goo

9.2.1~9.2.4

渋谷スクランブルライブ映像

 通る車を透かして見ると、人数は少ない非対称。車は本当に中途半端な代物。

やはり、不在!

 スタバをスルーして無印100円ドリップにした。窓際で書きものをしていた。

9.2.1「国家での対応」

 多様化に対して、上位構造の国家は対応できない。国とそれに依存する国民という構図はあまりにも相性が悪い。民主主義という幻想でお互いが無責任になっている。

 市民からの多様な要望はヘッドである地域で受け止めて、変えていく。国との組合せは変化していく。分配から分散のカタチになる。

9.2.2「地域がヘッド」

 分散した、自立した地域には分配は不要になる。地域は市民相手に財源を作り出す。雇用も創出する。

 コミュニティでのユニット活動、都市で実験を重ね、地方に展開していく。企業はインフラ活用の負担部分を反映させる。ベースとなるのは、共有意識、そのためのソーシャル活用していく。

9.2.3「市民が主役」

 値域主体といっても、市民主体の集まりとなる。その際に、1億人という国の単位は大きすぎなので、把握が可能な500万人規模に置き換える。

 行政・企業は市民をして、市民が活動していく。高度サービスのお互い様のマーケティングを下から作り上げていく。市民が自立した生活者の役割を果たす。

9.2.4「生きぬく」

 市民が生きぬくために重要なのは個人が覚醒すること。個人が全体を考え、先を見ていけるようにする。そのホロン的な市民が集まった時に機能する。従来型の指示待ちでは生き抜けない。

 各自が判断できるように、教育制度を変革させていく。合意のカタチが変わることで、政治形態も変化する。
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9.1.1~9.1.4

9.2.4「生き抜くため」の解

 Think globally, Act locallyの意味。個人が両方を行う。それが個人の自立。知の世界の教育の目的。配置の場所で上位のthinkと下位のactの比率が異なるだけ。

 スパルタは戦うためだけに教育制度を作った。戦争に勝つことにより体制が崩れた。やがて、ペルシャの傭兵になり、アレクサンドロスに葬られた。

9.3.4「国家連合」

 グローバル化は企業のact部分ではなく、個人のthink部分である。そうすることで超国家がイメージできる。

 人類が産み出した、最高のアイディアの「神」と「超国家」がつながった。日本の天皇制はこの範疇。

ホロン的な感覚

 物事が一番考えられた頃、自分の中に磁力があり、地球の磁力とつながり、一つになっていた。

 これが個人と超国家との関係であり、神とのつながりなんでしょう。

人間は一人では生きられない、という言葉

 人間は一人では生きられない、という言葉に違和感を感じていた。次に出てくる言葉は従属をいみしているから。やっとわかった。次に出てくるのは超国家であり、神とのつながりなんだ。他者ではないんだ。

 サファイアの意味は配置された所で輝くためにはホロン的な要素をもっていれば、thinkとactの配分を変えるだけで対応できることをしめしている。

9.1.1「平等について」

 課題について、平等を扱う。富の不平等デケでなく、性の不平等など様々な不平等がある。マスの中の歪みだけでなく、空間がゆえに特異点は発生する。

 空間全体の歪みに対して、個との関係の歪みをどう立ち直らせるか。ここでは制度の選択まで立ち入る。個が目的を持って生きることから発想していく。

9.1.2「環境問題」

 地球規模での環境問題は解決できない。問題そのものが存在していない。誰も地球規模で見ていない。その割に解決手段だけが存在している。

 コンビニ袋にしても、自己満足とスーパーの儲けだけが発生している。実施に対する評価がされていない。スーパーで完全実施の豊田市はさらに温暖化に向かっている。温暖化防止で、全てのスーパーを廃止する施策は誰も提唱しない理由が不明。

9.1.3「循環していない」

 環境問題は有限な世界で循環していないのが最大の課題です。どのように循環させたらいいのか、何を循環させるのかが示されていない。「リサイクル」業者が成り立っているだけです。

 有限の共有意識の元で、双方向を成り立たせること、モノつくりと消費に対抗する、静脈系のサイクルを作り上げるには、消費社会の根本を変えないといけない。人類に対しては高齢者をどう扱うかがアナロジーになる。

9.1.4「社会のしくみ」

 課題に対する社会を考えた時に、従来の効率化のために集中・分配する仕組み自体が限界を向えたのでしょう。地域が自立して、個人の自立を助けることで新しいエネルギーが必要になってきた。

 人が多ければ多いほど、助かる仕組みのためにどのようにしていくのか。そのロジックを展開していく。多様化とグローバル化の動きにうまく合致させていく。
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豊田市図書館の4冊


041『信頼を考える』リヴァイアサンから人工知能まで

159.5『『君たちはどう生きるのか』に異論あり!』「人間分子論」について議論しましょう

289.1『学問の発見』広中平祐 数学者が語る「考えること・学ぶこと」

319.38『日中戦争と中ソ関係』1937年ソ連外交文書 邦訳・例題・解説
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8.6.1~8.6.4

