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夕食なし。6日目

夕食なし。六日目。面倒なので、食べないことにした。

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東西の境界となるハンガリーとトルコとウクライナ

『イースタニゼーション』より 東西の境界となる国々
トルコの文化戦争ではアルコールも争点のひとつになっている。ゲジ公園でデモが起きるおよそ一週間前、トルコ議会はアルコール販売規制法を成立させた。モスクや学校から一〇〇メートル圏内の店舗でアルコール販売を禁じたのである。この新たな規制法がどれだけ厳密に施行されるのか、そして観光客相手や酒類販売許可を取得済みの店舗は例外扱いされるのかどうか、まったく見当がつかなかった。だが、イスタンブールにはモスクも学校もたくさんあることを考えれば、その影響ははかりしれなかった。「白い」トルコ人にとって、ボスポラス海峡を見渡しながらビールや白ワインをゆっくり味わうひとときは、イスタンブールの夏における大きな喜びのひとつである。そうしたアルコールをたしなむエリートを日頃から嘲っては、ただ喜んでいるエルドアンを心底心配する人もいた。
リベーフル派とイスラム教徒の分断は、二〇一六年夏のクーデター未遂事件のあとにいくぶん和らいだ。エルドアンが支配権を取り戻し、司法関係者や軍関係者の一大粛清に乗りだすまでに、市街戦でおよそ三〇〇人が命を落とした。リベラル派はエルドアンを嫌悪していたとはいえ、軍事クーデターを支持する声はほとんど聞かれなかった。クーデターは、民主的に選出された政権の転覆をねらったもので、アメリカに亡命中の説教師フェトフッラー・ギュレン率いるイスラム教宗派との関連性が疑われた。このクーデター未遂事件によって、トルコのリベラル派と親エルドアン勢力とのあいだで一時休戦が成立する一方で、エルドアン政府と西側諸国との亀裂はいっそう深まるおそれがあった。卜ルコ大統領と彼の支持者らは明らかに、裏で糸を引いていたのはアメリカとEUではないかと疑っていた。欧米政府が未遂に終わった反乱を非難するまでに時間がかかったことと、ギュレン師がアメリカを拠点にしていることが、この陰謀説に拍車をかけた。最終的に、アメリカのジョン・ケリー国務長官が事態の収拾を図ろうとして、トルコのクーデター未遂事件にアメリカが関与したとの噂は「完全な誤りだ」と公の場で発言した。それでも、クーデター後に拘束された人数の多さを欧米諸国が非難したため、エルドアンと彼の支持者たちはさらに反発を強めた。
過激な反欧米的レトリックを口にしつつも、エルドアンは依然として慎重に事を進めなければならなかった。彼の心奥はイスラム世界とともにあり、彼の地政学的な野心は東に向きつつあったが、ビジネスで手堅い利益をあげることも重要事項だった。新興市場のおかげで、トルコ企業は重要かつ新たなビジネスチャンスを開くことができた。だが、トルコはいまもヨーロッパとの取引が多く、主要な観光ビジネスも守らなければならない。そのためエルドアン政権は、東西のバランス確保に心を砕いた--アジアとョーロッパにまたがる微妙な地政学的立場にあって、ある程度理にかなった考えである。
しかし、この東西のバランス確保というアプローチでさえも従来の方針から大きくかけ離れたものだった。数世代にわたってトルコはたったひとつの方向、つまり西だけを見てきた。アタチュルクに共感する世俗主義者にとって、東は後進性と貧困の象徴でしかなかった。だが二一世紀において、この態度はもはや現状にそぐわない。怒りや感情を爆発させ、ときおり偽善をふりまくエルドアンだが、それでも彼はイースタニゼーションの進む世界への適応をめざすトルコの象徴なのである。
トルコの東へのピボットは、イスラム教の伝統を継承していることを踏まえれば、納得もできる。だがオバマ時代にこれ以上に驚くべき事態が起きた。欧米世界の第二の支柱であるEU加盟国のなかにも東に目を向ける国が現れたのだ。その代表格が、カリスマ的でお騒がせな独裁的指導者オルバーン・ビクトル率いるハンガリーである。
二〇〇四年のEU加盟直前に私がハンガリーを訪れたとき、オルバーンは相変わらず西側の保守主義者にとってちょっとした英雄だった。一九八九年、社会主義体制末期に勇ましい若き学生運動のリーダーとして登場すると、経済や政治に関してはリペラルで、イギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領をほめたたえ、西側の記事で彼は賞賛されていた。だが、欧米の取り巻き連中は当初、彼がナショナリストで、ハンガリーの右派主義者の多くと同様に、第一次世界大戦後に国土を失ったことを嘆きつづけている点を見落としていた。オルバーンは権力に執着するにしたがい、国内の政敵との権力闘争に勝つことや地元のナショナリストにアピールすることを優先しだした。ハンガリーが調印したEU法には自由主義の尊重が謳われているが、彼にとって法の遵守は二の次だったのである。
オルバーン政権下のハンガリーはしだいに独裁色を強めた。新たに施行された法律は報道の自由を制限したり、オルバーン支持者に政治的・商業的な便宜を図ったりするものだった。その結果、EUとの関係は徐々に険悪になっていったのである。
