(高校倫理の古典でまなぶ)
『哲学トレーニング』
人間を理解する
古典を使って考える哲学の「筋トレ」
◎現代思想
言語意味
私とあなたはその言葉を同じ意味で使っているのか―ウィトゲンシュタイン『青色本』『哲学探究』
言葉の意味はどうやって決まる?
(現代文学研究会の部室で緑と昇とが話しているうちに・・・)
緑 昇って、ときどき意味がわからないことを言うね。
昇 そんなことないよ。そういう緑の言っていることこそ、意味不明だよ。
直子 どうしたの。また、夫婦げんか?
昇 いや、けんかじゃないし、そもそも夫婦じゃないし・・・。でも、なんで言葉ってこんなにも通じないのかな。
緑 それは仕方ないんじゃない?だって、その言葉を言ったときに何を思い浮かべていたかなんて、結局は言った本人にしかわからないんだから。
直子 それはどうかなあ。たとえば、「お菓子食べたい」って言うからポテチを買ってきたら、「何それ?私が「お菓子」という言葉でイメージしてたのは「チョコレート」だったのよ」って言われたとしたら、どうよ?
昇 緑自身もそう言うことよくある!すごく困る!!
直子 でしょ!?やっぱり言葉の意味って自分で好き勝手に決められるものじゃなくて、ある程度客観的に決まっているものだと思うな。
緑 そんなもの誰が決めるのよ。
直子 誰って言うか・・・。たとえば、国語のテストだと辞書に載っている説明が、言葉の意味の「正解」になるわけでしょ。だから、言葉の意味って辞書に載っている説明のことなんじゃないかな。
言葉が通じるってどういうこと?
昇 確かに直子の言う通りかもなあ・・・。あっ、でもさ、でもさ。辞書に載っていなくても、自分で何かに名前をつけるってことはできるよね。たとえば、僕が新しく創ったお菓子に「ノボージュ」と名づけるとか。
直子 ああ、たまにいるねえ。そういう人。
昇 その場合には、「ノボージュ」って言葉はほかのお菓子ではなくて、そいつのことだけを意味することになるわけだよね。で、それはそいつに「ノボージュ」っていうラベルをぺたっとくっつけることで可能となっている、って感じで・・・。
緑 つまり昇は、その場合言葉の意味って、そのラベルをつけられた対象だって言いたいの?
昇 そうそう!さすがは緑。やっぱり僕らの言葉は通じ合っているね。
直子 何よ、さっきは「通じない」って言っていたじゃない!だから、言葉っていうのはそうじゃなくて…..。
●考えてみよう
あなたは緑(意味=心の中のイメージ説)・直子(意味=辞書の記述説)・昇(意味=対象説)の三人のうちで誰の考えに近いか、その理由とともに考えてみてください。
何が「伝わらない」の?
言葉にしないと何も伝わらない。では、その裏返しはどうだろうか。つまり、言葉にすれば伝わるのだろうか。いや、相手にうまく言葉が伝わらなくてもどかしさを感じた経験をもつ人は多いだろう。では、ここで「伝わらない」ものは何なのだろうか。音声としての言葉そのものはきちんと聞こえているし、届いている。では、何が伝わっていないのか。それは、その言葉によって意味されているもの、ということになるだろう。言葉の意味についての問いはこのようにして立ち上がってくる。ここでは、この問いを生涯考え続けていたウィトゲンシュタイン後期の思想の助けを借りながら、この問題を一緒に考えてみることにしよう。(以下の引用はすべて彼の著作からのもの)
意味=辞書の記述なのか
「言葉の意味とは何か」という問いに対してまず思いつくのは、対話で直子さんが述べていたように、その言葉を説明する辞書の記述によって答えるやり方である。たとえば、「石」という言葉の説明として辞書に「岩よりも小さいもの」と書いてあったならば、この記述が「石」という言葉の意味だと考えたくなる。しかし、ウィトゲンシュタインは、このような「言葉を別の言葉で定義する」説明に対して以下のように述べている。
一般的に「言葉の意味の説明」と言われるものは、非常に大まかに言えば、言葉による定義と指さしによる定義とに分けられる。(中略)言葉による定義では、一つの言語表現から別の言語表現に移るだけのことなので、ある意味では一歩も先に進まない。それに対して、指さしによる定義は意味を知る方向に向かって実際の一歩を踏み出すように思われる。(『青色本』)
