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日本歴史は歴史ではない

新しい数学の根幹の一つは超の存在。超があれば外の世界を挟めるし、内と融合すれば、点になることができる。 #新しい数学
日本歴史のなかで特長なのは藤原氏が超の存在を作り上げたこと。最大権力を振るうために超を想定することで安定を図った。歴史によくある後付け。日本民族を想定した。 #日本歴史は歴史ではない
ただの少女がフランス国民国家象徴として、救世主に後日祭り上げられた。シャルル七世がジャンヌダルクを救わなかった理由も明確になる。 #ヌジャン

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若干の本の整理

急激に歩き生活に入ったので、腰がいたい。元町まで5000歩。バスがないのは不当。豊田市は元町経由の環状バスを作るべく。赤池だと途中の渋滞で遅延が激しい。 #歩き生活
豊田市市議って、インフルエンサー? #拡散は一人ではできない
同じものを買う傾向にある。身の回りの整理をしている。歴代のKindleが4台、オアシスを入れると5台。fireが3台。アマゾンは環境を継承するのだ同じように動く。その他にバッグとスタバのタンブラーはヤマほどある。 #同じものを買う傾向
今週末には10台目のSONYにICメモリーがアマゾンから届く。それぞれに名目を考えるのは容易ではない。 #10台目のICレコーダー
書棚を整理している。図書館にあるものは全て捨てる。NDCさえあれば十分。整理するのに無印のA3の自立型バック(310円ぐらい?)が役立っている。A3だと全て入れ込むことができる。新刊書26000冊は図書館に預けてある。 #本の整理
ホットケーキミックスは有能。150g×4箱で320円ぐらい。6枚ぐらい焼ける。冷凍もできる。冷凍室の私のエリアを確保しないと。そう考えると6食分になる。バリエーションのために無印のチキンカレーも用意してある。 #無印大好き
無印のナンの粉と延ばし棒(100均)を買ってあるが、粉まみれにするな!という奥さんの警告で実施に至っていない。 #無印大好き

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OCR化した9冊

『世界の国々』               一
 レバノン共和国
 フィンランド共和国
 トルコ共和国
 イスラエル国
 リトアニア共和国
 ギリシア共和国
 ポーランド共和国
 ハンガリー
 ウクライナ
 エジプト・アラブ共和国
『イノベーターズ』
 アラン・ケイ--パーソナルでフレンドリーなコンピュータ
『みんなにお金を配ったら』
 働くことへの執着と思い入れ--仕事とUBI
『ポバティー・サファリ』
 当世の生き方
『図書館・まち育て・デモクラシー』
 文化格差は埋められるか
  東京という引力
  文化の諸相
  図書館がこれまでしてきたこと
  地方で「文化資本」を育む試み
  はるかに東京を望みながら
 文化の自己決定能力
  「居場所と出番」がある広場を作る
  「居たい」と思う文化と図書館の役割
  生きやすいコミュニティーとは
 コラム「生活文化」と図書館
『ホモ・デジタリスの時代』
 『これからの人生』
『GAFAに克つデジタルシフト』
 アマゾンの影響をさらに深掘リしてみる
  アマゾンがオンライン書店と侮ったら倒産
  アマゾンがEコマースモールだと思ったら大間違い
  倒産、大量閉店に追い込まれた企業
  ネットからリアルに本格展開し始めたアマゾン
  高級スーパーのホールフーズを買収した理由
  アマゾンが「家庭内店舗」にも進出
  自動車の中にも店舗を出店
  研究開発投資は世界一
『世界の地域格差』
 国の競争力の原動力としての地域
  変化する地域格差
  経済的な地域格差の拡大と縮小
  生産性の向上と地域差
  どこで労働生産性の向上は起きているのか?
  地域内および地域間での生産性の空間的な差異
  研究開発と特許からみた地域のイノベーション
  地域における起業・創業
  都市一農村間にみられる創業の地域差
  経済活動と創業を牽引する首都圏
  地域における創業と雇用創出
『教養としてのフランス史の読み方』
 「救国の少女」ジャンヌ・ダルクの登場
 民衆は「誰もが飢えずに生きられるように」望んだ
 フランス革命に繋がった「知の共有」
 理想として掲げられた「人権宣言」
 フランス革命は男性による男性のための革命だった?
 対イギリス戦略としてのエジプト遠征
 労働人口の不足による移民労働者の増加
 国民国家という理想が生み出した富国強兵
 ナショナリズムの変容
 激化する社会運動とナチズム
 「ヨーロッパ」という意識

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自分が亡くなるという意識は無敵

自分が亡くなるという意識は無敵です。何も勝てません。久しぶりに深夜の風呂場で騒いでいた。それと、なぜ、人間がソリッドなのかがわからない。 #亡くなるという意識
書くものとペンをパッケージ化する。とりあえず、3パターン。 #書くことの日常化
スタバでナイフとフォークを使うと本当の朝食みたい。モレスキン欲しさに朝食290円以上でポイント集め。これで1点 #モレスキン欲しさ
客席が埋まってないとこを認めて、次の目標にできる乃木坂はコミュニティとして、最強です。トップにとって、目標をもつのは至難の技。 #乃木坂上海公演
マルチバースであれば、存在は一つの物語になる。 #2.1.4「次元を旅する」
リーマン予想が成り立てば無限次元空間となり、マルチバースが実証される。若い時に見えていた。やはり、数学は30歳までですね。フィールズ賞の選考基準は正しい。ガロアが生きていれば、フランス革命は上手くいったのに。 #無限次元空間