8.6.1「社会のヘッド」

 社会を配置にしたときに真ん中はヘッドにする。ハイアラキーではここの動きが制約される。

 ヘッドの下位の柔軟性が可能になる。市民の多様性を引き出す。上位の拡張性で国を超えていく。

 一番の特徴はヘッド自体が進化していくこと。ヘッドを従来の国として扱ったり。個別として扱うことができる。地域には依存しない。

8.6.2「クラウド支援」

 配置において、企業の役割はヘッドを支援することで、個の力を増すこと。これはフェースブック、グーグル、アマゾンのような動きになる。個に対する理念を持って行動する。

 知のインフラ、つまり、情報共有は整備されつつある。各企業の得意とするコンテンツを持って、個に対する環境を作り出す。カーメーカーはクルマというコンテンツで生き抜くために何をするのか。

8.6.3「各自の世界」

 各自の世界を内に作るのが配置の前提。自立して動くためには必須。未唯空間はそのために作られた。構造はコミュニティと同じカタチになる。入口は一つにまとめられる。

 コンパクト集合になるので、境界は開であり、閉である。オープンにして、問えば応える仕組みにする。自らは発しないのが原則となる。

8.6.4「社会へ外延」

 内と外をdualにしていく。外は内で、内は外。それがオープンであり、クローズな構造を作り上げる。内のコミュニティ概念を外なる世界のコミュニティに体現化する。

 それを行なうことで、社会を取り巻く世界、さらに宇宙ともつなぐことができる。dualはどこでも存在する。

トヨタのノキア化

 ノキアにはトヨタと似ているところがある。だから、フィンランド出張の時に、ノキアを選んだ。テーマは社会と企業との関係。思うとこのテーマは今のトヨタのためにあったような気がする。

 今の経営陣ではノキアの道を辿ることになる。地域の役に立っていない。地域を担う販売店に方向を与えていない。これではクルマの多様化には対応できない。
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天気のいい日は歩こう

天気のいい日は歩こう

 何かが見つかる。幸い、場所と時間と歩数をトレースするアプリはスマホに入っている。

 バス停まで歩いてこれれば、往復1600円で名古屋に出られる。11/1に試そうか。⇒文庫本「戦争と平和」と一年半ぶりのIさん。

時間管理

 乃木の時間は未唯に当てよう。いくちゃんは除く。いつでも未唯空間を考える。そして、それを未唯宇宙に反映させる。

モスのにくにくにくバーガー

 今日は29の日。モスのにくにくにくバーガー。これはプレートに盛れば、食事になる。ナイフとフォークで食べたい。モスの新戦略として、バーガーを超える。

リフィルを筆記具に

 8000円のボールペンのリフィルは200円。リングノートに挟めば、最小限の形態状態になる。柔らかリングに挟んでみよう。明日、探しに行く。

 リフィルはこのそのままペンとして使うと、微妙に揺れます。この感じがいい。本当は8000円のボールペンがほしいけど。

8.7「分化ツール」

 ツールを個の覚醒と分化にどう使っていくのか、そのためにツールをどう進化するのか。

無印をサードプレイスに

 今日も居ないので、スタバはやめ、無印の100円コーヒーを試した。机と椅子があるんだ。年末調整にしては長すぎる。

 珈琲を飲むときには右に壁が欲しい。無印には一ヵ所ありました。居ないときはここにしましょう。100円で済みます。

 無印でダイアリーを埋める計画を立てる。歩数、食べたもの、乃木、そして未唯空間と本に関すること。埋めるのが目的。

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OCR化した10冊

『チャーチルは語る』

 「我々はソ連に対してできるかぎりの支援を与える」 一九四一年六月二十二日

 「我々はこの戦争に勝った」 一九四一年十二月七日

 「今宵、日本軍は勝ち誇っている」 一九四二年二月十五日

 「世界にこれほどの影響を与えてきた民族は、この二つ以外にはない」 一九四八年

『図書館の基本を求めて』

 豊田市中央図書館の状況と問題

 大規模複合施設と図書館の指定管理

 モンスター化するTRC指定管理

『中国はここにある』

 子供を救え 梁庄小学校

 孤立する農村政治 政治

『フューチャー・ウォー』

 かくて現在にいたる

『モビリティ2.0』

 「ノキア化」が進むトヨタ

  衰退のデジャヴ

  燃え盛るプラットフォーム

  デバイスからエコシステムの戦いへ

  ぬぐえぬ出遅れ懸念

  自動車メーカーが生き残る道

  TRIを去るスペシャリスト

『戦争と文明』

 軍国スパルタ

『グローバリズム後の世界では何が起こるのか』

 大転換後の世界と民主主義の将来

  異なるゲームと民主主義

  グローバリズムとナショナリズムと象の鼻

  誰が自由貿易の守護者なのか

  米中の角逐

  中国が世界一の経済大国になる日は来るのか

  アメリカの経済パワーの源泉

  アメリカの軍事力

  四大地域の盟主と日本

  教授の遺言と日本の針路

『海の歴史』

 人類は海へと旅立つ(六万年前から紀元前一年)

