未唯への手紙

未唯への手紙

『哲学トレーニング』

2023年09月30日 | 2.数学
 (高校倫理の古典でまなぶ)

『哲学トレーニング』

人間を理解する

古典を使って考える哲学の「筋トレ」

◎現代思想

言語意味

私とあなたはその言葉を同じ意味で使っているのか―ウィトゲンシュタイン『青色本』『哲学探究』

言葉の意味はどうやって決まる?

(現代文学研究会の部室で緑と昇とが話しているうちに・・・)

緑 昇って、ときどき意味がわからないことを言うね。

昇 そんなことないよ。そういう緑の言っていることこそ、意味不明だよ。

直子 どうしたの。また、夫婦げんか?

昇 いや、けんかじゃないし、そもそも夫婦じゃないし・・・。でも、なんで言葉ってこんなにも通じないのかな。

緑 それは仕方ないんじゃない?だって、その言葉を言ったときに何を思い浮かべていたかなんて、結局は言った本人にしかわからないんだから。

直子 それはどうかなあ。たとえば、「お菓子食べたい」って言うからポテチを買ってきたら、「何それ?私が「お菓子」という言葉でイメージしてたのは「チョコレート」だったのよ」って言われたとしたら、どうよ?

昇 緑自身もそう言うことよくある!すごく困る!!

直子 でしょ!?やっぱり言葉の意味って自分で好き勝手に決められるものじゃなくて、ある程度客観的に決まっているものだと思うな。

緑 そんなもの誰が決めるのよ。

直子 誰って言うか・・・。たとえば、国語のテストだと辞書に載っている説明が、言葉の意味の「正解」になるわけでしょ。だから、言葉の意味って辞書に載っている説明のことなんじゃないかな。

言葉が通じるってどういうこと?

昇 確かに直子の言う通りかもなあ・・・。あっ、でもさ、でもさ。辞書に載っていなくても、自分で何かに名前をつけるってことはできるよね。たとえば、僕が新しく創ったお菓子に「ノボージュ」と名づけるとか。

直子 ああ、たまにいるねえ。そういう人。

昇 その場合には、「ノボージュ」って言葉はほかのお菓子ではなくて、そいつのことだけを意味することになるわけだよね。で、それはそいつに「ノボージュ」っていうラベルをぺたっとくっつけることで可能となっている、って感じで・・・。

緑 つまり昇は、その場合言葉の意味って、そのラベルをつけられた対象だって言いたいの?

昇 そうそう!さすがは緑。やっぱり僕らの言葉は通じ合っているね。

直子 何よ、さっきは「通じない」って言っていたじゃない!だから、言葉っていうのはそうじゃなくて…..。

●考えてみよう

あなたは緑(意味=心の中のイメージ説)・直子(意味=辞書の記述説)・昇(意味=対象説)の三人のうちで誰の考えに近いか、その理由とともに考えてみてください。

何が「伝わらない」の?

言葉にしないと何も伝わらない。では、その裏返しはどうだろうか。つまり、言葉にすれば伝わるのだろうか。いや、相手にうまく言葉が伝わらなくてもどかしさを感じた経験をもつ人は多いだろう。では、ここで「伝わらない」ものは何なのだろうか。音声としての言葉そのものはきちんと聞こえているし、届いている。では、何が伝わっていないのか。それは、その言葉によって意味されているもの、ということになるだろう。言葉の意味についての問いはこのようにして立ち上がってくる。ここでは、この問いを生涯考え続けていたウィトゲンシュタイン後期の思想の助けを借りながら、この問題を一緒に考えてみることにしよう。(以下の引用はすべて彼の著作からのもの)

意味=辞書の記述なのか

「言葉の意味とは何か」という問いに対してまず思いつくのは、対話で直子さんが述べていたように、その言葉を説明する辞書の記述によって答えるやり方である。たとえば、「石」という言葉の説明として辞書に「岩よりも小さいもの」と書いてあったならば、この記述が「石」という言葉の意味だと考えたくなる。しかし、ウィトゲンシュタインは、このような「言葉を別の言葉で定義する」説明に対して以下のように述べている。

一般的に「言葉の意味の説明」と言われるものは、非常に大まかに言えば、言葉による定義と指さしによる定義とに分けられる。(中略)言葉による定義では、一つの言語表現から別の言語表現に移るだけのことなので、ある意味では一歩も先に進まない。それに対して、指さしによる定義は意味を知る方向に向かって実際の一歩を踏み出すように思われる。(『青色本』)

なぜ辞書による説明では「一歩も先に進まない」のだろうか。それは、「言葉の意味を説明するその言葉の意味は何だろう」という問題が出てきてしまうからである。先ほどの例で言えば、「石」という言葉を説明する「岩よりも小さいもの」の中に出てくる「岩」や「小さい」という言葉はどういう意味なのか、と問われることになる。そこで今度は「岩」の説明を辞書で引いてみると、「石よりも大きいもの」と載っていたりする。これでは、どうどうめぐりだ。

つまり、言葉は辞書の内部に張りめぐらされた言葉の網を抜け出して、どこかで現実の世界の対象と結びつかなければならない。これを可能にするのが、もう一つの説明として挙げられた「指さしによる定義」である。

意味=対象なのか

たとえば、まだ言葉をあまり知らない子どもに「石」という言葉を教える場面を考えてみよう。その子はほかの言葉もよく知らないので、辞書の説明は使えない。このような場合には、実際に石をもってきて、「これが石だよ」と教えてあげることになるだろう。これが「指さしによる定義」だ。このような言葉の説明の仕方は、先ほどの対話で言えば昇くんの説明に近い。そして、言葉を実際の対象に結びつけているので、言葉を言葉によって説明するよりも「意味を知る方向へ実際の一歩」を踏み出してはいる。でも、実はこれでもまだ説明は終わらない。なぜだろうか。

私がある人の名前を指さしによって説明するとき、その説明された名前は色の名前としても、人種の名前としても、さらには方位の名前としても理解できる。つまり、指さしによる説明はいかなる場合にも別の仕方で解釈可能なのである。
(『哲学探究』28節)

たとえば、「これが石だ」と指さしによって説明することで、子どもが「石」という言葉を学んだとしよう。でもその後に、雪が降っているのを見て「あ、石!」とその子が言ったとしたらどうだろうか。その子は「石」という言葉が、色の名前(たとえば「白」のこと)だと思って、同じ色をもったものを「石」と呼んでいるのかもしれない。つまり、指さしによる定義だけでは、いろいろな解釈ができてしまって、「これ」が何を指しているのかが一つに決まらないのだ。

さて、困った。大人に対してであれば、「「石」は物の名前であって、色の名前ではないよ」と教えることができる。しかし、この子はまだ「物」とか「名前」という言葉が何を意味するのかを理解できないだろう。では、どうすればよいのだろうか。

一つのやり方は、たとえば実際に石に触らせてみせて、「その石は硬いね」って言ってみることである。あるいは、手にもたせて「その石は重いかな」と聞いてみるのでもよい。色は硬さをもたないし、重さももたないので、こうすれば「石」を色の名前と解釈するという選択肢はとれなくなるだろう。

このようにみてくると、単にあるものに「石」というラベルを貼りつけるだけでは、まだその言葉には意味が与えられていないことがわかる。言葉が何を意味するのかは、その言葉がどういう場面で、どういう経験と結びついて、ほかのどういう言葉と一緒に使われるのか等々という、さまざまな実際の使われ方を学ぶことによってはじめて理解できることになる。そして、ウィトゲンシュタインはこのような言葉の使い方を学ぶ過程やその言葉を使う活動全体のことを「言語ゲーム」と呼ぶ。

すると、石を名指したり、言われた言葉を後から発音して繰り返したりするといった過程もまた、言語ゲームと呼ぶことができるだろう。(中略)私はまた、言語とそれが織り込まれた活動のすべてを「言語ゲーム」と呼ぶ。(『哲学探究』7節)

意味=心の中のイメージなのか

それでは、言葉を使った活動を「ゲーム」として考えることにはどんなメリットがあるのだろうか。いろいろあるだろうが、そのうちの一つとして、意味を心の中から解放することができる、という点が挙げられる。

先ほどの対話の中で緑さんは、意味を心の中に浮かぶイメージと考える立場に近づいていた。たとえば、私が「石をもってきて」とある人に頼んだのだが、彼がもってきたのは私が欲しかったものではない、ということがあったとき、この食い違いは「石」という言葉で私と彼とがイメージするものが違ったからだ、と言いたくなるだろう。この点で、言葉の意味をその言葉を使う際に心の中に浮かぶイメージと考えることには、それなりの説得力がある。しかし、同時にいくつかの問題もある。

その一つは、相手が思い浮かべているイメージはどうやってわかるのか、という問題である。それなら、相手にどういうイメージを思い浮かべているかを説明してもらえばよい、と思われるかもしれない。だが、その説明はあくまで言葉で行われることになる。たとえば、「「石」という言葉で、私は「丸くて、白くて、硬くて…」というものをイメージしているのだ」と。

しかし、こう答えたとたん、今度はその答えの中に出てくる「丸い」とか「白い」という言葉で何をイメージしているのかという問題が出てくる。つまり、心の中のイメージを言葉で説明しようとすることには、辞書の場合と同様の限界があるのだ。

ここで先ほどの「言語ゲーム」というアイデアが効いてくる。どんなゲームでもよいが、たとえば将棋というゲームの「角」という駒の意味を理解している、とはどういうことかを考えてみよう。それはたとえば、角は将棋盤の中で斜めであれば四方にどこまでも動くことができるけど前後や横には動けない、ということをわかっているということかもしれない。あるいは、その駒がどういう場面で有効に使えるかをわかっていることかもしれない。いずれにしても、ゲームの中で角が果たす役割をわかっていて、その駒を使いこなすことができるならば、その人は角の意味を理解していると言ってよいことになるだろう。

一つの石(駒)の意味とは、ゲームの中でそれが果たす役割である、と言おう。(『哲学探究』563節)

それでは私たちは、将棋で角を動かすときに角が表す何かをイメ―ジしながら指しているだろうか。そんなことはしていない。そもそも角が表すものということで何をイメージすればよいのかさえわからない(角の駒の形や素材はここでは問題ではない。何なら消しゴムや紙切れで代用してもよいのだから)。それでも、将棋というゲームの中でその駒を動かすことができるなら、その駒の意味をわかっていると言える。そして、自分が動かすのと同じように相手がその駒を動かしているなら、相手はその駒を自分と同じ意味で理解して使っていることがわかる。

これと同じように考えていくと、「石」という言葉も、それを相手が自分と同じ意味で使っているとわかるためには、相手が「石」という言葉を用いるゲームの中で自分と同じような仕方でそれを使っていることがわかればよいので、心の中のイメージは必要ない、ということになる。

しかしここで、以下のような疑問をもつ人がいるかもしれない。「角」の使い方は言葉による定義が可能であるのに対して、「石」という言葉の使い方は先ほど述べたように言葉で定義できないのだった。したがって、これらを用いる営みを同じように「ゲーム」と呼ぶことには無理があるのではないか、と。

確かに、「角」と「石」の使い方の説明には大きな違いがある。しかし本当は、「角」の使い方だって言葉によって定義しつくせるものではないのだ。たとえば、「角が斜めに動く」ということを私とあなたが同意していたとしても、「斜めとはどこか」という点で二人の解釈が異なっているかもしれない。それゆえ、これまで私とあなたが同じルールを共有していたと思っていたのに、あなたが次の一手で私の考えるルールとはまったく異なる動かし方をして、二人が実はまったく異なるルールに従っていた、ということが判明するかもしれない。そしてこの食い違いの可能性は、これまで論じてきたように言葉によってあらかじめ排除しつくすことはできないのである。

以上のように、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という考え方を提案することによって、「意味が心の中にある」という私たちの陥りやすい誤解を解きほぐそうとした。しかしそれと同時に、そのような言語ゲームの規則を言葉によって説明することの限界(語りえぬこと)もまた明らかにしたのである。

要点の板書

言葉の「意味」とは、辞書の記述なのか、ラベルのつけられた対象なのか、心の中のイメージなのか、それら以外のものなのか。

◎本文をもとに考えてみよう

  • あなたが言葉によって説明できないと思うものは何だろうか。その理由とともに考えてみよう。問2意味のない「言葉」は考えられるだろうか。考えられるとすれば、それは意味をもつ言葉に比べて何が「ない」のだろうか。

◎出典

ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集第8巻哲学探究』藤本隆志訳、大修館書店、1976年。『哲学探究』丘沢静也訳、岩波書店、2013年

ウィトゲンシュタイン『青色本』大森荘蔵訳、筑摩書房、2010年(本文中の引用の対応は、順に『青色本』8頁、『哲学探究』大修館36、20、299頁/岩波28,12,291頁)

◎人物紹介

し、ウィトゲンシュタイン(18891951)哲学的問題と言語との関係を生涯考え続けたオーストリア生まれの哲学者。後半生では対話形式で思考を進めるという独自の哲学スタイルをとるに至った。小屋の外に会話が聞こえてきたが、入ってみたら中にはウィトゲンシュタイン一人しかいなかったという逸話は有名。

◎読書案内

  • 野矢茂樹「哲学の謎」(とりわけ「第7章意味の在りか」)、講談社現代新書、1996年

  • 永井均「ウィトゲンシュタイン入門」ちくま新書、1995年③デレク・ジャーマン監督「ウィトゲンシュタイン」1993年(①は☆②は☆☆☆、③は☆☆)


  • には今回扱った言葉の意味の問題を始めとして、面白い哲学的問題がたくさん紹介されている。②はウィトゲンシュタインの思想の流れを、彼と一緒に哲学しながら辿り直すことができる格好の入門書。③はウィトゲンシュタインの数奇な生涯を、彼の思想の変遷を交えて前衛的な映像で描いた伝記映画。

(高校倫理の古典でまなぶ)

『哲学トレーニング』

社会を考える

(社会と公共を考える)

哲学の「筋トレ」」

イスラーム

■公正平等

神のもとで人びとは何を正義と考えるのだろうか-『クルアーン(コーラン)』

文化によって異なる「正義」

(岩波高校を卒業したばかりの美咲と虎が大学の授業の話をしている)

美咲「異文化理解」ゼミのレポートどうする?

虎いやー、全然決まってないよ。大学に入って最初のレポートだから、よく分からないんだよね。美咲はどう?

美咲私は一応、「イスラームにとっての正義」にしようかな、と思って。先生に確認したら、おもしろいテーマだって言ってもらったよ。

虎早いね、やることが。確かにおもしろそうだけど、どうしてそれを選んだの?

美咲高校の時の倫理の話で先生が、「正義」は一つではなく、主観的な場合が多い、って話していたよね。文化や社会によって違う、とくに宗教的な要因が関係することがある、って。それを思い出して、それじゃあ、日本とかけ離れた感じのするイスラームの価値観だとどうなるんだろうか・・・と思って。

イスラームの聖典「コーラン」と「正義」

虎ふーん、そうやってそのテーマにたどり着いたんだ。なるほどね。でも単なるイメージかもしれないけど、イスラームの「正義」って、唯一絶対の神、アッラーのためのもので、暴力をともないがち、という気がするんだけど、どうなんだろうね?

美咲確かにそんなイメージがあるのかもしれないけれど、宗教にかかわらず、暴力に対抗するために暴力を用いるのは正義だって考える人もいるよね。それにイスラーム教徒がみんな暴力的なんてありえないでしょう?

虎まあね。でも、レポート書くための資料はどうするの?イスラームの本って、少なそうだけど。

美咲そうなんだよ。だから、基本的には聖典のクルアーンを使おうと思ってる。

虎「クルアーン」って「コーラン」のことだよね。高校の教科書では両方書いていたけど、どっちが本当なの?

美咲アラビア語を聞くと「クルアーン」らしいよ。

虎アッラーの言葉そのものの記録って習ったなぁ。

美咲そうそう、預言者とされたムハンマドの口からアッラーの言葉が発せられて、人びとに伝えられたんだって。その記録だからなかなか分かりにくくて、ちょっと困っているところ。

虎それって7世紀のアラビア半島のことだよね。今の思想と関係あるのかな?

美咲それがあるんだよね。レポートできたら読んでみて。

考えてみよう

「正義」とは絶対的なのだろうか、それとも相対的なものであり、文化や社会によって異なるのだろうか。ここでは主に、イスラームの聖典「クルアーン」を用いて、「正義」のあり方について考えてみよう。

「正義の味方」は何をする?

「正義」という言葉を聞くと、何を思い浮かべるだろうか。「正しい」ことを追求するという肯定的なイメージが浮かぶだろうか。だが、この言葉を振りかざして、実際には自分の欲することを押し通そうとしているだけ、という否定的なイメージが浮かぶかもしれない。この言葉の意味はとても広いので、ここでは手始めとして「正義の味方」という言葉について考えてみよう。

皆さんにとって「正義の味方」は誰だろうか。昭和の子どもだった筆者は、月光仮面、タイガーマスク、ヤッターマンやガッチャマンといったテレビ番組から生まれたヒーローたちを連想する。特にタイガーマスクは、今でも「正義の味方」の代名詞として使われる。

これらのヒーローたちは困っている弱い者の味方で、強く悪い奴らを懲らしめてくれる存在として描かれる。すると「弱い者」が「正義」なのだろうか。もちろん必ずしもそうとは限らないだろう。だが「悪い奴ら」が「不正義」なのは確かである。そして「弱い者」は「悪い奴ら」によって不当な目にあっているため、「正義の「味方」がそれを助け、是正してくれるのである。この最後の点がポイントである。「正義」という言葉には、不当な状況をそれぞれにふさわしい、見合った状況にするという意味があると考えられる。

この点は、西洋思想における「正義」でも同じである。正義にはもともと「正当な分配」を目指すという基本的な意味がある。つまり一部の人たちが不当に利益を得て、他の人たちが理不尽な苦境におかれることなく、それぞれに見合ったものを公正に与えるにはどうすればよいのか、が正義をめぐる議論の根底にはあるのだ。

イスラームにおける「正義」

イスラーム思想を見ると、この「正義=見合うこと=公平(平等)」という傾向はさらに強いものとなる。それはこの宗教の成立そのものに大きく関わっている。

イスラームの預言者ムハンマドは6世紀後半にメッカで生まれたが、孤児として育ち、商人として前半生を過ごした。預言者となったのは40歳ごろで、唯一の神であるアッラーの啓示を受け始める。啓示の内容は当時のメッカの状況を反映して、貧富の格差という不平等やそれを助長する拝金主義を批判し、神のもとでの人間の平等を訴えるものであった。そしてこれが、イスラーム誕生の大きな原動力の一つであった。

したがって、イスラームの教えは日常生活における正義を強く説いている。たとえば当時の人々にとっての関心事の一つは、もめ事の解決や商売のやりとりが、正義つまり公正さにもとづいているかどうかであった。このテーマは、クルアーンで何度もさまざまな文脈で言及される(以下の引用の傍点はいずれも引用者による)。

神は、預かった物はきちんと元の持ち主に返すようにと命じた。また、他の人々の間を裁く際には、公正に裁くように、と命じた。(4章(女性)58節)

さらに次の章句は少し長いが、旧約聖書に登場するダビデを通してイスラームの正義に関する教えが語られている興味深いものである。ダビデはアッラーによって王権と知恵、そして裁きの力を与えられていた。ある時、二人の男が彼のもとに来て、こう言った。

「私たち二人は訴えたいことがあって参りました。どちらか一人が不当な行為を行っています。私たちを真理にもとづいて裁いてください。決して不当には裁かないでください。そして公平な道に導いてください。実はここにいるのは私の兄です。九十九頭の雌羊を持っていますが、私は一頭しか持っていません。それなのに兄は、「この一頭の雌羊もこっちによこせ」と言い、口論して私を言い負かしてしまったのです。」

ダビデはこう言った。「兄の方は、お前の一頭の雌羊を、彼が持っている多くの雌羊に加えるように要求したのだな。これはすでに不当な行為をなしている。共同で何かことを行う者は互いに害し合うものだ。ただし、信仰して善をなす者だけはそうではないが、そういった者は少ない。」(38章(サード)22-24節)

ここでは九十九頭の雌羊をもつ強欲な兄と、一頭の雌羊しかもたず口論にも負けた弱い弟が対比されている。ダビデは彼らの訴えを受け、弱者の味方をする裁きを下した。これがイスラーム教徒の理想とする正義ということになる。

またムハンマド自身が商人であったことが反映され、クルアーンでは商売上の正義、つまり公正さがしばしば説かれている。

ますめお前たちがものを量る時は、枡目を十分に計量しなさい。また正しい秤を使いなさい。その方が立派であり、良い結果[来世での天国]をもたらす。(17章(夜の旅)35節)我ら[アッラー]は人間が公正にふるまえるように秤を下した。
(57章(鉄)25節)

ここに出てくる「秤」(天秤)は、イスラーム社会で正義のシンボルとして用いられる。たとえば現在のイスラーム諸国の「正義省」のマークに秤が使われていることがある。秤とは釣り合いの象徴である。つまり公正であること、そして見合っていることが正義なのである。

 209『世界の歴史㉙』

冷戦と経済繁榮

中国――「民族共産主義」

建国期の中国

毛沢東が指導する中国共産党は、対日抗戦、国民党との内戦を経て一九四九年十月一中華人民共和国を樹立した。最優先課題は経済復興であり、貧農に均等配分する土地改革、国民党時代の官民癒着で巨大化した企業の国有化、悪性インフレを解消する統制経済などによって五二年までには戦前の生産を回復した。また中国のかつての版図を維持することも課題であった。それは国民党が移動した台湾であり、ソ連赤軍によって解放された満洲、反乱を鎮圧した新疆、そしてチベットなどの周辺地域であった。

安全保障も大きな問題であった。農村を拠点とするゲリラ的解放戦争を展開し独自の力で政権を奪取した中国共産党は、ユーゴのチトーと同様、ソ連にとっても侮りがたい存在であった。スターリンはヨーロッパでの冷戦が激化するなかで、中国接近をはかり、中国も「向ソ一辺倒」を宣言しこれに応えたが、スターリンは共産主義運動の盟主たる地位を確保し、中国を制御すべく、四五年八月に国民党政府と締結した不平等な友好同盟条約を変更する意図はなかった。そのため四九年十二月の毛沢東のモスクワ訪問でなされた改定交渉は難航した。インドやイギリスが中国を承認し、それをスターリンが中国の独自路線の現れと警戒したため、五〇年二月中ソ友好同盟相互援助条約が調印された。だがスターリンの譲歩は少なく、旅順港の条件付き返還の他、秘密協定で旅順への無通報兵力移送など不平等性は強く残った。

五〇年六月に勃発した朝鮮戦争も、スターリンが金日成に承諾を与えその後中国との調整が行われたものであり、また同年十月の中国義勇軍の派遣も中国が強く躊躇するなかでスターリンの主導でなされたものであった。朝鮮戦争のなかで進行したソ連への従属と朝鮮戦争でのアメリカとの戦いは、準軍事体制としても適合していたスターリン型社会主義モデルを導入させる契機にもなった。五三年夏ごろから毛沢東主導のもとに「過渡期の総路線」をとり「社会主義的改造に着手した。第一次五ヵ年計画も導入してソ連型重工業路線をとり、農業においても五五年以降急速な農業集団化を進め、五六年には大多数が、土地や生産手段を提供し労働に応じて分配する「高級合作社」に属することになった。

スターリン批判と中国

五三年三月のスターリンの死後、ソ連は「平和共存」路線をとり、五六年二月にはスタ―リン批判を行った。中国は「平和共存」路線には、平和五原則と非同盟運動への接近によって応じたものの、スターリン批判では、平和的移行論、個人崇拝など多くの問題に直面することになった。

中国は、限定的なスターリン批判を五六年四月上旬に開始した。批判の自由を容認した百花斉放、百家争鳴を鼓舞した整風運動であった。五六年九月に一一年ぶりに開催された第八回全国代表大会(八全大会)では、社会主義的改造の終了と個人崇拝の除去を宣言した。だが五七年二月の有名な毛沢東の「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」の講話の楽観論は裏切られ、脱スターリン化は、共産党批判、党独裁批判などしだいに統制が不可能になり、六月から反右派闘争を開始し、公称で五五万人が追放された。対外政策も硬化し、五七年秋毛沢東は「アメリカ帝国主義は張り子の虎である」と述べ、モスクワでの世界共産党会議では、「東風は西風を圧する」と「平和共存路線」に対して異論を唱えていた。

またこの会議で毛沢東は、一五年でイギリスに追いつき追い越すとも述べていた。毛沢東はすでに五七年夏ごろから、反右派闘争の延長として大衆の士気を鼓舞することによって生産を増産させる考えに傾いており、五八年五月、八全大会第二回会議において「社会主義の総路線」が決定され、大躍進運動が展開された。またこれに続いて開催された中央軍事委員会拡大会議において、核兵器の開発が決定されるとともに、軍建設でもソ連モデルが批判され毛沢東の人民戦争論に立脚する方針が決定された。大衆の主意の重視、社会主義体制においても階級闘争は存在し、そのため「継続革命」が必要であるという毛沢東路線が鮮明になり始めた。また組織面でも、国家と党の分業はなくなり、党中央に組織された「小組」が大きな権限をもつ、党の「一元的指導」が導入された。イデオロギー、戦略、組織の面でソ連モデルからの離脱が顕著になった。このためこれ以降、文化大革命までの中国の共産主義は、「毛沢東モデル」(毛里和子)とか「第三世界路線」とか呼ばれるようになる。

毛沢東モデル

この毛路線はまず十月、第二次台湾海峡危機の「瀬戸際政策」で示され、中ソ対立が顕著となった。また大躍進運動は、5章で説明されるように、破綻がただちに明らかになった。五九年七月避暑地の廬山で開催された政治局拡大会議で、国防相の彭徳懐が大躍進運動を批判したが、毛沢東は激怒し、右翼日和見主義と攻撃した。八月には彭徳懐をはじめとする軍幹部を「反党集団」として追放処分にし、国防相に林彪を指名した。おりしもチベット国境をめぐり中印紛争が勃発したときであった。しかし五九年四月、毛沢東は党務と理論活動に専念するとして国家主席を辞任し、劉少奇が就任し、党総書記になった鄧小平とともに、六〇年から経済調整といわれる大躍進運動の修正を行った。鄧小平が「白い猫でも黒い猫でもネズミをとる猫はよい猫だ」という「白猫黒猫論」を展開したのはこのときであった。このため六二年には経済は回復軌道に入った。

しかし薄一波の回顧録によれば、毛沢東は五九年十一月ごろから「修正主義」批判の理論武装を開始していたという。毛沢東はダレスの「平和的変革」の主張に着目して、アメリカは力の政策に加えて、浸透、体制転覆などの「欺瞞的手段」で帝国主義を維持し攻勢をかけようとしており、キャンプ・デーヴィッドでの米ソ首脳会議で示されたように、ソ連を腐敗させ資本主義を復興させることを企図しているとし、アメリカ帝国主義、ソ連の修正主義、国内の修正主義との戦いを強調するようになった。

この路線はまず、軍拡となって現れ、既定の方針とはいえ、六四年十月十六日水爆開発能力を示すウラン型核爆弾の地下核実験に成功した。この日は、フルシチョフが党と政府のポストから解任された翌日であり、同時に米ソの地下核実験禁止条約への挑戦でもあった。また六五年五月には航空機からの原爆投下による爆発実験に成功し、六六年十月には中距離弾道ミサイル(MRBM)による爆発実験にも成功した。ついでソ連への修正主義批判がイデオロギー論争として展開された。六四年十月フルシチョフが解任された後も、中ソ対立は緩和せず、米ソに対決するため、支援と連帯によって第三世界から支持を調達することを試みた。

そして、資本主義の浸透による腐敗と弱体化を防ぐため、国内思想引き締めを強化した。思想の純化と綱紀粛正であり、六二年夏ごろ提唱され翌年春から開始された社会主義教育運動であった。これは劉少奇らと路線対立を引き起こし、文芸界にも軍部にも及んだ。林彪は人民戦争論を唱え、軍内思想強化のために六一年から『毛主席語録』を出版していた。路線対立と権力闘争が複雑に絡み始めた。

六四年夏のトンキン湾事件、六五年二月の北爆開始と、アメリカのベトナムへの介入が本格化すると、北ベトナムに全面支援を確約した。六五年から七三年まで、三二万の中国兵力が北ベトナムに駐留したという。しかし北京はアメリカとの直接対決は回避しようとしており、そのため空軍の支援には消極的であった。一方六五年二月コスイギンがハノイを訪問して支援を約束し、それにはミサイル技術が含まれていた。また毛沢東はトンキン湾事件から衝撃を受け、核攻撃を含む大規模戦争に備えるように指令した。これは軍内の路線対立を強め、そのなかで林彪の権力が強まっていった。その後中国は大激動の時代に突入した。プロレタリアート文化大革命(文革)である。

文革

文化大革命の時代は一九六六年から七六年までの一〇年といわれている。権力闘争、路線闘争、文化闘争、武力闘争、アナーキーなど多面的側面をもつこの「革命」は、そうであるがゆえにさまざまなドラマ、悲劇をも生み出した。革命は、劉・鄧、北京に代表される権力中枢に対して反対派を組織し、奪還闘争を展開することから始まった。反対派の中心は毛沢東であり、その拠点が「文化大革命の司令部」といわれた上海の文化革命小組であった。対抗権力は闘争の基盤を、権力中枢から疎外された一つである学生に求めた。当初自然発生的な運動であった高校生・大学生の「紅衛兵」は、毛沢東の支援を受け闘争になだれ込んだ。この両面作戦の前に権力中枢は容易に崩壊し、六六年八月の一一中全会では文化大革命が党の方針として採択された。解放された紅衛兵のエネルギーは、「造反有理」などを掲げ、権力中枢(実権派)の逮捕・追放・自己批判を迫り、地方に運動を広げた。しかししだいに内証し相互に武闘を繰り返した。フランス革命がそうであったように、凄惨な祭りであった。

また毛沢東は、権力組織をコミューン型に変換することを求めた。六七年一月から労働者も闘争の場に登場し、コミューン(六七年上海コミューン)を形成し始めた。しかし統制のとれないこの動きは、下からの奪権運動が共産党支配そのものを突き崩す危険をはらんでいた。そのため燎原の火のごとく全国に拡大する運動を抑制する拠点が必要とされ、六七年春ごろから各地で革命委員会が形成された。この流動的な権力状況のなかで決定的な力をもったのが軍であった。軍は革命委員会を掌握し、六八年秋までには全国に及んだ。六八年十月実権派が追放されるなかで一二中全会が開催され、劉少奇は党籍を剥奪、永久追放され、六九年四月の第九回全国代表大会(九全大会)において、毛沢東の勝利がうたわれ、林彪が毛沢東の後継者として明記された。いわゆる「造反派」の勝利であった。しかし、それは毛沢東、林彪、文革小組を拠点にのし上がった「四人組」との間の流動的なバランスの上にたつものであった。

中ソ対立の激化

この間、ソ連との関係は悪化する一方であった。六五年二月コスイギンがハノイから北

京に飛び周恩来・毛沢東と会談し中ソ和解を提案した。毛沢東の返事は、中国の批判は「九〇〇〇年続く」というものであった。その後ソ連は中国国境で軍事力を強化(一七個師団から二七個師団へ)し、さらに戦術核、大陸間弾道ミサイル(ICBM)も配備して先制予防攻撃の宣伝を繰り返し、圧力をかけた。この軍事的脅威に加えて、中国は六八年のブレジネフ・ドクトリンは中国にも適用されるのではないかという不安を抱き、「社会帝国主義」を非難し、その年十月には林彪は対ソ戦争準備の指令を出したほどであっ

この緊張のなかで六九年三月二日、中ソ国境を流れるウスリー河の島、珍宝島(ダマンスキー島)で武力衝突が起きた。モスクワに緊張がはしった。

この地区では長年対立が起きていたが武力使用はしないという暗黙の了解があり、それが破られたからである。ソ連は、核攻撃を含む報復措置を検討した。しかしソ連がとった措置は、軍事力を増強して圧力をかける一方で、中国を交渉に引き出すというものであった。モスクワは、強硬手段が中国を西側に追いやることを恐れたのである。九月コスイギンがハノイでのホー・チ・ミンの葬儀に出席後、北京を訪問してこの紛争収拾で合意し、危機は終息した。しかし北京は、文化大革命による疲弊と外交的孤立のなかで、対米関係の見直しに着手していた。

 とりあえず5冊 片付けました るーしーちゃんはおまけ

『世界の歴史㉘』

2023年09月29日 | 4.歴史
209『世界の歴史㉘』

第二次世界大戦から米ソ対立へ

米ソ核戦争の脅威と雪どけの模索

朝鮮戦争と核軍拡競争の激化

ソ連の原爆保有と中国革命の衝撃

一九四九年秋には、合衆国にとって衝撃的な事件が立て続けに起こった。まず九月末にはソ連が公式に原爆の保有を認めた。また、十月一日には中華人民共和国の成立が宣言された。アチソン国務長官はすでに同年八月、中国革命の原因を、トルーマン政権の失政ではなく、蒋介石政権側の独裁的体質や腐敗に求める見解を「中国白書」として公表していた。しかし、合衆国国内では共和党を中心としてトルーマン政権の責任を追及する声が高まっていた。

それゆえ、トルーマン大統領は、翌五〇年一月末になり、水爆製造を命令するとともに、国務・国防両長官に対して合衆国の安全保障政策を全般的に見直すよう命令した。その結果、国家安全保障会議(NSC)文書六八号がまとめられたが、ここでは四、五年以内にソ連が合衆国に奇襲の核攻撃をできるようになると予想し、ソ連を圧倒できるだけの核攻撃力や民間防衛力を合衆国が装備するとともに、同盟国の軍備を強化する必要性が強調されていた。しかし、この文書を読んだトルーマンはその基調を承認したが、軍事費の倍増が必要になる点については議会の承認が難しいと判断して、決定を延期した。

