述べているだけで、焼き直しが多い。題名(不平等と公平性、西洋の運命)は興味を引くけど、ポイントが不明。

『洋裁文化と日本のファッション』

 「洋裁文化」はアメリカの文化。シンガーミシンは宣教師みたいなもの。アメリカ文化の先鋒を担う。ロシアのペテルスブルグの近代化にもシンガービルが出てきた。シンガーがロシアに及ぼした影響は大きい。

 シンガービルの高さは制限されていた。王宮(エルミタージュ)よりも高い建物は認められていない。これはペテルスブルグに言った時に聞かされた。遠望したときに、高い建物が今でもない。シンガービスはそれに従った。ロシアを破れなかった。その点、日本は和装文化がありながら、アメリカ文化を吸収していった。ミシンそのものもシンガーを凌駕していった。

『地域の足を支えるコミュニティバスデマンド交通』

 デマンド交通では。皆、自分の商売のことを考えている。共有意識からシェア社会で考えれば、未来があるのに、自分の利益だけを考えるから中途半端でみすぼらしいものになる。全てを知った上での上から目線がないからでしょう。当たり障りのないところで答えを出そうとしている。あたかも自分が発案したかのように。それでは何も進化しません。

『援助関係論入門』

 「援助関係論」は他者という概念にたどり着きながら、肝心の答えが出ていない。他者が本当にいるのかどうか哲学的な問いが必要。そんなことは哲学をやれば、すぐに出てくるし、生まれながらの実感でしょう。他者がいることを前提ににしているから、答えが出ずに同じところをぐるぐると回っている。

『ダークサイド・スキル』

 「ダークサイド」はありきたりです。組織が味方であり、あまりにも自分を目立たせるためだけに組織がある。組織で商売しているというけど、本来そうなのか。自分のことしか考えないものが組織としてあり得るのか。組織という単位が合っているのか、多分、合っていないでしょう。だから、規模みたいなものでどうにか生きている。
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古代都市を旅行しよう

古代都市を旅行しよう。

 近東:バビロン(テル・バビル、イラク)、エルサレム〈イスラエル〉

 エジプト:アレクサンドリア(図書館)

 ギリシャ:デルフォイ、アテナイ、クノッソス

 トルコ:エフェソス(図書館)

 北アフリカ:カルタゴ

 やはり、ジブラルタル海峡の上から、大西洋の海水が流れ込んでいる、地中海を見てみたい。

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いちばん使いにくい奴がいざというとき役に立つ

『ダークサイド・スキル』より ダークサイド・スキル実践編 絶好調だった無印良品はなぜ苦境に陥ったのか

松井 そうですね。出世したいと思うと、どこかで自分の生き方を曲げないと上がれないんです。つまり、あちこち根回ししながら動いて出世すると、たとえば商品部の専務に呼ばれたときに、専務のところにいちばん良い人材を優先的に回すとか、そういうしがらみができてしまう。全社の資源を公平に配分するということができなくなって、どうしても部分最適に行動してしまう。そうしないと自分か生きていけないからですね。

 出世して、給料が上がって、いい生活をしたいというのは多数派です。多数派にいたほうが安心できるので、あちこち根回しして、上の覚えをめでたくするという行動に出る人がすごく多い。多数派ですから、徒党を組んでいくわけです。徒党を組むというのは、会議もそうですけど、飲みに行くときも全部一緒です。そして、営々と部長の言うことを聞いている。僕はそういう価値観はゼロなんです。とても嫌。だから、誘われても一切飲みに行かない。当然、使いにくい奴だなと思われます。

 僕がいつも人事部で、主流派にいたことがないのは、そういう理由です。でも、あちこちに顔を出してご機嫌伺いをする廊下鳶をやっている人ばかりが出世する会社は、やっぱりどこかおかしいわけです。西郷隆盛が言うように、金も名誉も、そして地位も要らない、こういう奴がいちばん使いにくい。でも、それはその人がそれなりの生き方を持っているからで、それが何より大事なんですね。