  太平洋

  ペルシア湾と地中海

  「海の民」:フェニキア人と小アジアのギリシア人

  カルタゴ人、ギリシア人、ペルシア人は、地中海をめぐっていがみ合う

  地中海をめぐり、ローマとカルタゴが対立する

 将来:海の地政学

  冷戦の海洋地政学

  第三次世界大戦の引き金になりうる海上での小競り合い

  将来的に重要になる水域にくすぶる火種

  紛争が勃発する恐れのある海峡

  北極をめぐる領有権争い

  狙われる海底ケーブル

  海戦という脅威

『カナダ人権史』

 権利革命

『大いなる聖戦』

 スカンディナヴィアの戦い:冬戦争

 ソ連のフィンランド攻撃計画

 ソ連軍の敗北と立ち直り

 スカンディナヴィアにおける英仏の思惑

 英仏の計画

 独軍の計画

 独軍の南ノルウェー占領

 英仏軍の北ノルウェー撤退

 伊軍のギリシャ侵攻

 脆弱なイタリア

 ドイツの介入

 ギリシャにおける連合軍の敗北

 クレタ島をめぐる戦い

 ソ連軍の満洲侵攻
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伊軍のギリシャ侵攻

『大いなる聖戦』より

ヒトラーはムッソリーニに、一九四〇年九月の段階でも、そして十月四日にブレンナー峠で会談した際にも、バルカン方面ではイタリアがその行動を自制する必要があることを強調し、その代償としてイタリアがギリシャとユーゴスラヴィア方面で野心を満たそうとする際には支持を約束していた。ところが、十月七日にドイツは突然ルーマニアを占領した。会談の際に、そのことを予告しなかったヒトラーの欺隔行動に触発されたムッソリーニは、自国の立場を回復させるための手段として、十月二十八日にギリシャヘの侵攻を断行する。ブルガリアもユーゴスラヴィアもギリシャとの領土紛争を抱えている中で、このイタリアの動きは、ヒトラーがバルカン地域の安定を維持できる見通しをほぼ立てられた時期に地域を混乱させる要因となるものであった。また、たとえルーマニア空爆のための航空基地確保が唯一の目的であったとしても、英国のギリシャヘの介入が確実になるという点で、大きな意味を持つものであった。それでもヒトラーは、イタリアの対ギリシャ戦を全面的に支援することを申し出て、イタリアがそれを辞退すると、伊軍を補強する目的でイタリア南部とアルバニア及び北アフリカに出撃できるよう、ドイツの陸上・航空兵力の一部を待機させた。つまりヒトラーは、自身の要求に応えて他国がドイツの目的を適えてくれることが見込まれる場合、そのような国への軍事援助は限定的範囲で行うという、フランコとペタンヘの対応法を踏襲して、その目的を達成しようとしたのである。フランコとペタンは共にこのヒトラーの意図を見抜き、最終的にヒトラーはどちらに対しても対英宣戦布告を強いることはできなかった。しかし、ムッソリーニは既に戦争の当事者となっていることでドイツの戦略に半分巻き込まれているのも同然で、対ギリシャ戦開始から六週間も経たぬ内にバルカン地域と北アフリカ、そして海上で伊軍が壊滅的打撃を受けた時には、自らの意思でその後の動きを決めることができなくなっていくのである。

ギリシャで伊軍が壊滅的敗北を喫したのには多くの要因が作用していたが、取り分け重要だったのは、侵略に対するギリシャの抗戦意思の強さをイタリア側が致命的なまでに過小に見積もっていたことである。伊軍潜水艦が、八月十五日にエーゲ海のティノスの沖合いでギリシャの巡洋艦エリを意図的に沈めるなど、夏の間挑発行為を絶え間なく行っていたが、それに対するギリシャ側からの目立った反応がなかったため、イタリアのファシスト指導部はそれをギリシャの弱さの顕われと見なしていた。ムッソリーニは、イオアニス・メタクサス将軍の独裁政権が隠れファシストで心情的には枢軸寄りであり、ギリシャの民衆は伊軍による占領を歓迎するであろうとの見通しを基にしてギリシャ侵攻に踏み切った。実際のところギリシャは戦争を回避したがってはいたものの、イタリアの圧迫の前に怖気づくことはなく、おとなしく膝を屈するつもりはなかったのである。

このようにギリシャ側の姿勢を読み誤ったことこそが、戦場でギリシャ軍の死命を制するのに充分な兵力もなしに作戦を発動したことを始め、イタリアが犯したすべての錯誤・不運を引き起こす過ちの源であった。イタリアは一九四〇年十月の時点でアルバニアに第九軍と第十一軍を展開させていたが、師団の合計数は八個に過ぎなかった。イタリア参謀本部の判断では、ギリシャ軍が一個騎兵師団と十五個歩兵師団の半分をブルガリア国境に貼り付けていたとしても、ギリシャの占領には二十個師団を要するとなっていた。このように、アルバニアに展開していた伊軍はギリシャを占領するという任務には耐えられないものであり、実際、伊空軍がギリシャ軍の動員を阻止したり遅延させたりすることができなかったこともあり、戦端を開いてから二週間は兵力面ではギリシャ側と較べて二対五の比率で劣勢であった。これに輪をかけたのが、ギリシャ軍を国境地帯から離れた防禦陣地に釘付けにしておけるような海上作戦が悪天候のために行えなかったこと、伊軍の装備がこの戦域の人を寄せ付けないような荒野で行動するには重過ぎたことである。伊軍は、機械化が進んでいたためにかえってギリシャの峡谷地帯で立ち往生することとなり、その第九軍と第十一軍は作戦の初期段階でギリシャ軍が山岳地帯を通じて浸透・包囲してくるのに悩まされることとなる。反面、機械化されていた伊軍が主要交通路を十二月に至っても確保することが可能だったので、全面的敗北を免れたのも機械化のおかげであった。

