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未唯宇宙 4.6.4

F3Eの先進性

 多様であるために武装化とか情報共有が必要になってくる。同じことが東富士のF3Eでも言える。これは世間には知られてないけど、驚異的なグループだった。全員に専門性が問われていた。私には数学者としての役割が求められた。メンバーを組み合わせることで、全てに対応できた。井上次長の夢のカタチ。30年前に電気、 水素、自動運転それらは全てそこにあった。

 そのグループも効率化という名前で流された。今の社長では所詮イノベーションは不可能。社会を変革するものとしてのクルマという意識がない。車で遊んでいるだけ。

GRは500万円もするって

 カローラ店の店舗が全面改装されるが、どうもGRのためみたい。この世界、このインフラのもとにあんな車は 邪魔。

全握に行きたいけど

 今日は大阪で全握。混むだろうな。リアルタイムで見てたら、第一報で2000人、第二報で3000人、第三報で6000人がミニラに並んでいるとのこと。やはり、在宅で12時のかなのショールームにしておきましょう。

4.6.4「個の力を活かす」

 歴史で一番変わるの 個の力です。これを如何に活かすか。家族でもなく、組織でもなく、個から見ていく世界を作っていく。歴史の必然です。未来方程式。情報共有と個人の分化から考えた時に出てきた未来に対するシナリオ。マーケティングから始まり、ステップ理論で伝播していく世界。

 これの大きなサンプルはイスラエルのキブツ。アラブに囲まれた孤島の中で、いかに個人を活かしていくか。ユダヤの知恵が歴史が集まったかたち。内なる世界を作り出す力。これがクルアーンのウンマの世界と融合したら、次の世界ができる。

 ネットワークはどう進化するのか。価値観が異なり目的が異なるものをつなぎ合わせる世界。そこにおいて Googleのような企業がどう働くか。全ての準備は整っている。

 歴史において、知の共有の世界が見えてきた。個人が発信したもの、それをリアルに接続するそのためのクラウド。そして、それを貯めるためのライブラリ。それらを個人の意識で統合していく。
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全体主義をデザインする

『ゲーム理論はアート』より 全体主義をデザインする 全体主義に向きあう

ツェッペリン広場にて

 私は、短い休暇をとって、ドイツのニュルンベルク郊外にあるツェッペリン広場を訪れてこの原稿を書き始めている。2015年8月のことである。

 ここはかつて、アドルフ・ヒトラー‘がナチの党大会をおこなっていた場所だ。当時のドイツ国民のヒトラーに対する熱狂ぶりは、例えば、レニ・リーフェンシュタータ監督の記録映画『意志の勝利』(1934年制作、日本公開1942年)などを観れば、いやというほど思い知らされるはずだ。

 この映画の中で絶叫していたヒトラーの演説台は、今私の目前にある。

 ヒトラー政権は、「ニュルンベルク法」と称される人種差別法を制定するなどして、ユダヤ人を大量虐殺に追い込んでいった。そして、多くのドイツ国民が、こんな悪魔的国家政策に加担していった。

 なぜこのようなことが起こったのか。どんな条件がそろえば、これからも起こりうるのか。

 本章は、現代においてもタブー視されるヒトラーに代表されるような「全体主義」について、ゲーム理論的に、そして私なりの仕方によって解明する。

 全体主義とは、個々人が、自立的に判断する自由や意思を失って、政策当局や権威者といった「地位の高い」人の意図に、無思慮に従っている社会を意味する。こんな全体主義を、ゲーム理論によって解明していこうというわけだ。本章のテーマは実に重い。

 私は、父親の影響で、幼いころからベートーベンやワーグナーといったドイツの音楽芸術に親しんできた。特に、フルトヴェンダラーという指揮者が、今でも私の大のお気に入りだ。

 フルトヴェングラーは、古めのクラシックファンにとっては、再現芸術の頂点とされる人物である。こんなファンにとって、再現芸術は楽曲そのものと同じくらいの高みにある。そのため、べートーベンとフルトヴェングラーは、時として同格にさえなる。例えば、ベートーベンの交響曲第9番を聞いて感動するのは、ベートーベンに対してではなくフルトヴェングラーに対して、といった具合になるのだ。

 こんなフルトヴェングラーが最高潮に活躍したのは、第二次世界大戦中、ヒトラー政権下のドイツだ。しかも、ワーグナーとフルトヴェングラーはヒトラーの大のお気に入りたったそうだ。

 これでは私とまるで同じじゃないか。ヒトラーというとんでもない悪魔と同じ趣味をもっている以上、私は、邪悪な企みに協力するような大人になっていくんじゃないだろうか。

 普段あまり素行のよろしくなかった幼い私は、時々こんな不安を、内心感じていたのだ。

アイヒマンとアーレント

 その後だいぶ経って、ユダヤ人を次々に死の収容所に送り込んでいた実行犯が逮捕されたのが、ちょうど私が生まれた1960年であることを知った。さらに時を経て、この実行犯の名前はアイヒマンといい、イスラエルで裁判を受けて処刑されたと知った。ついには、ハンナ・アーレントという哲学者が、アイヒマンの裁判について、『イスラエルのアイヒマン』という本を出版して、大いに評判になったことを知るにいたった。

 はたしてアイヒマンとはどのような人物だったのか。その残虐な行為から察するに、ヒトラーと同じくらい悪魔の動機をもった人物に間違いない。

 ところがアーレントは、裁判の様子を見て、アイヒマンはとこにでもいるごく平凡な小役人風の人物だと分析したのだ。邪悪な動機や企みなど、もともと持ち合わせていなかったというわけだ。

 では、何かアイヒマンをこんな大量虐殺に駆り立てたのだろうか。

 アイヒマンは、最初はヒトラーの政策に懐疑的だった。しかし、1942年、ユダヤ人大量虐殺を決議したとされている「ヴァンゼー会議」に出席した際、地位の上の人がそれを強く支持していたこと、参加者全員が競って賛同していたことを目の当たりにした。これを契機に豹変して、自分でものごとを判断するのをやめ、上司の意図を常に忠実に実行するという態度を決めこんだ、というわけだ。

従順と同調

 ヴァンゼー会議を契機に、「従順」と「同調」という2つの感情が、アイヒマンの行動を支配するようになったと考えられる。従順とは、上司の意図に忠実にふるまいたいとする感情を指す。同調とは、周りの人が上司に従順であればあるほど、自分も従順でありたいとする感情を指す。

 従順と同調以外の感情、例えば、上司の意図することは人道的に問題があるのでそれには従いたくないとか、嫌いな上司なのでむしろ邪魔したいとかいった別の感情は、ことごとく抑制されて、彼の行動に影響を与えなくなった。

 私は、第2章キュレーション3において、「心理ゲーム」を使って、従順と同調について解説した。今ここでもう一度、その内容を確認しているのである。

 アイヒマンの性格には、2つの特徴がある。1つ目は、非常に強い従順と同調の感情をもっていることである。2つ目は、同調の感情が他の感情をシャットアウトすることである。

 アイヒマンの性格は、その第1の特徴については、たしかに特殊と言えるかもしれない。しかし、第2の特徴は、集団の中で、人々か空気を読んで、「事なかれ主義」に徹しようとする、一般の人にも起こりうる心理に相通じる。それは、前章で説明した「アビリーンのパラドクス」のような、「集団的決定の失敗」を誘発する心理である。だから、アイヒマンの性格の第2の特徴は、普遍的な人間の性とみなされてよい。

 ならば、もしアイヒマンがヴァンゼー会議で経験したのと同じようなプロセスを人為的に作り出せるとしたならば、我々は、いつでも、どのような問題に対しても、アイヒマンのような心理状態を再現できるかもしれない。つまり、日常的に「全体主義」をデザインできるかもしれない。もしそうなら、これは恐ろしいことだ。

 ならば、全体主義のしくみは何かを、ゲーム理論的に思いつくことが、不可欠になる。

 この恐ろしい可能性を示唆するエピソードとして、心理学者ジンバルドーによる「スタンフォード監獄実験」がよく知られている。ジンバルドーは、多くの被験者が権力者の非人道的な意図に忠実にふるまおうとする状況を、実験室で作り出して見せたのだ。

 実験主催者は、被験者を、監獄を想定した密室に閉じ込めて、囚人と監視人とに役割分担させる。すると、被験者は、自分に課せられた役割に、まるで際限ないかのように忠実にふるまおうとするようになる。挙句は、深刻な虐待が繰り返される。

 実験主催者は、被験者の心理状態をコントロールできてしまう。個人の自立的自由をうげって、全体主義を実験室に再現できてしまう。場合によっては、アイヒマンの第一の特徴のような、強力な従順と同調の感情をも、人為的に引き起こせてしまう。

