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「現代」とはどんな時代なのか

『世界史のながれをつかむ技術』より 「歴史とはなにか」--自分と世界をつなぐもの 「現代」とはどんな時代なのか

「現代」はいつからか?

 〇1945? 1989? 2001?

  さてここからは、いよいよ現代について考えていきたいと思います。

  まずはじめに、現代はどこからはじまるかという問題ですが、もっとも多くの人の賛同を得られるのは、平和な時代を模索することではじまった、第二次世界大戦終結以降になると思います。実際、現在の我々の生活に関わってくる、もっとも大きな歴史的転換点ではあります。しかし、地域や年代によっては違った意見も出てくるのではないでしょうか。

  例えば、第二次世界大戦後、アメリカを中心とする資本主義諸国とソ連を中心とする社会主義諸国による新たな対立軸として「戦闘なき戦争状態」といわれた「冷戦」がはじまりますが、それが終わり、社会主義国家が次々と姿を消しはじめる1989年を現代のはじまりとすることができます。この前後には中国も市場経済導入による改革開放路線に拍巾がかかり、経済の人発展を遂げることになります。現在、行きすぎた資本主義による格差社会が世界中で大問題となっていることからも、1989年を現代の出発点であるといってもおかしくはありません。

  あるいは21世紀スタートの年であり、世界同時多発テロという、「世界の警察」とまでいわれた超大国アメリカヘのイスラム世界からの反発と、その後、世界中がテロという新たな国際問題に直面することとなった2001年も重要な候補になります。「イスラム国」が誕生した要因もこの年といえるのではないでしょうか。

  以上のことも踏まえたうえで、ここでは、あえて第二次世界大戦以後を現代として、この70年の間に起きた変化について見ていきたいと思います。

社会主義は間違いだったのか

 ○世界はよりよくなったのか

  第二次世界大戦を現代史のはじまりと考える一因に、ソ連が第二次世界大戦の戦勝国になったということを背景にして、社会主義国家が続々と誕生したこともあります。世界各国の労働者だけでなく、独立を認められていなかった植民地にも夢を与え、多くの知識人がまじめに期待したのですが、その体制は半世紀と維持できなかったのです。

  いったいなぜ、社会主義はもてはやされ、そして崩壊してしまったのでしょうか。

  ソ連が崩壊してはや20年以上になりますが、社会主義政権が崩壊した今、世界はよりよくなったでしょうか。これに対しては否定的な答えが多いのではないかと思われます。現実の問題として「格差」「貧困」はますます拡大しています。社会主義が目指したのは、そのような矛盾した社会をなくすことにあったはずなのです。

  ソ連にしても中国にしても、どうして社会主義体制を行き詰まらせてしまったのでしょうか。歴史的に見ても、社会主義はけっして新しい考えではありません。貧困などの社会問題のあるところには必ず出てきます。マルクスは「空想的」と批判しましたが、前近代にも社会主義的な世界を求める動きはたくさんありました。プラトンが理想世界を求めたのも、現実が問題だったからです。16世紀のイギリスでT・モアは『ユートピア』を著しましたが、これは当時のイングランド社会の問題(エンクロージャーの進行で、多くの農民が土地を失いました)を批判したものでした。

  ロシア故人叩指導分‥レーニン白身は実際に権力を握った段階で、その体制を維持するには、強力な共産党独裁体制が不可欠だと認識し、それを強引に実行し始めました。彼自身は志半ばで倒れましたが、それを継承したスターリンが、レーニン以上の独裁体制、つまり、共産党独裁ではなくスターリン独裁体制を築きました。これが悲劇のはじまりになったのかもしれません。

 ○停滞の原因はそのまま資本主義にもあてはまる

  スターリンは、ソ連の体制を確立するとともに、さらに東ヨー’ロッパに同盟国を拡大することを目指し、第二次世界大戦の勝利によってそれを完成しました。またアジアでも中国で共産党政権が成立しました。社会主義勢力にとっては、幸先のよい門出だったのです。

  しかし、資本主義国家は矛盾の多い世界ですが、社会主義も本質的には変わりません。19世紀以来、工業化の伝統のあったロシアだからこそスターリンのおこなった「計画経済」は成功しましたが、農業社会であった中国でそれをやっても成功する保証はありません。なによりも問題は、現場を見ない中央からの指令ですべてが決定されるというシステムでは、人間の生産意欲をそいでしまうことです。モチベーションもイノベーションもない世界ができてしまったのです。

  社会主義経済は国家主導でおこなわれます。運用の仕方では大変に効率的になるのですが、諸国でそれに失敗しました。逆に、1929年にアメリカで始まった恐慌を乗り切るためにF・ローズベルト大統領が打ち出したニュー・ディール政策は資本主義経済のなかに社会主義的要素を導入したものになります。

  つまり自由主義経済に統制を加え、国家主導の経済政策を推進したのです。社会主義化するのではなく資本主義の立て直しを提言したT‐IM・ケインズの理論の実践といわれます。これはある程度の成功が認められるようですが、大成功というにははばかられる結果に終わりました。

  社会主義に展望があるかどうかという問題に戻りますが、弱者救済・格差是正・貧困からの解放という、人間社会の問題の解決には、社会主義というお題目だけでは不可能なようにも思われます。人間の能力・才能・才覚などは多種多様です。市民社会の基本はそれを認めなければならないでしょう。人間の感覚もさまざまです。誠実で寛容な人から嫉妬や悪意の塊まで、さまざまな人々が生きているこの世の中、ひとつにまとめていこうとするのがそもそも無理なのかもしれません。