ムッソリーニがギリシャ侵入を一九四〇年十月に決定したことで、伊軍はさらに二つの面で厄介な問題に直面することになる。第一に、作戦始動が予告されてから開始されるまで二週間しかなかったために、二つの軍はアルバニアに軍需物資を十分に集積できる前に攻撃を始めざるを得なくなり、同地に追加の八個師団が集結し終わった十二月には伊軍の補給態勢はすでに崩壊していたこと、そして第二のもっと即時的影響を与えた問題は、ムッソリーニが立てた作戦予定表のために伊軍が一年で最悪の季節に作戦を発動する羽目になったことである。ギリシャに侵入した伊軍には冷たい豪雨が襲いかかり、十二月を迎える頃には気温は氷点下二十度にまで低下した。こうして、河川の氾濫や底なしの泥淳、そして寒気が、政治面での無能ぶりと軍事面での準備不足に苛まれた伊軍の侵攻作戦の死命を制したのである。

伊軍のギリシャヘの主要侵入経路は、コニツァとフロリナを結ぶ線、メツォヴォに至るルート、及び海岸線を通るもので、主攻勢が指向されたのは、四個師団が投入されたイピロスであり、伊軍が相当程度前進できたのはこの方面だけであった。第九軍はフィリアテスとパラミティアを迅速に制圧したものの、中央での攻勢は数日で頓挫し、伊軍が鳴りを潜めていたフロリナ地区ではギリシャ軍が十月三十一日には早くも攻勢に転じる。動員が進むにつれて新たに予備師団十三個がギリシャ軍の戦列に迅速に加わり、ブルガリアの不穏な動きにもかかわらずトラキア地方で阻止する態勢が整った。そのため、防勢に立ったままではいずれは敗れることを悟っていたメタクサス政権はアルハニアに進撃する決断を下す。伊軍が布陣する場所よりも高い稜線を確保したギリシャ軍は、東部と中部地域で迅速に反撃を敢行することができ、早くも十一月三日にヴォヴォサ近辺で伊軍の山岳師団一個を撃破すると、十四日には全戦線で全面的攻勢に転じる。この攻勢が開始されたのは、英空母から発進した艦載機が十一月十一日から十二日にかけての夜間にタラント軍港に係留されていたイタリアの戦艦三隻を撃沈破するという大戦果を収めた三日後であり、この攻勢が終わったのは、英軍が第二次大戦中陸上での初めての攻勢作戦を行う三日前のことであった。

どちらも成功裏に終わったが、相互に連関することがなかったので、その効果は持続しなかった。英軍は十一月二日にクレタ島を占領し、その後ドデカネス諸島から脅威を受けないようにしたものの、メタクサスは、その目の黒い間、即ち一九四一年一月二十九日までは、ギリシャ本土に英軍の進駐を許すことは拒否する。その理由は、英軍がバルカンに足を踏み入れれば、それがどれ程の兵力であろうともドイツにとっては見過ごせないほど大きな存在となると同時に、その兵力規模はギリシャが敗北を免れるには小さ過ぎるというものであった。ギリシャ軍がアルハニアの四分の一を席巻して、十二月には伊軍がヴロラの「北側」に防衛線を敷かざるを得なくなるまで追い詰められるといった状況では、短期的に見ればそれが及ぼした影響はほとんどなかったが、長期的に見れば、このようなメタクサスの姿勢とギリシャの立場は持続できるものではなかった。ギリシャ軍の歩兵第五軍団が十一月二十二日にコニツァを、二十九日にポグラデツを制圧する過程で伊軍の三個師団を粉砕し、それと並行して歩兵第二軍団が十二月三日にパルメットを、歩兵第一軍団が八日にジロカストラを攻略するに及んで、ヒトラーは唯一の同盟国が敗退していくのを見過ごすことができなくなり、ドイツが介入することは決定的となる。

イタリアが正式な援助要請をしてきてから三日後の十二月十日に、ヒトラーは爆撃機戦隊一個をイタリア南部に投入し、十三日には、翌一九四一年三月にブルガリアを占領してギリシャに侵攻するとの決定を下す。このような決定を下すことによってヒトラーは、事の成り行き上やむを得ず、地中海東部をイタリアに依存した形で確保した上でギリシャにあたるという従前の方針を撤回した。しかし、目的を限定する姿勢に変わりはなく、クレタ島とギリシャは攻勢の限界点であり、さらなる東方進出への踏み石ではないと考えていた。
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ソ・フィン戦争、別名冬戦争

『大いなる聖戦』より

スカンディナヴィアの戦い:冬戦争

 スカンディナヴィアにおける最初の戦いはソ・フィン戦争で、冬戦争とも呼ばれており、一九三九年十一月三十日から翌一九四〇年三月十三日までの百五日間にわたって戦われた。この戦いは、大国がその意思を弱小な隣国に押し付けようとしたこと以外には起きた理由が見出せないが、同時に、一九三九年八月二十三日と九月二十八日の独ソ合意によって、ドイツがバルト地域で伝統的に担っていたロシアヘの対抗勢力という役割が一時的に消滅した結果でもあった。第一次大戦中にドイツが帝政ロシアに勝利したことで、バルト三国とフィンランドは戦後に独立を勝ち取るための礎を得ることとなったが、そのドイツは一九三九年に、それら旧帝政ロシア領に位置している国々をソ連の勢力圏として認め、その結果ソ連は、このドイツとの取り引きで勝ち取った成果をフィンランドに呑ませようとして背伸びをし過ぎ、図らずも冬戦争に突入していったのである。