なぜ辞書による説明では「一歩も先に進まない」のだろうか。それは、「言葉の意味を説明するその言葉の意味は何だろう」という問題が出てきてしまうからである。先ほどの例で言えば、「石」という言葉を説明する「岩よりも小さいもの」の中に出てくる「岩」や「小さい」という言葉はどういう意味なのか、と問われることになる。そこで今度は「岩」の説明を辞書で引いてみると、「石よりも大きいもの」と載っていたりする。これでは、どうどうめぐりだ。
つまり、言葉は辞書の内部に張りめぐらされた言葉の網を抜け出して、どこかで現実の世界の対象と結びつかなければならない。これを可能にするのが、もう一つの説明として挙げられた「指さしによる定義」である。
意味=対象なのか
たとえば、まだ言葉をあまり知らない子どもに「石」という言葉を教える場面を考えてみよう。その子はほかの言葉もよく知らないので、辞書の説明は使えない。このような場合には、実際に石をもってきて、「これが石だよ」と教えてあげることになるだろう。これが「指さしによる定義」だ。このような言葉の説明の仕方は、先ほどの対話で言えば昇くんの説明に近い。そして、言葉を実際の対象に結びつけているので、言葉を言葉によって説明するよりも「意味を知る方向へ実際の一歩」を踏み出してはいる。でも、実はこれでもまだ説明は終わらない。なぜだろうか。
私がある人の名前を指さしによって説明するとき、その説明された名前は色の名前としても、人種の名前としても、さらには方位の名前としても理解できる。つまり、指さしによる説明はいかなる場合にも別の仕方で解釈可能なのである。
(『哲学探究』28節)
たとえば、「これが石だ」と指さしによって説明することで、子どもが「石」という言葉を学んだとしよう。でもその後に、雪が降っているのを見て「あ、石!」とその子が言ったとしたらどうだろうか。その子は「石」という言葉が、色の名前(たとえば「白」のこと)だと思って、同じ色をもったものを「石」と呼んでいるのかもしれない。つまり、指さしによる定義だけでは、いろいろな解釈ができてしまって、「これ」が何を指しているのかが一つに決まらないのだ。
さて、困った。大人に対してであれば、「「石」は物の名前であって、色の名前ではないよ」と教えることができる。しかし、この子はまだ「物」とか「名前」という言葉が何を意味するのかを理解できないだろう。では、どうすればよいのだろうか。
一つのやり方は、たとえば実際に石に触らせてみせて、「その石は硬いね」って言ってみることである。あるいは、手にもたせて「その石は重いかな」と聞いてみるのでもよい。色は硬さをもたないし、重さももたないので、こうすれば「石」を色の名前と解釈するという選択肢はとれなくなるだろう。
このようにみてくると、単にあるものに「石」というラベルを貼りつけるだけでは、まだその言葉には意味が与えられていないことがわかる。言葉が何を意味するのかは、その言葉がどういう場面で、どういう経験と結びついて、ほかのどういう言葉と一緒に使われるのか等々という、さまざまな実際の使われ方を学ぶことによってはじめて理解できることになる。そして、ウィトゲンシュタインはこのような言葉の使い方を学ぶ過程やその言葉を使う活動全体のことを「言語ゲーム」と呼ぶ。
すると、石を名指したり、言われた言葉を後から発音して繰り返したりするといった過程もまた、言語ゲームと呼ぶことができるだろう。(中略)私はまた、言語とそれが織り込まれた活動のすべてを「言語ゲーム」と呼ぶ。(『哲学探究』7節)
意味=心の中のイメージなのか
それでは、言葉を使った活動を「ゲーム」として考えることにはどんなメリットがあるのだろうか。いろいろあるだろうが、そのうちの一つとして、意味を心の中から解放することができる、という点が挙げられる。
先ほどの対話の中で緑さんは、意味を心の中に浮かぶイメージと考える立場に近づいていた。たとえば、私が「石をもってきて」とある人に頼んだのだが、彼がもってきたのは私が欲しかったものではない、ということがあったとき、この食い違いは「石」という言葉で私と彼とがイメージするものが違ったからだ、と言いたくなるだろう。この点で、言葉の意味をその言葉を使う際に心の中に浮かぶイメージと考えることには、それなりの説得力がある。しかし、同時にいくつかの問題もある。