  旧ソ連では、与えられたノルマを果たすだけで、それ以上のことはいっさいやらない人のことが問題になり、彼らのような態度がソ連崩壊を早めたとも思えます。一方の資本主義社会ではノルマどころではない働き過ぎが、労働者を追いこんでしまうという事態も出てきています。「調和」とか「中庸」という言葉がありますが、これほど実践が難しい言葉はありません。社会主義が崩壊した原因はそのまま資本主義・自由主義を行き詰まらせる要因になるかもしれないのです。
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リーダーに求められる〝付加価値〟


『危機を突破するリーダーの器』より 激変の時代の危機管理--大きな決断の裏にある緻密な情報収集〈織田信長〉 ⇒ サービスの高度化で何が求められるか

リーダーに求められる〝付加価値〟

 IT社会下における企業経営者には、次の六つの条件が必要だといわれる。

 先見力・情報力・判断力・決断力・行動力・体力

 しかし、これだけでは人は動かない。いまの客の動向の一つに、「物にしろ、サービスにしろ、本体だけではダメだ。必ず付加価値がいる。客は、本体よりもむしろ付加価値によって物を買うか、サービスを受けるかを判断する」というのがある。

 本体部分はいまのような情報化社会では、ほとんど知り尽くされている。そうなると、よそでつくる品物やサービスとは、一味違った物を提供しなければならない。この一味違った〝差異〟が付加価値になる。したがって、現在の企業経営の努力は、かなりこの付加価値の創造に振り向けられる。このプラスアルファのことを〝らしさ〟といっていい。

 プラスアルファがなぜ必要かといえば、その〝らしさ〟の創造によって、客が「この品物なら」あるいは「このサービスなら」という〝なら〟の気持ちをもつからだ。客に〝なら〟の気持ちを起こさせるために、企業経営の努力が〝らしさ(よそとの差異)〟の創造に向けられるということだろう。

 これは人間としての経営者やリーダーについても同じである。最初に掲げた六条件は、いわばリーダーの本体だ。本体だけではなかなか人がついてこない。

 経営者やリーダーについても、物やサービスにおけるのと同じようなけ付加価値へが必要なのだ。つまり〝人間の付加価値〟である。リーダーシップに加えるプラスアルファ、いってみれば、その経営者〝らしさ〟のことだ。この〝らしさ〟が人間的魅カであり、また器量である。らしさを発揮することによって、みんながついてくる。

 しかし、この〝らしさ〟を創造するのには、何といっても「進取の気性」が必要だ。みんなを引っ張っていくだけの能動性がいる。それを発揮するには、先の見通しを立てておかなければならない。進取の気性というのは、先見力と同時に、それを実行する力のことである。

激変時代の〝情報〟をどう読み解くか

 信長の進取の気性は、かれの幅広い情報と、その咀嚼によって培われたといっていい。そのきっかけになったのは、何といってもルイス・フロイスほかのバテレンたちだ。バテレンによって、信長は海外文明を教えられただけでなく、国内のことも教えられた。とくに堺の存在は、信長の目を見張らせた。堺の町は、支配する大名はいない。その代わりに会合衆という三十六人の商人によって経営されていた。地域の問題はこの会合衆が相談し、決定した。ただ、戦国時代だから堺の町は自衛上、自分たちの手で堀を掘り、櫓を立てた。そして、浪人を雇って軍事力とした。

 ルイス・フロイスからこの事実を教えられた信長は感動した。大名のいない土地が日本に存在し、そこに住む人々が町の運営をおこなっているということに目を見張ったのである。同時に、町の運営をおこなっているのが全部商人だということにも驚いた。

 信長は堺に接近し、そこの商人と交流した。いわば〝異業種交流〟だ。商人たちは、かれを茶室に案内し、茶の道を教えた。これにも信長は目を見張った。茶室では、大名も商人もない。対等だ。同じ狭い部屋で、水平性を保ちながら茶を点て、それを飲む。亭主と客の奉仕と感謝の気持ちの行き通いを大切にする。

 茶の道は、まさしく日本の文化である。その文化を守りつつ、堺の商人たちは海外に目を向けて国際交流をおこなっていた。信長は、いままで知らなかったものを堺で見た。そして、「これこそ、オレの目指す天下の道だ」と思った。つまり、平和で、秩序が保たれ、固有の文化を大切にしながら、人間の一人ひとりが、ある程度自分のパフォーマンス志向を満たしながら、豊かに暮らしていく。そういう日本にしなければダメだとかれは考えたのである。

 信長は決して戦争好きだったわけではない。日本を一日も早く平和にするために、かれは次々と新しい戦闘方法を案出した。しかしその目標は、あくまでも「衣食足らせて、文化を知る」ということであった。それも衣食住の中に文化という付加価値を加えさせたのだ。モノづくり・芸術家たちが一斉に所を得た。全国的なコ雇用の創出」であり「地方創生」だ。内需が一挙に高まった。かれが創り出した「安土文化」はその後、秀吉の「桃山文化」に引き継がれる。内需だけで日本は空前の経済の成長を起こす。こんな時代は、日本の歴史を見てもそれはどない。現在、国宝級の遺産の多くが安土桃山時代のものだということが、それをよく物語っている。

 そういう意味では、信長の進取の気性はすべてかれの情報力によって得た「同時代人のニーズ」を的確に把握していたことによる。そして同時代人、すなわち当時の日本人の二ーズの最大のものが、「日本を早く平和にしてほしい」ということにある、と認識したことが、信長の群を抜く素晴らしさであったといえるだろう。つまり、かれは同時代人のニーズを最も素早くマーケティングによって把握し、その中で一番要求度の高いものから、実行に移したといえるのだ。
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いまの私の夢は二一世紀の哲学を提供すること