時を同じくして、ハンガリーがEUからよからぬかたちで注目を集めると、オルバーンは動揺し激怒した。そしてトルコのエルドアン大統領と同様に反西側的なレトリックをエスカレートさせ、金融危機で弱体化したヨーロッパ経済に注目し、西側世界の退廃と衰退の確たる証拠だと指摘した。そして反対に、アジアで目につく権威主義的な開発モデルこそ将来の模範だとほめたたえた。二〇一四年に物議を醸した演説では「自由民主主義国家は国際競争力を維持することはできない」と示唆すると、こう続けた。「今日の世界が理解に努めているシステムは、西側的でも自由主義的でも、おそらく民主主義的でもないが、それでも成功をおさめている」。そのうえで、「全国民的基盤に拠ってたつ非自由主義国家」の建設が自身の目標であることをほのめかした。オルバーン首相にとって、創造性の源はシンガポールと中国とトルコだった。いずれもEUでは許されない方法でメディアを規制したり政敵を統制したりしており、政府が経済の方向づけを行っている。さらに、中国とトルコの両国はナショナリズム色の強い政治論にふけっていた。それはEUの顰蹙を買うものだが、オルバーンに訴えるものがあったのはまちがいない。
オルバーンが描くハンガリーの軌跡にアメリカもEUもドイツも失望を露わにした。ドイツのある政府高官からこう打ち明けられたことがある。ハンガリーの指導者は「われわれにとってバルカンの小プーチン」だと。だが、ハンガリーを既定路線に引き戻すだけの力をEUはもちあわせていないように見えた。それどころか二〇一五年、中東やアフリカからの難民の大量流入に苦慮しているとき、オルバーン首相の断固とした独裁的なスタイルは、西ヨーロッパのみならずアメリカの保守主義者からも称賛を集めはじめた。
ハンガリーを抜けて北方のドイツをめざす難民の流入を阻止するため、オルバーン首相は国境沿いに有刺鉄線つきの高いフェンスを設置して武装兵を巡回させた。西ヨーロッパの自由主義者たちは唖然とし、オルバーンのふるまいは残酷で違法だと非難した。二〇一五年の夏、ハンガリーから締めだされた難民らの惨状がテレビを通して伝えられると、ドイツのメルケル首相はさらなる難民受け入れに意欲を示した。それでも、オルバーンはちょっとした英雄扱いだった。ドイツだけでなくほかのEU加盟国の保守主義者にとって、彼は行動力に満ちあふれ、自国の利益のためには厳しい決断もいとわない人物と映ったのだ。同年夏、オルバーンはメルケル首相の保守与党のパートナーであるキリスト教社会同盟主催の会議に招待されたくらいだ。そして二〇一五年一〇月のポーランド総選挙で圧勝した保守強硬派の最大野党である法と正義にとっても、オルバーンは身近な協力者であり、範となる人物だった。ポーランドの政治方針の変化はオルバーンの例に倣い、国営メディアや立法府の操作にまでおよんだ。こうした事態を受けて他のヨーロッパ諸国は、もはやオルバーン率いるハンガリーの逸脱を単独行為として片づけられなくなった。オルバーンが習近平体制の中国に創造性を求めたように、ヨーロッパの保守勢力は将来の手本となる人物としてオルバーンに注目するようになったのである。
オルバーンは政治手腕にきわめて長けており、人種差別に直結するような発言もしなければ、政治的な意図を明確にしないことの価値も理解している。だが、人種差別主義を公然と掲げる勢力が東西ヨーロッパ双方で復活しており、ここでもふたたびハンガリーは先頭に立っている。同国はオルバーンを党首とする保守的なフィデス=ハンガリー市民同盟以外にも、ヨッビク(よりよいハンガリーのための運動)という過激な極右政党の活動がさかんで、ハンガリーからの「イスラエルの影響力」排除を訴えて議会でも存在感を放っている。なかでもひときわ目立つ同党員クリスティーナ・モルバイは、まさに西側の希望をうちくだく人生を歩んできた。一九八九年のソ連崩壊後、彼女は中央ヨーロッパ出身者としてイギリス政府による奨学金の受賞者第一号となり、マーガレット・サッチャー首相からじきじきに授与された。ところが皮肉にも、西ヨーロッパから保護を受けたモルバイは極右運動の先導者に変身してしまったのである。二〇〇九年にブダペストでモルバイを取材したとき、一種のブロトフアシストではないかという質問を彼女は頭から否定したが、ヨッビクの憲兵隊や自警団による少数民族への暴力行為に話題が移ると妙に歯切れが悪くなり、ハンガリーで影響力のあるイスラエル系企業を非難する段になると感情を昂ぶらせた。
二〇〇八年の世界金融危機後の数年間、ハンガリーとトルコとウクライナが独自の方法で切り拓いてきた国の命運は、EUの力が衰え、もはや興味の的でもなければウェスタニゼーションの原動力でもなくなったことを物語る。いまにして思えば、私がブリュッセルで過ごした二〇〇一年から○五年のあいだがEUの最盛期ともいえる時代だった。ヨーロッパ経済は堅固に見えたし、ヨーロッパ単一通貨の導入は世界で賞賛された。繁栄とグッド・ガバナンスをもたらしてくれそうなEUへの加盟を望む国々が列をなした。そうした希望を抱く国々のなかには、ハンガリーを筆頭にウクライナ、トルコも含まれた。
一〇年後、事態は一変した。経済危機はEUの信用をじわじわと傷つけた。ハンガリーはEUの仲間入りを果たしたものの勝手気ままにルールを破りつづけ、とうとう創造性をアジアに求めだした。トルコは外交と内政の双方において、西ではなく東への依存を強めている。ウクライナはどうかというと、政治エリートや大半の国民はいまだに「ヨーロッパヘの参加」を切望している。だが、ヨーロッパにはウクライナを引き揚げるだけの力が残されていない。それどころかウクライナは、怒りに燃えるロシアと不安定な西側とのあいだで引き裂かれ、もがき苦しみながら徐々に沈みつつある。