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「救国の少女」ジャンヌ・ダルクの登場

『教養としてのフランス史の読み方』より
「救国の少女」ジャンヌ・ダルクの登場
 百年戦争をフランスの勝利に導いたとよく言われるジャンヌ・ダルクが登場するのは、まさに、このシャルル七世を宣言した王太子が苦境に陥っていたときでした。
 苦境の中、反撃のチャンスを待っていたシャルル七世に、一四二九年ついに好機が到来します。それまで親英だったブルゴーニュ派がイングランド勢力と仲違いしたのです。
 シャルル七世は、前年からイングランド軍に包囲されていた、味方であるアルマニャック派が守るオルレアンに乗り出します。
 このオルレアン解放の立役者といわれるのがジャンヌーダルクです。
 ジャンヌ・ダルクとシャルル七世の出会いは、一四二九年、シャルル七世がシノンに滞在していたときだと伝えられています。彼のもとを訪れたジャンヌは、「私はオルレアンを解放して、王太子をランスで聖別させるよう神の命を受けてやってまいりました」と言い、その言葉を信じたシャルル七世は、少女に軍勢を与えたというのです。
 この話がどこまで真実を伝えているかはわかりません。
 もちろん、ジャンヌ・ダルクという神がかった少女が実在し、オルレアンの解放に関わったことは事実ですし、オルレアンの解放がきっかけとなり、シャルル七世が勢力を盛り返し、ランスで聖別され、正式にフランス国王となったことも事実です。
 しかしその一方で、最大の功労者であるはずのジャンヌ・ダルクはどうなったかというと、オルレアン解放後、ブルゴーニユ派に捕まり、異端審問にかけられ、火あぶりにされてしまっているのです。
 火あぶり(火刑)と聞くと、ひどく残酷な感じがしますが、当時は、異端者は火刑に処せられる、というのが定石だったので、そこに大きな意味はありません。このときの異端審問がどのようなものであったのかは、裁判史料がある程度残されているとはいえ、はっきりとはわかりませんが、この時期はまだ、のちに「魔女狩り」という言葉で知られるほど過激な異端審問が行われていたわけではありません。異端審問がとくに過激になっていくのは、プロテスタントに対抗するためにカトリックが信仰の強化を図っていた十六世紀の後半から十七世紀初めにかけてのことなのです。
 ただ、ジャンヌがブルゴーニュ派に捕まったとき、シャルル七世の軍が誰も積極的に救出に動かなかったことは事実です。これは、当時の人々がジャンヌの存在をどう見ていたのかを考えるうえで、ひとつのヒントとなる事実だと言えるでしょう。
 そう考えると、ジャンヌが神の声を聞いたというのも、もしかしたら異端審問の中で、彼女を異端と断定するために握造されたものだった可能性もあるのです。
 実際、ジャンヌ・ダルクが神格化されていくのは、ずっと後のことです。
 なぜなら、彼女の神格化は「国家」という意識に支えられていたからです。
 ジャンヌ・ダルクが生きた当時のフランスというのは、先にも述べたとおり、まだ領邦国家の寄せ集めで、私たち現代人が考えるような「国家」という意識は生まれていませんでした。ですから、ジャンヌ・ダルクも含め、この時代の人の中に「フランス国家を断固守りたい」などと考えていた人はいないと思います。もちろん、イングランド王のヘンリ六世よりも、ブルゴーニュ派よりも、シャルル七世のほうが正統だという人々はいたわけですが、そのことが「国を守る」という意識に結びついたものであった可能性はきわめて低いと考えたほうがいいでしょう。
 神格化が本格的に進むのは十九世紀末、フランスで右翼系ナショナリストが非常に強く動いていた時期でした。その時期にジャンヌ・ダルクの再評価というものが行われ、その過程で「救国の少女」「愛国の少女」と祀り上げられていったのです。
フランス革命に繋がった「知の共有」
 フランスの市民・民衆が「政府の義務」や「自分たちの権利」といった公意識を持つようになった背景にあるのは、彼らの中でもさまざまな形の「知の共有化」が進んでいたという事実です。
 その基盤に位置するのが、書籍や新聞などのメディアを媒介とした情報の提供と、その情報をもとに人々が議論を行う場が生まれていたことです。
 これはもちろんフランスで特異に起こったことではありません。同時代のイギリスでもオランダなどでも、同じようなことが起きています。
 事実、この時代にフランスで出版され、知の共有に大きな役割を果たした『百科全書』(一七五一~一七七二年刊)は、もともとイギリスの著作家チェンバーズによる『百科事典』(一七二八年刊)を翻訳しようという企画から、生まれたものだったと言われています。
 議論を行う場ということでは、イギリスではクラブやティーハウスがそれを担い、フランスではカフェや初期のレストラン、さらにはサロンと呼ばれる社交場がその役割を果たしました。人々は書籍や新聞から得た知識をそうした場所に持ち寄り、そこで世の中はどうあるべきなのかという議論を戦わせたのです。
 都市では、一定の入場料を払えば、店内に置いてある本や新聞を自由に読むことができる喫茶室のようなものも登場しています。これによって、必ずしも高価な本を買わなくても、知の共有が可能になっていました。
 市民が公の事柄について自らの意見を出し合い、議論して発信していくようになったのと同時に、官職に就いている人たちの中からも、自らの意見を主張する者たちが現れるようになっていきます。彼らの中には、認められて重要な役職に就くようになったり、地方アカデミーの会員になったりすることで、より大きな発言の場を得て社会的に上昇していく者もいました。
 各地のサロンやカフェで、みんなで議論を戦わせる中で、「あいつはなかなか良い考えを言う。彼を自分たちの代表として推していこう」という動きが生まれ、仲間のバックアップを受けて地方の行政に入り、そこでまた活躍して中央行政へ上っていって、国政に直接関わっていくというルートが、革命前のフランス社会ですでに動いていたのです。
 しかし、これはあくまでも自然発生的な動きの中で出来上がったルートなので、しっかりとしたシステム化がなされていたわけではありません。そのため、最初はうまくいっていたのですが、十八世紀の後半、革命前の時期になると、こうした上昇ルートはかなり閉塞した状況になってしまっていたのです。
 ルイ十六世が王位に就いたのは、ちょうどそんな時代でした。
 さらに不運だったのは、ただでさえ危機的な財政や経済状況が、自由主義経済路線の失敗とアメリカ独立戦争におけるアメリカ支援への負担で、さらに悪化したことでした。
 人々の不満は高まり、それなりの意見は持っていても、国政の場に行くルートがすでに閉塞状態に陥っているフランス革命直前の社会には、そうしたある種のストレスが満ちていたのではないか、と考えられるのです。

