『私とは何か』池田晶子
グローバリゼーションやらITについて、世の中賑々しいですね。世界的に、いろいろと猛烈な勢いで動いているようです。でも結局、人類全体としてこれらの事柄を、何のために何をしているのか、みんな全然自覚していないと思う。掛け声は勇ましいんですけれども、自分が何をしたいのかということは、まるっきり自覚していない。
結局、そういう曖昧の規模が派手になってるだけで、人類全体としては、いよいよ愚劣化が進んでいる。そして個人の人生の空疎化も進む。ですから、グローバリゼーション、インターネット、IT云々なんていうのは、私から見れば、まったく無意味に思えます。
こういった流れの根本には、人類の長い思い込みとしての物質主義、科学主義があります。つまり、目に見えるものだけが存在する、目に見えないものは存在しないという思い込みです。目に見えないものとは何かというと、要するに精神です。人類全体が精神の存在を忘れている。だから精神が貧困化する。その流れの一分枝として、バイオテクノロジーみたいな、生命科学と経済性が結びついている状況がある。お金があればいくらでも生き延びられるという。こんなふうになってしまうと、逆に、生命はちっとも価値ではなくなる。
IT革命で、バラ色の未来みたいなことが言われてますが、一方で無意味な少年犯罪や殺人が確実に増えている。このギャップはいよいよ広がるI方じやないですか。バラ色の未来と無意味な人殺し、この両方が同時に存在することが、近未来の社会です。それをどうにかしたいと思うなら、精神の原点に返るしかない。
そのためには、ひとりひとりが考えるしかないでしょう。精神というのは自分がそこに存在して、なにゆえに生きているのかを考えるためのものです。ひとりひとりが自分で考えて、それを知る以外にないのです。
一番わかりやすいのは、自分が死ぬということを考えること。明日は必ず死ぬという状況になってみれば「自分の人生なんぞや」と、少しは考えるかもしれない。私はもう考えることが宿命みたいなものですが、どなたでも生きて死ぬ限り、同じ問いは何かのきっかけで必ずもつはずです。
それと教育についてですが、誰ができるのかという現実的な問題としては、手遅れかもしれません。私にできることとしては、哲学の本を書いて、子供たちに届けるということをしています。日本では現在は、宇宙や存在における人生の意味と意義を、大きな視点から説ける人がいませんから。昔はいたんでしょうけど、最近は、学校の哲学も専門分化してしまって、人々からおよそ関係ないところにあるわけですから。微力ながら、私なりに努力してるわけです。
国家や民族やイデオロギーは過去の遺物となるし、またなるべきだと考えてます。そういったものは、人がこの世で生きるための、たんなる便宜です。それに気がつかない。あるいは忘れてる。ですから、こんなものはただの便宜だということを自覚しつつ生きればよいのであって、国家や民族が目的になるのは話が逆です。
要するに、自分のアイデンティティをそういう国家とか民族なんかに預ける愚かさですよ。この愚かさは有史以来のものですが、懲りずにその失敗を繰り返そうとしている。左翼が終わったから右翼にするなんていうことは、結局左のものを右にしただけの話でしょう。全然賢くなってない。少しは自分の頭で考えたらどうでしょう。
人間は皆、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。単独の精神性をひとりひとりが自覚する。自分とは誰かということをひとりひとりが考えるところから新しい人類の歴史ははじまるし、変わるんです。
精神性を自覚するといっても、集合的な精神性になると、これもダメです。集団になってしまうと、それはそれで宗教なり、イデオロギーなりということになりますから。そうでなくて、自分はひとりなんだということを徹底的に自覚すること。そこで必ず人類の歴史は変わるはずです。
これはものすごくスパンの長い話で、百年になんか収まらないんですけれども、変わり目はここにしかないんですよ、絶対に。
単独の精神性は、個人主義ということとは違います。あれ間違いです。個人とは何かということを考えていないから間違える。「じやあその個人とは誰なのか、自分とは誰なのか」と問うと、答えが返ってこないはずですから。私とは誰かと問いつづけることが、竹学なんです。たんに考えることといってもいいでしょう。哲学というと、難しい学問みたいですから。自分とは誰かとか、生きて死ぬとはどういうことかとか。それだけなんです。
ですから「私は日本人である」、とりあえずそれでもいいですよ。たしかに国籍はそうなんだから。けれども、私は日本人であるといっているところの私とは誰なのかということなんです。
日本人なんて、ただの属性ですよ。「私」とは誰ですか。これはデカルトの問いでもあります。
そう考えると、ギリシャ時代から三千年かかって、人類は変わったのかというと、ちっとも変わってないように思えます。人間が生きて、死んで、ここにいるということ、つまり人間の本質というのは不動なんです。
動いているのは時代の側であって、人間が動いているわけじゃない。そのことをみんな忘れているから、変わってると思って慌ててるけれども、ほんとはなにも変わってないんです。そういう不動の視点の側から見ると、現代の新潮流なんて、全部ただの風景みたいに見えるんですね。哲学をするとは、動じない自分をそこに所有することなのではないでしょうか。
