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一年間に借りた本

2012年度(4/1/2012~3/31/2013)の本の集計

 1477冊

 詳細の分析は後日

この一週間、気になっている言葉

 奥さんから、「あなたが悪いから、私は知らない」

 手術の日程は教えないことにした。絶対孤独の中での入院の10日間を過ごす。
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なぜオープンソースが機能するか

『協力がつくる会社』より 協力というビジネス

インターネットのおかげで、今日の企業や非営利組織は集合的な洞察やアイデアや貢献を、組織内の人々からだけでなく、その外にいる何百万もの人々から集めて活用できる。たとえば、人間文化がこれまで知っている情報の集積として最大で最も野心的なものになりつつあるウィキベディアがそうだ。

ウィキペディアはいたるところにある。著者やジャーナリストはそれを情報源として使う。グーグルは、どれだけ広くリンクされているかに蕎づいて結果のランクをつけるが、ほとんどどんな結果でもウィキペディアの記事をしょっちゅうてっぺんに持ってくる。学生たちは研究ペーパーでウィキベディアを引用するのは認められていないが、新しいテーマを調べる入り口として使うことは多い。では、なぜこれはどの世界的現象になったのだろうか? これをライバルである、『ブリタニカ百科事典』やマイクロソフトの『エンカルタ』と比べるところから始めよう。『ブリタニカ』の競争優位は、昔からその権威だった。同社のウェブサイトによると「訪ねた家の本棚に『ブリタニカ百科事典』が並んでいると、知識が敬意をもたれている家にきたことがわかります」。その編集委員は「ノーペル賞受賞者やピューリッツァー賞受賞者、先端の学者、著作者、芸術家、公僕、活動家などその分野のトップの人々」を含む。つまり、それはエリート知識の象徴だ。何年にもわたり、この主張のおかげで『ブリタニカ』は何巻にもなる革装の製品を、何千ドルもの値段で売ることを可能にした。かなりよいビジネスモデルであることは認めざるを得ない。

そこへやってきたのが『エンカルタ』、百科事典市場に参入しようとするマイクロソフト社の試みだった。『ブリタニカ』と同じく、これまたその知識生産者と知識消費者との間に明確な区別を維持した。また『ブリタニカ』ほどの傑出した権威はそろえなかったが、専門家を雇った。そしてこのソフトを他のマイクロソフト製品とバンドルして、視覚的に魅力あるものとし、使いやすくナビゲートしやすいものにした。要するにマイクロソフト社は、『ブリタニカ』の大衆市場版を開発したわけだ。『ブリタニカ』がウェッジウッドの食器だとしたら、『エンカルタ』は量販店の食器だ。だがやがて、両者ともにI〇年前には存在しなかったビジネスモデルとの競合にさらされることになった。あまりに考えられないビジネスモデルで、理論的には存在できないもの、あるいは少なくともほんの数年前にはそう思われていたものだ。『ブリタニカ』は相変わらず闘い続けている。それはその権威がウィキペディアでは太刀打ちできないほどのものだからだ。でも価格を大幅に下げなくてはならなかった。革装のセットはいまや一四九・九九ドルで、オンライン版の年間購読は六九・九九ドルだ。『エンカルタ』は二〇〇九年に店をたたんだ。それを市場から追い出した力は、もちろんウィキペディアだ。

ウィキペディアは無料だ。これは珍しいことではない--広告に支えられることで消費者にとっては無料の情報源はたくさんある。アメリカでは、ラジオやテレビは昔からそうだったし、最近ではウェブ上のほとんどの情報も無料だ。消費者にとって無料だというよりもさらに過激な事実は、ウィキベディアはテレビやラジオとちがって、コンテンツには一銭も支払っていないということだ。そのコンテンツはボランティアたちが生産し、彼らがそれを執筆編集し、それに対する報酬を求めたり要求したりせず単純に書くことの楽しみや、ウィキペディアンたちのコミュニティの仲間意識のためにそれをやっているのだ。つまりは、本書でこれまで検討してきた各種の理由のために執筆編集する、ということだ。彼らの集合的な著作の果実はプロセスであり、製品ではない。累積的に不完全ながらも自分自身をだんだん改善してゆく共同作業なのだ。

二〇〇一年二月にジミー・ウェールズが初めて、完全にボランティア貢献に頼るウェブプラットホームというクレイジーなアイデアを思いついたとき、その結果がいつの日か、至高の『ブリタニカ』に比肩したり超えたりすると予測した人がいれば一笑に付されただろう。批判者たちは、ウィキペディアは『ブリタニカ』などの刊行された百科事典より不正確で権威がないと主張する。皮肉なことに、子供たち(我が家のも含む)は学校で、ウィキベディアを調べ物には使うなと言われるのに、学者たち(ときには私の同僚たちも含む)はしばしば「生徒たち(大学生や院生)に基本概念についての手軽な文献を与えたいときには、ウィキペディアを見ろと言うんだ。すばらしいよ」などと言う。論争の双方にはもっともな主張があるが、このウィキベディア不信が正当なものか、それともこの知識の新しい源泉に関する人々の不安の産物なのかを見極めるのは難しい。この論争を解決するのに向けた、手持ちの最高の証拠は、二〇〇五年に『ネイチャー』誌の論文で言及された実験だ。同誌のスタッフは、『ブリタニカ』とウィキペディアの記事を先進的な科学者たちに送り(出所は伏せられていたので科学者たちはどっちがどっちかはわからなかった)、その科学者たちに内容を評価してくれと依頼したのだった。ふたを開けてみると、科学者たちはどちらにもまちがいがあると考えたーだがその比率はおおむね同程度だった。当然ながら、『ブリタニカ』の人々はその調査や手法を批判したが、そうした試みはおおむね説得力を持だなかった。そして実際問題として、私たちの狙いにとっては、ウィキペディアが『ブリタニカ』と比べて同程度か、ちょっと悪いかちょっとましか、という話はどうでもいい。私たちとしては、完全なボランティアの貢献で作られた製品やプラットホームが、そもそも多少なりとも成功できるのか、という点にもっと興味がある。そして明らかにそれは成功できるし、ほんの一〇年前にだれにも考えられなかったほど高い水準で成功できているのだ。

