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お客様とつながる意味

心が完全に空いています

 なんか、完全に空いています。7月1日です。考えるだけにします。そして、言葉を作っていきます。ブログにも、雑記帳にも囚われない。

 3時半からのパートナーからのお話で何となく、埋まった。

ヘーゲルの意識と自己意識

 意識と自己意識、そして、それを融合する理性。ヘーゲルより。

 外なる世界の意識、内なる世界の自己意識、社会に出ていくための根拠である理性。順番は意識→自己意識→理性です。つまり、外側→内側→融合

 今、やることは他がない世界。私が住んでいる世界と見えている世界は違います。ゲームの世界です。ゲームの世界は、その場だけで、目的に合わせて、作られている。それなのに、全部の世界があると言えるのか。もし、すべての世界があり、それが持続するのであれば、それは違います。

持続可能性

 昨日の資料の中で一番、重要な概念は持続可能性です。サファイアで最初に見つけた。sustainableです。これが頭文字になっている。持続可能性の定義を4つの機能の循環とみなすことで、Sa-fireが出来上がった。

 なぜ、持続可能性がないというのは、Act LocallyからThink Globallyへの道がないからです。皆の意見をまとめて、次の行動につなげるインタープリターがいない。世の中で言うと、静脈系です。

ポータルのメーカー決定

 ポータルでは電算部の期限が延びました。7月1日から7月12日です。

 元々、SFDCをポータル会社、ソーシャル会社に組み替えるというのは、私のアイデアそのものです。アメリカ本社に求めているみたいです。

お客様とつながる意味

 なぜ、お客様とつながらないといけないのか、また、お客様の状況を把握しないといけないのか。スタッフが300人のお客様の「代表」として、考えることが目的です。売るかどうかというのは、その先です。

 社会のために、「お互い様」の専門家として、どう位置付けていくのか。お互い様の世界が新しい民主主義のキーです。その中で、役割を示して、それを果たしていく。

 300人が何を考えていて、何に困っていて、何を要望しているかを知ることは代表としては必要です。それぞれが各自の分野で、お互い様を行っていけば、ローコスト・ローエネルギーになる。

 店舗コミュニティでお客様とつながるというのは、市民コミュニティとのつながりになります。そのために、市民コミュニティをどう作っていくかです。個々のスタッフでのやり方と店舗でのやり方では、当然、相手が違ってきます。

経営者とスタッフの間のジレンマ解消

 経営者とスタッフの間にはジレンマがある。経営者はお客様とつながりたいけど、本社だけではできない。そして、スタッフを信用していない。

 このジレンマを解決するには、店舗が変わることです。店舗コミュニティの情報共有をカタチで示すことです。だから、ポータルは経営者ではなく、スタッフをターゲットにします。このロジックを未唯空間8章の経営者の意識の中に入れました。

マルチバースよりも自分原理

 例え、地球と同じ環境があって、単細胞生物が多細胞になって、人類が生まれたとしても、そこには、私は居ません。これが人間原理とかマルチバースでも解けない部分です。人間原理よりも進んだ、自分原理です。

前立腺肥大手術後遺症

 やっと、右側の精巣が収まってきました。多分。だけど、尿の出が二段階になります。気を付けていないと、左が収まってきたときの二の舞になります。

 入院の頃、感じた使命感があまりないです。邪魔されない分だけ、弱っています。ここは、大いなる意志を刺激する時です。
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フランクルが強制収容所体験を乗り越えた境地とは

『ストレスと適応障害』より

過酷なストレス状況を生き延びるというテーマにおいて、極めて重要な貢献をなした精神科医として外すことができないのは、ヴィクトール・フランクルである。彼自身、すべての社会的地位も財産も奪われ、アウシュビッツ強制収容所で三年間もの収容所生活を強いられ、妻も親も、すべての家族を失うという極限的な体験をしながら決して正気を失うことなく、それどころか人間に対する愛情や尊敬の念を失うことがなかったという点で、まったく稀有の存在だといえる。

どういうめぐり合わせか、彼は強制収容所に送られる以前から生きる意味というテーマに取り組み、それを精神医学にとり入れる試みを行っていた。奇しくも強制収容所での体験は、まさに彼の抱いていたコンセプトや方法を試し、実証することとなったのである。

収容所生活からようやく解放されたフランクルは、自分が心のなかの支えとしてきた妻や家族が、すでに亡くなっていたという事実を知ることになる。しかも妻のティリーは、強制収容所に行くことを逃れることもできた。だが夫の説得にもかかわらず、妻は夫と運命を共にしたいという意思を変えず、自らアウシュビッツに送られることを選んだのだ。

強制収容所という極限状態を生き延びたフランクルは、もう一度大きな危機に直面することになる。運命に打ちのめされ、彼は妻や家族の後を追って、せっかく永らえた命を絶ってしまうという危機にもさらされていた。だが彼は、その危機を乗り越えていく。いかにしてそれが可能だったか。

