goo

ライブビューイングのチケットをゲット

無事、ライブビューイングのチケットをゲット。2日前の映画館の開館時にチケット売り場で普通に買う。
ネットよりも売り場を選考させているので、現場で買うのが正解。
17:30から3時間半とすると、21時過ぎ終了。バスは21:30前だから、バスで行こう。
車レスのパターンを決めよう。
 バスの時間、三好経由と衣ヶ原経由
 豊田市のスタバと図書館
 元町のスタバとドンキ
 未唯空間の項目のダブり。一つのものを視点を変えるだけでなく、新しい観点を発券していく。
 詳細が概要につながるカタチをとる。きついのは確かです。
 量と時間との関係。生きている内にできない。どっち道、自分だけのことだから、どうでもいいけど。
 少しでも自分なりの答に近づけたい。変なところから、答えが出てくる気がする。クライシスに耐えられるようにしておくだけのことかもしれない
 それにしても持続力はない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

わたしたちがコンピュータの待遇を法律で規制する日

『ユニバース2.0』より わたしたちは宇宙を創造するべきなのか?
 ロイドは、自由意志を持つためには意識は必ずしも必要ない、少なくとも彼が意識とみなすところのものは必要ないと主張する。本書の第二章では、自由意志を定義しようとすれば地雷原に迷い込むことになるのを見たが、ロイドにとって自由意志を持っているかどうかの本質的な判断基準は、自分か未来に下す決断を予測できないということだ。わたしたちの行動や選択は、脳の中で起こる化学反応のプロセスに至るまで、ビッグバンに始まる一連の出来事によってあらかじめ決定されているのかもしれないし、わたしたちはけっしてその成り行きから自由になれないのかもしれない。それでもなお、昼食をとりにカフェテリアに行って、自分がメニューから選んだものに我ながら驚くこともしばしばだ。ロイドの観点からすれば、それが自由の本質なのである。
 その論文の中でロイドは、決定を下し、「初歩的な自己参照の判断ができる」(自意識ですらなく、自己参照であればよい)コンピュータは何であれ、自由意志があることを示すいくつかの数学的定理を証明した。たとえば、同時に走らせているたくさんのソフトウェアのほかにも、ハードウェアのリソースや、メモリ領域や、入出力のデバイスなどの割り当て方を選択するとき、そのコンピュータのOSは自己参照をしている。OSは、各プログラムが将来的に何をするか、あるいは何か必要になるかを推定するときに、ワードプロセッサーをプログラム番号513、自分自身をプログラム番号42として参照するかもしれない。
 「プログラム番号42が何をしようとしているのかを問題にすることは、たとえプログラム番号42がOS自身であっても、自意識である必要はないんだよ」とロイド。「しかし、そのOSは自己参照能力を持つのだから、自分がやろうとしていることを予測できないということは、数学的に証明できるんだ」
 ロイドは、OSは自分がやろうとしていることを予測できないという「経験をしている」、と主張しているのではない。そうではなく、そのOSは、プログラムとして、「プログラムなりのやり方で」、自分がまだ決断を下していないということ、そしてその決断がどんなものになるかを知らないということを了解している、とロイドは言うのだ。「OSは十分に複雑なので、OSがやろうとしていることを予測するためにわれわれが作ろうとしている心のモデルは、彼らの行動を捉えるためには使いものにならない」とロイド。「その結果、コンピュータとスマートフォンの振る舞いは、人間の振る舞いと本質的に同じ意味において、予測不可能だということになる」
 コンピュータが、わたしたちの心と仕事に巧みに干渉してくるのはこのためだ--コンピュータは自分なりに自由意志を行使しているのである。そのことの倫理的帰結として、わたしたちは近い将来、コンピュータの待遇を法律で規制しはじめなければならないのかもしれない。「こういう問題への取り組みを始めなければならないだろうと思うが、その結果がどうなるかはわからない」とロイドは言う。「そして、われわれが思う以上に、そんな時代がすぐそこまで来ていると思うんだ」
 ロイドと話をして、ペビーユニバースを作ることに関するわたしの懸念はさらに深まった。自分のスマホに人格を認めるまであと一歩だと言うなら、考え、感じる者が、そして苦しむことがわかっている者が生じるかもしれない宇宙を新たに作ることを見直さなければならないのは間違いない。しかし、わたしが倫理について論じるために会った次の人物は、その論法を逆転させるのである。「われわれが作られた存在であっても、生きる意味には影響を及ぼさない」