『少年の夢』より

心の傷が法然に仏教の革命を行わせた

 法然がお父さんの死にあったのは十五歳のときです。

 そのときにもう、坊さんになっていたのですが、彼は坊さんになっても隠遁したいと思うんです。世の中がいやでならない。だから、世の中から離れて、孤独者として生きていこうとするんです。

 それで、彼の師匠も隠遁者なんですが、その師匠のところで、猛烈な勉強をするわけです。

 そういう彼が好んで住んだのは、うっそうと木の茂った、じめじめと湿った谷でした。まるで子宮、お母さんの母胎のような感じのところですが、そういうところしか住まない。

 逆に言えば、彼は、母親の胎内に住むというイメージを求めていたのでしょうね。そして、それがさらに、あの世を求める気持ちを強くしたのだろうと思います。

 当時の教えでは、あの世、つまり極楽浄土に行くには二つ方法がある、とされていたんです。

 その一つは、観の行をすることです。

 観の行というのは、極楽をイマジネーションすることなんですね。想像力の訓練です。毎日、極楽を部分から想像していく。極楽の空から、極楽の地から、極楽の池から、極楽の建物から、ずっと部分的に想像して、最後に阿弥陀様を想像する。

 極楽の地を一週間、極楽の空を一週間というふうに、一週間に一つずつ極楽の一部を想像していくわけです。そうすると最後には、本当に極楽浄土が、目を瞑っても、目を閉じても、自分の前にキラキラ見られるようになる。

 それが観の行なんです。

 で、もう一つの方法というのは、お寺に寄付をすることなんですね。

 観の行をするか、寺に寄付をすれば極楽に行けるというのが、当時の浄土観だった。

 そういう古代的な浄土観に対して、法然は、反旗をひるがえすんです。

 これでは、極楽浄土で成仏できるのは、ものすごく暇のある坊さん、しかも道心堅固な坊さんか、お寺に寄付できるだけのお金がある人に限られる。とても一般の庶民は極楽にいけないと考えるわけです。

 では、どうすればいいのか。

 善導という中国の坊さんが書いた本に、口でナムアミダブツと念仏を言えば極楽浄土に行ける、とある。大無量寿経という教典でもそう説かれているのですが、法然はそのことに注目するのですね。

 そして、口でナムアミダブツと言えば、どんな人間でも、どんな悪人でも、どんな凡夫でも極楽浄土に行ける--と説いたんです。

 これは大革命です。仏教の大革命ですね。

 仏教が本当に平等になった。本当に平等な日本仏教ができたわけです。その革命的な教説をつくり出したもとには法然の深い傷がある、と私は思うんです。

孤立する勇気がないと独創的な仕事はできない

 そういう子供っぽさと同時に、勇気がないといけませんね。孤立しても構わない、という勇気。自分は真理につく。真理についたら学会で孤立しても構わない、という気概ですね。

 だいたい、新しい理論がすぐに認められるはずがないんです。だけど、私はどんなに孤立しても間違いはないんだ、それで頑張る。そういう、誠実さがないのは駄目です。それがなかったら学問をやめなさい、と言っていい。

 世の中は、逆に、そんな人は生きられないかもしれない。会社では、孤立しても構わないという人は、困るでしょうね。でも、学問をするには、真理のためには孤立しても構わないという決意がいるんです。

 よく、日本には、想像力や独創性のある学者が少ないと言われますね。

 その原因が、これなんです。

 ヨーロッパ人は、一人でも学説を主張する。それは神を信じているからです。神様は私の昧方なんだという気持ちがある。

 ところが日本人は、神を信じていない。だから、孤立に耐えられないんですね。

 私から見ると、独創的な学説の〝ふもと〟まで行っている人は多いんです。ふもとまで行っているけれど、これをやれば孤立するというので、自ら捨ててしまっている。もったいない話ですよね。孤立する勇気、誠実さと勇気があれば、大きな発見ができるのでしょうにね。

 それと、最後は粘りです。

 ひらめきを体系化するための帰納とか演縄には、本当に、徹底的に調べることが必要になるわけです。徹底的に調べるのは、とても大変なことですよ。しんどいです。

 しんどいことだけど、やっている本人には面白いんですね。面白いけれど、やはり執念がないとつづかない。

 その執念というのは、好きで始めてできるんです。

 子供のような心と、真理に対する誠実さと勇気と、そして執念。こういうものが揃わないと、大きな学説は生まれないんです。

 しかし、それは、やってみると楽しいんですよ。

 どこがいちばん楽しいかというと、新しいことを思いついた瞬間ですね。新しい仮説がひらめくと、三日ほどは最高に楽しい。もう天上に昇るようなフワーッとした、自分が神様に祝福された人間のような気持ちになります。

 しかし、それも三日ほどで、そのあとはひらめいた仮説の実証に取り組むことになる。これがずっと長いんです。途中で駄目になれば、潔く仮説を捨てるか、訂正しなくてはならない。初めに思った通りに行くことなんてまれなんですよ。

 だけど、そうやって調べていくと、だんだんいろいろなことがわかってくるんですね。そして、仮説が徐々に形をとって現れてくる。これはじつに楽しいですね。学者にとっては、この過程が生きがいなんですよ。

いまの私の夢は二一世紀の哲学を提供すること

 そういうふうにして、私は、学問に生きるという夢の人生を送ってきた。哲学という学問をすることが、私の夢なんです。

 哲学というのは、人類はどう生きるべきかということを考える学問です。これは、ある意味では実証できないわけです。人類はどう生きるべきか、人類はどういままで生きてきたか、そして今後はどう生きるべきか--というのは巨大な仮説です。その仮説を提供するのが哲学です。