それは、彼が友人に語った次のような言葉に明確に表れているだろう。

フランクルは、友人のパウル・ポラックを訪ねると、自らの身に起きたことや、妻や両親、弟の死を涙ながらに伝えた後、こう語ったのである。

「パウル、こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けるのには、何か意味があるはずだよね。僕には感じられるんだ。あたかも何かが僕を待っている、何かが僕に期待している、何かが僕を求めている、僕は何かのために運命づけられているとしかいいようがないんだ」(山田邦男訳『フランクル回想録』春秋社)

友人は、彼にゆっくりさせるのではなく、すぐに病院での仕事に復帰できるように手はずを整える。そして、彼が以前から取り組んでいた作品を完成させるように勧める。忙しくすることのほうが気持ちの安定につながると考えたのである。

フランクルは、『医師による魂の癒し』を完成させると、その勢いのままに、強制収容所での体験とその考察から生まれた『人間の意味の探究』を、わずか九日間で口述する。心のなかに積もり積もっていたものを、一気に吐き出したのである。それが、『夜と霧』として出版されると、世界的なベストセラーとなる。『夜と霧』は、極限状況における生存を語るうえで、今日でも、極めて評価の高い重要な文献となっている。

彼が同書でたどり着いた結論は、人が生き延びられるかどうか、その人が幸福であるかどうかを左右するのは、生きることにその価値を見出せるかどうかだということである。どんな試練に出合おうと、そのことに意味があると感じることができれば、その人はそれに耐え、それを乗り越えることができる。しかし、それに耐えることにもはや意味がないと思った瞬間、生き延びることは困難になる。

その後、彼は、生きる意味という視点での心理療法を、実存分析と呼ばれる治療法に発展させる。

実存分析でいう生きる意味とは、決して「生きるとは何ぞや」というような抽象的で哲学的な意味のことではない。むしろ、もっと身近な日常の生活において感じられる意味であり、生きがいといってもいいだろう。その人にとって本物といえる人生を送るためには、日々の生活において意味や生きがいを見出すことが必要なのである。

ただ、そこでフランクルが重視するのは、意味とは外から与えられたり、答えてもらうものではないということだ。生きる意味とは、まさに本人が問われ、答えるべき問題なのである。

それゆえ実存分析では、本人の責任ということを重視する。責任にこそ、人間存在の本質があると考える。

そのことは、フランクルが態度的価値というものを重視したこととも関係している。フランクルによれば、三つの実存的な価値があるという。一つは、創造的価値であり、新たなものを生み出すことによって得られる充足である。二つ目は、体験的価値であり、楽しみや学びの機会をもつことによって得られる充足である。この二つは、多くの人が価値として知っているものであるが、フランクルはさらにもう一つ、態度的価値というものを加える。態度的価値とは苦難や試練に出くわしたとき、その人のとる態度に示される価値である。いわば、境地といったものに近いだろう。
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ストレスは相談できる人がいると軽減される

『ストレスと適応障害』より

合わない環境にしがみつこうとして、ダメージが大きくなってしまうというケースがこれまでは多かった。ところが、最近は、見切りが早すぎるというケースが目立つ。確かに、それで病状が深刻化することは防げるが、困難や試練を乗り越える粘りや抵抗力がつかないという難点もある。嫌なことがあっても、それを乗り越える努力も、ある程度必要だといえるだろう。

そのために重要になるのが、次の二つの点である。一つは、生じている問題を解決することであり、もう一つは、ストレスに対する耐性を高めることである。ただ、問題を解決する能力をすぐに高めることは難しい。ことに適応障害を起こして、うつになっているときには、なおさらだ。そこで、もう一つ大事になるのは、問題を解決するのは、必ずしも自分一人の力でなくてもよいということだ。つまり、人の力を借りてもいいということだ。人の力を上手に借りることも問題を解決する力であり、適応力だといえる。人の力を借りられると思うだけで、ストレスに対する耐性も高まるのである。

このことが四番目の原理にもつながる。それは、ストレスを乗り越える力は、その人個人の力だけでなく、その人を支える力によっても左右されるということだ。実際、問題を解決する能力における重要な要素は、他の人に相談できるかどうかである。

ところが、問題解決が苦手な人ほど、自分だけでなんとかしようとする。逆にいうと、自分の弱みをみせて相談するのが苦手な人ほど、適応障害を起こしやすい。

したがって、まず実践したいのは、問題や支障が起きたら、適切な相手に相談するということだ。適応障害を起こしている場合には、このことが特に重要になる。問題の解決を、第三者に頼らざるを得ないのが普通だからだ。自分でどうにかなっているのなら、そこまで追い詰められてはいない。いまこそ、誰かに頼るときなのだ。他の人に問題解決を助けてもらうことを、恥ずかしがったり引け目に思う必要はない。それよりも、自分だけで抱え込んだまま潰れてしまうほうが、ずっと恥ずかしい。

