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『数学者たちの黒板』

数学者は数学が何かを知っているが、 彼らにとって、それを説明 するのは難しい。 私が数学について見聞したことを挙げてみよう。 数字は、演繹法と抽象化を用い、古い知識から新しい知識を創造す る技術だ 形式的なパターンの理論」 「数学は数の学問」 「自然数や、 平面と立体の幾何学を含む分野」 「必要な結論を導き出す科学」 「記 論理学」 「構造に関する学問」 「時を超えた宇宙の構造を説明する 「論理的なアイデアの詩」 「公理の集合から、 命題あるいはそ れらの否定の集合までに至る、 演繹的な経路を探す手段」 「目に見え ない、想像の中にしか存在しないものに関する科学」 「正確な概念装 実在のものであるかのように扱うことができるアイデアの学問」 「明示的な構文規則に従い、一次言語の無意味な記号を操作すること」 「理想化された対象の性質とその相互作用を調べる分野」 「目的のた めに発明された概念と規則を用いた、巧みな演算の科学」 「何がおそらく正しいのかに関する予想、 問い 知的な推測、発見的な議論」 「多大な労力の上に作られた直観」 「我々の文明によって構築された、 貫性のある、 最大の人工物」 「完成に向かうにつれて、あらゆる科学 がそうなるもの」 「理想的な現実」 「たかだか形式的なゲームにすぎ 「ないもの」 「音楽家が演奏をするように、 数学者がすること」。
数学のことを、「何千年にもわたって書き綴られてきた物語で、常 に加筆され、決して完成することのないもの」と捉える数学者もいる。 これほど古い『経典』はないだろう。数学は、人類が自身について書き残している記録であり、歴史以上の長さを持つ。歴史には、修正さ れたり、改ざんされたり、消されたり、失われる可能性がある。でも、 数学はずっと変わらない。 A-B-Cは、ピタゴラスが彼の名前をつ ける以前から真であり、太陽がなくなっても、そのことを考える人 が誰もいなくなっても真だ。そのことを考えるかもしれない、いか なる地球外生命にとっても真であり、彼らがそれについて考えるか どうかに関係なく、真だ。数学を変えることはできない。上下左右、 空と水平線のある世界がある限り、それは侵すことのできない存在 であり、いかなるものよりも真だ。
バートランド・ラッセルは数学のことを、「私たちが何について話 しているのかも、私たちの言っていることが正しいのかどうかも、 「分からない学問」と言った。 他の科学者の言葉についても言及しよう。 ダーウィンは、「数学者とは、真っ暗な部屋で、 そこにいない黒猫を 「探している盲人だ」と言った。 ルイス・キャロルは、 四則演算(足し 算、引き算、掛け算、割り算) を、 打算、 注意散漫、醜怪化、 あざけりと 書いている。 状況を複雑にしているのは、 数学を、 特に高等な範囲で、 理解するのが難しいことだ。 それは、単純な共通言語 (数を数える ことは誰にでもできる)として始まったが、 専門化された方言に変わり、あまりにも難解になったため、世界で数人しか話せなくなってしまったのだ。
これらはいずれも、私自身の考えではなく、常套句のようなものだが、 そうだとしても私は数学に惹かれる。数学者たちは、確かな世界の 中で生きている。 他の分野の科学者も含め、残りの人が住んでいる 世界において、確実性とは、「自分の知る限り、ほとんどの場合は、こ のような結果が起こること」を示す。証明に対するユークリッドの 主張のお陰で、数学では、分かっている範囲内で、 毎回、何が起こる かが分かる。
数学は、謎を説明するために私たちが持っている、最も明示的な 言語だ。 物理学の言語としての数学は、 実際の謎 (自然界で、はっき りとは分からないが、 正しいと推測し、その後、正しいと確認される謎) 架空の謎 (数学者の心の中にのみ存在するもの) を記述するものだ。
では、これらの抽象的な謎はどこに存在するのだろう? その縄 張りはどこか? 人の心の中に住んでいると言う人もいるだろう。
つまり、数学的対象 (数字や、 方程式、 公式など、 数学の用語集や装置 全体を意味する) と呼ばれるものを思いつき、それらを存在せしめ ているのは、人の心であり、 それらの振る舞いは、私たちの心の構造 を反映したもの、ということだ。 私たちは、 自分の持っているツー ルと整合する形で、世界を検証するように導かれている (例えば、 私 たちに色が見えるのは、 表面からの光の反射をそう捉えるように脳 が構造化されているからだ)。 これは、確かな情報に基づいてはいる が、少数派の見方であり、神経科学者や、 根本原理に偏った一定数の 哲学者や数学者が、 主に持つ考えだ。 (ほんの少しかもしれないが) より広く支持されているのは、 数学がどこに存在するのかは、誰も 知らない、という見方だ。 どこかを指さして、「数学はそこから来た」、 と言える数学者や自然主義者はいない。 数学は、 私たちの内面以外 のどこかに存在し、 創造されるものではなく発見されるものだとい う信念は、プラトンの信念にちなんで、 プラトン主義と呼ばれる。 