 まだ、私は、そういう仕事をしていません。これからやっていきたいですね。二一世紀の人類にはまだ、人類が生きるにたる哲学というものが存在していないと私は考えているんです。

 いま世界を指導しているのは、近代の哲学なんですよ。近代の哲学というのは、ベーコンとかデカルトとか、あるいはカントがつくった哲学。あるいはユングやロックがつくった哲学。こんな人たちの哲学に指導されてやってきた。

 ところが、いまの世の中はそれではやっていけないんです。原理が変わらなくちゃならない時期に来ている。新しい哲学がいるんです。それを提供していかなくてはならない、と思っているんです。

 もちろん、かつての哲学者のような、そんな素晴らしい哲学を私が提供できるかどうかわかりません。それはわからないけれど、このいまの世界に、そういう哲学を提供していかなくてはならないということははっきりとわかっています。そういう仕事を、私は、これからしていきたいと思っているのです。

 それが未来の人生の生き方にどういう影響を与えるか、これから頑張りたいと思っているんです。

 まあ、期待していてください。いずれ私の本が出ますから。そうしたら、あのときに梅原がホラ吹いた本がやっと出たと思って読んでください。

 いま、私は六十八歳です。若い時は、太宰治にかぶれていて、長いこと生きるやつは不潔だと考えていたんですよ。四十とか四十五くらいまでに死ぬのがいい。桜の花は、散り際が大事だ。五十以上も生きている人間は不潔だと思っていた。六十七まで生きるヤツなんて風上にも置けぬと思ってましたよ。

 ところが、いま六十八歳です。それでまだ、夢を持っているんですよ。哲学をつくりたいという夢をね。

 これでは太宰に笑われますね。笑われるけど、老醜を省みずに、まだずっと夢を見つづけていきたい。だんだん歳をとっていくだろうし、体力が衰えて頭もボケてくるでしょうね。それでも、夢を見ていきたい。哲学をしたいと思っています。
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岡崎市図書館の10冊

312.3『スターリン秘史--巨悪の成立と展開 第3巻』大戦下の覇権主義(上)

312.3『スターリン秘史--巨悪の成立と展開 第4巻』大戦下の覇権主義(中)

015『学校図書館の挑戦と可能性』困ったときには図書館へ2

016.2『ネット時代の図書館戦略』

389『部分的つながり』人類学の転回

319.2『ASEANを知るための50章』

229.8『チェチェン』平和定着の挫折よ紛争再発の複合的メカニズム

210.7『戦後70年 にっぽんの記憶』

002.7『インタースコア』共謀する方法の学校

135.5『知覚の現象学』メルロ=ポンティ

159.7『男の死に支度』

何と、11冊あります! 10冊制限のはずなのに。ICタグの自動貸出機も通り、出入り口のチェックも通ってしまっている。TRCが運営しているはず。一応、図書館にも連絡。その一冊を貸出状態にしてもらった。
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神をむかえる用意はできているのか

夢見

 「神をむかえる用意はできているのか」起きる直前に声がした。強烈であった。

 超常現象に対して。そうだよね。忘れていた。

中途半端な世界

 よくできているけど、なんと中途半端な世界なのか。人間も車も。そして環境も本も。

 人間は外に向かっている感情しか見えないのが、やっぱり、一番中途半端ですね。内に向かっている思いが見えれば、もっと、楽なのに。初めて、コミュニケーションできるのに。

思いつくもの

 今、思いつくもので一番のモノを頭で探しています。どうみても、コンテンツですね。やり方は多分変わるけど、コンテンツだけはきっちりと表に出さないといけない。

 食べるものに求めたいけど、お金がかかりすぎるのと、その瞬間だけです

皆が中間の存在である

 皆が中間の存在であると考えると、図書館の本もそれを拡げる人もそれに当たります。思いさえあれば場所はなくてもいい。それによって、自由と平等を実現する。

習うものがない世界

 習うものがない世界。そうなっていますね。セミナーも大学院も魅力がない。皆、まやかし。

なぜ、止まらないといけないのか

 車は本当にどうしようもない。動いて、止まって、動いて、止まって。なぜ、止まらなかんの! 頭に来る! 絶対、これは人間の精神に影響を与えている。

第5章仕事篇の前半部分

 第5章は仕事を離れてから、かなり、シンプルになりました。汎用的にもなっています。

 システム設計するのを業務にしました。単純にものを作るだけではない。思いをどう形にするのかということと、全体をどう見ていくのか。次に得たのは循環です。持続可能性とも関係します。循環しない限り、持続しない。

 そして、作るよりも使う。そうなると、それを行う中間の存在がクローズアップされてきた。販売店の機能、活動がどうなっていくのか。それを汎用化しないといけない。そこで、中間の存在の環境を作り出した。皆の思いをカタチにするのか、中間が何をするのか、循環するマーケティング。

 それを仕事と言うことでシステム構成を作り上げた。そこで、コンテンツとか意思決定が出て来た。

第5章仕事篇の後半部分

 5.6「パートナー」はそれを主体的にする人。そこに行かに人間の存在を入れていくのか。それにしても、パートナーが特異な存在になります。結局、人の問題です。この世界とつながるのは、パートナーが居るからです。

 そこまでで一応の道具ができたので、対象をどこにするのかということで、地域を考えた。仕事を超えて、市民の覚醒とか地域インフラとかNPOとかで変えていくこと。

 なぜか、仕事という側面からクルマ社会に来ています。同じアプローチでクルマ社会まで、持って行けるか、一要素になりうるか。
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偉大な「中国精神」と美しい「中国の夢」