ただ、相談できないのは、その人のせいばかりでもない。そうした存在が、現在、身近にいないというだけでなく、これまで誰にも甘えてこなかったので、甘える術がわからないということもある。人に頼られても、自分は人に頼れないという人も少なくない。弱みをみせることができなかったり、人に迷惑をかけてはいけないという思いが強すぎるのである。

だが、そうした気持ちも、実は、その人が幼い頃からの暮らしのなかで身につけたものであり、その人は知らずしらず、甘えない生き方を強いられてきたのである。手足を縛られたような生き方をしてきたのである。それによって、生きづらくなっている。その縛りを解いていくことも必要になる。

そして、そのことがストレスを乗り越えるうえで、もっとも重要なカギを握る究極の原理に通じる。それは、「安全基地」をもつということである。安全基地とは、いざというときにいつでも頼ることのできる存在であり、幼い時代の母親のような存在である。

安全基地をもっているかどうかが、適応力を左右するのはいうまでもない。適応力というと、その人自身の力と思われがちだが、実際には一人一人の力には、そんなに差はない。適応力の差は、どれだけ人の力を味方につけられるか、人に助けてもらえるかによるのである。人に相談したり、助けを求める力も、その人の力のうちなのである。

適応力の高い人は、社内にも、家庭にも、友達や知人にも、助けになってくれる人をもっている。そこに相談に駆け込むことで、ストレスを一人で抱え込み、それに潰されてしまうのを防ぐことができる。

しかし、そんな恵まれた人ばかりではない。心のうちを話せるという人が一人もいない人も多い。配偶者や家族がいても、愚痴を聞いてもらえないという場合も少なくない。
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スティーブ・ジョブズが残したもの

『新時代アメリカ社会を知るための60章』より

世の中は、ごく少数の人の頭脳やアイディアによって大きく動くことがある。2011年10月5日に惜しまれつつこの世を去ったアップル社創業者のひとりスティーブン・ポール・ジョブズもそのひとりだ。ジョブズは、1955年に生まれ、サンフランシスコ近郊に育ったベビーブーマー世代である。彼が育った時代、つまり1950年代から60年代のサンフランシスコ近郊は、国家主導で先端技術の中心地になりつつあると同時に、カウンター・カルチャー(権威や既存文化・価値観に対抗しようとする、おもに若者の動き)が花開いた場所のひとつだった。ジョブズは、この両方の世界を同時に経験した。また両者を融合させるような考え(コンピュータは権威側でなく個々人の生活を助ける道具になる)に影響を受けて育ち、現アップル社創業前後から約30年の間に本当にそれを実現させてきた。

まず彼は誰でも簡単に扱えるパーソナルコンピュータを開発するのに貢献した。もしアップル社が自社OSを収めた箱に電源、キーボード、ディスプレイを付けてひとつのパッケージにしたアップルⅡを売らなければ(1977年)、まだコンピュータは「コンピューターオタク」だけのものだったかも知れない。もしゼロックス社が開発後にもてあましていたグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)とマウスを上手に取り入れ、かつマルチフォントシステムを採用した初代マッキントッシュを作らなければ(84年)、まだコンピュータはコマンド入力をいとわない人だけのものだったかも知れないし、気分やTPOに合わせてフォントを変えることもできなかっただろう。その後、ジョブズは独断的すぎる行動のせいで10年ほどアップル社から「追い出される」が、復帰後の98年には、インターネット接続が簡単で見た目にもカラフルなiMacを発売し、外観からしてコンピュータをフレンドリーで馴染みやすいものにした。これらは、出版業界がデスクトップパブリッシング(DTP)に移行するのにも貢献した。ジョブズは、コンピュータとインターネットを身近なものにしてくれただけでなく、ビジネスのあり方も変えていった。

また彼は、追放されていた約10年の間に、コンピュータグラフィックス(CG)の技術に資金などを提供して、アニメ映画の世界で『トイ・ストーリー』(1995年)などの名作を残した。彼は人々の音楽の聴き方も変えてしまった。2001年に好きな音楽をすべて持ち歩ける小型の音楽プレーヤー・iPodを発表する。聴くためのデバイスだけではライフスタイルを提案できないので、現ITunesストア(03年~)でデジタル化した音楽をI曲99セントで売り始める。ジョブズが並々ならぬ熱心さで主要レーベルや主要アーティストを粘り強く説得して回ってくれたおかげで、私たちは今、好きな音楽を瞬時に合法的かつ安価で手に入れられるのである。もっともそのせいで、旧来のビジネスモデルが崩れたり、CDショップが多数閉店することにもなったのだが。