 一九八○年代に少年時代を過ごしたアンダースーサンドバーグは、当時一般家庭用として普及していたホームーコンピュータ、シンクレアZX81で、小さな太陽系をシミュレーションして遊んでいた。学部を卒業すると、脳にヒントを得た学習のアルゴリズムを使って、人工的なニューラルネットワークのデザインをするようになった。「テレビを見て寛ぐ人もいれば、わたしのように哲学の講義を聞きながらシミュレーションをプログラムする者もいる」と言って、サンドバーグはクスリと笑う。一九九九年のある日のこと、彼は自分のコンピュータからニューラルネットワークをひとつ削除して、「罪の意識に苛まれた」という。「今、小さな生き物を殺してしまったのだろうか」と思わずにいられなかったのだ。
 サンドバーグに会うために、わたしはオックスフォード大学の「人類の未来研究所」[哲学者ニックーボストロムが創設した研究所で、人類とその未来についてのビッグークェスチョンに、数学、哲学、社会科学、自然科学を結集して取り組むことを目指す]にやってきた。スウェーデンのストックホルム出身の彼は、計算神経科学という分野で博士号を取得した。しかし、自分の作ったニュ圭フルネットワークを削除して罪の意識に苛まれて以来、サンドバーグは哲学に重心を移し、現在はシミュレーションの倫理について執筆している。サンドバーグもまたロイドと同じく、人間は自分たちが思っている以上に近い将来、共感を持つ機械をどう扱うべきかという問題に取り組まざるをえなくなるだろうと論じる。それなのに一般の人ばかりか科学者でさえ、この問題に向き合うことには後ろ向きだと彼は言うのだ。
 宇宙を作ろうとしている物理学者たちと話すとき、わたしもまたそれと同じ後ろ向きの態度にぶつかってきた。なかには、実験室で作った宇宙に生き物を創造することの道徳的な意味といった問題は、自分の守備範囲外だとして逃げを打つ人たちもいた。「たいていの人は、よくわからないもののために使える予算があって、その範囲を超えて支出はできないようになっているんだね。残高以上にお金を引き出せば信用にかかわるから、使いすぎるわけにはいかないんだ」とサンドバーグ。「そのせいで、本当は考えなければならない重要な問題にも、口をつぐんでしまう人はたくさんいる」
 ロイドとは対照的にサンドバーグは、スーパーインテリジェントな種族がシミュレーションのプログラムを作り、そこにわたしたちを放り込んだ理由はわかる気がするという。理由の多くは、わたしたち自身がシミュレーションを走らせるときの、ごく普通の事情によるものだ。たとえば、限られた予算を効果的に医療に支出するためにはどうするのがもっとも効率的かを知るのは難しい。人口全体としての健康状態は良くなるが、予算の分配が不平等なせいで、どれかのマイノリティー・グループが悲惨な目に遭う世界のほうが良いだろうか? それとも、たとえ受けられる医療レペルはかなり低いとしても、誰もが平等に医療を受けることのできる公平な社会を目指すほうが良いだろうか?
 それを判断するためには、それら二つの場合について、世の中がどうなるかをシミュレーションしてみるのが役に立つだろう。シミュレートされた存在が意識的な経験をせずにすむうちは、やってみてもかまわない。だが、もしもそれらの存在が進化して知性と感覚を持つようになれば、あなたは自分が作り出した人工的な世界の中に、期せずして多大な苦しみを生み出してしまったのかもしれない。
 たとえばサンドバーグは、イギリスの国家医療制度が予算をどう使うかによって、国民にどんな影響が及ぶかを調べるための比較的小さなシミュレーションがあって、わたしたちはそのシミュレーションの中で生きているということもありうると考える。その場合、シミュレーションの焦点は、医療資源を利用する個々の国民に合わせられているだろうから、宇宙の中のそれ以外の部分は、リアリティーを与えるためにおおまかに書き込まれただけかもしれない。
 サンドバーグは、自分はシミュレーションの一部だと気づくことが、その人の自意識や人生の目的にどんな影響を及ぼすかを考察した論文を書いた。もしもわたしたちが、自分たちを作り出した者の関心は医療にまつわるさまざまな問題を解決することにあり、わたしたちはそのシミュレーションに登場するチェスの駒にすぎないことを知ったとすれば、病気になって頻繁に医者や病院に行くのが自分の道徳的義務だと考えるようになるだろうか?
 サンドバーグは最終的に、スーパーインテリジェントなプログラマーの動機がどうであれ、生き方に関するわたしたちの選択には影響しないだろうと結論した。「われわれが作られた存在だということは、生きる意味には影響を及ぼさないように見えるんだ」とサンドバーグは言う。こんなありもしない状況を論じるのは馬鹿げていると思うかもしれないが、その結論の要点は、わたしたちの現実の生き方にも適合する、とサンドバーグ。つまるところ、わたしたちはシミュレートされた存在ではなく生物学的な人間だと仮定しても、進化はわたしたちの遺伝子をできるだけばらまこうとしてきたのだ。「われわれを作ったのは進化のプロセスだとしても、子孫を増やすことに持てる時間のすべてを費やすべきだという話にはならない」とサンドバーグ。「人生、それがすべてではないからね」