『チャイニーズドリーム』より 愛国主義か、民族主義か ⇒ まだ、本気に思っているんだ。歴史は自分で調べないといけない。 

民族精神と時代の精神は、一つの民族が世界の多くの民族の中で生存し発展を続けるための精神的支柱である。「中国精神」が「中国の夢」実現のための力を結集する。

一九八七年に深洲に誕生した華為技術有限公司(ファーウェイ)は、二万元の資金、十数名のメンバーで起業した農村の電話交換機設備の販売業者だが、今日では営業利益三、四百億ドルの世界をリードする情報及び通信ソリューションのサプライヤーとなった。現在、ファーウェイの製品及びソリューションは世界百四十以上の国々で運用され、世界の三分の一の人々にサービスを提供している。

ファーウェイのリーダーである任正非は貧しい家庭に育った、たいへん控えめな人物である。中国の多くの民営企業家には貧困の影が見え隠れする。そして、彼らの苦労と忍耐の経験、堅忍不抜の精神が、創業期の猛烈な精神力と団結力の源になっている。

ある時、任正非と同僚の乗っていた車がぬかるみにはまってしまった。一番に車から降りたのは任正非で、靴と靴下を脱ぐとぬかるみの中に入って車を押し始めた。従業員たちはそれを見て次々に車を降り、皆で力を合わせて車をぬかるみから押し出した。多くの古参の従業員たちは、当時の光景を思い出すと尊敬の念が湧き上がる。任正非のこういった自ら率先して行動する精神が、物資が極度に欠乏していた当時の会社の劣勢を補い、ファーウェイの従業員たちを全力で仕事に打ち込ませ、すばらしい夢の実現のために心を一つにさせたのだ。

任正非は以前次のように述べた。「ファーウェイには後ろ盾がなく、これといった資源もなく、頼れるものもない。精励して経営にあたり、人に頼らず自力で努力し、刻苦奮闘するしかないのだ。いかなる時も外からの誤解や疑いによってファーウェイの奮闘文化が動揺することはなく、いかなる時もファーウェイが大きくなったからといって、ファーウェイの基本である刻苦奮闘の精神を失うことはない。それはファーウェイの魂だ」ファーウェイの従業員たちはもっとわかりやすく「心の中に愛があるからだ。この愛とは、顧客や同僚、家族に対する思いやりや誠実さに表現されるだけでなく、祖国、そして会社に対する情熱と忠誠心にも表れる」と話しか。ファーウェイ従業員の姿には追求、理想、「中川精神」を内包する企業文化と企業精神が現れている。

三卜年間林業に携わってきた李慶会の最大の夢は「青い空と緑の森、清らかな水の流れる美しい自然」である。甘粛省張披市にあるバダインジャラン砂漠の、黄色一色の光景の中にある一列の緑色が人目を引く。それはポプラの林だ。これは李慶会が現地の農民を率いて植樹した平川鎮のプロジェクトで、個人による砂漠植林モデルスポットである。李慶会は、「ここで木を育てるのは赤ん坊を育てるより雌しい。だが、ポプラは土壌を選ばず、環境も選ばない。劣悪な環境でも変わらずよく成長する。陽樹は「贅沢で自堕落な木ではないのだ」と述べた。李慶会は一九八六年に甘粛省農業大学林学院卒業後、ずっと林泉の科学的研究と管理事業に従事してきた。彼は、自分の夢の実現について「それは苦難の過程で、二、三十年の時が必要だ。だが、私の夢は必ず実現する」と話した。

祖国から遠く離れた南スーダンで、第一線で平和維持のための堅い守りを続ける中国南スーダン平和維持活動第十大隊の二百七十五名の政府軍の兵たちは、テレビやインターネットなどのメディアを通して「中国の夢」の報道を目にし、平和に献身し、世界平和維持の一助となるのだとの使命感をさらに強めていた。

初めて平和維持活動に参加した政府工兵部隊隊長の徐孟琳は、「飛行機から降りると、滑走路の片側の濯木の林の中に横たわる二機の撃墜された飛行機の残骸が目に入った。車に乗ってPKOの駐屯地に向かう途中で銃を手にした武装人員を何度も目にした。駐屯地周辺では各種の防衛工事が行われ、高い場所に有刺鉄線が張られており、我々はここが戦いと硝煙の充満する土地であることを常に感じさせられている」と話した。戦争の残酷さを目の当たりにし、平和の尊さを知った。徐孟琳と戦友たちの心の中には、平和と安定のない環境ではすべては意味を持たず、中華民族の偉大な復興という「中国の夢」も実現できなくなるという思いが一層強くなった。すでに四度目のPKO参加となるエンジニアの梁雲海は、中国の国際的地位が上がるにつれて、多くの外国の友人たちが彼らに向けて親指を立て、中国が「世界の舞台の中央」に歩み出てきたことを讃えてくれるようになったと言う。勤勉で聡明な中国人民は今後新たな奇跡を創造し続けるだろう。植樹技術の伝授、道路建設の支援、日用品の寄付……中国のPKO隊員たちは、異国で行動によって平和を伝え、真心で友情を潤し、現地の民衆の信頼と支持を得て、多くの人々の心に美しい「中国の夢」の苗を植えた。「『中国の夢』と我々一人一人は強く結びつき、その実現に皆が生きがいを感じている。平和維持活動の軍人として我々の堅固な守りと貢献は『中国の夢』実現のためのものなのだ」大隊長の崔洪凱はこう述べた。

中華民族の悠久の歴史の中で、いつの時も愛国主義が民族精神を発露させ、中華民族を一つに団結させる核心的パワーとなってきた。時代の精神とは、民族精神継承の基礎の上に、時代の変化に適応し、時代の発展をリードする一種の精神的パワーであり、改革解放の実践のプロセスの中で育まれ形成されてきたものだ。民族精神と時代の精神は中華民族の強大な精神的支柱で、両者が共に支え合い、融合し、共に「中国精神」を構成している。そして、民族の生命力、創造力、結合力の中に深く溶け込んでいる。