木村 ダークサイド・スキルのその5で「煩悩に溺れず、欲に溺れろ」といったのは、まさにそのことです。白分か何をなし得たいのかという価値観が、本当の欲だと私は思っています。

松井 だから、最後は生きざまの問題になるんです。やっぱり損得なしで、上に媚びたりするのとは無縁に生きる人じゃないと、本当にしっかり一本道を歩むということはできないんですね。僕は教師になるつもりで大学に入った。ところが、大学の全学連運動でデモに出て逮捕され、留置所に三週間入って、二十歳の誕生日もそこで迎えた。昔から権威に唯々諾々と従うのがとても嫌で、それで親不孝もしたわけですが、結局、教師の道も諦めざるを得なくなる。けっこう致命的な失敗をするわけですね。

 しかたがないので民間企業に入ったんですけど、そこでも、誰かに言われたからやるのではなくて、これはやらなきゃいけないということはやらないと気が済まない。上から見たら使いにくいし、どうにも邪魔だからということで、良品計画に出向させられます。一部上場企業の課長が良品計画という子会社に行くのに、同じ課長だった。普通は最低でも部長です。明らかに左遷でしたが、それはそれでしょうがない。だけど、それで腐っていく人というのをさんざん見てきました。

 先ほど他責という言葉がありましたけど、自分の異動は自分では決められない。でも、だからといって、会社が自分を正しく評価してくれなかったから、自分は左遷させられたんだと不満を持つ人は、その後にも浮上することはなかった。したがって、誰かのせいにしているだけではダメだというのは、理屈上わかる。それともう一つは、心情的に、与えられた仕事の中でベストを尽くさないというのは、僕自身がとても嫌。だから、どんなに待遇が悪くても、転籍業務という良品計画での自分の仕事をかなりリスクをとってやっていました。

 良品計画は創業してすぐの会社で、実質的に赤字でスタートしているわけですから、現実問題として、役に立たないと具合が悪い。働いて実績を残す人間以外を雇っておく余裕がないわけです。だから、僕は転籍という業務を五十万円の移行原資でやっていくんですけど、翌年には部長にしてくれて、その翌年には役員にしてくれた。

木村 わずか三年で、課長、部長、役員と駆け上がったわけですね。

松井 違うタイプももちろんいます。たとえば、総務担当で来てもらった人がいて、「お店にたくさんネズミが出るから、ネズミを退治してくれ」と言うと、「いや、申し訳ない。これをやるには保全と管財と総務がみんな要る」と言うんです。総務は駆除業者を手配しなければいけないし、オーナーと交渉もしなければいけない。施設に穴が空いたりすれば、保全がそれを塞がなければいけない。施設の維持管理が業務の管財も必要だと。西友の総務は六部署くらいありましたから、そのうちの半分は要ると言うんですけど、分社して間もない良品計画にはそんな人手はないわけです。

 宣伝担当の人もそうでした。JRの原宿駅の線路側に宣伝ボードが立っていて、これがものすごく目立つ。年間契約で借りて、そこに月替わりで広告を出していく。担当者に「看板はいつできるんだ」と聞くと、「来週できます」と言うんですが、一週間たっても二週間たっても、いっこうに掲示されない。本人は「間に入っている広告会社に指示を出した」と言うのだが、宣伝ボードは空のまま。これでは仕事をしたことになりません。

 出身母体はセゾンですから、当然大きな広告代理店を使います。したがって、こんな仕事はみんな下請けに流れるわけです。担当者が下請けにちゃんと流していればそれでいい。でも、流していないから、看板はいつまでたっても掲示されない。でも、担当者は「私はちゃんと自分の仕事をしました」と言うわけです。西友だったら成立するかもしれない。でも、金のない中で宣伝費を出している良品計画のような会社にとっては、来週出るということなら、来週出ることがマストなわけです。その間に業者が何社はさまっていようとも、確実に一週間後に掲示するのが仕事です。