ウィキペディアは、インターネットを使って人々の集合的知識を活用したときに実現できる驚異的なことのいちばん明らかな例だ。だが他にもこうした例は何千も存在する。フリーソフトやオープンソースソフトは、ウィキペディアと同じく、オープンな協力の文化がすさまじい量の情報を生み出せる例だ。おたくやハッカーだけの領域に聞こえるかもしれないが、現実には、グーグル、アマゾン、フェイスブック、あるいは『ウォールーストリートージャーナル』オンラインを訪れたら、あなたはフリーまたはオープンソースソフトウェアを使っていることになるのだろうしたサイトはGNU/」inuxォペレーティングシステム、Apacheウェブサーバソフトウェア、あるいはその両方を使っている)。フリーソフトの創始者リチャード・ストールマンが述べるように、フリーソフトウェアというのは「無料のビール」というときのフリーではなく、「自由な言論」というときのフリーで、だれでも使えるばかりか、書いたり書き直したりできる、ということだ。一九八〇年代にストールマンがこの概念を導入したときには、ヒッピーの遺物のように見えたし聞こえた。ソフトウェアは共有の資産で万人に開かれているべきだ、というのが発想で、そのためには人々がソフトを開発し、それをライセンスするときのライセンスを、だれでもそれを複製し、頒布し、売ることさえかまわないし、もとの作者にはまったく何の義務も負わないというものにする、ということだ。ライセンスを受けた者はソフトを改良し、その改良ソフトを頒布することさえ認められているが、その際にはその改良を同じオープンな条件でライセンスしなければならない。これは互恵性を必要とするシステムで、絶え間ない改良を奨励する。私は私の貢献を自由に提供する。かわりにあなたもあなたの貢献を、私とだけでなく、その共通の創造物を使いたい世の中の万人とも共有しなくてはならない。ストールマンはフリーソフトを販売する人に特に文句はなかった。そこで互恵性のサイクルさえ邪魔しなければよかった。
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公共図書館の終わり(私たちが知っていたように?)

『マニフェスト 本の未来』より

二十世紀のメディアの爆発の圧力は、内側へと向かい爆縮を引き起こしています。インターネットによって出版業界は必然的にその姿を変え、新しい世界の中でくすぶり続けています。図書館、ことに公共図書館は、鋭い鞭で突き剌されながら、二ンジンを求めて無駄に走っている馬のような状態です。もともと公共図書館は、地域情報の収集・整理を目的として誕生しました。そして、二十世紀に起きた大衆市場向けメディアの氾濫に乗じて姿を変えていきました。あらかじめ中身の入った商業的な(そしてそのほとんどは娯楽的な)入れ物を集め、利用者に提供するようになったのです。図書館が新しく、独自の価値を持つためには、見過ごすことのできない絶好のチャンスでした。そしてそれは成功をおさめました。図書館というものは娯楽的要素で満たされた入れ物を、少しだけ不便なところもありますが、無料で一時的に利用できる存在だと、利用者から認められるようになったのです。

デジタルテキスト市場の淘汰はやっと始まったばかりですが、そのプレイヤーと戦いの場はいつも通りの顔ぶれです。昔ながらの出版計画に付き従うかのように、出版産業を象徴するビッグシップ号はかなた海上を航行しています。遭難から身を守るためめレバーもノブもほとんどないままです。そして公共図書館も、相変わらず昔と同じで時代錯誤もいいところです。あちらの家でもこちらの家でも老舗家電メーカー、フリッジデール社製のピカピカの冷蔵庫があり、モーター音を響かせているというのに、その前を馬は氷荷車を引いて通り過ぎていくようなありさまです。

出版社は、図書館に少し圧力をかけることが可能なこと、圧力をかけると夏が来るたびに図書館がガレー船上に率先して整列するということを知っています。彼らの本を買うために、です。出版社は自分たちのビジネスモデルに空いている穴は決して見逃しません。始まったばかりのeBookのピジネスヘも、一時的に巨額の投資をしました。しかしeBookビジネスは、制御不能な多くの不安定要素に左右されて、事象の地平面が激しく揺れる辺りをぐるぐる回り続け、期待している見返りは今のところ宙に浮いたままです。出版社は公共図書館を重要な収入源だとは決して考えていません。 eBookのビジネスモデルの中でも、公共図書館はアナログ時代とほとんど変わらない大きさの穴だと思われています。

確かな根拠はあまりないにもかかわらず、出版社は直感的に、図書館で本を借りる一人につき、売り上げが一冊減ると考えています。ことにeBookを買い、それを一度読む利用者と、eBookを「借りて」一度読む利用者に対して、不満をつのらせています。しかし、これは最近になって明らかになってきた事実を無視していると思います。実際に図書館で本を借りる人のほとんどが購入することをまったく考えないそうです。そうであるならばすでに図書館利用者は出版社にとって、開拓の余地がない顧客だと考えられます。それに、eBookの値段は高すぎます。いまだ多くの出版社はこの移行期において多額の費用のかかるプロセスを踏んでいるからです。また、出版社の値付けに理解を示すアーリーアダプター(初期採用者)が相変わらずたくさんいる状況だからです。

こうしてみるとeBookへの需要の高まりに直面している公共図書館には、ほとんど選択の余地はありません。自分たちがコントロールできないところで決められた、顧客が納得できそうもない制限をなすり付けられているだけです。「いいえ、あなたはわかっていない。私はeBookが欲しいのです。eBookなら順番待ちはないでしょうに。」くだらない信頼チェーン(trust-chain)のためのツール、そして図書館用の別枠のライセンス価格、出版社側の制約的な条件を飲んでいるにもかかわらず、ますます「図書館は邪魔だ」と言われているのです。

その上、文字中心の読み物に関しては何の問題もなくどんどん拡大するネット市場による実質的なインパクトがあり、ネットをベースとしたメディアの拡散効果があり、これまで以上に急速に変化していく流行があります。これらは人気のあるものに対する欲求のピークは、これまで以上に針のように細く、高く鋭いということを意味します。今、新しくて非常に人気のあるものと公共図書館で出会いたい(あるいは出会えなくてがっかりしたい)と思っても、まずは不可能になっています。一方では、大会社が商業ベースでeBookの貸し出しをする図書館サービスの実験を行っています。これは公共図書館に対しては人為的な強制力で排除されているもので、著者は(もし出版社でないとしても)そこに加わることは良いアイディアだとみています。

最後に、所有権の課題があります。権利の消尽は長年にわたって私たちの味方でした。しかし、もし公共図書館に向けて売られる唯一のものがライセンスだとしたらどうなるでしょう。私たちはソフトウェアの信頼チェーンに頼らねばならず、そのライセンスにアクセスするためには継続して仲介者を通さねばならないということです。もしもそうなるのであれば、図書館は私たちのコミュニティに対して、いったいどのようにして資料への継続的なアクセスを保証できるのでしょうか?
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OCR化した10冊