それと今後の日本についてですが、もはや国家として機能しなくなっているんではないかという気もします。もちろんこれはただの想像ですから、哲学的な根拠のあることじゃないですけれども。優秀な人はみんな海外に出て行くだろうし、残った人たちは外国の経済植民地に住んでるようなものじゃないのか、という気がしますね。
いずれにしてもシステムや政治をいじったところで、そこにいる人間の精神が変わっていないのだから、変わりようがないと思います。人々の精神を根本から鍛え直さないと、なにも変わらない。
精神を鍛えるといっても、新保守主義なんかの精神主義とは違います。そこは混同しないようにしてはしいんです。なにかの主義を掲げることではなく、ひとりひとりが考えるということです。哲学をするということです。可能性があるとしたら、そういったことを若い人に教えていくことだけだと思います。いずれにせよ、時間切れという感じがしますけど。
この状況は、どうやら日本だけじゃないみたいで、人類の全体が百年ぐらいでその存亡をかけた、一種のこれは通過儀礼みたいなものではないか。百年ぐらいが勝負という感じがします。混乱の末に滅んでいるか、あるいは、精神性を自覚した新たな人々が少しずつ増えて、流れを変えていくかのどちらかだと思います。おそらくこの百年でしょうね。
でも、こういったことをもっと大きなスパンから見ると、人類発生してから四万年、地球の誕生からは四十六億年ですか、たかだか百年の間で何かどうであろうと、まあ宇山の。風景みたいなものでしょう。「自分が死ぬ」ということと「宇宙が存在する」ということについて、しっかり哲学しておくと、こういう視点が可能なわけです。
哲学が人類を短時間で変えるようだったら、それはたんなるイデオロギーです。哲学はいかなるイデオロギーでもありません。
だから時間がかかる。とにかく時間がかかる。ひとりひとりの人間の精神を確実に変えていくんですから。だって、いま六十億人いるわけでしょう。すべての人が目覚めるまでには六十億年かかります。
つまり、弥勒菩薩の救済と同じこと。永久革命って、私が言うのはそういうことなんです。無限に時間がかかるけど、道はそれしかない。それだけは断言できます。
ですから、宇宙史の側から見れば、いろんな時期とかいろんな失敗とかをこの人類が経験するのもいいのかなというように見ることもできます。私はそういう視点ももってますから、とくに慌てるということはなくて、失敗しても、まあたまにはいいかなと、またやり直しの人類が出てくるだろうって、そんなふうに考えてます。
グローバリゼーションやらITについて、世の中賑々しいですね。世界的に、いろいろと猛烈な勢いで動いているようです。でも結局、人類全体としてこれらの事柄を、何のために何をしているのか、みんな全然自覚していないと思う。掛け声は勇ましいんですけれども、自分が何をしたいのかということは、まるっきり自覚していない。
結局、そういう曖昧の規模が派手になってるだけで、人類全体としては、いよいよ愚劣化が進んでいる。そして個人の人生の空疎化も進む。ですから、グローバリゼーション、インターネット、IT云々なんていうのは、私から見れば、まったく無意味に思えます。
こういった流れの根本には、人類の長い思い込みとしての物質主義、科学主義があります。つまり、目に見えるものだけが存在する、目に見えないものは存在しないという思い込みです。目に見えないものとは何かというと、要するに精神です。人類全体が精神の存在を忘れている。だから精神が貧困化する。その流れの一分枝として、バイオテクノロジーみたいな、生命科学と経済性が結びついている状況がある。お金があればいくらでも生き延びられるという。こんなふうになってしまうと、逆に、生命はちっとも価値ではなくなる。
IT革命で、バラ色の未来みたいなことが言われてますが、一方で無意味な少年犯罪や殺人が確実に増えている。このギャップはいよいよ広がるI方じやないですか。バラ色の未来と無意味な人殺し、この両方が同時に存在することが、近未来の社会です。それをどうにかしたいと思うなら、精神の原点に返るしかない。
そのためには、ひとりひとりが考えるしかないでしょう。精神というのは自分がそこに存在して、なにゆえに生きているのかを考えるためのものです。ひとりひとりが自分で考えて、それを知る以外にないのです。
一番わかりやすいのは、自分が死ぬということを考えること。明日は必ず死ぬという状況になってみれば「自分の人生なんぞや」と、少しは考えるかもしれない。私はもう考えることが宿命みたいなものですが、どなたでも生きて死ぬ限り、同じ問いは何かのきっかけで必ずもつはずです。
それと教育についてですが、誰ができるのかという現実的な問題としては、手遅れかもしれません。私にできることとしては、哲学の本を書いて、子供たちに届けるということをしています。日本では現在は、宇宙や存在における人生の意味と意義を、大きな視点から説ける人がいませんから。昔はいたんでしょうけど、最近は、学校の哲学も専門分化してしまって、人々からおよそ関係ないところにあるわけですから。微力ながら、私なりに努力してるわけです。