木村 小さな会社の仕事のしかたは、一部上場企業とは違うと。

松井 でも、そういう人たちが最初に出向・転籍してくるわけです。そうすると、経営者から見たら、総務担当も宣伝担当も基本的に役に立たない。僕はそんなことはしない。西友時代は言うことを聞かない奴だと思われていたけど、良品計画に来たら、松井がやると言ったらちやんとやる。目に見える結果が出る。そういう評価になって、結果的にスピード出世することになりました。成熟した企業と、これから伸ばしていかなければいけない企業には、やっぱりそれぞれ違いがある。

木村 何かをやろうとしたときに、部門間の相互不可侵条約みたいなのが働いて、自分の守備範囲ではないことには口出ししないというのが、大企業ではよくあるケースです。しかし、そこをリスクをとって行けるかどうか。
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他者の中途半端な認識

『援助関係論入門』より ⇒ 「他者は存在しない」とすれば、片付く問題では

一般に、対人関係とは、複数の人のあいだに何らかの相互作用が発生している事態をさしていますが、ここでは、二者関係に限定して、一方に「私」をおき、もう一方に「他なる人」(他者)をおいて、「私」と「他なる人」との関係性を素材に考察を進めていきます。

では、「私」にとっての「他なる人」とは、どのような存在なのでしょうか。

これについては、さまざまな議論が積み重ねられてきていますが、その要点の一つは、私にとって、他なる人の経験は直接的には与えられないということにあります。たとえば、痛みを例にあげると、私の痛みは、私に対して直接的に与えられ、私はまさに「痛む」ことになりますが、他なる人の痛みが私に直接与えられることはありません。

もちろん、その人が痛んでいることは、その叫びや表情、姿勢などから間接的に推測することはできます。しかし、私はその人の痛みを痛むことができません。したがって、私にとっての他なる人とは、その経験が間接的にしか与えられないような存在であるということになります。

このことを拡張していくと、他なる人が何を考えているのか、何をしようとしているのか、何をどのように感じているのか……などといったことについても、すべて私は直接的に知ることができません。もちろん間接的にうかがい知ることはできます。しかし、痛みについても、その人は痛いふりをすることができますし、考えていることや感じていることに対しても、嘘をつくことができます。私は、それを見抜けることもあれば、勘違いをすることもあります。

先にふれた、援助対象の主観的な側面については、本人に聞いてみなければ基本的にはわからないという事実にもつながります。

すなわち、他なる人とは、私の理解や把握を、推測や予想を、期待や予期をいつでも超える可能性を有している存在なのだといえます。理解できないわけではありませんし、予想がつかないわけでもありません。たしかに、期待した通りに動いてくれることもあります。しかし、他なる人の「他なる」ゆえんは、私の理解や予想に回収し尽くせないことにあるのです。

可変的な半透明性

 そのため、他なる人とは、私にとって、「半透明な存在」であるということができます。その人について理解できる部分もありますし、時間をかけて理解を深めていくこともできます。そういう意味では、まったく不透明な存在であるとはいえません。しかし同時に、理解し尽くすこともまたできないので、完全に透明な存在であるともいえません。

 また、私との関係において他なる人が有するこうした半透明性は、決して固定したものではありません。私に対してある人が示す透明度は、容易に変化しうるものです。たとえば、初対面のときは、その人のもつ透明度が最も低くなります。すなわち、見えている部分が少ないといえます。もちろん、まったく不透明なわけではなく、実際に、一目見ただけでも、私はその人について、性別や年齢層をはじめ、顔つきや背格好、声の調子や表情、服装や持ち物などから、必ずしも言語化できないものも含めて第一印象といったものを形成しています。