 私は、この実験にみられる現象の内に、集団を考える場合の基本とされるべきアプローチの可能性を感じざるを得ない。例えば、学校のクラスにおいて、生徒が何らかの役割を演じることで、自身のアイデンティティーを保とうとすることが、日常的に想定される。

 とは言うものの、本章は、あえて、これほどまでに強いマインド・コントロータは日常的でないとする立場をとるとしよう。これは、アイヒマンの第2の特徴にフォーカスをあてるためである。

 アイヒマンやそれに関連する実験などから、ヒトラーのような邪悪な動機とは別に、従順と同調もまた、全体主義を理解するに欠かせない重要なキーワードであることがわかる。ただし、これらの観測だけでは、全体主義のしくみの何たるかについては、何も語ってくれない。だから、全体主義のしくみについて、我々は、これから新しい何かを思いつかないといけない。

 従順や同調といった感情は、集団的決定のプロセスの在り方如何によってさまざまに引き起こされる。これらの感情にともなって生じる心理的な負担(心理的コスト)は、第1章や第2章で説明してきた、社会理論を開拓する上で欠かせない、内生的選好の重要な例である。それは、経済的配分から得られる利己的便益のような、より生得的な、外生的に与えられた選好とは、区別して考えないといけない。

 アイヒマンの第2の特徴の意味することは、内生的選好として考えるべき感情は、従順と同調のみだ、ということである。それら以外の感情は切り捨てられる。

 本章は、全体主義のしくみを明らかにするため、集団的決定を、従順や同調といった内生的選好を組み入れて、「心理ゲーム」として検討していく。心理ゲームを、自立的自由が失われている全体主義の説明に応用できるならば、どのような議論が成立するのか。これを本章で考えるのであ

 心理ゲームと全体主義との関係がわかってくれば、ナチスによる大量虐殺のような大問題に限らず、もっと日常的なハラスメントなどについても、その背景に秘密裏に「全体主義もどき」が成立していて、邪悪な意図が実行されていることを、暴くことができるようになる。

 経済主体は、外生的選好をもつがゆえに配分から得られる利己的便益の向上を追求する存在でもある。本章でもこの前提は踏襲される。

 そのため、本章は、政策当局か感情をコントロールできるとしても、利己的便益に比べれば、それは微々たる心理的コストの差でしかないことを仮定する。

 しかし、従順や同調がもたらすわずかな心理的コストの差を巧みに利用できるならば、プレーヤーから、政策当局の意図に忠実な行動を引き出せるのだ。このことを、これから探究するのである。
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土木業界の将来展望

『土木業界の動向とカラクリがよ~くわかる本』より 土木業界の将来展望 ⇒ 地域インフラは市民が作り出す。景観維持のために、地下の活用技術が決め手

公共工事は誰のため?

 公共工事は、地域住民そして国民全体のために行われるべきものです。しかし、多くの国民にとっては無駄であるにもかかわらず、一部の当事者だけに有益な工事の問題が指摘されてきました。

 公共工事では、たとえ、入札を行って最低限の費用で調達したとしても、そこから得られる便益に効果が少なければ、事業自体が適切でないということになります。

 その一方で、公共工事には地域振興の側面もあります。そのために、例えば、一〇〇年に一度しか起きない災害のために過度の防災対策工事を計画することもあります。どの程度の安全を確保するためにどのような工事をするかというのは、本来、コストと便益を比較して検討する必要がありますが、東日本大震災の被害から見ると、どこまでが適切な対策なのか判断に迷いま二す。公共工事には、地域振興のためから、費用を上回る ように便益を見積もるようなことも発生しています。

 国土交通省では、一九九八(平成一〇)年度から個別の公共事業について新規事業採択時評価と再評価を開始し、二〇〇三(平成一五)年からは完成後の事後評価も実施しています。二〇〇九(平成二一)年度からは直轄事業等の再評価について、地元の負担者である都道府県・政令市等からの意見も聴くようになりました。二〇一〇(平成二二)年度からは、一回目の再評価を一〇年から五年以内に短縮にし、評価の実施サイクルを五年から三年に短縮しました。事業性評価では、事業費や維持管理費用などの費用と、災害軽減効果や移動時間・輸送コスト低減などの効果を対比して検討します。きちんと評価をしようとする動きが進んでいます。

 二〇一七(平成二九)年からは、貨幣換算できない費用便益以外の効果も含めて総合的に評価する仕組みの検討が始まっています。

これから伸びる維持補修市場

 二〇一二(平成二四)年一二月に中央自動車道笹子トンネルで発生した天井板の崩落事故をきっかけに、道路の橋やトンネルでの定期点検が義務化されました。

 日本の道路橋は、昭和三〇年代の高度成長期に大量に建設され、経済発展と国民生活の向上に大きな役割を果たしてきました。今後、橋梁の急速な高齢化により劣化や損傷が続出することが懸念されています。

 国内には、約七三万の橋梁と約一万のトンネルがあり、このうち建設後五〇年以上経過した橋の割合は、二〇一三(平成二五)年三月時点では全体の約一八%でしたが、一〇年後には約四三%にまで急増します。卜ンネルでは、約二〇%が三四%に増加します。

 五年度ごとの点検

  このような現状から、橋とトンネルについて、五年に一度、国が定める基準により近接目視点検を行うことが義務化されました。「打音検査が可能な距離まで近づく近接目視」を行い、必要に応じて、触診や打音検杏を含む非破壊検査を実施します。道路橋では、主桁や床版、支承といった部材単位の健全性と、橋ごとの健全性を判定します。部材単位の健全性の診断結果に基づいて、補修や補強、撤去、通行規制などの措置を講じることになります。

  点検の結果は、「健全」、「予防保全段階」、「早期措置段階」、「緊急措置段階」の四段階に区分されます。道路橋の一二%、トンネルの四五%が早期または緊急措置段階と判定されています。

  社会資本一〇分野の維持管理・更新費用は、平成一・五年度の三・六兆円に対して、一〇年後は四・三~五・一兆円、二〇年後は四・六~五・五兆円と予測されています。

効率を高める「ワンデーレスポンス」活動

 工事現場の最大の課題は工期の短縮です。公共工事の受注者からの問い合わせに対して、発注者が即日回答する「ワンデーレスポンス」活動が全国的に広がっています。

 公共工事の削減による受注競争により、価格競争が激しくなっています。工事中に想定外の問題が発生して対応が遅れると工期が延び、それだけ、受注者の収益が圧迫されることになります。そして、工事の品質確保にも影響することが心配されます。このような遅れが発生する原因の一つとして、想定外の問題発生時に受注者からの問い合わせに対する発注者の回答が遅いという問題がありました。

 ワンデーレスポンス活動は、受注者からの問い合わせに一日で回答するか、いつまでに回答するかを一日で回答する活動です。回答納期の基準を設けて結果を評価しないと、改善につながらないと考えたからです。

 国土交通省から始まったこの活動は、全国都道府県・政令市のうち多くの自治体で実施され、防衛施設庁など他省庁へも広がっています。

 三方良しの公共事業改革一

  当初、技術系職員の少ない地方自治体からは、導入の難しさも指摘されましたが、工期短縮という直接的な効果だけでなく、試行的なワンデーレスポンス活動によって受発注者間のコミュニケーションが良くなることが確認され、導入が進んでいます。

  工事の早期完了は、納税者である住民、発注者、受注者の三者がメリットを得ることができるため、この活動は、「三方良しの公共事業改革」と呼ばれています。

  ワンデーレスポンス活動では、CCPMというプロジェクト管理手法が使われます。

土木構造物に求められる景観への配慮

 「物の豊かさから心の豊かさ」へという価値観の変化に応じて、土木構造物に求められるものも変わってきています。自然環境調和への気運が大きく高まっています。

 戦後の高度経済成長期を通じて、早急な社会基盤整備が求められたため、基本性能のみを重視した土木構造物が多く建設されてきました。一九九〇年頃から、環境意識の向上、生活のゆとりや豊かさといった新たなニーズが生まれ、「景観」が土木構造物の重要な性能として求められるようになっています。

 構造物に求められるシンボル性と調和性

  土木構造物の景観デザインの目的は、造形的な美しさを求めるだけでなく、人々の生活の一部として土木をとらえ、自然環境と融和し、長く愛される豊かな風景を創造することにあります。例えば、山間部の道路の法面(のりめん)は、できるだけ周囲に溶け込んで自然に見えることが理想です。