ジョブズはまた、2007年には、電話を「再発明」した。iPhoneである。それは、まず手に取ってもらい、その後に携帯できるインターネットの便利さに気づいてもらうための戦略だったといわれている。皆が画面でのマルチタッチ操作に慣れたところで、今度はよりインターネットを快適に楽しむためのiPadを発売した(10年)。今では皆が携帯デバイス片手にどこでもSNSやゲーム、電子書籍、電子版新聞や雑誌、テレビ電話までを楽しんでいる。一度始まった変革はさらに私たちの生活を変えていくだろう。

彼は、これがあればもっと世の中は便利になる、と自らが考えるコンセプトやアイディアを、多くの人の協力を得て現実のものにし、業界標準となる製品や技術を数多く世に出してきた。そしてそれが別の業界をも変化させた。彼は、何か世の中を変える技術かをかぎ分ける能力に長けていたし、それをどのように製品にしたら使いやすい楽しいものになるかも全力で追求した。だから親しみやすくシンプルなデザインにもこだわった。ときに人々の先を行きすぎたので、そのデバイスのある生活を、自らのプレゼンテーションやアップルストア(2001年上で最高の状態で提案し、皆にも同じビジョンや夢を見てもらえるように努力もした。いつも成功したわけではないが、失敗からも手堅く学んできた。私たちは、彼の熱意の賜物とともに新しい時代を生きている。

彼は大きなことを成し遂げたが、それは選ばれた人でなければできないか、というとそうではない。彼は、自分や周りの人々の可能性を疑わなかった。たいがいの人は、自分の可能性に戸を立てて、これは絶対に無理だと考えてあきらめてしまったりするものだが、彼は部下たちに妥協を許さず、「君ならもっといい仕事ができるはずだ。」といい続けて、実際に世界を変える製品を作らせてしまった。部下たちはそれを「現実歪曲フィールド」と表現したが、これは、誰にも負けない熱意と信念が、不可能を可能にし得る力になることを表している。彼は、自己中心的で人への配慮に欠けた人だったともいわれるが、裏を返せば、自分の仕事を愛し誰もがデバイスを使って便利で楽しい生活を送る世界を作る、という自己の夢に忠実にまい進した結果だったといえなくもない。彼の座右の銘だった「貪欲に追い求めろ。常識にとらわれるな。(Stay Hungry. Stay Foolish)」という言葉どおりに生き抜いたジョブズの精神から学ぶことは多いであろう。
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岡崎市立図書館の10冊

岡崎市立図書館の10冊

 302.5『経済成長って、本当に必要なの?』

 333.6『私たちのl国際経済』見つめよう、考えよう、世界のこと

 329.6『フィリピンBC級戦犯裁判』

 302.5『2020年石油超大国になるアメリカ』追い詰められる中国 決断を迫られる日本

 323.1『改憲の何が問題か』

 147『母なる宇宙とともに』

 104『待ち望む力』ブロッホ、スピロザ、ヴェイユ、アーレント、マルクスが語る希望

 319.2『北朝鮮は何を考えているのか』金体制の論理を読み解く

 453.8『富士山大噴火!』不気味な5つの兆候

 540.6『パナソニック・ショック』

社会変革する“場”

 社会変革する“場”をどう作るかです。

 知識と意識は場にとって必要です。それぞれに対応するのは、ライブラリとコラボレーション。これも図式から、方程式にしていく。サファイアの図式をサファイアの方程式に追い込みます。

 第8章をやっていても、同じところをグルグルと回っています。飛び出してないです。項目を少なくするのも手だけど、発想というのは弱くなります。発言するためにも、過剰であることが大切です。

フロー情報の取り扱い

 情報共有である限りは、フロー情報も可能にします。どうやって集めるか。一つはメーカーとして集める。もう一つは施策として集める。大容量と個別なものを合わせて、コードにしていく。

 情報共有として、フロー情報を取り込みます。SNSはほとんど、フロー情報です。個人の情報だけではダメで、グループ・コミュニティとしての情報にしていく。

フランクルの生きる意味

 意味があるかどうかは自分の中の問題です。

ヘーゲルの人間解釈と歴史解釈

 ヘーゲルの精神現象学は二重の読み方の軸を想定していくと読みやすい。人間の歴史はどのような本質的な経緯で展開してきたのかという、歴史解釈の流れ。もう一つは一人の人間がその意識をどのように展開するかという流れ。

 人間の存在本質は何か、近代社会の意味は何であるかを同時に考えている。つまり、人間の思考と歴史の流れを同時に思考している。数学的ですね。

 134.4タケ『ヘーゲルの「精神現象学」』をもう一度、借りてきましょう。雑記帳の#684です。
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ピッツバーグとデトロイトの明暗