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

わたしたちの宇宙は無数の泡のひとつにすぎない

『ユニバース2.0』より 宇宙の始まりは「無」だったのか?
 わたしたちの宇宙は無数の泡のひとつにすぎない
  リンデとビレンキンは、宇宙の誕生はもはや唯一無二の始まりではなく、ひとつの始まりにすぎないことを見出した。このバージョンのインフレーション理論では、わたしたちの宇宙はただひとつの存在ではなく、フツフツと湧きあがり、それぞれが誕生、膨張、そしてもしかすると収縮を経験する、無数の泡のひとつにすぎない。
  人類は四百五十年ほど前に、コペルニクス革命により宇宙の中心という玉座を追われた。地球の周りを太陽が回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているというのだから。そしてどうやら、わたしたちの宇宙すら唯一の存在ではないのかもしれない。その考えは物議を醸すことになった。第七章で見るように、マルチバースは神を相手取って、手に汗握るつば競り合いを演じることになる。しかしビレンキンとリンデにとってみれば、ほかにも宇宙があったところでとくに不思議はなかった。リンデの言葉を借りるなら、それは地球が巨大な球体で、その上にさまざまな国があることがわかったというのと同じようなものなのだ。
  しかし、しばらく時間を早送りにすると、ビレンキンはもうひとつ、彼によれば「ある不穏なこと」に気がついた。それは彼にとって、人生の意味と自分のアイデンティティーの根幹に関わることだった。マルチバースに関する彼の研究が示唆するところによれば、これら多数の平行宇宙には、わたしたちのコピーが無数に生じるようなのだ。
 わたしたちとまったく同じ歴史を歩むクローン宇宙が存在する?
  クローンが無数に存在するとビレンキンが考えるようになった論理は、しばしば簡略化して次のように説明される。無限に大きく、永遠に存在している宇宙の中では、早晩歴史は繰り返される。したがって、わたしたちひとりひとりには、寸分たがわぬコピーがすでにどこかに存在することになる、と。しかしビレンキンが永遠インフレーションを発見してからほぽ二十年後に、同僚のジャウム・ガリガと一緒にやってみた計算は、そんなおおざっぱな喩え話よりもずっと緻密で高度で実質的だ。
  量子力学によると、どんな有限領域の内部でも、互いに区別できる量子状態は有限個しかない。なぜなら原子レベルのミクロな世界では、エネルギーはある単位の塊になっているからだ(その塊が「量子論」というときの「量子」だ)。エネルギーが連続的などんな値でも取ることは許されていない。このことは、有限な時空領域の内部では、互いに異なる歴史は有限個しかないということを意味する。つまり、過去の出来事として互いに区別できるものは、原理的にさえ、有限個しか存在しないのだ。
  二〇〇一年にビレンキンとガリガが大まかに計算してみたところ、わたしたちの宇宙程度の大きさの領域では、ビッグバン以降に存在できた歴史の数は、匹ほどだった。「これはとんでもなく大きな数です。しかし重要なのは、それが有限な数だということなんです」とビレンキン。
  一方、永遠インフレーションは、わたしたちの領域とそっくりな領域を果てしなく生み出す。「無限にたくさんある領域の中で起こりうる歴史が有限数しかなければ、まったく同じ歴史が繰り返されるしかありません」とビレンキンは言う。「まったく同じ歴史が、です」
  これは、第二章で出会った「量子力学の多世界解釈」に出てくる平行宇宙とは別のものだ。量子力学の多世界解釈は、ある意味、わたしたちの行動が実在を分裂させて、さまざまなバージョンのわたしたちがそれぞれの平行宇宙にいて、その平行宇宙の中で、わたしたちが下したそれぞれの選択が演じられる。一方、インフレーションのマルチバースの平行宇宙に存在するわたしたち自身は、むしろたまたま生じたレプリカに近く、実現可能な運命の数が有限なので、レプリカたちはほぼわたしたちと同じような人生を生きることになるというだけの話だ。時間と場所が違うだけで、まったく同じ人生を歩むレプリカもあるかもしれない。
  しかしその場合でも、「別の時間と別の場所に、同じような人生がある」と述べることにどんな意味があるのかという点にはあいまいさがある。ビレンキンは、第一章で出会ったアインシュタインの相対性理論の教訓を振り返る。相対性理論によれば、宇宙のあらゆる場所で、すべての観測者に通用する「今」を定義することはできない。ものごとに時間順序を与える方法としてすべての観測者が認めるようなものは存在しないし、客観的な同時性という概念も存在しない。マルチバースを支配する普遍的な時計は存在しないのだ。
  時間に関するこのあいまいさは、背景がインフレーションを起こしているせいで光よりも速く遠ざかる二つの泡宇宙を考えるとき、いっそう鮮明になる。それら二つの泡宇宙が、光よりも速い信号を送り合って情報交換することは不可能だから、時計合わせをする方法は考えることさえできない。したがって、別の宇宙で別の時刻に同じ出来事が起こると主張することに意味はない、とビレンキンは論じる。むしろ、クローンたちは今このとき、わたしたちとともに人生を生きているのかもしれない。
 「われわれは唯一無二の存在だという意義が失われる」
  別のわたしたちがどこかに存在して、今この時、同じ人生を生きていると思うと不思議な気持ちになるけれども、わたし自身はそのコピーには何のつながりも感じないので、深く悩むことはない。それらのコピーが存在するのは、単なる偶然のような気がするのだ(それとは対照的に、量子論の多世界解釈では、わたしの選択がコピーを生じさせているのだから、クローンのどれに対しても責任を感じる)。ところが、マルチバースの無数のコピーという考えが、ビレンキンの背筋を凍らせたのだ。それはいったいなぜだろう?
  「本当に動揺したんですよ」とビレンキン。「われわれは哲学の領分に入ろうとしている、いやむしろ哲学の向こう側の、感情の領分に入ろうとしているのです」。なぜ彼は、それほど感情的で、本能的と言ってもいい衝撃を受けたのだろうか? フンョツクだったのは、われわれは唯一無二の存在だという意義が失われるように思ったからです」と、彼は静かに語る。宇宙スケールで見れば、われわれは工場のコンペアベルトに運ばれていく、無数にある同じ製品のひとつにすぎない。それに気づいたことが、ビレンキンの自意識の中核と、彼が存在することの価値の根幹を直撃したのだ。
  「われわれには何の意味もない--宇宙スケールで見れば、地球上のこのコピーは、取るに足りないものでしかないんです」とビレンキン。「なぜわれわれが存在するのかという問題に説明を与え、われわれが存在する理由を知りたければ、自分の身の回りで、つまりわれわれのこの宇宙の中で、答えを探さなければなりません」
  その話を聞いてもなお、わたしはまだピンとこなかった。おそらくわたしが彼と違うのは、わたしたちには自由意志があり、わたしのアイデンティティーは、たまたま起こる粒子の運動や衝突の積み重ねで決まるものではないという思想を支持していることだろう。わたしは、ビッグバンに始まってインフレーションが起こり、やがて星、銀河、惑星、そして人びととわたしを作り出した偶然の連鎖反応には、さはどの意味はないと感じているのだ。だから、インフレーション理論が言うように物理的なコピーがどこかに無数に存在しているからといって、それらはわたしではありえない(わたしたちには無数のバージョンが存在するという物理モデルにおいて、自由意志とは何かという問題は、第九章で改めて取り上げることにしよう)。
  ビレンキンはその後、生命の起源を研究している生化学者で、彼の仕事について読んだという人物から突然の手紙をもらい、存在の意義について彼が気づかされた問題とも「多少気楽に向き合えるようになりました」と言う。その生化学者は、生命が誕生する環境は例外的といっていいほど稀にしか実現しないのかもしれないという問題について深く考えていたが、もしもマルチバースの観点が正しければ、生命は必ずどこかで生じるだろうと思うことができて、気が楽になったと書いていた。その短い手紙のおかげでビレンキンは、人間存在にはやはり意味があるのだと思えるようになり、「わたしたちが住む世界」とされるマルチバースのポケット宇宙とわたしたちとの関係も、より広い視野に収めることができたというのだ。
  「もしも生命が、観測可能なわれわれの宇宙の中でたった一度しか起こらない、きわめて稀なゆらぎがなければ発生しない稀有なものなら、われわれにはかなり大きな責任があります。われわれが大きなヘマをして滅亡でもしようものなら、それで一巻の終わりですから」とビレンキン。「広大な不動産に責任を負っているようなものですね。われわれは消滅するかもしれないし、銀河やその銀河の向こうの広大な領域を植民地化するかもしれない」
  とはいえ、ビレンキンは小さなスケールでのことも考え続けていた。わたしたちが自分で泡宇宙を作り出し、もしかするとそれを植民地化し、その泡宇宙とコミュニケーションを取ったり、そこから資源を調達するという選択肢はないだろうか? 第九章で見るように、リンデもまたそのことを考えていた。しかしなんにせよ、まずはベビーユニバースを作らなければならない。ビレンキンは無から宇宙を作れることを示した。無からでさえ宇宙を作ることができるなら、地球上にあるものを利用するほうが簡単ではないだろうか? まさにその問いに答えようとしていたのが、ダースと彼が指導する学生たちだった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