404エ 『Xイベント』
 XイベントのXが意味するもの
 「普通」に潜む複雑性の罠
 大きな影響をおよぼす予想外の事象
 Xイベントを構成する三つの要素
 衝突するシステム
 複雑性の七つの顔

382.27キム 『震災の公共人類学』
 防災の公共性に向けて 暗い未来に抗して ⇒ トルコの地域コミュニティについては興味あり
 揺れ、つながり、関係性
 MAG ⇒ MAGはマハレ単位で災害直後の72時間、つまり市民防衛隊や軍、あるいはAKUTなどの専門の救助チームが現地で活動できるようになるまで、自前で救急救助活動を行うためのローカルなチームを作るこ=とを目的としたプロジェクト
 ゼイティンブルヌにおけるMAG
 公共性を維持し続けること
 生み出されつつある関係性

295.3ト 『トクヴィルが見たアメリカ』
 ボストン--精神の状態としてのデモクラシー

191.2テ 『哲学者キリスト』
 キリストの哲学
 宗教とは別の二つの側面
 キリストの教えの精神性
 わたしについて来なさい
 神の国のパラドックス
 死と苦しみに新しい意味を与える
 キリストが教えた普遍的な倫理
 万人平等という一大革新
 個人の自由
 女性の解放
 社会的公正
 宗教権力と政治権力の分離
 非暴力と赦し
 境界なき隣人愛
 人格という概念

313.1エ 『SNSが世界を統一する』
 ウェストファリア体制の限界
 世界統一の提要
 「主権国家体系」と地球の無秩序化
 「個人主権」の確立
 電脳コミュニティー(進化型SNS)の創造

112.04ナカ 『哲学の自然』
 〈原子力時代〉から先史の哲学
 グリーンアクティブともうひとつのインターナショナリズム
 原発信仰と「贈与性」の抹消
 「市場」から「市場」へ
 ハイデッガーの技術論と量子力学
 哲学と考古学の出会い
 人間と自然の最適解
 ラジカリズムと「普通」のこと

023マク 『マニフェスト 本の未来』
 形なき本で図書館を作るということ
 エングージメント・エコノミー
 公共図書館の終わり(私たちが知っていたように?)
 忘れられた消費者

361.3ベン 『協力がつくる会社』 
 協力というビジネス
 GMとトヨタの協力会社NUMMIの成功例
 トヨタのどこが正しかったか
 なぜオープンソースが機能するか
 サウンドオブミュージック
 政治の様相が変わる

498.02ムラ 『医療にたかるな』
 日本の医療はなぜ「高い」のか?
 「医療費が高い地域」に同情するな
 健康意識は「施し」からは生まれない
 医療施設では人の健康は守れない
 医療批判に隠された「ごまかし」 ⇒ 北欧型の福祉政策を述べている

914.6モリ 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』
 「具体」から「抽象」へ ⇒ 抽象の良さを説いている。
 「抽象的」とは「わけがわからない」という意味ではない
 「抽象」とは「ものの本質」に注目すること
 「抽象」するためには「想像」が必要
 「抽象」の大切さ
 「抽象」を具体的に説明する
 抽象的なことを伝えるには
 イメージを限定しない
 抽象的にものを見る
 抽象化したものは広く応用がきく
 問題を解決する発想
 抽象化が「発想」を促す
 抽象化は思考を要求する
 抽象的思考が生み出す「型」
 アイデアはどこから来るのか
 アイデアのための備え
 具体的な情報が多すぎる
 「見えるもの」が既に偏っている
 冷静になって考えてみよう
 自由に考えられることが本当の豊かさ
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ハイデッガーの技術論と量子力学

『哲学の自然』より 〈原子力時代〉から先史の哲学

國分-先ほど、原発のことを考える際に僕は『日本の大転換』と並んでハイデッガーの技術論を参照していたと言いました。僕の考えでは、核エネルギーのことを技術の本質的な問題として考えていた哲学者はハイデッガーだけです。一応、(ンナーアレントなども『人間の条件』で原子力発電について少しだけ書いていて、中沢さんと似たような定義をしていたりもするのですが、どこか大雑把な印象を受けます。アレントは結局「世界疎外」とか大きな枠に持っていってしまって、技術の本質的な問題としては考えていない気がするんです。また、アレントの最初のパートナーだったギュンター・アンダースなども原発について多少触れていますが、これらはみなハイデッガーの近くにいた人ばかりです。

 少し補助線を引くと、僕は原子力の歴史を考える上で、「一九五〇年代の思想」というものを考える必要があるのではないかと思っているんです。つまり、五〇年代に哲学者は何をしていたのかを考える必要があるのではないか。

 一九四五年に広島・長崎に原子力爆弾か投下され、世界に大きな衝撃を与えました。しかし、それからたった八年後の一九五三年には、アィゼン(ヮーが国連で「原子力の平和利用Atoms forPeace!という有名な演説をおこないます。アィゼン(ヮーは「核戦争の危機が迫っているからこの技術を軍事のためではなくて平和のために使っていこう」と述べた。しかし、もちろんそんなことは口先だけの話であって、これは核軍備競争だけではソ連に対して優位に立てないという政策的判断からなされたものです。その背後には、核技術を提供することで西側の結束を固める、また第三世界を西側の味方につけるという目的がありました。それにアメリカが核の軍事利用から「平和利用」へと舵を切ったということでは毛頭なく、水爆実験は続けていたし、第五福竜丸事件は二九五四年三月です。

 しかし「核の平和利用」というスローガンはかなり人々の心をつかんだように思われます。いまも昔もアメリカはこういうのがとてもうまい。実際、日本では「唯一の被爆国である日本こそが先頭に立って核の平和利用を実現していかなければならない」という類のことまで言われた。「平和利用」という言葉によって、核エネルギー技術そのものの問題が覆い隠されてしまったわけです。

 軍事利用であろうと「平和利用」であろうと、そもそも原子力技術とは何なのか? こういうことを考えるのは哲学者の役割であるはずです。では核干不ルギーの「平和利用」がまさに実用化されようとしていた一九五〇年代、哲学者たちはそれについて何を考えていたのか、考充ていなかったのか。そのことがもっと詳しく検証されるべきではないか。歴史に「もし」はあり得ませんけど、あの時期にそうした議論が徹底してなされていたら、何かが変わっていたかもしれないと少し思うのです。いずれにせよ、「一九六〇年代の思想」というのはやたらと論じられますが、「一九五〇年代の思想」というのはほとんど聞いたことがありません。これ自体がもう何事かを意味している気すらします。