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所有権をめぐる問題

『事故の哲学』より 所有権をめぐる問題
「サービス」をめぐる所有権の問題
 私がメーカーにメンテナンスを頼む(契約する)のと、メーカーがメンテナンスまでするという社会的役割を与えられるということは違っている。これはどういうことになるかというと、所有物の責任ということに関して、自分で分かった上で自分の所有物を処分しているというのではなく、外から--政府の命令に従って、政府の庇護の下に人工物を使っていることになる。国の規制というのは、こういう意味も持っている。
 法、つまり政府が、個人の所有物の扱いを規定している。すると、事故が起こっても構わないから私は好きに使うと言い出す人もいるかもしれない。アメリカなどでは車検制度がなく、メンテナンスのされていない車が走っているとも言われるので、そういう自律が認められているとも言える。もちろん、所有者は、お金の余裕があれば他人にメンテナンスを頼むこともできるし、自動車技術の知識を持っていて時間に余裕があれば、自分でメンテナンスをすることもできる。事故が起これば、自己責任となる。
 だが、我々の周りには、複雑な人工物が多様、かつ多量に存在する。あらゆる人工物を、所有という枠組みの下でコントロールするのは難しいだろう。
 メンテナンスで重視される検査、監視が所有権との関わりで、誰がどこまでコントロールするかという問題になる。レンタルでも問題は生じる。安全に関しては、そのコントロールに関して所有の絶対性を主張することは難しくなっている。つまり、知識を持っているメーカーに製造物をコントロールする権限を何らかの形で与えないと、(特に長期にわたるメンテナンスに関しては)安全性が確保されないことも生じている。だとすれば、人工物は個人が所有せず、拡大生産者責任の下で、メーカーを中心とするレンタル社会が将来、形成されることもあり得る。自動運転車に関しても、同じ枠組みの下で考えると、メーカーと近いレンタル会社が、事故の大半の責任を引き受けることになる。これは、いわば自動でエレベータを動かしている百貨店や、モノレールの自動運転をしている電鉄会社と同じ責任関係であって、特に違和感はない。
 また、現代のビジネスを見ると、ューザーが人工物を所有することから、サービスを受けるといった形態に移行していることが分かる。例えば、ソリューションという言葉を使ったビジネスはここ一〇年以上前から普通に行われているが、これは、作った製品を売るというよりも、必要とされている技術や製品を適切に提供しようとするビジネスである。
 これは、ものづくりからサービスヘという方向性を先取りするものであったが、このビジネスはある面から見ると、他人の所有物に対して、利便性、安全性という観点から介入していこうとするものである。単にものを売り、所有権が移った後は好きに使ってくれ、というのとは違ったビジネスである。
 サービスの提供とは、所有者が自分の所有物をすべてコントロールできていれば、いらぬおせっかいに近いことになるはずだ。だが、複雑な人工物については、人は所有しているとしても、使い方をよく分かっていないことが少なくない。だから、このようなサービスが機能する。
IoT時代の所有権
 同様のことは、loTの事例にも見ることができる。
 例えば、GE社は自社製の航空機エンジンにセンサーを装備し、そこから得た稼働データを集めることによって、保守点検、さらには稼働の効率化に関しても提案が行えるようにした。つまり、航空機の運航者でなく製造業者が、設置した機器の多様で詳細なデータを集め、それを分析することを通じて、より効率的な運航を提案するのである。パイロットが飛行機を運航するというよりも、エンジニアがタービンの動きを調節するというイメージだ。この時、コントロールの主導権は、エンジンの所有者たる航空機の運航者のみならず、メーカーであるGEも持つことになる。
 機械や設備がうまく動けば、機械の所有者にとってはありかたいことである。トラブルが起こる前に対処したり、またトラブルが起こっても短い時間で対処できるということは、その機械を使って生産している製品を、常にうまく作ることができるということも意味している。そして、この段階に、所有者ではなくメーカーが関わろうとしている。機械・設備を売る会社が、顧客企業の生産管理の大きな部分に関与することになるのだ。自社が販売した建機の状態を遠隔で監視し、交換部品を適切な時期に準備し、稼働率を上げるということは、これもloTの事例としてよく取り上げられているが、建設機械メーカーであるコマツが機械稼働管理システム「KOMATRAX」で行ってきたことでもある。
 さて、消費者が人工物を所有せず、サービスを受けるという時、もし、事故や何らかの副作用が起きた時、それに対処するのは一般的にはサービス提供者、あるいはサービスを与えるインフラ提供者だということになっている。例えば、電車という移動サービスにおいて、利用者は、その電車の運行には一切、ノータッチであり、何かしらの機械的トラブルが発生した場合には、電鉄会社というインフラ提供者がそれに対処する。
 だが、現代のソリューション提供といったサービスにおいては、どうだろうか。要求に応じたサービスが得られるのは、ユーザー、消費者からすればありがたい話だが、トラブルの発生とインフラとの関わり方が問題となる。
 もう少し説明しよう。サービスを機能させるには、それなりの機構や装置が必要となる。電気にしても、変圧器や配電のシステムも必要となる。コンテンツ産業にしても、その背後に通信技術があり、そのまた背後には通信線や電波の送受信機といったものがある。つまりは、我々の社会は、インフラという名の人工物のネットワークに依存しているのであり、サービス産業についても、そこから自由に存在しているわけではない。しかも、我々の社会を支えているインフラには、多様な階層があり、それ故、それらを規制する社会制度・システムも多層的にならざるを得ない。当然、コントロールは単純ではなくなる。
 全体を概括的に捉えた場合、インフラという人工物や所有権も含めて、いわば他人に依存した社会にすることは、どの程度、ユーザー目線に適っているのだろうか。財の所有権は残余コントロール権とも言われるが、所有物を自由に使えるという権利や権力を失ってまで、サービスを受けたいというのが、ユーザーの望みなのだろうか。そして、その裏には、インフラを維持するメーカーや規制当局などの力が多層的に働いている。しかも、インフラのコントロールには機器などの監視の仕組みが必要となる。広い意味での、メンテナンスである。ただ、監視においてはプライバシーという問題も発生する。
 政府、企業の介入により、人工物のチェックシステムが多層化する。そして、所有権者、管理者がその人工物についてすべての権力と責任を持つとは、とても言えない状況になる。人工物とともに暮らすことは、様々な管理の複雑性を受け入れざるを得ない社会に生きるということになる。私的所有権という考え方ではけりのつかない、人工物同士のつながりを考慮した社会制度が必要になる。これまでの我々の倫理観、通念は、大きく変容せざるを得ないだろう。