「中国の夢」実現の新たな長い道のりの中で、偉大な「中国精神」を大々的に発揚し、中国人の興国の魂と強国の魂を現代化のプロセスに融合すれば、中国は必ずや生気に満ち溢れ、未来に向けて前進し、中国の特色ある社会主義の新天地を開拓していくだろう。
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なぜ先進国では石油消費量が減り始めているのか

『世界と日本のエネルギー大転換』より 古いエネルギー経済の衰退-―石油、石炭、原子力

なぜ先進国では石油消費量が減り始めているのか

 石油の大半は輸送手段用に使われ、うち3分の2は乗用車とトラックの動力源用です。つまり、自動車の利用や自動車の動力への供給方法が変われば、石油消費量は大きく変わるのです。どのような変化がどのような要因で起こっているのでしょうか。

 ミシガン大学のマイケル・シバックは、「米国で1人のドライバーが1年間に車を運転する距離は、2004年から2011年の問に9%減った」と指摘しています。米国国勢調査局のデータに基づく分析から、その理由がわかります。調査の行われた都市部のうち61%では、公共交通機関の利用が増えており、在宅勤務者の割合も増えています。調査対象地域のほぽ全域にあたる99%で、自家用車で通勤する人の割合が減っていました。逆に、米国で公共交通機関を利用する人の数は2000年から2011年にかけて20%増えていることが連邦公共交通局の計測からわかっています。

 20世紀には自動車は米国人のライフスタイルの重要な一部で、若者たちは車で出かけて仲間と会っていましたが、今日では、スマートフォンやインターネットを使って人と付き合う若者が多く、車には興味がないという人も多くいます。20年前には、米国の若者の68%が18歳で運転免許を持っていましたが、今日、免許を取得するのは59%です。全米世帯移動調査のデータによると、35歳未満の若い人たちの運転距離は、2001年から2009年までの間に23%も減っているのです。

 このような個人のライフスタイルや価値観の変化に加えて、自動車がもたらす公害や騒音、渋滞を減らそうと、その利用を制限し始めている都市もあります。シンガポール、ロンドン、ストックホルムなどは、市の中心部に乗り入れる自動車に「渋滞税」を課して、制限を行っています。中国でも、上海が自動車数を制限しようと、1994年にナンバープレートの競売を始めました。車自体よりも高い値がつくこともあるそうです。北京、天津、広州、貴陽、杭州でも自動車の販売台数を制限しています。

増える自転車利用、サイクルシェア

 米国では、この10年間に自転車通勤が全国で38%増加しました。米国有数の「自転車にやさしい都市」ポートランドには、640キロメートルを超える自転車専用道路と、5500台以上収容できる駐輪スタンドがあり、自転車を利用する割合は2000年以降3倍に増えています。しかし、このポートランドでさえ、労働人口のうち自転車通勤者は6%だけです。デンマークのコペンハーゲンでは、自転車通勤者の割合はなんと36%で、今でも増えつつあります。欧州のすべての国で、自転車の販売台数が自動車の販売台数を上回っています。

 利用料金を払って自転車を借りられるサイクルシェアのプログラムがあれば、自転車を持っていなくても自転車に乗れます。米国ワシントンDCには、300ヵ所以上の駐輪ステーションに3000台近い自転車があり、年間1800万人の訪問者と地域の住民が自由に使うことができます。

 世界全体では、57カ国700都市以上でサイクルシェアが運営されています。サイクルシェア運営主体の数がいちばん多いのは欧州ですが、サイクルシェア用の自転車台数は欧州よりアジアのほうが多いのです。

 世界で最も多くのサイクルシェア用の自転車がある国はどこだと思いますか? 中国なのです。中国には50万台を超えるサイクルシェア用自転車があり、多くの人々が利用しています。

先進国の自動車台数は減少へ

 自転車や徒歩、公共交通機関などを組み合わせることで、都市住民は「車のない暮らし」が可能になります。米国での2006年から2011年にかけての調査によると、車を持たない世帯の割合は、100の都市圏のうち84圏で増えています。

 こういった傾向の結果、自動車台数は米国ではここ数年は横ばいで、欧州でも増えていません。日本でも近年、高齢化などの理由もあって、自動車の販光台数が減り始めており、そのうち自動車保有台数も減り始めるでしょう。

 世界全体では、1980年には3億2000万台だった自動車台数が、2012年には7億7000万台に達していました。各国の自動車保有率をみると、米国では、1000人につき786台、イタリアでは682台、ドイツと日本は588台、フランスが582台。対照的に、エチオピアでは、1000人につきたった3台、インドは18台です(インドの自動車市場は急拡大すると予想されています)。

 中国の自動車保有率は1000人につき69台ですが、人口が多いため、2009年には米国を追い抜いて世界最大の新車市場となりました。2013年の中国での新車販売台数は、米国の最高記録である2000年の1780万台を上回る1800万台に達しました。もし中国が米国と同じように「4人につき3台の自動車」を持つことになれば、保有台数は現在の世界中の自動車台数と同じ約10億台となり、汚染と渋滞の大問題が起きることでしょう。だからこそ、中国のいくつかの都市は自動車利用を制限し始めているのです。

 このように、新興市場での販売台数はこれからも伸びていくと考えられていますが、世界全体での成長は減速しており、「世界全体の自動車保有台数は今後数年以内にピークに達する」という予測もあります。