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OECD地域格差 国の競争力の原動力としての地域

『世界の地域格差』より 国の競争力の原動力としての地域
変化する地域格差
 金融危機の端緒期をピークに、各国内の地域格差は縮小しつつある。
 グローバル金融危機の後、各国内の地域的な経済格差は縮小に向かっている。OECD諸国のすべての大地域(TL2)を比較すると、1人当たりGDPでみた地域格差はいだにあるものの、それらの特質や構成は変化しつつある。2000年代初頭、1人当たりGDPの地域格差は、国内よりも国家間のほうが大きかった。イ氏所得国の成長が著しかったこともあり、2000年から2007年にかけて国内の地域格差は拡大した。その結果、国家間よりも国内の地域格差のほうが相対的に重要度を増していった。 2011年以降、高所得国の急速な成長は、この傾向を反転させた。地域格差は再び国家間で拡大する一方で、国内では大幅に縮小した。その結果、2016年における国内の地域格差は2000年よりも縮小した。2000年以降の16年間に、OECD全体の地域格差は約18%も縮小した。
 OECD全体で共通することは、首都圏の経済的な重要性が高く、またそれが増大していることである。平均してみると、国全体のGDPの26%超を首都圏が占める。各国のGDPに占める首都圏の割合について、それらの中央値をみると2000年から2016年にかけて約12%(2.8%ポイント)増加した。GDPに占める首都圏の割合は、ノルウェーが21%増大と最も大きい一方で、メキシコは8%減少した。
経済的な地域格差の拡大と縮小
 2011年以降、アイルランド、イギリス、チェコといったヨーロッパ諸国において、1人当たりGDPでみた地域格差は拡大する一方で、ヨーロッパ以外では格差の縮小が優勢となっている。
 多くのOECD加盟国において、国内総生産(GDP)の地域格差は依然として大きい。2016年、平均してみると当該国上位10%地域の1人当たりGDPは、当該国下位10%地域の2倍超の水準を示す。
 国別に1人当たりGDPの地域的な分布をみると、そこには大きな違いを見出すことができる。 2016年において、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国、フランス、スイスでは1人当たりGDPの地域格差が大きい。平均してみると、1人当たりGDPの最下位の地域と最上位の地域との間には、4イ吝を超える開きがある。イギリスにおいて、シティ・オブ・ロンドンの1人当たりGDPは、アングルシー島の23倍超となっている。
 ドイツでは、インゴルシュタットの1人当たりGDPはズュートヴェストプファルツの8倍を超えている。
 1人当たりGDPの地域的な収束は、2011年から2016年の間ではOECD加盟国の半数で起きた。この地域格差の縮小は、下位10%地域と上位10%地域の年成長率によって把握できる。29か国中15か国についてみると、1人当たりGDPの成長率は、上位10%地域よりも下位10%地域のほうが大きい。チリ、ギリシャ、オーストラリア、カナダでは、下位10%地域が上位10%地域をそれぞれ約2%ポイント以上も上回っている。しかし、1人当たりGDPの地域格差の縮小は、普遍的なものではない。OECD加盟15か国の1人当たりGDPの地域格差は、2011年から2016年にかけて拡大している。特にアイルランド、ラトビア、エストニア、ポーランドの格差拡大が顕著であり、これらの国々の1人当たりGDPの年成長率は、上位10%地域において3%ポイントを上回っている。
生産性の向上と地域差
 OECD加盟国では平均して、生産性の最も高い地域は最も低い地域の2倍の生産性を示す。
 所得の地域格差を本質的に生み出す要素は、生産性の地域的なばらつきである。総付加価値(GVA)で把握できる労働生産性は、各国間、各国内それぞれで大きく異なる。オーストリア、ベルギー、フランス、ノルウェー、スウェーデン、アメリカ合衆国といった国々において、最も労働生産性の高い地域は首都圏である。全体的にみると、サービス部門が大規模に存在する地域や、天然資源を採掘できる地域(例えばメキシコのカンペチェもしくはチリのアントファガスタ)において、労働生産性は特に高い。
 北ヨーロッパおよび西ヨーロッパのほとんどで、2016年の労働生産性の平均は6.5万米ドルから8.0万米ドル(2010年購買力平価)に達していた。フランスやドイツのように相対的に生産的な国でも、明らかに労働生産性の低い地域が存在する。同時に、労働生産性の平均が低い国々でも、高い生産性を示す地域がいくつか存在する。例えば、チェコ、ポーランド、トルコの生産性は相対的に低いが、OECD平均を上回る高い労働生産性を示す主導的な地域が存在する。空間的な視点からOECD加盟国をみると、各国内で労働生産性には幅がある。労働生産性の最も高い地域と最も低い地域との相違をみると、その値は30か国中26か国で30%を上回っている。