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夕食なし。5日目

今日も夕食なしですね。これで変則5日目。咳は止まらない。

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ロシア・ナショナリズム 領土に固執する民族の〝遺伝子〟

『ロシア・ナショナリズムの深層』より 領土に固執する民族の〝遺伝子〟
ロシアによる周辺諸国への干渉や領土の併合などの国際紛争の背景では、いずれの場合も「ロシアの民族主義が決定的な役割」を果たしている。しかし、それは「ソ連崩壊という政治的出来事の反動として惹き起こされた一時的現象」と見るだけでは十分とは言えない。
ロシア人が国際社会で何を考え、どのように感じ、どのように行動するかを真に理解するには彼らが生きてきた幾世紀もの過去の歴史に遡って「普遍的な思考や行動の類型とその原因」を知ることが欠かせない。
歴史体験--弱者から強者への逆転
 ロシア人を対外行動に衝き動かす最も特徴的な原動力となっているのは歴史体験を通して形成された「領土への飽くなき固執」である。
 東スラヴ族の祖先はユーラシア大陸の中央部に生きて民族の形成期に幾多の外敵から絶え間なく襲撃を受けた。ロシア人は「種の保存」本能にも似た「民族の防衛本能」を強めざるを得なかった。
 やがて周辺民族との間の力関係が逆転すると、彼らは強者の立場から周辺の異民族を征服するようになった。それは「弱者体験」の消し難い〝遺伝子〟が逆に無意識に〝強者〟の「攻撃的防御の本能」を刺激しているようにも見える。
 ロシアの歴代の政府はそれを民族や国家を防衛するための「〝防御〟としての先制攻撃あるいは国境線の拡張、緩衝地帯の確保」として説明する。さらに、この論理を飛躍させ西ヨーロッパ列強国との間に「勢力圏の分割」の密約を何度も機会あるごとに繰り返してきた。
  (「勢力圏の分割」の取り決めの実例-アレクサンドル一世、パーヴェル帝とナポレオン、ポーランド分割、スターリンと  ヒットラー、スターリンとチャーチル、米英ソのヤルタ会談など。)
 ロシアは今でこそ〝大国〟だが、国際社会で大国として際立った役割を演じるようになったのは近世以降のここ数世紀のことに過ぎない。ロシアはソ連崩壊後の今でも世界最大の領土を保有しているが、五〇〇年程遡るとフランス並みの国土の中に十数の諸公国が群雄割拠する〝普通の国〟だった。
 ロシア人の民族精神の骨格はそれよりはるかに古い古代や中世に遡って形成された。古代の東スラヴ人は森や大河の流域の平原で農耕を生業として平和な生活を営んでいた。性格も穏和で周囲から入り込む遊牧騎馬民族などの外敵には無防備に近かった。彼らはスラヴの地に来襲しては殺戮や略奪、奴隷の連行を繰り返した。
  (主な異民族の襲来--前六―三世紀にスキタイ人、前二一後二世紀にサルマト人、四世紀にフン族、六-七世紀にアヴァール人、七-八世紀にハザール人、一〇-一一世紀にペチェネグ人、一一世紀にポロヴェツ人が来襲を繰り返した。)
 年代記や周辺諸国の文献によれば、ロシアの最初の統一国家「キエフ・ルーシ」のリューリク王朝は九世紀に西方から渡来した異民族ヴァイキング(ヴァリャーグ)の一族によって建国された。
 一三世紀後半から一五世紀にかけては二世紀半にわたってモンゴルのチンギス・ハーン一族のキプチャク汗国の間接支配下に組み込まれた。この屈辱的な苦難の時代は歴史学上、特に〝タタールの頸木〟と呼ばれる。
 その頸木から解放された後、一五-一六世紀に北辺のモスクワ公国が周辺諸公を併合して中央集権の統一国家を形成した。ロシア人はその頃から徐々に弱者から強者に立場を変えて異民族に支配される側から、周辺の異民族を征服、併合する民族へと立場を逆転させていった。
 一六世紀半ば、イワン四世(雷帝)は国名を「モスクワ大公国」から「ロシア」に変えて、君主の肩書きも「大公」から「ツァーリ(皇帝)」に改めた。彼はかつてロシア人を支配したタタール人のキプチャク汗国の分家筋のカザン汗国(ヴォルガ河上流域-現タタールスタン共和国)を併合し、イスラム教徒の異民族を初めて正教徒のロシア国の中に取り込んだ。これ以後、周囲の異民族を征服する歴史が始まる。
シベリア、極東への進出
 今日のロシアの国土のほぼ三分の二にあたるシベリアと極東のほぼ全域は(局地的な軍事衝突を別とすれば)国家間の大規模な戦争をすることなく探検隊やコサック、小規模な地方部隊の働きでロシアに併合された。
 一五八〇年代にエルマークに率いられた武装集団のコサック部隊がウラル山脈の東方に進出し、一五八五年にシビリ汗国を勝手に征服、西シベリアの現チュメニ、トボリスクなどをモスクワのイワン四世に献上した。これが本格的な東進の始まりだった。
 ロシアの探検家やコサック兵はシベリアを川伝いに進んで一六三七年にはオホーツク海岸に達した。一七四一年にはロシアに仕官したデンマーク人の探検家ベーリングが北アメリカのアラスカに達した。その地にロシア国旗が掲げられ、漁業や毛皮採取の基地が築かれた。
南部での領土拡大--トルコとの戦争
 一八、一九世紀、ロマノフ王朝は西欧化による近代化政策を推進し軍事大国に発展していった。一方、南の大国オスマン・トルコ帝国は旧態依然の政治体制のまま国力が衰退し、ヨーロッパ諸国から〝病める老人〟と陰口を叩かれていた。
 壮年期の新興ロシアはこの〝病める老人〟を相手に一七世紀から一九世紀にかけて約二〇〇年間に十数回の戦争を繰り返した。その殆どの戦争で勝利し、その都度、南部の黒海北岸やバルカン半島で領土を拡大していった。
 第一次露土戦争(一七六八-七四年)後に黒海北岸の(トルコ属領だった)クリミア半島を併合し、半島の南端に黒海艦隊基地のセヴァストーポリ軍港を構築、地中海や中近東への進出の足がかりを築いた。
 その後の戦争でさらに黒海北岸や、バルカン半島南部、黒海東岸を獲得、黒海の出口にあたるボスポラス海峡の自由航行や属領ギリシャの自治拡大をトルコに認めさせた。ギリシャは後に独立を宣言した。
 ロシアはトルコ属領を次々に併合しながら東方世界の覇者になっていく。
  (主な露上戦争-一六九五-九六年。一七一〇-一二年(ロシアとスウェーデンの間の大北方戦争の一部)。一七三五-三九年。一七六八-七四年(↓「クチュクカイナルジ講和」。ドニエプル川河口、アゾフ海沿岸、クリミア半島の一部を獲得。オスマン・帝国属領内の正教徒の保護に関する保障、エーゲ海の航行の自由、賠償金の獲得)。一七八六-九二年(↓「ヤッシー講和」オチャコフ(現ウクライナ)要塞の獲得、黒海北岸のドニエストル川までの沿岸獲得、クリミア半島の併合を承認)。一八○六-一二年。一八二八―二九年(ギリシャ解放戦争↓「アドリアノープル講和」ドナウ川の沿岸部を獲得)。一八五三-五六年=〝クリミア戦争〟。一八七七-七八年(↓「サン・ステファノ講和」、「ベルリン条約」)