 もちろん核兵器のインパクトがあまりに強かったため、原子力発電の問題にまで目が届かなかったという面はあるかもしれません。実際、反核(兵器)運動はずっとあったわけですから。先ほどのアンダースにせよ、あるいはバートランドーラッセルにせよ、哲学者たちも核兵器については盛んに発言していたのです。こうして考えていくと、「平和利用」だろうが何だろうが、核干不ルギーを使うこと自体に問題があるのだとはっきり語ったハイデッガーの洞察が際立ってくる。ハイデッガーは戦後、様々な機会で核干不ルギーを論じています。そもそも彼は現代を「原子力時代」と呼んでいました。

 一九六三年に『読売新聞』(九月二二日付)に掲載されたハイデッガーの「原子力時代と「人間性喪失」」という文章に、非常に印象的な言葉があります。

 「たとえ原子エネルギーを管理することに成功したとしても、そのことが直ちに、人間が技術の主人になったということになるでしょうか。断じてそうではありません。その管理の不可欠なことがとりもなおさず、〈立たせる力(Macht des Stellens))[世界を技術化し、自然を計量可能な場に「立たせる」力]を証明しているのであり、この力の承認を表明しているとともに、この力を制御し得ない人間の行為の無能をひそかに暴露しているのです」

 この文章は、いま僕らが直面している事態、そして、原子力発電の本質をまさしく言い当てていると思います。核燃料は冷やし続けねばなりません。「管理」し続けねばならない。この事実そのものが「この力を制御し得ない人間の行為の無能をひそかに暴露している」のです。なのに、人間はまるで原子力を飼い慣らしたかのように思い込んでいた。実際、今回の福島第一原発の事故も、水で核燃料を冷やせなくなったために起こったものです。そして、いまもいつ同じ事態が起こるか分かりません。また、メルトダウンした燃料が、どういう状態で、どこにあるのかも分からないし、そもそもそういう状態になった燃料を取り出す技術もない。技術開発からはじめなければならない。何か「技術の主人」だろうか。ハイデッガーの言うとおりです。

 とにかく、他の哲学者たちがまったく何も言わなかった時期に彼だけが核エネルギーについて深く思考していたということは非常に重要なことだと思います。

中沢-ハイデッガーの原子力批判の大きなポイントは、現代の科学を突き動かしている「計算性」というものでしょう。『技術への問い』や『野の道』などを読むと、ハイデッガーは現代の科学技術は「存在」を干不ルギーのような「計算性」の中に取り出してしまうと言って批判しています。そして、「存在」が科学技術によって「計算性」の中に組み替えられるというのは、まさに先ほどお話しした市場の中で起こっていることI事物が交換価値という尺度によって数値化されるということIと同様の効果を持っています。ハイデッガーの中では自然科学がエネルギー概念を形成する過程で、市場と同じことをしてしまっているという理解があったのだと思います。

 そうして見ると、彼の全思想は存在の「贈与性」を切り捨てていく人間社会のネガティブな効果について語っているものだという気がします。ハイデッガーはドイツ語の「~がある」(エスーギプト)という言葉から存在の「贈与」性を導き出していますが、彼にとっての「存在」とはイコール「贈与性」でした。だから、ハィデッガーが科学技術によって「存在」が「計算性」の中に切り詰められるというのは、「存在」からその「贈与性」が隠蔽されるという意味にもなります。

 クロィツァー記念講演の中で「自然科学の方法だとこの問題は超えられない」という主旨のことをハイデッガーは言っていますが、ハイデッガーの中で「計算性」が大きな問題となっているのは、実は核エネルギーの発見過程で重要な働きをした量子力学と関係しています。原子核エネルギーの開発には別に量子力学を使わなくても、流体力学と熱力学とアィンシュタィンの吻=ヨーの関係で十分だという言い方もされますが、たしかにそれを準備したのは量子力学です。いまではほとんど強調されなくなっていますが、量子力学というものが物議を醸したのは、もともとは「非計算性」が理論の中に組み込まれているという点にありました。「不確定性原理」や「非可換性」などの概念がそれで、(ィゼンペルグが量子力学をつくるときの決定的なアイディアとなったのは、交換関係が成り立だない「非可換性」の発見でした。

 量子力学は物質の世界の中で「非計算性」が根源的にあることを示しています。そのプロセスを時間として取り出すとものすごく短いのですが、それが間断なく繰り返される過程として物質の世界を描き出そうとしました。ハイデッガーはハイゼンベルグの本をよく読んでおり、不確定性原理や波動力学の理論などが彼の存在論のイメージに影を落としていることはたしかだと思います。しかし、ハイデッガーは自分の哲学と量子力学との関係性、量子力学にある「非計算性」の取り込みという問題をクローズアこフすることはありませんでした。もしハイデッガーがこの問題を取り出して、「これからの自然科学はこちらの方向にいくのだ」ということを強調していたら、エネルゴロジー(エネルギーの存在論)を大きく先に推し進めることができただろうと考えることもありますが、それができなかったところが、ハイデッガーの一つの限界だったのかもしれません。

國分-僕もハイデッガーの技術論を読んでいてすごく感心するのですが、同時に引っかかるところがたくさんあります。新しい方向性が見えそうで見えない、結局、最後は「農夫の思考」とでも言うのでしょうか、そういうところに着地してしまう。

 ハイデッガーは「技術」と「現代技術」を区別しています。そして、「現代技術」は自然を「挑発」するのだと言って、これを批判する。しかし、その直後に彼は、「農夫は自然を挑発したか? 風車は自然を挑発したか? いや、していない」と言うんですね。それはどうなのかと思うんです。風車に戻れって言われても(笑)。実際、彼の技術論では石炭とウランか並んで出てくるんですね。

中沢-僕はそれを何とか鮒分けしたいのです。僕も國分さんと同じで、ハイデッガーの技術論を大変すばらしいと思いつつ、「どうしてここでそっちに曲がってしまうのだろう?」という限界性も感じていました。それを乗り越えていくためにどうしたらいいかということを、もう二〇年くらいずっと抱えていたのですが、福島の事故が起こったときに、それを乗り越える道が見えてきた気がしました。ハイデッガーの技術論、原子カエネルギー論には先があるという確信が湧いてきたのです。そこでもう一度(ィゼンベルグの頃の初期の量子力学を勉強し直してみると、(ィデッガーの目指していた「非計算性」を組み込んだ思考というものが、そこですでに予見されていたことが見えてきました。その先にこそ「農夫性」の中にUターソするのではなく、むしろIターンしていく新しい思考のあり方が可能なのだと思います。