彼は、 時空を超えた、 完璧な形をとる領域が存在し、 地球上に存在するも のは、その不完全なコピーにすぎないと信じた。 定義上、時空を超え た領域は常に存在してきたもので、 時間と空間の外側にあり、いか なる神が創造したものでもない。 第3の見方は、 数学は神の心の中 に宿るというもので、歴史的にも現在においても、少数ではあるが 無視できない数の数学者がそう考えている。 集合論の創始者である ゲオルク・カントールは、「神の持つ最上の完璧さは、無限集合を創造する力にあり、それを可能たらしめるのは、その計り知れない高 「潔さだ」と述べている。 そしてシュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、「神 の考えを表すものでなければ、 方程式は私にとって意味をなさない」 と言った。
芸術家のように、数学者はしばしば、 自分の知識の縁、 すなわち、 薄明かりしか差し込まない領域で研究する。 取り組む価値のある問題に到達することは、時に、内面の冒険であり、多くの努力を必要とし、 多くの領域を包括する。 すべての冒険が意識的なものではない。 古 くて、由緒ある問題に向き合うのは、 最後の砦に立ち、(それを試み た他の多くの人たちの報告によると)不可能に見える状況で、 攻撃 の計画を立てるのと少し似ている。
ワインの写真は、 複雑な数学的推論の領域から厳選されたものの 集まりだ。 人間の思考の最前線、すなわち、 まだ検討中で、 現在進行 形の問題を表した写真もある。 説明的な写真や、物語的な写真、推測 を含んだ写真もある。 数式や描画は、あたかもそれ自身が生きてい るかのように揺れている。 若い頃に LSDを服用し、 小さな木片に書 かれた、かろうじて読める文字を見て、「これが理解できれば、 すべ てが理解できるだろう」と考えたときの幻覚を思い出す。
これらの図を描き、公式や説明を書いた人々は、 すべてを理解し ているわけではないとしても、 新しい知識を追究している。 追究の 多くは、数学を拡張する以外に実用上の目的はないかもしれない。 とはいえ、控えめに言っても、彼らが研究していることは、これまで に誰も知らなかった何かである可能性がある。
黒板に書かれたものは、記号であり、これらの記号に残された指 針を辿れば、そのときの思考の結論に戻ることができるし、一連の 思考を再構築することもできる。 黒板に書かれた文書は、数学とい う普遍的な言語以外では互いに話すことができない人々によって、 世界中のどこででも再構築することができる。 黒板に書かれたもの を消してしまっても、それらは、 数学という大薯の中の項目として、 依然として存在するだろう。
これらの写真は、 何年にもわたる研鑽と思考を記録したものだ。 肖像画がそうであるように、そこには、心の状態や性格、内面の働き に関する何かが体現されている。 飾り気のないこれらの写真を見ると、20世紀初頭にディスファーマーがアーカンソー州のアトリエで撮 影した、農家と農作業員、 その家族の写真を思い起こす。 ワインの撮 影した、 これらの図表や方程式は、 ディスファーマーの写真のように、 あなたを見つめ返す。 まるで撮影されたものの本質を明らかにする かのように、余分なものを取り除いた質を帯びている。 あたかもワ インがダンスの流れを辿ったかのように、そこには、思考が行われた、 活気に満ちた様子が描かれている。 彼女は目を閉じて、1行1行を追っ ているようだ。 写真には、文書のような固定化された感覚があるが、 その文書を書いた手の動きも感じ取ることができる。 それらはすべ て、数学者が、 歴史的に、 美と関わりを持ってきたことを象徴している。 ある生き物と、そのホームグラウンドで遭遇したような臨場感もあ る。 あまりにも魅力的で、 ワインが最初に見たときに息を呑むほど だったであろうと思える黒板の写真もある。 彼女の関心は、 形式的 な外観だけでなく、それぞれの黒板が示唆する意味の層にも及んで いる。 それらの第一印象には、 はっきりした意味があるが、 消去され た跡や、描き直されたもの、推論が進展してゆく過程には、 さらなる 意味があり、時間の経過とともに明らかになってゆくかのようだ。
全体として、これらの写真はある種の証言であり、 人の思考がよ り高い能力を持つことを信じた記録だ。 ほとんどの抽象的な数学 がそうであるように、たとえ明確な形で役に立たなくても、そのよ らな推論的な思考には価値がある。 時に詩人が、 自分の文章を、 散 文よりも高尚なものと見なしたように、 純粋数学という呼び名には、 19世紀の俗物性の意味合いが (おそらく意図的に)含まれる。 そう は言っても、純粋な思考と実践的な思考は区別しなければならない。 それは、例えば、詩と簡単な報告書の間に存在する区別のようなも ので、プラトンも同様の区別をしたであろう。 数学が芸術なのか科 学なのか、あるいはその両方なのかを判断するのは難しい。
数学者のアラン・コンヌは、 数学において 「存在する」 という語は、 矛盾の対象とならないことを意味する、 と言った。 これらのエレガ ントな写真には、 人の厳密な思考というキャンバスに描かれた絵が、 詳細に保存されている。