その一つは、相手が思い浮かべているイメージはどうやってわかるのか、という問題である。それなら、相手にどういうイメージを思い浮かべているかを説明してもらえばよい、と思われるかもしれない。だが、その説明はあくまで言葉で行われることになる。たとえば、「「石」という言葉で、私は「丸くて、白くて、硬くて…」というものをイメージしているのだ」と。
しかし、こう答えたとたん、今度はその答えの中に出てくる「丸い」とか「白い」という言葉で何をイメージしているのかという問題が出てくる。つまり、心の中のイメージを言葉で説明しようとすることには、辞書の場合と同様の限界があるのだ。
ここで先ほどの「言語ゲーム」というアイデアが効いてくる。どんなゲームでもよいが、たとえば将棋というゲームの「角」という駒の意味を理解している、とはどういうことかを考えてみよう。それはたとえば、角は将棋盤の中で斜めであれば四方にどこまでも動くことができるけど前後や横には動けない、ということをわかっているということかもしれない。あるいは、その駒がどういう場面で有効に使えるかをわかっていることかもしれない。いずれにしても、ゲームの中で角が果たす役割をわかっていて、その駒を使いこなすことができるならば、その人は角の意味を理解していると言ってよいことになるだろう。
一つの石(駒)の意味とは、ゲームの中でそれが果たす役割である、と言おう。(『哲学探究』563節)
それでは私たちは、将棋で角を動かすときに角が表す何かをイメ―ジしながら指しているだろうか。そんなことはしていない。そもそも角が表すものということで何をイメージすればよいのかさえわからない(角の駒の形や素材はここでは問題ではない。何なら消しゴムや紙切れで代用してもよいのだから)。それでも、将棋というゲームの中でその駒を動かすことができるなら、その駒の意味をわかっていると言える。そして、自分が動かすのと同じように相手がその駒を動かしているなら、相手はその駒を自分と同じ意味で理解して使っていることがわかる。
これと同じように考えていくと、「石」という言葉も、それを相手が自分と同じ意味で使っているとわかるためには、相手が「石」という言葉を用いるゲームの中で自分と同じような仕方でそれを使っていることがわかればよいので、心の中のイメージは必要ない、ということになる。
しかしここで、以下のような疑問をもつ人がいるかもしれない。「角」の使い方は言葉による定義が可能であるのに対して、「石」という言葉の使い方は先ほど述べたように言葉で定義できないのだった。したがって、これらを用いる営みを同じように「ゲーム」と呼ぶことには無理があるのではないか、と。
確かに、「角」と「石」の使い方の説明には大きな違いがある。しかし本当は、「角」の使い方だって言葉によって定義しつくせるものではないのだ。たとえば、「角が斜めに動く」ということを私とあなたが同意していたとしても、「斜めとはどこか」という点で二人の解釈が異なっているかもしれない。それゆえ、これまで私とあなたが同じルールを共有していたと思っていたのに、あなたが次の一手で私の考えるルールとはまったく異なる動かし方をして、二人が実はまったく異なるルールに従っていた、ということが判明するかもしれない。そしてこの食い違いの可能性は、これまで論じてきたように言葉によってあらかじめ排除しつくすことはできないのである。
以上のように、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という考え方を提案することによって、「意味が心の中にある」という私たちの陥りやすい誤解を解きほぐそうとした。しかしそれと同時に、そのような言語ゲームの規則を言葉によって説明することの限界(語りえぬこと)もまた明らかにしたのである。
要点の板書
言葉の「意味」とは、辞書の記述なのか、ラベルのつけられた対象なのか、心の中のイメージなのか、それら以外のものなのか。
◎本文をもとに考えてみよう
- あなたが言葉によって説明できないと思うものは何だろうか。その理由とともに考えてみよう。問2意味のない「言葉」は考えられるだろうか。考えられるとすれば、それは意味をもつ言葉に比べて何が「ない」のだろうか。