國分-僕はハイデッガーの「技術」に対する評価そのものには少し分からないところもあるんです。ハイデッガーはいわゆる「ヒューマニズム」とは無縁で、はっきりとヒューマニズムに反対しています。ではいわゆる「自然回帰」なのかと言うとそういう感じもしない。テクノーフォビア(技術嫌ぃ)なのかと思えば、そうでもない気もする。テクノーフォビアな気持ちもありつつ、「技術」を認めないわけにはいかないというところでしょうか。この点、ハイデッガーの「技術」と「自然」への態度には非常にアソヴィバレントなものを感じます。

中沢-古代ギリシア人自身がそんな風なアンヴィバレントを生きていたのではないでしょうか。古代ギリシアの都市などを見ていると、木をあらかた伐採してしまって、ペロポネソス半島はすでに荒れ地になってしまっていた。そういう場所で古代人は「自然」の問題を考え直そうとしています。実は、プラトン以前の哲学は緑豊かなクレタ島やマルタ島でおこなわれていました。プラトンよりも数百年も前の話ですから、ポリスがまだ発達していない頃です。ハイデッガーの中には古代ギリシアのポリスの前、ギリシア哲学以前のものへの予感があります。

しかし、いまの考古学はそのことを明らかにしつつあります。古典ギリシア以前のギリシアはクレタ島などを中心にミノア文明を展開させた緑豊かな世界でした。その文明では面白いことに、インド文明やヽスンダラン円のようなアジア文明のもとになった諸文明とひとつながりになっていたようです。プラトンのした仕事の中に『ティマイオパ』というエジプトの神官から聞いた話をもとにした本があります。エジプトの神官の知っていた知識はギリシア文明以前の人類世界-原ョーロで(、原ギリシア、原アジアが二つの時代だったときーに蓄積されたデータベースを基礎にしています。『ティマイオス』の中に「コーラ」などの変な概念がたくさん出てくるのはおそらくそのためでしょう。プラトンはそのとき先史時代に触れていました。

最近、考古学の世界でそういう研究書が出はじめていてすごく面白いですよ。例えば、メアリー・セティゲストの『先史学者プラトン』のような本も出ています。僕はこれらの考古学の発見が哲学史をつくり変えていくと思っています。ハイデッガーの時代はそういう考古学はまだ発達していなかったから、残念ながらギリシア以前の先史時代に十分に触れることはできませんでしたが、それがいまは次第に見えてきているんです。僕はそれをもっと先に進めて見たいと思っています。

でも不思議ですねえ。ハイデッガーは古代ギリシア人でもない近代人、ヘルダーリンの詩のドイツ語の中に、とてつもなく古い意識層の存在をかぎあてるのですよ。ハイデッガーは本当に天才的な「意識の地質学者」だと思います。近代ヨーロで(に露頭している地層の中に、古代ギリシアとつながっている層を見つけ出す能力を持っているのですから。日本語でそんなことができたのは折口信夫くらいでしょう。残念ながら西田幾多郎さんや田逞元さんたち「日本哲学」の人たちには、そういう能力はありませんでしたね。

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電脳コミュニティー(進化型SNS)の創造

『SNSが世界を統一する』より ウェストファリア体制の限界

インターネットの出現によって、状況は一変しつっある。インターネットの発達に伴い、国や民族の枠組みを超えた不特定多数のコミュニケーションが成り立つようになってきたからである。現在、われわれはインターネットを通じて世界中から情報を集めることができるだけでなく、個人が世界中に情報を発信できるようにもなっている。机の上のパソコンたった一台で一人の人間がデジタル地球と一体化し、ネット上ではすでに地球は二つである。つまり、インターネット上ではすでに世界統一が実現しているのである。

もっとも現時点でインターネットに常時接続できるのは、地球人口の約五パーセント程度にすぎないという。しかし、IT革命の潮流は先進国だけでなく、中国など統制色の強い政治体制の国や宗教色の強いイスラム教国など、いわゆる開発途上国にも広がりをみせている。彼らは情報化が生む様々な格差(デジタルーデバイト)に危機感をいだいているからである。そのため各国とも情報ネットワークのためのインフラ整備に力を入れている。

ちなみに、国連の専門機関の一つである国際電気通信連合(ITU)が発表した「世界情報社会報告二〇〇六年度版」によると、携帯電話所有の人口比率、インターネット料金、コンピューターをもつ家庭の比率、インターネット普及率などを総合したIT化指数(デジタル利用機会指数)の国別順位では世界一位が韓国、二位が日本、三位がデンマークとなっていた。この五年以上前のデータが立証しているように、情報ネットワークのインフラさえ整備すれば、韓国などいわゆる中進国と呼ばれる国でも日本などの先進国よりも優れた情報ネットワークをすぐにも構築することができる。中国のインターネット人口もアメリカを追い抜き、いまや世界一のネッ卜王国である。後述するように、世界連邦の樹立にはおそらく数十年もの歳月がかかる。したがって、情報ネットワークの基盤をこの間に整備していけぼ、地球上のあらゆる人々がインターネットに接続できるようになっていくだろう。

「はじめに言葉ありき」。すべての信頼の基礎には必ずコミュニケーションが介在する。これまで異なる国の民衆同士のコミュニケーションの少なさが無用な誤解と偏見を生んできた。また、歴史は国家の指導者間、あるいは二部のエリートだけのコミュニケーションにとらわれ、草の根のコミュニケーションによって歴史が作られることはなかったので、それが無益な戦争や殺戮などの悲劇をもたらしてきた。

しかし、これからは違う。デジタル地球の本質はコミュニケーションモのものだからである。この地球規模の新たなコミュニケーションの手段を利用すれば、まったく新しい人間関係やぷ7を人類全体に張り巡らせることができるはずである。

連邦樹立のためにはまず、〝主権〟の〝共有空間〟の構築が必要である。前述した「個人主権」を世界中の人々に付与するためには、そのための〝電脳空間〟が欠かせないからである。そこで、世界中で二十四時間絶え間なくおこなわれているネッ卜上のコミュニケーションを世界連合という新たな機構が吸い上げ、国籍を問わず彼ら一人ひとりに人類の一員として世界政治に参加できるぷ惟利へすなわち〝主権〟をネッ卜を通じて直接付与すればどうか。しかも、そのコミュニティーが金儲けの機会を含む様々な恩恵やサービスを個人に対して直接提供し、非常に魅力あふれるものになればどうか。前述したような〝パワーメーカー〟を地球規模で生み出すことも不可能ではない。詳しくは次章で述べるが、本章ではこの〝主権〟の〝共有空間〟を〝電脳コミュニティー〟あるいは〝進化型SNS〟と定義している。