 労働生産性の年成長率は、ほとんどのOECD加盟国で、2016年から2010年間にゆるやかな拡大をみせた。トルコ、アイルランド、ポーランドの年成長率の平均をみると2%ポイントを上回リ、相対的に高い値を示す。これに対して、フィンランド、ギリシャ、イタリア、アメリカ合衆国の平均をみると、労働生産性は停滞もしくは悪化している。国内での成長率の地域差が大きいのは、アイルランド、メキシコ、オランダ、トルコ、アメリカ合衆国である。高い年成長率を示すのは、トルコの中央アナトリア西南部(8.9%)、アイルランドの南東部(6.9%)であり、両国の全国平均成長率はそれぞれ5.9%、3.8%となっている。
どこで労働生産性の向上は起きているのか?
 生産性の高い上位10%地域と下位10%地域との差は、3分の2以上のOECD加盟国で縮小しており、それは都市に隣接する農村地域において顕著である。
 ほとんどの国において、生産性の最も高い地域と最も低い地域との差は、2010年から2016年の間に小さくなっている。つまり、格差の縮小が起きている。労働生産性について、23か国で地域格差が縮小したのに対し、拡大したのは9か国であった。ラトビア、チリ、リトアニア、トルコ、ハンガリーでは、最も生産性の低い地域が大きく伸びた。これに対してアイルランドとエストニアでは、上位と下位の差が大きく拡大した。
 生産性は都市地域よりも農村地域のほうが低い。しかし、両者の間にある差は縮まりつつある。都市近郊農村地域は3%ポイント以上も生産性を高め、都市地域の生産性に対するギャップは82%の水準まで縮まった。これに対して2000年から2015年の間を平均してみると、大都市から離れた遠隔農村地域は、都市地域の生産性に追いつくことはできなかった。
 交易可能な産業部門の顕著な集中のみられる地域では、高い生産性の伸びがみられる。国内の他地域と比較して、交易可能な産業部門の生み出す経済的な価値(総付加価値)の占める割合が高い地域において、2005年から2015年の間に年率1、1%の成長がみられた。これに対して当該部門以外の産業に特化する地域の成長率は年率0.8%でしかなかった。平均して、交易可能な産業部門の生産性の向上は、より生産性の高い企業からもたらされている。これに対して、当該部門以外での生産性の向上は、生産性の低い産業部門から生産性の高い産業部門への雇用の再配置を通じて生み出されたものであった。
地域内および地域間での生産性の空間的な差異
 OECD加盟国において、生産性の空間的な差異の60%は、同じ大地域(TL2)内で生じている。
 OECD加盟国の生産性は、空間的な次元を色濃く持つ。つまり、隣接する地域によって生産性は大きく異なり、また口ーカルな要因にも左右される。同じ大地域(TL2)内であっても、最も生産性の高い小地域(TL3)は、最も低いそれよりも平均56%も生産的である。大地域(TL2)内の生産性の空間的な差異は、特にイギリスと韓国で明確にみられる。これは、首都圏を取り巻く地域の生産性が、その周辺の地域と比べてきわめて高いからである。
 検討したOECD加盟国22か国中14か国において、TL3地域間の生産性の差異は、もっぱら同じ大地域(TL2)内での生産性の差異によるものである。例えば、ドイツにおける生産性の空間的な差異は、ドイツ国内での州(TL2)間のものよりも、同じ州内での郡(TL3)間のもののほうが大きい。平均すると、国内のすべてのTL3地域について、それらの生産性の差異の60%は同一地域内の差異によって説明される。こうした生産性の差異は、スロバキア、フィンランド、韓国において顕著であり、これらの国をTL3地域でみた場合、全国の差異の80%以上は、同一のTL2地域内の差異によって説明される。 2000年から2015年の間に、ほとんどの国で、生産性の空間的な差異は、同一の大地域内で拡大している。その伸び率は、ノルウェーが61%超と最も大きくなっている。
 TL2地域内での生産性の差異は、都市地域と遠隔農村地域との間で顕著にみられる。ある国で最も生産性の高いフロンティア地域と呼ばれる地域のほとんどは、都市人口比率の高い都市地域であり、遠隔農村地域は、格差拡大地域、もしくは停滞地域と呼ばれる地域で構成される。これに対して、キャッチアップ地域、つまり、全国平均よりも高い生産性の向上がみられた地域は、都市への近接性や都市の持つ集積の経済から恩恵を受けることのできる中間地域もしくは農村地域である。遠隔地域でキャッチアップすることのできた地域、つまり当該国で最も生産性の高い地域との間にある生産性のギャップを埋めることのできた地域は、キャッチアップ地域全体の14%にすぎない。