また、中国革命後のアジア政策の見直しについては、四九年十二月末にNSC文書四八号としてまとめられ、アチソン国務長官がその骨子を翌年一月に首都ワシントンにあるナショナル・プレス・クラブの演説で公表した。そこでは、太平洋地域における合衆国の防衛ラインをアリューシャン列島から日本を経て、沖縄、フィリピンに至る線に求めた。このラインは米軍が実際に駐留している地点を結ぶものであったが、そこには韓国と台湾が除外されていたため、後に朝鮮戦争を誘発したと非難された。

しかし、アチソンの真意は、台湾への不介入を表明することによって、当時台湾の解放を狙っていた中国政府に歩み寄りをはかり、中ソの離間を狙ったものであった。韓国の場合は、北朝鮮からのソ連軍の撤退に対応して、米軍も四九年六月に撤退し、軍事顧問団だけを残していたが、五〇年一月末には米韓相互防衛援助協定が調印されていたので、有事の介入は予想されていた。ただし、トルーマン政権としては、武力による北進統一を主張していた李承晩政権への警戒から、重火器や戦闘機の供給は制限していた。

当時の韓国では悪性のインフレーションに悩まされていたうえ、五月末の選挙で李承晩派が大敗したため、政治的に不安定な情勢が生まれていた。他方、北朝鮮側は南北の分断が長期化する状況に危機感を抱き、六月初めに二度にわたり韓国に対して平和統一を提案したが、李承晩は拒否した。

朝鮮戦争の勃発

一九五〇年六月二十五日早朝、北緯三八度線の全域にわたって突然戦端が開かれた。緒戦は北朝鮮軍の優位のうちに推移し、二十八日には早くもソウルが陥落した。

この開戦の起源について、韓国や合衆国側は最初から北朝鮮による侵攻説を主張していたが、北朝鮮側は南の挑発説を主張し、長年対立してきた。しかし、一九七〇年に出版されたフルシチョフの回想録の中で、四九年末と五〇年三月に金日成がソ連を訪問し、スターリンから武力統一方針への支持を取り付けていた事実が暴露されてからは、北朝鮮による武力南進説が一般的となっている。ただし、その際、フルシチョフは、「真の共産主義者なら、金日成が李承晩やアメリカの反動的影響から南朝鮮を解放しようというやむにやまれぬいを思いとどまらせたりしなかった」と語っており、戦争が北朝鮮による武力統一をめざした「内戦」の性格をもっていたことが明らかになっている。しかし、スターリンは原爆の保有や中国革命の成功で自信を深め、北朝鮮に対する支援を決断したが、極力それを隠す努力をしていたことが、ソ連解体後に明らかになったスターリン文書でも示されている。他方、開戦の報に接したトル―マン大統領は、ミズーリ州の実家から急遽ワシントンに戻る機中で、三〇年代における枢軸諸国による満洲やエチオピア、オーストリア侵略を想起し、今度こそ侵略を許さぬ決意を固めた。つまり、トルーマンは、事態を朝鮮固有の民族問題とは見ず、国際共産主義運動をファシズムと同一視したうえで、その共産勢力が従来の政治宣伝を主とした「間接侵略」段階から武力を使った「直接侵略」段階に移行した事件と受けとめた。

その結果、トルーマンはただちに米海空軍を韓国に派遣しただけでなく、台湾に第七艦隊を派遣したり、フィリピンやベトナムへの軍事援助の強化を発表した。また、緊急に招集された国連安全保障理事会で、合衆国は北朝鮮の行為を「平和に対する侵犯」と見なし、三八度線以北への撤退を要求する決議案を提案した。一方ソ連は、中国革命後も台湾政府が安保理の常任理事国の議席を譲らない事態に抗議して、欠席を続けていたため、合衆国の提案には拒否権が発動されず、可決された。その折り、ユーゴスラヴィア代表は即時に停戦させたうえで、北朝鮮の代表を国連に招致し、弁明の機会を与えるように提案したが、否決された。

このような国連安保理の意思表示にもかかわらず、北朝鮮軍は進撃をやめなかったため、六月三十日、トルーマンは米地上軍の投入を決定した。さらに七月七日に国連は米軍を中心として国連軍を派遣することを決定、マッカーサーが最高司令官に任命され、韓国軍は国連軍の指揮下に編入された。それでも韓国側の劣勢は挽回されず、八月に入ると、国連軍は朝鮮半島の南端に位置する釜山近郊に追い込まれた。しかし、九月十五日、マッカーサーは兵站の伸びきった北朝鮮軍の中央部を直撃する仁川上陸作戦に成功すると、形勢は一挙に逆転し、十月七日には国連軍が三八度線を越えて北進した。その後、国連軍が中国国境にまで接近すると、中国が「抗美援朝(合衆国に抵抗し、朝鮮を支援すること)」を掲げて北朝鮮側に大量の義勇軍を密かに派遣したため、十一月末に国連軍は総崩れになった。

それは、合衆国が初めて体験した中国革命軍の威力であったが、態勢建て直しのため、トルーマンは原爆の使用を示唆した。しかし、この示唆は世界中に衝撃を与えた。とくに西欧諸国は、朝鮮戦争が米中戦争に拡大し、さらにはソ連が参戦して第三次世界大戦に飛躍すれば、西欧自体もソ連の攻撃目標となると恐れた。イギリスのアトリー首相が急遽ワシントンを訪問し、原爆を使用しないで戦争目的を限定するように説得したのはそのような国際世論を背景にしていた。

結局、トルーマンも戦争目的を三八線の回復に置き直したが、同時に、十二月十六日には国家非常事態を宣言して、兵力を開戦時の一五〇万から三五〇万へと二倍以上に増加させた。また、連邦予算における軍事費も、四〇年代後半の四五・五パーセントから五〇年代前半には六二・二パーセント水準へとはねあがった。それは、まさにNSC文書六八号が提案していたもので、合衆国は朝鮮戦争を契機に軍事力の飛躍的な強化を実現した形となった。

その後、朝鮮戦争は、翌五一年三月ごろから三八度線を境として膠着状態に入ったが、マッカーサーは中国本土への爆撃や台湾の国府軍による大陸侵攻を主張してトルーマンと対立した結果、四月十一日には国連最高司令官を解任された。また、アジアや英連邦諸国を中心に休戦を求める国際世論が高まるなかで、六月二十三日、ソ連のマリク国連代表が停戦を提案、国連軍側もこれを受け入れたが、実際の停戦交渉は休戦ラインや捕虜交換の問題などで難航し、休戦協定は五三年七月にようやく締結された。結局、朝鮮戦争は、国連軍側が九三万、北朝鮮側が中国義勇軍も含めて一〇〇万の兵力を投入して、三八度線をはさんで一進一退を繰り返した末、両軍合わせて一四六万人もの死傷者を出しながら、最終的には戦前状態に復帰しただけに終わった。そのうえ、南北朝鮮の双方に深い不信感を残し、分断のいっそうの固定化を招いた。合衆国の側では大規模な軍備を恒常的に維持することを当然視する風潮を生んだだけでなく、中国を敵視する外交姿勢を固定化させるとともに、議会や世論のレベルでは「赤狩り」の異常なムードを激化させる効果を生んだ。

マッカーシー旋風

五〇年二月九日、全国的にはまったく無名であったウィスコンシン州選出の上院議員ジョセフ・マッカーシーが、ある地方都市の共和党婦人クラブの演説で、世界的に共産陣営の進出を許しているのは、国務省にいる「銀の匙をくわえて生まれてきた賢い若者たち」の裏切りによるもので、自分は国務省内の「二〇五人の共産主義者のリスト」をもっている、という爆弾演説を行った。当初は、共和党議員の中でも同調するものは少なかったが、トルーマン政権の中国政策に不満をもつ、親蒋介石派の「チャイナ・ロビー」のグループがマッカーシーに情報提供を始めた。

標的とされたのは、ジョン・ヴィンセントやジョン・サーヴィスなどの国務省の中国政策担当者と、ジョンズ・ホプキンス大学教授で中国専門家のオーウェン・ラティモアであった。彼らは蒋介石政権の腐敗体質に批判的で、中国共産党をソ連の分派としてよりも、「農本主義的ラディカル」と評価して、国共合作を推進した人びとであったが、マッカーシーによると、「共産主義者」と決めつけられてしまった。民主党側は、上院の外交委員会のもとにタイディングス議員を委員長とする小委員会を設置して真相の解明に乗り出し、七月二十日に提出された報告書の多数意見ではマッカーシーの告発は「虚偽」であると判定した。

しかし、秋の中間選挙を前にして党派対立が激化していたうえに、六月に朝鮮戦争が勃発したため、マッカーシーの煽動にマスコミが注目し始め、多くの共和党議員が「政府内共産主義者」問題を中間選挙の争点に選んでいった。そして、実際に十一月の中間選挙では共和党が議席を伸ばしていった。これ以降、合衆国の国内政治では「マッカ―シー旋風」と呼ばれた「赤狩り」の嵐が吹き荒れてゆくことになった。それは、戦後の合衆国が圧倒的な経済的優位を背景として、「反共十字軍」的な使命感に駆られて、世界中の紛争に関与するようになりながら、四九年秋いらいソ連の原爆保有や中国革命などむしろ東側の優勢を見せつけられてきたことによるフラストレ―ションの産物であった。自らを「全能」と教え込まれてきた国民にとって、東側の勝因は合衆国内の「共産主義者」による「利敵行為」以外に考えられない、とする政治心理が形成されていった。

この反共ムードの高まりは、五二年の大統領選挙においては当然民主党政権側に不利に働き、選挙では共和党のアイゼンハワーが当選した(在任一九五三〜六一年)。しかし皮肉なことに、マッカーシーは共和党政権が成立しても「赤狩り」を止めず、五四年四月からはこともあろうにアイゼンハワーのおひざもとの陸軍を攻撃し始めた。ところが、この陸軍公聴会の場合には、マッカーシーはFBIから極秘で手に入れた資料の入手経路を逆に陸軍側の弁護士に追及され、証言拒否を行ったため、共和党の中でマッカーシーが孤立する状況が生まれていった。その結果、七月末には共和党の同僚議員から弾劾決議が上程さ失脚することになった。これ以降、彼の政治生命は絶たれ、失意のどん底の生活を送五七年五月に過度の飲酒が原因で死亡した。

しかし、マッカーシーの没落後も、下院の非米活動委員会や上院の国内治安委員会を中心に「赤狩り」は五〇年代いっぱい続いたため、合衆国国内では左翼運動が逼塞し、政府に批判的な意見は述べにくい雰囲気が生まれていった。とくにアジア担当の外交官に与えた影響は深刻で、激動するアジア情勢をリアルに把握できる人物は放逐されるか、沈黙を余儀なくされた結果、合衆国のアジア政策はきわめて硬直したものになった。それが後に合衆国がベトナム戦争に泥沼的な介入をする遠因となった。

西側諸国の軍備拡張と経済復興

朝鮮戦争が勃発し、ソ連参戦の懸念が高まるにつれて、西欧においてもソ連に対抗する軍備強化の議論が高まり、とくに西ドイツの再軍備が中心的な争点となった。西ドイツ内部ではキリスト教民主同盟の党首アデナウアー首相在任一九四九〜六三年)が再軍備に応じて「西側」の一員としての立場を鮮明にし、それによって占領を早期に終結させ、主権の回復を図ろうと考えた。それに対して社会民主党は、従来からの反軍国主義の立場に加えて、再軍備による「西側」傾斜がドイツの再統一をいっそう困難にすると考え、再軍備に反対した。しかし、ドイツ内部では、結局、アデナウアーの路線が多数を占めたものの、ドイツの再軍備に対しては近隣諸国、とくにフランスが強い難色を示し、合衆国の西独再軍備論と対立することになった。

その結果、フランス政府は五〇年十月になって、妥協案として西ドイツ軍を西欧統合軍の一部とする案を提案した。この案は、当時のフランス首相の名をとって「プレヴァン・プラン」と呼ばれ、翌五一年七月には「ヨーロッパ防衛共同体(EDC)」構想に結実していった。他方、西ドイツの西側への軍事統合の検討が進むのと並行して、西ドイツ政府は占領の早期終結を強く要求した。その結果、五二年五月末に、占領の終結を規定した一般条約が、EDC条約とともに調印された。

このような西ドイツの西側傾斜に対して危機感を募らせたスターリンは、五二年三月に、西ドイツ側の主張にかなり歩み寄った形でドイツ再統一のための交渉を提案したが、アデナウアーはあくまで西側の一員としての西ドイツ復興の路線に固執して、スターリン提案を拒否した。そのため、以後、ソ連側はドイツの分断を前提としたドイツ政策を推進するようになった。

つまり、アデナウアーとしては、当面、ドイツの再統一よりも西側との同盟を優先させたのであったが、フランスの側ではドイツへの懸念が晴れず、EDC条約は肝心のフランス議会において五四年八月に批准が拒否されてしまった。経済統合は「石炭鉄鋼共同体」として進展していたものの、軍事力の統合にはなお抵抗感が強かったのであった。そのため、次善の策として、ブリュッセル条約を改正し、西欧同盟を結成して西ドイツを加盟させるとともに、NATOにも西ドイツを加入させることが決定された。五五年五月に発効したパリ条約にその旨規定され、この条約によって西ドイツは長年の占領状態に終止符を打つことができた。

朝鮮戦争と対日講和

日本に対しても朝鮮戦争は大きな衝撃を与えた。まず、マッカーサーは、五〇年七月初め、在日米軍四個師団を南朝鮮に派遣する穴埋めとして、七万五〇〇〇人規模の警察予備隊を創設することを日本政府に命令した。吉田首相(第一次在任一九四六〜四七年、第二~五次在任四八~五四年)は、憲法九条との関連が国会で問題となるのを避けるため、八月十日にポツダム政令の形で警察予備隊の設置を決定し、ここに日本の再軍備が始まった。

また、マッカーサー司令部は朝鮮戦争の勃発を機に、共産党への規制を強め、機関紙の停止や政府・民間企業での「レッド・パージ」を強行し、十一月末までに約一万二〇〇〇人が解雇された。

さらに、合衆国政府の内部では、日本を西側陣営に確保するため、対日講和を急ぐ意見が強まった。しかし、逆に軍部の側では、朝鮮戦争の勃発でむしろ在日米軍基地の重要性が高まったため、講和延期論も強く、妥協の結果、五〇年九月、トルーマンは沖縄を本土から分離し、本土の米軍基地を確保できる形での対日講和条約の締結を提唱した。この方針に基づいて対日講和条約は、翌五一年九月にサンフランシスコで招集された講和会議で調印されたが、在日米軍基地を確保するための日米安全保障条約とセットになって調印されたため、ソ連や東欧諸国は調印を拒否した。また、中国代表権問題で米英が対立したことから、日本による戦争被害をもっとも多く受けた中国は招請されなかったし、賠償放棄を打ち出した合衆国側の方針に東南アジア諸国は強い不満を表明したため、対日講和は「片面講和」と呼ばれるように、米ソ冷戦の影響を色濃く受けるものとなった。

同時に、朝鮮戦争は日本経済の復興にも大きな影響を与えた。それは、トルーマン政権が日本経済の安定化のために特命公使として派遣した、当時デトロイト銀行頭取であったドッジの指導により四九年四月いらい導入された超緊縮予算のために、不況に喘いでいた日本経済に復興への手がかりを与えたからであった。つまり、「朝鮮特需」と呼ばれた米軍の軍需が繊維、自動車、石炭などの部門を中心として急増したためであり、吉田政権や財界の首脳は朝鮮戦争を「天佑」と歓迎したといわれる。以後、日本では経済復興が軌道に乗っていくが、内需の拡大だけでは限界があり、輸出市場を確保することが持続的な経済成長を実現するうえで重要な条件となっていた。しかし、戦前期には中心的な比重を占めていた対中国貿易については、合衆国の中国敵視政策に規制されて大きな伸びは期待できなかった。むしろ合衆国は対外援助をテコとして日本と東南アジアの経済的結合を推進しようとしたが、当時の東南アジアではまだイギリスの影響が強かったため、合衆国としては「日米経済協力」の名の下に自国市場に多くの日本製品を輸入する構造を許容していった。これが後に「日米経済摩擦」の原因となってゆく。

 イスラムの女性 家族に縛られている存在 戦場に行く男中心の社会 から生まれたアイディア 火星から離脱することで生まれる エネルギー
 バス停で思うこと 豊田市に向かう車が山ほどいるにもかからずバスという媒体をまず 共有すればいい
 政党は保守とか革新とかではない 国民に対する態度でサービスするか支配するか 個の有限にサービスする組織
 サービスストア 共有する仕組みを作り出すこと 移動を欲する人には全ての手段を用いる
 やっと席が空いた
 とりあえず『世界の歴史』 8巻 を追加


 豊田市図書館の11冊
209.74『第二次世界大戦1』湧き起こる戦雲
209ア『岩波講座 世界歴史11』構造化される世界 一四~一九世紀
134.9『マルクス・ガブリエルの哲学』ポスト現代思想の射程
209 『世界の歴史①』人類の起原と古代オリエント
209『世界の歴史④』オリエント世界の発展
209『世界の歴史⑩』西ヨーロッパ世界の形成
209『世界の歴史㉔』アフリカの民族と社会
209『世界の歴史㉕』アジアと欧米社会
209『世界の歴史㉖』世界大戦と現代文化の開幕
209『世界の歴史㉘』第二次世界大戦から米ソ対立へ
209『世界の歴史③』古代インドの文明と社会

『世界の歴史㉖』

2023年09月28日 | 4.歴史
 209『世界の歴史㉖』

世界大戦と現代文化の開幕

ナチ党の台頭

二三年のヒトラー一揆で嘲笑まじりの注目を一時的に集めたものの、その後は騒々しい泡沫政党にすぎなかったナチ党が、三〇年九月選挙以来わずか三年で政治的選択肢の一つにのし上がったのはなぜだろう。近年の研究成果をまとめて、ナチ党の展開を見てみよう。

これまでナチ党、ナチスと書いてきたが、実はこの言い方はナチ党の政敵、社会主義者がナチ党を侮蔑的によんだ言葉に由来し、ナチス自身はけっして使わない呼称であった。かれらは国民社会主義ドイツ労働者党と長い党名をそのまま使うか、略称のNSDAPを使った。本書ではすでに定着しているナチ党、ナチスで統一する。

成立から権力獲得までのナチ党の展開は、共和国と同じく、三期に分けられる。というより、三つのナチ党があったといったほうがよいかもしれない。

軍事組織から政党へ

一九一九年、ミュンヘンで創設されたドイツ労働者党を前身として、二〇年にナチ党が成立した。このころのナチ党は当時数多くあった右翼組織、反ユダヤ主義団体の一つにすぎず、党といっても選挙に出るわけでもなく、地方宣伝団体の域を出なかった。しかし、他の右翼組織は指導者間の対立で離合集散がはげしく、また右翼団体同士の連合をめざしたのに対し、ナチ党の場合、二一年に党の全権をにぎったヒトラーのもとにまとまり、大衆への直接的働きかけを重視したことに特色があった。ヒトラーの弁舌の才はこの大衆への影響という点で不可欠であり、定職もなく家族もいないという孤独な境遇が、かえって党活動に専念できる長所になり、かれを指導者に押し上げたのである。

このころの右翼運動と同じく、ナチ党も軍や保守派政治家の指導のもとに、クーデタによる共和国打倒をめざしていたから、この段階では疑似軍事団体という性格が強かった。二三年秋、保守派の独裁計画が進まないのをみて、ヒトラーはそれを先導しようとして、十一月ミュンヘンで武装蜂起を企てて失敗した。ヒトラーは逮捕されて裁判にかけられたが、寛大な判決を受けた。ヒトラーが『我が闘争』を口述筆記させたのが獄中であったとは、かれが特別扱いされたことをよく物語っている。これが第一期ナチ党の終焉であった。

二五年のナチ党再建から第二期が始まる。ヒトラーは保守派に頼ることをやめ、武装蜂起ではなく、選挙による合法的権力奪取に方針を変えた。ナチ党ははじめて政党らしくり、突撃隊も政治宣伝・選挙活動組織に変わった。右翼団体、疑似軍事組織の多くは、安定期でのこの転換に失敗して消滅し、ナチ党はそのメンバーの多くを吸収することができた。

ナチ党は地方政党を脱して全国に組織を広げ、大衆宣伝方法に習熟し、二八年には党員は一〇万を超え、中堅活動家層の育成に成功した。この段階のナチ党は党員の自発的活動に支えられ、経済界の資金援助は問題になる規模ではなかった。保守的経営者には、「社会主義」「労働者」を掲げる党名や大衆志向が胡散臭く思われていた。

ナチ党が小勢力ながら持続できた背景には、この間の市民層の政治文化の変容があった。

「社会主義」のインフレ

大戦後、左翼陣営では、社会主義理念のインパクトが共産主義という新理念の出現で薄れたが、逆に右翼勢力の一部に「社会主義」がはやるようになった。あのシュペングラーも一九一九年に『プロイセン主義と社会主義』を出版した。シュペングラーはもちろん、マルクス主義的社会主義を考えていたのではない。かれの説ではマルクス主義は誤りで、ドイツ社会主義の真髄はプロイセンにあり、その創始者はなんとフリードリヒ大王なのである。かれの「社会主義」は、家柄・身分ではなく、能力・業績で選抜される指導者のもとに国民が結束し、経済が政治に従属する一種の兵営国家のことであった。

興味深いのは、かれの「社会主義」の内容より、現状を否定する新しい未来像を、社会主義という言葉で表現したことである。こうした「社会主義」者はシュペングラーだけではなかった。共和国・マルクス主義・帝制に反対する市民層出身の若い保守思想家に、「社会主義」はお気に入りのスローガンになり、かれらの論文や著作で「社会主義」はインフレ気味に多用された。こうした思想は、「保守革命論」とか「革命的保守主義」とかよばれている。あるべきドイツをめざすには、現状の革命的転換が必要で、そのためには労働者の統合が不可欠である、という認識が、「社会主義」をキーワードにさせたのである。右翼運動や市民層には、用語としての「社会主義」へのアレルギーが少なくなった。

政治文化としてのテロ

西欧諸国をのぞいて、ドイツ、イタリア、東欧諸国などでは、左翼の革命運動に対抗し、それ。出するために、市民層は旧軍人などを集めて反革命武装組織をつくった。ドイツでは、革命のなかで設置された義勇軍や自警団がそれにあたる。政府や軍はヴェルサイユ条約による軍備制限で正規軍が一〇万に限定されたため、いざというときの予備軍として、義勇軍解散後も民間の疑似軍事組織を容認した。

軍事組織やかれらがおこなうテロ行為が市民社会のなかにもちこまれた。ローザ・ルクセンブルクの虐殺から、エルツベルガー、ラーテナウの暗殺、右翼団体内の「裏切り者」の処刑(中世の秘密裁判にちなんでフェーメ殺人とよばれた)、ヒトラー一揆まで、テロは続いた。これを批判する人びとも少なくなかったが、訴追された犯人の多くは市民層出身の裁判官の寛大な判決を受けるか、当局の黙認のもとに逃亡した。これは左翼の蜂起やデモへのきびしい判決ときわだった対照をなしていた。

二四年から、個人テロは少なくなったが、政治行動のなかで疑似軍事組織が演じる役割はかえって増大した。統一的制服、独特のシンボル、軍事的規律で政敵を威圧する疑似軍事的政治団体の行進は、ワイマール・ドイツの日常の光景になった。政敵へのテロの黙認から政治行動の軍事化は、ワイマールの政治文化の暗い構成部分になっていたのである。

大衆政党への上昇

ナチ党は、この間党名通り都市を中心に労働者を獲得する戦術をとった。それが成功しなかったことは二八年選挙での後退が示した。ところが、二九年末のプロイセン州の統一地方選挙では、ナチスがあまり力を入れていなかった農業不況に苦しむ農村部、たとえば北部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン地方で思いがけない高い支持があり、全体として得票率は二八年選挙の二・五倍になった。

目を引くのはオスナブリュック市議会選挙の例である。ここでは、ある地方週刊紙編集者が仲間五人と語らって選挙綱領もなしに新党を結成して出馬したところ、七人分の当選票が集まり、一挙に第三党になった。既成政党や既成政治家への失望がいかに市民層のあいだに広がっていたか、それでも人びとはなお政治に救済を求め、新しい政党、強力な指導者に期待したかがここからうかがえる。ナチ党はこれを機に地方都市や農民への宣伝を強めた。

ナチ党は反ヤング案闘争で既成の保守党派からパートナーとして認められて知名度を上げ、バーデンやチューリンゲンの州選挙でもかなりの票を集めた。チューリンゲン州では初のナチ閣僚が出た。三〇年九月の国会選挙では、政府の事前予測でもナチ党は前回の一二議席から四〇議席程度は取るだろうと見ていた。ところが、実際は九倍増の一〇七議席であり、ヒトラー自身も驚いたといわれる。ナチスの宣伝活動がすぐれていたことはたしかだが、現状不満票が向こうから押しかけてきたという面も無視できない。ここからナチ党の第三期が始まる。

ナチスの支持者

ところで、ナチスの支持者はどんな人びとだったのだろう。時期によってもちがうが、一般党員と投票者に焦点を当ててみよう。これまでは中小自営業者や商店員、中下級事務系職員・公務員・農民などの中間層がナチス最近の新しい研究はの基盤といわれてきた。これを否定はしていないが、いくつかの点で修正している。

一般党員については、中間層出身者が国民に占める比率をはるかに上回ることは確かめられているが、労働者も三分の一以上を占め、しかも非熟練労働者や失業者ではなく、熟練・専門労働者が多い。

社会的上層出身者も案外多く、これは教養市民層に属する学生のナチ支持者が多かったことからきている。大学はナチスがもっとも早く制覇した領域であったからである。

投票者についても、それまで棄権していた者、また、あらたに選挙権を得た者からの支持投票がかなりあり、中間層の支持も大きいが、これまでの推測以上に国民各層から広く票を集めていた。地域的には、プロテスタント系の農村部・地方中小都市で大量票を得た。新規投票者は青年にほかならないから、「青年の反乱」と「地方の逆襲」がナチ党に有利に働いたといえる。得票では国民政党的性格をもつとはいえ、ナチ党を国民政党とはいえない。ナチ投票者は流動的で、ナチ党は投票者を党につなぎ止め、統合できなかったのである。

このことは突撃隊の動向からも確かめられる。突撃隊では「半年も隊員を続ければ、もうベテランになった」ほど出入りがはげしかった。突撃隊員は圧倒的に青年が主体で、失業者の比率が非常に高かった。したがって、突撃隊員はナチ党員になる時間も金もない者も多く(党員は別に党費を支払わなければならない)、党員が一人もいない突撃隊支部もあったという。興味深いのは、「失業労働者は共産党からナチ党に移動することが多かった」、つまり「両極端は相通ず」といわれたことがまちがいであったことである。最近の詳細な選挙分析研究は、失業労働者の共産党支持はかなり安定していて、ナチ党への移動は非常に少ないことを明らかにした。またナチスは、組織労働者層やカトリック地域には、最後までくいこめなかった。

ナチ党支持の理由

人びとのナチ党支持の理由を知るのは、支持者の分析よりむずかしい。政治的失望と経済的絶望による終末ムードの広がりと未知数の政党としてのナチ党が、消極的ではあれ一つの理由であったことはたしかであろう。同時代人の記録からは、ナチ党の宣伝活動の活発さが強い印象を与えたことがわかる。既成政党が選挙期間中にせいぜい一、二回集会を開く程度の村や町でも、ナチ党の宣伝隊列は何度も訪れたし、青年が多かったことも運動の若々しさを感じさせた。恐慌下で生活はすさび、三二年には家を失った放浪者が四〇万人と推定されるなかで、突撃隊の暴力も熱意のあらわれとみなされた。

ナチ党のイデオロギーは、ラディカルな現状否定、すべての職業が救済される民族共同体建設という目標以外は、スローガンの羅列で内容がほとんどなかったから、それが大きなインパクトを与えたとは考えにくい。支持基盤の不安定性も、間接的にそれを裏づけている。突撃隊でも、失業者はイデオロギーに惹かれたというより、日常生活では得られない仲間や交流の場、あるいは行動の機会を求めて参加した者が少なくなかった。後に悲惨な結果をもたらした反ユダヤ主義も党の中核メンバーには重要であったが、選挙戦ではあまり強調されず、支持の大きな理由でもなかった。

ヒトラー個人の影響も判定しにくい問題である。ヒトラーは、二〇年代後半、ドイツ最大のプロイセン州などで野外演説を禁止され、解禁後もヒトラー演説会の聴衆はナチ党員が主であった。ヒトラーの存在は党員の結束には大きな意味があったが、普通の選挙民が直接かれを見聞する機会は多くなく、かれのラジオ演説も一九三三三年までは一度もなかった。その意味でかれの個人的「魅力」や演説能力も、選挙でのナチ党拡大の要因としては重視できない。ただ、他の政党では党指導者個人を前面に立てる選挙活動をあまりやらなかったが、ナチ党はヒトラーの党、ヒトラーの運動であることを強調したから、それが強力な政治指導者を願望する選挙民にアピールしたことは考えられる。

大統領内閣の行き詰まり

バーペンは、ブリューニングがテロ続発に耐えかねて出した突撃隊禁止令を解除し、チスの暗黙の了解をとりつけ、社会政策費の削減、社会民主党の最後の拠点プロイセン州政府の罷免など、ワイマール体制の主柱を次々と打ち壊した。七月末の選挙では、ナチ党は予想通り第一党になり、反共和国勢力は過半数を超えたが、政府を支持する党派は国会の五パーセントもなかった。

パーペン、大統領ともヒトラーを首相にする気はなく、一方、ヒトラーは首相職を要求して譲らなかったから、ナチ党は政府との対決路線に戻った。パーペンは開会したばかりの国会をすぐに解散するという暴挙に出て、三二年は全ドイツで選挙づけの年になった。選挙の結果は、政府に何の展望ももたらさなかったが、ナチ党ははじめて二〇〇万票を失って後退した。すでにそれ以前から、ナチ党内部でヒトラーの「すべてか無か」の方針には危惧感が生まれていた。選挙後のナチ党内部文書も、支持基盤の流動性を指摘し、政権

に参加して積極的な成果を示さなければ、また二〇年代の中核党員だけの運動に逆戻りする、と警告した。

一方、パーペンには、もはや軍を頼りにした大統領独裁の道しか残されていなかった。軍の黒幕で国防相のシュライヒャーが協力を拒否すると、大統領もお気に入りのパーペンを辞任させるしかなく、ついに黒幕がみずから表舞台に出てきた。シュライヒャー新首相は、ナチ党内の動揺を見越してナチ党議員団長シュトラッサーを抱きこみ、社会民主党系の労働組合も引きいれて、大衆的軍事独裁路線を構想した。シュトラッサーは乗り気だったが、ヒトラーは頑として譲らず、シュトラッサーは全役職を辞任して去った。この事件で、ナチ党はやはりヒトラーの党であることが証明された。こうなっては、シュライヒャーもなすすべがなかった。

パーペンはこの間シュライヒャーに一泡吹かせる機会をうかがい、ヒトラーとひそかに接触し、ヒトラー政権に逡巡する大統領の説得に成功した。一九三三年一月末、大統領内閣路線が破綻し、国会の出番がきたとき、第一党として待機していたのはナチ党であった。保守派の陰謀は皮肉にも国会への復帰をもたらしたが、それは議会主義そのものの終焉となったのである。

一国社会主義路線の確立

スターリンとトロツキー

ソ連邦結成直前の二二年十二月、レーニンは病をおして口述筆記させた「大会への手紙」のなかで、ロシア共産党の分裂を招きかねない危険な要素として、スターリンとトロツキーとの対立をあげている。スターリンはこの年の四月に党の書記長に就任しており、党のすべてのポストを掌握できる書記長の地位を利用して党組織に影響力を拡大し、多大な権力を振るうようになっていた。理論的には、社会主義は一国でも建設可能だとする一国社会主義論を唱えるスターリン、ブハーリンと、世界革命論を唱えるトロツキー、ジノヴィエフを対立軸として、ロシア共産党内の主導権争いが展開された。

二二年末、スターリンは同じく、党の最高の政策決定機関である政治局員のジノヴィエフ、カーメネフと「トロイカ(三頭立ての馬車)」体制を組み、党員のあいだに強い影響力を保持していたトロツキーに対抗した。「トロイカ」は二三年四月に開催された第十二回党大会を乗り切ったが、この年の夏には、トロツキーが指摘した「鋏状価格差」(工業製品が高く、農産物が安くなること)が拡大し、経済恐慌が生じた。農業生産の回復が早かったことに加え、政府の穀物買い上げ価格が低かったのに対して、工業の復興は遅れ、流通のマージンが高かったため、工業製品価格が上昇したのである。

工業製品の売れ行きが落ち、労働者への賃金支払いは滞りがちになった。労働者は不満を募らせたが、労働組合はこうした不満を等閑視しつづけた。党指導部に対する党員の不満も強まった。政治局内で孤立していたトロツキーはこうした不満を背景として、党の経済政策や党内行政を批判し、党内民主主義を求めた。しかし、トロツキーの要求は党の秩序を破壊する行為として、二四年一月の党協議会で否決された。

レーニンの死後に開かれたこの党協議会では、トロツキーの批判をかわす目的も含め、従来の厳格な入党資格をゆるめ、二二年の時点で六五万人しかいなかった党員を拡大する方針が決められた。この結果、現場の労働者が数多く入党することになり、大衆政党への転換がなされた。

しかし、農村社会の組織化はほとんどできていなかった。二四年十月の党中央委員会総会で、農村ソヴィエトへのてこ入れが提起された。当時、人口の八〇パーセント、一億二〇◯◯万人が農村社会に住んでいたが、二二年の調査では、党員数はそのうちのわずか〇一三パーセントにすぎなかった。しかも、党員の大部分は村の教師や医者、農業技術者、農村ソヴィエトの役人であった。農民はソヴィエトに統合されることなく、相変わらず伝統的なミール共同体を基盤として生活を送っていたのである。