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イラクの女性たち 家庭内での女性の地位と処遇

『イラクの女性たち』より 戒律と暴力による女性支配
反米感情やシーア派イスラーム主義政党の支配強化の対象として女性のふるまいや服装が家の外で攻撃されるようになり、女性が伝統的な価値観を重んじざるを得なくなったことについては、すでに触れたとおりである。他方、家庭のなかでは、女性はどのような生活を送っていたのだろうか。社会で暴力が横行するなかで、家庭内では暴力から逃れて生活していたのだろうか。以下、暴力が頻発する社会環境のなかでの女性の家庭内での処遇を考察する。
貧困と抑圧の深化
 紛争中には近親者による家庭内暴力も急増することが報告されている。女性をとりまく生活環境を検証するために、フセイン政権後の経済状況および女性への暴力に関する調査データを以下にまとめる。
 2012年時点のイラクでは、人口約3000万人の23%、約700万人が貧困層(1人1日1・2ドル以下の生活)と言われている。2012年の国連の調査では、食糧支援プログラム受給世帯の40%近くを女性家長世帯が占めているという。
 紛争が続くイラクでは、未亡人の占める割合が高い。正確な数字の入手は困難ではあるが、2011年のイラク計画省および赤十字国際委員会の報告によれば2006年時点でのイラク未亡人の数は人口の約5%にあたる150万人と推定されている。そのうち女性家長の数は約100万人。バグダードだけで30万人を超えると推定されている。母子家庭で収入を得ることが困難であることを考慮すれば、2003年のイラク戦争後に増加した女性家長世帯の間に貧困が広がっていることがうかがわれる。2012年現在で、15~49歳の男性の就業率は73%であるのに比して、女性は14%以下と極端に低く、さらに女性の雇用条件の悪化も報告されている。このように、家の外での就労が女性にとっては困難な状況である。これは、必然的に婚姻している女性の夫への経済的依存度を高める。さらに、女性家長世帯では、一族もしくはそれ以外からの男性による支援に経済的依存度を高める結果になっている。
家庭内での孤立
 これまで見てきたように、フセイン政権崩壊後は、親米、「非イスラーム的」と見られれば襲撃される恐れがあり、女性は家族から家に閉じ込められがちであった。では、女性にとって家庭内は安全な場所なのだろうか。
 統計局の調査によれば、女性に対して暴力の発生場所をたずねたところ2012年の調査では、女性自身は家庭内(64・2%)と路上(63%)でほぼ同程度に暴力に抵触していると考えていることが示された。常に暴力にさらされて生活していると感じている女性が少なくないことが浮き彫りになっている。家庭内暴力に耐えきれず、家を出た結果、近隣や国内に売られるなど人身売買という新たな問題にも派生している。人身売買に関しては、第7章で詳しく述べる。
 では、女性は暴力についてどう思っているのだろうか。同じ2006年にUNICEFが行った同規模の調査によると、夫が妻に肉体的暴力を振るうことを正当であると考える女性が、結婚経験者を中心に59%を占めている。5年後の2011年に行われた同じ調査でも、50%以上の女性が夫の暴力を正当化している。正当化される場合として、夫に外出先を告げないなど自立した態度をとった場合(39%)、喧嘩をした場合(35%)、子供の世話をしない場合(35%)の3つが理由に挙げられている。2006年と2011年のいずれの調査でも、女性の教育レベルが低いほど、暴力を正当化する比率が高い傾向が見られ、貧困家庭ほど、男性からの女性に対する暴力を受け入れる傾向がある。また、男性の側でも2009年の意識調査で若年層男性の68%が女性に対する暴力は正当化されると考えていることが示されている。現在、フセイン政権時代と比較して貧困化だけでなく就学率の低下も進んでいると推定されている。そうであれば、家庭内暴力も今後また増加していく傾向にあることが容易に推定される。
社会の治安不安と家父長制
 本節で論じてきたことをまとめると以下のように言える。つまり、伝統的な家父長制の関係や宗派支配に基づく女性への暴力や抑圧が、貧困や教育の低下という環境因子によって強化され続けているという構図である。そうであるならば、女性が経済的に力をつけてこの負のスパイラルを断ち切ることが1つの改善策になるだろう。実際、イラクの人権大臣は米国の『タイム』誌とのインタビューで女性の貧困削減が女性の地位向上および人権保障のカギであることを認めている。しかし同時に、イラク社会の現状が「男性が1番の社会」であることを理由に、「男性でさえ仕事につくのが困難な現状で、女性に仕事を与えるのは難しい」と、女性の失業対策が簡単ではない現実も認めている。女性を顕著に優遇すれば、優遇措置をとった当事者である政府だけでなく、優遇された女性自身が攻撃される機会が高まる。改善しようとすれば逆に女性が危険にさらされるというジレンマは解決の難しさの一面を表しているとも言えよう。
 イラク全体では、度重なる戦争およびその後の15年にもおよぶ経済制裁によって、それまでイラク社会で主流であった中関層が姿を消した。第2章で見たように、イラク戦争前後のイラクは、バース党幹部およびその関係者を中心とした一部の富裕層が存在するものの、残りは貧困層となって苦しい生活を強いられていた。イラク戦争およびその後の占領統治の間、国内の治安は悪化し、インフラや国内経済は崩壊同然の状態を続けていた。第7章で詳述するが、国内外への避難者が続出し、その数は、2009年時点で合計400万人以上と推定されていた。避難者は女性が多く、とりわけ女性家長の家庭が多い。国内では攻撃にさらされやすいこと。がその主な理由とされている。
 また、家庭内での暴力の一種として顕著になった現象として特筆に値するのは、女性に対する「名誉殺旭」である。第2章で論じてきたように、フセイン政権末期、フセインは伝統的部族主義およびシーア派イスラーム主義政党からなる、伝統や習慣を重んじる保守派へ迎合する姿勢へと転じ、それまで禁じていた「名誉殺人」を許容する法改正を行った。これによって「名誉殺人」は社会的に受容されるようになった。フセイン政権崩壊後にも、この社会規範は維持され、むしろ強化された。このことは、本章第1節で見てきた女性に対する攻撃の頻発と密接に結び付いている。治安構造が複雑化するにつれて女性が誘拐やレイプの標的とされる機会が増加したのはこれまで見たとおりである。このような暴力の標的とされた女性たちは、家族もしくは一族の恥とみなされ、「名誉殺人」の対象とされた。秩序が崩壊し、家族は伝統的紐帯である部族のつながりに依存性を高めた。そのようななか、一族の恥である性的な辱めに対する伝統的な対処法である「名誉殺人」は、家族の名誉、一族の名誉を守るためのある種わかりやすい防衛手段となった。
 「名誉殺人」に対する理解は、女性の側にもある程度受容されている。しかし、「名誉殺人」に対して他の選択をした女性たちもいる。家族からの逃避である。レイプや誘拐の標的とされた女性たちが、「名誉殺人」から逃れるために家族やコミュニティーからの逃亡する道を選んでいるのである。しかし経済的・社会的に自立していない彼女たちの自主的な思いに基づく「主体的」な選択は、しばしば結果的に人身取引と結びついている。フセイン政権後のイラクでは人身取引が急増しているが、その背景には、このような事情が存在している。「名誉殺人」と人身取引の増加については第7章でより詳しく検証する。
恒常的に暴力にさらされる女性たち--
 イラクに見られた女性をめぐる各組織の闘争および女性に対する戒律の強要は、構造的にはこれまで他国でも見られた現象である。ただし、敵対する宗派の女性をレイプすることが戦略的な攻撃の1つであり報復措置となったイラクのケースは、その最も先鋭的な事例と言えるだろう。同時に、一族の恥とされる性的被害は、「名誉殺人」という手法によって、「正しく」処理され、一族の名誉は守られている。そのような環境のなかで、女性は家に閉じこもり、日々を過ごしている。
 本章で論じてきたように、イラクにおける闘争の暴力化および激化の一因は、米国の支援政策にある。宗派に基づいた民兵組織と覚醒評議会の双方は、米国の支援によって得た資金と武器を手に、暴力を伴う抗争を拡大させ、治安を揺るがし続けたと見ることができるだろう。
 暴力の拡散に伴い、各家庭内での暴力行為も頻発している。国家レペルの秩序崩壊および政治空白が宗派的な政争および暴力的な対立を引き起こし、社会全体に貧困と暴力が存在するようになった。そのような環境で、伝統的な家父長制の影響力が強まり、暴力という形で恒常的に女性が抑圧されてしまった。社会的に孤立する女性たちにとって主体的な行動をとる余地は残されていないようにも見える。他方、政治的な進出や、社会的な変革を目指した女性の動きも見られた。また、暴力的な環境だからこそ、そのような状況から逃避という選択をとらざるを得ない女性たちも少なくなかった。以下第5章、第6章、第7章では、そのような女性の「主体性」に注目し、それぞれの動きおよびその結果を検証する。