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アマゾンの影響をさらに深掘リしてみる

『GAFAに克つデジタルシフト』より
ネットからリアルに本格展開し始めたアマゾン
 「アマゾンが書店だと思っていたら実は総合ショッピングモールだった」「小売店だと思っていたらメーカーだった」というアマゾンの展開について書いてきたが、次はネット企業だと思っていたらリアルにも本格進出してきたアマゾンである。
 まずは「アマゾン・ブックス」というリアル書店だ。オンライン書店で数多くのリアル書店を閉店に追いやった後に、何とアマゾン自身がリアルの書店を展開するとは! アマゾン・ブックスの最大の特徴は何と言っても、書籍の表紙を見せて陳列していることだ。通常の書店では、売り場面積が限られていること、効率性が低くなるといった理由で、キャンペーン中の本しか表紙を見せた陳列はできない。しかし、アマゾン・ブックスではネットを通じて売れ筋情報が分かっているので、すべて表紙を上にして陳列できるのである。ネットで評判の良かった本、書店のある街で一番読まれている本、キンドルで最も線が引かれた本など、アマゾンならではのデータに基づいた書籍の陳列となっている。当然ネットとリアルをうまく融合した書店となっており、書店で目にした本をネットで買うこともできるので、消費者は便利なほうを選べば良い。
 次に、今最も話題のリアル店舗は「アマゾン・ゴー」という無人コンビニであろう。スマホのアプリをダウンロードしてクレジットカードを登録してしまえば、あとは改札口のようなゲートを入り、棚の商品を自分のポケットに入れてそのまま出ていくだけで自動的に精算される。すでに米国では複数の都市に出店されていて、アマゾンは全米に3000店舗出店すると発表している。今はまだスーパーなどではレジ待ちの列が当たり前だが、近い将来かなりの小売店が無人レジになっているのであろう。
高級スーパーのホールフーズを買収した理由
 さらに驚いたのが全米ナンバーワンの高級スーパーマーケット、ホールフーズ・マーケットの買収である。アマゾンがホールフーズ・マーケットを137億ドル(約1・5兆円)という巨額で買収したのは2017年のことである。私も実際にホールフーズの店舗を訪れたが、商品棚の各所にアマゾンプライム会員特典の札がかかっていた。これだけ特典が掲出されたら、ホールフーズの利用客でアマゾンプライムに加入しない人はほとんどいないだろう。今後、アマゾンとホールフーズのシナジー(相乗効果)を追求した様々な施策が出てくると思われる。どんな打ち手を繰り出すかが楽しみでもある。
 しかし、アマゾンはなぜ巨額を投じてわざわざスーパーを買収したのだろうか? 私は宅配拠点としてホールフーズを買収したのだろうと予測している。ホールフーズは全米やカナダなどに約460ヵ所の店舗を持っているが、いずれも比較的高級な住宅街に立地している。この点から「アマゾンは非常にいい場所に冷蔵庫・冷凍庫付き配送拠点を買った」とも言えるのだ。
 未来の買い物はすべて宅配に向かっていく。ネットだけでなく、リアル店舗で買った商品であっても、持ち帰る負担から解放されるという利便性を感じて宅配を選択する消費者はかなりの数にのげるだろう。先に触れたように、今リアル店舗とオンライン店舗が融合するニューリテールという考え方が浸透しつつあるが、今後はリアル店舗であってもユーザーが利便性のために宅配を依頼できる店舗が広がっていくだろう。そうなると、宅配機能が不可欠となるし、生命線ともなる。現に日本では宅配最大手のヤマト運輸が2017年に「これ以上値上げなしには宅配できない」と宣言し、値上げに踏み切った。宅配利用の大口顧客であったEコマース店舗はコストアップを余儀なくされたわけだ。アマゾンなど体力のある大手Eコマースが自社で宅配網を整備しようとするのは当たり前とも言えるのだ。
 米国では数十年後には運送大手のUPSやフェデックスなどが駆逐され、アマゾンとウーバーに取って代わられるという予測すらある。つまり、自社の生命線を自社で構築しリスクヘッジすると同時に、数兆円規模の巨大市場である宅配もアマゾンが牛耳ろうと狙っている可能性が高いということだ。今はEコマースや店頭で買った商品の宅配でしかないが、将来は食事や薬など様々なモノが宅配で届く時代になる。
 余談になるが、日本では規制で全く進んでいないオンライン診療に、いずれアマゾンが参入すると私は予想している。単にのどの赤みを調べて風邪だと診断されるだけの診察、あるいはインフルエンザの判定のためだけに病院で長時間待つ非効率さは、多くの人が実感していることだろう。診断をオンラインで行い、薬が30分で届けば患者も医師も非常に効率的だ。実際、中国ではオンライン診療がどんどん普及しており、医師のオンライン診療からAIによる診療への移行段階にまで進んでいる。
アマゾンが「家庭内店舗」にも進出
 オンラインからリアル店舗に進出しただけでなく、ついに家庭内にも出店し始めた。スマートスピーカーの「アマゾン・エコー」は先にも触れたアレクサを搭載しており、音声でコミュニケーションが取れる。従来は買い物と言えばお店に足を運んで買うか、PCやスマホでインターネット上のECサイトにアクセスして買うか、といった世界だった。しかしアマゾンはそこから一歩進んで、自宅へお店を出店させ、消費者が手軽に自宅に居ながらにしてショッピングできる環境整備に乗り出している。「電球がないから買っておいて」とスピーカーに向かってしゃべりかければ注文が完了する。
 米国の場合はドミノピザの注文やウーバーの依頼、飛行機のチケット予約などもできるので、より多様な使い方が可能だ。日本の場合はまだ提携先が少ないためできることは限られるが、いずれは米国と同じレペルに到達するだろう。
 米国のEコマース市場で今最も伸長しているのが、声による注文「ボイスコマース」だと言われている。アマゾンだけでなく、グーグルやフェイスブックもスマートスピーカーを販売しており、日本ではLINEが参入している。かつて日本では御用聞きという商慣習があったが、まさに現代版御用聞きと考えても良いだろう。
 スマートスピーカーは各家庭に一台あれば十分だ。今後家庭内店舗をアマゾンに独占されたら、各小売店やメーカーはアマゾン・エコー上にアマゾンの言い値で出店せざるを得なくなる。将来を見据えた、末恐ろしいまでの打ち手である。
自動車の中にも店舗を出店
 アマゾンのアレクサが、今後様々な家電製品や乗り物に搭載される話は前述した。オンライン↓リアル店舗↓家庭内店舗の次にアマゾンが進出を狙っているのが「自動車内店舗」である。自動車内は基本プライベートな空間でもあり、かなりの時間を過ごす空間でもある。運転中に思いついた商品を声だけで注文できたら便利に違いない。
 PC時代の入力はキーボードだった。これがスマートフォン時代になってタッチ入力に、そしてあらゆるモノにインターネットが接続されるIoT時代には「音声入力」が主流になる。音声で指示する時代が本格的に到来したとき、実はすでにアマゾンがインタフェースを占拠している--。こんな事態が起きる可能性は十分にある。
研究開発投資は世界一
 アマゾンの怖いまでの様々な打ち手を見てきたが、最後に紹介するのはアマゾンの研究開発投資額の大きさである。米コンサルティング会社PwCが発表した「Strategy&2018年グローバル・イノベーション1000調査結果」の研究開発投資額ランキングによれば、ただでさえアマゾンはすでに脅威なのに、足元では研究開発に投じる資金額は約226億ドルでなんと世界一である。2位がアルファベット(グーグル)で約162億ドルである。これに対して11位のトヨタ自動車は100億ドル。トヨタ自動車の投資額もかなりのものだが、アマゾンはそれの2倍以上の額を投資している。
 特にアマゾンは利益を出して税金を払うくらいなら、利益の大半を事業投資に回し極力利益を出さないという手法を採用している。1社総取りのプラットフォームビジネスでは、足元の利益よりシェア重視で事業投資をし続けることが正攻法にすらなりつつある。これで革新的なサービスを効率的に続々と生み出しているわけだ。アマゾンに死角はないのか……。
 ここまでアマゾンに焦点を当てて打ち手を分析してきた。アマゾンが単なるEコマース企業ではなく、多額の研究開発費を投じ、様々な分野へ投資し、布石を打っていることがご理解いただけたと思う。アマゾン1社だけを見ても、あらゆる業界、すべての企業に影響を及ぼす可能性があるのだ。それがGAFAや新たに次々生まれてくるプラットフォーム企業の存在感たるや、まさに皆さん自身の会社にもかなりの影響があるだろう。従って、一刻も早く対策を講じなければならないのである。
 日本企業はアマゾンの影響が米国よりも一足遅いだけ、準備に備える猶予期間が与えられている。すぐさま自社が生き残る道に布石を打つべく挑戦し、将来への活路を開いていただきたい。この後は、そのヒントになるようにマクロ的視点で分析してみたい。