広がるカーシェアリング

 自動車保有台数を減らす方向への大きな推進力となっているのが、世界各地で急速に拡大しているカーシェアリングです。会員は、自動車を時間や分単位で利用できるので、自動車を持つ必要がなくなります。自動車の購入費用も、登録や保険、給油、駐車場、メンテナンスなどの責任を負うことなく、必要な時に車を利用することができるのです。

 米国では2013年、24のカーシェアリングのプログラムに120万人の会員が参加しており、1万7000台の自動車がシェア用に使われていました。2013年時点のカーシェアリング利用者の地理的な分布を見てみると、半数強は北米、約39%が欧州、10%がアジアでした。

 日本ではどうでしょうか? 公益財団法人交通工コロジー・モビリティ財団による2015年3月の調査によると、日本のカーシェアリング車両ステーション数は9451ヵ所(前年比25%増)、車両台数は1万6418台(同33%増)、会員数は68万1147人(同46%増)と、引き続き増加しています。

 市場調査会社フロスト&サリバンは、2013年に世界全体で350万人だったカーシェアリング・プログラムの登録ドライバー数は、2020年には2600万人に急増するだろうと予想しています。北米のある分析では、「カーシェアリング用の自動車1台につき、少なくとも9台の自家用車が通りから姿を消した」とのこと。別の推計では、シェア用自動車1台は32台の自家用車に取って代わるそうです。「人々は自家用車なしで暮らすことに慣れてくると、全般的にあまり運転しなくなる」ことは、カーシェアリングの予期せぬ効果の1つです。
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学歴社会の成立

『日本という国』より

まず一八九五(明治二八)年には、清国(当時の中国の王朝)との戦争である日清戦争に日本が勝ち、清国から当時の日本の国家財政四年分以上にあたる賠償金をせしめることができた。このお金から教育基金がつくられ、国庫からの補助も増えて、一九○○(明治三三)年には小学校で授業料をとるのが廃止になった。

日清戦争の賠償金からお金が教育基金にまわされたのは、国民に教育を広めることがどんなに戦争に役立つかか、じっさいに戦争をやってみてよくわかったことが関係している。読み書きも算数もできない兵隊なんて、近代戦には役立たない。命令文や兵器の説明書も読めない兵隊とか、「百発撃て」と命令されても百まで数が数えられない兵隊ばかりだったら、戦争をするにもすごく苦労するのはわかるだろう。

それと並行しておきたのが、日本の産業の発達だった。それまでは、学校で読み書きや算数を習ったところで、農民の子どもはやっぱり農民になるしか職がないことがおおかった。しかし産業の発達が軌道にのると、工場や会社がたくさんできて、職場がおおくなる。そういう職場に就くためには、読み書きや算数のできる人間のほうが有利だ。

近代的な会社や工場にやとわれるためには、兵隊の場合とおなじく、教育が必要だ。書類の読み書きができない会社員とか、機械のマニュアルが読めない工員とか、数の計算ができない従業員とかは、近代産業ではおよびじゃない。だから、そういう企業とかは、学校を卒業した人間だけをやといたがる。

ということは、学校に行けば、高いお金がもらえる職業に就けるようになったということ。そうなると、親の側も、子どもを学校に行かせようという気持ちになってくる。

明治のなかばくらいになると、「月給取」という言葉ができるようになっていった。喜田貞吉という歴史学者が、『還暦記念六十年之回顧』という本で回想している描写を、ちょっと紹介しよう。

 「……自分の中学時代の月給取は大したものだった。何しろ病気で休んでも、日曜日であっても、乃至夏休みまでも一定の給料が貰へて、其の日稼ぎの労働者や、農民などとはとても比較にならぬ収入があり、世間からは尊敬されて、衆人羨望の的となったものだった。」

 「最下級としては先づ指を小学教員に屈すべく、其の頃師範卒業生の初任給が徳島県で金六円……それでも百姓や職人などよりも遥によい。中等学校の先生となると通例十五円から三十円、そこへ法学士某氏が校長として月給六十円、高等師範出身の某氏が教頭として月給四十円……当時自分等は一ヶ月僅に一円五十銭の賄料で生活し得たのだったから、前者は四十人、後者は三十六、七人を養ひ得た訳なのだ。県令さんとなると更に大したもので、月給正に二百五十円……高給者に対する世間の尊敬も亦著しく、随って其の威力もすばらしいものだった。」

この文章を理解するには、ちょっと説明が必要だ。まず農民や商人は、月給なんかもらえない。農民は収穫の時期までは作物はとれないし、できた作物を売ってお金に換えるまでは基本的に金銭収入はゼロ。商人も商品が売れなかったらその日の収入はゼロだし、日雇いの労働者はその日に働いたぶんの稼ぎをもらえるだけで、病気にでもなったらやっぱり収入がゼロになる。

だけど「月給取」は、一ヶ月にもらえる給料が保証されている。だから当時の「月給取」は、いわばめぐまれた人びとで、あこがれのまとだったわけだ。

そして「月給取」になるには、教員をはじめ政府の公務員になるか、大きな企業に雇われるしかなかった。当時は定期的に月給をくれるような余裕のある職場はまだ少なく、規模の大きな企業か公務員ぐらいしか、そういう仕事がなかったからだ。そういう職業に就くためには、高い学歴が必要だということになっていった。

さっきの喜田貞吉の回想に書いてある給料の値段を、いまのお金の価値に、ざっと直して考えてみよう。まず「自分等は一ヶ月僅に一円五十銭の賄料で生活し得た」というのを、「一ヶ月に一五万円の仕送りで生活できた」といいかえてみよう。