スターリンの台頭

党員が拡大し、スターリンは新党員に影響力を強める一方で、反トロツキー・キャンペ―ンが続けられた。二四年十月、トロツキーは論文集『十月の教訓』を出版し、このなかでジノヴィエフやカーメネフが十月革命の直前に武装蜂起に反対したことを暴露した。これに反発したジノヴィエフはトロツキー攻撃の先頭に立ち、トロツキーを政治局から追放することを要求した。二五年一月、トロツキーは政治局員にはとどまったが、軍事人民委員を辞任せざるをえなかった。トロツキーの政治的影響力は大幅に減少した。

反トロツキー・キャンペーンの嵐がおさまると、今度は、二五年五月にスターリンがはじめて公言した一国社会主義論の是非をめぐって、理論家として知られるブハーリンの支持を受けたスターリンと、一国社会主義は不可能だとするレニングラード・ソヴィエト議長のジノヴィエフ、カーメネフらとの対立が表面化した。この対立は、一国社会主義論がはじめて明確化された二五年十二月の第十四回党大会から二七年十二月の第十五回党大会まで継続した。

結局、二七年十一月に、トロツキーとジノヴィエフは党を除名され、翌月の党大会で論争に決着がつけられた。党大会の時点で、党員数は一二四万人であり、二二年とくらべると二倍に増えていた。にもかかわらず、この大会に出席した約一七〇〇人の代表者のうち、反対派は一人もいなくなってしまう。スターリンによれば、このように「一枚岩」となった党が、プロレタリア独裁を実現する。党の指令は絶対であり、労働組合や協同組合などの大衆組織によって伝達され、実行されることになる。農村社会をのぞき、上意下達の一党国家体制がほぼ完成されたのである。

ソ連とヨーロッパ諸国

内戦が終息し、新経済政策が導入された二一年は、ソ連の対外関係にとっても重要な年であった。ソヴィエト政権は荒廃した経済の再建のために、対外関係の改善を求めていた。ヨーロッパ諸国のなかでは、イギリスがロシアをできるだけ早く資本主義経済圏に引き入れ、戦後の経済復興をはかろうとしていた。両者の利害関係が一致して、正式の国家承認はともなわなかったものの、二一年三月に英ソ通商協定が結ばれた。これに対して、アメリカやフランスはソ連政府に革命前の債務の支払いなどを要求して、通商関係を開こうとしなかった。

二二年四月から五月にかけて、戦後復興の経済問題を協議するために、アメリカは出席しなかったが、「ロシア連邦共和国」と敗戦国ドイツを含めたヨーロッパ諸国の国際会議がイタリアのジェノヴァで開催された。この会議に出席していたヨーロッパ諸国の代表は、ボリシェヴィキ政権の代表がどのような服装で会議に出席するか興味津々であった。レーニンの代理で代表団を率いたチェチェーリンは、シルクハットに白手袋といった伝統的な外交官の服装であらわれたので、参加者一同胸をなで下ろした。

会議では、ボリシェヴィキ政権に対するフランスの強硬な姿勢が目立ち、交渉は実りなく終わった。しかし、チェチェーリンは会議期間中に、同じく賠償問題で苦しんでいたドイツ代表とジェノヴァ近郊の保養地ラパロでひそかに会談し、相互に賠償を放棄する内容のラパロ条約を締結して外交関係を開き、世界を驚かせた。もっとも、両国は一九年からすでに軍事協力の交渉を始めており、秘密の軍事協力関係はヒトラーが政権についた三三年まで継続した。ヴェルサイユ条約によって再軍備を禁止されていたドイツは、ロシアで新兵器の開発や生産を進めようとした。一方、ロシアはドイツから軍事技術を学び、軍需産業の建設を援助してもらおうとしたのである。

奥さんへの買い物依頼
卵パック       148
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ベーコンブロック         298
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カップヌードルカレー    148
すし 499

『世界の歴史㉔』

2023年09月27日 | 4.歴史
 209『世界の歴史㉔』

アフリカの民族と社会

人類の誕生と〝砂漠化”

大地溝帯の形成――繰り返される地殻変動

アフリカ大陸には、三六億年間にもわたる歴史が秘められている、という。地質学者は、アフリカ大陸を踏査することによって、地球の長い歴史を解読しようとしている。アフリカ大陸としての大地の歴史は、一般に約三~一億年前(古生代後期から中生代半ば)に、巨大大陸として南半球に存在したゴンドワナ大陸にはじまる、とされている。

その後、じつに長い歴史過程で数々の地殻変動が繰り返され、しだいに現在私たちがみるようなアフリカ大陸が形成されていく。そのひとつのピークが四〇〇〇万年前に形成されはじめた紅海地溝帯である。それより南に位置するケニアのグレゴリー地溝帯地域では大地溝帯の形成はかなり遅れ、中新世前期・中期(二三〇〇万~一四〇〇万年前)になってトゥルカナ沈降溝が形成され、玄武岩の流出がはじまった。この地域では、活発な火山活動が繰り返されながらも、東アフリカでは中新世(二三三〇万~五二〇万年前)から第四紀(一六四万年前以降)にかけて、火山活動の中心地は西から東に移っていった。一方アフリカ北東部では、鮮新世(五二〇~一六四万年前)になってから現在のように紅海がアデン湾を経て、インド洋につながった。

このように、東アフリカ大地溝帯は、フリカ大陸とアラビア半島とを引き裂く運動によって形成されたものと解釈されている。四〇〇〇万年前にはじまった活動はいまなお続き、活発な火山活動がおこっている。

二足歩行のサル

こうしたアフリカ地溝帯の、とりわけ東部地溝帯を中心とする地殻変動が繰り返されるなかで、人類は誕生し、進化してきたのである。最近のDNA研究によって、現生類人猿とヒトの比較がすすみ、ヒトとチンパンジーが分岐したのは、四〇〇〜六〇〇万年前と推定されるようになった。それを跡づけるように、一九九二年T・ホワイト、諏訪元、B・アスフォオらの主宰する調査隊によって、四四〇万年前の猿人がエティオピア北東部のアラミス遺跡で発見された。一九九五年になって同調査隊のホワイトは、一九九四年その新発見のヒト科の一種として公表したアウストラロピテクス・ラミダスの化石を、アルディピテクス・ラミダスと改名した。その理由として、その猿人は二足歩行であるが、初期人類というよりチンパンジーに似ている歯の化石を追加発見したためである。アルディピテクスというのは、「地上のサル」という意味である。

同じ時期に、ケニア国立博物館のミーブ・リーキーらのグループは、二足歩行であるがやはり類人猿に似た歯をもつアウストラロピテクス・アナメンシスと名づけた新種の化石の公表をした。アナメンシスやラミダスが、ともに四〇〇万年以上も前に東アフリカの森や林にすんでいたことはたいへん重要である。

家族の原型をもつ猿人

東アフリカの地溝帯を中心として、多くの化石が発見されているアウストラロピテクスは、サバンナに適応していった二足歩行の猿人として位置づけられ、オスとメスのペアである家族の原型をもっていたもの、と諏訪は推定している。その代表的な例が、アファール猿人である。アウストラロピテクスが生息していたのは、約四〇〇万~一〇〇万年の間のじつに長い期間にわたる。歴史上最初に発見されたのは、南アフリカのタウングである。それは、レイモンド・ダートによってアウストラロピテクス・アフリカヌス(アフリカの南のサル)と命名され、人類の仲間ヒト科として系統的に位置づけられた。

その後南アフリカを中心にこの種の猿人の化石がつぎつぎと発見され、一九五〇年代になってしだいに東アフリカにおける発掘がさかんになった。一九七四年にはエティオピア北東部のハダール遺跡で、ドナルド・ジョハンソンらによって、三〇〇万年以上も前のト科の化石としてほぼ完全な女性の骨格が発見され、「ルーシー」と命名された。

中新世後期から鮮新世の初め約一〇〇〇万~四〇〇万年前)の時期は、化石の空白期間になっているが、およそ九五〇万年前と推定される化石サンブル・ホミノイドがケニアの北部で石田英実が発見している。ヒト科の直接の祖先かどうかまだわからないが、中新世前・中期のアフリカ類人猿とアファール猿人をつなぐ化石がヒト科の起原研究にはどうしても必要になってくる。

いずれにしても、初期人類は、森林からより開けた草原へと進出し、二五〇万年前以降は、地球規模の気候変化とともに季節性の強くなったサバンナの環境に適応していった。

ヒト(ホモ)属の出現と拡散

約一八〇万年前のタンザニアのオルドヴァイ峡谷で発見された人類頭蓋の破片は、アウストラロピテクスより大きい脳容量をもち、ルイス・リーキーなどによってホモ・ハビリスと命名された。約二〇〇万~一六〇万年前にわたって生息していたものと資料から推定される。最初のヒト属の出現である。

エティオピアのゴナ川遺跡の出土品から、最古の石器製作の年代が二六〇万年から二五〇万年前にまでさかのぼることがわかった。どんな人類の集団がゴナで数千個もの石器を製作していたのかわからないが、ヒト属の集団、あるいはアウストラロピテクス属のパラントロプス集団という二つの候補が考えられている。それらの石器は、のちの更新世前期のオルドヴァイの石器に酷似しているので、オルドヴァイ文化に位置づけられている。このことは、オルドヴァイ複合文化が、二六〇万~一五〇万年前の期間にあたる鮮新世更新世の時代のさまざまな集団に広がっていたことを意味している。

約一八〇万年前には、ハビリスよりさらに脳容量が大きい人類ホモ・エレクトス(原人)が登場する。この人類は、アフリカで約一〇〇万年間存続し、ハンドアックスという高度な道具を製作し、火の使用を始め、猿人の二倍にもおよぶ脳容量をもつにいたった。一方、完全な直立二足歩行となり、約一〇〇万年前に人類は初めてアフリカ大陸の外へと移動していった。

ホモ・エレクトスは、その後各地域で独自の道を歩み、四〇万~二五万年前に新たな形態へと進化していった。現生種ホモ・サピエンスの誕生である。しかし、ネアンデルタール人(旧人)と現代型サピエンス(新人)がどのような関係にあり、どのように進化していったのか、まだ不明な点が多い。アフリカ単一起原説にもとづくなら、およそ一五万~一〇万年前にアフリカ大陸からレヴァント地域をへて、少なくとも一万二五〇〇年前には南米にまで広がっていったことになる。

年ごとに新しい遺跡が発見され、現生人類にいたる進化の道と拡散のルートは、しだいに明らかになっていく。現生人類の誕生に関する研究は、二十一世紀における化石人類学の課題である。しかし、アフリカ大陸が人類の誕生と進化の揺籃の地であったことはまちがいない。

気候変動・人為圧と“砂漠化〟

アフリカ大陸において砂漠化がいつ、どのようにはじまり、今後それがどのように継続していくのか。この問いかけは、アフリカに住む人びとにとってのみならず、二十一世紀における地球環境問題と食糧問題に直にかかわってくることである。

世界で最大の乾燥地帯であるサハラ砂漠では、砂砂漠はその約一四パーセントにすぎず、岩や礫でおおわれた台地が広い面積を占めている。もうひとつの砂漠地域は、南西アフリカ海岸のナミブ砂漠にみられる砂丘である。アフリカ大陸のおよそ六三パーセントを占めているのは、サバンナとステップである。雨がほとんど降らない乾燥した月数が二・五〜七・五ヵ月にわたり、イネ科草本が広がる大地に、雨の量におうじてアカシアなどの灌木・高木がでてくる。人類が誕生し進化していったのは、北東アフリカから南部アフリカにつらなる大地溝帯のサバンナである。いくつかの重要な作物が栽培化され、数々の王国が誕生したのは、おもにこのサバンナ地帯である。

熱帯多雨林は、おもにコンゴ盆地の赤道地帯と西アフリカ・ギニア湾岸に広がっている。

年間降水量は、約一三五〇ミリ以上、乾燥期間が二・五ヵ月以下の湿潤な地域を占めている。いずれの森林においても、四〇~五〇メートルに達する高木が最上層にみられる。ピグミーとよばれる狩猟採集民のほか、焼畑に依存しているバントゥー系の人が―系の人びとがおもにすんでいる。近年、人口増加と現金経済にまきこまれた市場圧によって、休閑期間の短い焼畑耕作が盛んになり、焼畑による森林の減少が指摘されるようになった。東部や南部アフリカの高山地帯では、かつては針葉樹を中心にした森林がみられたが、この一〇〇年の間にほとんど消滅してしまった。

西アフリカの熱帯林では、過去一〇〇年間にコートジボワールの九〇パーセントを筆頭に、各国平均して数十パーセント以上の森林が消滅している。そして、エティオピアにおける森林の残存率は、いまや国土全体の三パーセントになってしまっている。さらに、中部アフリカをのぞいた熱帯雨林地帯コートジボワールやナイジェリアでは、わずかに残っている森林が毎年一五パーセント前後という速さで破壊されている、という。こうした森林面積の激減によって、強雨による土壌の浸食にともない、土地のいちじるしい荒廃をもたらすばかりでなく、川の水の流れが不安定になってしまう。このことは、結果的に大陸の保水力を奪い、土地の生産力や人びとの住み場を脆弱にしていくことになる。(口絵参照)

“砂漠化〟とは

こうした近年にみられる森林破壊のほとんどは、明らかに人間の活動によってもたらされるものである。過放牧や過耕地などの人為圧も否定できないが、もっとも大きい要因は薪炭材や建築材としての伐採があげられる。人びとが町や都市に集中し、その周辺地域をはじめとする森林はまたたくまに破壊されていく。伐採したのち、しばらく放っておくと、強雨によって表土が流され、植物の再生が困難になってくる。アフリカのほとんどの地域では、伐採したのちに植林するといった法律や慣習が国家レベルのみならず村落レベルでも、これまでほとんどみられなかった。

むろん年降水量の変化による影響も大きい。たとえば、年降水量が平年の三〇~四〇パ―セントにまで落ち込んだ一九七二年と一九八四年には、おびただしい数の人間と家畜が犠牲になり、多くの環境難民を生んだ。折も折、地球環境問題として“砂漠化〟がとりあげられ、国際社会の注目を集めることになった。しかし、“砂漠化〟は、自然圧によるものなのか、それとも人為圧によるものなのか、という議論はさておくにしても、少なくとも人為圧にたいして評価されるような防御策がこれまでほとんどほどこされていないのが、現状である。

アフリカにおける気候は、地球全体の気候変動によるばかりではなく、チャド湖の水位などを復元することなどによって、かなり歴史的に追跡することができる。一万年レベルでみていくと、近いところではウルム氷期(七万~一万年前)に求められる。ウルム氷期がはじまると、地球全体の気温はしだいに低下し、大気中の水蒸気が雨になりやすく、湿潤な気候がつづく。ところが、氷期の最盛期である寒冷の状態になってしまうと、気温は低くなりすぎ、地上からの蒸発量は激減してしまう。すると、大気中の水分は極端に減少するので、乾燥気候がつづくようになる、という。

このようにウルム氷期の寒冷期(二万~一万二〇〇〇年前)には、緑の大地は砂漠化して、サハラ砂漠は、現在よりもかなり南に拡大していた。いまよりはるかにきびしい“砂漠化〟をむかえていたのである。ところが、その寒冷期をすぎ後氷期になると、気温がしだいに上昇していくにつれ、水の蒸発量もふえて、ふたたび湿潤期にはいる。約一万一〇〇〇年前ぐらいから、人びとはサハラにもどり、現在より多い降水量で豊かなサハラ時代を形成していた。とりわけ湿潤のピークは、一万~八〇〇〇年前と七〇〇〇~五〇〇〇年前の二回にわたって認められる。一万~八〇〇〇年前には、チャド湖の水位は、現在よりも四〇メートル以上も上昇した。このころ、いまのサハラ砂漠地帯は、緑あふれたステップやサバンナ的景観をなし、さまざまな野生動物が群がり、広い地域に人びとが住み、旧石器文化が栄えた。

一万五〇〇年前ごろと同様、熱帯アフリカは七五〇〇年前ごろには短いがきびしい小乾燥期をむかえる。これまで栄えた漁撈や狩猟の文化は、いったん途絶えることになるが、約七〇〇〇~五〇○○年前には湿潤期がおとずれ、チャド湖の水位は四〇メートルほど上昇し、サハラにはふたたび緑がよみがえった。

初期の後氷期におけるサハラの狩猟民たちは、数々の豊かな岩壁画を残している。もっとも早い時期(約一万五〇〇年前)の岩壁画には、野生動物だけが描かれている。いまや消滅してしまった大型のアフリカ・アローやキリン、ゾウ、サイ、カバなどが彼らの絵の対象物になっていた。

約八〇〇〇年前ごろになると、野生動物やその狩猟シーンにかわって、家畜化されたウシがひんぱんに描かれるようになる。約四五〇〇年前ごろからしだいに乾燥してくると、岩壁画に描かれていた多くの種はしだいに少なくなり、約三五〇〇~一五〇〇年前にウマが、約二〇〇〇年前からラクダが主流になってくる。このことは、明確に乾燥化と対応しており、以後サハラ砂漠にいた人びとは、ナイル川やサハラ南部に移動していったものと考えられる。

地質学者の諏訪兼位によれば、「長期的スケールでみると、サハラ砂漠の南限は、地球的規模の気候変動と対応して、五〇〇~一〇〇〇キロのオーダーで南北移動している」という。なるほど、いまから約一万二〇〇〇年前や四五〇〇年前ごろには、現在よりはるかにきびしい乾燥期をむかえ、サハラ砂漠はかなり拡大していた。しかし、雨が降り湿潤になれば、緑豊かな大地に回復していたのである。つまり、可逆可能な潜在性をもつ大地であった。ところが、最近一〇〇年間の人為圧は、過去数千年の人類が自然に与えてきた影響とは比較することができないほど大きい。人為圧によって表土が浸食され、岩盤が露出した状態で、かりに今より降水量が多くなり、より湿潤になったところで、アフリカの自然はどれだけ回復力をそなえているのだろうか。アフリカ再生の可能性は、まさしくここに存在するように思われる。アフリカの人びとが一万年のレベルで築いてきた自然との共生が、外圧も含めてたかだかこの一〇〇年間でとりかえしのつかない自然との矛盾に直面していくように思われて仕方がない。

 私の世界の私の言葉は他者は理解不可能
 新しい商品の時になぜ理念を持てないのか 世界を変えるという理念 Google も Amazon も理念で勝負した

『世界の歴史⑱』

2023年09月26日 | 4.歴史
209『世界の歴史⑱』

ラテンアメリカ文明の興亡

キューバ革命

バティスタと真正キューバ革命党

一九三三年の反革命でキューバ政界の黒幕となった統合参謀本部長バティスタは、卓越した日和見政治家であり、キューバの社会経済はほかの中米・カリブ諸国とはモノが違から、ウビコ、ソモサ、トルヒーヨらの反動一辺倒政治ではどうにもならないことを重々承知していた。一九三五年のゼネストを血の弾圧でおさえこみ秩序を回復すると、バティスタは軍隊の組織と人員を使って農村教育など社会奉仕計画を実施する一方で、一九四〇年に新憲法下の大統領選挙をもって黒幕政治を清算する政治日程を決めた。まず、グラウを亡命先から帰国させ、その支持母体である真正キューバ革命党を率いて出馬することを許した。そして自分は、キューバ共産党を合法化して、傘下に全国労組連合を組織するのをも許し、これと連合を組んで立候補した。共産党は一九三三年にはグラウ政府を微温的として不支持にまわったのだが、その後コミンテルンが人民戦線戦術に転じたためにすっかり穏健化していたのである。

一九四〇年憲法はきわめて進歩的なもので、普通選挙、国民投票制度、最低賃金、ストライキ権、年金制度、労災保障を定めた。選挙結果は八〇万対五八万でバティスタがグラウを破った。大統領バティスタは、軍部をおさえ、共産党員を入閣させた。経済面も、戦時下だから物不足ではあったが砂糖はよく売れ好景気に恵まれた。

続く一九四四年の大統領選挙ではグラウが圧倒的勝利をおさめ、真正キューバ革命党は二期八年間にわたり政権を担当した。外貨準備は積み上がり、砂糖景気は戦後もしばらくは続いた。この経済の好調を背景に真正キューバ革命党が推進したポピュリズム政策は、しかし戯画のような様相を呈した。バティスタ時代に六万人だった公務員の数は労働力人口の一割を超える一八万人に達し、人件費は国家予算の八割を占めた。労働者の賃金は一九四〇年代に、名目で四倍、実質で一六倍になった。いかに砂糖輸出が好調でもこれではたまらない。インフレは昂進し、稼得外貨は隠れて外国に持ち出され、国内総生産に対する粗投資率は一割を下回った(中南米の普通の国は通例一割五分から二割、日本は三割)。政治家の不正利得スキャンダルが続発し、真正キューバ革命党それ自体が二つに割れてしまった。

一九五二年三月、軍部はクーデターを起こしてバティスタを推戴した。バティスタはその第二期政権では第一期とはうってかわった強権抑圧政治を行った。ひとつにはポピュリズム政策の原資が使い果たされてしまっていたためにほかに打つ手がなかったのである。だがこの間の経済成長により、一九五〇年代前半のキューバの一人あたり国民所得は中南米諸国のうちで産油国ベネズエラに次ぐ第二位につけていた。社会指標でも、平均寿命が五十九歳、幼児死亡率が一〇〇〇人あたり八二人(五九年に三五人)と、どちらもアルゼンチン、ウルグアイに次ぐ第三位であった。中間層・労働者に対しても経済力の許す限りの給付をすでにあてがっていた。ヴァルガスやペロンは、全体としてこれよりずいぶん貧弱な実績をもとでに、政治的求心力を生み出しうるポピュリスト政治体制を構築したのである。ところがバティスタも真正キューバ革命党もそれを達成できず、給付を受けたキューバ人は受け取った分だけさらに欲求を募らせるばかりだった。

ひとつには、比較にならないほど豊かなアメリカ社会がすぐ海峡の向こうに見えている、という事情がある。だがそれよりも重要なのは、キューバの政治的経験の不足だった。ポピュリズム政策を介して、給付のやりとりに徐々に制度的性格を与え、参入自由の多元政治下における公秩序の運用に予測可能性を高めることで多元政治体制そのものを強化してゆく素地が、指導者の側にも市民の側にもできていなかったのである。この政治的未成熟のために、ポピュリズムの破綻により他の中南米諸国もやがて直面することになる左翼革命か長期軍政かの二者択一に、キューバは極端に早い時点で逢着したのだった。

「七月二十六日運動」の決断

もちろん強権抑圧政治はこの極端に意識の高いキューバという国では通用しない。バティスタ第二期政権に対する中間層・労働者の不満は次第に募ってきた。玉砕に終わったがその果敢さで内外の耳目を集めた一九五三年七月二十六日のモンカダ兵営襲撃を政治資産に、一九五六年から島の山がちな東部でゲリラ活動を始めたカストロは、最初のうち数十人の部隊を率いて警察治安部隊の駐屯地を襲撃しているばかりだった。だが、そうやって田舎警察相手の小競り合いを繰り返すだけで、一九五八年に入ると敵の政権基盤が自然に崩れだした。味方は数千に増えて島の西部へあふれ、一九五九年一月にバティスタは亡命した。ゲリラ組織「七月二十六日運動」は国軍を解体して島の唯一の暴力装置となり、カストロ、弟ラウル、ゲバラらその幹部の手中に国の全権力がころがりこんだ。すべて、船が三十歳内外の若者たちである。

かれらは、はからずも手に入った絶対権力を保持したまま、キューバの社会経済の根本的変革を実現したかった。アメリカが唱えるように民主政治を通じてそれを実現することは、民主体制構築のためのポピュリスト政策の原資がもう砂糖経済から引き出せない以上、極度に困難である。仮にそれが可能であっても、「七月二十六日運動」に広範な基盤を与えて選挙に勝てる政党に変えたなら、この国の政治の過去の実績からして、真正キューバ革命党がそうなったと同じ腐敗堕落が待っているのではないか。いや、そもそも経済の基幹をなす砂糖生産の四割がアメリカ系資本の手中にあるのだから、根本的変革をめざす以上アメリカとの対決は避けられない。乾坤一擲、かれらは東側と手を結ぶ覚悟を決めた。

一九五九年五月に農地改革法が公布され、アメリカ企業所有の砂糖プランテーションの接収が始まり、六月に政府から穏健派が排除され始めると、早くも対米関係は緊張した。秋からキューバは民兵制度を整備する一方でソ連に関係強化の意向を伝え、六〇年二月にソ連副首相ミコヤンをむかえて二国間貿易援助協定を締結した。その年のうちにキューバはアメリカ人所有の全資産時価一○億ドル相当を接収し、アメリカはキューバ糖の輸入割り当てをゼロとした。六一年四月、CIAの支援のもとグアテマラとニカラグアで編成された亡命キューバ人一個旅団が、七年前のアルベンス潰しの再現をねらって祖国に上陸したが、キューバ正規軍と民兵の反撃を受けて二日後に撃退された(ピッグズ湾事件)。

東西冷戦の渦中で

一九六一年十二月、カストロがみずからマルクス・レーニン主義の信奉者であると宣言すると、六二年一月、米州機構はアメリカの提案を受けてキューバを除名し、二月、アメリカは若干の食糧・医薬品をのぞきキューバ相手のすべての貿易を国民に禁じた。七月に国防相ラウル・カストロがソ連を訪問し、おそらくこの時のとりきめにもとづき、ソ連はキューバに核運搬能力をもつ準中距離弾道ミサイル四二基を配備した。これを察知したアメリカ政府は、十月二十二日、海軍艦艇と軍用機で島を海上封鎖し、ミサイルの撤去と、将来にわたり戦略兵器をキューバに配備しない旨の約束を要求した。六日間の緊張のすえ、ソ連が譲歩してミサイルを撤去し、ひきかえに、キューバに侵攻しない旨の暗黙の約束をアメリカからとりつけた(いわゆる「キューバ危機」)。これはキューバにとって頭越しの合意だったから、対ソ関係は冷えこんだが、革命キューバが核戦略上の意義を失ったこの時

を境に、対米関係は敵対的共存のかたちで安定化したのである。

他方で国内政治体制の構築が着々と進んでいた。ラウル・カストロが国防相に就任したのは一九五九年十月であった。かれは国内統制のための民兵の編成から始めて、以後三〇年間にキューバ軍を世界的水準の戦闘集団に育て上げた(現在兵員数二七万で日本の自衛隊とほぼ同規模、ほかに一〇〇万余の民兵を動員できる)。五九年のうちにカストロは、「七月二十六日運動」内から旧共産党との提携に反対する勢力を排除し、全国学生組織と全国労組連合の執行部を自派で固めた。六〇年にはキューバ女性連盟(FMC)、革命青年協会(AJR)、近隣統制組織である革命防衛委員会(CDR)を、六一年には全国小農協会(ANAP)を傘下に編成した。

 肯定が否定より難しく感じられるのは
肯定した時
「何を」
肯定したことになるのかが不明だからである
否定の作用は、それ自体が認識だからである

 地球人類は失敗した
それだけのことなのでもある
ほかの星紀におけるほかの人類のやり方があるのだし
べつにこの人類でなくてもいいのだし
あるいは、この人類の失敗の仕方も、ひとつの
存在のやり方である
という言い方もできる
それはそれでいいのでもある
しかし
どうならばどうだと言えるのか

 普通に人が、地球人類が全てだと思っているのは、
身体が自分だと思っているからである
見えているものが見えているものだと思っている、これは驚くべきことである
しかし、
地球外生命
ということではない
生命とか人類とかの形状が問題なのではない
在る
ということが、そのことなのである
内的宇宙は外的宇宙である
主観は客観である
というこの一点を理解しない限り、 人は地上の思想しか考えられない
人類が問題なのではなく存在が問題なのだ
 とりあえずリマーク的な日記をつけること で新しい本の形式で

『全体主義の起原』

2023年09月25日 | 4.歴史
 『全体主義の起原』ハナ・アーレント

大衆

全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である。この点だけからしても運動はすべての政党と異なっている。政党は、利益政党、世界観政党として国民国家の諸階級を政治的に代表するか、あるいはアングロサクソン諸国の二大政党制におけるように、公的問題の取扱いに対してその時々に一定の見解と共通の利害を持つ市民を組織するかのいずれかである。政党の勢力はその国内での支持者の数に比例するから、小国における大政党ということもあり得るが、これに反して運動は幾百万もの人々を擁してはじめて運動たりうるのであって、その他の点でいかに好条件に恵まれようと、比較的少い人口しか持たない国では成立が不可能である。このため、第一次世界大戦後、中部、南部、東部ヨーロッパの全土に反議会主義的、半ファッシスト的、半全体主義的運動が氾濫したにもかかわらず、全体主義政権が生れるまでになったのはヨーロッパ大陸で最も人口の多い国、ドイツとロシアだけだった。また「全体的国家」という言葉をはじめて使ったムッソリーニですら、一党支配国家という独裁で我慢するほかはなかった。この独裁は、ルーマニア、ポーランド、バルト諸国、ハンガリア、ポルトガル、さらにはスペインにおける同じく非全体主義的な軍事的独裁と本質的には異ならない。ナツィは全体主義的な支配とそれ以前の多様なファッシスト支配との間の原理的な相違を明確にすることに最大の努力を払い、彼らの同盟者であるファッシストに対する侮蔑と、敵であるポルシェヴィキーに対する共感を公然と表明して憚らなかった。ヒットラーが「無条件の尊敬」を捧げたのは「天才スターリン」に対してだけだった。われわれはスターリンとロシアの支配形式とに関してはドイツに関するほど豊富な原資料を利用できない(おそらくは将来も決してできるようにならないだろう)が、それでも、もちろん両体制の類縁性のきわめて正確な認識に基づいたヒットラーの感情が片思いではなかったことを示す手がかりは相当にあるのである。

ただここで確認しておきたいのは、小国においては全体主義運動のあとに成立したのは非全体主義政権だったため、全体的支配というものはこれらの小国にとっては手の届かない目標だったと思われるということだけである。確かに小国であっても全体主義運動を利用して大衆を組織しモップを権力につけることはできた。しかし真の全体的支配を達成することはできなかった。なぜなら、全体的支配の機構が絶えず要求する大な人命の損失に堪えるだけの充分な人的資源を、これらの小国は持たなかったからである。ムッソリーニはこの難関を克服しようとして植民地の冒険に飛び込んだ。これが彼にもたらしたものといえば、先進帝国主義諸国なかんずくイギリスとの彼にとってきわめて不利な敵対関係だけだった。しかしこの面でたとえ成功したにしても、彼はせいぜい植民地をイタリアの出産過剰の捌け口として確保したことになるだけで、全体的支配の実験をなし得る人的資源を得たことにはならなかっただろう。ドイツですら戦前の国境で限られていた人口ではこのような支配には不充分だった。ヒットラーは、開戦までの被支配人口数が彼の支配に或る程度の抑制を余儀なくさせていることをよく自覚していた――このような抑制は彼の運動の本来の傾向と長期にわたっては一致させ得ないものだった。ドイツは戦争に勝ってはじめて完全に発達した全体的支配の機構を経験する筈だったのだが、それが単に「劣等人種」ばかりでなくドイツ人自身にもどれほどの犠牲を強いることになるかについては、われわれはヒットラーの遺した諸計画から推測することができる。いずれにせよドイツがその支配機構を実際に全体主義化し得たのは戦争を始めてからのことであり、東部の征服によって絶滅収容所が可能となり大な数の人口を意のままにできるようになった後のことだった。全体的支配は大人口の基礎なしには不可能だというまさにこの理由から、この支配形式はなかんずく中国やインドにおけるアジア的専制の遺産を継ぐにきわめて適していると思われる。これらの国には、権力を蓄積し人間を破壊する全体主義運動の装置の回転を絶えず維持するに足るだけの無尽蔵な人的資源がある。これに加えてアジアには、一人一人の人間の生命の価値を重んずるヨ―ロッパ的=キリスト教的な伝統がなく、人間が余っているという大衆の感情がひろく根づいている――この感情はヨーロッパではごく最近に現れたもので、ここ百五十年間の甚だしい人口増加によってはじめて生れ、大量失業の危機の時代に尖鋭化してきた。全体主義の独裁者にとって内政における最大の危険は自国の人口激減とそれに伴う権力低下だが、この危険はアジアでは意味を持たないばかりでなく、むしろ、アジア諸国の目下の最大の難問である無秩序な人口増加に歯止めをかけて、これを統御しうる軌道に乗せることすらできるかもしれないのである。なぜなら、完全に発達した全体的支配が実現可能となるのは、全体主義運動の場合とは異なり、大な数の人間が余っているか、あるいは人口激減の危険なしに大量の人間を始末できるところだけだからである。

これに対し全体主義運動は、いかなる理由からであれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能である。大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する個別的な階級意識を全く持たない。「大衆」という表現は、人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるかのために、人々がともに経験しともに管理する世界に対する共通の利害を基盤とする組織、すなわち政党、利益団体、地域の自治組織、労働組合、職業団体などに自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。潜在的には大衆はすべての国、すべての時代に存在しており、たとえ高度の文明国であっても大抵は住民の多数を占めている。ただ彼らは正常な時代には政治的に中立の態度をとり、投票をせず政党に加入しないことで満足しているのである。

ファッシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的には全く無関心だと思われていた大衆、他のすべての政党が馬鹿か無感覚で相手にならないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。ただこの場合、ファッシズムは最初からヨーロッパ住民のこの分子に目を向けたのに対し、共産党は成立当初は完全に国民国家の利益政党としての、労働者階級の一過激政党だったため、ファッシズムと同じ道をとり始めたのは比較的おそく、ほぼ一九三〇年以後のことだという違いがある。共産党のこの変化の原因は、一つには、やはり一九三〇年頃にようやく勝利を収めたロシアのスターリン政権の意向にこの方向が完全に沿ったこと、また一つには、ファッシズムとの競争の中で共産主義者がファッシスト的方法を自分も利用しようと意識的に学びとったことだった。「大衆の心」を摑もうとするこの競争の結果は、双方の運動の成員がともにこれまで一度も政治の舞台に登場したことのない人々から成り立つようになったことである。これは当然に政治的プロパガンダの全く新しい方法を著しく導入し易くし、なかんずく、政治上の敵対者の論議を黙殺できるようにした。運動は原理的に政党制度の枠外に身を置いたばかりでなく、一度もこの政党制度に組み込まれたことのない、従って政党制度によって「堕落」させられていない大衆を集めてメンバーとしたからである。それ故、運動は敵の論議を意に介する必要はなく、大衆を論議によって説得する必要などさらさらなかった――説得というものは相手がそれまで何らかの別の意見を持っていることを前提としているのだから。運動は平和時のただ中に、革命的変革を伴うことなしに、正常な政治的プロパガンダに内戦の手法を持ち込むことができた。つまり敵を論駁する代りに殺害し、運動に組織されていない人々を説得する代りにテロルで嚇すとすいう手法である。運動はつねに、自分の運動の信奉者は他のすべての市民といかなる共通点も持っていないという前提から出発し、一切の意見の相違を、理性による理解も個人によるコントロールも不可能な、社会的、民族的、もしくは心理的な性格の不変の差異であると解していた。このような態度は、もし運動が現存する諸政党とまともに競合してメンバーの獲得競争をするつもりであったなら非常な不利益をもたらした筈である。だがその相手が実際に運動の考えたとおりに、もとは無関心だったが今や政党と名のつくものにはすべて敵意を燃やすべき理由を発見した人々であるならば、この態度は不利どころか明らかに有利であった。

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、特にヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた二つの幻想の終りを意味した。その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心をもつ市民でもあり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまでは行かなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくともその政党によって自分も代表されていると感じている、という幻想である。ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数派しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。全体主義運動が叩き潰した第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性も持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な与えたが、それはつまり、民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意志表示をする組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意志表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。全体主義運動はその議会蔑視にもかかわらず公職選挙に参加し帝国議会に代表を送った――この矛盾は外見だけのものに過ぎないが――ことによって、民主主義のルールの枠内で次のことを実証することさえできた。すなわち、議会における多数派なぞ見せかけだけに過ぎず、反議会的な運動は人民の多数を代表するところまで迫っており、政党制度の枠内で政党が議会に多数を占めたにしてもそれは決して国の現実を反映などしていない、ということである。そして運動はこれを議会自体の中で実証することで議員たちの自信を内部から掘り崩すという計算までできた。なぜなら戦後の各共和国の議員は一人の例外者もなく、民主主義的多数を信ずるほどには共和制憲法を信じていなかったからである。

全体主義運動が民主主義的な自由を葬るためにほかならぬその自由を利用したとは、繰り返し言われてきたことである。全体主義的な雰囲気が国全体に広がって全体主義運動が一定の強さに達すると、いかに抗議の声が上がろうとこの計略はつねに成功裡に遂行されてしまうのだが、このようなやり方の背後には、全体主義の指導者の側の優れた奸智が潜んでいるわけでも、民主主義的な政治家の側の、経験から何ひとつ学ばない救い難い愚さや弱点があるわけでもない。民主主義的な自由は確かに法の前でのすべての市民の平等に立脚してはいるのだが、ただこの自由が意味を持ち機能し得るのは、市民が自分を代表してくれる特定の集団に属しているか、あるいは社会的もしくは政治的ヒエラルヒーの中に生きているか、そのいずれかの場合だけである。法の前での平等とはとりもなおさず不平等な人々のためにのみ、すなわち政治的に言えば、生れにより、もしくは職業や政治的意志によってそれぞれに異なる集団に属し、相互に差別し合う人々のためにのみ存在しうるのである。国民国家の構造は社会的にも政治的にも階級社会によってのみ規定されていたのだが、その階級社会の崩壊は疑いもなく「最近のドイツ史における最も劇的な事件の一つ」であった。これがナツィ運動の擡頭に有利な条件を提供したのは、ロシアの巨大な地方の住民が何らの社会的構造性をも持たなかった(ゴーリキーの言葉によれば「政治的教育を全く欠いたこの捉えどころのない巨体」)ことがポルシェヴィキーによるケレンスキー政府打倒を有利にしたのと同じである。大衆社会というこの条件のもとでは、民主主義の諸制度は民主主義的な自由と同様にその意義を失ってしまう。それらは民衆の多数を代表しない故に機能し得なくなり、民衆のうちの実際の多数を占める代表されていない部分が名ばかりの多数派の支配に抗して起ちあがるとき、それらは危険を宣告されることになる。

この危険は第二次世界大戦後の今日、ほとんどすべてのヨーロッパ諸国に現れている。イタリアやフランスの共産主義運動の強大な勢力はこのことを明白に語っている――しかもネオ・ファッシスト運動が同じ力を得て明日にもこれらと肩を並べる可能性がないとは言えない。今ここで起っていることは第一次世界大戦後のドイツで起ったことの繰り返しに過ぎない。すなわち、階級社会が崩壊し、そしてもはや存在しない階級をまだ代表すると自称する政党制度が、大衆を代表する運動によって窮地に追いつめられているのである。今日のわれわれは世界中いたるところで、一切の社会的構造のますます進行する大衆化――これに対しては伝統的な政治的、社会的諸組織が大なり小なり抵抗を試みてはいるが―――という条件のもとで生きている。ヒットラー以前のドイツの社会的、政治的な崩壊現象は、西欧世界におけるこれと同じ過程が将来辿るかもしれない方向の指標であり、同様に、ロシアの条件はアジア大陸での同じ発展の可能性を示している。現在の全体主義運動がボルシェヴィズム運動の型に従う傾向を持ち、ネオ・ファッシスト集団がヒットラーとムッソリーニの敗北によって重要性を失い、人種イデオロギーは戦後世界で大きな役割を果していないということは、「白」と「有色」の諸民族の間に現にある対立を考えるならば、一時的な現象だと言えるかもしれない。いずれにせよ全体的支配の機構のもつ政治的構造にとっては、大衆の組織化を人種の名において行なおうと階級の名において行なおうと、生命の法則・自然法則の力を借りようと唯物弁証法的な歴史法則を担ぎ出そうと、実際的にはそれほど重大な違いはないのである。

公的生活のすべての事象に対する無関心と政治問題に対する冷淡さは、それ自体としては全体主義運動の原因ではない。ブルジョワジーの競争的な営利社会は初めから公的・政治的問題に対する無感覚、いや或る程度の敵意さえ生んできた。この傾向は、ブルジョワジーに搾取され長い間政治的に代表されることのなかった社会層の中ではそれほどでもなかったが、ブルジョワ階級自体の中では特に著しかった。彼らは国民の経済生活における支配階級としての地位だけに満足し、統治は貴族と官僚に任せてきたのだが、国民国家の伝統的政策がブルジョワジーの利害とはっきり衝突し始めた帝国主義時代に入るや、はじめて彼らはそれまでの政治面での謙虚さを捨て、ほとんどが対外政策に関するものではあったが政治的な要求を出すようになった。初期の慎ましさも後期の対外政策への専念(帝国主義時代にあってはどこでも対外政策こそおよそ政治の唯一の重要な形式だと考えられていた)もともに、営利社会の世界像、世界観ときわめて密接な関係を持っている。営利社会においては人間生活は経済戦争という仮借ない競争における成功か失敗のいずれかの型に分けられるものとして経験され、なんとしてでも私的、個人的成功を遂げねばならぬという必要のみに全生活が集中されるため、市民としての義務と責任は耐え難い余計な重荷となってしまう。このような態度が、一人の「強い男」がこの重荷をすっかり引受けてくれる独裁という形式にきわめて好都合なのは勿論だが、それと同時に、全体主義運動の発展にとってはこの態度に内在する個人主義は障害でしかあり得ない。全人民の政治化や「政治的兵士」の育成を求める全体主義の要求は本質的には欺瞞であったにせよ、それは大体が初めから、政治的に限度のある専制を可能にするだけでまさに全体的支配を不可能にするこのブルジョワ的、個人主義的な行動様式に対する宣戦布告以上のものを意味していたわけではなかった。ブルジョワジーを支配階級とする社会の政治的な無関心層は、政治的には無責任ではあろうが個人としては無傷な人格であり、個人の諸資質を完全に保有しているたとえそれが、これなしには競争に勝ちぬくことができないというだけの理由からであるにしても。

十九世紀のモップ組織と二十世紀の大衆運動の間の決定的な相違がきわめて見過され易いのは、現代の全体主義の指導者が心理学的には近代のデマゴーグやモップ指導者とまださほど違っていないためである。後者の道徳的準則と政治的手法はブルジョワジーのそれとまだ非常に密接な関係にあったため、それらはブルジョワジーの世界観の裏側、すなわち市民社会の偽善によって必死に覆い隠されていた部分を明らさまに示したものに過ぎないことが多かった。全体主義運動がブルジョワジーとその落し子たるモッブ――運動の指導者はこの出身であるにもかかわらず―の双方の個人主義を清算したという限りでは、これらの運動が自分たちこそヨーロッパ最初の真の反ブルジョワ政党だと主張しているのは正しい。ルイ・ボナパルトに帝国を準備してやった十二月十日会、ドレフュス事件の間パリをテロルで踏みにじった屠殺者部隊、ロシアのポグロームの黒百人組、汎民族運動などの全体主義運動の先駆者たちはどれ一つとして、個人の権利主張や名誉心まで死滅させるほどに自分のメンバーを「トータル」に把握することはなし得なかったし、また、一人一人のメンバーの個人としてのアイデンティティーを一回きりの英雄的行動の続く間だけでなく全生涯の長きにわたって抹殺するような組織形態が存在し得るとは、予想もしなかったのである。

ブルジョワ的階級社会と、その崩壊後に成立した大衆との間の関係は、ブルジョワジーと、資本主義的な生産方法の副産物たるモッブとの間の関係と同じではない。大衆とモッブの共通点は、双方とも一切の社会的構造および社会的帰属から締め出されて、政治的に全然代表されることのない立場に追いやられているという点だけである。モップは支配階級の遺産を引継ぎ、その基準を捨て去りはせず、やがてその基準を倒錯させることによって逆にブルジョワジーに対する或る種の影響力をかち得た。大衆はこのような「階級的基盤」すら持たず、彼らが反映し倒錯させているのは全人民の基準とものの観方である。大衆が体現しているのは実際に「時代精神」以外の何ものでもない。それ故、彼らに訴え彼らを動かし得るのは、もはや具体的な政治状況にではなく歴史的瞬間なるもの一般にのみ対応するきわめて括的なスローガンだけである。この場合、階級制度の崩壊によって大衆の中に投げ込まれた個々の人間が自分の出身階級の尻尾をまだはっきりつけているという事実は、ほとんど何の役割も果さない。彼は大衆の一員となった瞬間に、社会の全階級を漠とした形でではあってもすでに捉えていたこの滲透力のある流れとそれにふさわしいスローガンとの虜となったのである。

階級社会とそれが発展させた政党制度の中では、個々の人間が公的問題に参加する仕方もその程度の強弱も、彼がどの階級に属すかによって決まっていた。そしてぬきんでた才能とか数奇な運命とかの例外的なケースを別とすれば、彼の階級的帰属を決定したのは彼の生れであるただしこの決定は封建社会の没落の後はもはや法的基礎を持たず破棄不可能ではなくなっていたが。通常の市民が本来の国政に直面するのは、市民が一切の社会的、党派的拘束に捉われずに行動し決断することを要求される国民的危機に際してのみだった。平時にあっては彼は国政に何らの責任を負わず、国政に影響を与える可能性も持たなかった。一方、社会全体の構造の中で或る階級が重要性を増し上昇を始めると、その階級は一定数の人間に政治のための教育を施すようになり、次第にその人々が実際に政治を職業とするようになった――その場合、この職業が国家官僚、国会議員、政党指導者などのいずれであろうと、有給、無給のいずれであろうと大した問題ではない。民衆の大多数は職業として遂行されるこの政治とは無関係で、すべての政治団体や政治組織の外側にいた。このことは諸階級の代表制が機能するうえで別に障碍にもならなかったし、そのうえ貴族階級から労働者階級に至るまですべての階級がそれを無関心に放置しておいた。換言すれば、市民の各階級への帰属と、この階級制度の中で発展した代表という形式こそ、市民の一人一人が国政に多かれ少かれ責任を感ずるような政治的自覚の発展を阻害した元凶だったのである。しかしながら、この状態でもとにかく大体において満足しうる程度に全階級の利益を代表することが可能になっていたため、国民国家の統治形式の本来非政治的な性格は明るみに出ずに済んでいた。これがはじめて露呈されたのは、階級制度が解体し、それによって国民を政治体および真に政治的な諸制度と結びつけていた無数の見える糸、見えない糸が断ち切られたときである。

階級制度の解体は自動的に政党制度の崩壊を意味していた。というのは、これらの政党は実際に利益政党であったため、今や政党が代表すべき利益がなくなってしまったからである。もっとも政党は政党制度自体の崩壊後も生き残っており、この点では階級社会の死後まで生き延びられなかった民衆の比ではない。というのも、政党はそれぞれに自分の党機構を発展させたが、そのような機構はそれ自体が、人間の作ったあらゆるインスティテューションと同じく、或る程度の生命力を持つようになるからである。(もはや何ら現実に即応しなくなったときですらこのような機構がいかに頑強に生き続けるかは、政党が第二次世界大戦後ですらいわば復活を遂げ得たことからも特によく見て取れる。殊にフランスがそうだが、またイタリアやドイツでも、まるで何事も起らなかったと信じたくなるほどの政党の復活ぶりである。)しかし政党員の見地からすれば、こうして命脈を保っている政党の意味は、いつの日にか再びすべてが旧き秩序に復する保証と見えるという点に特にある。別の言い方をするならば、政党員を結合させているのは共通の利害というよりは、政党がそういう利害を再び呼び覚してくれるようにという共通の期待なのである。

政党の階級基盤が不明確に、非現実的になるにつれて、政党はますます世界観政党への方向を強めていった。この方向はこれまでの政党が知らなかったものでは決してないが、今やそれは全く別の意味を持つようになった。政党には世界観的な「原理」しか訴えるものがなくなったため、そのプロパガンダは硬直化しファナティックとなり、しかも同時に古きよき時代への郷愁に彩られた独特の弁解がましさを帯びるようになった。政党の全般的な衰退は数の上での勢力にはそれほど根本的な打撃を与えなかったが、政党はほかならぬこの事実に惑わされて、それまでは沈黙の共感を寄せてくれた大衆を失ってしまったことには気付かなかった。大衆が政治に関心を持たなかったのは、彼らの利益を計ってくれる適当な政党がないと思っていた間だけだったのである。衰退の最初の徴候は古い政党員の減少ではなく、若い世代を迎えて党機構の後継者に養成することができなくなった点に現れた。しかしこのことですら実際に表面化したのは、政党が突然次のことに気付かされたときである。すなわち、これまで政党がその無関心で受動的な支持を当てにしてきた未組織の大衆が今では無関心を捨て、しかも政党への支持を止めてしまったこと、そして打って変って、全体制に対する彼ら一般の敵意を表明する機会さえ見付ければ到るところで声を上げていたことである。階級構造の瓦解とともに、これまで各政党の背後に立っていた無関心な潜在的多数派は、絶望し憎悪を燃やす個人から成る組織されない無構造の大衆へと変容した。これら個人を結び合せた唯一のものは、全員に共通の一つの洞察だった。すなわち、古きよき時代の再来を望む政党員の期待は満されないだろうし、いずれにせよ自分たちがその再来を経験することはまずあるまい、それ故、これまで共同体を代表していた人々、最も明晰な発言力と最も多くの情報を持つ共同体員として尊敬されてきた人々は、本当は道化であって、本物の愚鈍さから、あるいは詐欺師らしい卑劣さから、他の者すべてを奈落の底に突き落すべく既成の諸権力と手を結んでいた、と彼らは見たのである。この場合、この恐るべき否定的な連帯が様々な動機から出ていたことは大して重要ではなかった。例えば、失業者は社会民主党こそスタトゥス・クオであり共和国の権力者だと見てこの党に憎悪を集中させ、一方、財産を失った小資産家は中産階級政党に憤懣を向け、旧中間層や上層市民階級は伝統的な右派政党に腹いせをしようとした。絶望と怨恨に満ちみちた個人から成るこの大衆は、軍事的敗北とその諸結果のすぐあとにインフレイションと失業が続いた第一次世界大戦後のドイツとオーストリアでは、きわめて急速にふくれ上った。しかしこれに劣らぬ悪条件にあった継承国家にも謄大な数の大衆が存在したし、第二次世界大戦後ではフランスとイタリアに大衆が驚くべき速さで形成され増大した。

ヨーロッパの大衆の特殊なメンタリティーはこの全般的崩壊の雰囲気の中で出来上ったものである。彼らは大衆社会以外の社会を知らない大衆ではなく、一つの階級社会の崩壊の産物であり、その階級社会は個々の成員の側からは基本的には個人主義的なものとして捉えられてきたのである。この身に染みついた個人主義のため、大衆はすべての個人が全く同じ形で同じ運命におそわれるという事態に立たされながら、旧態依然として自分自身には競争的な営利社会の基準を当てはめ、個人としての成功という観念に立って自分自身を評価し断罪することを止めなかった。人を騙し人の災難を利用してうまく立ち廻ることができなかった者は、自分を敗残者と看做した。しかし、個人心理として見れば一世代全体の特徴となったこのような利己的な酷薄さですら、彼らに共通のものではなかった――もっともあらゆる個人的な差異は結局は一つの全般的なルサンチマンの中で見えなくなってしまったことは確かだが。利己主義は何ら共通の利害を成立させることはできなかった。従ってそれは自己保存の本能の典型的な退化と結びつくことが非常に多かった。徳としてのではなく感情としての没我自分自身など問題ではない、自分はいつでもどこでも取り替えがきくは全般的な大衆現象となった。この感情は個々の人間を動かして生命を賭けさせることもできはしたが、それはしかしわれわれが普通、理想主義という言葉で理解しているものとは全く似ても似つかなかった。このような人間に対して諸君は鎖のほかに失うべきものを持たないと語ることで、彼らを政治的行動や革命的行動に駆り立てることはもはやできなかった。彼らは自分自身に対する関心を奪われてしまったとき、すでに貧困や搾取の鎖より遙かに多くのものを失っていた。彼らの物質的な貧困は現代の国家の社会保障のお蔭で大抵はそうひどくない程度になっていたが、そのことで共同の世界への彼らの失われた関係が回復したわけではなかった。共同の世界を失うことによって、大衆化した個人は一切の不安や心配の源泉を失ってしまった不安や心配はこの共同の世界における人間生活を煩わすだけでなく、導き調整する役目も果しているのである。彼らは事実「唯物的」ではなくなっており、唯物主義的な論議にはもはや耳を藉さなかった。なぜなら、純粋に物質的な利益ですらこの状況の中ではほとんど意味を失ってしまったからである。彼らの無世界性Weltlosigkeitと比べれば、キリスト教の修道士でさえこの世に捉われ、世俗の問題への関心に満たされていると言えよう。組織すべき相手のメンタリティーをきわめてよく理解していたヒムラーの次の言葉は、SS隊員のメンタリティーだけでなく、SS隊員の補給源だったドイツ民衆のいくつかの階層のメンタリティーをも説明している彼らは「日常的な問題」に関しては全く無関心であり、彼らが関心を持つのは「世界観的な問題」と、「歴史の幾時代をも占め幾千年の後までも跡の消えることのないような使命に選ばれて携わるという大いなる幸福」とだけである。個人の大衆化は、誇大妄想狂のセシル・ローズが幾世代か以前に「大陸の規模で考え」数百年の規模で感ずると語ったのとよく似たメンタリティーを生み出したのである。

十九世紀の初頭以来、多くのすぐれた歴史家や政治家が大衆時代の到来を予言してきた。前世紀の半ば以来、大衆心理学に関して魔大な書物が現れ、民主主義と独裁、モッブ支配と専制の間の親近性についての、古代にはきわめてよく知られていた古い教えをありとあらゆる形で述べ立ててきた。疑いもなくヨーロッパの政治学者たちは、少くともヤーコプ・ブルクハルトとニーチェ以後は、デマゴーグと軍事的独裁の擡頭についても、迷信、軽信、愚行、残虐の跋扈についても準備ができていた筈である。これらの予言は今やすべて現実となった。しかし大抵の予言がそうであるように、それらは予言者が予期しなかった仕方で実現したのである。彼らがほとんど予見していなかったこと、もしくはその本来の結果について正しく見通せなかったことは、徹底した自己喪失という全く意外なこの現象であり、自分自身の死や他人の個人的破滅に対して大衆が示したこのシニカルな、あるいは退屈しきった無関心さであり、そしてさらに、抽象的観念に対する彼らの意外な嗜好であり、何よりも軽蔑する常識と日常性から逃れるのだけに自分の人生を馬鹿げた概念の教える型にはめようとまでする彼らのこの情熱的な傾倒であった。

しかしながら十九世紀の歴史的ペシミズム――その総決算とも言うべきものがシュペングラーの『西欧の没落』だが―――の最も目に立つ誤りは、この同じ現象のもう一つの側面に関してだった。あらゆる予期に反して、大衆は新しい平等と「平等主義」、つまり十八世紀の諸革命によって企てられたような一切の階級的差異の意識的な平均化、小学校教育の拡大、およびそれと結びついた教育水準の低下と教育内容の平俗化などの結果ではなかったのである。アメリカ合衆国では、法の前の平等は初めから生活条件の並はずれた平等および画一化と結びついていたため、国の急速な資本主義的・工業的発展にもかかわらず決してヨーロッパ的意味での階級社会が形成されるには到らなかったから、確かに合衆国は「平等主義」と教養貴族の欠如とが文化にもたらしたあらゆる欠点を知ってはいるものの、その代り現代的な大衆の形成と大衆心理の成立に関しては恐らくきわめて僅かの経験だけで済んでいると言えよう。この状態がこれからの数十年に変化して――そうなりそうに思えるが――アメリカが二十世紀の典型的な政治的問題に直面するようになったとしても、教育と生活状態の画一化が必ずしも社会の大衆化を結果するとは限らないという一度なされた実験の結論には、大して変化が起るわけではないだろう。というのは、ヨーロッパの教養貴族階級は他のすべての住民層と少くとも同じ程度に大衆運動の魅力に惹かれたからである。いやむしろヨーロッパ文化の本来のエリットたちこそ、大衆運動に身を投ずることで起る奇妙な自己喪失と個人の独自性の放棄とにとりわけ感染し易いと見えたことさえ多かった。人々はこのような発展を予期せず、むしろ大衆と知識人層の明確な敵対関係をつねに想定してきた。ところが今や教養も際立った知性も、「大衆を捉えた」理論でさえあればどんなに卑俗なものでも知識人が受容れるのを妨げはしないという、明白な事実に人々は直面した。そこで多くの人は今度は逆にこう考えることにしたのである。すなわち、「精神」は自分自身を憎む傾向を持ち、ほかならぬ知識人こそ精神を裏切りがちであると。広く流布されたこの意見バンダの『知識人の背任』trahisondesclercsがその最もよく知られた表現だが――が看過している点は、知識人がこれらの運動でも必然的にスポークスマンになり精神的代表者になったのは、彼らが他の人々以上に強く運動に惹きつけられたからではなく、他の人並みに惹きつけられたからであること、ただ彼らは他の人々とは違って、一般の人々の典型的な意見や観念に表現を与え世界観に結晶させるだけの明晰さを具えていただけだということだった。

ガイスト

知識人が特に感染し易かったといっても、それは彼らが他の階層の人々と全く同様に極度に個人主義化し、それ故に政治的に無関心だったという限りにおいてに過ぎない。彼らの態度は、国民国家が政党制度の中に、従って政治への積極的な参加に一度として誘い込むことのできなかった人々(この人々こそ多数派を占めていた)の態度と、本質的には異ならなかった。

ヨーロッパの大衆は、すでにアトム化していた社会の解体によって成立した。この社会においては、個人間の競争とそこから生ずる孤立感の問題を一定の限度内に抑えていたものは、各個人は生れると同時に一つの階級に属し、成功や失敗とは関わりなくその階級を故郷として終生そこに留まるという仕組だけだった。大衆社会の中の個人の主たる特徴は残酷さでも愚さでも無教養でもなく、他人との繋がりの喪失と根無し草的性格である。人々がかつての出身階級における経験を拠り所に新しい生活を築き得る程度に、国民国家の階級社会に記憶を通じて強く結びつけられていた間は、彼らはファナティシズムやショーヴィニズムの色の特別に濃いナショナリズムに迷い込んだ。まさにナショナリズムこそ、あらゆる階級対立を超えて国民を統一する接着剤だったからである。しかしまさにこの点において彼らはいわば時代遅れだった。そのことを全体主義運動の指導者は非常によく知っていたから、このナショナリスティ・クな「旧弊」を考慮に入れて初めうちは重要な妥協をしたのである。大衆のナショナリスティックな感情をプロパガンダに利用したという点では、全体主義の指導者の態度は十九世紀のデマゴーグの態度と変らない。だがこの両者の違いは、前者は自分ではナショナリストではなく、またナショナリスティックなプロパガンダ路線を必要最低限以上に続けようとは思っていなかった点にある。

種族的ナショナリズムも敵意と怨恨に満ちたニヒリズムも、あらゆる種類のモップをあれほど容易に虜にし心酔させることができたが、しかし大衆に対しては長期にわたってそれほどの威力を発揮することはできない。このことは全体主義運動の初期には実証がむずかしかった。なぜなら運動の最も才能ある指導者たちは本来まだ大衆の出ではなく、民衆のモップ層から這い上って来た連中だったからである。ヒットラーの伝記はこの点で教科書的な好例であるまたスターリンの場合も、本来の党育ちではなく地下の謀略組織--革命政党のごろつきはこういう所に好んで巣を作りたがるものだが――から出世したことが彼の本質的な特徴をなしている。国民社会党の初期の党員はほとんど例外なく市民生活に退屈し切った冒険家や落伍者ばかりであって、確かにこの党は「武装したボヘミアン連中」(コンラート・ハイデン)を代表していた。彼らは前世紀の半ば以来、上流社会の裏面をなしてきた連中なのだから、ドイツのブルジョワジーは本来なら彼らを利用できた筈だった。だがこの時にはもう手遅れだった。ヒットラーに資金を提供した工業資本家たちは、国防軍のレーム=シュライヒャー派と全く同じに自分たちがナツィに裏切られ騙されたことを悟らされた。レーム=シュライヒャー派にしても彼ら同様、元国防軍スパイのヒットラーとSAを自分たちの手中に握って利用すれば、ナツィの政権掌握後にSAを国防軍に編入することで軍に狂信的な大衆基盤を与え、それによってドイツに軍事的独裁を確立できると信じていたのである。ルール工業資本家やフォン・パーペン氏に代表される上流社会も、SAの指導者レーム大尉に代表されるモップも、ともにナツィ運動を初期の姿からだけ判断して、相手をただの賤民的な、あるいは山師的なごろつきだと見くびっていた。彼らはヒットラーのような型の指導者の真に新しいところを見落し、ヒットラーの背後に立って彼を支えている大衆が、彼らが知っていると考えていたモッブとは全く別のメンタリティーと要求を持っていることに気付かなかった。レームは国防軍なりブルジョワジーなりの単なる手先には確かに打ってりの人物だったが、ヒットラーやヒムラーと比べると、フォン・パーペン氏に劣らず時代遅れだったのである。



『悪と全体主義』ハンナ・アーレントから考える

2023年09月24日 | 4.歴史
 『悪と全体主義』ハンナ・アーレントから考える

大衆は「世界観」を欲望する

あふれ出した「大衆」と瓦解する国民国家

アーレントが「全体主義の起原」の第一巻、第二巻で考察したのは「国民」と「国民国家」のあり方でした。これを受けて第三巻では、国民国家を一応の基盤としつつも、その枠組みを突き崩すような「運動」として姿を現した「全体主義」の実体を明らかにしようと試みています。

近代ヨーロッパの主要な国民国家は、互いの境界線を守ることで均衡を保っていました。しかし、十九世紀末に勃興した「民族」的ナショナリズムは次第に人々の「国民」意識を侵食し、国民国家を支えていた階級社会も資本主義経済の進展によって崩れていきます。ほころびが目立ち始めた国民国家を、文字通り瓦解させたのが全体主義だったのです。

第三巻「全体主義」のキーワードは「大衆」、「世界観」、「運動」、そして「人格」です。アーレントはまず、かつては階級というそれぞれの抽き出しに収まっていた人々が「大衆」となって巷にあふれ出したこと、そこに提示されたのが強い磁力をもつ「世界観」だったと指摘します。

「世界観」とは、この世界のあり方を捉えるための系統だったものの見方、考え方を意味します。たとえばナチス・ドイツの場合には、第一巻で見た反ユダヤ主義や、第二巻で指摘された優生学的人種思想を巧みに取り入れながら構築された、「ユダヤ人が世界をわがものにしようとしている」という陰謀論的な物語のことです。こうした虚構によって人心を掌握した全体主義国家は、いわば砂上の楼閣です。砂上の国体は、つねに手を加えつづけなければ、その輪郭と権力を維持することはできません。つまり全体主義は、立ち止まることが許されない「運動」だったということです。

第二巻では、ヨーロッパの人々が信奉してきた「人権」概念が無国籍者の出現によって大きく揺らいだことが指摘されていました。しかし、先鋭化した全体主義「運動」は、権利のみならず、人間から「人格」まで奪い去ってしまいます。第三巻の第三章でアーレントは、ユダヤ人の大量虐殺が行われた強制収容所・絶滅収容所の問題に触れています。

ナチス・ドイツの強制収容所は、囚人や捕虜ではなく、ユダヤ人や、流浪の民とみなされたロマ(ジプシー)、同性愛者など、「民族共同体」にとっての異分子を強制的に監禁し、社会から隔離して「矯正」を行う施設として設けられたものでした。しかし、世界大戦が始まり、ドイツが支配する地域が広がるにつれて、支配下のユダヤ人は膨大な数に増え、最終的に、ガス室などを備えた「絶滅収容所」の建設に至ったのです。絶滅収容所にはヘウムノ、ベウゼツ、ソビボル、トレブリンカ、マイダネク、そして悪名高いアウシュヴィッツの六施設があります。

何百万もの人間を計画的かつ組織的に虐殺しつづけることが可能だったのはなぜなのか、また、なぜナチスにはそこまでする必要があったのかという問題を提起しています。

階級が消え、「大衆」が生まれる

全体主義とは何だったのか。数多ある政党と全体主義政党との違いを、アーレントはまず「大衆」との関係で論じています。

全体主義運動は大衆運動である。それは今日までに現代の大衆が見出した、彼らにふさわしいと思われる唯一の組織形態だ。この点で既に、全体主義運動はすべての政党と異なっている。(「全体主義の起原」第三巻、以下引用部はすべて同様)

ヨーロッパ社会に「大衆」の存在が浮上し、その特質が論じられるようになったのは十九世紀の終わり頃からです。そこで強調されたのは、「市民」との違いでした。国民国家で「市民」として想定されたのは、自分たちの利益や、それを守るにはどう行動すればいいかということを明確に意識している人たちです。彼らは自分たちの利益を代表する政党を選び、政党は市民間の利害を調整して、その支持を保っていました。

「市民」社会における政党が特定の利益を代表していたのに対し、何が自分にとっての利益なのか分からない「大衆」が自分たちに「ふさわしい」と思ったのが全体主義です。全体主義を動かしたのは大衆だったということです。

全体主義運動は、いかなる理由であれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能だ。大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する固有の階級意識を全く持たない。

労働者階級、資本家階級など、自分の所属階級がはっきりしていた時代であれば、自分にとっての利益や対立勢力を意識することは容易でした。逆に言うと、資本主義経済の発展により階級に縛られていた人々が解放されることは、大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味したのです。

アーレントはこれを、大衆の「アトム化」と表現しています。多くの人がてんでんバラバラに、自分のことだけを考えて存在しているような状態のことです。大衆のアトム化は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、西欧世界全般で見られました。

かつては一部の人しか持ち得なかった選挙権が、国民国家という枠組みのなかで、多くの人にもたらされたことも、「大衆」が社会で存在感をもつことにつながりました。選挙権は得たものの、彼らは自分にとっての利益がどこにあるのか、どうすれば自分が幸福になることができるのか分からない。そもそも大衆の多くは、政治に対する関心が極めて希薄でした。

「大衆」という表現は、その人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるがゆえに、共通に経験され管理される世界に対する共通の利害に基づく組織、すなわち政党、利益団体、地域自治体、労働組合、職業団体等のかたちで自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。大衆は潜在的にすべての国、すべての時代に存在し、高度の文明国でも住民の多数を占めている。ただし彼らは普通の時代には、政治的に中立の態度をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足しているのである。

階級社会では、同じ階級に属する誰かが自分の居場所や利益を示してくれるので、政治や社会の問題に無関心であっても生きていくことができました。これに対して、階級から解放されると、自由である反面、選ぶべき道を示してくれる人も、利害を共有できる仲間もいなくなってしまうのです。

「大衆」と「市民」

誰に(どの政党に投票すればいいのか分からない「大衆」は、どの時代の、どこの国にもいるし、高度な文明国においてすら政治に無関心な大衆は「住民の多数を占めている」と、アーレントは耳の痛い指摘をしています。投票率から言えば、日本人の半数は「投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している」大衆だということになります。「市民社会」を構成する「市民」が、自由や平等に関する自らの権利を積極的に主張し、要求を実現するために各種の政党やアソシエーションを結成することに熱心な人たちだとすれば、「大衆」は国家や政治家が何かいいものを与えてくれるのを待っているお客様です。自分自身の個性を際立たせようとする「市民」に対し、「大衆」は周りの人に合わせ、没個性的に漫然とした生き方をします。

しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。

ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えていた大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。