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夕食が恐怖

夕食が恐怖
 ムハンマドとの違いは奥さんがハディージャでなかったことぐらい。ふつう、信じられないよね!
 急に夕食なしになった。玉子入り落下が5枚ある。こうなるとわかっていたら、卵タレの納豆を買っておけば良かったと後悔。
歴史上で一番有名な甥っ子はアリー
 アリーが居なかったら、シーア派はなかった。歴史は大きく変わっていた。ソホクリスが何となく。アリーのイメージがする。
アレクサンドロスの墓はアレキサンドリアにあった
 アレクサンドロスの葬列を奪って、アレキサンドリアに持ってきたプトレマイオス。アレクサンドロスは戻るのを嫌ったから、その意思を汲み取ったんでしょう。
使うためにつくる
 売るためにつくるのと使うためにつくるのは何が違うのか? サービスは高度化する。循環型になる。
図書館借本の集計
 新刊書借本集計(18.4~19.3)は1370冊。例年の1500冊超を大きく、下回った。
 1370冊目は『死とは何か』ミシェル・ヴォヴェル
2018年度冊数内訳
 総記 87冊 6%
 哲学 204冊 15%
 歴史 220冊 16%
 社会科学 502冊 37%
 自然科学 55冊 4%
 技術 62冊 5%
 産業 60冊 4%
 藝術 93冊 7%
 言語 14冊 1%
 文学 50冊 4%
累計冊数 25442冊
 総記 2130冊 9%
 哲学 2498冊 10%
 歴史 3147冊 13%
 社会科学 7290冊 30%
 自然科学 1960冊 8%
 技術 1987冊 8%
 産業 1943冊 8%
 芸術 1034冊 4%
 言語 556冊 2%
 文学 2158冊 9%
新刊書争奪戦
 新刊書争奪戦での10時前の行列では、鞄だけ置いていく連中が増えて来た。
 ギリシャでは信じられない風景。そんなものはすぐに誰かが持って行くみたい。パルテノン神殿を遠望できる丘に登るために、ソホクリスの車で駐車したときに、鞄を車にしたままにしていた。
 それに気づいたソホクリスが慌てて、車に戻った。「絶対にダメ!」と言われた。時差ぼけが吹っ飛んだ。

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豊田市図書館の24冊

311『つながる政治学』12の問いから考える
672.1『格差拡大と日本の流通』
319『イースタニゼーション』台頭するアジア、衰退するアメリカ
134.96『ハイデッガーの思惟と宗教への問い』宗教と言語を巡って
336『人間学×マーケティング』未来につづく会社になるための論語と算盤
002『学問からの手紙』時代に流されない思考 入門!ガクモン 人気大学教授の熱烈特別講義
141.7『人が自分をだます理由』自己欺瞞の進化心理学
361『社会学用語図鑑』人物と用語でたどる社会学の全体像
547.48『YouTubeの時代』動画は世界をどう変えるのか
210.04『日本史』テーマ別で読むと驚くほどよくわかる
238.07『ロシア・ナショナリズムの深層』ドストエフスキーの視線から
504『事故の哲学』ソーシャル・アクシデントと技術倫理
336.57『デジタル化の教科書』DX/DIで変わる世界
104『哲学の変換と知の越境』伝統的思考法を問い直すための手引き
901.1『詩学』アリストテレス
331『WTF経済』絶望または驚異の未来と我々の選択
134.3『書評誌に見る批判哲学--初期ドイツ観念論』『一般学芸新聞』「哲学瀾」の一九年
382.71『スタディツアーの理論と実践』オーストラリア先住民との対話から学ぶフォーラム型ツアー
392.34『ヒトラーの特殊部隊 ブランデンブルク隊』
135.5『ドゥルーズ『差異と反復』を読む』
369.31『避難と支援』埼玉県における広域避難者支援のローカルガバナンス
367.22『イラクの女性たち 平和構築におけるジェンダー』
225.05『帝国後のインド』近世的発展のなかの植民地化
230『死とは何か--1300年から現代まで 下』