『新時代アメリカ社会を知るための60章』より

アメリカの工業化は19世紀半ば以降、大陸横断鉄道の建設に後押しされながら進展した。鉄鋼産業のペンシルベニア州ピッツバーグと自動車産業のミシガン州デトロイトは、ともにそれぞれの産業が都市の代名詞となるほど有名であり、アメリカを代表する工業都市として発展してきた。20世紀後半に脱産業化が進むと、両市はともに大きな打撃を受けた。とはいえ、1970年代以降の両市の状況は、さまざまな要因によって明暗が分かれてしまった。

ピッツバーグは建国期から石炭、ガラス業、造船業などで繁栄してきた都市であったが、その名が全国に知れわたったのは、鉄鋼産業が台頭し始めた19世紀後半からである。1870年代、「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーがカーネギー鉄鋼会社(後のUSスチール)を創設し、ピッツバーグの鉄鋼産業は19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、鉄道建設や軍需景気によって成長した。たとえば、1901年の銑鉄の全米生産量は2400万トンであったが、ピッツバーグはその約4分の1を生産するまでになっていた。また、14年の全米の鋼材生産量は4268万トンであったが、ピッツバーグでの生産量はそのうちの726%を占めていた。こうした経済的繁栄により、ピッツバーグの人口は1890年に23万8617人、1900年に32万1616人、10年に53万3905人と順調に増え、その後50年まで増加し続けた。鉄鋼産業を中心に発展したピッツバーグには、多くの移民が労働者として流入したのである。

デトロイトは19世紀に交通の要所として栄え、水上運搬業や馬車と自転車産業などによって経済的な発展を遂げた。馬車や自転車産業の技術の蓄積をもとに、デトロイトは19世紀末から自動車産業の一大拠点として急成長する。1903年に、ヘンリー・フォードが自動車の大量生産が可能な工場を建設し、その後「T型フォード」と呼ばれる大衆車を開発したことで、デトロイトは全米一の自動車産業都市となった。フォードに続いて、ゼネラル・モーターズ(以下「GM」)とクライスラーもデトロイトに工場を作り、これら三社は自動車業界の「ビッグ・スリー」と呼ばれて、デトロイトは世界の自動車産業の中心都市としてその名を馳せた。

ところが、工業都市として繁栄を享受してきたふたつの都市は、20世紀半ば以降脱産業化か進む社会の変化に対応していかなければならなかった。ピッツバーグでは第二次世界大戦後から、鉄鋼所が出す大量の煙による大気汚染と工場排水による水質汚濁が深刻な社会問題になった。1970年代になるとそれに追い打ちをかけるように、鉄鋼産業は海外企業との競争にも敗れ、ますます斜陽化した。基幹産業である鉄鋼業に大きく依存した経済構造のため、ピッツバーグの都市経済は徐々に衰退していった。

デトロイトでは、1943年の人種暴動後に、都市に住む多くの比較的裕福な白人が黒人との人種対立を嫌って郊外に移動した。都市部の人口減少は、デトロイト市に税収減をもたらしただけでなく、都市の経済活動も鈍化させた。73~79年までの石油危機は、堅調であったデトロイトの自動車産業に大きな打撃を与えた。加えて、良質な日本車が70年代にはアメリカでも受け入れられ始めていたので、「ビッグ・スリー」の本拠地を擁するデトロイトの都市経済は大きな損害を被った。

このように20世紀前半のアメリカ経済を牽引してきたふたつの都市は、どちらも1970年代に工業都市としての影響力を低下させたが、その後の都市再生に向けた道筋はまったく異なっていた。ピッツバーグでは戦後から70年代にかけて、メロン銀行頭取のリチャード・メロンとデイビッド・ローレンス市長が中心となって、同市の環境問題や都市の再生に向けた改革を行った。製造業が徐々に衰退するなかで、民間企業、行政府、大学、非営利団体など産官学民が一体となった取り組みによって、ピッツバーグはそれまでの鉄鋼産業への依存から脱却し、医療、金融・保険業、IT産業、教育・文化産業などの多様な産業によって発展することを目指した。ピッツバーグの改革は、かならずしもすべてが成功したわけではないが、2008年の金融危機に際しても経済的損害は比較的小さかった。その証拠に、ピッツバーグはアメリカの都市再生の好例として、09年の20カ国地域・首脳会議(G20)の会場に選ばれた。

ピッツバーグが脱産業化後の都市のモデルとされたのとは対照的に、デトロイトは自動車産業の特性上、簡単にその経済構造を転換できなかった。自動車産業はガラス、タイヤ、精密機器など多くの関連部品を抱えるすそ野の広い産業であり、構造化された流通体制を転換することは困難であった。そのため、デトロイトは多様な産業による発展を目指すのではなく、既存の自動車産業の強化を図った。ところが、2008年の金融危機が自動車産業に与えた損害は壊滅的で、「ビッグ・スリー」のGMとクライスラーは政府からの援助を受けるほど疲弊していた。公的資金の投入や企業努力の効果もあり、自動車産業崩壊はかろうじて免れたが、労働統計局のデータによると、12年10月の失業率は全国平均7・9%に対してデトロイトは10・8%と依然として高く、いまだに本格的な経済回復までには至ってない。