◎出典
ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集第8巻哲学探究』藤本隆志訳、大修館書店、1976年。『哲学探究』丘沢静也訳、岩波書店、2013年
ウィトゲンシュタイン『青色本』大森荘蔵訳、筑摩書房、2010年(本文中の引用の対応は、順に『青色本』8頁、『哲学探究』大修館36、20、299頁/岩波28,12,291頁)
◎人物紹介
し、ウィトゲンシュタイン(18891951)哲学的問題と言語との関係を生涯考え続けたオーストリア生まれの哲学者。後半生では対話形式で思考を進めるという独自の哲学スタイルをとるに至った。小屋の外に会話が聞こえてきたが、入ってみたら中にはウィトゲンシュタイン一人しかいなかったという逸話は有名。
◎読書案内
- 野矢茂樹「哲学の謎」(とりわけ「第7章意味の在りか」)、講談社現代新書、1996年
- 永井均「ウィトゲンシュタイン入門」ちくま新書、1995年③デレク・ジャーマン監督「ウィトゲンシュタイン」1993年(①は☆②は☆☆☆、③は☆☆)
- には今回扱った言葉の意味の問題を始めとして、面白い哲学的問題がたくさん紹介されている。②はウィトゲンシュタインの思想の流れを、彼と一緒に哲学しながら辿り直すことができる格好の入門書。③はウィトゲンシュタインの数奇な生涯を、彼の思想の変遷を交えて前衛的な映像で描いた伝記映画。
(高校倫理の古典でまなぶ)
『哲学トレーニング』
社会を考える
(社会と公共を考える)
哲学の「筋トレ」」
イスラーム
■公正平等
神のもとで人びとは何を正義と考えるのだろうか-『クルアーン(コーラン)』
文化によって異なる「正義」
(岩波高校を卒業したばかりの美咲と虎が大学の授業の話をしている)
美咲「異文化理解」ゼミのレポートどうする?
虎いやー、全然決まってないよ。大学に入って最初のレポートだから、よく分からないんだよね。美咲はどう?
美咲私は一応、「イスラームにとっての正義」にしようかな、と思って。先生に確認したら、おもしろいテーマだって言ってもらったよ。
虎早いね、やることが。確かにおもしろそうだけど、どうしてそれを選んだの?
美咲高校の時の倫理の話で先生が、「正義」は一つではなく、主観的な場合が多い、って話していたよね。文化や社会によって違う、とくに宗教的な要因が関係することがある、って。それを思い出して、それじゃあ、日本とかけ離れた感じのするイスラームの価値観だとどうなるんだろうか・・・と思って。
イスラームの聖典「コーラン」と「正義」
虎ふーん、そうやってそのテーマにたどり着いたんだ。なるほどね。でも単なるイメージかもしれないけど、イスラームの「正義」って、唯一絶対の神、アッラーのためのもので、暴力をともないがち、という気がするんだけど、どうなんだろうね?
美咲確かにそんなイメージがあるのかもしれないけれど、宗教にかかわらず、暴力に対抗するために暴力を用いるのは正義だって考える人もいるよね。それにイスラーム教徒がみんな暴力的なんてありえないでしょう?
虎まあね。でも、レポート書くための資料はどうするの?イスラームの本って、少なそうだけど。
美咲そうなんだよ。だから、基本的には聖典のクルアーンを使おうと思ってる。
虎「クルアーン」って「コーラン」のことだよね。高校の教科書では両方書いていたけど、どっちが本当なの?
美咲アラビア語を聞くと「クルアーン」らしいよ。
虎アッラーの言葉そのものの記録って習ったなぁ。
美咲そうそう、預言者とされたムハンマドの口からアッラーの言葉が発せられて、人びとに伝えられたんだって。その記録だからなかなか分かりにくくて、ちょっと困っているところ。
虎それって7世紀のアラビア半島のことだよね。今の思想と関係あるのかな?
美咲それがあるんだよね。レポートできたら読んでみて。
考えてみよう
「正義」とは絶対的なのだろうか、それとも相対的なものであり、文化や社会によって異なるのだろうか。ここでは主に、イスラームの聖典「クルアーン」を用いて、「正義」のあり方について考えてみよう。
「正義の味方」は何をする?