 一九三九年十月十二日に開始した交渉によってソ連がフィンランドから勝ち取ろうと目論んでいたのは、相互援助条約の締結、レニングラードヘの海上交通路の安全を確保するための一部のフィンランド領の割譲、カレリア地峡での国境線を一七二一年当時のものに再画定することである。その代償としてソ連が提案したのは東部カレリア地方を譲渡することで、面積ではソ連が要求したフィンランド領の二倍に相当した。現実政治の観点からは、ソ連の要求は理不尽なものではなかったが、フィンランドは自国の判断を下す際にポーランドやバルト諸国におけるソ連の行状を熟知していたため、ソ連の安全保障と領土上の要求が、共産主義イデオロギーと汎スラヴ主義に根差したもので、フィンランドを赤化してソ連に完全に服従させるのを目的としていることを正確に見抜いていた。フィンランドには一定程度の譲歩をする意思はあったが、相互援助条約を締結することや、ハンコ半島やオーランド諸島の基地群を譲渡することには同意しかねたのである。

 フィンランドが中立国としての立場を崩さないことを明白にしたため両国間の交渉は十一月十三日に決裂し、ソ連当局はこの結末をフィンランド側の不当なまでに硬直な姿勢によるものと憤憑を込めて断ずるしかなかった。その結果ソ連は二つの過ちを犯し、冬戦争の第二段階における作戦行動がソ連軍にとって惨憺たる戦いとなることが確実となったのである。まず、ポーランド東部を死傷者二千六百人足らずで容易に占領し、それに続いてバルト諸国から譲歩をも勝ち取ることができたことで、ソ連は、国家としてのフィンランドの抗戦意思と、その軍事上の実力を過小評価していたと思われること。次に挙げられるのは、ソ連が十月三十一日の段階でフィンランドに対する要求内容を公表していたため、外交交渉を通じて成果を挙げられなかった以上、武力に訴える以外に選択肢がほとんどなくなり、しかも迅速に行う必要があったが、タイミングとしては、戦場となるカレリア地方での作戦行動が一番困難になる時期となっていたこと。即ち、十一月から十二月にかけての同地方は、空には暗雲が立ち込め、湿地が多い不連続的地勢となっている地表や河川・湖沼・海上は、機甲・機械化部隊が進撃できる程には十分に凍結していないという状態だったのである。帝政ロシアがこの地で一八○九年に戦った際に明らかであったように、カレリア地方で作戦行動を起こすのに最適な時期は二月であったが、一九三九年当時の事態の推移により、フィンランドと事を起こすのをソ連が三ヵ月待つことなどできないのは明らかであった。そのためにソ連は、多くの場所が通行不能な時期に戦端を開くことを余儀なくされ、このような初歩的錯誤に輪をかける悲運がさらに襲うこととなる。ソ連軍の攻勢が頓挫すると同時に、一八二八年以来最強の冬将軍が訪れ、冬戦争の後半期にソ連軍が味わう壊乱状態を益々悲惨なものとしたのである。

ソ連のフィンランド攻撃計画

 ソ連軍がフィンランド侵攻のために展開した兵力は四個軍に分けられ、兵員数は推計六十万にも上った。重要度の高いカレリア地峡では第七軍が狙撃師団十二個、機械化軍団一個と戦車旅団三個を展開していたが、狙撃師団の内三個は十一月三十日の段階では編成途上にあった。ラドガ湖北方の第八軍は狙撃師団六個と戦車旅団二個を指揮下に置き、その右翼ではフィンランドの狭まった地域に相対して第九軍の五個師団が占位した。そして、北極圏地方では、第十四軍の三個師団がペツァモと対峙する位置にあった。ソ連軍が企図していたのは、カレリア地峡に主攻勢を指向してフィンランド第二の都市で首都ヘルシンキヘの玄関口ともいうべきヴィボルグを占領することであった。具体的には、ペトロザヴォーツク地域から進撃する第八軍がラドガ湖の北岸に沿ってヴィボルグ正面を守備するフィンランド軍部隊の背後を衝き、その北方では第九軍が三つの懸隔した進撃路に分かれてボスニア湾に向かって進み、フィンランドとスウェーデンの間の連絡路を断つと共にフィンランドを二分する。そして、そのはるか北方では、第十四軍がペツァモ及び同地から海に至る交通路を制圧した後に南方に方向を転じ、第九軍と合流することになっていた。戦車千輛とそれに倍する航空機が投入されたと推定されるこの作戦は、想像力と柔軟性に富んではいたものの、戦場となる地域の実情をまったく無視したものであった。

 北方地域では、遠方のムルマンスク鉄道に依存する細々とした交通・通信手段は、第九軍の作戦行動を支えるにはまったく不十分であり、同時に第九軍と第十四軍は、林道を外れて兵力を展開できないことが桎梏となっていた。その南方では、不連続的地勢が同様に多方面への進撃に摯肘を加え、カレリア地峡地帯ではヴオクシ川が凍結していなかったために、第七軍の攻撃正面の範囲が極めて狭くなることとなった。しかしながら、ソ連軍の作戦計画が内包していた明らかな欠陥は、フィンランド軍が効果的な抵抗を持続させることはできないという誤った判断を下していたことにあった。その他にも至らぬ点はあったにせよ、十日も経たずに勝利を得られて十二月二十一日にはフィンランドをスターリンヘの誕生日のプレゼントとして献上できるといった過信に較べれば、何程のものでもなかった。これ以外にも、比較的表面化していないソ連側の作戦準備段階における大きな欠陥として、作戦全般の指揮を委ねられたのがレニングラード軍管区と第七軍の司令官を兼ねていたキリル・メレツコフ中将だったということが挙げられる。このように一個人に多様な任務を担わせたという事実も、ソ連側が戦争を短期間で難なく終わらせられると信じ込んでいたがためということ以外に説明がつかない。