「愚かあるいは無感動でどうしようもない」とは直截な表現ですが、階級社会の崩壊で支持基盤を失った政党も、アトム化した大衆の動員を狙っていたということです。党是を理解できないような人であっても、とにかくたくさんのメンバーをかき集めて支持基盤を築きたかったのです。こうした動きは、第一次世界大戦後のヨーロッパで広く認められました。しかし、実際に大衆を動員して政権を奪取できたのは、ドイツとロシアだけだったことにもアーレントは注目しています。

政党の勢力はその国内での支持者の割合に比例するから、小国における大政党ということもあり得るが、これに反して運動は何百万もの人々を擁してはじめて運動たりうるのであって、その他の点ではいかに好条件であっても、比較的少ない人口の国では成立が不可能である。

確かに、ある程度の規模の「大衆」が存在しなければ、社会を大きく動かすような運動にはなり得ません。ヨーロッパ大陸で最も人口が多かったのが、ドイツとロシアであり、しかも第二巻で考察されていた通り、この両国には全体主義へと発展しやすい民族的ナショナリズムも広がっていました。

陰謀論という「世界観」

第一次世界大戦で敗戦したドイツは領土を削られ、賠償金問題で経済も逼迫。さらに九二九年に始まる世界恐慌で多くの有力企業が倒産し、街には失業者があふれていました。

この先、自分はどうなるのか、経済が破綻したこの国は、どうなってしまうのか――不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる「世界観」、それを与えてくれたのがナチズムであり、ソ連ではボルシェヴィズムでした。

人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう――だがそれは人間が愚かだからとか邪悪だからということではなく、全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのである。

ともかく救われたいともがく大衆に対して全体主義的な政党が提示したのは、現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の物語でした。

全体主義運動は自らの教義というプロクルステスのベッドに世界を縛りつける権力を握る以前から、一貫性を具えた嘘の世界をつくり出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている。ここにおいて初めて根無し草の大衆は人間的想像力の助けで自己を確立する。そして、現実の生活が人間とその期待にもたらす、あの絶え間ない動揺を免れるようになる。

「現実世界」の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆は、全体主義が構築した、文字通りトータル(全体的)な「空想世界」に逃げ込みました。それは、自分たちが見たいように現実を見させてくれる、ある種のユートピアでした。

空想世界といっても、現実世界から完全に切り離されたものではなく、現実を(かなり歪曲した形で)加工したものが基盤となっています。大衆が想像力を働かせやすいエピソードをちりばめながら、分かりやすく、全体として破綻のない物語を構築するためにナチスが利用したのは「反ユダヤ主義」と、ユダヤ人による「世界征服陰謀説」でした。

周知のようにユダヤ人の世界的陰謀の作り話は、権力掌握前のナチスのプロパガンダのうち最大の効果を発揮するフィクションとなった。反ユダヤ主義は十九世紀の最後の三分の一以来、デマゴギー的プロパガンダの最も効果的な武器となっており、ナチスが影響を与えるようになる前、すでに一九二〇年代のドイツとオーストリアで世論の最も強力な要素の一つになっていた。

荒唐無稽な「作り話」であっても、ユダヤ系資本が力を持っていた英米仏から政治的、経済的に締め付けられ、厳しい暮らしを強いられていたドイツの大衆にとっては説得力のあるシナリオになり得ました。

これまでお話ししたように、ドイツではユダヤ人の同化がかなり進み、見た目だけでは普通のドイツ人と区別がつかない人が多く、学者、法律家、ジャーナリスト等、知的職業の人の割合がかなり高かった。その一方で、ユダヤ教の信仰や慣習を強く保持している人もいました。ドイツが急速に工業化を進めたのに伴って、東欧から多くのユダヤ人が移住してきましたが、そういう人たちは、いかにもユダヤ人という風体で、特定の地域に集まって貧しい生活をしていました。

私たちの中国人や韓国人に対する偏見がそうですが、自分と見た目がほぼ変わらない人が、自分から見て違和感のある振る舞いをしているのを見ると、余計に気に障るということがあります。ユダヤ人に対する偏見をぬぐえない人、自分は能力があるのにどうしてもっと認められないのだろう、社会がおかしいのではないかと不満を持っている人にとっては、本来ドイツ人とは全然違う異分子、「外」から圧力をかけている連中の一部が、表面的に姿を変えて、「民族共同体」の「内」にも潜り込んでいて飲んでいるかのようにも思えてきます。ゴビノーやチェンバレンの人種理論は、そういう見方を正当化してくれます。ユダヤ人は恰好のターゲットだったのです。

暴走する想像力

『永遠のユダヤ人』というナチスのプロパガンダ映画があります。ゲットー風のところに住んでいるいかにもユダヤっぽい人たちと、エリート的なユダヤ人を一つの流れの中に描き出し、両者の正体が「同じ」であることを強調します。ユダヤ人をめぐる文化的緊張を実感として知らない現代の日本人が見ると、あまりにわざとらしくてどうしてこれで騙されるのかと感じてしまうような代物ですが、当時のドイツ人の中には元々そういうイメージを持っていた人が多かったのかもしれません。

ヒトラーは政権獲得後も、自らを支持した大衆の反ユダヤ的な想像力を利用し、「ユダヤ人を排してドイツ民族の血を浄化する」という人種差別的なイデオロギーで大衆を率いていきました。大衆を動員するために利用した物語的世界観を、そのまま国家の指導原理に応用し、特殊な世界観で統一された全体主義の国家を作り上げていったわけです。

ナチス以前およびナチス以後のいかなる大衆プロパガンダより現代大衆の願望をよく知っていたナチス・プロパガンダは、「ユダヤ人」を世界支配者に仕立て上げることによって、「最初にユダヤ人の正体を見抜き、それを闘争で打ち破る民族こそがユダヤ人の世界支配の地位を引き継ぐだろう」ことを保証しようとした。現代におけるユダヤの世界支配というフィクションは、将来におけるドイツの世界支配という幻想を支える基盤となったのである。

「最初にユダヤ人の正体」はゲッベルスの日記からの引用です。陰のユダヤ人ネットワークが世界を支配しているのだとしたら、その仕組みを乗っ取れば自分たちが世界の支配者になれる――。単に「悪いのはユダヤ人だ」と糾弾するだけでなく、「ゆくゆくはドイツ人が世界の支配者として君臨する」という将来像を提示したわけです。

このような陰謀論にかぶれてしまうと、あらゆることが「それらしく」見えてきます。ジグソーパズルのピースがぴたりとはまるように、それまで気にもしていなかったことが「あれも」「これも」陰謀を裏付けているように思えてくる。ナチスの提示した世界観の場合には、ユダヤ人の政界進出がその好例と言えるでしょう。

第一次世界大戦の頃からユダヤ系の人々が政治の表舞台で活躍するようになり、ドイツでは外相、内相、オーストリアでは外相、蔵相のポストを占めました。ドイツもオーストリアも憲法の主要な起草者はユダヤ系でした。かつては金融界や知識層に多かったユダヤ人が、政治にも進出してきているとなると、世界征服の陰謀がにわかに真実味を帯びて感じられるようになります。

それが真実かどうかは、ここでは問題になりません。陰謀論にはまった大衆が勝手に想像力を働かせてくれたおかげで物語世界がふくらみ、ナチスの世界観を強化していくことになりました。仮にその物語に疑問を持つ人がいても、何か変わったことを言えば、秘密国家警察であるゲシュタポに検挙されるかもしれないので、なかなか口にできません―――何をやったら反体制派と見なされることになるのかよく分からない状況を作り出して不安にさせることが、全体主義下の秘密警察の特徴です。誰も表立って口にしない。だから政権に対抗するもう一つの物語へと発展していかない。疑問に思っていた人も、自分の気のせいだったかもしれない、と自分に言い聞かせ、修正しようとする。そのため、ナチスの作り出した世界観に合った物語だけが流通し続けることになります。

求心力を維持するための「奥義」

世界観によって大衆の心をつかみ、組織化することが全体主義運動の最初のステップだとすると、その世界観が示すゴールに向けて、大衆が自発的に動くよう仕向けるのが次なるステップです。その手法を、ナチスは秘密結社に学んだとアーレントは指摘しています。

模範として秘密結社が全体主義運動に与えた最大の寄与は、奥義に通ずる者とそうでない者との間にヒエラルキー的な段階づけをすることから必然的に生ずる、組織上の手段としての嘘の導入である。虚構の世界を築くには嘘に頼るしかないことは明らかだが、その世界を確実に維持するには、嘘はすぐばれるという周知の格言が本当にならないようにし得るほどに緻密な、矛盾のない嘘の網が必要である。全体主義組織では、嘘は構造的に組織自体の中に、それも段階的に組み込まれることで一貫性を与えられており、その結果、ナイーヴなシンパ層から党員と精鋭組織を経て指導者側近に至る運動の全ヒエラルキーの序列は、各層ごとの軽信とシニカルな態度の混合の割合によって判別できるようになっている。全体主義運動の各成員は、指導層の猫の目のように変わる嘘の説明に対しても、運動の中核にある不動のイデオロギー的フィクションに対しても、運動内で各自が属する階層と身分に応じた一定の混合の割合に従って反応するように定められているのである。このヒエラルキーもまた、秘密結社における奥義通暁の程度によるヒエラルキーときわめて正確に対応している。

単なる下っ端の「よく分かっていない人間」のままなのは嫌だ、という大衆の心理を巧みに利用して、秘密結社的なヒエラルキーを導入したということです。アーレントは「奥義」と表現していますが、「真実」あるいは「トップシークレット」と言い換えてみるとイメージが湧くのではないでしょうか。

人間は、何が真実なのか分からない、自分だけが真実を知らされていない状態というのは落ち着かないものです。秘密結社に入っても、トップシークレットを知り得るのはヒエラルキーの階段を昇り詰めた、ごく一部の人たちだけ。自分も知りたい、教えてもらえるようなポジションに就きたいと思わせるヒエラルキーを、ナチスは構築したわけです。

信用されればされるほど、上に行けば行くほど、より多くを知ることができる組織と言えば、ある程度の年齢の方であれば、オウム真理教のケースを想起されるのではないでしょうか。これはメンバーの忠誠心と組織の求心力を高める、最も効果的な方法です。もともと上昇志向が強い人はもちろんですが、出世に無関心であったような人でも、一度「他の人が知らないことを自分は知っている」ということの妙を味わうと、知らないまま(知らされない状態のままではいられなくなります。

こうした心理状態は、いじめという現象のなかにも見出すことができます。いじめの第一歩は、仲間外れを作り出すことです。任意の人物を、集団の意思決定のネットワークから排除する。すると、それまで無関心だった人も、身近に意思決定のネットワーク――いじめっ子のグループがあると分かる。分かると妙に気になって、自分もそのネットワークに加わり、なるべく中核に近いところへ行こうとします。それが自分を安心させ、満足させる最も手近な方法だからです。ヒトラーには、このような人間の心理がよく分かっていたのだと思います。

流動し増殖する組織-「運動」としての全体主義

アーレントは、全体主義は「国家」でなく「運動」だと言っています。奥義通暁の程度に応じて細分化されたヒエラルキーも、大衆の心を組織の中枢へと引き寄せ、絶えず動かしていくための仕組みといえるでしょう。

通常の国家は、指導者を頂点として、命令系統が明確なピラミッド状(もしくはツリー状)の組織を形成します。法による統制を徹底するには、それが不可欠だからです。これに対し、組織が実体として固まっていかないのが「運動」。イメージとしては台風や渦潮に近いと思います。

台風の目(中枢)は確認できても、全体の形状は不安定で、輪郭も定かではありません。全体主義においては、命令を発する台風の目も常に運動し、それに合わせて周辺の雲(組織)もどんどん形を変えていきます。

「運動」は全体主義の特徴であると同時に、急所でもありました。気圧の運動が鈍化すると台風の勢力が弱まるように、運動の担い手である大衆が安定してしまうと求心力が落ちてしまう。それを防ぐためにナチスが講じた諸策のなかで、アーレントが特に注目したのが「組織の二重構造化」でした。

第三帝国の初期には、ナチスは何等かの意味で重要な官庁はすべて二重化し、同じ職務が一つは官吏によって、もう一つは党員によって執行されるようにすべく配慮していた。

例えば外務組織も、旧来の外務省とその職員を温存しつつ、党の機関として新たに二つの外務組織を設け、片方には東欧やバルカンのファシスト運動との関係を、もう片方には西欧諸国との外交関係を担当させています。

警察組織に関しても、悪名高きゲシュタポ(秘密国家警察)がすべてを牛耳っていたわけではありません。単一機関に任せると、肥大化してヒトラーを脅かす存在になりかねないからです。同等の組織を横に並べる二重化のほか、エリート組織の上に新たなエリート組織を重ねることも行っています。

一例として、ナチスの軍事的な任務がどのように担われていたかを見てみましょう。通常の国家であれば、それは国防軍が独占的に遂行するものですが、ヒトラーはゲシュタポやSS(親衛隊)、SA(突撃隊)のような複数の機関に分散しています。

SAはナチスの武装行動隊で、一九二一年に設立されました。SSはヒトラー個人を守る護衛隊で、二五年に設立されたときはSAの下部組織だったのです。しかし、三三年の政権獲得後、SAがヒトラーの統制を外れる行動をとり始めると、ヒトラーはこれを許しませんでした。SSに指示してSA幹部の虐殺を実行し、組織を無力化したのです(レーム事件)。その後、SSは正規軍に準ずる武装部隊を擁する組織に発展し、武装SSと呼ばれるようになりました。SSの指導者だったヒムラーは、三三年から三六年にかけて各州の警察長官のポストも掌握して、SSの統轄下にゲシュタポ(秘密国家警察)を設立。SS・ゲシュタポの両組織が反ユダヤ政策の実行にあたることになります。SSにはこの他、国防軍が闘っている最前線の後ろでユダヤ人を虐殺して回る特別行動部隊という準軍事的な部隊もありました。

このように、ナチス・ドイツの組織構造は、二重化どころか、次第に「増殖」の様相を呈し始めます。あまりに複雑で、外からはもちろん、組織のなかにいてもその全貌や指揮系統が見えづらい――それこそがヒトラーの狙いでした。ヒトラーが優先したのは、統治の安定化ではなく、不安定な状態のまま、組織の求心力を維持し高めていくことでした。何重にも組織を作って忠誠心を競わせたのはそのためです。

強制収容所がユダヤ人から奪ったもの

ナチス政権は十二年しか続きませんでしたが、少なくともその間はヒトラーの絶対的支配が揺らぐことはありませんでした。すべての計画、殲滅すべき敵は、特段の理由もなく彼の一存で決められ、「なぜ」ということを彼に問う者も、それどころかそこに疑問を持つ者すらいなくなったとアーレントは指摘しています。

誰が逮捕され粛清さるべき人間であるか、彼が何を考え何を計画するかははじめから決まっているのであり、彼が実際に何を考え何を計画したかは誰の興味もひかない。彼の犯罪が何であるかは、客観的に、いかなる〈主観的因子〉も参考にすることなく決定される。世界のユダヤ人と闘うのであれば、敵はシオンの賢者の陰謀の一味である。親アラブ的な対外政策を展開しようとしているのであれば、敵はシオニストである。

誰が、どんな罪を犯したかは、もはや問題ではありません。ユダヤ人による世界征服の陰謀などというものが嘘だったとしても、それが露見する怖れはありませんでした。それ

は、全体主義が不安定な「運動」だったからです。

安定した現実のなかでは、そしてすべての人に監視されている世界のなかでは嘘はすぐばれてしまう。嘘がばれないですむのは、全体的支配の状況がすでに日常世界を広く蔽ってしまい、プロパガンダが不必要になったときだけである。

不安定な運動のなかにあっては視界が悪く、嘘も見えなかったのです。いったん支配が確立し、全体主義という「台風」が人々の日常を完全に呑み込んでしまうと、「計画」を遂行するために誰かを説得したり、理由を説明したりする必要もなくなります。ナチスが「ユダヤ人のいない世界」を実現することは、さほど困難なことではなくなりました。その世界観を完成させたのが強制収容所であり、絶滅収容所です。

ナチスが最終的に「絶滅」を目指すようになった要因に、第二巻でアーレントが論じていた優生学的人種思想の影響があったと考えられます。文化的アイデンティティをベースとする「国民」概念で選別していれば、例えばユダヤ教を捨てた人は迫害の対象外にできたかもしれません。そうでなければ国外に亡命してもらう、という方法もあったでしょう。しかし、運動の初期段階で「人種」や「民族」という概念を世界観に持ち込み、それを統治の原理に組み込んだナチスは、ドイツ人たちにとって分かりやすい形で、「血」を浄化するつまり、守るべき血統と絶やすべき血統を厳密に弁別し、後者を排除する必要があったのです。「浄化」を最も分かりやすい形で実現するのが、絶滅です。絶滅させてしまえば、これ以上、血が汚されることはありません。突拍子もない話ですが、巨大な警察+軍事国家による全体的支配体制を確立すれば、不可能ではありません。そうやって、辻褄を合わせようとしたわけです。

ちなみに「血」のたとえは、ヒトラーが発案し、多くのナチス宣伝家が取り入れました。具体的には、異人種間の婚姻を「血の屈辱」と呼ぶことなどによって、ドイツ人の心理に原初的な感情を喚起したのです。一九三五年に制定されたニュルンベルク法は、ユダヤ人とドイツ人との婚姻・性交を禁止するなど、まさに「血の浄化」を法制化したものです。ナチスは、当初は単なるレトリックにしか見えなかったものを現実化していったのです。

強制収容所および絶滅収容所の罪過について、アーレントは次のように指摘します。

強制収容所および絶滅収容所の本当の恐ろしさは、被収容者がたとえ偶然生き残ったとしても、死んだ人間以上に生者の世界から切り離されている――なぜならテロルによって忘却が強いられているからということにある。ここでは殺害はまったく無差別におこなわれる。まるで蚊をたたきつぶすようなものだ。誰かが死ぬのは、組織的な拷問もしくは飢えに堪えられなかったからかもしれないし、あるいは収容所が一杯になりすぎていて、物質としての人間の量の超過分を処分しなければならなかったからかもしれない。また逆に、新たに供給される物質としての人間の量が不足する場合には収容所の定員充足率が下がり、労働力不足になる危険が生じるので、今度はあらゆる手段をもって死亡率を減らせという命令が出されることもある。

「生者の世界」とは、一般のドイツ人の社会を指します。彼らの多くは、強制収容所や絶滅収容所の内情を知りませんでした。情報統制が敷かれていたということもありますが、ナチスがユダヤ人を段階的にドイツ社会から切り離していたので、すでに「自分たちとは関わりのない存在」になっていたというのです。

ユダヤ人の段階的切り離し

ユダヤ人の段階的切り離しについて、少し歴史的な過程を補足しておきましょう。ヒトラーが首相に就任した三ヵ月後、一九三三年四月に制定された職業官吏再建法で非アーリア人は官庁から排除されます。次いで、大学教師、弁護士、公証人、保険医など、公的職業にユダヤ人が就くことが禁止され、民間企業にも圧力がかかります。自営業の人はアーリア系企業への売却が迫られ、自由業の場合でも、ユダヤ人の作家の著作が焚書に遭うなど、ユダヤ人の職業生活が次第に困難になり、多くの人がドイツを離れます。序章でもふれたようにアーレントたちも比較的初期に亡命しています。そして一九三五年九月に先ほどのニュルンベルク法が制定され、ユダヤ人はドイツ人と性的関わりを持てないだけでなく、選挙権や公務就任権が奪われます。

九三八年十一月、ユダヤ人少年による在パリ・ドイツ大使館員狙撃事件を口実に、ナチスに扇動された民衆による本格的なユダヤ人迫害が始まります。ユダヤ人商店やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)、企業、住宅が破壊されました。その際砕けたガラス片を水晶にたとえて、この事件は「水晶の夜」と呼ばれました。こうしたなかで、SSとゲシュタポはユダヤ人の国外追放や強制収容所送りを進めました。約三万人のユダヤ人男性が強制収容所に入れられました。更にユダヤ人に特別税が課され、損害保険金も没収され、ユダヤ系の企業の資産はアーリア系の企業に無償譲渡されました。こうやって、ユダヤ人を迫害して追い出すこと、ユダヤ人がいない環境で暮らすことが次第に当たり前になりました。またそれが、ユダヤ人がいなくなった後の官僚ポストに就いたり、国外に出て行ったユダヤ人の財産を受け継いだ人たちにとっての利益になりました。

翌三九年、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まり、ドイツが東欧の各地を占領支配するようになると、ヒトラーは東欧をドイツ民族の新たな入植地(東方生存圏)にするという、『我が闘争』(一九二五、二六年)以来の構想を実現しようとしました。しかし、それを実現するには占領地に暮らしている人々、特にユダヤ人をどうにかしないといけません。東欧には数百万人単位のユダヤ人がいました。フランス降伏後の仏領マダガスカル島へのユダヤ人移送計画(四〇年)、独ソ戦勝利後のロシア東部への移送計画(四一年)も立てられますが、いずれも計画倒れに終わってしまいます。その間、東方ではナチスの支配地域が広がっていきました。敵対勢力であるユダヤ人を監視下に置きながら占領を続けるのは負担ですし、彼らをどうにかしないと、ドイツ民族を中心とした東欧地域の再編(東部総合計画)が進みません。実際、ドイツ本国の人や民族ドイツ人の移住計画が既に動き始めていました。そこで文字通り、絶滅させるという選択肢が浮上してきます。

四一年六月に独ソ戦が始まると、特別行動部隊が前線の背後で、現地に居住するユダヤ人を虐殺し始めます。半年間に五十万人以上が殺されたとされています。この虐殺の進行によって、問題の解決のために彼らを丸ごと殺害するというやり方が、既成事実になっていきました。当初は、ソ連を速やかに征服して、ロシア東部にユダヤ人を移送するつもりだったのに、戦線が膠着化して、うまくいかなくなったこともあって、この路線が有力になりました。ユダヤ人問題の解決策は、「強制移送」から収容所での「絶滅=ホロコースト」に転換したわけです。

絶滅計画はなぜ可能だったか

ナチスの歴史を研究する歴史家の間で、直接的に虐殺の任務を与えられていなかった人たち、例えば治安維持を担当する予備警察部隊の隊員にも、ユダヤ人をなぶりものにして楽しみながら殺そうとする残酷な態度が見られるのをどう解するかが話題になったことがあります。「普通のドイツ人」にも、単なるユダヤ人嫌悪にとどまらない、絶滅を志向するようなメンタリティがあったのではないか、ということです。なかなかはっきりした答えの出ない問題ですが、十九世紀以降次第にヨーロッパ諸国、特にドイツ語圏に浸透していた反ユダヤ主義が、ナチス政権の八年間の間にドイツ的日常の一部になっていたことと、総力戦の戦場における緊張・高揚感が相乗作用を引き起こしたということは言えるでしょう。

「絶滅計画」が実行された主要な舞台が、ドイツ本国ではなく、東欧の占領地域だったことも、実行者たちにとって殺害のハードルが低くなった要因かもしれません。「追放計画」は政策として公表されていましたが、「絶滅計画」は一般国民向けには公表されず、ヒトラーと側近だけで方針を決め、特別行動部隊やSSの絶滅収容所の管理部門で実行されました。ただ一般国民も、戦争中とはいえ、隣人がいきなり連行されたら、心配したり、不安になったり、少なくとも行き先くらいは気になると思いますが、今までお話ししたようにユダヤ人が徹底して隔離され、そこにいてはならない存在だという教えが浸透したためか、あまり気にする人はいなかったようです。“自分と同じ一般市民〟である隣人がいなくなれば、我が身にも同じことが起こるかもしれないと不安になるかもしれませんが、ユダヤ人は自分たちとは縁もゆかりもない異質な存在になっていました。つまり、いなくなっても、あまり気にならない存在になっていた、ということです。

西欧世界はこれまで、その最も暗黒の時代においてさえ、われわれはすべて人間である(そして人間以外の何ものでもない)ということの当然の認知として、追憶される権利を殺された敵にも認めて来た。アキレスはみずからヘクトールの埋葬におもむいたし、専制政府も死んだ敵を敬ったし、ローマ人はキリスト教徒が殉教者伝を書くことを許したし、教会は異端者を人間の記憶のなかにとどめた。だからこそすべて跡形なく消え去ることはなかったし、あり得なかったのだ。人は常に自分の信条のために死ぬことができた。強制収容所は死そのものをすら無名なものにする―――ソ連では或る人がすでに死んでいるかまだ生きているかをつきとめることすらほとんど不可能なのだ――ことで、死というものがいかなる場合にも持つことができた意味を奪った。それは謂わば、各人の手から彼自身の死を挽ぎ取ることで、彼がもはや何も所有せず何ぴとにも属さないということを証明したのだ。彼の死は彼という人間がいまだかつて存在しなかったことの確認にすぎなかった。

アーレントがここでこだわっているのは、ナチスがユダヤ人の「死」をどう扱ったかということです。ただ命を奪ったのではなく、そもそも、その人が存在していたという事実まで抹消した名前も信条も、人格や個性も「なかった」ことにした――というのです。

アーレントが参照しているように、古代ギリシアの叙事詩に登場するアキレスは、仇の遺体を家族の元に返しています。有史以来、人間は自分が殺した敵のことも、殺さなければならなかった理由や経緯と共に記憶に留め、ときには敵を敬いもしました。しかし強制収容所での死は、殺した側が「人を殺した」という実感すら持たないようなものでした。ナチスは「ユダヤ人がいない世界」を作ろうとしたのではなく、「そもそもユダヤ人などいなかった世界」に仕立てようとしたわけです。

それが可能だったのは、ナチスがドイツ人からも道徳的人格を奪っていたからだとアーレントは示唆しています。道徳的人格は、私たちがお互いを単なる生物学的な意味でのヒトではなく、自由な意思を持った、自分と同等の存在として尊重し合う根拠になるものです。道徳的人格がないヒトは、ただの有機体、動く物質です。道徳的人格が否定された存在を殺すのは、物質を壊すこと、せいぜい、他の生き物を殺傷処分することと同じです。隣人が連行されたドイツ人の無関心も、良心の呵責に苛まれることなくユダヤ人を死に至らしめた人々のメンタリティも、全体主義支配が進展していく中で、ユダヤ人の法的人格が段階的に剥奪され、それに伴って、その根底にある道徳的人格も否定されたことの帰結です。

道徳的人格と「複数性」

アーレントは、そうした道徳的人格は生得的なものではないと考えます。生物としてのヒトが育っていくうちに、自然とお互いの人格を認め合い、かけがえのないものと見做すようになるわけではありません。アーレントにとって、人間は私的(プライベートな)領域だけでなく、「政治的領域」でも生活する存在です。私的領域は、生物として生きていくうえでのニーズを満たすだけの領域です―――アーレントは、私的領域を親しい人同士の親密な関係が築かれる領域というより、人の生活に関わる様々なことが秘密裏に(inprivate)処理される領域としてネガティヴに捉えています。それに対して、政治が営まれる公的領域では、人々はお互いに言語や演技によってお互いに働きかけ、説得しようと努力する中で、他者が人格をもった存在であること、更に言えば、自分とは異なった意思を持つ存在であることを学んでいきます。

そのようにして自律した道徳的人格として認め合い、自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を、アーレントは「複数性plurality」と呼びます。アーレントにとって「政治」の本質は、物質的な利害関係の調整、妥協形成ではなく、自律した人格同士が言葉を介して向かい合い、一緒に多元的(plural)なパースペクティヴを獲得することなのです。異なった意見を持つ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは、次第に人間らしさを失っていきます。

全体主義的支配は、一方では政治的・公的領域の消滅の後にも残っている人間間の一切の関係を破壊し、他方ではこのように孤立化され、お互いを見捨てたあげく、放置された状態にある人々が再び、政治行動―もちろんそれは真の政治的行為ではないのだが――に動員されるような状況を否応なしに作り出す。

ナチスの全体主義的支配で、言葉によって人々が結び付く「公的領域」が崩壊した状態で生き続けた人たちは、プロパガンダの分かりやすい言葉に反応しやすくなります。そうやって他者との繋がりを回復しようとするわけですが、それは対話を通して他者を理解するようになる言葉ではなく、動物の群れを同じ方向に引っ張っていく合図の呼び声のようなものです。人々は、そういう単純なシグナルに従って、同じ方向に進んでいくことが政治で、それによって人間らしい繋がりを回復できると勘違いしてしまうのです。「公的領域/私的領域」の関係や、「複数性」をめぐるアーレントの議論は結構複雑なのですが、終章で少しまとめた形でお話ししたいと思います。

道徳的人格が解体されていく(つまり、自分の頭で考えたり、判断したりしなくなる)過程や、人格としての自律を失った人間のメンタリティについて、アーレントがより本格的に取り組むきっかけとなったのがアイヒマン裁判です。

元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの裁判は、ユダヤ人が建国したイスラエルで開かれました。これを傍聴したアーレントが何を感じ、どのような結論に至ったのか。第4章では、裁判の一部始終から死刑執行までを追ったアーレントの著作『エルサレムのアイヒマン』を紐解いていきたいと思います。

現代にも起こり得る全体主義

アーレントは『全体主義の起原』のエピローグで、先ほど見たように、全体主義支配が人間の「自己」を徹底的に破壊することを指摘しています。彼女自身はナチスのような全体主義が再興する危険性を、具体的な形で言及してはいません。しかし、条件が揃えば現代でも全体主義支配が起こる可能性はゼロではないと思います。

ナチスが台頭した頃と同様、現代は個人がバラバラになっています。人間同士のリアルなつながりが薄れる一方、人々が逃げ込むインターネット上ではプロパガンダが跋扈しています。

人間は、明快な世界観や陰謀論的なものに弱いものです。大人向けのアニメの多くに陰謀論的な筋書きが施され、またそうしたものが支持されているということに、それは表れているでしょう。

強い不安や緊張状態にさらされるようになったとき、人は救済の物語を渇望するようになります。それまでの安定と、現在の不安とのギャップが大きければ大きいほど、分かりやすい物語的世界観の誘惑は強くなります。経済的格差が拡大し、雇用や福祉制度などの社会政策が崩壊しかけていると言われる今の日本は、物語的世界観が浸透しやすい状況と言えるかもしれません。

ナチスも、結党当初はそれほど強い支持を得ていたわけではありません。しかし第一次世界大戦で敗北して以降、急速に経済が逼迫するなか、当時の政権(ヴァイマル共和政の社会民主党政権)は、大衆が国の再興を実感できる(期待できる)処方箋を提示できずにいました。議会での民主的審議を重視するあまり、物事を決定できなくなっていたのです。戦勝国に対しても、強い交渉力を発揮できていないように(大衆には)見えた。我慢できなくなった大衆が求めたのは、強力なリーダーシップを発揮できる剛腕でした。様々な問題を一発解消してくれる秘策が、どこかに必ずあるはず-そう期待したのです。それまで政治に対してまったく無関心・無責任だった人たちが、危機感のなかで急に“政治〟に過大な期待を寄せるようになると、そういう発想に陥りがちだという点にも留意する必要があるでしょう。

現代でも、特に安全保障や経済に関連して、多くの人が飛びつくのは単純明快な政策です。完全に武力放棄するか、徹底武装するか。思い切った量的緩和こそ最善の策と主張する人がいる一方で、古典的自由主義に則って市場介入を一切やめるのが正解という人もいますが、世界はそれほど単純ではありません。

単純な解決策に心を奪われたときは、「ちょっと待てよ」と、現状を俯瞰する視点を持つことが大切でしょう。人間、何かを知り始めて、下手に「分かったつもり」になると、陰謀論じみた世界観にとらわれ、その深みにはまりやすくなります。全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分は分かっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。

分かりやすい説明や、唯一無二の正解を求めるのではなく、一人ひとりが試行錯誤をつづけること。アーレントの「全体主義の起原」は、その重要性を言外に示唆しているように思います。

第一次世界大戦後の賠償金問題

一九一九年、連合国側とドイツはヴェルサイユ条約に調印し、ドイツはすべての植民地と領土の一部を失い、さらに巨額の賠償金の支払い(一九二一年、千三百二十億金マルクに決定)を課せられた。

世界恐慌

一九二九年、ニューヨーク株式市場での株価の大暴落から世界中に拡大した経済恐慌。ドイツはヴェルサイユ条約と世界恐慌により、深刻な経済状況に陥った。

ボルシェヴィズム

ソ連共産党の前身であるボルシェヴィキの政治思想。ボルシェヴィキは「多数派」の意味で、一九〇三年にロシア社会民主労働党が分裂した際にレーニンが率いた勢力。彼らはブルジョア階級との妥協を排し、前衛政党が労働者・農民を指導する武装革命を提唱し、一七年の十月革命で政権に就くと党による独裁体制を築いた。分裂したもう一方の勢力は「メンシェヴィキ(少数派)」と呼ばれた。

プロクルステスのベッド

ギリシア神話に出てくるアッティカの追い剥ぎプロクルステスが、通行人を捕らえてベッドに無理やり寝かせ、身長がベッドより長ければその長さだけ足を切り落とし、短ければ槌で打ち伸ばしたというエピソードから、容赦ない強制や杓子定規の意味で使われる。

『永遠のユダヤ人』

一九四〇年に公開された、ナチスの宣伝相ゲッベルスの指示で製作された反ユダヤ主義のプロパガンダ映画。原題の〈DerewigeJude>は、十字架のイエスを侮辱したため、永遠に放浪する呪いを受けた「彷徨えるユダヤ人」という民間伝承の登場人物を指す。アーリア人の優秀さとユダヤ人の劣等性の対比を強調しながら、ユダヤ人の世界支配の陰謀を描き出す。

ゲッベルス

一八九七~一九四五。ナチス政権の宣伝相として、言論・文化統制を行って反ユダヤ主義を喧伝し、国民を戦争に動員した。ヒトラーは彼を後継首相に指名して自殺したが、ゲッベルスもその翌日に自殺。

レーム事件

ナチス政権樹立後、SAの正規軍への格上げを主張し、ヒトラーや国防軍の首脳部と対立を深めていたSA幕僚長のレームや、社会主義的な路線を追求するナチス左派の領袖グレゴール・シュトラッサー、ヒトラーを公然と批判していたシュライヒャー元首相等がSSやゲシュタポ、国防軍によって粛清された事件。一九三四年六〜七月。これによってヒトラーの権力は絶対的なものになる。

ヒムラー

一九〇〇~四五。ナチスの党官僚。一九三六年にSS全国指導者兼全ドイツ警察長官に就任し、国内の警察機構を掌握する。政権末期には内務大臣も兼務する。

ニュルンベルク法

ナチス政権下のドイツで、一九三五年九月に制定された「ドイツ人の血と名誉るための法律」「帝国市民法」の二つの法律の総称。ナチスの全国党大会が開かれていたニュルンベルクにおいて召集された国会で議決されたことから、この名称で呼ばれている。前者でドイツ人とユダヤ人の婚姻や性交渉が禁止され、後者で非アーリア人に対して、選挙権や公職就任権などの帝国市民権が否定された。これらの法律の施行令でユダヤ人の定義が明確にされた。

マダガスカル計画

ドイツの勢力圏内に住む三百万~四百万人と言われるユダヤ人を集めてアフリカ東岸の仏領マダガスカル島に移住させることで、ユダヤ人問題を解決する計画。一九三八年頃からゲーリングやリッベップなどのナチス幹部の間で強制移住味が検討され始め、三九年一月に保安警察長官のハイドリヒを本部長とし、アイヒマンを実質的責任者とする「ユダヤ人移住中央本部」が創設される。一九四〇年六月にフランスがドイツに降伏したことで、現実味が増すが、大西洋の制海権を握る英国との講和が前提だった。四〇年八~九月のイギリス本土大空襲(バトル・オブ・ブリテン)が失敗したため、この計画も挫折した。

民族ドイツ人

ドイツの国外に居住しているが、血統的・人種的にドイツ人と認められる人。ナチスは東欧の占領地域で、民族ドイツ人とユダヤ人やスラブ人を区別し、前者を優遇した。また、ポーランドの占領地域の内、ドイツ帝国に編入した西部地域に、ポーランド東部、ソ連、バルト三国、ルーマニア等に居住する民族ドイツ人を移住させ、ゲルマン化を図った。*122独ソ戦ナチスは当初は徹底した反共の立場を取り、ソ連と敵対していたが、チェコスロヴァキアの併合をめぐって西欧諸国との緊張関係が高まると、同じ様に西欧諸国と緊張関係にあったソ連と相互に接近するようになる。一九三九年八月に独ソ不可侵条約を結び、九月にそれぞれポーランドに侵攻し、分割占領する。しかし、東方こそがドイツの生存圏だと信じていたヒトラーは、対ソ戦争の準備を命じ、四一年六月に三百万の兵力を投入してソ連を奇襲攻撃する(バルバロッサ作戦)。

アキレス

ギリシア神話の英雄、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の主人公。女神と人間の王の間に生まれた半神で、踵(アキレス腱)以外はいかなる攻撃によっても傷つかない。トロイ戦争で、自分の親友を殺したトロイの王子ヘクトールと戦い、復讐を遂げる。ヘクトールの遺体を戦車につないで引き摺り回すが、ヘクトールの父である、トロイの王プリアモスの懇願に心を動かされ、遺体を引き渡す。

 209『世界の歴史⑮』

成熟のイスラーム社会

オスマン帝国の成立

王子メフメトの夢

一四五一年にメフメト二世が最終的に即位すると、オスマン朝の歴史は新しい局面をむかえた。かれは、その精力的な征服活動もあって、ヨーロッパ諸国からは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血に塗れた君主」などと恐れられているが、トルコ人にとっては偉大なる君主以外の何者でもないことはもちろんである。一四五三年五月二十九日にコンスタンティノープルは五三日間の激しい抵抗の末に陥落した。この町の征服はかれの子どものころからの夢の実現であった。それは、継母であるセルビアの旧封建領主の娘マラからコンスタンティノープルの絵を見せてもらったりして、早くからこの町になみなみならぬ関心をもっていたからである。一方、イスラーム勢力としては、六四二年のニハーワンドの戦いでサーサーン朝ペルシアを滅亡させて以来の目的の達成であった。コンスタンティノープルの攻防の様子はわが国でもすでによく知られている!

