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店舗活性化の危機感

ネットワーク会社が生き残るには

 3年後に、KDDIが生き残るためにはauとの関係が決め手になる。無線LANの技術などで、データ共有させるだけでなく、料金体系を一緒にすることです。SBはケータイしかない。NTTとドコモはくっつかない状態を考えると、KDDI・auの最大の利点です。次期ネットは3年後のメリットも追求させていきます。

 気をつかないといけないのは、SBです。固定網なしで全てができることを狙うでしょう。かなりのことを政府を巻き込んで、NTTに仕掛けてきます。NTTの基幹網だけでなく、NTTそのものをSBの望むカタチに変えようとします。それに対して、KDDI・auの選択できる道はさほど多くはない。料金の一体化という先制攻撃あるだけです。

店舗活性化の危機感

 われわれも販売店の3年後のために何ができるかです。店舗の活性化のために必要なのは、危機感です。お客様とどうつながっていくのか、それをメーカーと対抗して、作っていかないといけない。経営者が考えてもダメです。スタッフがいかに自分の知恵でやっていくことです。そのための環境は提供していきます。

 300人を相手にするには、OneToOneにしても、かなりの道具が必要です。お客様の状況を把握するにしても、リアルでの双方向が必要です。タブレットにしても、面着にしても、その時点で、プル型にしていくしかない。各自がプル型でデータを収集するとなると、かなりのインフラが必要です。その配置をどうしていくのか、そのためのポータルです。そんな設計はパートナーしかできない。

 そして、危機感から幸せ感です。お客様とつながることで幸せになれるか。スタッフが幸せになるか、それをどう解いていくのか。

エネルギーがあると、幸せなのか

 エネルギーがあれば、幸せになれるのか。今のクルマで幸せなのか。クルマは多くの人に迷惑をかけています。やかましいし、場所を取るし、動く。インフラでお金を使う。

 ローコスト・ローエネルギーにして、移動しないで済む方がいい。今から、どう生活を変えていくのかの方が重要です。

ネットワーク会社の能力

 ネットワーク会社はなぜ、あれほど、能力がないのか。まあ、上がやる気がないのでしょう。営業は言ったことをそのまま、書いてくるだけです。それはなぜでしょう。パートナーが決めて、やらせるしかない。パートナーはアイデアがあるし、ファシリテーターとして、販売店から見る目はあります。

 インタープリターとして、販売店の要望を聞き、先を見て、行動することができれば、色々なことができます。

 その内に。組織の邪魔者は居なくなるでしょう。なぜ、組織の連中は考えないのか、先を見ないのか、何のために生きているのかが不明のまま、居なくなるでしょう。

映画「サッチャー」

 世界史と哲学をずっと、見ていた。共に、世界を知ることです。今日はそれだけです。何となく、パートナーの健康管理をしていた感じです。ICレコーダーの入力は避けました。4時半から「サッチャー」です。1000円で済みます。

 映画は6時半前に終わりました。最後は見損なった。ジンジャエールを飲んでいたので、トイレに行っている間に終わっていた。2時間は我慢の限界です。

 鉄の女にしても、認知症はきついですね。年をとることは、輝いた人ほど、きついですね。その後は、労働党のブレアでしたか。確認しましょう。ブレアは回顧録で読みました。偶然が多く絡んでいます。

 フォークランド戦争に、真珠湾攻撃が絡んでいるとは思わなかった。サッチャーは頭が回る。イギリスがEUに参加しなかったことは、今になってみると正解かもしれない。EUで独仏がつぶれても、イギリスは残る。これも歴史のアナロジーです。
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技術員の環境つくり

未唯へ

 パートナー言行録:「一人でお茶すりゃ、いいじゃん。」

 双子のおかあさんとお茶する、軽い約束をしていた。そこに、一緒に買い物に行くという計画を割り込ませた。あの役はどうなったかを双子のお母さんに聞いたことに対して、やはり、割り込んでいった言葉です。

 何となく、久しぶりの太陽です。まんまるです。この間の、月と二つの惑星が並んでいたものは、二つしかなかった。一つはどこへ行ったのでしょう。

 どう見ても、睡眠不足なのでしょう。90分×3回です。だから、8-2は明日にします。夢を見たのは、出張のための切符が8枚です。やはり、気になっているのですね。

 昨日は、グレー、ドット、黒、黒。今日はうぐいす色です。

 ローソンにジンジャーが売っていました。金曜日の午後ですね。

店舗の活性化

 地域の活性化というよりも、店舗の活性化とはどういうことなのかをまとめないといけない。活性化してなかったら、どうなるかもあります。

 今のままで行くと、メーカーはお客様と直接、つながろうとします。インターネットの世界では可能です。集まってきた情報をスマートセンターで処理できるか。できるはずがない。

 一番できないのはアクチュエーター、お客様に行動する部分です。そんなものは一律的なメーカーでできることではない。メーカーができるのはThinkだけです。そして、システムを作ることだけです。実際に行動できるのは、スタッフであり、店舗です。行動を指示するのは、販売店本部です。