国家や民族やイデオロギーは過去の遺物となるし、またなるべきだと考えてます。そういったものは、人がこの世で生きるための、たんなる便宜です。それに気がつかない。あるいは忘れてる。ですから、こんなものはただの便宜だということを自覚しつつ生きればよいのであって、国家や民族が目的になるのは話が逆です。
要するに、自分のアイデンティティをそういう国家とか民族なんかに預ける愚かさですよ。この愚かさは有史以来のものですが、懲りずにその失敗を繰り返そうとしている。左翼が終わったから右翼にするなんていうことは、結局左のものを右にしただけの話でしょう。全然賢くなってない。少しは自分の頭で考えたらどうでしょう。
人間は皆、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。単独の精神性をひとりひとりが自覚する。自分とは誰かということをひとりひとりが考えるところから新しい人類の歴史ははじまるし、変わるんです。
精神性を自覚するといっても、集合的な精神性になると、これもダメです。集団になってしまうと、それはそれで宗教なり、イデオロギーなりということになりますから。そうでなくて、自分はひとりなんだということを徹底的に自覚すること。そこで必ず人類の歴史は変わるはずです。
これはものすごくスパンの長い話で、百年になんか収まらないんですけれども、変わり目はここにしかないんですよ、絶対に。
単独の精神性は、個人主義ということとは違います。あれ間違いです。個人とは何かということを考えていないから間違える。「じやあその個人とは誰なのか、自分とは誰なのか」と問うと、答えが返ってこないはずですから。私とは誰かと問いつづけることが、竹学なんです。たんに考えることといってもいいでしょう。哲学というと、難しい学問みたいですから。自分とは誰かとか、生きて死ぬとはどういうことかとか。それだけなんです。
ですから「私は日本人である」、とりあえずそれでもいいですよ。たしかに国籍はそうなんだから。けれども、私は日本人であるといっているところの私とは誰なのかということなんです。
日本人なんて、ただの属性ですよ。「私」とは誰ですか。これはデカルトの問いでもあります。
そう考えると、ギリシャ時代から三千年かかって、人類は変わったのかというと、ちっとも変わってないように思えます。人間が生きて、死んで、ここにいるということ、つまり人間の本質というのは不動なんです。
動いているのは時代の側であって、人間が動いているわけじゃない。そのことをみんな忘れているから、変わってると思って慌ててるけれども、ほんとはなにも変わってないんです。そういう不動の視点の側から見ると、現代の新潮流なんて、全部ただの風景みたいに見えるんですね。哲学をするとは、動じない自分をそこに所有することなのではないでしょうか。
それと今後の日本についてですが、もはや国家として機能しなくなっているんではないかという気もします。もちろんこれはただの想像ですから、哲学的な根拠のあることじゃないですけれども。優秀な人はみんな海外に出て行くだろうし、残った人たちは外国の経済植民地に住んでるようなものじゃないのか、という気がしますね。
いずれにしてもシステムや政治をいじったところで、そこにいる人間の精神が変わっていないのだから、変わりようがないと思います。人々の精神を根本から鍛え直さないと、なにも変わらない。
精神を鍛えるといっても、新保守主義なんかの精神主義とは違います。そこは混同しないようにしてはしいんです。なにかの主義を掲げることではなく、ひとりひとりが考えるということです。哲学をするということです。可能性があるとしたら、そういったことを若い人に教えていくことだけだと思います。いずれにせよ、時間切れという感じがしますけど。
この状況は、どうやら日本だけじゃないみたいで、人類の全体が百年ぐらいでその存亡をかけた、一種のこれは通過儀礼みたいなものではないか。百年ぐらいが勝負という感じがします。混乱の末に滅んでいるか、あるいは、精神性を自覚した新たな人々が少しずつ増えて、流れを変えていくかのどちらかだと思います。おそらくこの百年でしょうね。
でも、こういったことをもっと大きなスパンから見ると、人類発生してから四万年、地球の誕生からは四十六億年ですか、たかだか百年の間で何かどうであろうと、まあ宇山の。風景みたいなものでしょう。「自分が死ぬ」ということと「宇宙が存在する」ということについて、しっかり哲学しておくと、こういう視点が可能なわけです。
哲学が人類を短時間で変えるようだったら、それはたんなるイデオロギーです。哲学はいかなるイデオロギーでもありません。
だから時間がかかる。とにかく時間がかかる。ひとりひとりの人間の精神を確実に変えていくんですから。だって、いま六十億人いるわけでしょう。すべての人が目覚めるまでには六十億年かかります。
つまり、弥勒菩薩の救済と同じこと。永久革命って、私が言うのはそういうことなんです。無限に時間がかかるけど、道はそれしかない。それだけは断言できます。
ですから、宇宙史の側から見れば、いろんな時期とかいろんな失敗とかをこの人類が経験するのもいいのかなというように見ることもできます。私はそういう視点ももってますから、とくに慌てるということはなくて、失敗しても、まあたまにはいいかなと、またやり直しの人類が出てくるだろうって、そんなふうに考えてます。