  道路の景観デザインは、基本的に地形と走行条件に合わせて設計しますが、車内からの眺望や周辺地域からの見え方なども含めて多角的に検討します。トンネルの入口では、視覚的な抵抗があるとドライバーがブレーキを踏むことが多くなります。そこで、進入抵抗感がなくなるように周囲と調和した自然な入口をデザインしています。

  橋梁は、構造、施工、維持管理、コストだけでなく景観も重要な要素です。吊り橋、斜張橋、アーチ橋、ラーメン橋などの、形によって周辺を含めた景観が大きく変わるため、多面的に橋梁形式を検討します。橋梁の場合は、装飾でデザインをしている例も多くありますが、基本的には橋梁形式の選択が大きなポイントとなります。

 都市景観の回復

  日本橋は国の重要文化財として指定されていると共に、日本の三名橋の一つとしても数えられています。ところが、一九六四(昭和三九)年の東京オリンピックを間近に控えた首都高速道路の建設において、時間・財政共に厳しかったため、河川などの公共空間が活用されました。日本橋も、首都高速道路が上空を覆うように建設されました。都市景観を阻害すると共に、重要な文化資産である日本橋の価値を下げていることが、最近になって問題となっています。東京・日本橋の景観を取り戻すため、首都高速道路を地下に通して高架を撤去する計画の検討が始まっています。

  韓国では、ソウル中心街を流れる清渓川復元事業が有名です。以前は、川に蓋をして、その上を高速道路が走っていましたが、高速道路を撤去してソウルの象徴として有名な清渓川を復元しました。新たな観光資源となり、世界中から人を集めています。住民の価値観の変化に応じて、土木構造物に求められるものも変わっていくのです。

CIMが変えるこれからの社会資本整備

 これからの社会資本整備では、ライフサイクル全体でのデータの蓄積と活用、共有化で効率化が進みます。

 CIM(Construction Information Modeling)は、調査・計画・設計・施工から維持管理までの構造物のライフサイクルにおいて、データを連携・発展させることで、業務効率化や高度化を目指す取り組みです。関係者が三次元モデルデータを共有して有効に活用します。工事の進捗に合わせて、コストや仕上げ・管理情報なども付加していきます。

 CIMによる認識の共有化

  従来の図面を用いた検討では、関係者それぞれが現場の様子をイメージしながら業務を進めていたため、お互いが描いているイメージの確認ができず、認識の齟齬が生まれることがありました。CIMによる三次元モデルを活用することによって、構造や施工手順、周囲との干渉などが立体的に確認できるため、イメージの共有化を図ることができます。そして、共通認識のための時間を大幅に短縮することができます。さらに、これまでは気づかなかった課題や潜在的な問題が三次元モデルによって顕在化することで、課題の検討を事前に行うことも可能となります。

  これにより、業務や工事の手戻りを防ぎスムーズな業務遂行につながります。品質向上、生産性向上などの効果が期待されます。

  三次元モデルによって住民にも理解しやすくなるため、合意形成の迅速化にもつながります。これから増加するインフラ老朽化対策工事や労働者不足といった課題の解決に欠かせない技術です。CIMによってこれからの土木業界が大きく変革することが期待されています。
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時間のなかの電力・エネルギー政策

『電力と政治』より 時間のなかの電力・エネルギー政策

「正のフィードバック」

 政治分析において、なぜ歴史が重要なのか。ピアソンは、その第一の理由として、多くの社会過程に「経路依存」が生じているからだと論じる。「経路依存」とは多義的な概念なのだが、ピアソンは、「自己強化過程」と「正のフィードバック過程」の力学を重視する。すなわち「経路依存」とは、初期段階では複数の帰結が生じる可能性があるものの、相対的に小さな事象ないしは偶発的な事象によって、特定の経路が定まる(この時点を「決定的分岐点」ないしは「重大局面」と呼ぶ)と、自己強化過程が蓄積される結果、一つの帰結へと加速的に進行していき、その方向を変更することはきわめて難しくなってしまうということを指す。それは、かつて選ぶことができた選択肢よりも、現時点で選択している選択肢の相対的利得が、時間の経過とともに付加していくからである。汗い換えると、それまでは選択可能であった別の選択肢に切り替えるコストが増えていくからである。

 ピアソンは、ブライアン・アーサーの議論を引用して、「正のフィードバック過程」の特徴を列挙している。少し解説を加えながら紹介しておこう。①時間的に見て前に起きる事象のほうが、後に起きる事象よりも、帰結に対して、より大きな影響を及ぼす。②過程が進めば進むほど、経路の切り替えは難しくなる。ある経路に深入りすると、最終的には一つの解へと「ロックイン」されることになる。「ロックイン」とは、過去に形成された制度や採択された政策が、現在の制度選択や政策選択を強く拘束し、他の制度や政策の選択を、考えつくこともできないほど困難なものにすることを指す。③「配列」(事象や過程の時間的順序)の前の時点で生じた偶発的事象の影響は残る。このため、事象がどの順番で起きるか、その「配列」によって、政治的帰結は異なる。④定まりつつある結果から得られる利得は、それとは別の選択肢を選んだ場合の利得よりも低いかもしれない。つまり、より効率的な帰結が存在するにもかかわらず、非効率な帰結がもたらされ、より効率的な帰結へと変更することが困難だということが起こり得る。

 「正のフィードバック過程」の一例として、ピアソンの福祉国家研究を見ておこう。前章の最後で言及したように、ピアソンは、イギリスのマーガレット・サッチャー政権や、アメリカのロナルド・レーガン政権では、福祉政策の削減が主張されたにもかかわらず、実際には、彼らの主張ほどには削減されたわけではなかったとしている。そしてその理由としては、一度、福祉政策が実施されると、それを受給する人々が、その削減や廃止に強く反対するょうになるため、政治的に福祉政策の削減は困難になると論じた。つまり、いったん公共政策や政治制度が生み出されると、それは既得権益を生むため、それを変更しようとしても、そこから利益を得ている団体や人々の政治的な抵抗に遭い、変更することはなかなか難しいというのである。

 この「正のフィードバック過程」と密接に関係しているのが、「収穫逓増」という概念である。「収穫逓増」とは、特定の行動をとるごとに利得が増加していくことを指し、科学技術に関する経済学の分析で用いられてきた。たとえば日本語ワープロソフトとしては、マイクロソフト社のWordよりもジャストシステム社の一太郎のほうが優れているという説が、(筆者の周りでは)有力である。しかし、Windowsの普及により、Windowsに標準装備されているWordを使用する人が増え、その使い方に習熟するようになると、使い勝手が少し異なる一太郎をわざわざ使おうとする人は減っていく。またファイルの互換性を考えると、多くの人が使用しているワープロソフトを使ったほうが、ファイルの共有には便利だということで、パソコンを新たに使い始める人もWordを使用するようになる。この結果、より優れた(という人が筆者の周りでは多い)国産ソフトである一太郎よりも、Wordのほうが圧倒的なシェアを占めることになり、将来においても、必ずしも効率的ではないものの優位が続くことになるのである。

原子力と「収穫逓増」

 さて、ここでは電力・エネルギー政策、とくに原子力政策における「経路依存」について考えてみよう。ピアソンによると、科学技術の研究では、軽水炉型原子炉が発電用原子炉として世界市場を席肪したことも、‐収穫逝川’による「経路依存」の一例として説明されていると(忖。さらに、日本において原発が一直線に拡大していったことや、福島第一原発事故後も脱原発が進まないことは、「正のフィードバック」や「収穫逓増」によって説明できるように思われる。

 すでにこれまで指摘してきたように、原発は関連する産業が多く、それに関わる雇用も多いため、一度、拡大すると、その縮小には大きな抵抗が生じる。それによって職を失う人が出てくるからである。また原発は、資・機材の調達や施設の建設、そして労働者の雇用など、産業として生み出す利益のみならず、立地自治体への資金提供や官僚への天下りポストの提供、政治家への政治献金など、政治的な利益提供を通じて、その利益に群がる人々を生み出してきた。この既得権益の発生が、脱原発を困難にしている。

 さらに原発は、初期投資の額が莫大で、維持・管理費も高く、また廃炉にも巨額の費用がかかる一方、燃料費など運転費は安価な発電方式である。この技術的特性のため、電力会社としては、一度つくってしまった原発は、できるだけ長く運転したい。使えば使うほど、安価で発電できる、まさに「収穫逓増」という特性を持つからである。また原発の建設・運転には高度な技術を必要とするため、技術や人材が蓄積されてきた。このため、それらを維持するためには、原発をつくり続けなければならないと考えられるょうになる。廃炉にも長い時間がかかるという特性もあり、技術や人材を維持するために、脱原発を進めるわけにはいかないということになるのである。