ハンガリー人ウルバンに作らせた巨大な大砲や、金角湾の入り口が鉄の鎖で閉鎖されたためにボスフォラス海峡側から陸地を通って金角湾に船を降ろした「艦隊山越え」のエピソードなど話は尽きない。しかしなんといっても勝利を決定づけたのは、メフメトがハンガリー人の技術者ウルバンを、高い報酬を支払って雇うことができたのに対して、ビザンツ側は自分の技術を売り込んできたウルバンを資金不足で雇うことができなかった事実にみられる、オスマン朝とビザンツ帝国との経済力の差である。そしてこの差こそ、すでにアナトリアとバルカンの多くの地域をオスマン側が確保し、エーゲ海とマルマラ海一帯に一つの商業圏すら成立させていたという現実に根ざしていた。その中心がブルサとエディルネ(旧アドリアノープル)であった。当時まだエーゲ海沿岸各地に領土を持っていたヴェネツィアと、クリミア半島のカッファ港をコロニーとしていたジエノヴァとは、すでにビザンツ帝国を見限り、トルコ勢との通商に将来を託していた形跡がある。コンスタンティノープルの攻防におけるオスマン朝の軍勢は一〇万から一二万にのぼったのに対して、ビザンツ側は七〇〇〇人であったという。それもそのはずで、コンスタンティノープルは第四回十字軍の略奪によりすでに荒廃しきっており、かつて一〇〇万といわれた住民もいまや五万人前後に減少していた。

オスマン帝国の成立

コンスタンティノープル征服によるビザンツ(東ローマ帝国の消滅は、ヨーロッパ史上に中世の終わりを告げる大事件であった。この事件が当時のヨーロッパ諸国にあたえた「恐怖」は想像にかたくない。しかし、コンスタンティノープル征服は、オスマン朝にとってもその国家の本質的な転換につながるできごととなった。その第一は、これまで大きな都市をもったことのないオスマン朝が、はじめてメガロポリスともいえる大都市を手中にしたことにある。第二は、すでにスルタンというイスラーム国家の君主の称号をえていたとはいえ、実質的にはいまだトルコ系ガーズィ集団のリーダーにすぎなかったオスマン朝の君主が、いまや中央ユーラシア以来の遊牧君主ハーン(大可汗)、古代ペルシア以来の伝統のあるシャー(オスマン帝国ではパーディシャー)、そしてビザンツ皇帝の威容をもおびる専制君主となったことである。メフメト二世は征服直後に父ムラト二世の時代から絶大な影響力をもっていたトルコ人の有力者チャンダルル・ハリル・パシャを処刑し、代わってバルカンのキリスト教徒出身のザガノス・パシャを大宰相に据えることによって中央集権支配の足場を築いた。これ以後、草創期に活躍したガーズィやアナトリアのトルコ系の有力な家系の者たちはしだいに政治の中枢から排除され、ザガノスのような「デヴシルメ」(後述)出身の「奴隷」身分の軍人・官僚が重用されることになる。こうした一連の中央集権化政策は、オスマン国家の永続性を確保した点で、オスマン朝の歴史の上に決定的な転換点をなした。つまり、オスマン朝は、征服によって獲得された国土を一族の間で分割(分封)するという中央ユーラシア以来の遊牧国家の慣習を払拭できず短期間に分裂・消滅したセルジューク朝やティムール朝などの限界を乗り越えたのである。

こうして、イスタンブルを首都とし、広大な地域を中央集権的な支配のもとにおさめたこの国家を、以後われわれは「オスマン帝国」と呼ぶことにしよう。少しのち、十六世紀はじめのことになるが、シャルル八世の率いるフランス軍の侵入を経験して、小国家の分立状態にあったイタリアのマキアヴェリが祖国を救う手だてとして範としたのは、専制君主のもとに「力と統一」を実現した「トルコ」であった。ただし、こうした中央集権化への道も、ただメフメト二世の個性とコンスタンティノープル征服とによって突然生まれたものではない。アンカラの戦いで挫折したとはいえ、バヤズィト一世以来の歴史的な経験の所産であったことをつけ加えておこう。また、この国家の統治理念や官僚機構などについては、のちにふれることにしよう。

コスモポリタンな宮廷

メフメト二世は最初、グランド・バザールの近く、現在イスタンブル大学の本部のおかれている場所に宮殿を作ったが、やがて帝都にふさわしい新たな宮殿の建設が一四六五年に着手され、七八年に完成した。これがトプカプ宮殿である。以後ここは一八五三年までオスマン王家の居所であり、かつ政治の中心として機能した。ただし、ここにオスマン王家の女性や子供たちが移り住んで「ハレム」ができたのは、ずっとのちムラト三世(在位一五七四~九五年)時代のことである。「ハレム」の名は、ヨーロッパ人のオリエンタリズムによって歪んだイメージが持たれているが、要は、オスマン王家の「家庭」であり、またオスマン帝国の文化の先端をいく「上流文化のサロン」である。

トプカプ宮殿は、左の図にみるように、ヨーロッパ型の大宮殿とはまったく違う景観をもっている。第一の門、第二の門と順々に進んだのち、ようやく内廷へとたどりつく。そうした手順は中国の紫禁城をしのばせるという考え方もなりたつ。しかし、それよりも、歴代のスルタンたちが思い思い気に入った場所にキオスク(東屋)を建てることによってできあがったこの宮殿は、遊牧民の天幕の集合体といった趣きである。それは遊牧文化の伝統をしのばせる。

第二門をくぐった御前会議のある庭園には、珍しい花が咲き乱れ、鹿やダチョウなどの動物が放し飼いにされ、芝の上を流れる水音だけが静寂を乱す唯一のものだったという。これは自然をこよなく愛するトルコ人の感覚であり、むしろバ―グ(庭園)を好んだサファヴィー朝の宮殿と一脈通じるものがある。スルタンたちは、ここでいくさと政務に疲れた心と体をいやしたのである。

しかし、メフメトの宮廷での生活ぶりは、やはりコスモポリタンであった。メフメトはトルコ語のほかにアラビア語、ペルシア語をよく知っており、少しではあるが、イタリア語とギリシア語も知っていた可能性がある。かれの宮殿で文学用語として幅をきかせていたのはペルシア語であった。ニザーミーの『ハムサ(五部作)』やフェルドウシーの『シャー・ナーメ(王書)』が好まれたという。また、イル・ハーン国の宰相ラシード・アッディーンの『集史』も盛んに読まれた。ペルシア語と張り合ったのはティムール朝のアリ・シール・ナヴァーイーとジャーミーに代表されるチャガタイ文学であった。これらのことは、一方ではオスマン・トルコ語がまだ文学としては十分に成熟していなかったことを示すとともに、他方では、中央ユーラシアやイランとの文化的連続性が濃厚であったことを物語っている。こうした雰囲気を伝えるのが、メフメトがアリー・クシュチュ(一四七四年没)という人物を厚遇した事実である。クシュチュの父は、サマルカンドに天文台を作ったことで知られるウルグ・ベク(ティムールの孫)の鷹匠(クシュチュ)であった。

クシュチュはウルグ・ベクのもとで天文台建設の指揮をとったが、一四四九年にウルグ・ベクが暗殺されると、つぎの君主に仕えることを嫌ってメッカへの巡礼にでかけるとの口実でサマルカンドを離れ、タブリーズでトルコ系アクコユンル(白羊朝)の英主ウズン・ハサンを訪問した。ハサンもかれを歓迎して召し抱えた。その後、かれがメフメト二世のもとへ使節として派遣されたとき、メフメトはイスタンブルでかれをよい待遇で召し抱えることを提案した。クシュチュは一度タブリーズへ戻って使節の役目を果たした後、約束通りイスタンブルへ戻ったという。

メフメト二世は晩年に「御前会議」を直接主宰することをやめ、そのすぐ後ろの部屋から会議を見守る習慣を作った。そのきっかけとなったのは、ある日、アナトリアから来た遊牧民の族長が部屋に入ってきて「われらがスルタン陛下はどなたかな?」と聞いたからであるという。こうした話の真偽は定かではない。しかし、それはメフメト二世が臣下たちとあまり変わらぬ風体をしていたことを示している。以後、メフメト二世の宮廷ではこれまでのトルコ的・遊牧的で質素な雰囲気を改めて、ビザンツ的な重々しい雰囲気を醸し出すことに気をつかい、スルタンは、これまでのように大臣たちと一緒に食事する習慣を改めて別室で食事するようになったという。

メフメト二世の肖像画は本物か?

メフメト二世はイスラームの造形表現に対する忌避の観念を大胆に犯してイタリアのルネサンス画家ジェンティーレ・ベッリーニ(一四二九~一五〇七年)に肖像画を描かせたことで有名である。現在ロンドンにあるこの絵は後代の画家が修復したものらしい。一九三五年にこの絵の真偽を確かめるために行われたレントゲン撮影の結果、オリジナルな部分として残されたのはターバンだけであったという。あるトルコ人学者によれば、ジェンティーレ・ベッリーニが描いたメフメトのオリジナルの絵は王者の風格とはほど遠いやつれた姿であった。かれは二つの絵を比較して、メフメトは、実は癌であったと推測している。ベッリーニが肖像画を描いたのはメフメトの死のわずか八ヵ月前のことであった。メフメトがベッリーニだけではなく、イタリアのルネサンス画家を何人か招待したのは事実である。かれはイスラームの彫像に対する禁止戒律には無頓着であった。いまでもイスタンブルに残るヒポドローム(競馬場)の「三匹の蛇」の柱頭も、ウラマーたちの反対を押し切ってメフメトが破壊から救ったのだという。

不満なトルコ人たち

このように、メフメトは文人や学者の保護者であったが、かれがイタリア・ルネサンス画家のパトロンであったとするのは、もちろんいいすぎである。かれは基本的にはムスリム君主であった。かれがイタリア人教師からイタリア事情を学んでいたのは、ローマの征服を射程に入れていたからであろう。それにもかかわらず、メフメトがトルコ人よりもペルシア人、イタリア人、ユダヤ人を重用したことは、トルコ人にとっては不満の種であった。次の言葉はこうした不満を象徴している。

お前がスルタンの宮殿で名を高めようとするなら、お前はユダヤ人か、ペルシア人か、フランク(ヨーロッパ人)にならねばならぬ。

お前の名をハービル、カービル、ハミディと変えねばならぬ。

こうした言葉を聞くと、メフメト二世の時代はコスモポリタンな雰囲気にあふれてはいるが、その実はいまだイスラーム国家としてのオスマン帝国の体制とその文化とが確立するまでにいたらない過渡的な時代、オスマン朝史上にきわめて特異な時代であった。といえるであろう。

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『ウィトゲンシュタインと独我論』

2023年09月23日 | 2.数学
『ウィトゲンシュタインと独我論』

『論考』における「独我論」

「論考」においては、〈事〉とそれを認識する<思念〉とそれを外に表した〈命題〉は、同一の論理形式を有している。(図解Ⅰを参照。とは言え、事実としては可能的事実であってもよい訳であり、そしてこの場合には、思念は想像になる。何れにせよ事実と思念は、あらゆる可能的事実をも含めて、同一の論理形式を持って対応しており、そしてその論理形式は、それらに対応する命題において示される。したがって、あらゆる可能的事実をも含めた意味での〈世界〉と、それに対応するところの、想像を含めた意味での<思念)「広義の思念」は、同一の命題によって表される事になる。それ故その意味で、〈世界〉とそれに対応する<思念>――「広義の思念」のこと、以下同じ――は同じ内容を有し、且つ、可能的命題を含めた意味での命題の全体が〈言語〉であるとすれば、同一の言語の範囲内にあって、その〈言語〉の限界を限界とし、その意味で同じ限界を有する事になる。ち、〈世界〉と〈思念〉は、内容を同じぐし、且つ、限界も同じくするのである。そしてその意味で、〈世界〉と〈思念〉は、完全に重なり合いながら動くことになる。ところで、〈思念〉は疑いも無く私<思念〉である。したがって、内容においても限界においても〈思念〉と完全に重なり合いながら動く〈世界〉もまた、私の〈世界〉である事になる。そしてその意味で、世界は私の〈世界〉なのである。

*『論考』2・17、2・181、3、3・315を参照。

さて、世界は私の〈世界〉である、と言うとき、その私の〈世界〉は、他人にも理解可能であろうか。それは、理解不可能なのである。何故なら、私の〈世界〉は私の〈言語〉で語られるのであるが、その私の〈言語〉は、私のみが理解する<言語>(dieSprache,diealleinichverstehe5・私的<言語>であるのであるから。したがって、私の<世界)は、私のみが理解する〈世界〉私的〈世界〉なのであるから。(図解Ⅱを参照。)私の〈世界〉は私のみが理解する私的〈世界〉なのである。そしてこれは、〈独我論>の一表現であると言えよう。世界は私の〈世界〉であり、それは、私のみが理解する私的〈世界〉であるとすれば、各人はそれぞれ自己の〈世界〉に閉じこもり、そこには相互理解は存在しない事になる。即ち、各人の〈世界〉には窓が無いのである。私には私の〈世界〉のみがあり、そこには、私の感覚、感情、思い、意志、……が、即ち、私の心的なるものが、生き生きと存在するのであるが、他人のそれらは感じられず、他人はただ人の形をしたものとしてのみ存在するのである。このような世界観は、世界において心的存在として本当に存在するものは独り我のみである、という意味で、「独我論」と言われてよいであろう。

  • この部分は、文法的には、「それのみを私は理解する言語」即ち「私が理解する唯一の言語」ととる事も可能であり、事実多くの(例えば、ラッセル、ヒンティッカ、ステニウス、ブラック)そうとている。しかし、それでは、「世界は私の〈世界〉である」という事は帰結するが、「その私の〈世界〉は、他人には理解不可能である」という事は帰結しない。即ち、独我論は帰結しないのである。ウィトゲンシュタインは、独我論について、こう言っている。「誰も私を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。即ち、他人は「私が本当に意味する事」を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。….私は、彼は私を理解すべきである、という事は論理的に不可能である事を望む。即ち、彼は私を理解する、と言う事は、偽ではなく無意味であるべきなのだ。」(『青色本』p.65、一一〇頁)なお、ここで言う「私の<言語>」は、『探求』においては、第二五六節で「私自身のみが理解出来る言語」(dieSprache,dienurichselbstverstehenkann)と言われている。

それではウィトゲンシュタインは、このような意味での独我論――簡単に言えば「世界は私の〈世界〉である」という独我論――を、どう克服しようとしたのか。それは、『論考』においては、それを深化し徹底する事によって、であった。ポイントは、「私の」という所有格で言語的に姿を現している〈私〉と世界との関係、である。彼は、(途中省略した所もあるが、)こう言うのである。(図解とWを参照。)

私の〈世界〉である事になる。そしてその意味で、世界は私の〈世界〉なのである。

  • 『論考』2・17、2・181、3、3・315を参照。


さて、世界は私の〈世界〉である、と言うとき、その私の〈世界〉は、他人にも理解可能であろうか。それは、理解不可能なのである。何故なら、私の〈世界〉は私の〈言語〉で語られるのであるが、その私の〈言語〉は、私のみが理解する<言語><dieSprache,diealleinichverstehe5・私的〈言語〉るから。したがって、界〉は、私のみが理解する<世界>――私的〈世界〉なのであるから。(図解Ⅱを参照。)私の〈世界〉は私のみが理解する私的〈世界〉なのである。そしてこれは、〈独我論>の一表現であると言えよう。世界は私の〈世界〉であり、それは、私のみが理解する私的〈世界〉であるとすれば、各人はそれぞれ自己の〈世界〉に閉じこもり、そこには相互理解は存在しない事になる。即ち、各人の〈世界〉には窓が無いのである。私には私の〈世界〉のみがあり、そこには、私の感覚、感情、思い、意志、が、即ち、私の心的なるものが、生き生きと存在するのであるが、他人のそれらは感じられず、他人はただ人の形をしたものとしてのみ存在するのである。このような世界観は、世界において心的存在として本当に存在するものは独り我のみである、という意味で、「独我論」と言われてよいであろう。

  • この部分は、文法的には、「それのみを私は理解する言語」即ち「私が理解する唯一の言語」ととる事も可能であり、事実多くの(例えば、ラッセル、ヒンティッカ、ステニウス、ブラック)そうとている。しかし、それでは、「世界は私の〈世界〉である」という事は帰結するが、「その私の〈世界〉は、他人には理解不可能である」という事は帰結しない。即ち、独我論は帰結しないのである。ウィトゲンシュタインは、独我論について、こう言っている。「誰も私を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。即ち、他人は「私が本当に意味する事」を理解出来てはならない、という事が本質的なのである。….私は、彼は私を理解すべきである、という事は論理的に不可能である事を望む。即ち、彼は私を理解する、と言う事は、偽ではなく無意味であるべきなのだ。」(『青色本』p.65、一一〇頁)なお、ここで言う「私の<言語>」は、『探求』においては、第二五六節で「私自身のみが理解出来る言語」(dieSprache,dienurichselbstverstehenkann)と言われている。

それではウィトゲンシュタインは、このような意味での独我論――簡単に言えば「世界は私の〈世界〉である」という独我論――を、どう克服しようとしたのか。それは、『論考』においては、それを深化し徹底する事によって、であった。ポイントは、「私の」という所有格で言語的に姿を現している〈私〉と世界との関係、である。彼は、(途中省略した所もあるが、)こう言うのである。(図解とWを参照。)

私の言語の諸限界は、私の世界の諸限界を意味する。(5.6)

[私の]世界と[私の生活は一つである。(5・621)

私は、私の世界(小宇宙)[そのもの]である。(5.63)

[時々刻々]思考し表象する主体は、[世界の中には]存い。(5・631)

[時々刻々思考し表象する]主体は、世界には属さない、それは、世界の一限界なのである。(5・632)

[時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている]形而上学的主体は、世界の中の何処に認められるべきなのか。君は、こう言うであろう、ここにおける事態は、眼と視野の関係と同じである。しかし、君は実際には眼を見てはいない。[それ故、眼は視野の中には存在しない。]

そして、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は、出来ない。(5633)[それ故、視野と眼の関係は偶然的である。]

つまり、[二重の意味で]視野は例えばこのような形を[必然的に]持つものではないのである。(5・6331)

この事は、我々の経験の如何なる部分もア・プリオリではない、という事と関係している。我々が見るものは全て、別様でもあり得たのである。(5・634)ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、純粋な実在論と一致する、という事を悟る。独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在が残るのである。(5・64)

したがって実際、この意味でならば自我が哲学において心理学的にでは無く問題になり得る、という意味が存在する。自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、哲学に入り込む。[この自我、即ち]哲学的自我は、人間ではない、人間の身体ではない、或いは、心理学が扱う人間の心ではない、それは、形而上学的主体であり、[私の]世界の部分ではな[超える事の出来ない]限界なのである。(5・641)

独我論で、「世界は私の〈世界〉である」と言うときの世界、即ち、私の世界は、私の生活世界の事である。(5・621)ここで我々は、決して、私の世界として物的な世界のみを考えてはならない。私の世界は、私の感覚、感情、思い、意志、等々、によって成り立っている私の生活世界なのであり、そして、それが即ち〈私〉というものの内実なのである。(5・63)

ところで、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しない。(5・631)ウィトゲンシュタインによれば、例えば「Aは、pと考える」は「「p」は、pと考える」という形式を持っているのである。(5・542)主体Aは、命題「p」に成り切って、pと考える訳である。これが現実の事実である。即ち主体Aは、この世界から姿を消すのである。(なおこの所見は、中期においては、普通一般にIchdenke(私は考える)という表現によって意味されている事は、実はEsdenkt(考えが生じている)という表現で表されるべきものだ、と言われる。)こういう訳で、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しないのである。勿論、生じている考えは、私が考えているものである。しかしその〈私〉は、私の生活世界の中には現れない。そのような主体は、私の生活世界には属さず、私の生活世界の一限界(eineGrenze)なのである。(5・632)そのような主体によって思考され表象される世界は、論理的に、当の主体を前提とし、且つ、当の主体を超え出る事は出来ないからであろう。それでは、私の生活世界の他の限界は何か。それは、私のみが理解する言語によって与えられる全可能的事実ではないか。そしてこの限界は同時に私の言語の諸限界(die Grenzen)でもあるのである。(56)私の言語の限界が諸限界と複数になっているのは、言語の限界には、名前に関する限界と、それらの間で可能な結合の形式に関する限界が有るからではないか。

他方、時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている形而上学的<主体〉は、世界の中の何処に認められるべきか、と問われれば、君はこう言うであろう、形而上学的<主体〉と私の生活世界の関係は、眼と視野の関係と同じである。しかしそのように言うとき、もしも君がⅠ図のような図式、即ち、眼が視野の中に入り込んだ図式、を思い描いているとすれば、それは誤りである。何故ならば、君は実際には眼を見てはいないのであるから。したがって、眼と視野の関係は、Ⅱ図のようでなくてはならない。しかし、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は出来ない。(5・633)したがって、眼と視野の関係は偶然的なのである。それ故、眼と視野が必然的にI図のような図式を有する訳でもない。実は眼は「見る」という事と何の関係もなく、実は額が見るのだ、という事も、論理的には有り得るのである。つまり、眼と視野の関係は論理的にはI図のような形もI図のような形も持ちはしないのである。(5.6331)この事は、我々の経験の如何なる部分もアプリオリではないのであり、我々が見るものは全て別様でもあり得たのだ、という事と関係している。(5.634)何故ならば、もしも眼と視野が必然的にI図のような図式を有するとすれば、たとえ眼の構造は偶然的であるとしても、それを前提にすれば、視野には眼の構造を反映するアプリオリな構造が存在する事になるであるから。

ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、即ち独我論の自我がⅢ図のように大きさのない点へと収縮されると、純粋な実在論と一致する、という事を悟るのである。言い換えれば、独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在如何なる部分もア・プリオリではない実在が残る、という訳である。(5・64)

とは言え独我論と実在論は、実は高々極限としてそれぞれの世界が一致するしくは重なるmitdemreinenRealismuszusammenfallen)までであって、独我論が純粋な実在論になるのではない。第一、独我論の自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、大きさのない点としてであろうとも、なお形而上学的〈主体〉として、また、世界の一部分ではなく限界(dieGrenze)として、残のである。(5・641)そして第二には、私の言語は依然として私のみが理

言語であるから。したがって『論考』においては、独我論が消え去る訳ではない。それでは、そのような独我論を脱却するにはどうすればよいのか。それには、形而上学的<主体〉は実は非在である、という事と、②言語は、私の言語――私のみが理解する言語(私的言語)ではなく、本来公的なもの(公的言語)だ、という事を、明らかにしなくてはならない。そして『論考』の後、①の作業が『青色本』と『探求』において遂行され、②の作業が『探求』において遂行された。そして実は、その何れの作業の土台にも、彼の「言語ゲーム論」があるのである。言うならば、彼の「言語ゲーム論」が、彼の「独我論」批判の土台なのである。(図解Vを参照。)しかし、この事の具体的議論は第二章本論に譲る。

なお、Ⅱ図においては、眼と視野の関係は偶然的であった。それでは、Ⅲ図における自我と世界の関係はどうであろう。それは、世界は必然的に私の世界である、という意味では必然的であるが、その世界の内容は、アプリオリではなく、別様でも有り得た、という意味では、やはり偶然的なのである。したがって、言うなれば、自我と世界の関係は、形式的には必然的だが、内容的には偶然的なのである。そして「眼と視野」の比喩は、眼と視野の関係は形式的にも偶然的である、という点において、破れる訳である。

 209『世界の歴史⑩』

西ヨーロッパ世界の形成

聖処女・羊飼い・大天使

ジャンヌ・ダルク

奇蹟力をもつ王の勢威はいつまでも続かない。しょせん民衆の日常とはかけはなれた高みから聖性を垂示しようとする試みは根付かない運命にあるからだ。「魔女」として火刑台にのぼったドンレミ村の田舎娘が、王と王国の危地を回復するとは、いかにも不思議だが、現実の出来事であった。

十四、五世紀は、戦争の世紀である。フランスのみをとっても、フランドル・ギュイエンヌ戦争(一二九四~九八年)、フランドル戦争(一三〇二~一三〇五年)、そして百年戦争(一三三七~一四五三年)とつづいた。国家の財政は疲弊し、農村は荒廃し、人心は乱れた。頼るべき人もモノもなしに、フランスはこのまま衰退してゆくかに思われた。この時代、奇妙な伝説がどれほどプロパガンダとして上から流布させられても、それがただちに浸透することはまれであった。しかし、ただ一人の少女の純なる思い込みが、軍隊を動かし、王位を動かし、国を動かすという驚くべき出来事が、この時起きた。ジャンヌ・ダルクである。

彼女は一四二四~二五年に天使のお告げを得て、まずヴォークールールの守備隊長の所に赴き、そこからオルレアンに向かうが、途中シノンで王太子とはじめて会い、ポワティエでは神学者の一団から審問を受けた。処女性をチェックされて立場が公認され、ブロワをへてオルレアンに入ったのが一四二九年四月二十九日であった。彼女も会議に加わった作戦が功を奏し、同年五月、イングランド軍のために七ヵ月間包囲されていたオルレアンを解放したのである。

そして王太子の王位継承権を主張し、ランスで七月十七日に大司教から塗油を受けてシャルル七世が即位することになる。だがジャンヌは、翌年イングランド軍に捕らえられ、宗教裁判で有罪とされ、火刑に処せられる。

さて、多くの予言者がこの時期には生まれ出たのだが、この点、とくにジャンヌは著名であった。パリの一市民は、批判的だが、つぎのように同時代に述べている。「この時期に一人の乙女が、言われるようにロワール川の河畔に現れて自ら予言者だと名乗り出た。そしてかくかくしかじかのことが実現するだろうと言った」。彼女の政治的立場や権力者との関係がいかなるものであれ、その予言が、直接、国家の命運を決める政治・軍事決定のきっかけとなり、しかも正確な企図の下敷きになったことは、まこと、フランス史上空前絶後のことであった。口頭の予言文化が脈々と流れていたのだろう。

予言は知識人の占有ではなかったのである。一四六〇年前後には、ポワトゥー地方の農民が、いくつかの集会を独自に開く。そこではかれらは予言によって、下層民たちが貴族と教会関係者を破壊するだろうと言っていたというのである。いずれにせよ不思議な時代、不思議な出来事である。

百年戦争

もう少し、この不思議の背景に肉薄してみたい。どんな時代、どんな状況、どんなメンタリティーが、ジャンヌの活動を可能にしたのだろうか。そもそも彼女の「愛国心」は、実際に「フランス国民」に感化を及ぼし、積極的な反応を得たのだろうか。ナショナリズムはすでにあったのか。

一三三七年には、フランス王フィリップ六世がイングランド王エドワード三世のフランス領内の封土(アキテーヌなど)を取り上げ、他方でイングランド王はフィリップのフランス王位継承権を認めずに、自ら王位継承を主張した。これが「百年戦争」の始まりである。その間、スロイスの海戦(一三四〇年)、ポワティエの戦い(一三五六年)、ついで、フランスから三分の一を削ってしまったブレティニー・カレー条約(一三六〇年)が結ばれた。しかし一三六九年には、新たに英王領土が没収された。

十五世紀に入るとアザンクールの戦い(一四一五年)が英軍の勝利とともに戦われ、英国の仏国内の占領地が増えてゆく。また仏王の捕虜化、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦の開始などが危機を増幅する。フランスにとって屈辱的なトロワ協約(一四二〇年)が締結されて、イングランド王ヘンリ五世がフランス王に宣せられる。

そこに現れたのが、ジャンヌ・ダルクであった。彼女の死後もフランスの反撃は続き、カスティヨンの戦い(一四五三年)で英軍が仏軍に敗れ、ボルドーが降伏して百年戦争は終結し、カレーを除く全域からイングランド勢力は放逐される。

百年戦争時の王と国家意識

この百年戦争は、通常、中世的な封建制原理に終止符を打ち、国家主権をその領域(国土)支配とともに樹立する契機となった戦争だと理解されている。しかし、本当にこの時期に国民国家ないし主権国家があったなどといえるのだろうか、考えてみよう。

一三二八年に、男子なくシャルル四世が死去したとき、フィリップ端麗王の子供たちのうち、エドワード二世の寡婦で三世の母であるイザベルがまだ存命であった。だからエドワード三世にフランス王位が移ると考えるのが普通だろう。女子相続を認めない習いになっていたフランスで、なぜこの封建関係に規定された正当な要求が認められなかったのか。それは、フランス人らのあいだに一定の「国民意識」「国家意識」があったと仮定しなくてはうまく説明できないだろう。

十四世紀の神学者ニコル・オレームは、フランス王の条件は、フランス人であることだ、と述べている。そしてフランス王権は、ただ王や王家に属するものではなく、王国の三身分(聖職者・貴族・平民)すべてのものだという意識がすでにあったからこそ、一四二〇年のトロワ協約はかくも屈辱的だと考えられたのである。ヘンリ五世が、いくら国民感情に配慮し、フランス王国の不可分性と統合性を説いて、フランスの法・慣習・特権・自由を護ると約束したうえで支配者に納まろうとしたにもかかわらず、猛烈な反感を買ったのは当然すぎるかもしれない。フランス王家王国の象徴たる「ユリの花」が踏みにじられたのであり、言葉のわからぬ英国人の手に王冠と王国が移されるのはフランス人には赦せないのであった。この感情が、「オルレアンの乙女」(ジャンヌ・ダルク)によって火をつけられた。百年戦争は、その最終局面では党派争いなどではなく、国と国、国民と国民の争いでありえた。ジャンヌは正しく国民感情を体現し、国を動かす予言をなしえたのである。