「正義」という言葉を聞くと、何を思い浮かべるだろうか。「正しい」ことを追求するという肯定的なイメージが浮かぶだろうか。だが、この言葉を振りかざして、実際には自分の欲することを押し通そうとしているだけ、という否定的なイメージが浮かぶかもしれない。この言葉の意味はとても広いので、ここでは手始めとして「正義の味方」という言葉について考えてみよう。
皆さんにとって「正義の味方」は誰だろうか。昭和の子どもだった筆者は、月光仮面、タイガーマスク、ヤッターマンやガッチャマンといったテレビ番組から生まれたヒーローたちを連想する。特にタイガーマスクは、今でも「正義の味方」の代名詞として使われる。
これらのヒーローたちは困っている弱い者の味方で、強く悪い奴らを懲らしめてくれる存在として描かれる。すると「弱い者」が「正義」なのだろうか。もちろん必ずしもそうとは限らないだろう。だが「悪い奴ら」が「不正義」なのは確かである。そして「弱い者」は「悪い奴ら」によって不当な目にあっているため、「正義の「味方」がそれを助け、是正してくれるのである。この最後の点がポイントである。「正義」という言葉には、不当な状況をそれぞれにふさわしい、見合った状況にするという意味があると考えられる。
この点は、西洋思想における「正義」でも同じである。正義にはもともと「正当な分配」を目指すという基本的な意味がある。つまり一部の人たちが不当に利益を得て、他の人たちが理不尽な苦境におかれることなく、それぞれに見合ったものを公正に与えるにはどうすればよいのか、が正義をめぐる議論の根底にはあるのだ。
イスラームにおける「正義」
イスラーム思想を見ると、この「正義=見合うこと=公平(平等)」という傾向はさらに強いものとなる。それはこの宗教の成立そのものに大きく関わっている。
イスラームの預言者ムハンマドは6世紀後半にメッカで生まれたが、孤児として育ち、商人として前半生を過ごした。預言者となったのは40歳ごろで、唯一の神であるアッラーの啓示を受け始める。啓示の内容は当時のメッカの状況を反映して、貧富の格差という不平等やそれを助長する拝金主義を批判し、神のもとでの人間の平等を訴えるものであった。そしてこれが、イスラーム誕生の大きな原動力の一つであった。
したがって、イスラームの教えは日常生活における正義を強く説いている。たとえば当時の人々にとっての関心事の一つは、もめ事の解決や商売のやりとりが、正義つまり公正さにもとづいているかどうかであった。このテーマは、クルアーンで何度もさまざまな文脈で言及される(以下の引用の傍点はいずれも引用者による)。
神は、預かった物はきちんと元の持ち主に返すようにと命じた。また、他の人々の間を裁く際には、公正に裁くように、と命じた。(4章(女性)58節)
さらに次の章句は少し長いが、旧約聖書に登場するダビデを通してイスラームの正義に関する教えが語られている興味深いものである。ダビデはアッラーによって王権と知恵、そして裁きの力を与えられていた。ある時、二人の男が彼のもとに来て、こう言った。
「私たち二人は訴えたいことがあって参りました。どちらか一人が不当な行為を行っています。私たちを真理にもとづいて裁いてください。決して不当には裁かないでください。そして公平な道に導いてください。実はここにいるのは私の兄です。九十九頭の雌羊を持っていますが、私は一頭しか持っていません。それなのに兄は、「この一頭の雌羊もこっちによこせ」と言い、口論して私を言い負かしてしまったのです。」
ダビデはこう言った。「兄の方は、お前の一頭の雌羊を、彼が持っている多くの雌羊に加えるように要求したのだな。これはすでに不当な行為をなしている。共同で何かことを行う者は互いに害し合うものだ。ただし、信仰して善をなす者だけはそうではないが、そういった者は少ない。」(38章(サード)22-24節)
ここでは九十九頭の雌羊をもつ強欲な兄と、一頭の雌羊しかもたず口論にも負けた弱い弟が対比されている。ダビデは彼らの訴えを受け、弱者の味方をする裁きを下した。これがイスラーム教徒の理想とする正義ということになる。