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10台目のICレコーダー

まとめに入ります。まとまるわけはないけど。 #まとめる
ICレコーダーの置き場所を決めよう。とりあえず、三台体制にします。いまだに超小型のレシーバーが見つかっていない。 #10台目のICレコーダー
10万円でペンパソコンを考えているけど、コクヨのキャンパスノートが使いやすい。折りたためます。これをスマホのように使いましょう。折りたためるスマホと同様なものがノートというカタチで世の中に存在しています。 #キャンパスノートが使いやすい
アラン・ケイがめざしたパソコンの未来。今はどうなっているかどうか。同様に、ホーチーミンがめざしたベトナムの未来がどうなっているかどうか。東芝がダイナブック、ジョブスがスモールトーク。皆、横からかっさらっていく連中。 #意志を継いでいるか
ICレコーダーの書き起こしをどうするのかを11月初めまでに決めないといけない。全ての思考をICレコーダーにぶち込む世界に再び入り込みます。別次元の世界になる。大変です。 #書き起こし
考える場所をどう作り出すか。豊田市図書館にはない。部屋では何かまとまらない。考えるネタはいくらでもある。ノートに問いのない答えが320もある。夜やるか朝やるかを決めないといけない。やはり、朝ですかね。 #考える場所

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GAFAを監視する

『ホモ・デジタリスの時代』より 『これからの人生』
第一に、この世界を規制するには、GAFAを監視することだ。GAFAの規模は、二十世紀初頭に巨大企業だったスタンダード・オイルと同じ問題を生み出す。われわれは当時可決された反トラスト法を再考すべきだなのだ。競争当局はこれまでGAFAに対してきわめて寛容だった。すなわち、GAFAがデジタル巾場の拡大部分を独占するのを黙認するだけでなく、GAFAが潜在的な競争相手を買収するのを放置した(例:フェイスブック社によるインスタグラムやワッツアップの開発会社の買収)。われわれはGAFAの寡占状態を解消するために知恵を絞らなければならない。たとえば、アルツハイマー型認知症などの主要なテーマに関しては公的なデータバンクを設立し、公的および民間の機関は公益の増進に寄与するために得た情報を共有すべきだ。とくに、公的機関、病院、学校などは、人工知能がもたらしうる解決策を自分たち自身で熟考する手段をもたなければならない。たとえば、病院とかかりつけ医を結ぶ医療連携ネットワークを構築するのだ。その際、公共の病院がリーダーシップをとってはどうだろうか。また、文部省が教員たちの支持を取り付け、学習に困難のある生徒をデジタル技術によって援助することも考えられる。
ソーシャル・ネットワークにおける私生活の消滅も規制対象にすべき主要なテーマである。インターネットは、増悪のこもった文章を書く匿名の人物を保護しながらも、個人のデータが何の配慮もなく売りさばかれるという奇妙な世界を構築した。中世以来、不当拘禁されている被害者を保護するために導入されたイギリスの法律「ヘイビアス・コーパス」〔人身保護令状〕のデジタル版の制定が必要不可欠だ。それはケンブリッジ・アナリティカ社〔選挙コンサルティング会社〕の一件からも明白である。すでに倒産したこの怪しげな会社は、アメリカ大統領選でトランプ候補を支援するために数千万人のフェイスブック利用者の情報を盗み取った。トランプの選挙チームはそれらの情報に基づき、投票先を決めていない選挙民に標的を定めて選挙運動を展開した。二〇一六年のアメリカ大統領選の結果がスウィング・ステート〔共和党と民主党の支持率が措抗する激戦州〕の数万人の選挙民によって決まったことを思い起こせば、トランプがクリントンを負かしたのは、このやり口が功を奏したからかもしれない。
GAFAが品行方正な会社だとしても、自主規制では不充分だ。欧州委員会は、個人データの保護に関する法整備を進め、二〇二八年五月にはEU一般データ保護規則(GDPR)を適用した。グーグル社はこれを見越して、自社がホスティングするメールの中身を盗み見することはしないと宣言した。欧州委員会は、フランスの規制や「情報処理および自由に関する国家委員会(CNIL)」の判例を一般化させ、何の罪もない人物が糾弾の対象になることを禁じる「忘れられる権利」など、個人のデータに関する新たな保護を普及させた。官民が活用するアルゴリズムも、銀行の融資や大学への進学許可など、人々の暮らしに大きな影響をおよぼすようになった。よって、それらのアルゴリズムの透明性を高める必要がある。当局は活用するアルゴリズムに説明義務を負うのだ。また、同様の決まりを民間にも課すべきだ。こうした措置を実行するには、当然ながら管理当局と対抗勢力が必要になる。
デジタル世界全体が自分たちの責任を自問すべきだ。数多くの仕事がウーバー化される今日、新たな社会的な規制を熟考することが急務である。新たな社会はフォード型社会を解体し、かつては同じ雇用主のもとで働いていた家政婦とエンジニアとの間に存在しえた連帯感を破壊した。労働者が自営茉者のような労働環境にあるサービス社会において、こうした密接なつながりを再構築するのはきわめて困難である。今日の分裂した社会において生活の不慮の出来事に対して、これまでにない保護を提供するモデルを考案する必要がある。これが新たな社会保障と呼ばれる課題だ。
旧モデル解体の影響をまともに食らった制度の一つが労働組合運動である。労働組合運動の意義は失われたのではないかと考える人々がいる。しかしながら、九〇年代のアメリカは(つかの間の)完全雇用だったこともあったが、サービス社会では刷新された労働組合運動が効果的に機能した。たとえば、フィリップ・アシュケナージによると、八〇年代に多発した労働災害は、労働組合の新たな指導によって減少したという。「清掃業労働者に正義を」という活動がその例証だ。この活動では、ビルの管理業に従事する労働者の労働条件を改善するために数千人の労働者が結託して大きな成果を上げた。労働災害の発生件数が激減したのである。政治における代表民主制と同様、労働界における労働組合運動はきわめて重要だ。なぜなら、労働者は組合運動によって自分たちの意見を表明する手段を得るからだ。とくにスカンジナビア諸国など、労働組合運動がいまだに盛んな地域では、オランダのワッセナー協定やデンマークのフレキシキュリティ〔柔軟性と保障〕などの大胆な社会的実験が実施された。雇用主に現場感覚がない場合や、異議を唱えるのが難しいデジタルな労働環境である場合には、労働組合の活動はとても重要になる。