百年戦争の結果、フランスは領土を確保し、イングランドも一四五五年から始まったラ戦争後、近代主権国家に近づくが、ブルゴーニュ公の北方への領国拡張策も、一種のナショナリズムの表れであったことを見逃してはならない。トロワ協約後、ブルゴーニュ公はフランスから離れ、ネーデルラント北部を押さえて自立した国家の創出をめざしたのである。

別の点でも、それは「近代的」戦争であった。歩兵による集団戦法が、騎馬の弩隊を圧倒するという軍事的な新展開があったからである。傭兵軍隊が雇われ盛んに活躍したことも、大きな特徴である。かれらは、それぞれの王国の防衛に尽くした。そしてその負担は全国民が担うよう、シャルル七世下で按配された。かくて、貴族層は徐々にその役割を失ってゆき、国王と市民との支えあいという絶対王政期の政治の仕組みが芽吹いた。

羊飼いのもつ政治的意味

さて、ジャンヌ・ダルクとその伝説にもどろう。ジャンヌ・ダルクが、「羊飼い」だったという話がある。ブルゴーニュの年代記作者モンストルレやジャン・ジュフロワは、彼女の評判を落とすために彼女を「牛飼い女」にした。また、すでに同時代に彼女が「女羊飼い」だという伝説が広まりはじめていたのも事実である。羊飼いであったからこそ、かくも民衆の信望を得たというのであろうか。しかしジャンヌ自身は、糸紡ぎや裁縫上手な女の子ではあったが、羊飼いであることについては、公開審理で否認している。

古来、羊飼いは宗教において特別の位置を占めていた。古代オリエントでは、いずれの国においても王や神々が羊飼いとして表象された。キリスト教でも族長や預言者を(もと)羊飼いとし、また司祭をもそう喩える習わしがある。中世は、この伝統をより豊かにした。

「子供時代のイエスの福音書」(外典)が十三世紀から流行して、羊飼いへの好意的な見方が台頭する。また、時禱書をはじめとするミニアチュールの図像も、三王に先立ってイエスに会いにいった羊飼いを好んで描くようになる。入城式でのスペクタクルでも、羊飼いらの扮装が登場する。結局、十五世紀末には、三王とならんで羊飼いが、さまざまなメディアを通じて栄光化されたことになる。

だが、聖書の物語への新たな影響だけが、羊飼いを注目の的にしたのではない。中世後期の荒れ果てた農村は、かえって家畜の放牧地を急増させ、それが都会人たちの食習慣の変化、肉食偏重とあいまって、実際的にもかれらの活動を重要なものにし、関心を高めさせたのである。

羊飼いは、山や農村を主な活動の舞台とした。山野のまんなかで動物たちと暮らすかれらは、どこか神秘的なところがあると感じられていた。見てみたい誘惑にかられる人物ではあるが、ときにはうさんくさく付き合いにくい変人ということにもなる。実際、農村では羊飼いらは広大な土地を横切って動物たちを動かし飼わねばならないので、しばしば農耕者と衝突し、また他の羊飼いとぶつかることもあった。ときに国境を越え移動するかれらについては、土地利用・通行権などが問題となった。性格的には不精で不誠実でサボリ屋で、怠惰で変わり者だという評判だ。

しかし動物にはやさしくて、ほかのだれにもできないような付き合い方をする。かれらは、天気の見分け方や植物の知識に精通し、何月にどの植物が生え、それにどんな効能があるか熟知して、家畜を護らねばならなかった。

その関連でいえば、百年戦争のときジャンヌ・ダルクは、自分の家畜を「インスラ(イ―ル)」と呼ばれる城のところに兵士の危害からまぬがれさせるためにつれていったと、裁判記録にはある。狼藉をはたらく兵士らは、容赦なく家畜を奪っていくからだ。さらに狼の危難もひかえていることは、すでに述べたとおりである。

羊飼いであって後年フランス国王に仕えることになったジャン・ド・ブリーが、十四世紀後半に著した「善き羊飼い」の手引書がある。国王(シャルル五世)みずから羊飼いの科学に興味をもって執筆を命じたようだ。本書には、羊飼いの仕事の特質と栄誉、天候の予兆のしかた、動物の病とその治療法、その他各月の留意点などが書かれている。そして面白いことに、章句の端々に、司牧者たる聖職者とその信徒を羊に見たてた忠言が数多くちりばめられていて、どちらともとれる二面性がある。

社会的に特別な立場は、宗教的な異能者という噂をもたてることになった。実際羊飼いは、ときに魔術を使った廉で裁かれている。一四九六年、ポントワーズの住人は、ある羊飼いに魔術的手段で自分の家畜を護ってくれるように頼んで、一二スーの罰金を科された。かれらは他のどんな職業人にもまして、特別な力があると考えられていたようだ。

十字軍のうち、一二二年、ドイツとフランスで発生した「少年十字軍」を率いたのは、まだ青二才の羊飼いであり、かれらはイエスの出現を得て、自分の神聖な使命を悟ったのだという。ほかにも羊飼いの加わった民衆運動は、いくつも記録にとどめられる。年代記の語るところでは一二五一年、羊飼いを中心とする民衆が激しく反乱を起こし、聖地を解放したいと願った。一三二〇年にも、パリの仏国王をたずねて十字軍の先頭に立つように願う「羊飼いの十字軍」と呼ばれる運動が、羊飼いの若者の幻視から始まった。イングランドでは、宗教劇や羊飼いの「対話」が、社会の厳しい批判をするところまでゆく。たとえばタウンリーの羊飼い劇がその例である。フランスではかくも過激なことはしないで、むしろ既存秩序の賞讃の舞台にかれらが登場する。

要するに、権力者の注目を浴び、また政治的な意味を負わされ、自らも民衆に隠然と影響力をもつことをたのんで自信を深め、行動を起こすようになったのが中世末の羊飼いであったといえる。ジャンヌ・ダルクが本来の羊飼いであったかどうかはべつとして、牛や羊と日ごろ親しんでいた田舎娘であり、「妖精の木」とその近くの泉のまわりで踊り歌って春祭りを楽しんだことはたしかであるし、またそのような伝説が広まったこと自体、動物との特別な関係をもつ人物が政治の舞台に聞入して、その方向を変えることもありうるという時代の特質を表している。ここにも、中世盛期以後、自然を征服・収奪してきた人間とその社会への自然側のリアクションがあるのではないか。

大天使ミカエルと国家

もうひとつ、ジャンヌ・ダルクにからめて中世末の国家と信仰について考えるとき、「大天使」が興味深いきっかけになるのではないだろうか。ジャンヌは、故郷ドンレミ村の泉のほとりで、大天使ミカエルのお告げを聴き(幻聴)、自らのフランス救国の戦士としての使命を確信した。大天使のほかには、聖女マルガリータとカテリーナの「声」が聞こえたという。その後も、幾度も決定的なお告げを授かっている。なぜ、大天使なのだろうか。たとえば聖母マリアではいけないのだろうか。

大天使は聖者とちがって純粋な霊であるから、聖遺物がない。どの修道院も王侯も、その骨をもつということはできない。ノルマンディーの海岸沖の小山上にあるモン・サン・ミシェル修道院や、イタリア東部のモンテ・ガルガノを代表的な巡礼地とするとしても、だれにでも、どこからでも、すべからく「高きところ」から現れる融通無礙の遍在性を備えている。しかも、中世末にいよいよ切迫した危機感が抱かれた「最後の審判」においては、大天使は竜をふみひしぎ、神の天使の軍勢を率いて、サタンの軍勢たる悪霊や反キリスト先遣隊たる呪われた民族ゴグ・マゴグの軍隊を折伏する。

諸天使たちが、地上の信徒たちの身近にいて物質的援助をしたのにたいし、もともと大天使は、数ある天使たちのうちでも最高の地位にあり、主の玉座のまわりに侍る四人の主要天使が含まれる。ミカエルのほか、聖母マリアに受胎告知をして盛んに図像に描かれた「慈悲の天使」ガブリエル、そしてラファエルとウリエルである。

なかでも戦う大天使ミカエルは、光の君であり、おびただしい天使の群れから、一頭地抜きんでた存在だ。もともとかれは、戦士たちの守り手であるとともに、国家・帝国の守護者でもあった。カロリング朝は、国の守護者としてほとんど公式にかれを認知していたし、ついでドイツでもザクセン朝の諸王が、勝利をもたらしてくれる天使にいくつものバシリカを捧げた。

フランス、そしてジャンヌ・ダルクとのかかわりに着目すれば、中世盛期から中世後期にかけて、ミカエルは仏王が標章に採用するところとなり、シャルル七世時代からは、仏王の守護者として王軍の旗にも描かれ、いわば王権のシンボルとなるのである。

中世末に、神の代理としてキリストに並び立つようにしていよいよ存在感をました正義と戦いの大天使は、不断の戦争に巻き込まれながら、正義はわれにありとして、霊的な高みから国土を支配する権威を要求していった王の統べる集権的国家に、まさにふさわしい存在ではあるまいか。

 トークは消えたけどメールは残っている ダブルで受信していて本当に良かった 一番好きな 8月2日のメール #早川聖来

『孤独の歴史』

2023年09月22日 | 1.私
孤立と孤独

孤立(loneliness)について語られるとき、孤独(solitude)は二重の否定のかたちで示される。人と一緒にいない状態で、ひとりきりだと感じていない状態である。たいていの調査で大多数の回答がこの状態に相当するにもかかわらず、これに名前がつけられることはあまりない。キース・スネルはこれを「孤立ではない望ましい状況、ブライバシーが満たされた結果に似たもの」と呼んでいる。サラ・メイトランドが論じるように、孤立について世間で激しく論じられることで、孤独の肯定的な効用が目に見えにくくなっている。

しかし、後期近代が人間関係に与えた影響は、孤独と孤立の境界線に見出される。すでに見たように、一八世紀末にヨハン・ツィンマーマンがこの問題を考えたとき、彼はひとりでいる状態と人といる状態を行き来することが大切だと強調していた。安全で生産的な孤独は選択の結果である。個人は孤独に自由に出入りすることを許されるべきである。同時代のほとんどの者と同じように、ツィンマーマンも「孤立(loneliness)」という言葉は使わなかった。しかし彼が多くの紙幅を割いて論じる破壊的な孤独は、いま使われている意味での「孤立」とほぼ対応する。害が生じるのは、自らの意思に反して無理やり人との交際を断たれたときや、修道誓願や深刻なメランコリーなどによって逃れられない孤独に陥ったときである。この問題について当時支配的だった考えと同じく、ツィンマーマンも創造的な孤独と有害な孤独を安全に行き来できるのは教養ある男性という特定のカテゴリーの人間だけだと考えていた。いまはカテゴリーが広がり、あらゆる年齢と階級の男女が含まれるようになったが、ふたつの状態をうまく行き来するのが重要であることはまったく変わらない。心理学者のクリストファー・ロングとジェイムズ・アヴェリルが結論するように、「ある状況のもとで人がもつ自発性あるいは主導権の程度が、肯定的な孤独と孤立の経験のバランスを傾ける最も重要な要因なのかもしれない」。

第二次世界大戦後に単身世帯が急増したことで、現在の危機感が煽られてきた。しかし一連の調査によって、物理的にひとりで暮らしている状態と孤立による感情面の苦しみとの結びつきには疑問が呈されてきた。高齢者の生活パターンが社会的孤立をめぐる懸念を生むきっかけになったが、一九五〇年代と六〇年代のビーター・タウンセンドによる研究からより最近のクリスティーナ・ヴィクターらによる研究までで明らかになったのは、高齢者はひとりでいることをあまり苦にしておらず、たいていその機会をうまく活用していることである。一九八〇年代にアメリカでこのテーマの研究を牽引したレシシア・ペプローは、ひとりで過ごす高齢者が「貧しい社会生活」を送っているという広く行きわたった考えは「神話」であると論じている一九四五年以降になって、高齢者が子どもやほかの親類から可能な限りずっと離れて暮らしたいと新たに望むようになったわけではない。そうではなく、これと関係するプライバシーの場合と同じように、一連の物質的条件のおかげで長年の望みがようやく実現可能になってきたのである。一九四八年に妥当な額の年金が導入され、それと関連して生涯年収、住宅事情、医療・社会支援が向上したことで、自立して暮らしたいという望みを叶えやすくなったのだ。夫婦は子どもの家に移るのを先延ばしにし、配偶者を失った者も身体的に可能な間は引き続き自分で家を切り盛りした。

高齢者の間では、孤立よりも独立を失うことのほうが恐れられるようになっていく。比較的若い集団では、独立した社会の構成単位のままでいようとする傾向と、それを可能にする力が高まったのはより最近のことである。ニーズや状況はさまざまだが、共通するのは暮らしかたを自分で決めたいという気持ちである。実家に戻るのは嫌で、よく知らない人と住まいをシェアするのも望まない二〇代の若者から、パートナーがいないときに人に拘束されない自由を求めたり、パートナーと暮らすよりひとりでいることを性分として好んだりする中年の者まで、あらゆる年齢層でそれに価値が見出されている。

社会的ネットワークの柔軟性が高まったことで、ひとり暮らしをしやすくなった。戦後間もなくは、ほとんどのコミュニティで物理的な場所と感情面・物質面の支援が密接に結びついていた。独居老人についてのシェルドンの先駆的研究によると、「完全にほかから切り離されて暮らす高齢者は比較的少なく、大多数は子どもと接触して暮らしていて、独立した個人というよりは家族の一員と考えられるべきである」。実のところサンブルの四パーセントは、子どもの隣の家に住んでいた。その後、都心部のスラムから郊外の団地に移動したとはいえ、一九八〇年代になっても高齢者と最も近くに暮らす子どもとの距離は、平均すると一九世紀初めのコミュニティでの距離と変わらなかった。やがて距離は遠くなっいくが、ほかから切り離される可能性のある人への義務を意識してそれを果たす家族の力はおおむね損なわれることがなかった。祖父母は子どもや孫の暮らしに引き続き参加し、他方で困難な状況に陥ったら物質面や精神面で支援を受けることができたのである。地元でも職場でもさらに遠い場所でも、家族以外の友人とのつき合いが増えることで家族の役割はむしろ強化され、家族が友人に取って代わられることはなかった。一九五〇年代から七〇年代半ばにかけて労働者階級の間で自動車の所有が広がると、歩ける距離や公共交通機関の有無に制約を受けることなく顔を合わせることができるようにもなる。デジタル革命のはるか前から、ネットワーク化された孤独、すなわち物理的にひとりでいながら遠くの親類や友人とつながって支え合う手段が重要性を増しつつあった。一九七〇年代半ばには、ついに電話が手紙を追い越し、いまからわずか一〇年前まで連絡手段として最も広く用いられていた。二〇〇七年の英国社会態度調査(BritishSocialAttitudesSurvey)では、「親しい友人、親類、その他の身近な人(配偶者やパートナーは除く)と、そのときの気分や近況について連絡を」取り続けるのにどのような手段を使っているかを尋ねている。女性の場合、対面での会話がまだ最も広く用いられており、五一バーセントが親しい人たちと「毎日あるいはほぼ毎日」話していた。二番目に使われていた手段が電話で、四七バーセントである。テキストメッセージとEメールはまだ後れをとっていて、それぞれ三五パーセントと二九バーセントだった。すべての手段において、男性は女性よりもコミュニケーションをとっていなかったが、デジタル機器ではその差は小さかった。

友人や家族と話していてもいなくても、ひとりで暮らしている者には家のなかで取り組むさまざまな気晴らしがあった、第4章で論じたように、家のなかの空間、世帯の豊かさ、通信システムによって、人がいないところで心を集中させる娯楽が拡大した。家庭のなかで空間を求めるにせよ、ひとりでいる時間を潰すにせよ、気晴らしの種類は以前より豊富になったのである。二一世紀初め、クリス・フィリップソンらが典型的な戦後の調査の対象になっていたコミュニティを再訪した。フィリップソンらは、高齢者が行う活動を合計一三九も見つけている。ずっと昔からあり、いまでは取り組みやすくなったさまざまな活動もあれば、テレビ鑑賞や休暇の旅行など比較的新しい活動もあった。大昔からの娯楽である読書は、いまでも最も広く行われている気晴らしである。散歩は何世紀も前から豊かな者にとっても貧しい者にとっても同じく基本的な娯楽だったが、いまも四番目に広く行われている。単身世帯が社会の周縁の存在ではなくなり、多様性を増す暮らしのひとつのかたちとして認められるようになるにつれ、市場も消費者需要の新カテゴリーに徐々に適応してきた。スーパーマーケットでは、ひとり用にパッケージ化された食品が売られている。カフェでは客のプライバシーが侵されないかたちで飲食物が提供される。家庭への宅配サービスによって、公の場でひとりで食事や買い物をするのを嫌がる人たちのニーズが満たされている。ひとり旅のために、低価格のパケージ・ツアーも企画されている。

ひとりで暮らしたいという欲求は、アンソニー・ギデンズが後期近代の再帰的プロジェクトと呼ぶものによってさらに強まった。親密性のあり方の選択肢が増えることで、自己アイデンティティをよりよく考えることが可能となり、それが求められるようにもなったのだ。自分自身の価値観と望みを絶えず再考することが、開かれた信頼できる親密性の条件である。この内省を物理的にひとりきりの状態で行う必要はないが、前章で触れたように、自己の感覚を検討し発達させるためになんらかの空間を見つけることが、次第に魅力的な選択肢になっていく。この引きこもりは一時的なものかもしれないし、長期的な計画として行われるものかもしれない。第二次世界大戦中にマス・オブザヴェーションが収集した証言には、きわめて不自由な状況のなか、独立した暮らしができる見通しが大きくいくことへのよろこびが垣間見られる。「わたしにとって家とは、完全な個人になれる場所です」とある証言者はいう。「現時点では、わたしが自分で管理して、わたし自身の個性に合わせて手を入れた完璧なフラットがそれです―友人を迎えたり、ひとり引きこもって好きなことをしたり、好きなときにものを食べたりできる場所――つまり、うまくひとりでいる技術を完成させた場所です」

アンソニー・ストーによる孤独研究の核にあったのが、アイデンティティを育むにはひとりでいる状態が必要であるという主張だった。これは、彼と同じ心理学分野の専門家たちにはずっと看過されていた。「人間が独りでいるときにその人の内面で進行することは、他の人との相互関係で起こることと同じぐらい重要である」とストーは書いている。とりわけ女性にとっては、かつては圧倒的な仕事量だった子育てと家事から逃れ、自分が誰で何になりたいのかを集中して考えるのは魅力的だった。論文集『網の目の中心――女性と孤独(TheCenteroftheWeb:WomenandSolitude)』の「はじめに」で、編者のデレス・ウェアはいう。「多くの著者が、孤独はアイデンティティを省みる休息期間だと考えている。これらの論考のなかでは、孤独はしばしば心を一新し、思考を純化し、生き方と多くの場合働き方――わたしたちがつくったさまざまな家族のなかでの生き方とは別の生き方に向き合う状態あるいは場である」。大人への移行における孤独の価値にも注意が向けられてきた。リード・ラーソンらによる若者の研究では、自己アイデンティティを発達させるにあたって、大人や仲間たちから身を退く力が重要であると強調されている。実家でドアに鍵をかけて自分の部屋に閉じこもるにせよ、大学の寮やアパートメントで別の部屋を新たに確保するにせよ、ひとりになることを強く主張するのは、社会を拒んでいるのではなく、社会に参加する方法を学ぶのに必要な手段なのである。

したがって独居は、後期近代の病というよりも、後期近代を特徴づける長所から直接導き出され、多くの場合重んじられているものだといっていい。鍵になるのは、いかなる状況のもとで孤独が孤立へと傾くのかという問いである。この話題について論じられたものの多くには、暗黙の決めつけが見られる。一九四五年以降の数量化可能な人口構造の変化、とりわけ社会の高齢化と単身世帯の急増が、ひとりでいることと連想される心身の苦しみに直接つながると考えられているのである。そう決めつけるのではなく、自由意志の問題に焦点を合わせるほうが有益だ。ジョン・ローレンスが最近論じたように、「重要なのは、ひとり暮らしがこれだけ大幅に増えたのは、主に豊かさが増したことで可能になった個人の選択の結果だと認識しておくことである」。人間関係のなかで自分だけの空間を確保したり、人間関係から完全に身を退いたりしようとするのは、いつでも生きるための戦略だった。それは計算されたリスクであり、ときに意図せぬ結果につながる。家で個人の趣味を追求して満足していたら、パートナーとの間に思わぬ障壁ができてしまうかもしれない。サイモン・ガーフィールドは切手収集への情熱を語る本を、ユーモラスながらも悲しい前置きから始めている。「ある日の午後、ケントの海岸沿いを歩きながら、わたしは妻に〔切手との〕情事のことを率直に打ち明けた」とガーフィールドは書く。「そこから事態は急展開を見せた。一週間のうちにわたしはオフィスで寝泊まりすることになり、一ヵ月のうちにフラットを借りて寝起きするはめに陥ったのだ」。よりよい関係を見出すために満足のいかない関係を終わらせる決断をしたあとは、思っていたよりもはるかに長い間ひとりで過ごすことになる可能性もあった。ほかの状況では、期待される利益とすでにわかっている代償が枠にかけられた。友情の役割の拡大について論じた研究書でレイ・パールは、他者とつながるあらゆる行動の中心にあるリスク評価についてまとめている。「ひとりでいるのを好み、自分のやりたいように自分の人生を生きる空間をもつことを好む」女性を例に、パールは次のように論じる。

それは当然、その女性が下さなければならない決断である。そうすることで、ときに孤立感を覚えることがあるかもしれないが、なんらかの孤立感を覚えるのは人間の条件の一部である。小さな子どもとともに一日中家に閉じこめられている者は、あまりにも孤立していると感じて臨床的にうつ状態に陥る。ほかにも、やさしく善良ながらも基本的に凡庸で退屈なパートナーと結婚している者は、ときに強い孤立感を覚えることがある。

時間そのものが決定的に重要な要因である。孤立は、意図していたり望んでいたりするよりも長く続いた孤独だとも定義できる。最近の研究では、この状態はU字型の曲線を描き、若者と高齢者に苦しみのピークがあることが示唆されている。この研究結果は、ほとんどの人が人生でより多くの変化を経験するようになったことと関係している。本書で取り上げた期間の最初には、個人の社会的あるいは経済的状況が大きく変わる可能性はほとんどなかった。子ども時代には生活のための労働と、教育を受けられる場合には学校が挟まれる。一四歳ぐらいで見習いになったり家事労働に従事したりすることもあり、その後、結婚して間もく家族ができて、子どもたちが去ったあとに夫婦ふたりでせいぜい数年過ごす。一つひとつの仕事をしている期間は短くても、職業を大きく変えることはまずなく、生まれた土地を離れるとしても、すでによく知っている近くの町に移り住むぐらいだった。

それとは対照的に、後期近代には例の政府計画で「トリガー・ポイント」と呼ばれるものが増え、それとともに社交性の形態についての選択肢も幅が広がった。たとえば子ども時代に転校したり、実家を出て大学に進学したり、生涯のうちに何度も住む場所や仕事を変えたり、親密な関係を始めたり終えたりしやすくなったり、子育て後の期間が長くなったりして、そうした転機はさらなる場所や活動の変化を伴うことがある。これらのポイントの一つひとつで、新しい人間関係を築くまで一定期間ひとりになる可能性がある。それが何を意味するのかは、変化の根拠になっている費用便益計算、すなわち期待される利益と失われたり不確実になったりする期間との計算による。移行がうまくいけばそれは孤独の経験となり、適応に時間がかかりすぎたりマイナス面を埋め合わせる利益が少なすぎたりすると孤立の経験となる。いまでは変化の機会がきわめてふんだんにあるので、調査では人生で一度も孤立を経験していない人はほとんど見られない。孤立の経験は先の見通しによっても左右される。一〇代の終わりから二〇代初めにかけての若者が孤立を顕著に訴えているのは、ひとりきりの期間がどれだけ続くか予想するのが難しく、その状態に耐える手段もあまりもちあわせていないからだ。若者はいまが永遠に続くと考える。一方で年を重ねた者は、たとえ苦しいときでも、たいていのことはいつか過ぎ去るとわかっている。

こうした転機の多くでは、孤立との遭遇はそれ自体きわめて短く、苦しみはわずかで、アンダーソンが「自発的、一時的、自己誘導的な孤独」と呼ぶものと大きな違いはない。それが問題になりはじめるのは、必然によって選択が阻まれ、近い未来にその状態から脱出できる見こみがないときである。ここで時間が大きな脅威となる。グラディス・ラングフォードはマス・オブザヴェーションの最も多作な日記作家のひとりであり、一九三六年から四〇年にかけて日々の考えと活動を記録している。彼女の結婚生活は、始まってすぐに夫が去って終わりを告げた。再婚しないまま四〇代終わりにさしかかり、教師としての仕事にもよろこびを見出せないラングフォードは、果てることない孤立感を痛切に書き記している。この孤立は、愛人である既婚者のレナードがたまに訪ねてくることで中断されるだけである。「今日はメランコリーの憂鬱がわたしの肩にのっかっている」とラングフォードは書く。

お金はないし、家の外に出かける気はもっとない。ひょっとしたらレナードが来るかもと思ったけれど、当然そんなことはなかったから、椅子に腰をかけて本を読んだりものを書いたりして、時間が過ぎていくのと友だちがいなくなっていくのを嘆いている。新しい友だちはつくらない。つくれるわけがないでしょう?どんな「団体」にも属していないし、訪ねていったらたいていゲストはわたしひとり。それに家を出るのが嫌だという気持ちがどんどん強くなっている。もう半分死んでいるみたいな気分。

先に取り上げた同時代の日記作家ネラ・ラストは、戦時中にバローでボランティア活動に参加して社交を求めた。ラストは結婚していたが、夫とはコミュニケーションをとることができなかった。子どもたちが家を出たあとは、半ば空っぽになった家でひとり残された。ラストは夫の気を惹いて沈黙を破ろうとしたときのことを、印象的な表現で描いている。それは「まるで湿っぽい苔の面でマッチを擦ろうとしたようなもの」だった。グラディス・ラングフォードもネラ・ラストも無力な女性であり、間違った夫を選んだ長期的な影響と、結婚制度に従うという支配的な慣習から逃れることができなかった。ネラ・ラストは近くの湖水地方に日帰りの旅をすることでひとりで楽しむ時間を見出すことができたが、彼女の暮らしの中心には深く果てしない孤立があった。

親密な関係が長期間うまくいっていた場合には、死別の悲しみがきわめて大きなものになる。この時点では、意味ある選択はすべて過去のものになる。再考の可能性はなく、望ましいひとりの状態と望ましくないひとりの状態の間で新たにバランスをとる術もない。残った友人や親類が慰めようとしても、悲しみは癒やされるどころか強まるばかりだ。ほかの人に近づくことは、亡くなったパートナーへの裏切りだと感じてしまう一九世紀半ばにハリエット・マーティノーが論じていたように、誰かの死や終末期に関わった者の苦しみは、静寂のなかでやり過ごすのが一番である。せいぜいできるのは、死別の孤独とでも呼べるものを試みることぐらいだ。亡くなった愛する人と会話を続けることで、あとに残された者が最悪の悲しみをやり過ごそうとする試みである。その結果、徐々に社会に復帰できることもあれば、とりわけ最初の二年のうちには健康が悪化したり死に至ったりすることもある。戦後には、喪に服している者を支えるという従来は教会が果たしていた役割をさまざまな組織が補完するようになった。「クルーズ死別ケア(CruseBereavementCare)」が一九五九年に設立され、「結婚ガイダンス協議会(NationalMarriageGuidanceCouncil)」などその他のボランティア団体が死別や離別のせいでよるべのない身になった者たちに助言を提供した。脅かされていたのは心の平穏だけではない。孤立と身体の健康の結びつきがさまざまに主張されるなか、死別が死亡率に影響を与えることも広く認められている。

孤立と孤独のしばしば曖昧な境界線について考えると、大きくふたつの結論が導き出される。第一に、孤立は近い過去の失敗のみによって生み出されたわけではない。死別とその影響は、二〇世紀の終わりと二世紀の初めに発明されたわけではないのである。この時代はせいぜい、ほとんどの人にとってこの出来事をさらに高齢期まで先送りにしただけだ。それに長年連れ添ったパートナーとの関係のなかでひとりきりになるのも、この時代が最初ではない。むしろ、この概念には多くの留保をつける必要があるとはいえ、友愛結婚の台頭によって、ほとんどの家でおそらく対面での会話が増えた。大きな変化は「トリガー・ポイント」の増加であり、これは教育、職業、土地の移動が増え、親密な関係が多様化して不安定になったことで引き起こされた。したがって、孤立がほぼ遍く広がりつつあるとする悲観的な見方にも一定の根拠はある。しかし問題は、それに伴う苦しみの深さである。孤立はこの意味で人間の条件に織りこまれており、生きるための戦略に組みこまれているのであって、すべての者が処理しなければならず、ほぼすべての者がどこかの時点で処理に失敗するものだといえる。

第二の結論は、孤立と後期近代の失敗が結びつけられるのは、親密性と個人主義の相互作用のためというよりは、二〇〇八年の金融危機以降に顕著になった物質面の格差と公共財政の圧迫のためだということである。第4章で見たように、さまざまなかたちでひとりで取り組む娯楽の幅が広がったのは、家庭が豊かになり、通信システムが利用しやすくなって、福祉国家が導入された結果である。ひとりでの気晴らしに使える資金が増え、技術が進歩して、年金が充実し、地域や国の社会・医療サービスによる支援が強化された。この変化は新しい欲求を生んだというよりは、欲求を満たす力を広げたのだといえる。しかし、娯楽として自分のなかに引きこもるための時間、空間、手段を見つけられるか否かは、やはりさまざまな物理的・社会的な力に左右された。これはとりわけ女性に当てはまる。男性が発展させた娯楽としての引きこもりを女性が楽しめるようになったこと、それが二〇世紀、とりわけ戦後の特徴のひとつである。ヴァージニア・ウルフの「自分ひとりの部屋」の制約が完全に消え去ることはなかった。女性の孤独を祝福した一九九八年の論文でデレス・ウェアは、そこで取り上げた著述家たちはほとんどが「特権的な白人であり、直接の扶養家族が「いない者」であると断っている。

個人と集団の豊かさに陰りが見えると、孤立を抑えながら孤独を楽しむことが次第に困難になっていく。この分野でも定義と測定法の問題はあるが、データによるとイギリスでは人口の五分の一を超える一四〇〇万人が貧困状態にあり、一五〇万人が極貧状態にあると示唆されている。戦後に縮まった格差がまた広がったことで、人間関係にさまざまな影響が出ている。不十分な住宅、個人の娯楽に使える金銭の不足、交通システムやインターネットを利用した現実・仮想の移動からの排除といった点において、貧困は孤独に直接の影響を与えてきた。エリック・クライネンバーグが近年論じたように、社会インフラが乏しくなったことで、高齢者や移動困難者はほかから切り離されやすくなり、その結果として心身の両面で困難な状態に陥りやすくなっている。できることはせいぜい、第4章の結論で論じた比較的シンプルなひとりでの娯楽に立ち戻ることぐらいである。散歩や読書をしたり、ほぼどこの家にもあるテレビを観たりといった具合だ。貧困者は、孤立の経験や恐れを和らげるサービスを利用しにくいことも多い。心と身体の苦しみの相互関係についてのまだ仮説段階にあるさまざまな研究では、深刻な不健康と障害が孤立を引き起こすことがかなり前から知られている。これはとりわけ高齢者に当てはまるが、高齢者だけの問題ではない。前掲のイギリス政府による「つながりのある社会」は、労働年齢の障がい者の四五パーセント、若年成人の障がい者の八五パーセントがなんらかの孤立感を抱えているとする、障害についての慈善団体「スコープ(Scope)」の主張を受け入れている。ここから、貧しい地域での診療所や病院へのアクセスの質と、地域における長期的支援の提供についてたちまち疑問が生じる。

二〇一〇年以降の緊縮政策によって、この分野で政府計画をつくろうとする試みにはすべて異議が申し立てられている。戦後、支援の混合経済が発達した。交際相手紹介所のような商業的取り組みと、国や地方の福祉サービスに加えて、一連のボランティア団体が登場し、集団での取り組みを補完してさらなる改善を促した。

一九七〇年代には、さかんに刊行されていた女性雑誌の人生相談欄への女性回答者は、パートナーを見つけられない人たちだけでなく、結婚生活のなかでひとりきりだと感じていたり、夫に捨てられたり離婚したりして苦しんでいたりする人たちの相談にも回答するようになっていた。『ウーマン(Woman)』誌のアンナ・レイバーンは、数を増やしつつあった「単身者クラブ全国連盟(NationalFederationofSoloClubs)」、「離婚者・離別者のための全国協議会(NationalCouncilfortheDivorcedandSeparated)」、「サマリタンズ(Samaritans)」といった地域や全国規模のボランティア組織、図書館、出会いの場、成人教育のクラスといった自治体のサービスを利用するよう繰り返し投稿者に勧めている。その後、ウェブ上の支援が発達することでボランティア団体の活動範囲は広がり、孤立した者たちを互いや支援の提供元とつないでいる。

しかし、インターネットへのアクセスがいまだ不完全であるにもかかわらず、国家がその克服に多額の資金を投じることができず、公共図書館、地域の娯楽施設、成人を対象とした社会サービスといった重要な機能への支出が削られているなかでは、さらに厳しさを増す孤立の問題に対して効果的で統合された対策がとれる見こみはないようだ。この問題は、現代の人間関係の矛盾ではなく、富の配分と公共サービスの供給における危機の高まりを表すものになったのである。

 209『世界の歴史⑪』

ビザンツとスラヴ

歴史の旅を終えて

コンスタンティノープル最後の日

一四五三年五月コンスタンティノープル。トルコ軍の砲声が聞こえる。「城壁へ!」という叫び声がおこる。ビザンツ帝国は一千年の歴史の幕を閉じようとしていた。

いまや帝国の領土は、遠いミストラとトレビゾンドを除いて、すべてトルコ人の手に落ちていた。征服された都市がどうなったのか、恐ろしい噂も伝わっていた。この都にも同じ運命が待ち受けているであろう。いくたびも敵軍を退けてきたコンスタンティノープルも、いよいよ最後の日を迎えるのである。