このように、同じ工業都市として発展してきたふたつの都市であったが、脱産業化後の行方は、その社会環境や経済構造によって、大きく明暗が分かれてしまったのである。
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メガソーラーからシェール革命へ

『新時代アメリカ社会を知るための60章』より

大型太陽光発電(メガソーラー)は、風力発電などと並んで、バラクーオバマ政権が2008年の発足当初から推進してきた代替エネルギーのひとつだ。1930年代のニューディール政策にあやかって、雇用創出と再生可能エネルギーの普及という一石二鳥を狙ったこの政策は、「グリーンニューディール」と名づけられた。

最近の例としては、2012年末に連邦内務省がカリフォルニア州リバーサイド郡で世界最大のメガソーラー・プラント「マッコイ」事業を本格化させた。4400エーカーの公有地で750メガワットをネクストエラ・エナジー社に量産させる、とケン・サラザール長官が公表して注目を集めた。

実は、同じモハベ砂漠のメガソーラー「プライス」事業を請け負ったソーラー・トラスト社が8ヵ月前に破産したばかりだった。1000メガワットを目指して連邦エネルギー省が21億ドルの融資保証を行っていただけに、大統領選挙を目前に控えたオバマ政権の失策として、共和党から攻撃の的になっていた。

もちろん、オバマ政権発足以前から、代替于不ルギー政策は存在した。たとえば、国立再生可能エネルギー研究所(NREL)は、エネルギー省に属する研究開発を行う機関である。オイルショック後の1974年に設立され、77年に太陽エネルギー研究所として活動を始め、91年に現在の形となった。

NRELが推進した計画のひとつが先住民部族エネルギー自給計画である。連邦政府が経済的・技術的支援を先住民部族政府に対して行い、採算性の検討および再生可能于不ルギー設備の設置費用を補助し、結果として雇用創出とエネルギー自給を目指した。しかし、ジョージ・W・ブッシュ大統領が大幅に事業を縮小した。

ブッシュに代わってホワイトハウスの主となったオバマは、メガソーラーに将来的なコスト低減や市場拡大を見込み、普及を推進した。しかし、太陽光発電技術をめぐって米中間で貿易摩擦が起こり、価格競争で倒産する企業が続出して、先行き不透明感が漂っていた。そこに巻き起こったのが、国内での石油と天然ガスの開発ブームだった。2012年の選挙で再選を果たしたオバマ大統領は、エネルギー政策を大きくシフトさせ、米国産資源開発へと軌道修正を図ったのである。

もともと北米大陸では、良質の石油や天然ガスが、地中の頁岩と呼ばれる堅い岩盤に含まれている。テキサスをはじめとする西部、ニューョークからウェストバージニアヘと広がる東部地域に世界屈指の鉱区がある。これまでむずかしかった開発が、高圧水で岩盤に亀裂を入れて取り出す「水圧破砕(フラッキング)」技術の確立で、掘削コストが大幅に削減された。とくにアメリカでは、岩盤の質に合わせて、水に混ぜる化学物質の量を調整するなど、採掘方法が世界に先んじて開発されている。文字通り世界中のエネルギー関係者の注目を浴びるシェールオイル鉱区では、三井物産も参画するなど、日本の大手商社も熱い視線を注いでいる。

ところが、シェールオイルの開発をめぐっては、水質汚染の懸念がささやかれている。地元住民や環境保護団体が、鉱区近くの地下水や河川が汚れることを恐れている。これを受けて、環境保護庁は、影響を調査中で、結果次第では開発の行方に暗雲がたれ込める可能性もある。

とはいえ、開発がこのまま進めば、石油と天然ガスの生産量でアメリカが世界一になると予想されている。2015年までにアメリカは天然ガス生産量でロシアを抜き、20年までに石油生産量でサウジアラビアを抜き、その結果、世界のエネルギー構図が一変するというのだ。

たしかに、2010年末から始まった中東・北アフリカの民主化運動「アラブの春」やイランの核武装などによって、中東情勢は不安定度を増している。したがって、12年12月19日付の『タイム』誌のインタビューで、オバマ大統領が、アメリカは外国産原油への依存を減らしている、と誇ったのは理解できる。しかし、これがアメリカの中東からの撤退を意味するのか否かは不透明だ。なぜなら、中東情勢が世界経済に与える影響は引き続き大きく、他方で中国に中東の安定を任せるべきでないという議論もあるからだ。メガソーラーからシェール革命へとシフトしたアメリカに訪れたエネルギー新時代は、国境をはるかに越えて大きな潮流のなかで進んで行くことが予想されている。
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ウォール街占拠、あるいは新たな始まりの暴力的な静けさ