生涯未婚率上昇と「親ロス」

『定年不調』より 男の孤独、孤立と向き合う
 親との死別でひとり取り残された喪失感を私は「親ロス」と名づけて、このところ、その症状や社会的背景、対応策について、メディアなどで発表してきました。
 各種の報道にあるとおり、50歳までに一度も結婚したことがない人の割合を示す「生涯未婚率」は、年々上昇しています。国立社会保障・人口問題研究所が『国勢調査報告』をもとに算出したデータによると、2015年の生涯未婚率は、男性23・37%、女性14・06%と、過去最高を記録しました。現在の日本では、50歳以上の男性のおよそ4人に1人、女性の7人に1人が未婚者ということになります。
 もちろん、意識して結婚を選ばなかった人、事実婚の人、ひとりで暮らすことを選んだ人など、それぞれ理由や事情はあると思います。その中で、結婚の意思はあっても何らかの理由でしないまま、親と同居してきた中高年の独身男性が、親の死をきっかけに、抑うつ状態やうつ病、更年期障害を発症するケースが目立って増えている、と日々の臨床の場で感じています。
 その一例を紹介しましょう。
 50歳の会社員男性・Eさんは、一人っ子で早くに父親を亡くし、母親との2人暮らしを続けていました。実家が東京都内にあり、通学や通勤に便利だったので、Eさんは就職後も実家を出ることはなく、食事や掃除、洗濯など身の回りの世話は母親がしてくれる生活を送ってきました。Eさんのお話では、「いい女性と出会えばいずれは結婚しようとは思っていたけれど、いまの生活が楽なので、自分から積極的に出会いを求める必要はなかった」ということです。
 ところが、Eさんが50歳になって間もなく、母親が病気で急逝しました。家事をめったにしたことがなかったEさんは途端に日常生活の諸事において難儀しましたが、「それ以上に痛手だったのが、家に帰って話す相手がいなくなったこと」でした。
 また、ご自身の性格について、「内気で親しい仲間はおらず、仕事が終わると自宅へ直帰していました。休日も用事以外は外出せず、自室でひとり、読書やゲームをして過ごすことを楽しく感じるタイプです」と明かされました。
 そんな生活でも、家にいるときは話し好きな母親が何かと話しかけてくるので、とくに不都合は感じていませんでした。ところが、「母親がいなくなった家は静まり返り、急に孤独感が押し寄せてきました。このままひとりの生活が続くかと思うと、何とも言えない不安と寂しさが襲ってきたのです」と言います。孤独感が募ったEさんは次第に不眠や胃痛を覚え、やがて抑うつ症状が強くなっていきました。
 当院ではいま、独身の患者さんをカウンセリングする中で、職場環境や仕事内容にさほどストレス要因が見当たらないため、よくよく話を聞いてみると、1年以内に母親を亡くしたという告白がポロリと出てくるケースが増えています。
 Eさんのように独身で親と同居していた男性が母親を亡くした後、「親ロス」による深刻な症状に見舞われることがあるのです。長年の臨床で得たデータでは、専業主婦が多数派を占めていた、団塊の世代くらいまでの母親は、一般的に男の子には大人になってもかいがいしく身の回りの世話を焼く傾向にあります。
 成人後も同居していると母親からのそうした過保護が定着し、家事はもちろん、生活習慣のありようまでを息子が母親に依存する関係が長く続くことになります。その結果、母親を亡くした後の息子の喪失感や孤独感は一段と深くなるのです。
 医学的に「親族の死」はストレッサーとしての順位が高く、大きな精神的ストレスになります。しかし、親の死の悲しみを乗り越えられずに抑うつ状態やうつ病など心身の病気になるのは、成長過程で親離れ・子離れができず、精神的に自立を果たせていなかったことが一因と考えられます。
 学校の卒業後も親との同居を続けて、親に経済面をはじめとする生活の基盤を依存する独身者を「パラサイトシングル」とも呼びますが、近年は「パラサイトの中年化」が話題になっています。総務省の調べによると、35~44歳で親と同居する未婚者の数は、1980年には39万人でしたが、2016年には288万人と、約7倍に増えています。45~54歳で親と同居する未婚者は2016年には158万人で、同年代の総人口の9・2%にのぼります。
 この数字からは、社会的背景として、バブル経済崩壊後に20年近く続いた不況と就職氷河期の影響で、経済的な問題で実家から独立できず、親と同居せざるを得なかった人が多数いることがわかります。また、いったん実家から独立したものの、親の介護のために再び同居を始めた人や、親に依存せずに同居している人、結婚の意思がない人なども相当数含まれると考えられるので、もちろん全員が親ロス予備群というわけではありません。しかし独身の中高年男性が急増していることを思うと、Eさんのように母親に先立たれた親ロスから抑うつ状態となる人が今後、ますます増えていくだろうことは予想できます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

車レスで何が生まれる

クルマがなくなるということは何かが生まれる。何だろう? 楽しみですね!
そこじゃないでしょう、問題は神宮の天気
第一次選別で14冊残った。厚い本から片付けよう!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人々が孤立する社会

『公民館をどう実践してゆくのか』より 〈ちいさな社会〉をたくさんつくる--公民館を再考するために
 高い未婚率・雇用不安・出産育児の困難をつなぐもの
  確かに問題はある。こんなにいい社会なのに、子どもを産みにくくなっているのも事実である。これだけ少子化が問題視され、子育て支援の必要性が叫ぱれ、保育園の整備が求められているのに、遅々として改善されず、待機児童が増え、子どもを産み育てることが難しくなっているともいえる。
  少子化の原因に、未婚率の高さがいわれることがある。その背後には、若者の雇用不安や自立不安があるともいわれる。七〇四〇問題といわれるような、七〇代の親の年金に四〇代の未婚の子どもが依存しているという状態も、マスコミを賑わすようになってきている。しかし反面、それはまた、結婚しなくても、ひとり暮らしで生活できてしまうほどに、この社会がひとり暮らしに対応したサービスを提供していることと裏表の関係にあるのだともいえる。
  この未婚率の高さと若者の雇用・自立不安、さらに出産育児の困難という現実は、ある一点で相互に結びついているように見える。これまでの産業社会、つまり製造業を中心とした、規模が拡大する社会の観念や仕組みをそのままにして、少子高齢化・人口減少の社会に対応しようとし、その結果、歯車が悪い方へとまわってしまっている、そういうことである。
  それは、人々がこれまでの社会のあり方に依存してしまっていて、そこから抜け出せないということであり、それは端的には、行政や企業そして家族に依存するという考え方や習慣から抜け出せていないこと、そしてその裏には「自己責任」をいい募る社会、つまりともに生活して自立しようとする人々の存在を否定する社会のあり方があることを物語っているのではないだろうか。
 直列していた個人-家族-会社-国
  これまでの産業社会は、人口が増えることを前提として、多くの人々が同じような生活を送ることをよしとする社会であった。経済発展とは、拡大再生産の価値観にもとづいて進められるものであり、そこでは、拡大・進歩・発展・発達が社会の価値となる。
  その社会では、個人と家族と会社と国が直結していたのだといえる。こういういい方を聞いたことはないだろうか。将来、幸せな生活をしようと思ったら、一生懸命勉強して、いい学校に進学して、いい大学に入って、大企業に就職して、一生懸命働きさえすれば、給料は増えるし、税収も増えて、あとはお上が保障してくれる。この社会では、会社と家庭が社会保障の要であった。会社とくに大企業は終身雇用・年功序列で福利厚生を充実させており、家庭では専業主婦の妻が、家事と育児、そして高齢者の介護を担っていた。そして、家庭と会社を結びつけていたのが学校であった。そこでは学歴信仰とでもいうべき観念が人々を支配して、激しい進学競争が繰り広げられてもいた。
 サービス化される公共と消費者化する個人
  その社会では、人々は自分の利益と他者の利益とを競争の関係でとらえ、行政に対しては自分の利益を保障せよと要求する、そういう対抗関係がつくられてきたといってよい。行政も潤沢な税収を背景として、それらの要求に応えてきたことも事実である。この動きに拍車がかかったのは、社会が消費社会へと移行して、それまでの公共施策や措置をサービスととらえ返したことではないだろうか。
  教育も医療も福祉もサービスとされ、個人が自己の責任で要求し、購入するものという観念が強化されることで、人々はともにこの社会をつくっているという感覚を失い、自分が生活するために必要なものは、サービスとして、要求し、購入する、こういう構図がつくられていった。そこでは、納税者は公共サービスを税金で購入する消費者として位置づけられ、行政に対して無理難題をいい募る、いわばクレーマーとして登場する。
  その背景にあるのが、社会が、自分-家族-会社-国が直列となって、みんなが同じ生活を送るという帰属の安心感をもたらしていたそれから、孤食と呼ばれる食事のような、家族であってもそれぞれがばらぱらな時間に生活する、人々が孤立するそれに変わることで、人々自身の生活が安定感を失っていってしまったことではないだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