そうすると、小学校の先生の初任給六円というのは、初任給六〇万円ということになる。たしかにこれは、「百姓や職人などよりも遥によい」はずだ。そして小学校の先生になるためには、師範学校という、教員養成学校を卒業しているという学歴が必要だった。

この調子で、換算を続けてみよう。「中等学校の先生となると通例十五円から三十円」というのは、月給一五〇万円から三〇〇万円。「法学士」というのは大学の法学部を卒業した人のことで、これが「校長として月給六十円」というのは月給六〇〇万円。それから高等師範卒業の教頭が「月給四十円」は月給四〇〇万円。

それから「県令さん」というのは、いまの県知事のこと。戦前の日本では、県知事は選挙で選ぶのではなくて、大学を卒業した高級官僚が、政府から任命されて赴任するものだった。これが「月給二百五十円」ということは、月給二五〇〇万円ということになる。

ちょっと乱暴な換算だったけれど、学歴の差が、どれほど収入の差につながっていたか、少しはわかってもらえたと思う。師範学校を出て小学校の先生になれば、月給六〇万円。さらに高校を出て大学を卒業し、高級官僚になって県令にでもなれれば、月給二五〇〇万円。喜田が「高給者に対する世間の尊敬も亦著しく、随って其の威力もすばらしいものだった」と書いている理由も、わかるだろう。

こうなると、学校に行く子どもは、急上昇で増えていった。一八九〇(明治二回年にはまだ四〇パーセント台だった小学校の就学率は、一九○二(明治三五)年にはほぼ九二パーセントまで上っている。

そして一九○三(明治三六)年にはそれまで民間でつくられていた教科書を国定で政府がつくるように定められ、一九○七(明治四〇)年にはそれまで四年制だった小学校が六年制になる。だいたいこれで、戦前から現在につながる小学校教育の原型ができあがったといっていいだろう。

こうして小学校の就学率があがり、さらにはみんながよい給料をもとめて、中学校や高等学校、大学などをめざすようになる。その進学競争は、もう明治の末や大正時代には一部で問題になるくらい激しくなっていたのだけれど、それはある意味でかぎられた層の人びとの話たった。戦前の義務教育は小学校だけだったから、経済的な余裕かなくて、「上の学校に行くくらいなら田んぼの手入れをしろ」と親にいわれてしまう子どもかまだまだおおかったからだ。
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朝活

朝活

 7時半から元町スタバにやってきたが、ソファー席が二つとも塞がっていた。30分後に席移動。

 今日は30冊です。岡崎図書館が整理日に入っていて、休館です。豊田市図書館の30冊だけです。月末で新刊書の冊数が少ないのと、文庫本・新刊書が主です。一つのバックで済むぐらいです。

 サイゼリアと駅前スタバでどうにか読了しました。
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未唯空間小項目見直し 4.歴史

民主主義

 民主主義
  共有意識
  アラブの春
  皆がつながる
  民主主義

 自由を保証
  自由を求めて
  中央集権
  中間の存在
  自由を保証

 全体主義
  民主主義が母体
  全権掌握
  沈黙の螺旋
  全体を支配

 共産主義
  ロシア革命
  毛沢東の戦術
  共産党の体制
  中間層は分裂

国民国家

 グローバル化
  民主主義化
  覇権争い
  グローバル化
  格差拡大

 多様化
  イスラム世界
  国家と対立
  国家と戦う
  地域の多様化

 国家
  均一な分配
  独裁の動き
  地域から発信
  地域から変革

 国民国家
  政治制度
  自由の意識
  支配の歴史
  国民国家

歴史認識

 歴史認識
  歴史を把握
  歴史と偶然
  歴史の仮説
  歴史を動かす

 歴史の要素  
  課題
  ローカル
  グローバル
  個人

 意識
  革命家
  民族意識
  宗教意識
  社会意識

 戦争と平和
  国家の形態
  戦争と平和
  国家の選択
  超国家

歴史の動き

 多くの人の幸せ
  自由と平等(格差)
  共有に動く
  周縁から動く
  全てを知る

 歴史の動き
  歴史を知る
  数学で見る
  動きを探る
  存在の力

 循環
  地域の要望
  中間の存在
  課題抽出
  啓示

 分化と統合
  数学モデル
  地域で分化
  地域インフラ
  統合

未来方程式

 未来方程式
  情報共有
  つながり
  市民の覚醒
  知の共有

 意思の力
  国に依存
  連鎖的崩壊
  画一的対応
  地域で自立

 存在の力
  地域組織化
  知識と意識
  共同体主義
  情報共有

 歴史の進化
  3億年の物語
  クライシス
  課題解決
  進化の形態

歴史哲学

 意思の力
  民主主義まで
  全体主義
  専制主義
  国民国家

 存在の力
  観光立国
  グーグルは支援
  自由と平等
  中間の存在

 分化
  市民の覚醒
  自由の認識
  歴史学習
  コラボで行動

 新しい統合
  つなげる
  グローバル化
  国家は統合
  日本の姿

新しい循環

 新しい循環
  市民の分化
  中間の存在
  市民の配置
  行政の変革

 企業の変革
  組織の分化
  持続可能な経済
  儲かる仕組み
  地域インフラ

 国を変える
  国家形態
  フィンランド
  ギリシャ
  トルコ

 国家連合
  EUは再構成
  地中海連合
  アジア戦略
  米大陸連合

市民=超国家

 地域と国家
  地域と国家
  地域インフラ
  サファイア社会
  情報共有

 市民と国家
  市民と国家
  市民の覚醒
  中間の存在
  国家の危機感

 地域と超国家
  地域と超国家
  SNS
  国を超える
  中国は分割

 市民=超国家
  市民と超国家
  内なる歴史
  歴史の循環
  歴史の真理
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