 そして、ことばを重ねていけば、あるいは、かたわらで見ていくうちに、第一印象が修正されたり強化されたりしながら、透明度も少しずつ高くなってはいきます。とはいえ、予想もつかない言動を目の当たりにして、一気に透明度が低くなることも少なくありません。

 このように、私にとっての他なる人とは、可変的な透明度をもった半透明性であるということができます。とはいえ、くり返し確認しておくと、その透明度がどれほど変わるものであったとしても、完全に透明となることはありません。他なる人とは、私の理解や予想を常に超え出る存在なのであって、不確定な側面を必ず残しているものなのです。

半透明な「私」

 ただし、他なる人ではなく、実は「私」もまた、私にとって完全に透明であるなどということはありません。自分でもある行為の動機が理解できないことはよくあることで、だからこそ、たとえば、自らその内実を知ることのできない無意識の存在が仮定されたりもしています。

 したがって、他なる人は、私に対してだけでなく、他なる人自身にとっても半透明な存在にすぎないことになります。しかし、過去にさかのぼったうえで動機や理由を明確にするという点では、たしかに限界を有してはいるものの、今何を感じ、何を考え、どうしたいと思っているのかといったことについては、本人に直接与えられているのであって、他なる人に対しては、やはりことばをはじめとするさまざまな手がかりから間接的に推測するしかありません。
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デマンド型公共交通の問題点

『地域の足を支えるコミュニティバスデマンド交通』より 安易にデマンド型交通を導入させない対策

コスト面

 昨今では、路線バスやコミュニティーバスでは、輸送力が過剰であるから、運行コストを下げるため、デマンド型交通を導入する動きが活発化している。導入した自治体を取材したところ、「路線バスやコミュニティーバス時代の4害り程度で運行が可能になった」という声を聞く。デマンド型交通には、輸送の安定性を担保するため、地元のタクシー事業者に運行を委託し、セダン型のタクシーが用いられる。

 デマンド型交通の利点は、筆者は以下の3点だと考える。

  ① 路線バスでは需要量が少なく、路線の維持・確保できない地域では、事前に予約することでタクシー事業者も空車を走らせることなく、確実な収入が見込める。また行政は、乗合よりも少ない費用で運行できる。

  ② 利用者にとれば、比較的低廉な費用でドアツードアの輸送が可能。

  ③ 新規に開設する場合、路線バスのようなバス停がなくてもよいため、開設しやすい。

 路線バスでは、需要が少なくて対応が難しい過疎地などでは、公共交通の切り札になる場合もある。

 一方、筆者は問題点も多くあると思っている。筆者がデマンド型交通は万能ではないと考えるのは、以下の理由が挙げられる。

  ① 登録や事前予約は面倒である。

  ② 利用者が増加すればコストが嵩む。

  ③ ドアツードア型のサービスに近づくと、行政が補助金を出して運賃を安くしているタクシーと同じになる。

  ④ まとまった予約などがあれば、輸送定員が少なく対応しづらい点がある。

  ⑤ 個別に対応していたのでは、乗合よりも高コストになる。

 登録や事前予約は面倒であるだけでなく、個人情報の管理の問題にもつながってしまう。また登録や事前予約を採用すると、非居住者はそのサービスを利用できなくなる問題が生じる。②に関しては、デマンド型の公共交通はタクシーメーターで表示された金額との差額を行政が負担するため、路線バスやコミュニティーバスのように利用者が増えればよいわけではない。利用者の増加は、新たな行政の負担となってしまう。

 ③に関しては、デマンド型の公共交通が便利過ぎると、タクシーやバスの利用者が、デマンド型の公共交通へ転換する恐れがある。導入するには、路線バスやコミュニティーバスでは経営面で成立しない地域であるなど、地域を選んで導入する必要がある。都市部では、道路が狭陰であるため、路線バスが運行できない地域もある。また1960年代に開発された住宅地では、起伏が激しくて高齢者がバス停までのアクセスに支障を来すような地域もあり、そのような場所ではデマンド型の公共交通を導入する動きもある。