 それでも、作戦開始から十日間にソ連軍が記録した進撃速度は、そのような自信が根拠のないものではなかったことを示唆するものであった。北方では、ペツァモを陥としたソ連軍が「北極ハイウェー」という仰々しい名前が冠された道路を通って南下を開始する。第九軍の戦線では、第百三十二狙撃師団がケミヤルビを、第百六十三及び第四十四狙撃師団がスオムッサルミを、第五十四狙撃師団がクフモを、それぞれ攻略すべく前進していた。しかしながら、ラドガ湖の北岸では、第八軍が進撃を阻まれ、フィンランド軍の拠点を迂回して側面を突こうとする度重なる試みも、コッラとタルバヤルビとイロマンツィで食い止められていた。それでも、この攻勢で第八軍が地峡付近のフィンランド軍の背後に進出することができなかったとしても、この地域のフィンランド軍が他方面に転用されることを防ぐのには効を奏した。これによってフィンランド軍はその第四軍団の二個師団を支援するために予備部隊の投入を余儀なくされた。地峡そのものにおいては、作戦開始当初の段階ではソ連軍は抵抗も受けずに前進したものの、第七軍がマンネルヘイム防衛線上のフィンランド軍主要抵抗拠点に到達したのは十二月五日であった。フィンランド軍は、同拠点の右翼を第二軍団の三個師団が、左翼を第三軍団の二個師団が固めており、ソ・フィン交渉決裂後の数週間の内に強化されていたものの、要塞と言うよりは野戦陣地のつながりに過ぎないような状態のままであった。にもかかわらず、ソ連軍は偵察と本格的攻撃の準備に十日間を費やしながらも、攻撃が開始されると北方では第九軍が潰走し、第七軍の攻撃自体も惨愉たる失敗に終わる。それでも、この攻勢が中止されたのは十二月二十六日になってからで、理由として挙げられたのは、この時までに天候が悪化していたことと、北西方面に展開する部隊を再編するための措置の一環というものであった。

 開戦当初にフィンランド軍が有していた十個師団の内、七個師団は三つの軍団に配備され、一個師団は地峡地域での予備部隊となり、その他はヴィボルグとオウルに戦略予備として置かれていた。従って、北部方面を守備していたのは小規模な支隊だけであったが、林道を塞ぐという単純な措置によって各所でソ連軍の進撃を食い止めていた。林道上でソ連軍部隊が数マイルにわたり伸び切った状態で動けなくなっているところを小単位に分断して、フィンランド軍の予備部隊が側面と背後に襲いかかって各個撃破したのである。この戦術はモッティと呼ばれた。このようにして十二月二十七日から翌年一月六日にかけてスオム・サルミ付近でソ連軍第百六十三及び第四十四狙撃師団が全滅し、その南方では既に十二月十五日にタルバヤルビで第百三十九狙撃師団が壊滅させられていた。そして第十八狙撃師団も、必死の脱出を図った果てに二月二十九日までにはラドガ湖北岸のピトゥカランタ付近で同様に粉砕されたのである。
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カナダの権利革命

『カナダ人権史』より 権利革命

カナダの権利革命を論ずるのに、社会のどれか一つの集団に焦点をあてるのは陳腐にみえるかもしれない。だが、この権利革命の情況や意味を理解するのに、それが女性、特に職場の女性にいかなる影響を与えたかからはじめることは有益である。たとえば、一九七〇年代の大半のカナダ女性の典型からほど遠い存在だったドリス・アンダーソンのことを考えてみよう。彼女は、一九五七年から一九七七年まで『シャトレーヌ』誌の編集長を務め、同誌をカナダで最も成功した雑誌に仕立てあげた功労者だった。けれども、在職中ずっと彼女が直面していた障害や不満は、男性優位の職場でほとんどの女性が味わっていたものと重なるものだった。一九五〇年代中葉に副編集長として、彼女は、毎週、男性編集長とのランチ・ミーティングに耐えなければならなかった。「彼は、私に自分と同じように飲めと強いたのです。私よりもゆうに一〇〇ポンド〔約四五キログラム〕以上も体重があったはずなのにです。当時、私は何とか耐えることができました--そのころ私のような仕事に就いた女性のほとんどは、そうしなければならなかったのです。でも、クレア〔編集長〕とのランチの後はいつも化粧室に行って、喉に指を突っこみ吐いたのです。そうでもしなければ、オフィスに戻って、少しでも能率よく働くことはできなかったのです」。彼女は、マクリーン=ハンター社の最も成功した雑誌を率いていたにもかかわらず、『シャトレーヌ』誌の編集長よりも上のポストに昇進することはなかったし、同社の他誌の編集長だちより二〇パーセントも給料が低かった。しかも、妊娠すると解雇されそうになったのである。セクシャル・ハラスメントは横行しており、日常茶飯事のようになっていた。「男性のなかには、セクシャル・ハラスメントは、ボスであることの特権のようにしか思っていない者もいました。……私が知っている独身女性で、セックスの誘いを受けたことがない人はいませんでした。誘うのは、たいていは既婚男性からでした」。