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社会インフラ「新たな公共」

『格差拡大と日本の流通』より 流通の社会インフラ化
「新たな公共」という考え方
 社会インフラとは経済活動や国民の生活活動を支える基盤であるため、本来は公的資金によって構築され維持される公共財であり、これによって提供されるサービスは狭義の公共サービスである。しかしながら、行政の財政的逼迫や従来は自助や共助とされていた買物支援などへの行政の関与が求められる中、行政だけでは対処しきれず、民間事業者の関与が期待されるようになった。これが民間事業者による社会インフラとしての役割とされるものであり、その基礎にある考え方が「新たな公共」という理念である。
 しかし事業としての利益を追求する民間事業者を活用する上で、当然のこととして懸念される問題がある。それは利益を前提とする民間事業者のボランティアに頼っていたのでは事業の継続が保証されないということであり、また市場ベースの活動として取り組まれていても利益が見込めない場合には撤退されるということである。
 そこで「新たな公共」に関して、事業として採算性を向上させるために、いくつかの提案がなされている。その1つは役割の分担である。行政と流通業だけではな蒼、「交通事業者、個人商店主、NPO、地域住民等の業種横断的なプレイヤー間の役割分担をきちんと行いながら、それぞれの主体の強みを活かしていける仕組み」をつくり、各主体が有するリソースを活用することが提案されている。もう1つは、事業の内容にかかわって、事業者の事業内容に規模の経済性を求めると同時に、物販とサービスのワンストップ販売といった範囲の経済性を推進することや、分配の最終段階(いわゆる「ラストワンマイル」)に共同配送のシステムを導入することなどが提起されている。しかしながら、利益の保証は、逆に言えば、利益が見込めない事業は従来の公共からも除外されることに行き着くという危険をはらんでいる。
 また懸念されることはこのような利益に関することだけではない。「新たな公共」によって提供されるサービスの品質と価格についても、見落としてはならない重要な問題が生じている。以下では従来の公共との比較において、両者の政策執行手段の相違を述べた後、「新たな公共」によって提供されるサービスの品質および価格において生じているいくつかの問題を検討する。
「新たな公共」と従来の公共との違い
 行政と国有企業が独占的に行う公益の提供を従来の公共とするならば、財政難と人口減少や高齢化などによってこれが失われ、小さな政府を目標とする新自由主義的経済政策のもとで再建された民による公益の提供を「新たな公共」とすることができる。よってこれには、不採算とされた国有・国営企業の民営化も、またNPO等へ業務を付託することによる「行政の民間化」や非営利分野を営利企業に開放するための規制緩和などすべてが入ることになる。この新自由主義的経済政策の下で再建された公共=「新たな公共」は、従来の公共とどこが異なるのか。それぞれの政策執行手段や提供される公益の特徴からこれを検討する。
 (1)政策執行手段
  従来の公共においては、政府や自治体などの公共機関と国有あるいは国営企業が公共財を用いることによって、公益を直接提供していた。これに対し「新たな公共」においては、行政は業務の遂行を、契約した営利企業である民間事業者に対して、おもに自前のリソースを使用させながら、法的コントロールによって規制・制御・調整を間接的に行うことになる。その内容は、事業領域の拡張や認可にかかわることであれば、たとえば流通の場合クリーニング取扱い、たばこの対面販売、銀行業免許の交付などであり、また立地や出店にかかわることであれば、まちづくり関連法制の整備と個々の事業者への適用などである。
  直接的であれ間接的であれ、いずれの執行方法も、社会の利益である公益を増やすことを意図したものである。しかし、後述するように、「新たな公共」では、民間事業者を間接的にコントロールすることで得られるサービス内容の特徴に変化が生じている。
 (2)「新たな公共」が提供する公益の特徴と問題点
  民間業者を活用して提供される公益は、効率性の追求や多数の事業者という要因によって、公共機関が提供するよりも低価格で大規模かつ広範囲となる可能性が高い。これが公益の拡大につながっている。しかしながら、その品質は保たれるのか、また低価格で提供されるための原資を確保することに問題は生じないのであろうか。
  ①品質や提供方法にかかわる不安
   公共の事業者ではなく民間事業者が、公共的なサービスを提供する場合、そこには品質や提供方法にかかわるいくっかの不安な要素がある。
   流通の場合、たばこやアルコールの販売免許を拡大したものの、それがいずれの店舗においても同じ基準で守られているのかといった間接的コントロールの有効性、また行政を代行して各種証明書を発行する際のセキュリティにかかわることが懸念される。
  ②価格にかかわる問題
   前述したように、各種証明書の発行料金のように、民営化することによって従来の方法よりも、サービスを低コストで提供できるようになるものがある。この場合、たしかに社会の利益(公益)は増加するのであるが、このように提供されるサービス商品の価値についてはデフレスパイラルが生じることになる。つまり低賃金労働者が提供するサービスは同じ品質であっても、価値が少なくなることで価格が安く提示されるのであるが、これが連鎖すると、公共的なサービスとして括られる商品の一般的な価格水準が低下することになる。サービス商品の低価格提供が可能であるのは、流通業の従事者の賃金の低さと比較して供出される労働の強度が高いことにあるが、これが一般的な水準とみなされることで、公共機関でも低賃金=非正規労働への置き換えが進められることになる。
   民間事業者による公益の提供である「新たな公共」では、民も公もWin-Winの範囲内でのみ公益の提供を行おうとする。公は採算に合わない低価格手数料業務を民に代行させようとし、民は自らの低コストシステムでこれを引き受けながらも法制上の優遇を得ようとする。これがコスト回収の困難さを抱えながらも流通業者が公益の提供を放棄しない理由となっている。しかしながら、この範囲内で進展している事態の中には、上記のような問題が潜んでいる。「新たな公共」によって提供されるサービス商品が有するこれらの特徴は、利用者にとっても、サービス商品を提供する労働者にとっても本当に良いこととは言えないのではないだろうか。
流通の社会インフラ化と「新たな公共」の評価
 社会インフラ化と評される流通業が、社会コストの超過的な負担をしてまでも公共的なサービスを提供し続けている仕組みを考察するために、スローガンである「新たな公共」概念を検討してきた。その意図は、生活=社会インフラ化する民間事業者の典型である流通業の社会インフラ化の意味を、その基礎となっている「新たな公共」という考え方の意義と限界の中に見出すことにあった。
 一般的に、分業社会において商品を提供するという資本の社会的な活動は個人の活動よりもより多くの社会利益をもたらす。これが資本の社会性つまり広義の公益性である。他方でここまで見たように、これとは直接関係なく社会に公共的なサービスを提供するという狭義の公益性があり、これの提供が増大している。
 しかしながら資本は社会からの何らかの要請に応じてより多くの公益を産出することに関しては、私的な利益を優先するため、これに要するコストを労働強化によって賄おうとする。コストを回収できない類型においてこの傾向が顕著となる。つまり、本来の公共でない「民による公共」にもとづく社会インフラの構築はその原資を組織内部からの収奪に求め、労働コストを節減しようとするのである。
 このように資本の公益性は、その構築自体が不安定であり、受益者である消費者にとっても安心・信頼できるものとはならない。このような理由から、資本は制約された公益の提供者になれても、本来の公益の提供者にはなれないと言わざるを得ない。
 ところが、公益の提供が民間事業者に付託される場合、その付託先事業者が重要な社会的役割をはたし、多くの公益をもたらす事業者である場合、この制約された公益でしかないサービスが本来の公益の装いを持って提供されるという現象が生じる。つまり公益性が認められる分野の活動がすべて一括りにされてしまうことになっている。
 サービスの需要者である国民の側からも同様である。国民生活にとって公益性が認められるものすべてが公共とされ、これの提供が民間事業者に付託されている。本来の公共が失われたままで、これが「新たな公共」として再建されてしまい、この公共的なサービスが一般的に流通して、これに国民の期待が集まる仕組みがっくられている。
 公益が増加すること自体は、社会にとって有益であるが、本来の公共が失われた背景をそのままにしておいて良いのであろうか。提供サイドにおいても需要サイドにおいても、このいわば代替から生じた事態が、本来の公共を空洞化させ、その再建を遠ざけ、民営による低コストサービス商品の提供を行うことで、サービス商品の価値を共同で破壊していることになる。これが、民間事業者が提供する公益の限界であり、流通の社会インフラ化の限界でもある。