Uberは私たちをどのように変えたか

『Uberland ウーバーランド』より Uberの新時代
 ドライバー・フォーラムは、こんにち最も重要なふたつの社会的トレンド、すなわち、臨時労働の拡大と社会におけるデジタル通信ネットワークの優位性をUberがいかにまとめあわせたかについて、ひとつの実例を提供する。雇用主は業務委託契約などによって、労働者から距離を置くようになり、Uberもその例外ではなく、ドライバーを個人事業主に分類して、彼らを価値の低い消費者のように取り扱い、アルゴリズムによって管理しているUberは労働の動向を利用し、分散された労働力のなかで、仕事の機会を拡大することによってその身をたてると、アルゴリズムはこの会社が設定するルールを実施する。アルゴリズムはフェイスブックやグーグルといった消費者志向のテクノロジー・プラットフォームでューザーを管理する。雇用主と遠く離れたところにいるドライバーは、デジタル文化に頼って、アルゴリズムの上司から直接得ることのできない情報をクラウドソースする。雇用主が労働者に対する責任を回避するとき、職場文化に隙間が生まれることになるのだ。
 その一方で、インターネットとデジタル文化は、労働者やその他の人々にチャンスの第二の波を切り開き、彼らの抵抗をネットワークでつなぐ。これは搾取を防ぐものではないし、ふ九全に信頼できるものでもない。労働条件が頻繁に変更される可能性がある仕事では、一部の情報--個別の実験、突発的な料金設定ポリシー、テスト機能などに関する情報--は、あっという間に広がる可能性がある。誤報が同じ経路から拡散すると、ドライバーの対話の信憑性は危うくなる。アルゴリズム的マネジメントからネットワーク化された抵抗に至るまでのこうした力関係は、Uberが単に社会の注目を集めるだけの存在ではないことを物語っている。この会社は、足を踏み入れたあらゆる場所で、一連の果てしない波及効果を生みだしているのだ。
 Uberの慣習やその個々の影響のほかに、ウーバーランド全体に何度も姿を現わすテーマは、Uberがいかにテクノロジーの言語を使用して、アイデンティティの役割を破壊しているかということだ。Uberは自らを輸送会社ではなくテクノロジー会社と呼んでおり、この区別を利用して、たとえば、なぜ自分たちが障害をもつアメリカ人法に従う必要がないか、つまり車椅子の人が利用できる輸送手段を提供しなくてもよいかを正当化している。何十万人もの労働者がUberのプラットフォームで仕事を探しているが、Uberは雇用主という役割から距離を置いている。Uberは、ドライバーは独立したアントレプレナーであると宣伝するが、自動化されたアルゴリズムの上司を介して、ドライバーの仕事中の行動をコントロールしていることを覆い隠しているのだ。テクノロジーは「接続しているもの」なので、Uberは自らが提供する仕事とサービスを、シェアリング・エコノミーにおけるシェアの一タイプだと見なしている。事実上、賃金労働の価値を下げ、それを女性化するメッセージである。賃金損失のような問題は、「不具合」などのテクニカルな言語で処理される。価格差別の市場論理は、人工知能のイノベーションとして組みなおされる。私たちがこれと思うものが実は別物だということを主張するために、テクノロジーの言語が修辞的に使われていることを私たちは何度も目にしている。ウーバーランドはテクノロジーのからくりによって動かされているだけでなく、アメリカ文化を実質的に支配しているテクノロジーによる説得によっても動かされているのだ。
 アメリカの労働人口におけるUberドライバーの数は全体としては少ないが、こうしたドライバーは、臨時労働の長期にわたる拡大傾向を拡散し強化するテクノロジーの役割を象徴するようになった。ローレンス・F・カッツとアラン・B・クルーガーというふたりの経済学の第一人者によると、「UberやTaskRabbitなどのオンライン仲介者を通じてサービスを提供する労働者は、二〇一五年には、全労働者の〇・五パーセントを占めていた」ことがわかった。だが、Uberがテクノロジー文化、ビジネス、仕事に与えた影響は、その運営のしくみに劣らずUberの成功のパワフルな文化的手段なのだ。アメリカ社会におけるシリコンバレー・テクノロジーというポピュラー・カルチャーは、私たちにUberの雇用テクノロジー・モデルを受け入れる準備をさせているUberが文化にもたらす不釣り合いな影響は、サービスとして、また常にメディアに注目されるものとしての遍在的な存在を通じて明らかになる。なぜならそれは、対立を引き寄せる磁石のようなものだからだ。そしてUberがドライバーに設定する条件は、私たちが労働の未来において、テクノロジーの役割を取り決める基礎となる条件を決定するのだ。
 Uberのひときわ目立つ共同創業者であるトラヴィス・カラニックは、最終的にシリコンバレーの戦士王を象徴する存在となった。「デカコーン]〔評価額一〇〇億ドル以上の未上場のスタートアップ企業のこと〕としてのUberのステータスと、およそ七〇〇億ドルという評価額にも関わらず、カラニックは二〇一七年、ついに辞任に追いやられた。尽きることのないスキャンダルが、この会社の未来を危うくしたからだ。長年シリコンバレーのジャーナリストをしてきたサラ・レイシーは、二〇一七年七月一四日に、モントリオールで行なわれたスタートアップ・フェスのキーノート・スピーチで次のように述べた。
  シリコンバレーは地元で育った文化です。最高の価値をもつ会社がどこであろうと、それは、この時代のあらゆる文化に不均衡な影響を及ぼします。IPO(上場)直前という立場から、シリコンバレー史上最高評価額の七〇〇億ドルを誇るようになったUberをはじめ、これほどのレベルはかつて目にしたことかありませんでした。全権を創業者が握っているのです。三年にわたるスキャンダルを経て、創業者はついに失脚に至ります。彼らに何十億ドルも稼がせた破壊と違法行為、その評価とマスコミ報道などすべてが原因で--この会社は、タクシー法を破ることと、労働法を破ること、そして企業秘密を盗むこととのちがいがわかっていないことが判明したのです。
 自らの活動に対する規範的規制を適切に遵守するのをUberが攻撃的なまでに無視したことは、シェアリング・エコノミーがアメリカ社会に広めている男性的な破壊の態度のひとつと言えよう。