 お客さんとつながる時のそのシナリオを使っていかないと、ボリュームに負けます。お客様の要望をメーカーで全て取り上げて、選択・分類するのではなく、現場のレベルを上げて、その場で解決するもの、本部に伝えること、メーカーとの関係などに分けていくことです。店舗の活性化はその先にあります。そのお客様と一緒になって考えるということです。

地域コミュニティに誘い込む

 お客様には地域コミュニティに誘い込みます。一人ひとりのお客様に対応するのは難しい。自分の300人のお客様のコミュニティではなく、同一価値観のコミュニティです。

 ネットの必要性はライブラリです。お客様からの要望に対して、一緒になって、考えるための道具です。ライブラリでお客様の状況把握です。お客様データベースから外します。

 それをiCloudのように中核に持っておいて、どのデバイスからも見られるようにする。お客様からも見られるようにしておく。地域コミュニティそのものも、そのライブラリの横に自分たちの状況をつけていく。市民間の横の連絡ができます。各自の状況がわかれば、的確なグループ活動ができます。

技術員の環境つくり

 元々の発想は研究開発部署での技術員の環境づくりです。道具に縛られずに、環境を作ることが私の研究テーマでした。一緒に考えるために、技術員の主査とか課長を指定して、参画してもらいました。皆、問題意識を持っていました。

 技術者が実験室に対して、どんな指示をして、解析をしているかを半年かけて分析しました。そのためのデモ環境を作るのに、やはり、半年かけました。そのときにUNIX、MAC、光回線を使いました。

 MACのソフト群は強力でした。グラフにしても技術者に合わせて、5種類のソフトを検証して、渡しました。実験室のデータをCADとかモーターショーにもつなげた。その際も、技術者と一緒になって実データで行いました。今まで、メインフレームに依存して、待ちの状態だったものを自分の分野のデータベースを作り、解析し、レポートしたものを蓄積していった。その段階で、役員にプロモーションをして、全員が利用可能人あるだけのお金を貰ってきました。説明は実際に環境を使っている技術者なので、インパクトは十分でした。

名古屋での状況

 そういうことを販売店でいかにやるのか、が名古屋に来た時の思いでした。名古屋はあまりにもひどかった。過去の成功体験で生きていた。システムはあくまでも直間比率を変えるためのモノしかなかった。
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ナチスヘの道

『世界を変えた哲学者たち』より ハイデガー--ナチスにみた夢の幻

●若者の革命

 それともうひとつ、ナチスは伝統的な右翼ではない。たんなる右翼ではない。

 ドイツの伝統的な保守・右翼は(貴族など)名門一族による国家支配を当然と考える。由緒正しい身分の人間による支配である。

 名門による権威が強調され、年下のものは年上の人間を尊重し服従する。だからどうしても老人支配の傾向も強くなる。ヒトラーやハイデガーのような下層階級出身の人間は支配集団からはずされ、肉体労働は軽蔑の対象とされる。ドイツの帝政時代の貴族支配が伝統右翼の理想である。第一次世界大戦以前のドイツではこうした名門による支配がおこなわれていた。

 ナチスはこうした権威とは別の世界から出現する。ナチスは貴族的な支配階級を信用しない。民衆の下からの大衆運動によってドイツ社会を革命する、これがその目標である。伝統的な保守は肉体労働を軽蔑するエリート貴族の支配であり、老人の支配なのである。「老人どもによる支配を粉砕せよ!」これがナチス運動にエネルギーを供給するのだ。

 ナチスの幹部はみな若かった。ナチスが権力を握ったのは一九三三年であるが、そのときヒトラーは四十四歳、親衛隊隊長・ヒムラーは三十二歳、ナチスの天才的な扇動家・ゲッペルスは三十五歳、ゲーリングは四十歳である。

 年齢構成的には、ナチスの党員には二十歳代の青年が多かった。だからナチス革命は「若者の革命」と呼ばれることもある。ワイマール共和国の指導者たちは、これとは対照的に、みな高齢の老人たちであった。

 名門の老人たちによる支配をおわらせ、労働と自然を賛美し、西欧の技術文明を乗り超える民族共同体をつくる、というナチス社会革命の夢、ハイデガーだけではなく、多くの知識人たちもこれに引き寄せられたのである。
●行動主義

 もうひとつ人びとがナチスに引きつけられたものがある。

 行動主義である。

 ナチスの思想というのは単純なものである。簡単に言えば、「ドイツ民族は優秀だ!」これでおしまいである。そう一貫した思想や哲学があるわけではない。この点ではマルクス主義の方がはるかに洗練されている。

 しかしナチスの行動は早い。議論に余計な時間は使わない。指導者が決断し、決定を下すと、それがただちに行動に移される。

 「ひとつの民族、ひとつの国家、ひとりの指導者」、これがナチスのモトーである。

 ワイマール共和国は民主主義の国家であった。民主主義は時間がかかる。それに政党間の妥協と取引でものごとが決まるから、どのように魅力的な政策であっても、交渉の過程で薄められ、ごく凡庸なものとなってしまう。面倒なものごとは先送りされ、責任をとるものは誰もいない。