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フランス革命 世俗的分割

『死とは何か 1300年から現代まで 下』より フランス革命から秩序への回帰へ
革命の指導者たちは、前の世代がサロンで議論していた原理的な諸問題を悲劇的な調子で取り上げざるをえなかった。なぜなら、彼らは「事物の力」にひきずられて、命とりになりかねないと早くから分かっていた冒険に乗り出したのであり、さらにはまた共和二年〔一七九三-九四〕の非キリスト教化運動に際しては、自らの立場をはっきりするように迫られたからである。この意味でもフランス革命は、実践という試練にかけられた啓蒙イデオロギーの最終段階を表している。既成宗教に対する闘いは、エベールの民衆的新聞『ペール・デュシェーヌ(デュシェーヌ爺)』が告発したように、急進派においては、「聖職者のぺてん(欺瞞)」、つまり死や来世をたてにとった恐喝を非難することから始まっている。非キリスト教化運動の最盛期、国民公会の議員ルキニオはロシュフォール〔フランス西部の港町〕で次のように語っている。
市民諸君、来世など存在しないのです。キリスト教徒の言う天上の音楽、イスラム教徒に約束されている極楽の美女、永遠なるもの(神)の荘厳な顔やジュピターの威力、古代人のタルタロス〔ギリシア神話の地獄〕やキリスト教徒の地獄、我々にとっての楽園やギリシア人のエリュシオンの園--サタン、ルシフェル〔反逆天使〕、ミノス〔伝説のクレタ王〕そしてプロセルピナ〔ペルセフォネ、穀物の女神〕、これらは分別ある人間にとっては軽蔑に価する空想にすぎないのです。……死後には、我々〔の肉体〕を構成している様々な分子と、我々が生きた過去の記憶しか残らないのです。
だが啓蒙の唯物論者たちに対して、ロベスピエールとその仲間たちは、道徳と感情の要請という名の下に、次のように反論する。
盲目的な力が人間の運命を司っていて、罪も徳も区別なしに打ちすえるとか、人間の魂は墓の戸口で消え去るはかない息吹にすぎないとか、そんなことを人間に言って聞かせることにどんな利益があるのか。虚無の思想は、霊魂の不滅の思想よりも、より純粋で、より高貴な感情を吹き込むことができるのだろうか。それは、同胞と自分自身に対してより多くの尊敬の念を、祖国に対してより多くの献身を、専制と戦うためのより多くの勇気を、死や悦楽に対するより多くの軽蔑を吹き込むことができるだろうか。有徳の友の死を惜しむ諸君は、彼の最良の部分が死を免れていると思いたくはないだろうか。息子や妻の柩の上に涙を流す諸君は、もはや卑しい埃しか残っていないと言う者によって慰められるだろうか。
このロベスピェールの宣言がその後どうなったか、つまり「フランス人民は最高存在と霊魂不滅の観念を承認する」という公式の宣言となり、たとえ短命であっても承認された教義となり、共和二年プレリアルニ○日二七九四年六月八日)の最高存在の祭典ではパリ及びフランスの全土で祝われたことは周知のとおりである。祭りの成功は、ロベスピェールがエベールやショーメットに対して反撃を試みた舞台裏での闘争[エベールは一七九四年三月、ショーメットは四月に処刑]を、この宣言が覆い隠してしまったことを証明している。実際、死の実践は、革命のただなかにあっては、こうした宣言の裏側に刻み込まれているのである。
ロベスピェールは、こう言ってよければ、霊魂不滅の権利を要求し、後世におけるその取扱いを未来の世代に託してその最後のメ。セージを締め括っているのだが、その自然のなりゆきとして、同胞の意識の中で生き続ける英雄という、幾度も繰り返される主張に辿り着く。霊魂の不滅を信じる者と、それを信じない者とが相まみえるのが、この主張なのだ。おそらくはそこにおいて、この時期の新しい感性は一致を見たと言えるだろう。そうした感性は死せる英雄の葬儀や神格化の盛大な式典において、そして革命の讃歌においても表現されている。
死せる英雄を迎え入れ、幾世紀にもわたって死後の生存を保証するために、フランス革命はパンテオンというあの国民的霊廟を創設し、そこにヴォルテールとルソーの遺骨を移しただけでなく、マラーやルペルティエのような新たな英雄をも祀った。だが一七九二年八月一〇日の死者のような無名の英雄たちもまた儀礼への権利を有している。それは特に英雄的な個人を賞讃するものだとしても、あらゆる善良な市民に対しても開かれている。なぜなら、パリ・コミューン総代ショーメットは葬儀において、「正しき人は決して死なない。彼は同胞の記憶の中で生き続ける……」と刻まれた標石を立てることを決議させている。ここにおいて革命の指導者たちは大きく一歩を踏み出し、時代の新しい態度に適合した、そして貴族的な盛儀とも宗教的迷信の残滓とも決別した、新しい儀礼を創出しようとしている。霊魂の不滅を信じる者たち〔ロベスピェール派〕から、死後の生存を集合的記憶に託す者たち〔エベール派〕に至るまで、ある程度の妥協は可能だった。それゆえ、たとえフーシェがロベスピエールの怒りを買ったとしても、彼が一七九三年九月一九日、ヌヴェール[フランス中央部ニェーヴル県の県都〕で発した有名な条令は、新しい表現形態を捜し求めていた市民的葬儀の最もよく練り上げられた記録文書なのである。
 第四条 各自治体においては、死亡した市民は、どの宗派に属するとも〔関係なく〕、死後二四時間以内、急死の場合は四八時間以内に「眠り」と書かれた葬儀用の布でおおわれ、公務員一名に伴なわれ、喪服を着た友人と、彼の戦友たちの部隊に取り巻かれながら、共同の墓地に定められた場所に運ばれること。
 第五条 死者の遺骸が安置される共同の場所〔墓地〕はあらゆる居住地から隔離され、木が植えられ、その間に「眠り」を表す立像が立てられること。それ以外の徴はすべて破壊されること。
 第六条 宗教的な敬意によって死者の魂へ捧げられたこの場所の入口には以下のような銘文が刻まれること。「死は永遠の眠りである」。
 第七条 死後、コミューンの市民によって祖国に貢献したと判断された者のためには、その墓の上に石で形どった柏の冠を置くこと。
眠りの像を取り払い、壁の銘文を塗りっぶしてしまうなら(これはすぐに実行される)、フーシエは見かけほど偶像破壊主義者ではなく、彼がここでその基礎を築いた世俗的な儀礼の体系は一九世紀になって定着することになる。だがそれはジャーナリストのサラヴィルのような急進派の趣味では全然なかった。彼は次のように書いている。「これらのことはすべて、聖職者たちが然るべき理由があって人生のこの最終段階に与えようとしていた重要性に明らかに関わっている」。
集合意識から死を追放しようとする者たちの非妥協的態度と、終末の儀式を別の形で形式化しようと試みる者たちの、おそらくは現実的な態度との間で、総裁政府期〔一七九五―九九〕における事物の力は、死の儀礼の解体の方向へと傾いたように見える。イデオロギー的な理由、なかんずく前の時期に活発だった革命的情熱が消滅したために、礼拝の根絶によって生じた空白が一層つよく感じられるようになった。『わが母の死についての考察』という題の匿名文書は共和七年[一七九八-九九]における儀礼の不在、さらに深刻な、それを担う組織の不在、そして放置され、空地の中の共同墓穴と化した墓地の有様について細々と述べている。これらの悪意に満ちた反響は、現実の有様によって正当化される。革命は、聖職者による死の古い組織を解体したのちに、一時的にすぎなかったとはいえ、死と来世について一貫した、葬儀の新しいモデルを提案していたのだけれども、それは挫折し、あとには大きな空白が残された。……我々は一七七〇年以来、死のまわりで戦わされた大論争を見てきたのだが、フランスにおいては、何百年も続いた慣行の全体系の暴力的な廃絶の結果として生じた、あの眩章が混乱の印象の上に加わる。それは深層においてはさらに進行しているのではないだろうか。当時の人々にとって深刻だったのは、慣れ親しんだ儀礼や身振りの終末だった。より目立だない身振りのレベルにおいても、深刻であと戻りできない亀裂が生じていた。一例のみを挙げれば、新しい相続法が事実上、遺言書を「抹殺」してしまい、平等分割相続によって、遺言書はその後はごく二鄙の少数者にしか必要でなくなる。
こうしたことはフランスにおいてのみ当てはまることだ、と言われるかもしれない。イギリス、あるいはアメリカ合衆国のような、ヨーロッパの中の例外は、結局の所、革命的な非キリスト教化の嵐を知らず、それを遠くから眺めていたか、次の世代になって、それを間接的に、さわりだけを知ったにすぎない。けれども、ヨーロッパの少なからぬ部分、ナポレオン帝国に併合されたか、従属させられたかした国々は、革命とナポレオンの法体系を受け入れた(ライン沿岸地域からイタリア、さらにはスペインを含む)。その痕跡は、啓蒙専制主義の最も大胆なイニシアチブと--いささか乱暴にも--連結しているとはいえ、明らかな転機となっている。革命の「嵐」が去ったあと、最も長く留まったものは、おそらくP・ショーニュが「世俗的分割」と呼んだもの、すなわち死の儀礼と宗教的実践との(地域によってばらつきはあるが)、あの分離であろう。

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