 とはいえ、Uberの評判が目まぐるしく変化していても、それが必ずしも、Uberがもつもっと大きな遺産に影響を与えているわけではない。Uberの考え方は、社会におけるテクノロジーの望ましさを、私たちがどのように想像するかという点で重要なことは確かだ。世界的高みへと上りつめていくなかで、Uberはテクノロジー楽観主義者の合言葉となった。多くの都市にとって、Uberを迎えることは最先端であることの証しであり、少なくともグローバルなテクノロジー・ビジネス市場の一部であることのしるしなのだ。UberとLvffが二〇一六年五月、彼らに運営条件を課そうとする規制当局の取り組み(データシェアリングやドライバーの指紋ベースの身元調査など)に対する抗議として、すばやく腫を返してテキサス州オースティンから撤退したとき、このことは、「Uberを失ったオースティンは、もはやテックの首都ではなくなった」といった、やたらと批判的な見出しでもってメディアに取りあげられた。シェアリング・エコノミー会社を受け入れることに対して、カナダで最も気が進まなかった主要都市、バンクーバーでは、心配したブリティッシュコロンビア大学の卒業生やコミュニティの専門家らが、二〇一六年一一月末に行なわれた「バンクーバーはなぜシェアリング・エコノミーヘの参入にこれほど遅れをとっているのか?」といったパネルに参加した。
 大都市でUberが不在であることは、その都市の評判に傷をつける。それは、進歩的な仲間に遅れを取っている証拠になるからだUberを利用することは、都市によっては社会の基盤、すなわち、多くの人にとって標準的な民間輸送手段となっている。二〇一七年五月、オハイオ州ペインズビルの地方裁判所判事が、飲酒運転で有罪判決を受けた者に対して、保護観察条件の一環としてUberとr莽をダウンロードするよう命じた。消費者にとって、Uberのない地域へ旅行するという経験は、カルチャーショックのように感じられる。それはまるで、アメリカ人やカナダ人がョーロッパに行って、トイレを使うのにお金を払わなければならないことを知ったときと同じくらい当惑することかもしれない。
 Uberはスマートフォンにダウンロードする単なるアプリというだけではない。それは私たちが街を移動する方法を変える。WhatsAppがブラジルでしているように、またWazeがイスラエルでしているように。ブラジルでWhatsAppを停止することは、国全体の通信を無効にするも同然だ。同様に、肖吋がイスラエルのドライバーに、主要道路を避けよという誤った忠告を流したとき、とんでもない交通渋滞がそれに続いて起こったという。G)ヽ「の考え方とそのビジネスモデルの論理は、すでにcberそのものを超えているのだ。
 私たちは労働者として、そして消費者として、シリコンバレーのアルゴリズムを毎日の生活のなかに統合してきた。Uberのケースは、テクノロジーが思いも寄らない、潜在的に取り返しのつかない方法で、仕事というものを変えてきたことを私たちに示している。シェアリングーエコノミーは利他的な貢献と仕事を合体させ、労働者のアイデンティを疑問に付し、仕事そのものの価値を下げることによって、労働文化に広範囲の変化を普及させた。一方で、cy「は労働者の法的地位に関する自らのビジョンを発展させ、彼らは労働者というよりもテクノロジー消費者に近いということを強調した。一見、法律を尊重しているようなこのニュアンスは、実は、私たちが労働を分類する上での文化的な目覚ましい変化なのだ。
 アルゴリズムによって動かされているUberの雇用モデルは、私たちの労働の定義のしかただけでなく、その組織のされ方をも、テクノロジーがいかに永久的に変えようとしているかを示している。Uberが働き方の定義を変えようとして事業を始めたとは思わない。それよりも、事業の危機を切り抜けようとするとき、Uberは、より幅広い文化的底流を感じとり、それらをどのように効果的に結集すれば自分たちの慣習を守り抜くことができるかを知っているように見える。Uberがその途上で引き起こす対立は、そうした慣習に私たちがどれほど苛立ちを感じているかを例証しているが、究極的には、ひとつのアイデアとしてのC7「の成功は、この会社を一〇億ドル規模でグローバルに現実にしたその慣習を容認しているのだ。そしてUberにいま何か起きているかに関わらず、その変化はすでにそこに存在している。
 Uberとドライバーとの間の対立関係は、私たちの新しいデジタル時代に、労働関係がどのように形成されているかを示す一例だ。消費者のアルゴリズム的マネジメントの隆盛は、シリコンバレーのデータドリブンのテクノロジー全体に普及している。こうしたシステムに出会わずして、毎日の生活を送ることはできない。GoogleマップなどのGPSナビゲーション・アプリは、推奨経路を生成し、交通路をクラウドソースする。フェイスブックはアルゴリズムのエンジンに頼って、私たちが消化する情報をキュレーションしている。私たちは、フェイスブックやグーグルをシェアリング・エコノミーの一部として想像することはない。たとえテクノロジー・プラットフォームが中立性というレトリックによって覆われていても、ウーバーランドは、ューザーを必然的に不利な立場へ追いやらざるを得ないプラットフォームの力を明るみに出しているのだ。
 ドライバーは乗客と同様、この会社のテクノロジーの消費者だというUberの利己的な論拠は、表面的には規制逃れのためのさらなる策略のように見える。つまるところUberは、ルールが追いついてくる限り、方針を変えていくことで名を馳せてきた。だが、よく見ればUberはドライバーを、実際には消費者のようにも労働者のようにも扱っているのだ。こうした境界線をあいまいにすることで、Uberは、私たちが自らを労働者または消費者として考える方法にひとつのレガシーを生みだしているUberはこの戦略的なあいまいさから利益を得ている。というのも、どちらのルールがUberのモデルに適用するかを決めるのは難しいからだ。ドライバーは自分のやった仕事にお金が払われない場合、労働法に基づいて賃金泥棒を申し立てるべきか、それとも、消費者保護法に基づいて、不公平で人を欺くようなやり方に対する補償を求めるべきか? Uberは法律だけでなく規範をも壊し、その両方の脆さを露呈した。Uberが先導するこの新しい規範が、労働者と消費者にとってよりよいものなのか、より悪いものなのか、その答えはまだ見つかっていない。
 Uberの影響は奥深い。この会社が乗り越えるスキャンダルにもかかわらず、そしておそらく、メディアにおけるその持続的な露出ゆえに、口’)aは大衆の想像のなかで、労働の未来として捉えられているのだ。同時にUberのストーリーは、いまやあたり前のものになったテクノロジーによって、私たちがどのように弄ばれているかの一例に過ぎない。端的に言えば、私たちはテクノロジーを使いたいのだから。オーソドックスとは言えないアプローチでUberは数多くの利害関係者--ドライバーから乗客まで、労働者から消費者まで、テクノロジー業界からタクシー業界まで、そして政府や規制当局から市民権運動グループまで--に合わせて、さまざまな方法で活動の場を変えてきた。とはいえ、おそらくもっと重要なのは、Uberがシステムのルールを有利に使うことによって、シリコンバレーのアルゴリズムを利用して労働のルールを書き換えたということだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