 ダンボール なら レーザーには引っかかりにくい 武器がどんどん原始化していく

 せーらがなんか一般化してきている いい意味で! #早川聖来

 奥さんへの買い物依頼
ししゃもフライ     299
握り寿司   499
お茶       128
ジンジャエール     148
はごろも煮  328
レンジでごちそう3つ       998
玉子がゆ   98
ネーブルオレンジ7個       498
テリヤキチキン     358
ざるラーメン       198
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月の光が部屋に入り込んでる

月の光が部屋に入り込んでる

 家族制度崩壊への道のりをつけられるか

第二次世界大戦後に欧米諸国で確立された社会保障制度は、「男性稼ぎ主モデル」に基づいたものであり、その後 の福祉国家の変容は、そのモデルからの離脱の歴史だった。設立当初、社会保障制度は、拠出制の社会保険と税を財 源とする公的扶助という、二つの異なるプログラムから構成されていた。その後一九六〇年代に入り、家族形態の変 化や女性の方率の上昇が進むと、既存の二層構造の制度では対応しきれない 「新しいリスク」が注目を集になった。女性や子どもの経済的な困窮が深刻な問題として受け止められ、家族手当や児童手当といった、それまで重視されてこなかった所得保障プログラムの整備が急がれた。

一九七〇年代以降の経済状況の悪化や、新自由主義的なイデオロギーの台頭によって、福祉国家の再編が進められ る中で、各国の政策的な対応は政治的な要因に大きく左右され、多岐にわたった。だが、大きな潮流としては、家族 政策への関心が高まり、その一環として子どものいる家庭への経済支援が重点化されていく動きが見られた。

こうした状況の下で、本稿で取り上げた事例の中では、スウェーデンの社会保障制度が、一九九〇年代までに最も 「男性稼ぎ主モデル」から離れ、「共働き家族モデル」へと移行した。 それに対し、フランスとドイツでは、普遍性が 高い家族・児童手当が導入され、子どもを持つ家庭への支援は進んだが、一九九〇年代までは、女性の完全な労働参 加を促すような政策への転換は行われず、「男性稼ぎ主モデル」が部分的に修正されるにとどまった。こうした特徴 は、脱商品化に加えて脱家族化という指標を用いたイエスタ・ エスピン=アンデルセンの福祉レジーム論においても 指摘されている(Esping-Andersen 2000)。
一方、エスピン=アンデルセンが自由主義レジームとして括っているイギリスとアメリカは、一九九〇年代に福祉 改革が進み、母子家庭など特定のターゲットを持つプログラムの受給資格が厳格化され、ワークフェアへの動きが見られたという点では類似している。しかしアメリカでは家族・児童手当が存在しないのに対し、財政規模が小さいとはいえ、イギリスでは、子どものいる家庭への経済支援が重視されており、その点において両国は大きく異なっている。