ちなみに、周知のことだろうが、SNS(ソーシャルーネットワーキングーサービス)とは、インターネット上で築かれる社会的ネットワークのことで、人と人とのつながりを促進・サポートするコミュニティー型の会員制のサービスを指す。世界で最も有名なのが「フェイスブック」であり、日本ならば「ミクシィ」だろう。この「フェイスブック」が中東の民主化の原動力の一つになったことは記憶に新しい。「フェイスブック」はいまや九億千万人もの会員がいて、人口規模でならば世界第一位の中国(十三億四千七百六十万人)、二位のインド(十二億四千百五十万人)に続いて、本来ならば第三位のアメリカ(三億千三百十万人)を六億人以上も上回り、〝世界第三位〟の〝国家〟に成長している。

ある意味で、〝電脳コミュニティー〟とは「フェイスブック」の〝世界連合版〟と見なしてもいいだろう。しかしながら、この。電脳コミュニティーsは「フェイスブック」のような営利を追求する私企業ではなく、どちらかというと、〝連邦公社〟とでもいうべき存在で、両者の主だった違いは、こちらが世界連邦樹立を最終目的とするSNSであり、会員(主権者)には地球規模の〝権力^が付与され、〝世界市民〟としての地位か保障されること、さらに、連邦警察軍を実質的に保有し、共有できることなどか挙げられる。その意味で、この電脳コミュニティーそれ自体を進化型SNSと定義できるはずである。電脳コミュニティーが世界連合の中核機関をなすが、仮にこれと「フェイスブック」をはじめとする既存のSNSが地球規模で提携・連合できれば、いずれ人口規模で〝世界第一位〟の〝超国家〟へと発展する可能性をも秘めていると言えるかもしれない。

いずれにしても、本書で電脳コミュニティーを構想した理由は以下のとおりである。

 ①〝主権〟を共有する〝電脳空間〟が必要である。

 ②〝人類間の交流・対話の場〟あるいは〝意思疎通の場〟を新たに設けられる。

 ③個人が権力を行使し、多数決で決する新たな次元での〝民主主義の(実験)場〟すなわち〝電脳議会〟を作ることができる。

 ④参加者の増加に応じて膨大な数の〝世界市民〟を生み出すことが可能になる。

 ⑤〝人類の意志〟に基づいて世界史の方向性を決定し、様々な地球統治に直接関与してもらえる、

 ⑥地球規模の単一の電脳マーケットを生み出せる

 ⑦貧困の撲滅に一役買うことができる
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なぜ、「ロビンソン・クルーソ」を借りたのか

豊田市図書館の23冊

 月末は本が少ない。その上、図書館に到着したのは5時です。とりあえず、袋の中に入れたけど、9番台の文学が多くあった。それもロビンソン・クルーソとかゲーテです。

 それといぜん借りた本が3冊もありました。これで、1477冊です。日曜日に岡崎市図書館で10冊借りても、1487冊です。心理的に疲れているので、無理せずに、行きましょう。

 159『僕らの時代のライフデザイン』

 134.6『自分を救う幸福論』

 933.6『ロビンソン・クルーソー(上)』

 933.6『ロビンソン・クルーソー(下)』

 940.26『ゲーテとの対話(上)』

 940.26『ゲーテとの対話(中)』

 940.26『ゲーテとの対話(下)』

 914.6『マス・イメージ論』

 953.7『失われた時を求めて ③』

 134.95『デカルト的省察』

 914.6『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

 289.1『思考都市』

 293.59『アムステルダム・ブリュッセル』

 112.04『哲学の自然』

 361.3『協力がつくる社会』

 369.31『文明の渚』

 023『マニフェスト 本の未来』

 498.07『医療をたかるな』

 116.3『意味・真理・存在』

 104『超人の倫理』

 369.31『3・11行方不明 その後を生きる家族たち』

 134.95『フッサール「現象学の理念」』

 335.1『ヤバい経営学』

なぜ、「ロビンソン・クルーソ」を借りたのかを、考えていた。

 孤島へ上陸後に、悪い点と善い点を併記している。孤独と孤立を前向きに捉えていた。

悪い点

 私はおそろしい孤島に漂着し、救われる望みはまったくない。

 私は全世界からただ一人除け者にされ、いわば隔離されて悲惨な生活をおくっている。

 私は全人類から絶縁されている孤独者であり、人間社会から追放された者である。

 身にまとうべき衣類もない。私は人間や獣の襲撃に抵抗するなんらの防禦手段ももたない。

 私には話し相手も、自分を慰めてくれる人もいない。

善い点

 しかし、他の乗組員全員が溺れたのに、私はそれを免れてげんにこうやって生きている。

 だが自分一人が乗組員全員から除外されたからこそ死を免れたのだ。奇蹟的に私を死からすくってくれた神は、この境遇からもすくいだすことができるはずである。

 だが、食うものもない不毛の地で餓死するという運命を免れている。

 だがさいわい暑い気候のところにいる。ここでは衣類があってもまず着ることもできまい。

 だが私がうち上げられたこの島には、たとえばアフリカの海岸でみたような人間に害を加える野獣の姿はみられない。もしアフリカの海岸沖で難破していたとしたら私はどうなっていたであろうか。

 だが有難いことに神が浜辺近く船をおし流してくれたため、多くの物資をとりだすことができた。これだけあれば生きているかぎり自分の必要をみたすこともできるし、またなんとか必要なものを手にいれることもできる。

深層心理で借りたのでしょう。

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万人平等という一大革新

『哲学者キリスト』より キリストの哲学

イエスは、「すべての人間が等しく尊重される権利を有する」と力説することで、普遍救済主義の立場を明らかにするとともに、全人類を対象とする倫理を打ち立てた。それは当時の道徳--哲学的であれ宗教的であれ--との決別でもあった。それまでは同じ民族、同じ階層、同じ地域に属する仲間や身内の中にしか、隣人と呼べる人間はいなかったからである。当時のユダヤ人にとって、ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)の間に平等など存在しなかった。古代ギリシャ人にとっても、ギリシャ人とバルバロイ(蛮族)の間には、また男と女、市民と奴隷の間にも、平等はあり得なかった。しかしイエスにとっては、すべての人が同じ父なる神の子であるから、人は皆兄弟であり、それゆえ皆平等である。