最近行なわれた個人を保護する討論では、先述以外にもさまざまなアイデアが登場した。二〇一七年のフランス大統領選挙戦で斬新だった論点の一つは、ユニバーサル・ベーシックインカムだ。だが、このアイデアを掲げた候補の得票率はきわめて低かった(ブノワ・アモンの六・四%)。したがって、このアイデアを政治的な案件にするには、相当な困難が予想される。ユニバーサル・ベーシックインカムは、就労を否定する怠惰の権利だと批判されたのである……。しかしながら、ユニバーサル・ベーシックインカムを就労拒否と見なすのは誤りだ。このアイデアの主たる提唱者の一人フィリップ・ヴァン・パレース〔一九五一-、ベルギーの哲学者〕は、そうした反論に真っ向から異議を述べた。パレースは、二十世紀の偉大なアイデアは労働時間の短縮であり、二十一世紀はユニバーサル・ベーシックインカムだと主張する……。ユニバーサル・ベーシックインカムは、就労時間を減らすのではなく、生き延びるためには劣悪な労働条件の職業に就かざるをえない人々が蒙る飼喝に対抗するための一つの手段なのだ。このアイデアを最初に提唱した人物の一人トマス・ペイン〔一七三七-一八〇九〕はユニバーサル・ベーシックインカムを、遺産相続によって生じる資産格差を是正するための手段だと考えた。遺産相続によって勤労意欲がなくなると主張する者は、これまで誰もいなかったではないか……。ユニバーサル・ベーシックインカムの狙いは、社会につきまとう「人間の労働はどうなるのか」という疑問を和らげることだ。アマルティア・セン〔一九三三-、インドの経済学煮が示唆する道筋では、ユニバーサル・ベーシックインカムは自由の獲得と定義できる。この仕組みによって人々は芸術家や農民のように、不名誉な仕事を拒否でき、自身の期待に見合う将来を築くことができる。
デジタル社会では、われわれは画面にくぎ付けにされる。こうした状況に再考を促す新たな「芸術的な批判」も必要だ。現在、中断や割り込みの技法を培う必要性がこれまで以上に求められている。昔のれ川の安息のように、フェイスブックにアクセスしない日は幸福感が増すことがわかっている。即答しなければならないメールや電話に中断されることなく誰かと会話するのは、ほぼ不可能になった。人間関係を再び文明化する過程が必要不可欠になったのである。雑誌『ニューヨーカー』の編集長デイヴィッド・レムニックが語ったように、われわれは自分たちのデジタル脅迫概念、つまり、他者への配慮にデジタルがおよぼす影響や自分たちの批判精神について自問すべきなのだ。「デジタルの世界の勝利とその魔術は本物だが、道徳的な問題を考える時期が訪れた」のである。
デジタルな世界で市民権を得なければならない子供と青少年には、彼らが将来遭遇するだろう困難を乗り越えるための教育を施す必要がある。サディンやティスロンは、若者にコンピュータの基礎を教える重要性を説く。その理由は、必ずしも情報工学の専門家になるためでなく、ロボットはアルゴリズムによって制御されており、アルゴリズムは人間によってつくったり壊したりできるということを教えるためである。これは人間の要求に対して人間を麻輝させるような異常な特性をもつロボットが現われるのを防ぐための最良の方法だろう。保護すべき必要不可欠なもう一本の支柱は、文字や本の文化だ。書き取りを完璧にこなせるようになるよりも、読書の楽しみを教えることのほうが重要だ。フランスの若者は「OECD生徒の学習到達度調査」でランクをさげている(またしても一ランク下がった)。彼らは文書を一字一句読むというよりも、文章全体の内容を把握する能力に欠けている。ロベルト・カゼッリがユーモアを交えて分析するには、本は著者と読者との契約である。著者は読者がどのように本の内容を解釈しようが自由だと約束する一方で、読者は少なくともしばらくの時間は自身の集中力を本に捧げることを誓う。
「書き手がiPadの無数の誘惑と競い合わなければならないのなら、書き手は論証によってというよりも感情に働きかけようとするだろう」。ミラン・クンデラは電子書籍を痛烈に批判したが、これはデジタル書籍が悪いという意味ではない。そうではなく、読書に集中するための条件を設ける必要があるのだ。とくに若者向けの著書の場合、著者が読者に訴える機会を与えるために、読者がインターネット接続などのオプション機能を利用しないことが重要なのだ。
デジタルの世界は地球温暖化を食い止めると紹介されるが、それは間違いだ。たしかに、新たなテクノロジーにより、これまでの工業社会は最適化される。公害や交通渋滞はさまざまな方法によって効果的に制御できる。たとえば、ゼネラル・エレクトリック社の人工知能ソフトウェアを利用すれば電気の消費量をおよそ四〇%削減できる。既存の管理プロセスを最適化すればエネルギー消費量を最低限にできるというのが「スマート・シティ」の約束である。問題は最低限であってもあまりにも大量だということだ。情報工学の世界からも大量の二酸化炭素ガスが排出される。コンピュータは大量のエネルギーを消費するのだ。たとえば、フェイスブック社はコンピュータの発熱量を減らすために一部のサーバーを、北極圏から一〇〇キロメートルほどのところに位置するノルウェーに移転させた。人間の頭脳と比較すると、デジタル社会は大量のエネルギーを消費することがわかる。人間の頭脳にある一〇〇〇億個の神経細胞のエネルギー消費量をシミュレーションする際に参考になるのが、世界最速のコンピュータ「セコイア」だ。このコンピュータはこIギガワットを消費する。これはブラジルとパラグアイの国境にある巨大なイタイプ・ダムの発電量に相当する。一方、二〇ワット程度しか消費しない人間は、(生物学的な意味で)環境に優しいモデルだ。新たなテクノロジーの世界が環境に優しいモデルになるための道のりはまだかなり長い。
六〇年代に登場した脱物質主義社会の理想は、この社会が生み出した経済危機と金融不安によって遠のいた。問題は「経済危機」がこの社会システムの機能において常態化したことだ。ユニバーサル・ベーシックインカムは、安全を求める人々の要求を満たし、サバイバルという切迫した事態に陥っても生きる意欲を失わせないようにするための一つの道具だ。しかし、さらに踏み込まなければならない。アンドレ・ゴルツが六〇年代に記した著書『さらば、プロレタリアート』で語ったことは現在にも通じる。「資本主義は、《本当の》欲求を熟考し、そうした欲求を満たす最良の手段を他者と話し合い、探究する余地のある選択肢を堂々と明示しようとする願いと能力を人々から奪った」。
誰もが自身の「本当の」欲求という反逆の信条をもち続けられるようにするというのが、新たな「芸術的な批判」の役割になるはずだ。