「男性稼ぎ主モデル」が変容を遂げて行き着く先として展望されているのは、家族を単位とせず、 ジェンダーによる差異を生み出さない個人モデルである。ダイアン・セインズベリーが提唱する稼得とケアの個人モデルでは、ジェ ンダーに関わりなく稼得とケアの提供者となり、そのことが社会権として認められ、個人の主体性が尊重されるような政策が必要であるとされている (Sainsbury 1999: Chapter 8; 田中 二〇一七:四三頁)。最も先進的なスウェーデンにおいても、労働市場への女性の参加は進められてきたが、無償のケア労働に対する責任はいまだ女性が主に担っていることが指摘されている (Lewis 1992: 169; 深澤 一九九四:一四頁)。ジェンダー中立的な形で稼得とケアの提供を可能にするようなシステムを組み込んだ社会保障制度が確立されてはじめて、福祉国家は「男性稼ぎ主モデル」からの離脱 を完了するのである。

『図書館情報学事典』
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カバーを外した横顔が一番ステキ

カバーを外した横顔が一番ステキ #早川聖来

 秘すれば花 カバーは外そう #早川聖来 #早川聖来写真集

 ネットで「宅配弁当」の 宣伝が増えている 理念から説かないと 単なるデリバリーになつてしまう 個の自立という理念

家族制度の崩壊
 朝の4時半にしては明るいと思ったら 前日の夕方だった
『死は存在しない』 豊田市図書館で予約数59とは 内容概要は「最先端量子科学は、「死後の世界」が存在する可能性を示唆している。その興味深い仮説とはどのようなものか、その仮説が正しければ「死後の世界」とはどのようなものかを解説する。」というもの
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私の歴史は未来を知り 今を見ること

私の歴史は 未来を知り そこから今を見ること

 2度目の2冊買い 生ちゃん以来 #早川聖来 #早川聖来写真集

 1.4.2 存在を問う:存在のなぞに挑む勇気
存在は答えだから問えない
存在者としての振る舞う
存在だけで世界は成り立つ
私は正しいという認識
・考えるために存在している
・存在は答えである
・そんなことになるとは思っていなかった
・存在の謎は哲学の最大の謎
・内なる世界で問うのは自由である
・存在の謎が全ての発端
・存在が問えない以上 内に籠もる
・全てを知りたい動機そのもの
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【2-6】所有からアクセスへ

【2-6】所有からアクセスへ

  • 情報の所有

情報とは、人間がそれを認識する状態もしくはプロセスを指すと 考えられるため、情報自体が実体をもつことはない。自分がもっている情報は, 何らかの方法で他人に伝達できるが,それによって自分から情報が消えてしまうことはなく、同時に多数の人が共有することができる.しかし,これまで多くの 情報が本やCD といった有体物に記録されて流通してきたため、情報を取得する ためには物を入手する必要があり、その最も代表的な手段が物を所有することであった。 特定の本を所有することは,物としての本に関しては絶対的な権利を行 使することであり、本を再度売ってもよいし、破壊してもかまわない. 実体のな い情報は本質的には売ることも消失させることもできないが,社会においては情 報メディアの所有を通して, 私たちは情報を擬似的に 「所有」してきたといえる. しかし, デジタル化とネットワーク技術により普及した電子書籍や音楽ファイル は有体物とは見なされないため,これらを入手することは、法的な所有ではない. つまり、これまで擬似的に「所有」と見なしてきた情報の入手が,アクセスとい う新たなかたちでとらえざるを得なくなってきたと考えられる.