人は皆兄弟というこの考え方、つまり人類という倫理概念は、西洋の思想ではまったく新しいものであった。私が「西洋の」と言ったのは、表現の仕方は違えども、この考え方はすでに存在しており、特に仏陀と中国の思想家である孟子に、はっきり見られるからである。いずれにせよ、当時の文化的背景から隔絶したこの考え方は、キリストの教え全体の基底をなすだけでなく、神の国を表わす根本原理でもある。イエスが宣言した「神の国」という新しい社会は、この考え方を礎石にして、その時からすぐに建設が始まったのである。

イエスが平等を説くとき、貧乏人、病人、疎外された人たちなど、当時の「下層民」を前面に出しているのは、教えの重要性と革新性を、聞き手によく理解させるためである、イエスは、「天国を閉ざして人々を入らせない」(マタイニ三章一三)律法学者やファリサイ人の、差別的な慣行を激しく批判した。彼の平等主義は、その時代の社会規範に反し、ひいてはモーセの律法とも対立するものだった。ユダヤ教の浄・不浄の区別を拒否し、らい病患者、徴税人、娼婦のもとを訪れ、弟子たちが師への敬意から遠ざけようとした子どもたちにも進んで話しかけ、信徒たちの集まりの中に異教徒を迎え入れた。異教徒ローマ人であるカファルナウムの百夫長の話を聞いて、「イスラエル人の中にも、わたしはこれはどの信仰を見たことがない」(マタイハ章一〇)と、驚きの声を上げている。

イエスは年齢、社会的地位、性別、人種による差別をなくそうとした。彼が関心を持っていたのは、神によって造られ、神から無条件に愛された一人ひとりの人格である。イエスの他者性のとらえ方は革新的で、「他者は誰であろうと私の隣人である」と考えていた。隣人という言葉の意味を尋ねた律法学者に、イエスは善きサマリア人のたとえ話で答えている。

ある人が盗賊に襲われて身ぐるみ剥がれ、死んだ者として道端に捨てられていたが、通りかかった司祭とレビ人は、この可哀想な男から顔をそむけて遠ざかった。そこに、ユダヤ人たちから汚れた異邦人として扱われていたサマリア人が現われる。この見知らぬ男を気の毒に思ったサマリア人は、彼に近寄って傷の手当てをし、宿屋に連れて行って介抱した後、宿屋の主人に世話に必要な費用を渡した。「この三人のうちの誰が、盗賊に襲われた人の隣人として振る舞ったと思うか」というイエスの問いかけに、相手は「その人に慈悲深い行ないをした人です」と答える。そこでイエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカー○章二九圭二七)と命じる。この一大革新を、パウロは次のように端的に言い表わしている。「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリストーイエスにおいて一つだからである」(ガラテヤ人への手紙三章二八)。

「神の前ではすべての人が平等である」というこの根本原理を、原始キリスト教徒たちは直ちに実行に移した。会食の時も、少し後に始まった聖餐式〔パンとぶどう酒を聖体に変える儀式〕に際しても、参加者間の序列は撤廃されたので、貧乏人も金持ちも、有力者も平民も、みな隣り同士で同じ食卓を囲んだ。万人平等の必要性は、混成共同体の形成とともに増していく。もとはユダヤ教徒であれ異教徒であれ、すべての信徒に同じ尊厳を認めるには、この原則が不可欠だった。四世紀には聖ジェロームが、平等は「すべての人間の本性が単一であることを示す印」であるとし、以下のように端的に表現している。「われわれが軽蔑し、一緒にいることが耐えられない人、一目見るだけでも吐き気を催すような人でも、われわれと同じ人間であり、まったく同じように土から造られ、同じ要素で構成されている。その人が耐え忍ぶすべては、われわれもまた耐え忍ぶことができる」。
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ボストン--精神の状態としてのデモクラシー

『トクヴィルが見たアメリカ』より

当時ボストンは人口六万で、ニューヨークのせいぜい四分の一であり、ヨーロッパからの来訪者はその旧世界的な魅力と清潔を評価した。そのうちのひとりは、通りが「われわれの訪問したほかのすべての都市の大通りと違って、日夜豚が歩き回ることはない」と指摘している。ワクワクさせるものではあったが、つらい二か月の旅の後、トクヴィルとボモンは都市文明をとても愉快なものに感じた。もっとも、招待状を持たずにやってきたので、地元のエリートに何者か理解させるのに数日を要した。ボモンは母への手紙でこう書いている。「ここでは、これまでにアメリカで出会ったことがないもの、ヨーロッパ社会の口調と作法をもつ上流階級を見つけました。ど想像のように、あまり多くないのですが、それでもボストンには本当にいます。絶対的な平等という原理に基づいて創設された共和主義社会のなかに、彼らはまるで偶然投げ入れられたかのように存在し、そのなかで奇妙な例外をなしているのを見ると、いっそう興味をひかれます」。この階級は少数で例外的だったかもしれないとしても、それは「日どとひっきりなしに続く社交の約束」をもたらした。トクヴィルとボモンは朝食が七時三十分に出されたため朝早く起き(最初はマルボロホテルで、すぐにもっと高級なトレモントホテルに移動した)、その後ボストン・アシニアム図書館で数時間本を読んだり、公式の訪問を行なったりして、それから社交に取りかかった。ほぼ毎日、彼らは晩餐に招かれ、それは午後二時頃に始まり、飲酒と歓談が午後六時まで続いた。別の家でお茶をして二、三時間過ごした後、舞踏会用の衣装に着替えるためホテルに戻ることになる。「毎日、舞踏会というかダンス付きの夜会があり、ときには同じ日に二度ありました」。

ボモンは、戯れの恋愛活動を衰えることなく頑張り続けた。そして彼はトクヴィルもそうだったと仄めかしている。途方もないボストンの金持ちが所有するビーコン・ヒルの「宮殿」(それはビーコン通り四二番地で、今はサマセットクラブがある場所)で開かれたある夜の晩餐会の席上、ボモンを特にひきつけたのは、主の可愛らしい姪だった。とはいえ、こうした出会いがはかないものであることが彼を倦み疲れさせ始めていた。「私は彼女といっぱいおしゃべりしましたが、いつか再び彼女に会えるかどうかさえ分からないのですから、それは完全に無駄な感情でした。私が出会うすべての美しい人についてまさに同じことが言えます。そして私たちは社交界で多くの美しい人を目にするのです。一週間のうち三、四回は彼女たちに心を奪われ、私たちはお互いに煽り立てるのですが、それはつねに新顔なのです。そして(失礼ですが)、私たちはブルネットの人に青ざめた顔色をほめて金髪の人に真っ黒の髪を褒めてしまう危険を覚悟で、つねに同じこと語っていると思います」。彼は考え抜いたうえで皮肉を込めてこう付け加えている。「こうしたととはすべてほんの些細なことです。第一級の思索に全力を注ぐ二人の政治生活のなかでは、ほんのわずかな部分を占めているにすぎません」。彼らが会った若い女性のひとりは母親に対して、フランス人の訪問客は「知識と情報、非常に心地よい作法をもった人たち」だったと手紙に書いている。