またムハンマド自身が商人であったことが反映され、クルアーンでは商売上の正義、つまり公正さがしばしば説かれている。
ますめお前たちがものを量る時は、枡目を十分に計量しなさい。また正しい秤を使いなさい。その方が立派であり、良い結果[来世での天国]をもたらす。(17章(夜の旅)35節)我ら[アッラー]は人間が公正にふるまえるように秤を下した。
(57章(鉄)25節)
ここに出てくる「秤」(天秤)は、イスラーム社会で正義のシンボルとして用いられる。たとえば現在のイスラーム諸国の「正義省」のマークに秤が使われていることがある。秤とは釣り合いの象徴である。つまり公正であること、そして見合っていることが正義なのである。
209『世界の歴史㉙』
冷戦と経済繁榮
中国――「民族共産主義」
建国期の中国
毛沢東が指導する中国共産党は、対日抗戦、国民党との内戦を経て一九四九年十月一中華人民共和国を樹立した。最優先課題は経済復興であり、貧農に均等配分する土地改革、国民党時代の官民癒着で巨大化した企業の国有化、悪性インフレを解消する統制経済などによって五二年までには戦前の生産を回復した。また中国のかつての版図を維持することも課題であった。それは国民党が移動した台湾であり、ソ連赤軍によって解放された満洲、反乱を鎮圧した新疆、そしてチベットなどの周辺地域であった。
安全保障も大きな問題であった。農村を拠点とするゲリラ的解放戦争を展開し独自の力で政権を奪取した中国共産党は、ユーゴのチトーと同様、ソ連にとっても侮りがたい存在であった。スターリンはヨーロッパでの冷戦が激化するなかで、中国接近をはかり、中国も「向ソ一辺倒」を宣言しこれに応えたが、スターリンは共産主義運動の盟主たる地位を確保し、中国を制御すべく、四五年八月に国民党政府と締結した不平等な友好同盟条約を変更する意図はなかった。そのため四九年十二月の毛沢東のモスクワ訪問でなされた改定交渉は難航した。インドやイギリスが中国を承認し、それをスターリンが中国の独自路線の現れと警戒したため、五〇年二月中ソ友好同盟相互援助条約が調印された。だがスターリンの譲歩は少なく、旅順港の条件付き返還の他、秘密協定で旅順への無通報兵力移送など不平等性は強く残った。
五〇年六月に勃発した朝鮮戦争も、スターリンが金日成に承諾を与えその後中国との調整が行われたものであり、また同年十月の中国義勇軍の派遣も中国が強く躊躇するなかでスターリンの主導でなされたものであった。朝鮮戦争のなかで進行したソ連への従属と朝鮮戦争でのアメリカとの戦いは、準軍事体制としても適合していたスターリン型社会主義モデルを導入させる契機にもなった。五三年夏ごろから毛沢東主導のもとに「過渡期の総路線」をとり「社会主義的改造に着手した。第一次五ヵ年計画も導入してソ連型重工業路線をとり、農業においても五五年以降急速な農業集団化を進め、五六年には大多数が、土地や生産手段を提供し労働に応じて分配する「高級合作社」に属することになった。
スターリン批判と中国
五三年三月のスターリンの死後、ソ連は「平和共存」路線をとり、五六年二月にはスタ―リン批判を行った。中国は「平和共存」路線には、平和五原則と非同盟運動への接近によって応じたものの、スターリン批判では、平和的移行論、個人崇拝など多くの問題に直面することになった。
中国は、限定的なスターリン批判を五六年四月上旬に開始した。批判の自由を容認した百花斉放、百家争鳴を鼓舞した整風運動であった。五六年九月に一一年ぶりに開催された第八回全国代表大会(八全大会)では、社会主義的改造の終了と個人崇拝の除去を宣言した。だが五七年二月の有名な毛沢東の「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」の講話の楽観論は裏切られ、脱スターリン化は、共産党批判、党独裁批判などしだいに統制が不可能になり、六月から反右派闘争を開始し、公称で五五万人が追放された。対外政策も硬化し、五七年秋毛沢東は「アメリカ帝国主義は張り子の虎である」と述べ、モスクワでの世界共産党会議では、「東風は西風を圧する」と「平和共存路線」に対して異論を唱えていた。