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「居たい」と思う文化と図書館の役割

『図書館・まち育て・デモクラシー』より 文化格差は埋められるか
ここで「暮らしたい」という感覚の背景にあるのは、ハード面での条件が中心になるだろう。例えば自然環境や交通至便性など、住環境を中心とした諸条件に収斂される。
一方で、ここに「居たい」と思う感覚は、どんなふうに過ごせるかというソフト面での条件が背景にあるように思う。例えば、おしゃれなカフェやショップがある、洗練されたコレクションやプログラムを企画できる美術館や文化ホールがある、など優れたデザインであれば図書館もこれに加えることができるだろう。
これからの時代を担っていく若い世代が、ここにいたいと思えるまちには、その世代の感受性に響く文化の存在が不可欠である。しかし、ただ大都市が提供しているようなメジャーな文化をそっくりそのまま地方都市に持ち込めるわけではない。また、そうしたものを恣意的につまんではめ込んだからといって、若い世代が寄り付くとはかぎらない。
仮に進学や就職でいったん外に出たとしても、やっぱりあのまちで暮らしたい、過ごしたいと思える場所には、何か求められるのだろうか。
それは、おそらくは、個々人の主体性が保障される場、あるいは可能性を引き出してくれる場ではないだろうか。
イベント企画や自然保護活動でもいい。子育てや高齢者福祉、または地域の素材を生かした名物づくりでもいい。若い世代が自分の将来を夢見たり、漠然と未来を展望したり、自分が生きている手の届く場所で、楽しいことをしてみたいと思うような主体性を引き出してくれる「可能性の見本」が、そのまちにあるかどうかである。
具体的には、そのような意欲的な大人がいること、いろいろな発想のヒントになる多様な情報が身近にあること、同じように何か楽しいことをしたいと思える仲間と出会える場があることだ。
なかなかそんな状況がないから、東京一極集中がずっと続いているのだろう。そして、そのことが地方の疲弊を助長してもいる。
ただ、人口減少に歯止めをかけて転入者を増やしている地域では、行政の政策ももちろんだが、地域社会が一丸となって、その地域らしさを生かしながら、その場所で魅力的な日常を過ごすための様々な工夫をしている。
例えば兵庫県豊岡市では、城崎温泉の一角に、稼働率が悪い県施設の払い下げを受けて城崎国際アートセンターにリノベーションした施設がオープンした。平田オリザを「芸術文化参与」に迎え、国際的な舞台芸術のアーティスト・イン・レジデンスとして活用し、世界中のパフォーミングアーティストが訪れる拠点として生かしている。ここでは、アーティストが無償で利用できるかわりに、市民にワークショップやリハーサルの公開をするなどして、世界の一流の舞台芸術を体験できる時間を設けたり、地元旅館との連携による企画をおこなったりすることによって、城崎温泉街の存在感も上がっている。また、学校教育の現場で、演劇手法を生かしたコミュニケーション教育も取り入れ、目の前に迫った大学入試改革への対応として、自分の特性を知ったうえでの他者との関係性の作り方などへの取り組みも進んでいる。
図書館も、こうした日常の居場所として、子どもと子育て世代が子どもの泣き声を気にせずにゆったりと過ごせ、中・高校生から大学生が自習や友達とのおしゃべりを楽しめ、ビジネスパーソンや多様な職業の社会人がそれぞれの必要のため、情報と空間を利用し、高齢者は一人でも仲間と和やかに交流できる空間を作れば、「居たい場所」としてそのまちで存在感を発揮できるだろう。
そのためには、建築として洗練され、かつ機能的な優れたデザインの図書館でなければならない。そして何より、サービスパーソンである図書館司書自身が、清潔でソフィスティケートされた雰囲気をたたえ、情報ナビゲーターとしてのスキルをもった存在であることが求められる。市民の興味・関心、地域の課題、世の中のトレンドも意識しながら、人々が出会うイベント企画を打ち出し、あるいは積極的な提案を持ち寄る市民をコーディネートし、協働の事業を編成していけるような、プロデューサーであり、ファシリテーターであり、コーディネーターでもあることができる、高いコミュニケーションセンスとスキルを身につけておく必要がある。
ずいぷんと高いハードルを描いた。しかし、図書館は、そうしたスキルがあってはじめて、そこにある空間や情報資源を十分に役立てることができる。図書館資源が市民にとって生きたものとして有用性を発揮するには、プロパーが関わり、情報が生きるコミュニティーをコーディネートする必要がある。
それは社会教育主事の専門領域ではないか、という声もあるだろう。そうした専門職との協業が成立すればそれもいいが、多くの自治体で社会教育主事の配置が減少し、その実態は心もとない。
図書館司書は、資料の組織化やそれに伴う情報技術、また資料情報提供や探索の専門家であることが一義的とされてきた。しかし、これからの図書館司書には、情報が役立つためのコーディネータースキル、また、情報をもとに地域社会の課題解決をサポートし、そのための協働をデザインするコミュニティーオーガナイザーとしての役割も求められている。
この専門性は、分離して構想してもいい。しかし、人口が十万人を下回る多くの市域では、そのような細分化された専門性を個別に維持することは事実上不可能である。
逆に、その役割が倭小化され、単純な貸出作業が主な仕事と誤解されている図書館司書が、情報の専門家として、そのスキルを生かし、コミュニティーの維持・発展をサポートするという新たな専門性の開発と育成を真剣に考えていかなければならない。そうしなければ、早晩、図書館司書は、自動貸出機とAIレファレンサーに取って代わられるかもしれない。
いま最も社会に不足している資源は、人が人として人間らしく生きていくためのコミュニケーションを成立させる関係性構築サービスなのではないだろうか。
そうした思考とスキルが、コミュニティー形成を支援し、東京一極集中を横目に、その地域でしか得られない楽しみや美しさや驚きを創造し、演出する。そしてそのことが、市民の主体性と自主性を基調とした公共性が高い自治体づくり、まち育てにつながるのではないだろうか。

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