こうした人びとは、のちにオリヴァー・ウェンデル・ホームズがボストン教養人と呼ぶととになるタイプの人で、ひとつの階級というよりはカーストを代表していた。ジョン・アダムズは半世紀前にこう書いた。「われわれのなかにこれまで国王は一度もいなかったし、貴族も一度もいなかった。これまで国のなかに世襲制が存在したこともないし、今後も国がとういったものを必要とすることも認めることもないだろう」。そして合衆国憲法〔第一条第九節〕は、「いかなる貴族の称号も合衆国によって授与されてはならない」と明記している。けれども、これらの人びとはみずから意識して貴族的になっている有力者たちだった。フランスから来た二人の若者は、自分たちの貴族という身分が彼らにどれほど威厳を与えていたかおそらく気づいていなかった。ボモンは次のように書いている。「彼らはとこではニューヨークにおけるほど外国人に媚を売るようなことはないのですが、もっと真に礼儀正しいように見えます。この社会では、商人の傍らに別の人がいます。彼らはここで美術や文学に時間を使っています。商業や産業に没頭しない階級があるのです。彼らの時間の過ごし方は終始、進んだ文明が提供する快適なあらゆる設備を使って生活するというものです」。トクヴィルの反応もまったく同じだった。

少なくともわれわれが招かれた社交界は--もっとも上流のものだと思う--ヨーロッパの上流階級とほとんど同じである。豪華さと優雅さが行き渡っている。ほぼすべての女性がフランス語を上手に話し、今までのところわれわれが会った男性はすべて、これまでにヨーロッパに行ったことがあった。彼らの作法には気品があり、会話は知的事象についてめぐる。ニューヨークの社交をあれほど俗っぽくしている商業の習慣と金融の精神から解放される感じがする。ボストンには、仕事をせず精神の快楽を追求する人びとがすでに一定数存在するのだ。
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個人の分化を起こすには

市民コミュニティの情報共有

 そこでは、市民コミュニティにおける情報共有にも活用できる仕組みを見えるようにしていく。市民コミュニティをどう作っていくのか、大きな課題です。これはNPOの立場で考えていきましょう。

 コミュニティの中に入ってきた、個人の分化をどう進めるのか。道具は店舗コミュニティで実践していきます。

 それを元にして、メーカーのマーケティングそのものを変えていく。メーカーの力を使って、社会コミュニティとの健全な関係を作り上げる。メーカーは社会インフラを行政と一緒になって、再構成しないといけない。

 社会が変わっていけば、日本のあるべき姿が見えてきます。新しい民主主義も見えてきます。そのうちに、グローバルのグローバルとしての世界をどう作っていくのかにいきます。

 「SNSで世界連邦」という本は、上からしか見ていません。人が入っていない。個人が分化する時に、SNSだけでは無理です。

Oの具体性に対しての概念

 具体性と概念。具合性というのは、何に対して、具体性かわからない。それに対して、概念は利用シーンということで、存在します。

 具体性というのは、「つくる」人にとっての画面を指しているだけです。そんなものはどんどん変えていかないといけない。本当に「つかえる」かどうかがポイントです。

 具体的なものから意味を求める。だけど、Oの説得はしない。時間の無駄です。

個人の分化を起こすには

 なぜ、個人の分化が起きるのか。近傍にぶつかることで、考えるからです。接触分化です。考えるというイメージを持てば、それは可能です。それを増やすにはどうしたらいいのか。

 大きな政府の変革に期待するよりも、個人の分化を始めていく。その時に、地域コミュニティに守られて、話すこと、聞くこと。そのためのシステム設計は雑です。だけど、構想は密です。

 メーカーは自己完結という名のもとに、一つのことしかやらせていません。作るとしたら、それをどう使っていくのか、お客様の顔をどう見ていくのか、そんなこともやっていない。作って、後工程に渡しておしまいです。想像力も足りないし、役割も固定しています。

 それが個人の分化のネックになっています。色々なことを考えるのに、より広い範囲から考えていかないといけないのに、個人の役割は一つではない。デカルトの平面座標系を見ている感じです。数学は多様体で、色々な側面を持てるように、ローカルとグローバルを分化させました。

 デカルト平面の一番の問題は、ローカルとグローバルの概念がないので、表現できるものが少なかった。それと規定が多かった。ローカルとグローバルが幾何学から生まれた。空間配置が可能になった。数学はローカルから始めて、グローバルにつなげること。それが抽象化です。

 クライシスになった時に、個人としてどうするかを考えてないといけない。組織は何も対応してくれない。3.11で国の実態を見れば、分かります。5年後はどうなるかも、自分で考えていかないといけない。メーカーでは言葉で言うけど、個人が組織を超えて考えることをさせていません。

未唯空間第二章

 第2章からは言葉にします。詳細までのロジックを見て、言葉との関係を把握します。時間がないから、ドンドン、変えていくしかない。

店舗コミュニティの情報共有

 店舗コミュニティの情報共有の最大の目的であり、私のミッションは、スタッフが発言できるようにすることです。

 安心・安全な環境で、お客様のことについて、色々、皆に語れるようにすることです。その上で行動計画ができてきます。それがスタッフにとっての最大の武器になります。

 販売店は、メーカーのコピー版になっています。販売店が対応している、お客様は一つの価値観では動いていません。

 メーカーは閉じられた世界です。マーケティングの方から、販売店を変えて行くことから、メーカーを変えていく。会社を変えていく。ローカルからグローバルへの提案です。インタープリターの役割です。

 会社を変えることで、本当の意味で、社会に参画できます。

数学での本質の捉え方

 数学での本質の捉え方は、現象から本質を捉えるのか、仮説・実証から捉えるのか、直感で本質を捉えるのか、と言った時に、3番目です。

 その時になるのか、ローカルを見ながら、一気に本質に迫る、グローバルに迫るやり方です。ローカルから、インバリアントを見つけて、一気に空間を作り出します。

キンドルHDのアプリがこけた

 キンドルHDアドビ・リーダーがアベンドして、入力したコメントがなくなりました。1時間半のロスです。こういうこともあるということ。だから、後ろからやっていきます。それと連続作業は避けましょう。

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