  • 電子書籍の所有

有料で市販されている電子書籍は,購入することによって自 由に読めるようにはなるが、法的には電子ファイルの所有とは見なされない.代 表的な電子書籍サービスの契約において,電子書籍の購入とは電子ファイルを利 用する権利の付与でしかないことが明示されている.購入した電子書籍を他人に 譲ることも貸すことも許されていないし, サービスによっては登録した機器以 外で利用することもできない. そのサービスがなくなれば購入した電子書籍のファイルにアクセスすることもできなくなる. 2019年にマイクロソフトストアが 電子書籍の取扱いサービスを中止した際には,購入した電子書籍のファイルが削 除された。当時のマイクロソフト社は返金したが、 契約上返金の義務が生じないようになっていることが多い. 大手のサービスが中止されることは頻繁に起こることではないが, 電子書籍の購入がアクセスを永久に保証するわけではないことを認識している利用者は少ないと考えられる.

  • 所有権の再考

レベッカ ワトキンスらはデジタル環境が進む中で, 所有とア クセスを対立した概念と見るのではなく、 従来の所有権を複数の権利の束と見なし、現在のデジタルコンテンツへの対応は,所有に関わる特定の権利や機能が分 割断片化している状況と見なすべきだと主張している (Watkins et al., 2016). 彼女らは所有権には①コントロール, ②継続性, ③移転可能性 (transferability) の3次元があるとしている. ①コントロールとは、使用において利用者がその対象に対してどこまでコントロールを及ぼすことができるかである. 本を購入するよ うな物の所有の場合、その人の独占的使用の権利が認められるが,図書館の貸出 のような物へのアクセスの場合、排他的には使用できないし, 使用したいときに使用できる保証はない.デジタル著作権管理 (DRM) がかかっていない音楽ファ イルを購入した場合,基本的には独占的使用が認められるが, 音楽のサブスクリ プションサービスの場合、使用の仕方には制限がある. ② 継続性とは,利用者がアクセス,利用できる期間を指し、物の所有の場合は無制限で永久に利用し続け られるが,上述したように電子書籍の場合は永続的なアクセスが保証されていな い.③移転可能性とは,売却,贈与,交換,変更, 破壊する権利であり、印刷版の本であれば分解して章ごとにまとめ直すなど物理的媒体としてはどのような加 工も自由であるし,売ることも捨てることもできる. デジタルファイルの場合, その権利はさまざまである. サブスクリプションサービスの場合、いずれの権利 も認められていないが,クリエティブコモンズライセンスの「表示 (CC-BY)」 で 公開されているのであれば,売却,贈与,交換,変更, 廃棄は自由である.

  • 所有感

従来の物の所有に対して, デジタルコンテンツの場合、何ができれば 「自分のモノ」という所有意識をもつことができるのかという 「所有感」に関して も関心が高まっている. 一般的には一時的なアクセスしかできない状況を所有と は感じないが, ダウンロードでき, 永続的に保持できるデジタルファイルを購入 して所持していると多くの人が「所有感」をもつという調査結果が示されている (Zhu & Cho, 2018) これは継続性が大きな要件であると推察できると同時に, 対価を払ったという点も所有感に関係している可能性がある.

  • 所有からアクセスへ

単純に物の所有からデジタルのアクセスへと人びとの利 用や意識が移行しているかどうかについてはまだ十分な研究がなされているとは いえない.しかし、従来の物の所有ではない, デジタルコンテンツに対する多様 な利用形態でのサービスが展開され始めており, 人びとが情報へ適切かつ自由に アクセスすることを保証するためには,どのような観点を考慮しないといけない のかを議論してゆく必要がある. 購入した電子書籍のファイルが提供サービス側 の中止で削除されたことに対して, 多くの人が自分の権利を侵害された印象を もったのであれば、どのような利用が保証されるシステムが望ましいのかを考え なければならない. これまで物の所有を基本とし, 市場原理とは異なるところで 情報へのアクセスを保証してきた図書館サービスも含めたかたちで考えてゆく必 要がある. 学術コミュニケーションの領域では, データベースや電子ジャーナル に代表されるように,大学図書館は所有ではなくアクセスのライセンス契約を取 りまとめることで、利用者の情報へのアクセスを保証する形へ移行しつつある. これは利用者集団が限定されているから可能となっている側面もあり、社会全体 のアクセスの保証の仕組みを模索し続ける必要があろう。 [倉田敬子]
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他者の世界