またこの会議で毛沢東は、一五年でイギリスに追いつき追い越すとも述べていた。毛沢東はすでに五七年夏ごろから、反右派闘争の延長として大衆の士気を鼓舞することによって生産を増産させる考えに傾いており、五八年五月、八全大会第二回会議において「社会主義の総路線」が決定され、大躍進運動が展開された。またこれに続いて開催された中央軍事委員会拡大会議において、核兵器の開発が決定されるとともに、軍建設でもソ連モデルが批判され毛沢東の人民戦争論に立脚する方針が決定された。大衆の主意の重視、社会主義体制においても階級闘争は存在し、そのため「継続革命」が必要であるという毛沢東路線が鮮明になり始めた。また組織面でも、国家と党の分業はなくなり、党中央に組織された「小組」が大きな権限をもつ、党の「一元的指導」が導入された。イデオロギー、戦略、組織の面でソ連モデルからの離脱が顕著になった。このためこれ以降、文化大革命までの中国の共産主義は、「毛沢東モデル」(毛里和子)とか「第三世界路線」とか呼ばれるようになる。
毛沢東モデル
この毛路線はまず十月、第二次台湾海峡危機の「瀬戸際政策」で示され、中ソ対立が顕著となった。また大躍進運動は、5章で説明されるように、破綻がただちに明らかになった。五九年七月避暑地の廬山で開催された政治局拡大会議で、国防相の彭徳懐が大躍進運動を批判したが、毛沢東は激怒し、右翼日和見主義と攻撃した。八月には彭徳懐をはじめとする軍幹部を「反党集団」として追放処分にし、国防相に林彪を指名した。おりしもチベット国境をめぐり中印紛争が勃発したときであった。しかし五九年四月、毛沢東は党務と理論活動に専念するとして国家主席を辞任し、劉少奇が就任し、党総書記になった鄧小平とともに、六〇年から経済調整といわれる大躍進運動の修正を行った。鄧小平が「白い猫でも黒い猫でもネズミをとる猫はよい猫だ」という「白猫黒猫論」を展開したのはこのときであった。このため六二年には経済は回復軌道に入った。
しかし薄一波の回顧録によれば、毛沢東は五九年十一月ごろから「修正主義」批判の理論武装を開始していたという。毛沢東はダレスの「平和的変革」の主張に着目して、アメリカは力の政策に加えて、浸透、体制転覆などの「欺瞞的手段」で帝国主義を維持し攻勢をかけようとしており、キャンプ・デーヴィッドでの米ソ首脳会議で示されたように、ソ連を腐敗させ資本主義を復興させることを企図しているとし、アメリカ帝国主義、ソ連の修正主義、国内の修正主義との戦いを強調するようになった。
この路線はまず、軍拡となって現れ、既定の方針とはいえ、六四年十月十六日水爆開発能力を示すウラン型核爆弾の地下核実験に成功した。この日は、フルシチョフが党と政府のポストから解任された翌日であり、同時に米ソの地下核実験禁止条約への挑戦でもあった。また六五年五月には航空機からの原爆投下による爆発実験に成功し、六六年十月には中距離弾道ミサイル(MRBM)による爆発実験にも成功した。ついでソ連への修正主義批判がイデオロギー論争として展開された。六四年十月フルシチョフが解任された後も、中ソ対立は緩和せず、米ソに対決するため、支援と連帯によって第三世界から支持を調達することを試みた。
そして、資本主義の浸透による腐敗と弱体化を防ぐため、国内思想引き締めを強化した。思想の純化と綱紀粛正であり、六二年夏ごろ提唱され翌年春から開始された社会主義教育運動であった。これは劉少奇らと路線対立を引き起こし、文芸界にも軍部にも及んだ。林彪は人民戦争論を唱え、軍内思想強化のために六一年から『毛主席語録』を出版していた。路線対立と権力闘争が複雑に絡み始めた。
