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ムッソリーニがギリシアに侵入したかった理由

289.3『ムッソリーニ』より

なぜムッソリーニがギリシアに侵入したかったのかという理由は、エヴェレストのようにそこにギリシアがあるからということ以外には、完全に明らかであるとは言えない。彼がギリシアを欲しがったことは一度もなかった。少なくともある種の道徳的口実を持ち出すことが可能なフランスやイギリスの領土については、そうしたことがあったのではあるが。戦略的にはシチリア海峡を抑えるマルタ島のほうがはるかに重要で、はるかに獲得しやすい目標だった。一九四〇年六月にムッソリーニがただちにマルタ島を奪取しなかったとき、イギリスは驚いた。ムッソリーニはギリシアをイタリアのものにしたいと言ったことは一度もなかったが、コルフのようなギリシアの島のひとつかふたつにはつねに視線を向けていた。イデオロギー的視点から見てもギリシアは敵ではなかった。当時のギリシアは半ファシスト国家で、首相であるイオニス・メタクサス将軍はローマ式敬礼を取り入れてギリシア式敬礼と呼んでいた。しかしながら、ギリシアの国王ゲオルクニ世は親英的で、イギリスはイタリアに脅威を与えるためにギリシアのなかに海空軍の基地を設置したいと願っていた。

だが、侵入の真の理由は、ムッソリーニの並行戦争戦略がそれを求めたことだった。彼には自分の力だけで打ち破ることができる敵が必要だった。それさえできれば、講和会議の席に戦勝国として登場できるからだった。ムッソリーニは最初にユーゴスラヴィアヘの侵入を考えたが、ヒトラーはユーゴスラヴィアに三国同盟への参加を働きかけていたので、これに反対してムッソリーニを説得した。二番目の、だが決定的な理由は、十月十二日にドイツ軍が一例によってムッソリーニには最終段階まで通告することなく、ルーマニアに進撃したことだった。そのねらいはドイツが必要とする年間の石油量一〇〇〇万トンのうち七〇〇万トンを供給していたルーマニアの油井を「保護する」ことだった。この年の六月にロシアがバルト三国を占領し、続いてルーマニアの北東部を占領していた。スターリンが次にルーマニアの油田地帯へ動くことをヒトラーは怖れた。ヒトラーはまたイギリスによるその破壊工作も怖かった。ルーマニアの石油はユーゴスラヴィアもしくはハンガリーを経由してドイツに運ばれたため、バルカン地域はドイツの生命線となっていた。しかし、ムッソリーニはユーゴスラヴィアと残りのバルカン地域を自分の影響圏と考えていた。最初はフランスで、今度はバルカンで、ヒトラーの唯一の関心は枢軸の利害ではなく自分の利害であることは明確だった。エンリーコ・カヴィーリア元帥がこの当時指摘したように、イタリアはドイツによって「少しずつ《誤魔化されて》いた」。

ヒトラーによるルーマニア占領はムッソリーニを「憤慨」させた、とチァーノは日記に書いている。ムッソリーニはチァーノに言った。「今度はわたしが彼を同じ目に遭わせてやる。わたしがギリシアを占領したことを彼は新聞紙上で知ることになるだろう。これで釣り合いがとれるというものだ」。さらに念を入れてムッソリーニはつけ足した。「ギリシアをやっつけるのに苦労するようなら、わたしはイタリア人であることをやめる」。したがって信じられないように思えることだが、公式の敵国であるイギリスに対してではなく、公式の同盟国であるドイツに対する緩衝材として、ムッソリーニはギリシアを欲したのである。ひとたび決意を固めると、ムッソリーニは、国境地域でのギリシアの暴力行為など、宣伝のためのいい加減な口実をいろいろとでっち上げた。

それでも彼の本当の目標はギリシアではなくエジプトだった。八月二十二日にようやくムッソリーニは軍事命令のなかで、イタリアの優先目標は北アフリカにおいてイギリスからエジプトを奪うことであり、ギリシアとユーゴスラヴィアはたんなる「観察と監視」の対象となることを明らかにした。八月十九日の電報のなかでグラツィアーニに伝えたように、彼がねらっていたのは、ヒトラーのイギリス侵入とイタリア軍の攻勢を一致させて、「最大の衝撃」を与えることだった。エジプトの喪失はイギリスにとって致命傷になるだろう、と彼は言っている。しかし、ブリテンの戦いの敗北に結びついたヒトラーのルーマニア占領は、ムッソリーニにギリシア侵入の決意を抱かせることになり、エジプト進出のプランは当面取り下げられた。

ドイツ軍がルーマニアに侵入してから三日後の十月十五日、ムッソリーニはヴェネツィア宮殿で開かれた会議でバドーリョと将軍たちに対してギリシアヘの侵攻を決定したことと、それを二週間にも満たない二十六日に開始すべきことを伝えた(侵攻はその期限よりも二日遅れた)。彼は攻撃の理由を次のように説明した。「これらの目的をわれわれが達成したとき、イギリスに対して地中海のなかでのわれわれの立場を改善することができるだろう」。アルバニアのイタリア軍司令官セバスチァーノ・ヴィスコンティ・プラスカ将軍は、自分には七万人の兵力があり、これらの部隊がアルハニア国境のエピルスに橋頭堡を確立できることを信じている、と発言した。彼の推定では、ギリシア軍にはわずか三万人の兵力しかいないとのことだった。あとになって、自分の評価を守るために、バドーリョは準備不足を理由として侵攻に反対したと思わせようと試みることになる。しかし、その会議で唯一ハドーリョが表明した留保条件は、ギリシア全土を占領下に置くことに成功した場合必要な師団の数は倍-すなわち二〇個師団になる、ということだった。だが、ムッソリーニからの圧力を受けて、ヴィスコンティ・プラスカは当面三個師団の増派で足りると発言した。だが、ギリシア軍兵士の数はヅィスコンティ・プラスカ将軍の推定の一〇倍だったのである。

ムッソリーニのギリシア侵攻に関するヒトラーに対する説明は、筋書きの一部しか語っていなかった。十月十九日の日付がある、ラーロッカーデッレーカミナーテにおいて手書きで書かれた手紙のなかで、十日以内に、海空軍基地設置の許可を得たばかりのイギリスに対する先制攻撃として、ギリシアに侵攻することを伝えた。「ギリシアは地中海におけるイギリスの戦略的拠点のひとつである」と彼は説明した。同じ手紙のなかでムッソリーニはフランスに対するイタリアの要求について詳細に述べており、それは「不可欠の点」であるとともに、「枢軸とフランスの関係を明確にする」べきときが来ている、と伝えた。イタリアにとっては不可欠でも、ヒトラーにとってはそうではなかった。ギリシア侵攻もまた、フランスに関してヒトラーに圧力をかける企てだった。
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