 だがデマンド型の公共交通の利用者が増えた場合には、乗合タクシーに変えることなども計画段階から考慮しなければならない。

 ④⑤に関しては、デマンド型の公共交通は輸送定員が少ないことから、まとまった予約などがあれば、輸送力不足で積み残しを出す危険性がある。このような場合は、臨時便を出して対応しなければならない。④と関係するが、⑤で挙げる大都市近郊区間では、個別に対応していたのでは、車両や運転手も必要となるため、乗合よりも高コストになってしまう。路線バスやコミュニティーバスでは、輸送力過剰で対応できない地域などに限定する必要がある。

 デマンド型の公共交通を検討する際には、導入する地域や利用範囲、利用者を限定するなど既存のタクシーやバスとの役割の分担を十分に考え、問題点を抑えて利点を生かすための工夫が不可欠である。

「予約・登録証」がバリアになる

 デマンド型の公共交通は、従来の定時定路線型の乗合バスや乗合夕クシーとは異なり、需要がなければ運行されない。このことは、サービスを提供する側の視点で見れば「経費削減」として長所になるが、利用者の視点からは、利用する際に「事前予約」が必要となり、「登録証の提示」が義務づけられることが多い。

 「予約する」「登録証を作成する」という行為は、利用者に負担である。まず、定められた時間までに電話などをして予約をしなければならず、面倒である。急に利用したくなったとしても、予約時間を過ぎてしまっていたら、利用できなかったりする。

 三重県玉城町では、町民などに携帯端末を配布して予約しやすくしているが、利用者の9割は電話予約であり、その他は窓口に来て予約するなど、依然としてアナログのツールを利用した予約が多い。

 また「デマンド型の公共交通」とは言っても、導入する自治体により、システムは大きく変わってくる。従来の路線バスや乗合タクシーをデマンドに置き換えた路線があるタイプから、滋賀県米原市の「らくらくタクシーまいちゃん号」や三重県玉城町の「元気バス」のように、路線が定まっていない「面の交通」というタイプまで、千差万別である。

 そうなると居住者であっても、そのデマンド型の公共交通の特徴を理解していないと、利用しづらいと言える。

 別な見方をすれば、居住者であってもわかりづらく利用しづらい制度であれば、非居住者にとれば、わかりづらいだけでなく、利用を排除されてしまうことにもなる。「登録証」という制度は、居住者しか登録できないだけでなく、居住者であっても住所、氏名、生年月日、電話番号などの個人情報を登録しなければ「登録証」が公布されない。それらを他人に知られたくないために登録しない人もいるので、一種のバリアとなっている。

 三重県玉城町の「元気バス」の事例では、ワゴン車には電動車椅子などを乗せるリフトが装備されていないことも「登録制」を採用する大きな要因である。電動車椅子で利用する人はデイサービスなどの別の輸送手段に回ってもらう必要があるため、登録をする際には、社会福祉協議会の事務局で面談まで行っている。

 三重県玉城町でも、「登録制」が一種のバリアになることは認識しており、社会福祉協議会の賛助会員として、年会費1万円を支払った人に対しては、「元気バス」を利用できるようにはしている。玉城町にはアスピア玉城という温泉施設があることから、ここを訪問する人も多いため、このような方法で対応してもよいかもしれないが、その他の地域では、「非居住者用」として運賃を設定し、利用する意思がある人に対しては、サービスを提供できるようにする必要性を痛感している。

 これは「二部料金制」であり、居住者は住民税や固定資産税などで、デマンド型の公共交通を運行する際の「基本料金」に相当する部分を負担している。「元気バス」は、幸い無料で運行しているが、他の自治体などでは低廉ながら運賃を徴収している。低廉ながらでも、運賃を徴収している部分は「従課運賃」に相当する。非居住者は、基本料金(運賃)を支払っていないことから、居住者とは別に基本運賃に相当する金額を含んだ運賃を設定すれば、デマンド型の公共交通を利用したい非居住者にとっても、便利であるだけでなく、利用できる環境が提供されることになる。
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「私は私の世界」のネームプレート