六四年夏のトンキン湾事件、六五年二月の北爆開始と、アメリカのベトナムへの介入が本格化すると、北ベトナムに全面支援を確約した。六五年から七三年まで、三二万の中国兵力が北ベトナムに駐留したという。しかし北京はアメリカとの直接対決は回避しようとしており、そのため空軍の支援には消極的であった。一方六五年二月コスイギンがハノイを訪問して支援を約束し、それにはミサイル技術が含まれていた。また毛沢東はトンキン湾事件から衝撃を受け、核攻撃を含む大規模戦争に備えるように指令した。これは軍内の路線対立を強め、そのなかで林彪の権力が強まっていった。その後中国は大激動の時代に突入した。プロレタリアート文化大革命(文革)である。
文革
文化大革命の時代は一九六六年から七六年までの一〇年といわれている。権力闘争、路線闘争、文化闘争、武力闘争、アナーキーなど多面的側面をもつこの「革命」は、そうであるがゆえにさまざまなドラマ、悲劇をも生み出した。革命は、劉・鄧、北京に代表される権力中枢に対して反対派を組織し、奪還闘争を展開することから始まった。反対派の中心は毛沢東であり、その拠点が「文化大革命の司令部」といわれた上海の文化革命小組であった。対抗権力は闘争の基盤を、権力中枢から疎外された一つである学生に求めた。当初自然発生的な運動であった高校生・大学生の「紅衛兵」は、毛沢東の支援を受け闘争になだれ込んだ。この両面作戦の前に権力中枢は容易に崩壊し、六六年八月の一一中全会では文化大革命が党の方針として採択された。解放された紅衛兵のエネルギーは、「造反有理」などを掲げ、権力中枢(実権派)の逮捕・追放・自己批判を迫り、地方に運動を広げた。しかししだいに内証し相互に武闘を繰り返した。フランス革命がそうであったように、凄惨な祭りであった。
また毛沢東は、権力組織をコミューン型に変換することを求めた。六七年一月から労働者も闘争の場に登場し、コミューン(六七年上海コミューン)を形成し始めた。しかし統制のとれないこの動きは、下からの奪権運動が共産党支配そのものを突き崩す危険をはらんでいた。そのため燎原の火のごとく全国に拡大する運動を抑制する拠点が必要とされ、六七年春ごろから各地で革命委員会が形成された。この流動的な権力状況のなかで決定的な力をもったのが軍であった。軍は革命委員会を掌握し、六八年秋までには全国に及んだ。六八年十月実権派が追放されるなかで一二中全会が開催され、劉少奇は党籍を剥奪、永久追放され、六九年四月の第九回全国代表大会(九全大会)において、毛沢東の勝利がうたわれ、林彪が毛沢東の後継者として明記された。いわゆる「造反派」の勝利であった。しかし、それは毛沢東、林彪、文革小組を拠点にのし上がった「四人組」との間の流動的なバランスの上にたつものであった。
中ソ対立の激化
この間、ソ連との関係は悪化する一方であった。六五年二月コスイギンがハノイから北
京に飛び周恩来・毛沢東と会談し中ソ和解を提案した。毛沢東の返事は、中国の批判は「九〇〇〇年続く」というものであった。その後ソ連は中国国境で軍事力を強化(一七個師団から二七個師団へ)し、さらに戦術核、大陸間弾道ミサイル(ICBM)も配備して先制予防攻撃の宣伝を繰り返し、圧力をかけた。この軍事的脅威に加えて、中国は六八年のブレジネフ・ドクトリンは中国にも適用されるのではないかという不安を抱き、「社会帝国主義」を非難し、その年十月には林彪は対ソ戦争準備の指令を出したほどであっ
この緊張のなかで六九年三月二日、中ソ国境を流れるウスリー河の島、珍宝島(ダマンスキー島)で武力衝突が起きた。モスクワに緊張がはしった。
この地区では長年対立が起きていたが武力使用はしないという暗黙の了解があり、それが破られたからである。ソ連は、核攻撃を含む報復措置を検討した。しかしソ連がとった措置は、軍事力を増強して圧力をかける一方で、中国を交渉に引き出すというものであった。モスクワは、強硬手段が中国を西側に追いやることを恐れたのである。九月コスイギンがハノイでのホー・チ・ミンの葬儀に出席後、北京を訪問してこの紛争収拾で合意し、危機は終息した。しかし北京は、文化大革命による疲弊と外交的孤立のなかで、対米関係の見直しに着手していた。
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