禁欲というムスリムの文化

『アルコールと酔っぱらいの地理学』より
 酒・飲酒・酪酸は地理学者に豊かな研究テーマを提供してきた一方、節制の文化、そして夜間経済に喜んで参加する非飲酒者からみた都市再生におけるアルコールの重要性の意義にはあまり注意が払われてこなかったのような禁酒についての歴史的な研究を除く)。しかしながら、ある研究によればイギリスの人口の13%は1年を通じてアルコール飲料を飲まないとされている。いくつかのキリスト教宗派と並び、南アジアにおけるすべての主要な宗教はアルコールの使用を非難しているが、実際には禁欲が広範に実践されているのはムスロノムだけである。ここでわれわれは、コミュニティ内におけるムスリムの態度とアルコールに関係した実践を探究する。そうすることで、ムスリム・コミュニティの節制の文化が、成員の空間へのアクセスや使用のどのような特徴となっているのかに着目する。その際、われわれは非‐人間の行為者としてアルコールによって演じられた積極的な役割を強調しているレイサムとマコーマックに従う。ここでは社会的亀裂が生み出され、新しい排除が作り出される作用を探究することを通じて、表出した社会関係を重視していく。
 最新の国勢調査〔2001年〕によれば、イギリスにおけるムスリム人口は160万人で、最大の宗教マイノリティである。ただし、この数字は実際の人口に対して控えめな見積もりであるとみなされている。イギリスのムスリムの大多数は南アジア出身であるが、それはこのコミュニティが均質であることを意味するのではなく、むしろ文化的・言語的・教義的な違いによって二分されている。ムスリムはしばしば黒人やアジア人の想像上のコミュニティに位置づけられているが、かれらは、人種やエスニシティや国籍などよりも、まず信仰との関係で自身を定義している。それゆえ、宗教的価値観はムスリム・コミュニティにとって不可欠なものである。イスラームはイップが定義するところの「全体的なシステム」であり、それがムスワムを個人的および集合的に、かれらの日常生活のあらゆる観点において導いている。そのため、この信仰は個人の実践とコミュニティのリズムの両方において時空間的な慣習を強力に形づけてもいる(たとえば礼拝のしきたりやモスクヘの訪問、クルアーン〔コーラン〕教育など)。実際、クルアーンは文字通り神の言葉であり、変えたり妥協したりすることはできないと広く信じられている。
 この信仰の教義において明確な理由を提示してはいないものの、イスラームはアルコールの消費を禁止している。そのため、多くのムスリムと同様に、われわれのインタビュー対象者はより広い社会におけるアルコールの肯定的あるいは否定的インパクトにかかわらず、酒を飲まないと説明する。
  イスラームは独自の文化を持っています。それはイデオロギー的な基盤で、飲酒しないことはその一部なのです。飲酒は完全に禁止されていて、それは規則であり法なんです[編集一私が従っている生活の規範はイスラームで、何が合法で何が違法かはクルアーンによって定義されていますし、クルアーンでアルコールは違法とされているから飲まないんです。[編集]私はそれがいつも有利なことだと思っています、クルアーンの教えを守ることが天国に人を導くと信じていますし、それは非常に有利なことだと思っています。(アフズル・モハメド、ストーク・オン・トレント、45~54歳、男性、NS‐SEC4)
  アッラーが禁止しているというので飲酒は禁止されています。理由はありません。特別に与えられた理由は……ないのです。アッラーが禁止されていると言うのですから、禁止されているんです。私たちは・酒を飲むことに加わりません。社会においてわかること、飲酒が社会のなかでいかに問題を作り出しているか、イスラームから見ればそれが禁止されている理由ではないんですがね。禁止されている、それがすべてです。でもアルコールの影響の後で、人びとは、アルコール依存症の人びとは、社会における影響の後で、それが引き起こす問題をもって飲酒しない理由と考えますが、イスラームについて話したり、イスラームに言及したりするなら、私たちが飲まないのはアッラーが禁じているからです……[私は一許されるものと許されないものの規則を遵守しますし、飲酒は許されていないから飲みません。
 この禁欲の文化は社会的な義務によって統制されている。イギリスのムスリム・コミュニティにおいて、緊密に編圭れた家族ネットワークは、特に第1世代の移民にとって、強い統合と調和への期待を生み出している。家族の名誉と両親や目上の者への尊敬を維持することは、信仰の重要な要素とみなされている。クルアーン、シャリーア〔イスラーム法〕、ハディース〔預言者ムハンマドの言行録〕はどれも家族の義務や階層的な家族関係を強調している。実際、イップが指摘するように、クルアーンにおける法的な命令の3分の1は結婚や家族に関係しており、これらの関係がいかに管理され、統制されるべきかを示している。同様に、パキスタン系ムスリムのビラダリ(文字通りの意味は同胞的関係)は、より広い氏族や部族のネットワークや献身に対応している。ここではメンバーに対する支援や連帯の感覚を提供するだけでなく、社会的な義務や期待一切を同時に伴う。このように、コミュニティが禁欲に関する価値観や規範を共有するので、その社会的ネットワークはメンバーの振る舞いを監視し制限する役割を持つ。この種の過程に言及して、コールマンは、(子どもたちが友達同士で親同士が友達であるような)信仰コミュニティのような社会集団が、子どもたちをその「規範」へと社会化し、「世代を超えて閉じられた」価値体系への献身を強めていく両親の能力を支え強化するとしている。たとえば地理学の先行研究は、ムスリム・コミュニティがこの方法でいかに若い女性の服装やその他の身体化されたアイデンティティを規定するかを示してきた。次のインタビュー対象者が説明するように、同様の過程がアルコールの消費との関係でも明らかである。
  正式な取り締まりの形があるわけではないんですが、そういう人たちがいるんです。それぞれのコミュニティにイスラームの核があって、その人たちが出かけていくことで、かれらの存在がたいてい飲酒を防ぐのです。(アフズル・モハメド、ストーク・オン・トレント、45~54歳、男性、NS‐SEC4)
 特に、ムスリム・コミュニティが特定の地区に集中していることと、市の中心部で運行している夕クシー運転手の多くがパキスタン・コミュニティに属していることから、コミュニティの目がいつもストリートに注がれているという感覚がある。いつも潜在的に誰かにみられている可能性があるというこの事実は、飲酒しようとした何人かのインタビュー対象者が、結果的にフーコー的な意味での自己統制が働くと表現していることを意味していた。実際、ムスリムの回答者のなかには、飲酒への誘惑に抗する自分の力や、信仰の規律において感じている自尊心の感覚について述べている人もおり、さらには禁欲による財政的・健康的効能を見出す人びともいる。
 レイサムとマコーマックは、アルコールの持つ作用について、「アルコールの及ぼす影響は、社交性の特殊な型のなかで示されており、都市的なものを通じて存在し関係づける方法、すなわち、酪酎や中毒状態とみなせるような動きや、ジェスチャー、歩行、会話の仕方」にあると論じている。第7章でみるように、さまざ圭な仕方で感情的な激しさを強めるアタコールの力は、飲酒者をリラックスさせたり、楽しませたり、羽目を外させたりする。しかし、飲酒をしないかれらムスリムにとって、アルコールは嫌悪や反感といった感情を生み出し、感情の構造において逆の影響力を持っている。限られた形で飲酒に関わったインタビュー対象者はしばしば、アタコールの味を楽しみやリラックスという感覚を生み出すものというよりは不愉快なものとして表現する。より一般的にいえば、飲酒しない人びとのコメントは、通常と異なる行動をさせる独立した原因物質としてのアルコールの力に対する嫌悪を示している。アルコールは特に好ましく尊敬される個人をうるさく、手に負えない、子どもじみた人物に変えてしまう。そのような振る舞いは、文化的に期待される慎み深さやきちんとした所作とは逆なのである。アルコールが「自信の増幅器」であるために、それは通常なら法を遵守する市民同士の対立や暴力を生み出す、強引なあるいは攻撃的な形で人びとを行動させうると語るインフォーマントもいた。
  〔アルコールは〕基本的にわけのわからないことを話させるし、そう、暴力的になる人もいます……私たちの宗教ははっきりと飲むなと言っていますが、私はなぜそう言われているのかよくわかります。飲酒は人に普段しないはずのことをさせたり、普段言わないことを言わせたりするからです……どのぐらい飲んだかによって、酒は人を完全に変えてしまいます……だから一定量以上飲むと人は人を尊重しなくなるんです、人を尊重しないんです。(ファルーク・フセイン、ストーク・オン・トレント、25~34歳、男性、NS‐SEC2)
 もちろん、どんな信仰でもそうであるように、毎日の実践のなかで常に宗教的な禁忌が忠実に守られているというわけではない。禁欲の文化があるにもかかわらず、パキスタン系ムスワムのなかにはアルコールを試してみたり、あるいは日常的に飲む人もいる。次節では、パキスタン系ムスリム・コミュニティ内での不在の存在としてのアルコールの役割を見ていく。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