 それでは、原発を減らして再生可能エネルギーに切り替えていくという経路変更が難しいのはなぜか。これは、多数の原発が日本全国につくられてしまった現状においては、原発の安全性を強化するほうが、再生可能エネルギーを普及させるために送電線の増設や地域開連系線の強化、バックアップ電源の増強や蓄電池の開発などに投資するよりも、相対的にコストが低いと考えられるからである。かりに再生可能エネルギーのほうが、(バイオマス発電で、海外産の燃料を用いる場合などを除き)純粋な「国産エネルギー」であるため、エネルギー安全保障という観点からして、また環境への影響や、事故やテロの危険性という観点からして「より良い」発電方法だとしても、新たに巨額の投資を行うのは高いコストがかかると思われて、既存の「より悪い」原発という選択肢が選ばれてしまうのである。

核燃料サイクル事業による「ロックイン」

 くわえて、原発の継続を「ロックイン」しているものとして、核燃料サイクル事業が挙げられる。これまで指摘してきたように青森県と六ケ所村は、政府に対して核燃料サイクル事業を継続するよう強く要求し、強力な拒否権も持っていた。その拒否権とは、核燃料サイクル政策が放棄されるならば、使用済み核燃料を全国の原発に返還し、イギリスやフランスから返還される放射性廃棄物は引き受けないと脅しをかけることである。そうなると多くの原発は動かせなくなるし、イギリスやフランスとの国際問題にまで発展する。そこで核燃料サイクル事業を中止できないとなると、原発も止めることはできない。再処理工場でプルトニウムが抽出されるのに(もっとも、いつになったら再処理工場は本格稼働するのかという問題もあるのだが)、それを消費する方法がなくなるからである。さらに、高速増殖炉を中核とした核燃料サイクル(高速増殖炉サイクル)が実現しない限り、プルサーマルに経済合理性が々いとしても、プルサーマルをやめるわけにもいかない。そうしないとプルトニウムを消費できないからである。

 そしてこの問題の根本には、高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場が決まっていないことがある。政府と電力業界は、核燃料サイクルを口実に、六ケ所村に使用済み核燃料を押し付けてきた。また、各原発につくられている使用済み核燃料貯蔵プールにも、使用済み核燃料は貯蔵されてきた。そのうえ電力会社は、核のごみの最終処分地にされたくはない青森県や六ケ所村に対しては、将来、高レベル放射性廃棄物は県外に移すと約束し、一方で原発立地自治体に対しては、将来、使用済み核燃料は県外に移すと約束してきた。しかし、それはその場しのぎに過ぎず、中間貯蔵施設を建設したのは東電ふ原電だけで(しかも建設したのは、六″所村と同じく下北半島にあるむつ市で、貯蔵期間は五〇年間としている)、その他の電力会社の中間貯蔵施設、そして最終処分場については、候補地すら決まっていないのである。

 このため政府と電カ業界は、使用済み核燃料の再処理路線だと莫大な費用がかかり、直接処分のほうが低コストだと論証されても、再処理路線をとり続ける。かりに現時点で初めて原子力発電を導入するとして、再処理路線をとるか直接処分路線をとるか選択できるとするならば、経済合理性の観点から直接処分が選択されるであろう。しかし、原発が日本に導入されようとした一九五〇年代には、高速増殖炉が早期に実現可能だと思われており、その時点で再処理路線が選択された。さらに一九九八年七月には、青森県知事と六ヵ所村村長、日本原燃社長の三者が、電事連会長の立ち会いのもと、再処理事業の確実な実施が著しく困難となった場合には、日本原燃は使用済み核燃料の施設外への搬出も含め、速やかに必要かつ適切な措置を講ずるとする「覚書」を交わしている。この結果、現時点では核燃料サイクル事業はロックインされてしまっている。それゆえ、原子力発電も口ックインされてしまっており、その路線変更はきわめて困難なのである。
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2017年度の借出実績の集計

2017年度の借出実績の集計

 一年間で1451冊で終わった。1500冊を割ってしまった。

 NDC分類の冊数

  0分類 総記   120冊

  1分類 哲学   143冊

  2分類 歴史   225冊

  3分類 社会科学 533冊

  4分類 自然科学  65冊

  5分類 技術    79冊

  6分類 産業    80冊

  7分類 藝術    93冊

  8分類 言語    6冊

  9分類 文学    85冊

  のべ 1429冊

一人LINE

 一人FBの延長で一人LINEを試みよう。その延長で、もう一人の自分との会話。

借りた本の選別

 今日借りた本など30冊の選別が終わりました。OCR対象8冊、精読3冊、即返却19冊。OCR対象は、関心が少しでもかすったものが全部いれてます。未唯宇宙の論理に即した本は本当に少ない。本に期待が持てなくなっている。そろそろ本から脱却するとかもしれない。

 答えは自分の内にしかない、ということでしょう。
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「家族の多様性」ということについて

『現代日本の家族社会学を問う』より 家族研究の継承と課題--家族の多様性への多様な接近--

現代家族をどうとらえるか、必ずしも共有された見解があるわけではない。ここでキーワードとして掲げる家族の多様化あるいは家族の多楡吐についても、さまざまな見解かありうる。「家族の多様性」ということの意味について、まず議論をしておきたい。「家族の変動」や「家族の多様性」という言葉が上滑りしないために、多様化について検討を進めておくことが求められる。

第1に、最も基本的には、家族の代表的(代替的)指標としての世帯類型別分布において、支配的な比率を示す類型が、その比率を低下させ、ほかの類型が占める比率に対する優位性を失ってきているという事態である。具体的には、「夫婦と子ども」という核家族的世帯類型が減り、単独世帯や夫婦のみの世帯の構成比率が上昇しているという事態である。簡単にいえば、人びとの住まい方が多様になったということである。このことは、人びとの基本的なニーズの充足がどのように図られるかという点にもかかわってくる。

つまり、第2に、機能充足のしかたの多様化である。ニーズに応える働きを機能と呼んで、機能の充足のしかたの多様化という変化である。家族がある機能を独占的に担うのか、あるいはほかの各種の機関や関係も同様の機能を担うのかという軸であり、後者の場合を多様化と呼ぶのである。家族に代わって養育や介護機能を担う機関や関係の登場である。家族と機能的に等価な機関や関係の存在であり、家族に代わる(機能代替する)機関の顕在化である。代替まではいかなくとも、例えば保育所やデイケアセンターなど、ほかの各種の機関や関係と協同し、分担してケアというニーズの充足を図るという変化、つまり独占から分担へという変化を指して多様化と呼ぶことができる。例えば、ケアの機能の外部化は、機能の代替というより、機能の補完や協同/分担であり、ある機能の充足に複数の機関がかかわるという意味で、多様化と呼ぶことができるだろう。さらには、協同や分担のしかたが、人びとのあいだで画一的ではなく多様になったという事態をも指す。

第3に角度を変えていえば、次のようにいうこともできる。

当該の社会の多くの人びとが家族と呼ばれる関係に属し、そこで共通する基本的ニーズ(例えば養育や介護、あるいは経済的なニーズや情緒的なニーズ)の充足を期待しえない状態が生じており、家族とは異なる関係や機関にそうしたニーズの充足を期待せざるをえない事態の進行を指すということである。つまり、選択的であれ、非選択的であれ、人びとのニーズを充足する資源として家族を期待することが困難になっている層の増加である。また、家族が資源でありうる人とそうではない人との違いが際立つ(=格差)ようになるのも、家族の多様化という概念に含めることもできるだろう。

ただし、非選択的な家族的経験の分散を多様化と呼んでよいか否かは、議論がありうる(筆者は、これを〈構造制約的多様化〉と呼んだことがある。他方は、〈選択的多様化〉である。渡辺1995)。第4が、この選択的/非選択的という視点である。前者についてのみ多様化と呼ぶという考え方がある。例えば、稲葉昭英の議論をみよう。稲葉によれば、全国家族調査(NFRT)の3回にわたるデータの分析でみる限り、選択的な家族の多様化は認めがたいと述べる。すなわち、夫婦と子どもからなる〈初婚継続型家族〉の構造は安定していること。この場合の構造は有配偶女性の就業構造と男性の家事・育児参加、さらには夫婦満足度である。分析から総じてジェンダー構造の遍在は変わりがたく頑健である。家族のどこが変わっているかというと、ひとり親や再婚家族、そして晩婚化・非婚化による親と同居する無配偶成人(とくに40代男性)の家族などの〈非初婚継続型家族〉の増加である、という。ここに家族の変動が認められるのであり、これらは(第1の住まい方の多様化にみたょうに)、国勢調査においても整合的な趨勢を確認することができる。