『2011年 危うく夢見た一年』より

ウォール街占拠運動後に、何を為すべきか? はるか遠く--中東、ギリシャ、スペインそしてイギリス--から始まった抗議が中心に及び、いまや世界中の到る処で強化され、拡まっている現在。二〇一一年一〇月二八日日曜日のサンフランシスコ、ウォール街占拠運動の余波が響くなかで、一人の男が群集に近づき、まるで六〇年代のヒッピーが行ったようなやり方で運動への参加を呼びかけている。「訊ねる。君たちの計画は、と。僕たちに計画などない。僕たちは楽しいからここに集まっているのさ」。そうした物言いは抗議者が直面している巨大な危機の一つを露わにしている。危機とは、彼らが自分たちの行動に恋に落ちたこと、「占拠した」ブロックで得た楽しみに恋に落ちたことを指している。しかし、祝祭などチャラいものだ。彼らの真価が問われるのは、その後に何か起こるかであり、自分たちの日常生活がどう変わり、またどのように変えられねばならないか、という点だ。これは、しかし、困難で忍耐が必要される作業を要請する。この作業は抗議者たちが始めるものであって、終わらせるものではない。彼らの基本的なメッセージは、こうだ。タブーは破られた。われわれはあり得べき最良の世界に生きているわけじゃない。われわれは代替案について考えることを許された。むしろわれわれは、代替案について考えることを余儀なくされているのだ。これである。

ある種のヘーゲル的三幅対に遵えば、西欧の左派は熟れたのだ。反人種差別主義やフェミニズムなどの闘争に優越するいわゆる「階級闘争本質主義」を捨て去った彼らにとって、[資本主義]がいまや問題それ自体の名称としてふたたび顕れたことは明らかだ。学ぶべき第一の教訓は、諸個人やその態度を非難することではない。問題は、個別の腐敗や強欲ではなく、諸君に腐敗を奨励するシステムである。解決策は「〈本通り〉であって、ウォール街ではない」ではなく、〈本通り〉がウォール街によって左右されるそのシステムである。

とすれば、強欲話を禁止しよう。ローマ法王以下の名士たちは、過剰な強欲や消費を煽る文化への抵抗という命令をもって、われわれを脅し続けている。だが、こうした安っぽい道徳化が露わにする奇観は、一箇のイデオロギー操作である。もちろんそうしたものがあればの話だが。システムそのものの拡張とそれへの書き込まれという衝動は、ここでは、個人的罪の問題に、私的な心理的性向に、変換されている。ローマ法王に近いある神学者は「現在の危機は資本主義の危機ではなく、道徳性の危機である」と述べたが、それは周到にも、抗議者たちが、資本主義そのものではなく、むしろ不正義・強欲・消費主義などを標的にすべきだと喉しているに等しい。この神学者は道徳を垂れ流す批判に織り込まれた否定に明け透けな定式を与えている。またその限りで、彼の正直さを称讃することはできる。道徳性の強調は資本主義批判を妨げないからである。〈資本〉の自己推進的な循環は、これまで以上に、われわれの生活の究極的な〈現実界〉であり続けている。それはそもそも制御不能な獣なのだ。こう考えれば、第二の禁止が浮上する。われわれは、「金融資本主義」をそれがまるで資本主義を表すもう一つ別の「もっと正確な」形態であるかのように批判するといった単純さを拒否せねばならない。

しかし、失敗の定めにおかれたさまざまな蜂起が示す至上の美しさを単純に崇め奉るという衝動もまた、回避せねばならない。ブレヒトのコイナさんについての断片にそのもっとも明快な表現を見いだすことができる失敗の詩学は「どんな仕事をしていますかと、聞かれて、コイナさん、こたえた。『とても苦労しています。つぎの間違いの準備をすすめています』」に読むことができる。しかし、「上手に失敗する」という旧きベケット的モチーフの変奏だけでは足りない。絞られるべき焦点は、失敗後に残された結果である。現代左派にとって問題は、「最終的な否定」が報復のために回帰することである。蜂起がもたらした至上の熱狂が彰えたとき、どのような新しい秩序が旧い秩序に取って代わったのか? われわれが現在の抗議の致命的な弱点に出会すのは、まさにここである。彼らは、その怒りを社会-政治的な変化のために必要とされる最低限の実体的な計画に変えることさえままならないという真っ当な怒りを表明している。彼らは革命なき叛乱精神を表明しているのだ。
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アラブの四季