1.3.3 他者の世界:他者の世界を見ているだけ
他者の世界は何かを示しているのか
今は組織が支配している
報告は必要とされていない
何のために見せられているのか
・他者の世界を見ているだけ
・組織が支配して、循環しない世界がある
・他者の世界はすべて中途半端です
・こんな中途半端な世界に送り込んだ意図は不明
・様子を見ながら見識を得ている
・仕事は全て自分のために用いた
・もう少しマシになった時代からでも良かったのに
・この時代が人類の最終段階だからなのか
・未来を提案するために送り込んできたかもしれない
・未来を見ない人類は どうしようもない

 感染症 ウクライナ戦争 環境破壊 せーらの卒業 核の脅威が意味するもの考えている #早川聖来

 3.6 コミュニティ:メンバーの思いを叶えて 周辺に影響を与える
・コミュニティは地域の核
・未来コミュニケーションの実験をする
・運営はコミュニティでまとまる
・周りを取り込む力
中間の存在:個と地域の中間の役割を担う 乃木坂 はコミュニティ
メンバーの思い:メンバーの目的を実現する
働き掛ける:同じ思いのメンバーとユニット活動
インフルエンサー:理念を伝播して外部を巻き込む

 3.8 平等の実現:多数決でなく個の目的に対して合意して行動して平等を目指す
・多数決から行動は押し きせで不合理
・個の目的実現から平等社会を作る
・個は有限だから所有する必要はない
・組織に依存せず一人で生き抜く
個の意識:個が覚醒して、超から社会を見る
個の目的:目的達成のために領域を超える
民主主義:多数決を否定した合意で所有から共有
平等である:有限である個がまともに生き抜く社会

 29日に 写真集だけど豊田市にあった3つの本屋は潰れて丸善だけになった その丸善で写真集は見たことないとなると元町のTSUTAYAに行くしかないということで 火曜日は 元町スタバとドンキ

 最終日の4期曲はまゆたんセンターのあおぶる 今回代わった演出家からのメッセージ それにどう応えるか #早川聖来 #あおぶる

 そこで思い出したら買いましょう 安心安全なライブ かけがえのない 一人を願う 最終日は写真集のフラゲ日 #早川聖来 #願ったこと

 奥さんへの買い物依頼
マヨネーズ    268
卵パック       218
食パン8枚   158
豚バラブロック           486
鮭切り身2切れ         280
冷凍から揚げ 378
野菜生活      188
プッチンプリン 138
あずきバー   218
ヒレカツ        398
たこ焼き       550
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vFlatによって再燃

ハイデガーのこと

 ウィトゲンシュタインが言いたいのは、こういう言語の本質的特徴から考えると、 ハイデガー哲学は、多くの無意味な問いから成りたっているということだと思いま す。「存在」という語を考えてみましょう。 この世界は、「存在」に満ち溢れています。 「存在」以外には、それこそ存在していません。それなのに、「存在とは何か」という問いをたてるのは、明らかにおかしいのです。 「存在」という語の否定の状態がどこにもないのに、「存在とは何か」と問うてみても、最初から答がでないのは、わかりきっているのです。この場合の「存在」には、意味がないのです。 存在に対してただ 驚くことしか、われわれにはできないのです。

べつの言い方をすると、この「存在」という語は、絶対的な領域を指しています。 この世界のありとあらゆるものは、 問答無用で「存在している」のですから、「存在」 は、われわれには、手がつけられない 絶対的領域」なのです。議論のしようがない というわけです。 「存在している、以上」といった感じでしょうか。 それに対して言 語は、相対的道具です。いまも説明したように、かならず比較や否定が、語の裏面にくっついています。 「山」と言えば、 「山でないもの」、 たとえば、 「川」「丘」「平野」などなど、いくらでもその背景には存在しています。だからこそ、「山」という語は、 意味をもつのです。ところが、「存在」は、そうではない。その反対語は、「無」で しょうか。しかし、この世界のどこをさがしても、「無」はない。そうなると、「存在」という語を、この世界では使えないことになってしまいます。世界の外側に立た なければ、「存在と無」という相対的対立は、意味をもたないからです。

 ちょうど1年前にスキャナを捨てた そして vFlatによって再燃した 本は捨てられない
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私は世界だ