稲葉の分析はさらに〈初婚継続型家族〉と〈非初婚継続型家族〉の格差の分析に及ぶ。すなわち、教育達成の度合いや親子関係の良好度において、両者の格差は明らかであり、その格差は縮小しておらず拡大している層もある。この格差の頑健さを前にして、(格差が明白な、不利な選択をするはずはないのであるから)選択的な多様化は生じているとはいえないというのが稲葉の議論であろう。そうして、割合として増え、かつ不利な状況にある〈非初婚継続型家族〉の研究に家族社会学はもっと注力すべきであると問題提起する。またく初婚継続型家族〉については、なぜ、その〈初婚継続型家族〉の構造が変わりがたいのかを問題にする必要があると述べる。

稲葉(2011)の論述は重要であることに異存はない。ただし、「多様化」の定義を、選択的か否かを問わず、家族の型のなかで少数の型の構成比率の増大を指すこととすれば、稲葉のいう〈非初婚継続型家族〉の増加は変動であり、さらに、それを多様化と呼んでアプローチする立場もありえないわけではないだろう。大切なことは、少数の型が、(不利な格差を維持しっっも)社会的により一層、顕在化し存在感を増していることへの注視であろう。

もう少し議論を進めれば次のようになる。外在的なコメントになってしまうが、稲葉(2011)の分析に取り上げられた指標(教育達成の度合いや親子関係良好度)が示す明白な格差が予期される(当事者はわかっている)にもかかわらず、それでもなお〈非初婚継続型家族〉を決断(=選択)することの意味(よりcriticalな指標の存在する可能性)を問うことも必要であろう。すべてではないが、〈非初婚継続型家族〉をそのようにして選んだ人びとの一定の存在を看過せず、選択か否かを問わず、それを多様化と呼ぶことも無理なことではないだろう。

そしてその上で、稲葉のいうように、そうした人びとの置かれている格差を解消する手だてを社会的に用意することが最も求められることになるのであろう。それは、家族的資源の再請求(=資源としての家族の復活)というより、福祉を含めた社会的資源の拡充であり、それらとの機能分担や協同の拡充を図ることによって、〈非初婚継続型家族〉が教育達成や親子関係良好度における格差を解消し、事後的に選択的な多様化を達成するというシナリオである。

あるいは、婚外子を例にとってみよう。家族にかかわるさまざまな指標で、婚外子割合の圧倒的低さは、日本(そして韓国など、東アジア)の際立つ特徴であろう。ここ数年2%を超えているが、1960年代以降、ずっと1%内外を推移してきた。欧米各国の3割から5割へという一貫した増加の趨勢とは、まったく異なる(欧米の場合は、非婚の母とその子どもというひとり親家族もあるにせよ、結婚届を出していない同棲カップルとその子どもという場合が多い)。日本の場合、婚外子が圧倒的に少ないのは、格差が歴然としており、この型を避けて、例えば「できちゃった婚(妊娠先行型結婚)」が多くなるという現状がある。子どもの生まれ方に関して、多様化しているとはまったくいえないのである。

こうした事態に対して、格差を縮小するために、まず極端な少なさから脱して一定程度の割合に増えて、その存在が顕在化するという過程が手順としてありうるだろう。かつて、R. M.カンターが、職場における女性の立場をよりよくするために、まずは女性の割合を増やすことを提唱したという戦略につながる。婚外子への相続差別については. 2014年になってようやく解消の方向に動きはじめている。どんなに数が少なくても、そこにおける格差を放置しておくことは許されないことであると同時に、数が増えることで存在感が増し格差が減少し、そしてさらに数が増えるという循環の道筋である。あるいは、より家族に引き寄せれば、高齢社会の進展のなかで、高齢単独世帯や高齢夫婦世帯の増加が新しい多様な生活(家族ライフスタイル)の提案と定着につながっていくことは容易に想像できることである。

以上の議論から、家族の多様化は、最も一般的には、家族の何か多様なのかを特定し(例えば、住まい方やニーズの充足のしかた)、その採りうる諸類型の分布が、一つの類型に偏らず拡散の方向に変化していること、と定義しておきたい。家族の何が多様化しているかについては、第1に、実態として、どのように多様なのか、第2に、意識や規範のレベルで、どのように多様なのか、を区別して論じることが基本であろう。なお、「家族の多様性/多様化」とともに、「家族の変動/変容」という言葉も基本概念として用いられる。両者の関係は、家族の多様性が進行すれば、家族は多様化(=拡散)の方向に変動したということになる。逆に画一性の方向(画一化=収斂)に進んでも家族は変化したということになる。家族変動という場合、家族の何か、どのように変化したかを明記すべきなのはいうまでもない。
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マイクロソフトとネットスケープの戦い

『情報経済の鉄則』より

クライマックス--マイクロソフトとネットスケープの戦い

 ここまで、どうすれば標準規格を戦略的に確立できるかを論じてきたが、ここで、近年最も耳目を集めた事例の1つを取り上げ、本書の枠組みを当てはめてみよう。マイクロソフトとネットスケープの「ブラウザー戦争」である。この標準化戦争は、世間の注目度が非常に高く、争いが緊迫した局面では、クリントン大統領がネットスケープのジェームズ・L・バークスデール最高経営責任者(CEO)に今後の戦略を問い合わせた、とビジネスウィーク誌が報じている。「この争いがいかに重要かは、大統領でさえ注視したという事実からも窺える。この戦いは、インターネットの精神そのものだ」。

 一方のコーナーには、インターネット・ブラウザーという概念そのものを広めたインターネットのパイオニア、株式市場の寵児、今なおブラウザー市場を牛耳るネットスケープ・コミュニケーションズがいる。もう一方のコーナーにはハイテク界の巨人、世界最大のソフトウェア会社、デスクトップ市場に君臨し、インターネットの波に乗ろうと虎視耽々と身構えている、あの他でもないガリバー企業マイクロソフトがいる。

 マイクロソフトは、過去3年間、全力を挙げてネットスケープを追撃し、「ネットスケープ・ナビゲーター」から「インターネット・エクスプローラー」への乗り換えを促してきた。双方とも、競争力のある資産を相当つぎ込んでいる。マイクロソフトが攻撃を仕掛けた時点では、ネットスケープには比較にならないほど優れた製品と、製品に満足している顧客という大きな納入基盤があった。だが、マイクロソフトには、ブランド名と、次々にアプリケーションソフトを制覇していった実績、土台となるOSの支配権、無限とも思える資金力があった。

 本書でここまで取り上げてきたステップを踏んでいこう。

 まずは、ブラウザー市場で正のフィードバックがどこまで重要かを考える。ブラウザーのユーザーの間に強力なネットワーク外部性は働くだろうか。これまでのところ、ネットワーク外部性は穏当なもので、それほど強くない。まず、ブラウザーを使いこなすためのトレーニングは、ほとんど障害にはならない。実際、ネットスケープ・ナビゲーターの魅力の1つは、多くの人が直感で操作できるシンプルさにある。また、ナビゲーター特有のファーマットで「データ」を保存しているューザーは少ない。むしろ、ナビゲーターは、非常にオープン性の高いHTMLに依存しており、ブックマークのエクスポートもブラウザー間で簡単にできる。したがって、個人の乗り換えコストは高くない。

 集団の乗り換えコストはどうだろう。劣勢のブラウザーを使っているューザーが損をするという強力な力が働いているだろうか。現時点では、そうではない。少なくともこれまでのところ、どちらのブランドのブラウザーでも、大多数のウェブサイトを遜色なく閲覧できる。例外がないわけではないので、一定のネットワーク外部性は存在するが、これまでのところ、外部性はまだ弱い。確かに、マイクロソフトが、クライアント=ブラウザー側でシェアを広げた場合、サーバー用ソフトの高いシェアを利用して、ネットワーク外部性を強化するのではないかとの懸念もある。マイクロソフトが、エクスプローラーに有利な方法で大多数のサーバーに情報を表示させることができれば、強力な正のフィードバックが起きる可能性はある。だが、ウェブサーバー市場で首位に立つアパッチはシェア47%で、完全なオープン規格だ。マイクロソフトとネットスケープのウェブサーバーのシェアは、それぞれ22%、10%となっている。

 実際、ネットワーク外部性が比較的弱いという事情もあって、このブラウザー戦争は、電撃戦ではなく、持久戦の様相を呈している。ネットスケープは、決して難攻不落とはいえない。マイクロソフトも、脱落する気配はなく、特に弱点を補う強みがあるため、1997年は、出荷ベースで約30%のシェアを確保している。