セクシャル・ハラスメントは、最終的にはカナダの人権法によって禁止されるのだが、当時は問題にはならなかった。「セクシャル・ハラスメント」という言葉は、女性グループが職場での脅迫に抗議したニューョトク州イサカでの言論集会まで使われたことはなかった。カナダでセクシャル・ハラスメントの初めての調査が行なわれたのは一九七九年になってのことだった。ブリティッシュ・コロンビア州人権委員会で証言したある女性は、自身が受けたセクシャル・ハラスメントの最も鮮明に残る一九七八年の体験を語っていた。

 私は、ドラッグストアの大型チェーン店でレジ係をしていました。ボスはいつも、女性たちに言い寄っていました。レジと壁の間には狭い通路がありました。あるとき、その通路を通っていると、向こうからボスがやってきたのです。ボスはどんどん歩いてきて、私に少し後ろにずれる余裕も与えないうちに、私を壁に押しつけました。すれ違いざま、ボスは私のお尻をつかんだのです。私は手をどけてと言いました。ボスは唖然とした様子で立ち去りました。その後、監督副主任が私のところにやってきて、解雇を告げられたのです。

やはり同じ委員会で証言した別の女性は、一九八〇年に同じような体験をしていた。

 雇われてから数か月のときに起きたのです。鍵のかかった在庫室でのことです。男はとても屈強で、私に近づき、小部屋に連れて行きました(私はいやだと言いました)。男は何もしないだろうと、私は思っていました。私をからかっているのだと思っていたのです。男は私の腕をつかみ、身体を触りはじめたのです。(涙ながらに)懇願してようやくやめさせたのですが、男は、俺が異動させられる前に、お前さんがどう思おうが、俺はお前と寝るからなと言ったのです。

セクシャル・ハラスメントは、権利に対する考えが時間とともにいかに変化したかを見事に表している。一九七〇年代、ある活動家は、セクシャル・ハラスメントのことを「あまりに当たり前すぎていて、めったに語られないものだ」と語っていた。セクシャル・ハラスメントは、公然と身体を触られたり男性従業員からセックスに誘われるものでなくても、ピンナップ写真や落書きのような形で表されることが多かった。たとえばジュリー・ウェブは、ヴァンクーヴァーのサイプレス・ピッツァで働いているときに、毎日のようにセクシャル・ハラスメントを受けていた。彼女のボスであるラジンダー・シン・ループラは、くりかえし彼女の髪を触り、肩に腕を回し、彼女がいやと言おうが、抱きしめ、いやらしい性的な言葉をかけ、色目をつかってじろじろ見、いかがわしい仕草をしたのだ。何度も夕食に誘い、モーテルに行ってポルノービデオを観ようと言い、彼女の性生活についてたえず問いただしたのだった。

長い問--一九七〇年代と一九八〇年代の大半--、人権をめぐる苦情でいちばん多かったのは、性差別に関するものだった。多くの女性にとって、差別は、人生の初めのころからはじまっていた。学校では、男性教師のほうが女性教師よりも高い給料をもらっていたし、女性教師は結婚や出産をすれば、退職に追いやられることに気づかされたのである。大学でも性差別は続いていた。クラスで女子学生は、排斥されたり隔離されたりする目にあったのである。シェリー・ラビノヴィッチは、大学四年だった一九七三年の体験を思い起こしていた。

 スタッキー博士は、性愛文学やポルノグラフィーのなかで女性がどのように描かれているかを分析する四年生向けのセミナーを開いていました--私は出席を許可されたのです。ヨーク大学は、リペラルな大学として有名だったのですが、私たちは、大学の構内でセミナーを開くことを許可されませんでした。そこで、約六人の女子学生は、スタッキー博士のご自宅にバスで行き、そこで、お茶を飲み、クッキーを食べながら、北米やヨーロッパの女性のハードコアな描写について討論したのです。

一九二〇年、カナダの大学生の数は、男子が一万九〇七五人だったのに対し、女子は三七一六人だった。一九六〇年になると、八万五八二人に対し二万六六二九人だった。一九七五年には、男子が一九万六九六人に対し、女子はまだ一四万二五八人だった。

学校を出て就職しても危険がともなっていたことは、一九八〇年でも同じだった。それをシャリ・グレイドンが回顧していた。

 国際広報企業で、それなりの給料をもらえる下級職に就いて一年たったころ、秘書の女性の一人とちょっと仲良くなりました。彼女は、代理店の新人社員が--新聞発表用の原稿すらまったく書けない男性でしたが--、私より八〇〇〇ドルも高い年収をもらっていると教えてくれました。おまけに彼女が打ち明けたのですが、その人は下着をはいていないのを彼女に見せるチャンスをつくるのには如才なかったというのです。