私は世界だ

〈私〉というのは、とてもやっかいなものです。 朝起きても〈私〉、一日中ずっと 〈私〉、そして夜意識を失うまで、とことん〈私〉。ここからは、逃れようがない。た しかに、〈私〉以外の人は、たくさんいます。 これは、誰でも(といっても、この 「誰でも」は、〈私〉の推測ですが)わかります。ただ、〈私〉以外のたくさんの人は、 この〈私〉からしか見えません。 〈私〉以外の人たちに、〈私〉は、なることはできま せん。だって、この世界に 〈私〉は、一人だけだからです。 このことは、よくよく考えると、とても恐ろしいことです。

どういうところが恐ろしいかというと、他の人間、他の動物、さまざまな無限の可 能性がある(ように〈私〉からは見える)のに、それらの可能性を〈私〉が試すこと はできないということです。 時代も地域も人種も生まれる家庭も、自分では決められ ない(この世界は、〈私〉だけなのに、何も決められない)。そして、いったん〈私〉 になると、それ以外の可能性は、すべて消えてしまう。他人(やほかの動植鉱物) どんな気持ちで生きているのか、自分とは異なるジェンダーである女性(男性)でい るとは、どのようなことなのか、ほんの少しも経験できない。可能性は、無数にある のに、それにまったく関与せずに一生を〈私〉で終えるのです。とてつもない世界で す。何とむなしいことでしょう。

ウィトゲンシュタインが言うように、 「主体〔私〕は、世界の一部ではない。そう ではなく世界の境界」 (「論理哲学論考」 5.632) なのです。世界をつくりあげている のは、〈私〉という領域なのです。世界そのものが、〈私〉だから、この〈私〉の外側 には、なにもない。無世界と言っていいでしょう。

なぜか無印でまな板を2枚買った なんか使えそうな予感
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「テキスト編集」の機能

ついにスマホで「テキスト編集」の機能を見つけ出した 文章の編集が自由にできる

 乃木坂ANNの時間だけど「ヨーロッパの歴史認識をめぐる対立と相互理解」を読み上げ機能で聞いてる 真っ暗な布団の中で

 いくちゃんは哲学 ひめたんは心理学 そしてせーらは社会学へ進めばいい 女性の自立が世界を救う #早川聖来 #生田絵梨花 #中元日芽香

 ローマの休日 8月25日からスタートのパンフレットだったからそのつもりでいたら 9月1日 上映予定せーらの卒業翌日に見ようと思ったのに また、いつかミュージカル「 ローマの休日」に出る日に合わせて #ローマの休日 #早川聖来

 2.7 超とつながる:個が覚醒し 超とつながり 目的を達成する
・個―全体―超の関係を作り出す
・超は個の目的達成のために全体を超えるもの
・個があることは超があることを示す
・個と超で安定する空間
・個のなかに超が存在する空間
平等の条件:個が目的を達成することが平等となる
個の覚醒:個が私の世界を持ち、私の歴史を生きる
哲学で解釈:存在を認識し 自立に向けて考える

 リトアニアには行きたかった 行ったことにしよう

 いつのまにか璃音が F 1 芸能人に混ざってる

 奥さんへの買い物依頼
ごはんパック 458
食パン8枚   158
ししゃも        298
グレープフルーツ        398
ブルコギ       350
まぐろタタキ  398
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『歴史学入門』

『歴史学入門』

 「戦争とは, 複数のアクターがそれぞれの目的を実現するために,組織的かつ継続的に暴力を用いることで衝突し、死者を発生させ る社会的な現象であると定義できます。」
ならば 組織の目的を変えれば戦争はなくなる。個人が目的を設定し それを達成することを 組織の目的にする それで十分です
 本は本当に不便な道具です まず 重たい 自分の目を動かさないと活字が目に入ってこない 明かりがないと読めない コンテンツが欲しいのにものでしか提供されない 今寝ながら 明かりのないところでスマホで本を読んでいる 目が疲れたら 読み聞かせ機能を使う
 『世界哲学史』は古代から近代まで8巻ほどあるけど みんな値段が異なる ページ数で 値段が決まっている 本というのは 量り売りなんです 古代に比べて中世はほとんど意味がないのに
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