 そもそも、ブラウザー戦争における市場シェアとは何なのか。ブラウザー市場には、製品の購入数量ではなく、利用実績でシェアを測定できるという、いさかか珍しい、便利な側面がある。訪問者が利用しているブラウザーをウェブサイト側で判別できるのだ。ネットワーク外部性について考える場合、利用実績は、購入実績よりはるかに重要な要素となる。実際に製品を利用している「アクティブ」な納入基盤が重要なのであり、無償で提供されているが実際には使われていない製品をカウントしても意味はない。最近のデータによると、利用実績ベースのシェアは、ナビゲーターが54%、エクスプローラーが33%だ(3位はMac用の「サイバードック」だが、シェアは5%前後と、上位2位に遠く及ばない)。

 このブラウザー戦争は「エボリューション戦略同士の戦い」である。どちらのブラウザーを選ぶにしても、ユーザーの側には、ほとんどコストがかからない。少なくとも現時点では、どちらのブラウザーも、既存のハードウェア、ソフトウェア・システムと互換性がある。もし万が一マイクロソフトがウィンドウズの設計を変更し、ナビゲーターとウィンドウズの互換性を断ち切れば、この戦いは「エボリューション戦略とレボリューション戦略の戦い」となる。だが、司法省が目を光らせている限り、このシナリオが現実のものになる可能性は低いとみられる。

 この戦いでは、ほとんどの局面で、先に指摘した標準化戦争の4つの戦術が用いられている。(1)先制攻撃(2)浸透価格の設定(3)期待の管理(4)味方を集める--の4つだ。順に検証しよう。

先制攻撃

 ネットスケープは、1995年にナビゲーターを投入し、華々しいスタートを切った。対するマイクロソフトは、スパイグラス社からブラウザー「モザイク」のオリジナル・ソースコードのライセンスを取得し、インターネット・エクスプローラーの投入を急いだ。マイクロソフトの慌てぶりは滑稽なほどで、エクスプローラーは、1996年8月に3・Oがリリースされるまでは「全く話にならない代物」との評価がほとんどで、3・Oがリリースされた頃には、すでに多くの法人・個人がナビゲーターをインストールしていた。だが、目まぐるしい技術発展に加え、消費者のロックインが事実上存在しなかったこともあり、競争が続く中で、両社はライバルを上回る新バージョンを次々に開発していく。他のソフトウェアもそうだが、新バージョンの投入で販売が急増した後は、次の新バージョン投入まで小康状態が続くというパターンである。

 先制攻撃を仕掛けて、相手を出し抜くという戦略は、販売ルートごとに異なる形で展開されている。主な販売ルートは3つ。(1)インターネットや小売店を通じたユーザーヘの直接販売(2)OEMメーカーヘの販売を通じた新型パソコンヘの搭載(3)インターネット接続事業者(プロバイダー)を通じた間接的な販売--である。第1の販売ルートでは、ユーザーは機能に差がなければ、一度ダウンロードしたブラウザーを使い続ける。第2の販売ルートでは、OEMメーカーは新しいパソコンを買った消費者が好みのブラウザーを使えるように、デスクトップに複数のブラウザーのアイコンを並べることができるし、実際にもそうしている。ただし、ここでも先制攻撃は可能だ。OEMメーカーと独占契約を結んで、自社のブラウザーのアイコンをデスクトップに置いてもらう、もしくは他社のブラウザーを搭載しないよう促すという戦略である。これまでのところ、ブラウザーに必要なディスク容量はそれほど大きくなく、複数のブラウザーを搭載することが可能だ。反トラスト局も目を光らせており、マイクロソフトがOEMメーカーと独占契約を結ぶのは危険な賭けとなる。

 第3の販売ルートでも、先制攻撃が可能だ。マイクロソフトは、アメリカ・オンライン、コンピュサーブ、プロディジー、AT&T、ワールドネット、ネットコム、MCIなどのプロバイダーと提携し、エクスプローラーを各社の「推奨ブラウザー」に認定してもらった。多くのユーザーは、ブラウザーを選ぶ際、プロバイダーの推奨に従うことが多いため、こうしたバンドリングは、市場シェアに重大な影響を及ぼし得る。だからこそ、司法省はマイクロソフトとプロバイダーの契約を精査した。1998年初め、マイクロソフトは、プロバイダーが他のブラウザーを推奨できるよう契約を改めた。

浸透価格の設定

 ネットスケープもマイクロソフトも、浸透価格の達人だ。それぞれ独自の手法でこの戦術を展開している。

 先手を切ったネットスケープは、インターネットを通じてブラウザーを無償提供した。第4章で見た通り、インターネットを使えば、コンテンツであれ、ソフトウェアなどのツールであれ、情報製品を極めて効率良く、低コストで配布できる。だからこそ、小売店では説明書付きで49ドルで売っていたナビゲーターを、ネットでは広く無償提供できたのである。もちろん、初めてネットの世界に足を踏み入れる多くのューザーには、ナビゲーターを使わずにナビゲーターをダウンロードできるほどの知識の持ち合わせはなかった。

 ネットスケープは、「プラグイン」の概念を編み出した草分け的な存在でもある。プラグインとは、ナビゲーターの基本機能を拡張するために第三者が開発したソフトだ。ネットスケープは、自社のウェブサイトにこうしたプラグインのリンクを張って、ューザーがブラウザーを簡単にカスタマイズできる環境を整えた。品質の向上を無償で提供するのは、浸透価格戦術の変形といえる。ネットスケープは、このようにして、自社の技術とつながるソフトウェア・デベロッパーのネットワークを構築していった。

 ネットスケープは、一時期、ナビゲーターをダウンロードするューザーヘの課金を試みたこともある。だが、本格的な課金には至らなかった。ナビゲーター4・Oについて、試用期間中は無料とし、その後、継続利用を望むューザーには料金を請求するという形にとどめた。1998年初めには、単なる無償提供の枠を大きく超えた策に打って出た。ナビゲーターのソースコードを公開し、無料でナビゲーターを利用できるだけでなく、自由に修正を加えられるようにしたのである。

 マイクロソフトのほうは、まずオンラインでエクスプローラーを無償配布した。この戦術は、ネットスケープを追撃する上で、非常に理にかなっていたといえる。しかも、それだけではなく、マイクロソフトは、OEMメーカーやプロバイダーにお金を払って、エクスプローラーを優遇してもらった。ナビゲーターではなく、エクスプローラーを「デフォルト」(既定の)ブラウザーに設定するよう依頼したのである。また、エクスプローラーは「今も、これから先も」無料だと公言した。これは、明らかに期待を管理する試みだ。

 なぜ両社は、ここまで積極的に浸透価格戦術を展開するのだろうか。ネットスケープの場合、無償提供の負担は少なくない。同社の「クライアント・ライセンス」収入は、1996年には収入全体の半分以上を占めていたが、1997年第2四半期には40%以下に落ち込んでいる。第2章の話を思い起こせば、1つの可能性として、競争で情報財の価格が限界費用まで落ち込んだことが考えられる。情報財の限界費用は、ごくわずかだ。ただ、これだけでは説明かつかない。両社は明らかに、自社のブラウザーの利用が増えれば、戦略上、長期的なメリットがあると踏んでいる。一体どんなメリットなのか。それが無償配布とどう結びつくのか。この質問に答えるには、お金の流れを追う必要がある。この標準化戦争では、どのような収入の争奪戦が起きているのか。

 まず、ネットスケープから始めよう。ナビゲーターを配布すれば、他の製品から収入を得られる。これがポイントだ。例えば、ネットスケープのウェブサイトは、ネット上でも特に訪問者の多いサイトの1つに数えられる。これは、ナビゲーターの利用者6500万人の多くが、ブラウザーのデフォルト設定を変えていないことも影響している。ネットスケープは、この戦略で非常に魅力的な広告プラットフォームを手にした。同社が、自社のウェブサイトをインターネットの一大ポータルサイト(玄関口)にしようと考えているのは明らかだ。こうなると、ネットスケープは、ヤフーやエキサイトの競合企業に近い存在になってゆき、ブラウザー収入への依存度を下げることができる。

 それだけではない。ネットスケープは先頃、プッシュ型配信コンテンツの受信ソフト「ネットキャスター」をリリースした。これは、ブラウザーのコンポーネントの1つとなっており、ナビゲーターをダウンロードする際、ネットキャスター機能を追加するかどうかを選択できる。ナビゲーターとネットキャスターの利用者が増えれば、広告主にアピールできるューザーの閲覧時間とユーザー数が増える。そうなれば、ネットキャスター上のスペースを高値で販売できる。例えば、ヤフーは先に、ブラウザーのツールバーにある「ネットスケープ・ガイド」ボタンの権利を470万ドルで取得すると発表した。ネットスケープで広告収入の比率が増えているのは、不思議ではない。