豊田市図書館の30冊

368.6『犯罪学大図鑑』
140『ひと目でわかる心のしくみとはたらき図鑑』
493.18『定年不調』
934.7『あなたと原爆 オーウェル評論集』
588『おいしい無印良品。』
019.2『読書教育の未来』
010.2『情報革命の世界史と図書館』粘土板文庫から「見えざる図書館」の出現へ
379.2『公民館をどう実践してゆくのか』小さな社会をたくさんつくる・2
316.83『よい移民 現代イギリスを生きる21人の物語』
685.5『Uberland ウーバーランド』アルゴリズムはいかに働き方を変えているか
293.69『PORTUGAL ポルトガル 奇跡の風景をめぐる旅』
443.9『ユニバース2.0 実験室で宇宙を創造する』
410.4『数学ガールの秘密ノート/ビットとバイナリー』
913.6『ナポレオン 1 対等篇』
383.88『アルコールと酔っぱらいの地理学』秩序ある/なき空間を読み解く
757『SPECULATION 人間中心主義のデザインをこえて』
230.7『世界戦争の世紀 20世紀知識人群像』
740.2『写真の物語--イメージ/メイキングの400年史』
312.27『エルドアンのトルコ--米中覇権戦争の狭間、中東で何が起こっているのか』
367.3『精神科医が教える 親のトリセツ』
334.42『チョンキンマンションのボスは知っている--アングラ経済の人類学』
302.25『新インド入門 生活と統計からのアプローチ』
115.3『現代哲学のキーコンセプト 非合理性』
291『英語で読む 外国人がほんとに知りたい日本の文化と歴史』
223.5『カンボジア近世史』カンボジア・シャム・ベトナム民族関係史(1775-1860年)
778.8『テレビの国から』倉本聰
367.21『露出する女子、覗き見る女子--SNSとアプリに現れる新階層』
334.43『移動する民 「国境」に満ちた世界で』
210.75『「誉れの子」と戦争--愛国プロパガンダと子どもたち』
290.93『イスタンブールとトルコの大地』地球の歩き方

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

最近、持ち歩いているもの

この最近、持ち歩いているもの
 A6ノート、キンドルオアシス、0.7太、1.0赤、0.7黒・赤・シャープ、0.5黒、修正液、今日から黒タブレット。それと1.0太とA6メモパッド
これだけあれば、どこでも考えられる
320のヘッドの見直し作業は果てしなく続く。
机回りのUSB配線が大変。ざっと、6本ある。
9月3日に元町スタバでミニセミナーがある。いつもは無視するが、エコットとコラボするとのこと。その一点で参加を決めた。エコットが今更ながら、何をするのか?
ケンタッキーが満員になっていた。いつもは暇そうな老スタッフが忙しそう。二本で490円なのが飲み物付で500円。これが理由か! 急に忙しくなって、スタッフは大丈夫なのかな?
肉の日でモスへ。にくにくにくバーガー。モスは相変わらず、暇そうだった。おばあさんスタッフにはちょうどいい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