 そして民主主義の政治では本当の交渉は舞台裏でなされる。手練手管に秀でた政財界のボスたち、老人たちが舞台裏を仕切ることになるだろう。下々の者たち、若者たちには出番はない。

 民主主義の政治が優柔不断と先送りと取引の政治を意味するとすれば、それにくらべると独裁はときとして純粋なものとみえる。不満をもった人びとは「なにかの希望」のために戦おうとするのであって、民主主義それ自体のために戦うわけではない。

 民主主義の政治ではできないこと、先送りされてしまうようなこと、それを行動主義がごくあっさりと実現するとすれば、民主主義にこだわる理由などどこにもない、人びとはそう考えた。

●決断主義

 ナチスは決断主義であるといわれる。

 「決断する」とはどういうことか?

 「決断する」とは、議論をどこかで停止することである。議論がつくされたわけではないかもしれない。いや、「議論がつくされた」といえるときは永遠にこないであろう。いつだって、「いや、まだまだ」と苦情をいう人びとがいるものである。

 そして決断とはなにが正解であるか、それがよく分からないときになされるものである。正解が単純で明快なものであれば決断の必要はないわけである。そして政治の問題とはすべてなにが正解であるのかよく分からないものである。

 そういうわけで、ナチスは決断する、ひとりの指導者が決断する、その決断を人びとは無条件に受け入れる、そして行動する。これがナチスに特有のスタイルとなる。政治家たちの煮え切らない議論に飽きた人びとはこれを歓迎したのである。
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哲学者がめざすのは世界の理解

『世界を変えた哲学者たち』より ニーチエ……哲学は魂をいやす

●エピクロスは語る

 医者はからだの病気をいやし、哲学者は魂の病をいやす。それが哲学者の仕事であり、これができない者は無用の存在である。古代ギリシアの哲学者エピクロスの言葉である。

 彼の言葉ではこうなる。

 「人間のどんな悩みをもいやさないようなあの哲学者の言説はむなしい。というのは、あたかも、医術がからだの病気を追い払わないならば、なんの役にも立たないように、哲学も、もし霊魂の悩みを追い払わないならば、なんの役にも立たないからである」

 不安に追いかけられている間は魂は健康ではない。魂の病とは魂が不安に満たされている状態である。だから「魂の病をいやす」とは魂から不安を取り除くことである。魂の平安を得ることである。不安がなくなれば魂は平静になる。それが幸福な状態である。

 哲学は幸福をもたらす、私のめざす哲学は魂の治療である、エピクロスはこう言いたいのである。

●理解できないものの存在は私たちを不安にする

 ニーチエの哲学もこれと変わりはない。

 哲学はすべてそれぞれの方法による魂の治療である。

 宇宙を語るばあいでも、ピタゴラスのように数学を問題にするばあいでも、プラトンのように正義の国家を考えるばあいでも、哲学者がめざすのは世界の理解であり、それを通した魂の浄化である。

 というのも、精神が平安を得るためには、まず精神はまわりの世界を理解しなければならないからである。理解できないものの存在は私たちを不安にする。なにが分からないのか分からないとき、人は不安になる。

 「理解できない」ということが分かれば、それも「理解できた」ということである。だから精神は平安をもとめて世界の理解をめざす。

 たとえその理解が世界の終末の理解であったとしても、理解することは魂の平安を可能にするだろう。「どうしようもないことだ」と理解することは一種の救いとなるものだ。そのとき人はそれを運命として受け入れることができるのである。

 そればかりではない。ニーチエは運命を受け入れるだけではなく、それを愛するように、と教えている。それが運命愛と永遠回帰の哲学、ニーチエ流の魂の治療法である。

●病気が病気をいやす

 しかし、魂の病がいやされるためには、人はその前にまず魂の病気にかかっていなければならない。病人だけがいやされることができるのである。

 だがここに面倒なことがある。

 哲学自身が病気の原因であるとすればどうなるのか?

 そのときには、病気によって病気をいやす、ということになる。

 これは不合理なはなしではないか? 治療自体が病気を生み出すのではなかろうか?

 だがおかしなものとみえようと、病人による病人の治療、病気による病気の治療、これが哲学の歴史である。「君は病気だ」と教えてあげるのが哲学者の仕事である、とウィトゲンシュタインも書いている。

 ニーチエの哲学もまたこれと変わらない。

 それになによりも、ニーチエもウィトゲンシュタインも、まず自分自身を治療する必要があった。そこから彼らの哲学が生まれてくる。だから彼らとおなじような病気を経験している人には、彼らの哲学(治療)は効果的であり、よくきくのである。逆にそういう病気とは無縁な人びとには彼らの哲学も無縁となる。

 しかし、どういうわけか、ニーチエの哲学が必要な病人は世界中にどっさりといるらしい。とくに二十世紀にはそういう病人だちがたくさん生まれてきた。あちらにもこちらにも病人だらけ。だからニーチェは人気者となる。
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