 ネットスケープは、全く新しいユーザーインターフェースを開発するという壮大なプラン「ネットスケープ・コンステレーション」も準備している。これは、ブラウザーを中心に据えた完成度の高いユーザー環境に他ならない。初期のウィンドウズが、旧式化したDOSとユーザーの間に存在するレイヤー(階層)だったように、この「コンステレーション」も、既存のOS(ウィンドウズ)とユーザーの間に存在するレイヤーとなる。しかも、このューザーインターフェースは、インターネットヘの玄関口にもなる。そう考えれば、このブラウザー戦争は、インターネットユーザーとインターネットの玄関口の座を奪い合う壮大な戦争の前哨戦にすぎない。このインターネットが、マイクロソフトにとって大きな脅威であることは、言うまでもない。インターネットヘの出入り口を他社に抑えられてしまえば、デスクトップの覇権など、どうでもよくなる。

 マイクロソフトのほうも、ブラウザーの「周辺」から生じる収入フローの強化を狙っている。先ほど指摘したように、マイクロソフトは単体のブラウザーに課金するつもりは一切ないと明言している。ブラウザーをOSと統合し、ウィンドウズ95のューザーインターフェースを、今の単体のブラウザーのユーザーインターフェースにぐっと近づけるというのが、同社の構想だ。そう考えると、マイクロソフトがなぜ、エクスプローラーのユーザーという納入基盤の構築にこれだけ進んで多額の投資をするのかが見えてくる。納入基盤を築けば、ウィンドウズ98への移行が楽になるし、ユーザーインターフェースの覇権争いでネットスケープの攻勢を加わしやすくなる。ユーザーインターフェースの支配権は、貴重極まりない。これさえあれば、マイクロソフトは、情報化時代の最も貴重なアイテム--「人々の関心」を手に入れられる。実際、マイクロソフトがブラウザーを利用してオンライン取引を支配するのではないかという不安は広がっており、これが同社の弱点の1つになっている。こうした不安をさらに煽るかのように、マイクロソフトのネイサン・ミアボルド最高技術責任者(CTO)は、同社の技術を利用したすべてのネット取引から「寺銭」を取りたいと発言したが、議会証言に出席したビル・ゲイツは、会社としてそのような目標は持っていないと否定している。
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一九三八年の「火星からの侵略」

『火星からの侵略』より ⇒ そして、3年後、日本人が現れた

問題の多い世界に存在していること

 どのグループに属する人の特徴的な思考や判断も、その人が置かれている文化に深く根をおろしている。優勢な社会状況から、個人が適応する状況が生じる。一九三八年一〇月三〇日の米国の社会状況が、とくに番組をたまたま聴いた人にパニック行動を引き起こしやすかったのだろうかと当然疑問に感じる。黄金の一八九〇年代や一九二五年と比較して、混乱が激しかったのだろうか? もしも同様の状況が起きたとしても、他の歴史的時点よりも一九三八年のほうが適切な方向の行動をとれる人が少なかったのだろうか? そして、もしも状況がとくに混乱していたのであれば、すべての人に同じように影響を及ぼしたのだろうか? これは将来の歴史家や社会学者にとって本質的な疑問である。しかし、われわれの現時点での視点と証拠では、パニックの発生に寄与した社会状況のある種の状況を明らかにすることができる。

不安定な重要な社会規範

 文化が非常に安定していて、完全な平衡状態にあるならば、文化を形成している個人の準拠枠は文化の基準と完全に一致している。これはさらに、個人自身にとっての準拠枠は自身の欲求を満たす環境において完全に適切な経路となっているという意味でもある。しかし、このような理想的な状態はいかなる大きな文化群においてもけっして存在してこなかったことは明らかである。むしろ、不穏、変化、欲求不満、不満足のほうがごく当たり前に存在してきた。少なくとも人口のある部分にとっては、個人の身体的・心理的欲求を満たすには現在の標準は不十分である。革新的な思想家の場合と同様に、個人の準拠枠は受け入れられている標準に合わないか、あるいは、自分が感じている不満足を十分に説明できない。すると、まるで解決策がまったくわからないと率直に打ち明けたり、次から次へと解決策を試そうとしたり、すべてを単純化して、わかりやすい解決策を示す夕ウンゼント博士のようなリーダーに従ったりするかのいずれかとなる。

 火星人の侵略の際には、多くの社会的標準やそれに相応する個人の習慣が急激な変動状態に陥り、それまでには受け入れられていた社会的標準が人間の欲求を満たすには不十分であったり、外部の考えによって覆される危険に陥ったりした。いずれの場合でも、文化を形作っている多くの人々が当惑し、混乱したのだ。

不安定な状況

 とくに一九二九年の大恐慌以来、多くの人々が経済的安定を将来ふたたび手に入れることができるのだろうかと疑問に感じ始めていた。複雑な現代の財政や政府、さまざまな「専門家」によって示される経済や政治に対する異なった提案、ファシズム、共産主義、数百万人の米国人の長期にわたる失業についての怖れなどがある。このような怖れとともに、きわめて多様な現代生活があり、ごく平均的な個人にはまったく解釈不能な環境ができあがっている。理解できないことが起きるばかりでなく、このような出来事のほとんどすべては、たとえ個人の生活がそれによって極度に影響を受けるとしても、今の自分の能力ではそれに完全に対処することができない。個人は急速な社会変化の時代に生きていると感じているのだが、どの方向に変化し、どのようにしてそれに適応すべきかまったくわからない。ほとんどの場合、これから生じる出来事がどのような結果をもたらすか予測不能である。

 この状況は、公人、大企業のビジネスマン、社会科学者だけに限られたものではない。多くの一般の人でさえもこれに敏感に気づいている。経済秩序の混乱がもたらす物質的な結果に気づくのは誰にとっても難しいことではない。そして、われわれの研究の目的にとってもっとも重要であるのは、個人的な不安、野望、すべてが世界にとって適切でないという認識がもたらす不安という意味での、心理的結果である。いくつかの無作為の観察からも、これらの不安定な状態が人々にとってどのような意味があるのかを明らかにできるだろう。

 AIPOの最近の調査には、「もしもあなたが現在の仕事(あるいは商売)を失って、他の仕事を見つけることができなければ、生活保護を申請するまで、どれくらいの期間持ちこたえることができると考えますか?」という質問が含まれていた。この質問に対する答えは、人口の半数以上が基本的な不安を抱えていることを示している。

  すでに保護を受けている      一七パーセント

  持ちこたえられるのは一ヵ月未満  一九

  一~六ヵ月            一六

  六ヵ月~三年           一三

  三年以上             三五

 同じ調査で、どの社会階層に属していて、自分がどの収入層に属していると感じているのかを尋ねた。この二つの質問に対して、人口のわずかに六パーセントが低社会階層、八八パーセントが中流社会階層に属していて、三一パーセントが低社会階層の一員であると答えた。このように、人口の四分の一では、自らの収入と自分が属している社会階層の不一致が認められた。

 一般教育、広告、マスメディアによるコミュニケーションは、豊かな生活の可能性をこれでもかと人々に投げかける。自動車、集中暖房、下水道、その他さまざまな物に対する欲求がすぐ手に入るところにある。われわれのわずかな事例検討でさえも、「あなたは次の中でどれをもっとも手に入れたいですか?」と質問して、一八項目のリスト(例 立派な家、旅行、職業での昇進、等々)から選ぶように指示したところ、高等学校卒業以上の学歴の人は、教育水準の低い人に比べて、二倍以上も挙げた。もしも経済状態が安定し続けて、教育程度がさらに上がっていくならば、大衆の願望の水準と達成の水準の格差がますます広まっていくことだろう。

 ウェルズの番組の聴取者のある事例では、経済的、政治的、社会的状態における一般的な混乱が、非現実的な解釈の主要な原因であると思われた。さらに、番組をニュース放送だと強く信じた人は、経済的な危機の境界線上にもっとも近い人であった。教育程度と経済状態の間には密接な関係があり、教育程度の低い人は適切な方向の行動をとることができなかったと、われわれはすでに明らかにした。しかし、教育程度を合わせて、経済状況によって番組への適応を比較したところ、教育程度に関係なく、貧しい人ほど誤った判断基準をとる傾向があることが明らかになった。

 人々がどのように感じ、彼らがすでに知っている混乱した世界とほとんど同様と思われる報道になぜ影響を受けたのか、事例研究の意見のいくつかが示している。

  「この世界はすべてが混乱しているので、何が起きても不思議はありません」

  「祖父の時代に比べると、大変な出来事が突然起きるので、今は一体何が起きるのか知りようもありません。私はひどく混乱しています」

  「数年前に夫が失業してからというもの、どんどん事態が悪化していったように思えます。すべてがまたよくなるのがいつになるかわかりません」

  「私たちは問題の多い世界に存在しているので、何が起きても不思議はありません。毎日たくさんのニュースを耳にしますが、信じられないことが多すぎます。突然、学校で六〇〇人の生徒が焼死したとか、非常に多くの人々が職を失ったとか。どれも私にはショックです」