『2011年 危うく夢見た一年』より

こうしたことは、チュニジアやエジプトにおける叛乱についての教訓、真の、だが不吉な、教訓をもたらしてくれる。穏健でリベラルな勢力が急進左派を軽視し続ければ、彼らは打ち勝ちがたい原理主義の波を造りだしてしまうだろう。重要なリベラルの伝統を残すには、リベラル派は急進左派の友愛的支持を必要とするだろう。(ほとんど)すべての人びとがこれらの民主的な叛乱を熱心に支持しているとしても、その横取りをめぐる秘められた闘争が依然として継続しているのである。国家機関やほとんどの西欧メディアは、東欧における「親民主主義的」な革命と基本的には同じものとして、そうした叛乱を称讃している。西欧のリペラル民主派はアラブ諸国が西欧のようになるという欲望に取り憑かれているのである。だからこそ、他の次元が働いていること、つまり、一般的には社会正義の要求として語られる次元が働いていることが明らかになると、不安が頭を擾げてくることになるのである。これをふたたび取り戻すための闘争は解釈の問題であるばかりでなく、決定的な実践的帰結ももたらしている。われわれは国民統合という至上の瞬間に爽ド抜かしていてはならない。というのも、重要な問題はつねに次に何か起こるか、だからである。この解放的瞬間がどのように新たな社会秩序に変換されるかが、問題なのである。すでに述べたが、われわれは、過去数十年、リペラルな形態(南アフリカからフィリピンに到るまで)であれ、原理主義的な形態(イラン)であれ、グローバル資本の秩序によって繰り返し横取りされた一連の解放的な人民蜂起を目の当たりにしてきた。〈アラブの春〉に関わったいかなる国もその形態から言えば、民主主義的ではなかった。そうした国々が多かれ少なかれ権威主義的国家であったことを忘れてはならない。その結果、社会的正義や経済的正義の要求は、民主主義の要求へと自然発生的に結びついてゆくことになったのである。まるで貧困が権力者たちの強欲と腐敗の結果であり、したがって彼らを排除すれば事が済むとでも言うように。しかし、われわれが民主主義を克ち取り、貧困が残れば、いったい次はどうなるのか?。

残念ながら、二〇一一年夏、エジプトは革命の終焉、その解放的潜在力の窒息として思い起こされることになるだろう。これはいよいよもって必至である。その墓掘り人は軍隊とイスラム主義者である。つまり、軍隊(これは依然として、アメリカ合衆国から相当程度の財政支援を受けている旧き良きムバラク軍である)とイスラム主義者(彼らは蜂起の初期では完全に蚊帳の外だったが、それ以降その地歩を奪回しつつある)との協定の概略は、いよいよもって明らかになりつつある。イスラム主義者たちは軍部の物質的特権を黙認し、それと引き換えにイデオロギー的覇権を確固たるものにするだろう。敗者は、親西欧的リペラル(「民主主義を促進する」ためにCIAから援助を受けているにもかかわらず、脆弱である)であり、何よりも、〈春〉の出来事の--市民社会的な組織のネットワークを必死になって組織しようと試みてきた、労働組合からフェミニスト・グループに到る、出現しつつある非宗教的な左派といった--真の担い手である。事態をより深い混迷に導くのは、急速に悪化している経済状況である。それは、遅かれ早かれ、貧困層--その大方が〈春〉の蜂起には参加せず、少なくとも当初は、教育を受けた中産階級の若者に指揮されていた--を街頭に放り出すだろう。新たな爆発は〈春〉を繰り返し、その真理に直面させ、政治的主体に厳しい選択を課すことになるだろう。厳しい選択、それは、貧困層の怒りに方向性を与え、それを政治的な綱領に変換する支配的な勢力とは誰か、である。新たな非宗教的左派なのか、それともイスラム主義者なのか?

西欧の世論からのイスラム主義者と軍部との協定に対するもっともあり得べき反応は、疑いもなく、シニカルな智恵の独善的な見せびらかしだろう。われわれは繰り返し、次のように言われてきたのである--イラン(アラブではない)ですでに明らかなように、アラブ諸国における人民蜂起はいつも武装したイスラム主義者の勝利に終わってきた。ムバラクは比較的悪くない悪として振り返られることになるだろうし、それが携えているメッセージは「不満があっても馴染み深いことを続ける」というものだろう。われわれは、こうしたシニカルな衝動に抗して、エジプトにおける蜂起の急進的な解放的核芯に無条件に忠実であり続けねばならない。
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言葉の構造化

言葉の構造化

 言葉を共有化しないといけない。それと構造化です。皆は本も含めて、言葉を勝手に使っている。

 「情報共有」一つとっても、仕様が色々なところに散らばっている。部品表の展開のように、ここはしっかり考えておかないと、ロジックがいい加減になります。

豊田市駅前のスタバ

 豊田市駅前のスタバで、「モカ」を頼んだら、「ラテ」になっていた。それと出てくるのが、非常に遅い。このスタバは、人の流動が大きいみたいです。

 それに気づいた、ブラックエプロンが「モカ」に替えてもらった。それと、間違ったバリスタが謝りに来た。マニュアルありきですね。
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