カナダの労働力全体に占める女性の割合は、一九四一年の二〇パーセントから一九七一年には三四・三パーセントに増加していた。雇用での差別は横行していた。女性は、タクシー運転手は危険すぎるという理由で断られたし、座席が大きすぎるという理由でバス運転手にもなれなかった。警察官や消防士には、身長と体重の最低基準をみたしていないとして断られた。男性のみに適しているとみなされた建設、炭鉱、測量、そのほかの数多くの職業にも就けなかった。ニューファンドランド州セントジョーンズの教育委員会は、常軌を逸したのか、女性用務員には、男性用務員よりも小さなブラシしかあてがわれていないことを理由に、男性よりも安い賃金であることを正当化していた。女性を不平等に扱うのは差別というよりも常識だとする見方はあまりにも定着していたため、オンタリオ州最高裁判所の判事は、一九六八年に公平な給与を求めた女性警察官の訴えを、次のような理由で退けたのだった。「経済、文明、家庭生活、常識のすべての原則に従って差異があるのであるから、男性警官とは異なる、差異のある給与をもらったことは、差別を受けたことにはならない」と。一九七四年の時点で、女性は、ロースクール在籍者のわずか二〇パーセントだったし、弁護士を開業しているのは五パーセント未満であり、裁判官は皆無に等しかった。一九一九年から一九七二年まで、女性議員が連邦下院議席の五パーセントを超えることはなかった。一九六八年から一九七二年までの間は、グレース・マッキニスがただ一人の議員だった。一九七四年の時点では、フルタイムで働く女性の賃金は、男性の六六パーセントたらずだったし、大学の学部卒業者の平均年間給与は、男性の三万ドルに対して、女性は二万一〇〇〇ドルだった。カナダ人の五人に一人が貧困の時代に、独身女性の四二・五パーセントと六五歳以上の女性の七四・四パーセントの年間所得は、一五〇〇ドルにも満たなかった。シングルマザーの三分の一が貧困だった。

権利革命の影響は、すべてのカナダ人に及んでいた。と同時に、権利に対する考えが変わったことで特に恩恵を受けたのが、女性やそのほかの周縁に追いやられた人たちだったことは容易に理解できるだろう。当初の差別禁止法が性による差別を考慮しなかっただけでなく、(多数のフェミニストを含む)活動家の大半は、一九六〇年代まで性差別を禁止するよう抗議行動を起こすことすらしなかった。ブリティッシュ・コロンビア州が、性に基づく差別を禁止した最初の州となったのは、一九六九年のことだった。

ブリティッシュ・コロンビア州が一九七三年に人権法典を可決したことは、カナダの人権史において、もう一つの重要な出来事だった。同法は、世界でもおそらく最も進歩的な人権法だった。実行を可能とする機関の設置など、モデルとなったオンタリオ州の法律の強みをすべて備えていたのに加えて、「道理にかなった理由」条項を含んでいたのである。カナダにあるほかの人権法では、人種や宗教といった特定の理由にかぎっていたのに対し、この「道理にかなった理由」条項は、被告人が道理にかなった理由を示さないかぎり、あらゆる差別を禁止したのだ。だが、法律改正というのは、人権がいかにカナダ社会を変化させていたのかを示す唯一の例ではなかった。カナダ政府は、世界人権宣言を拒絶同然にしてから一世代後になって、人権を外交政策のたしかな方針の一つにしたのだった。その間、活発な社会運動団体が出現していたが、その主張者たちは、人権という言葉を使って不満をさまざまに表現していた。さらに、幾度か試みが失敗した後に、権利の章典を組みこんだ憲法が返還されたのだった。

権利革命を具体的な形で表したのが、社会運動であった。一九七〇年代までにおびただしい数の社会運動が出現していた。過激な学生運動は、新左翼の誕生を促した。ブリティッシュ・コロンビア州だけでも、一九六九年には女性グループが二つだったのが、一〇年後には二〇〇を超えた。ヴァンクーヴァーとトロントに初のゲイの権利組織ができ、一九七五年には全国協会がつくられた。グリーンピースの創設は、現代の環境運動の誕生を画した。全国的な先住民組織は少なくとも四つ、州組織は三三にのぼっていた。アフリカ系カナダ人の社会運動組織は、カナダ全土に広がっていたし、子供の権利、囚人の権利、動物の権利、平和、貧困、公用語について主張する人びとの組織も未曽有の数になった連邦の国務省だけでも、一九八〇年代初期には、三五〇〇以上の社会運動組織を助成していた。こうした運動のすべてが、権利の言語を使っていたのだ。たとえば、ヴァンクーヴァー・ステータス・オブ・ウィメンは、女性権利省の設置を要求し、セクシャル・ハラスメントからの自由は人権だと訴えていた。カナダの教会でさえも人権革命に深く関与していた。キリスト教会、特にカナダ合同教会は、海外布教活動に代わって、海外での人権や権利に基づく活動を行なっていた。
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ノキア化したトヨタ

ノキア化したトヨタを救うのはリアル世界の個人環境の整備

 「トヨタ会長、EVの急速な普及に懐疑的と題したこのニュースは、米国内に限らず、フランス、ドイツ、スペイン、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ハンガリー、中国へと、瞬く間に世界各国に伝播した。このニュースに対するインターネット上のコメントで多かったのが、「まるでノキアだ!」というものであった。つまり、トヨタにノキア衰退のデジャヴを感じた人々が放ったものである。

今日をどうにかしよう

 今日をどうにかしよう。大いなる意思に任せすぎ。一日一生とする。

 個、社会、宇宙はdualな関係。宇宙の構造は社会の構造であり、個の構造。個の思いは宇宙の思い。ということで個と宇宙から社会を追い詰める。

今日はいくちゃんの神回

 日本シリーズ、早く終われ。やめちゃえ。今日のらじょらーは久しぶりの生田の神回。

 去年のひめたんを思い出す。圧縮された別れの時間。中田が好きなのはひめたん。中田は迷走しているが、最後に乃木坂、そしてひめたんに救われる。
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