 多くの人々にとって、現代文明の当惑させられるもうひとつの特徴とは、科学の神秘である。科学的教育や自己を取り巻く事柄について調べるための十分な個人の能力、主体性、あるいは機会を持だない、ある種の人々にとっては、電話、飛行機、毒ガス、ラジオ、カメラなどは、圧倒されるような力で目の前に現れる。これらが機能する原則がまったく理解できない。このような機器は外部の世界からやってきて、当惑した素人にとっては完全に未知の世界に存在している。科学者たちは一般にしばしば「彼ら」と呼ばれる。このテーマに類似のさまざまな表現が事例研究で認められる。科学によって現在われわれが手にしているものを想像できるのであるならば、宇宙船や殺人光線ができないはずはないだろうというのだ。

  「私は彼らが宇宙船の実験をしていると聞いたことがありますし、そのうちそれができると思います」

  「とても多くの奇妙なことが世界で起きています。科学があまりにも進歩してしまったので、火星で何か起きているのかわかりません。これはどの急速な進歩では、何でも可能です」

戦争の恐怖

 この番組は、ヨーロッパの戦争の危機の只中の直後に放送された。危機が非常に現実味を帯びていただけではなく、歴史上にこれほど広く知られていた危機はなかった。これはまさにラジオという媒体と、現場に特別レポーターを臨機応変に素早く配置する大放送局のおかげであった。一九三八年の八月から一〇月にかけて、数百万人の米国人がラジオを定期的に聴いて、国際的な危機の発展に関する最新情報を得ていた。おそらく、放送史上これほど多くの人がラジオに釘付けになったことはかつてなかった。放送局は四六時中、最新ニュースを伝えるために前もって計画されていた番組をしばしば中断した。こうして、ウェルズの番組の技法と内容は、前の週の世界の出来事から生じた、既存の精神的内容に組み込まれていく傾向にあった。

 「どのような破局的な事態が米国人に起こる可能性があるでしょうか?」と面接者が質問すると、恐怖に駆られた人の四分の三、対照群の二分の一が、戦争あるいは革命と答えた。「あなたはそれがどのような破局的事態であると考えましたか?」という質問に対する答えにも同様の気分が見て取れる。火星人の侵略を除くと、唯一最大の反応のカテゴリーは、破局的事態とは戦争あるいは外国から何らかの攻撃をされるという確信であった。番組のために当惑したり、恐怖に駆られたりした人の四分の一以上がこのように答えた。戦争の恐怖についてのさらなる表現として、聴取者は実際の侵略者のイメージを描いた。当惑したり、恐怖に駆られたりした人の約半数が非現実的な侵略者のイメージとして火星人、巨人、人間に似た形の生物を描いたが、約五分の一は最新兵器を装備した兵士の攻撃を思い描いた。恐怖に駆られた群の人々は、当時、戦争についてひどく心配していたことは当然であった。

 新たな戦争の恐れは漠然としたものであったかもしれないが、ヨーロッパの戦争の恐怖はある種の人々を非常に現実的な混乱に陥れた。主にドイツや日本と限定して、問題が起きる可能性についてはっきりと捉えている人もいた。以前の平和な時の基準が不安定となり、新たな基準のもとで混乱をきたし、個人的に望まない危険が近づきつつあることが事例研究の中にもはっきりと見て取れる。

  「戦争の話題にとても不安になりました。チェンバレンがヒトラーと会談して以来、状況は非常に不安定です」

  「戦争になったからというのではなく、戦争が迫っているので、私は不安に感じています。飛行機に新たな装備をつければ、外国がわが国を侵略するのは可能だと感じます。ヨーロッパ危機の間、私はすべての放送を聴いていました」

  「ヨーロッパの人を皆、私は恐れています。彼らはどんなことでもできるでしょう」

  「私は破局的な事態とはドイツによる攻撃だと感じていました。というのも、ヒトラーはルーズベルト大統領の電報に感謝していなかったからです」

  「アナウンサーは火星から隕石が落下してきたと伝え、彼がそう考えているのだと、私は思いました。しかし、私の頭のどこかで、隕石というのは偽装だと考えていました。それは、隕石のように見えるけれど、実際にはツェッペリンのような飛行船であって、ドイツ人がガス爆弾で私たちを攻撃していると思いました。人々をだますために、飛行船を隕石のように見せかけて作ったのです」

  「私は日本人ではないかと感じました。奴らは実に器用ですから」

 数人の人は、侵略をユダヤ人に対する戦争の拡大であると解釈した。

  「ユダヤ人が虐待されている地域が世界にはあるので、何かがやってきて、米国でもユダヤ人を殺そうとしていると、私は確信しました」

  「私はユダヤ人の将来をひどく心配しています。これほど、私を悩ますことはありません。これはユダヤ人虐待の新たな試みかもしれないと私は考えました」
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豊田市図書館の29冊

332『エコノミックス』マンガで読む経済の歴史

007.35『情報経済の鉄則』ネットワーク型経済を生き抜くための戦略ガイド

769.22『日中戦争下のモダンダンス--交錯するプロパガンダ--』

380.1『現代民俗学のフィールド』

002『ヒューマニティーズの復興をめざして』人間学への招待

336『JALで学んだミスをふせぐ仕事術』

778.23『ヌーヴェル・ヴァーグの世界劇場』映画作家たちはいかに演劇を通して映画を再生したのか

374.43『校長先生、今日の話は何?』公聴として子どもたちに伝えたいこと

318.1『リーガルマインドが身につく自治体行政法入門』

377.1『これからの大学経営』ガバナンス、マネジメント、リーダーシップ

361.63『現代日本の家族社会学を問う』多様化のなかの対話

837.7『日英対訳 アメリカQ&A』

319.8『平和をつくるを仕事にする』

748『山熊田』

333.6『グローバル経済』

361.44『火星からの侵略 パニックの心理学的研究』

493.79『大人になっても敏感で傷つきやすいあなたへの19の処方箋』

547.48『大人のためのLINEのトリセツ。2018』

377.28『なぜオックスフォードが世界一の大学なのか』

336.49『説得の極意』相手の「絶対に譲れない!」を「OK!」に変える

336.17『イノベーションの核心』ビジネス理論はどこまで「使える」か

547.48『これからはじめるLINE基本&活用ワザ』

333.6『理論と実証から学ぶ 新しい国際経済学』

371.5『シュタイナー教育思想の再構築』その学問としての妥当性を問う

335.35『グローバル市場を志向する国際中小企業』--革新的技術と国際企業家精神を併せ持つ中小企業の研究

539.09『電力と政治 上』日本の原子力政策全史

539.09『電力と政治 下』

510.92『土木業界の動向とカラクリがよ~くわかる本』社会資本と成長を担う業界の現在を俯瞰!

331.19『ゲーム理論はアート』社会のしくみを思いつくための繊細な哲学
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未唯宇宙 4.6.3

糖尿の悪化かな

 血糖値とヘモグロビンがやばい。インシュリンは避けないといけない。スマホ始めてから半年間、ほとんど歩いてない。歩数計アプリを調べたけど適当なのはない。

 会社行ってた時はとりあえず1万歩歩いていた。独我論に入ってるから目標がないのは確かです。来年1月の 御園座のナターシャへ、ピエールとしてイメージしようか。そうなると今年いっぱいの目標になります。ハレー彗星が現れることを期待して。

未唯の次の子

 え、次も男の子・・・

4.6.3「分化し、統合する」

 歴史は分化し、統合するという見方ができる。多様化し、グローバル化する世界に対応していく。それは宇宙の膨張と縮小の表れ。宇宙では大きすぎるので地域でそれを見てみる。

 分化で必要なのは多様であること。それぞれが意思を持って、範囲を広げていくこと。乃木坂と欅の違いはその部分です。ソニーミュージックという同じ運営がしていて、なぜこの差が出てくるのか。メンバーの意識の違いが形に出てきてる。

 メンバーが安心して分化できるコミュニティ。価値観の異なるものが ユニットを組み、活動できる。その活動が人を呼び込む、マーケティングそのものが変化していく。そのための連携機能はソーシャルで準備されてきている。乃木坂でも多くのメディアを使いこなしている。コンテンツも人に合わせて分化していく。

 分化したものをまとめるのが運営の役割。知識と意識を持った上でまとめる。それが生き抜くための仕組みになる。
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