寝てばかりいる

 寝てばかりいる。ここから何も生まれない。では、何から生まれるのか。エアコンから生まれるのかな。だから、すっと、エアコンの下にいる。

 もっと、中を出せるようにできないのかな。

教育変革から始める

 オンデマンドとかシェアというけど、それを従来の公共とかビジネスの範疇で考えていてはダメです。市民の覚醒が前提です。その部分をどう考えていくのか。

 やはり、教育変革からやっていくしかない。教育自体をシェアに変えていく。上から認められてやるとか、皆から認められてやるとか、では物足りない。それでは能力が発揮できない。自分ができるところからやっていけばいい。

「私は私の世界」のネームプレート

 考えるネタを作ってきて、ここまで来た。まだまだ足りない、まとまらない。なのに何故、こんなにダルいのか。

 「私は私の世界」のネームプレートを復活させましょう。スケジュール通りにやるのはダメだし、スケジュール内のもダメ。日常化。非日常があって、初めて、非日常がある。

 一日100項目位をICレコーダーに放り込むような生活。他者の世界ではなく、自分の頭の中の刺激。全てがトリガーであり、全ての答えは自分の中にある。

 「だから、どうなる」というのは他者の世界の論理です。私の世界ではない。私の世界をもっとハッキリさせよう。
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豊田市図書館の30冊

210.75『知られざる本土決戦 南樺太終戦史』日本領南樺太十七日間の戦争

491.3『ひと目でわかる体のしくみとはたらく図鑑』』

589.21『なぜ、ユニフォームは、働く人を美しく魅せるのか?』仕事服の「なぜ」と「魅力」をこの一冊

336.3『ダークサイド・スキル』本当に戦えるリーダーになる7つの裏技

588.0『戦争がつくった現代の食卓』軍と加工食品の知られざる関係

421.3『12歳の少年が書いた量子力学の教科書』

324『民法の全条文』平成29年大改正!

290.87『世界の廃墟・遺跡60』

547.48『クラウド活用実践ガイド』課題解決のノウハウが満載

336.17『API革命 つながりが創る次代の経営』トヨタに異変「創業以来、最大の変革期が到来」 銀行法改正、政府も成長戦略で推進 さらば自前主義

292.58『ブータン 国民の幸せをめざす王国』

319.04『秩序の砂塵化を超えて』環太平洋パラダイムの可能性

312.1『分裂と統合の日本政府』統治機構改革と政党システムの変容

235『マルセイユの都市空間』--幻想と実存のあいだで--

379.9『オックスフォード式 超一流の育て方』

367.5『男子劣化社会』ネットに繋がりっぱなしで繋がれない

767.8『サザンオールスターズ 1978-1985』

234.07『ナチスと隕石仏像』SSチベット探検隊とアーリア神話

007.04『謎床 思考が発行する編集術』

C342『地域の足を支える コミュニティー・デマンド交通』

007.13『AIが人間を殺す日』車、医療、へ行きに組み込まれる人工知能

762.3『文化のなかの西洋音楽史』

336『7つの仕事術』コピー1枚とれなかったぼくの評価を1年で激変させた

913.6『泣き虫弱虫諸葛孔明 第四部』

778.77『ジブリの教科書20 思い出のマーニー』

134.96『存在と時間 3』ハイデガー 中山元◎訳

159.4『専業主婦が就職するまでにやっておくべき8つのこと』

336.42『従業員を採用するとき読む本』その採用の仕方ではトラブルになる!!

366.89『中小企業の成長を支える外国人労働者』

673.97『繁盛店は路地裏にあり!』悪立地・低予算でも繁盛する飲食店必勝バイブル
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