イタリアへ向かう船を見つけて、町を立ち去る者も少なくなかった。さらば、我が都よ!海から見るコンスタンティノープルは美しい。城壁のはるか向こうに宮殿が見える。教会の屋根が、広場にそびえる円柱が遠ざかる……。去りゆく人、見送る人、港がひとしきり賑わったあと、コンスタンティノープルの町は最後の戦いにすべてを賭けることになる。

イスラーム法では、みずから城門を開いた町は、住民の身柄と財産が保証されることになっていた。実際、包囲が始まってすぐに、トルコ側から使者がやってきて、自発的に降伏すれば、家族や財産に危害を加えはしないと伝えてきた。しかしそれに応じようという者は誰もいなかった。皇帝コンスタンティノス十一世(在位一四四九〜五三年)が、安全なところへ逃れるようにとの側近たちの助言をきっぱりと退けたことを、すべての人は知っていた。残った人びとは皆、皇帝と運命をともにする覚悟を決めていたのである。

スルタンのターバンのほうがましだ

聖ソフィア教会の壮麗な姿こそ昔に変わりはなかったが、かつての光の都もいまでは見る影もなくさびれていた。五三年三月の末、近づきつつある戦いに備えて皇帝コンスタンティノス十一世は、市内にどれほどの人員・武器があるか調査させた。各地区から上がってきた数字をまとめる役を仰せつかったのは、友人として最後まで皇帝に付き従った大臣のスフランゼスである。計算を終えたスフランゼスは蒼ざめた。武器を取りうるビザンツ人はたったの四七七三人。報告を受けた皇帝も衝撃を受け、この数字を公表してはならぬと命じた。

もちろん歴代の皇帝たちも、このような絶望的な状態になるまで手をこまねいていたわけではなかた。一四三八~三九年のフェラ―ラ・フィレンツェの宗教会議には、皇帝ヨハネス八世(在位一四二五〜四八年)、総主教ヨセフス二世がみずから赴き、教会合同の決議に署名した。トルコに対する援軍を得るための苦渋の決断であった。

一四五二年暮れ、事態がいよいよ切迫してくると、西欧からの援軍を急かせるため、コンスタンティノス十一世は聖ソィア教会において教会合同を称える典礼を執り行った。しかしながら、教皇特使の枢機卿イシドロスを迎えて行われた式典にビザンツ人たちは冷淡であった。「枢機卿の四角帽を見るよりスルタンのターバンを見るほうがましだ」と公然という者さえいた。西欧からの援軍が来なくても、聖母マリアがこの町を守ってくださる、そう信じる人びとも少なくなかった。

帝国存亡の瀬戸際において、国家か宗教かという絶望的な選択を迫られたとき、大多数の民衆は信仰を選ぼうとした。スルタンの支配下に入っても、我らの信仰は許されるのだと。すでに述べたように、ギリシア文化に傾倒した知識人のあいだでも、ローマ帝国離れが生じていた。「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」は消えてゆこうとしていたのである。

青年スルタンの野望

西欧からの約束の援軍が来ないまま、四月二日にはトルコ軍の先発隊がコンスタンティノープルの城壁の前に姿を現した。三日後にスルタンが本隊を率いて到着、その翌日から、一〇万を数えるトルコ軍の激しい攻撃が始まった。

攻撃側の総大将メフメト二世(在位一四五一~八一年)は二十三歳であった。二年前に即位した青年スルタンは傲慢だとも、野心が勝ちすぎるともいわれていた。功名心にはやるあまり、父から受け継いだ帝国を破滅させるのではないかと、側近の老宰相を心配させたほどである。しかし、老人たちの心配をよそに、メフメトはコンスタンティノープル征服という大事業に乗り出す。スルタンの野望を象徴しているのが、城壁に向けて並べられた巨大な大砲である。

トルコ軍の包囲が始まる少し前に、ウルバヌスという名のハンガリー人がコンスタンティノープルの宮廷を訪ねてきた。自分が開発した新式の大砲の設計図を売り込みにきたのである。しかしビザンツには、大砲を作る資金はおろか、彼を雇い入れる金さえなかった。

ウルバヌスは次にトルコの宮廷を訪ねた。メフメトはこの男を抱きかかえるように迎え入れると、お前の大砲はコンスタンティノープルの城壁を破れるかと尋ねた。ウルバヌスは、バビロンの城壁さえも破壊するでしょうと答える。メフメトはさっそく実用化に踏み切らせた。ウルバヌスが作り上げた大砲は、砲身の長さ約八メートル、砲弾の重さ約六〇〇キロもあり、「ばけもの」と呼ばれた。「ばけもの」は当時トルコの宮廷のあったアドリアノープルで発射実験に成功すると、六〇頭の牛に牽かれて、コンスタンティノープルへと運ばれてきた。

死闘を展開するビザンツ人

儀式に明け暮れている軟弱な連中と誹られてきたビザンツ人が、最後の最後になって実によく戦った。兵員でも武器でもはるかに劣るにもかかわらず、一〇万のトルコ軍を相手に二ヵ月にわたって死闘を展開したのである。

トルコ軍の攻撃は城壁の最も弱い部分に集中した。それは聖ロマノス門の少し北、リュコス川が流れているあたりであった。川が流れていることからもわかるように、この付近は土地が低くなっていた。メフメトはそこへ向けて「ばけもの」以下の大砲を並べ、最精鋭部隊である子飼いのイェニチェリ軍団を配備した。守備側もここに皇帝コンスタンテイノス十一世みずからが陣取り、必死の防戦に努めた。

包囲されたコンスタンティノープルの希望は海にあった。町の北に細長く入り込んでいる金角湾の入り口には太い鉄の鎖が張られており、敵の艦船は入れないようになっていた。

包囲が始まってからも、食糧を積んだ輸送船がジェノヴァのガレー船に守られ、トルコ海軍の追撃を振り切って入港したこともあった。いつかこの港にヴェネツィアの、ジェノヴァの大艦隊がキリスト教徒の軍勢を乗せて入ってくる、ビザンツ人たちはそう信じようとしていた。

ビザンツ人たちの最後の希望をメフメトは途方もない方法で断ち切った。オスマン艦隊の山越えとして知られる大作戦である。海上に張られた鉄の防鎖を嘲笑うように、背後の山へ一隻また一隻と戦艦を運び上げ、都合七〇隻の艦隊を金角湾内に進水させたのである。金角湾を失ったことによって帝都防衛は絶望的となった。それでもなおビザンツ人は、聖母マリアのイコンを掲げて戦いつづけた。

包囲が始まってもう二ヵ月近く経っていた。攻撃側にもさすがに疲れと焦りの色がみえはじめていた。五月二十七日の夕刻、メフメト二世は将兵を集めて、これが最後の戦いであると炎のような演説をした。演説を終えるとメフメトは、総攻撃に備えて明日一日ゆっくり休むよう告げて、将兵たちを解散させた。

別れの演説

翌二十八日、トルコ軍の陣営は静まりかえっていた。それが嵐の前触れであることは、都を守る者たちにもよくわかっていた。奇蹟を求めて、イコンを掲げた行列が市内を進む。

一〇万の敵軍が城壁ひとつ隔てて迫っているのが嘘のように静かな町に、教会の鐘の音と讃美歌の響きが流れてゆく。夕刻、コンスタンティノス十一世も将兵を集めて演説をした。その穏やかな人柄で誰からも慕われていた皇帝は静かに語りかけた。

「いよいよ時は来た。……兄弟諸君、君たちはよく知っているであろう。命よりも大切にしなければならないものが四つある。第一に我らの信仰、第二に故郷、そして神に塗油された皇帝、最後に肉親や友人である。それらのうちのひとつのためでさえ我らは命を賭けて戦う。このたびの戦いにはこの四つすべてがかかっている。.……もし神が我らの罪ゆえに不信心なる者どもに勝利をお与えになるなら、我らは最愛の妻や子供たち、肉親とも別れなければならなくなるのである」

長い演説――一千年の帝国への弔辞であった――を終えると、皇帝は涙ながらに神に感謝を捧げた。その場にいた者はすすり泣きながら声を合わせて応える。「キリストへの信仰のため、故郷のために死ぬのだ!」

日がすっかり暮れると、人びとは聖ソフィア教会へと向かった。教会合同の記念典礼が行われて以来五ヵ月、ビザンツ人たちはここに立ち入ることを潔しとはしなかったが、今となってはわだかまりも消えていた。最後の夜、人びとは何を祈ったのであろうか。

旅路の果てに

深夜になってトルコ軍の総攻撃が始まった。防衛側は、押し寄せてくる敵兵をその都度撃退した。みごととしか言いようのない奮戦ぶりであったが、トルコ兵は文字通り屍を越えて次々と進んできた。ついに夜明け前、城壁に三日月の旗が翻った。それを見たコンスタンティノス十一世は死に場所を求めて、押し寄せてくるトルコ兵のなかへと姿を消した。一四五三年五月二十九日、ビザンツ帝国は滅びたのである。

最も激しい戦闘が展開された聖ロマノス門は、トルコ人によって大砲門(トプカプ)と名づけられた。名前の由来となった大砲(トプ)が今も門の前におかれている。コンスタンティノープル攻略に用いられたものだともいわれているが、真偽のほどは不明である。城門に立てば、ここに戦った皇帝とスルタン、武将や兵士たちの声が聞こえてくるような気がする。華麗な宮殿のシンデレラ物語から始まった私たちの歴史の旅は、帝都陥落の悲劇で終わることになった。「旅路の果てに恋人たちのめぐりあい」とはシェークスピアの台詞である(『十二夜』二幕三場)。ビザンツ帝国への旅路の果てに、私たちは悲しい別れを見た。恋人たちはいつかまためぐりあうのだろうか。

コンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は姿を消した。しかし、文明の十字路に立っていた帝国は、周辺の世界にさまざまの遺産を残した。正教信仰はトルコ支配のもとでも脈々と生きつづけ、ギリシア人や南スラヴ人たちの精神的な拠り所となった。ローマ帝国の理念は「第三のローマ」と称したモスクワに受け継がれギリシア古典文化はイタリア・ルネサンスを介して西欧に伝わった。ローマは永遠の都といわれた。第二のローマも永遠であろう。

スラヴ民族について

民族をどうとらえるか

というのも、いわゆる民族というものは、長い歴史のあいだにはさまざまな理由で変わるものだし、ときには激しい民族移動の過程で他の諸民族と融合し、結果として名称だけが続いて、実体はまったく変化してしまっていることもある。遠い過去の時代に、いまの時代のような民族意識などというものがあったとも思われない。民族移動期などは例外と交通機関も充分に発達していない時代には、人びとの生活範囲は限られており、かれらの意識も限られたものであったはずである。かりに最初は同じ集団に属していたとしても、いろいろな国に分かれてそれぞれの歴史をたどる間に、さまざまな違いもでてくるであろう。それに民族の過去の様子を、いま正確に再生することができるわけでもない。民族というのは、後の時代になって、多くの場合、政治的に創られた概念なのである。

それでは、ここでスラヴ人というとき、どのような意味で用いているのであろうか。民族というからには、形態的特質、宗教・文化の同質性、同じ言葉、同じ歴史、場合によっては同じ国に属すとまではゆかなくとも、政治的に密接な関係にあることなどを想定される方もおられるかもしれない。しかし、これらは個々人の民族的帰属を決めるのに必ずしも決定的ではない。同じ宗教や文化をもっているからといって、同じ民族に属すわけでもない。

ここではスラヴ人を、ヨーロッパの東部からロシア平原にかけて住み、スラヴ系の言語を母語として話している人びと、というほどのことを意味するものと考えておきたい。スラヴ語はインド・ヨーロッパ語族の一つで、その意味では英語やドイツ語、フランス語などと同類である。

つまり本章からは、今日一般にいわれる、東ヨーロッパ(東欧)やロシア(旧ソ連邦)のヨーロッパ部分の歴史を、スラヴ人を中心に見ていこうというのである。本巻が扱う時代は、その最初の部分、中世から近代初めまでである。

スラヴを構成する諸民族

右のような意味でのスラヴ人は、通常、次の三群に区分されている。それぞれを構成する民族名を列挙してみよう。

東スラヴ――ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ(白ロシア)人

西スラヴ――ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、ソルブ人、カシューブ人

南スラヴ――セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人、ブルガリア人

こうしてみると、東欧とヴォルガ川やウラル山脈にいたるまでのロシアに住む人びとの大部分が、スラヴ人であることがわかる。これらのうちいまはきわめて少数となっているソルブ人、カシューブを除く諸民族は、現在(二〇〇九年初)それぞれを主要構成員とする独立の国家を形成している。

一九八〇年代後半から九〇年代初めにかけてのソ連邦におけるペレストロイカや、いわゆる東欧革命の時期までは、東スラヴの三民族はソ連邦を構成する中核的存在だったし、チェコとスロヴァキアも一つの国を、またブルガリアを除く南スラヴ諸民族もユーゴスラヴィアという国を構成していた。それが最近の大変革の結果、それぞれ独自の国家を形成するようになったのである。

このなかで旧ユーゴスラヴィアについては特別の注意が必要であろう。旧ユーゴスラヴィアでは、現在、各民族がそれぞれ独立の国を形成しているだけでなく(セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立するにいたっている。これはセルビア人とクロアチア人、さらにはオスマン帝国時代にイスラム教に改宗した「ムスリム人」と呼ばれる人びと(一九七一年の国勢調査で民族として認められた)から成る国家である。加うるに、これまでセルビアの自治州であった、アルバニア人を中心とするコソヴォも二〇〇八年二月に独立を宣言しているのである。

なお、ソルブ人とはドイツ東部(旧東ドイツ)のラウジッツ地方に住む人びとで、この言葉を母語とする者は六万人ほどと数えられている。またポーランド北部のグダンスク(ドイツ語でダンツィッヒ)西方には、同じ西スラヴ語系のカシューブ語を話す人びとが四五〇〇人ほどいる。

東欧におけるその他の民族

この広大な地域には、もちろんスラヴ人でない人びとも多数住んでいる。地図をみながらお読みいただきたいのだが、ハンガリー(マジャール)人、ルーマニア人、アルバニア人はとくに重要である。それぞれ独自の国家をもつが、そのうちハンガ1人は東方から移動してきたアジア系(ウラル語族)の民族で、ルーマニア人とアルバニア人はそれぞれ、ラテン(ロマンス)系、イリュリア系の言語をもつ。後二者はいずれもインド・ヨーロッパ系の民族である。東欧史では一般にギリシア人を除外して考えることが多いのだが――その最大の理由は、ギリシアが社会主義圏に属さなかったことにある、ビザンツ史の主役であり、その後も重要な役割を果たしてきたギリシア人を除外することは、むしろ不自然である。ギリシア人ももちろんインド・ヨーロッパ語族に属す。

旧ソ連邦から独立を宣言したバルト三国の主要民族のうち、ラトヴィア人とリトアニア人も同じくインド・ヨーロッパ語族に属し、バルト系の言語を話す。同じくバルト海にのぞむエストニア人は非インド・ヨーロッパ系の言語、フィン語(ウラル語族、フィン・ウゴル語派)を話す。

ドイツ人やユダヤ人も忘れられない。ロマ(ジプシー)も多い。ルーマニア人の祖先で、バルカンの原住民トラキア人あるいはイリュリア人のラテン化した民族グループといわれるヴラフ(アルマーニア)人なども、牧羊に従事する民として各地に点在していた。その他、長い歴史のあいだにさまざまな人びとがこの地に住みついた。東方から何波にもわたって押し寄せた遊牧諸民族も忘れられない。重要なのは、これらさまざまな民族や集団が同じ地域にいわば混住してきたことである。それはこの地域に多様かつ寛容で豊かな文化が育つ可能性を与えるとともに、その寛容性が失われるとき、相互に他を理由もなく嫌い排除しあう状況を生む危険性をもひそませているのである。

ヨーロッパ史のなかのスラヴ

これまでわが国において、ヨーロッパの歴史といえば、古代ギリシア・ローマのあとは、ドイツやフランス、イギリスのことが中心で、その東の地域については、ほとんどふれられないのが通例であった。こうした事態は、ここ二、三十年の間に、多くの優秀な研究者の努力のおかげで、大きく改善されてきたといえる。ただ学校の教科書や一般的な通史のなかでは、なかなか研究上の成果が取り入れられにくかったように思う。そのため、東ヨ―ロッパといわれる地域は、近現代になってようやく注目されるようになっただけの、それ以前にはあまり人も住まず、目立たない、空白地帯ででもあったかのような、印象が生まれてきた。しかしこれは事実に反している。

ヨーロッパ最大のグループとしてのスラヴ

そこで、ここでスラヴ人の人口についてみてみよう。といってもある民族に属す人びとの数をあげるということは、そう簡単なことではない。民族の名で差別や殺戮が行われるような時代、また地域においては、自分が何民族に属すかを明らかにすることは、危険なことであろう。したがって、かりにそのような調査が行われたとしても、それが自己申告によるものであるかぎり、正確とはいいがたいのである。それに日本人には理解しにくいことであるが、同じような境遇にいる人びとでも、自分が何人と意識しているかは、人によって違う場合もある。

それゆえここでも言語によって考えることにしよう。田中克彦・ハールマン両氏の『現代ヨーロッパの言語』(岩波新書)は、ヨーロッパの人びとがどの言語を母語として用いているか、言語ごとに話し手の数を明らかにしようとした本であるが、それによると、各言語の話者の数は上のグラフのようになる。

つまり、ヨーロッパでいちばん多く話されている言語はロシア語で、スラヴ系では、ウクライナ語が第六、ポーランド語が第七番目に位置づけられている。グラフには十番目までしかあげなかったが、さらにみてみると、十一番目にセルボ・クロアチア語、十五番目にチェコ語、十六番目にベラルーシ語、十九番目にブルガリア語などと続いている。ヨーロッパにおけるスラヴ系主要言語の話者数を総計すると、二億二〇○○万人にもなる。スラヴ人はヨーロッパ最大のグループといえるのである。その歴史は正当に評価されなければならないだろう。

ヨーロッパ人としてのスラヴ人

ところで、スラヴ人はヨーロッパ最大の民族だと書いたが、そもそもスラヴ、ことにロシア人をヨーロッパ人のうちに入らないと考える人は、西欧の人びとのなかにはけっこう多い。

十九世紀ヨーロッパ最大の「進歩的」知識人であったマルクスやエンゲルスのことを、想い起こしてみることもできよう。かれらは諸民族を、「歴史をもつ民族」、つまり西欧諸民族のように、国家をもち歴史の進歩を実現してきたような民族と、「歴史をもたない民族」、つまり大国に支配され独立の存在とは認められなかったような「小」民族との二種類に分け、ポーランド人を除く東欧のスラヴ諸民族に独立の権利を認めず、ただドイツ人やその他の、世界史を構成する権利のある偉大な諸民族の「進歩」のための闘いに仕えるだけの存在としてしかみなかったのである。スラヴ人は、かれらによれば、自分の国をもつ権利を犠牲にしなければならないのであった。

マルクスらの考え方は、階級闘争の課題の前に、民族解放のそれをあまりに軽くみたものといえるが、こうした意識にスラヴ人ら東欧諸民族にたいする、ある種の蔑視感覚をみてとることも、あながちマトはずれではあるまい。

 豊田市図書館の8冊
289.3フア『御冗談でしょう、ファインマンさん(上)』
289.3フア『御冗談でしょう、ファインマンさん(下)』
167ナガ『13歳からのイスラーム』
227ジン『世界史劇場 イスラーム世界の起源』
227ジン『世界史劇場 三国志』
209『世界の歴史⑤』ギリシャとローマ
209『世界の歴史⑧』イスラーム世界の興隆
209『世界の歴史⑮』成熟のイスラーム社会

 6.1 本:本というコンテンツを図書館という共用の場で展開する
・個から発信する場としての本
・本で共有社会の実験をする
・本の進化系を作り上げた
・詳細は概要であることを発見
本に出会う:15冊借用可能で初めて本に出会えた
本の意味:本を読むというよりも処理するもの
図書館を知る:本に求めるものにより図書館は変わる
豊田市図書館:市民に本をアピールしていない

 知を処理するためのツールという意味では本は未完成  デジタルとのハイブリッド化で進化系ができた 本来 大日本辺りが行うべきこと

 図書館は公共という概念と行政はサービスするものということを教えてくれた この2つで国というものを根本から変えていく

 6.7 知の体系:本を分化・統合し、ライブラリを整備し、個が生きる体系をつくる
・個と全体との環境の融合 
・基本空間の役割を果たす
・デジタルライブラリを構築
・知的環境インフラ
ザナドゥ空間:個人の中の知の連携を表現
ライブラリ:電子書籍なら自分のライブラリーが可能
本を分化:本のコンテンツを個がメッセージ化
本を統合:個主体の教育に合わせたものを統合

 全てを知りたいという願い 全てという範囲をどう決める 言葉にできるものは少ない 存在を知るというところに行き着く
 芋のフラペチーノだって 10月からのチョコレート 考えたけどお金がなくて チケットを使ってしまった
 vFlatは本当にすごい
 この位置のメモ帳を映してこうなってしまう そしてこれをテキスト化してしまう
「9月22日(金)
スタバでしか、日付けを書かない
どう見ても一万円足りない
✓Flatは軌動にのった
ペースが早すぎる。
半年前なら知るよしかるかった。
せーらもそうです
何を準備してくれたのか」(原文のまま)

 図書館の本棚をランダムサーチしていた と言ってもサーチできるのは5分の2です 5段のうち2段目と3段目しか サーチできない 視力と腰の関係です
なぜかファインマンの本が見つかった 『ファイマン物理学』にはお世話になった。2012年発刊 なのにやたら本は新しい 誰からも相手されてない 秀脱なのに

 思い出した。この本で この風景を得た。やはり、映画『オッペンハイマー』は観たい。
「全員に黒眼鏡が配られていた。黒眼鏡とは驚いた! 二〇マイルも離れていては黒眼鏡としでは何も見えるわけがない。僕は実際に目を害するのは紫外線だけだろうと考えていくらまぶしいからといって明るい光が眼を害することはない)、トラックの窓ガラスの後 ろから見ることにした。ガラスは紫外線を通さないから安全だし、問題のそいつが爆発するのがこの目で見えようというもんだ。
ついにそのときが来た。ものすごい閃光がひらめき、 その眩しさに僕は思わず身を伏せ てしまった。トラックの床に紫色のまだらが見えた。「これは爆発そのものの像じゃない。残像だ!」そう言って頭をあげると、白い光が黄色に変ってゆき、ついにはオレンジ色になった。雲がもくもく湧いてはまた消えてゆく。 衝撃波の圧縮と膨張によるものだ。
そしてその真ん中から眩しい光をだす大きなオレンジ色の球がだんだん上昇を始め、少 し拡がりながら周囲が黒くなってきた。そしてそのうち、消えてゆく火が中でひらめいて いる、巨大な黒い煙の固まりに変っていった。
だがこのすべては、ほんの一分ほどのできごとだったのだ。すさまじい閃光から暗黒へ とつながる一連のできごとだった。そして僕はこの目でそれを見たのだ! この第一回ト リニティ実験を肉眼で見たのはおそらく僕一人だろう。他の連中は皆黒眼鏡をかけてはいたし、六マイルの地点にいた者は床に伏せろと言われたから、結局何も見てはいなかった。
おそらく人間の眼でじかにこの爆発実験を見た者は僕のほか誰一人いなかったと思う。
そして一分半もたった頃か、突然ドカーンという大音響が聞こえた。それから雷みたい なゴロゴロという地ひびきがしてきた。そしてこの音を聞いたとき、僕ははじめて納得が いったのだった。それまではみんな声をのんで見ていたが、この音で一同ほうっと息をつ いた。ことにこの遠くからの音の確実さが、爆弾の成功を意味しただけに、僕の感じた解 放感は大きかった。
「あれはいったい何です?」と僕の横に立っている男が言った。
「あれが原子爆弾だよ」と僕は言った。これがウィリアム・ローレンスという男で、こ の実験の実況を記事にするために来ていたのだ。 僕が彼を案内する係だったのだが、彼が 理解するには、すべてがあまりに専門的すぎるということがわかったので、あとになって H・D・スミスという人が代りにやってきたのを案内することになったのだった。 僕は彼 をある部屋に連れていき、幅の狭い台の端にのった銀メッキの球体を見せた。 手をのせて みると暖かい。放射能の暖かみだ。 この球こそプルトニウムだった。ドアのところで僕ら はこれを話題にしゃべっていた。これこそ人間の手で造られた新しい元素、おそらく地球 の誕生直後のほんの短期間を除いては、今まで地球に存在したことのない元素なのだ。 そ れがここにこうして隔離され、放射能を放ちながらその特性をちゃんと持って存在しているのだ。しかも僕たちがこの手でこれを造りだしたのである。だからこそ測り知れない価値があるのだ。
とにかく原爆実験のあと、ロスアラモスは沸きかえっていた。みんなパーティ、パーティで、あっちこっち駆けずりまわった。僕などはジープの端に座ってドラムをたたくという騒ぎだったが、ただ一人ボブ・ウィルソンだけが座ってふさぎこんでいたのを覚えている。
「何をふさいでいるんだい?」と僕がきくと、ボブは、「僕らはとんでもないものを造っちまったんだ」と言った。
「だが君が始めたことだぜ。 僕たちを引っぱりこんだのも君じゃないか。」 そのとき、僕をはじめみんなの心は、自分達が良い目的をもってこの仕事を始め、力を合わせて無我夢中で働いてきた、そしてそれがついに完成したのだ、という喜びでいっぱいだった。そしてその瞬間、考えることを忘れていたのだ。つまり考えるという機能がま ったく停止してしまったのだ。ただ一人、ボブ・ウィルソンだけがこの瞬間にも、まだ考えることをやめなかったのである。

それにしてもこんなことがスタバで 座りながら スマホ1台 出てきてしまうんです

 奥さんへの買い物依頼
水   78
お茶 148
もも肉          278
サッポロ一番みそ       398
子持ちししゃも           250
家族の潤い   198
チョコモナカジャンボ    100
おでん袋      398
食パン8枚   138
シーチキン    199
 
 豊田市図書館の8冊
289.3『御冗談でしょう、ファインマンさん(上)』
289.3『御冗談でしょう、ファインマンさん(下)』
167『13歳からのイスラーム』
227『世界史劇場 イスラーム世界の起源』
227『世界史劇場 三国志』
209『世界の歴史⑤』ギリシャとローマ
209『世界の歴史⑧』イスラーム世界の興隆
209『世界の歴史⑮:成熟のイスラーム社会

 『分断と統合への試練 1950-2017』

2023年09月21日 | 4.歴史
プーチンの攻勢

ヨーロッパが移民の流入への対応に苦心すると同時に、テロ攻撃の脅威の高まりに直面しているとき、大陸の東方では、もう一つの別の危機が起きつつあった。二〇一四年三月一八日、ロシア大統領プーチンは、クリミア半島のロシアへの併合を発表した――三日後にはロシア連邦議会の下院(ドゥーマ)によって承認された。一九七四年のトルコ軍によるキプロス北部侵略と占領を除けば、第二次世界大戦の終結以降、ヨーロッパでは唯一の領土併合の例である。これは、ロシアとウクライナ間の緊迫した関係の深刻なエスカレートを示すだけではなかった。ロシアを欧米の北大西洋条約機構(NATO)諸国と直接対峙させることになったのである。ロシアはさらなる拡張を意図しているのではないか。そんな懸念がロシアの近隣諸国、とりわけバルト諸国に広がった。新たな冷戦という妖怪があるいはもっと悪い事態が-目を覚ました。恐怖がはっきり感じられたのは、またもや東欧及び中欧であった。

クリミア併合は、ウクライナで一段の不安定状況が表面化したことに続いて起きた。一九九一年以前は独立したことがなく、疑問の余地のない国民的意識を欠いた国での分裂と紛争は、二〇〇四年の「オレンジ革命」の結果によっても、解決されるにはほど遠かった。二〇一〇年にもなると、疑問を付された六年前の大統領選の勝者、ヴィトル・ユシチェンコは派閥争いと諸々の政治論争、そしてひどい汚職に対する批判の結果、事実上すべての支持を失っていた。だが、新大統領ヴィクトル・ヤヌコ―ヴィチの下で、ウクライナ特有の汚職と縁故主義はいっそう悪化した。ロシアと同様、多くの新興財閥が、たいていは贈収賄や脅迫または暴力で手に入れた不動産の窃取によって、莫大な財産を築いた。ヤヌコーヴィチの息子オレクサンドルも、たちまち莫大な財を成した者たちの一人だ。対外関係では、ヤヌコーヴィチはEUとロシアの間で微妙な舵取りをしようとした。ところがモスクワとしては、ヤヌコーヴィチがウクライナの公然の長期目標であるEU入りの抱負を公言するのが面白くない。ロシアの反対はあなどることができなかった。ウクライナはこの強力な隣国にガス供給を依存しているからだ。二〇一三年一一月、ヤヌコーヴィチは予定されていたEUとの連合協定を突然キャンセルし、代わりにロシア、ベラルーシ、カザフスタンとのユーラシア関税同盟を支持した。彼がロシアの圧力なしにその措置を取ったとは考えられない。それは致命的な策になった。キエフのマ–ダン(独立広場)を中心に、数十万人による巨大な抗議行動を誘発したのだ。その結果、暴力がエスカレーし、政府による抑圧が強まった。二〇一四年二月二欧米からの圧力でヤヌコーヴィチは退陣させられ、新たな臨時政府が発足。大統領選が前倒しされた。ヤヌコーチはヘリコプターでウクライナ東部へ、そこからさらにロシアへ逃げた。

プーチンがそんな屈辱に甘んじるわけはなかった。ロシアの力を誇示するには、クリミアは格好の標的だった。クリミアは一九五四年以来ウクライナの一部であり、混住する民族のなかでロシア人が多数派を形成している。それに、ロシア黒海艦隊の本拠だ――セバストーポリ港はウクライナから租借されていた。クリミアに介入すれば、ウクライナ指導部の反ロシア姿勢を罰するとともに、ロシア国内では、ナショナリストたちからプーチンに対する喝采を勝ち取ることになる。欧米がクリミアのために世界戦争の危険を冒すことは考えにくい。経済制裁は不可避だが、耐えられる代償だ。これがプーチンの計算だった。

ヤヌコーヴィチは、プーチンとの関係はいまや芳しくないものの、モスクワでは依然としてウクライナの正当な大統領と見なされていた。彼が追放されて数日後に、国章をつけていない武装集団がシンフェローポリにあるクリミアの州議会建物を占拠した。続いて、クリミアのロシア市民の保護を求めるモスクワ宛ての要請が滞りなく行われ、モスクワに受け容れられた。その後数日にわたり、ロシア軍がクリミアに入った。州議会はクリミアの独立を宣言し、ロシア連邦への加入希望を表明。これは三月一六日の国民投票で、有権者のほぼ九七パーセントが支持したとされた。翌日、議会からの正式のモスクワ宛て要請が行われ、これを受けて三月一八日、プーチンがクリミアのロシア連邦への統合を発表したのである。クリミア危機を政治的に解決しようとする欧米諸国首脳の外交努力は、予想どおり、まったく実を結ばなかった。ロシアは国連による非難にもためらわなかった。核戦争にまでエスカレートさせることは問題外である以上、明らかな国際法違反に対する報復として残った唯一の手は、制裁に訴えることだった。ロシアの外国口座が凍結され、渡航禁止が科されたが、EUはロシアからのガス・石炭輸入に依存しているため、行動を制約されていた。制裁はプーチンをそれほど困らせそうもなかった。そしてブーチンは、先進八カ国(G8)グループ参加国としての資格停止は我慢することができた。ロシアは孤立した。だが、クリミアが再びロシアから切り離される見込みはなかった。ロシア国内ではプーチンの人気は急上昇した。ロシアのメディアはクリミアの「回帰」を、偉大な国民的勝利としてはやし立てた。ミハイル・ゴルバチョフまでが、もし自分が同じ立場に置かれていたら、プーチンと違わない行動を取っただろうと述べた。かつての時代を思わせるプーチンのパワーポリティクスは、奏功したのであった。

とかくするうち、暴力は(ドンバスの工業地帯を中心に)東部及び南部ウクライナに広がっていた。炭鉱で働くために一九世紀末以降、モスクワ地方から大挙して移住していたロシア民族が人口の多数を占めている地域だ。権威ある国際的世論調査機関が実施した調査によれば、親ロシア感情は西部ウクライナに比べると間違いなく強いものの、分離主義を支持しているのは少数にすぎず、大多数は統一ウクライナ国家を望んでいた。ドンバスへのロシアの介入に対しては、東部及び南部ウクライナでさえ住民の大多数が――そしてロシア語話者の過半数が――反対の意見だった。だが、モスクワが東部ウクライナの分離主義勢力に軍事支援を与える用意があるとき、世論はほとんど問題にならなかった。それにドンバスの地域社会には、自分たちの地域をキエフから切り離し、ロシアに統合するために戦う用意のある活動家が実在することは間違いなかった。反抗勢力は単に、プーチンの振り付けに合わせて踊るだけの操り人形ではなかった。

親ロシア派の抗議デモは二〇一四年三月以降、ロシア軍及び民兵に一段と支援を受ける分離主義の反抗勢力と、ウクライナ政府の間の武力衝突に急速にエスカレートした。モスクワの支援がある限り、この暴力は止めようがなかった。分離主義勢力は行政庁舎を急襲、占拠した。

空港は砲撃を受けた。秋までにすでに数百人の死者を出していた戦闘に、重砲やロケット弾発射機、ヘリコプター、それに装甲車が投入された。背筋が凍るような関連の悲劇として七月一七日、マレーシア航空機がロシア製ミサイルで撃墜された。おそらくウクライナ軍用機と取り違えた反抗勢力による可能性が強く、乗っていた二九八人全員が死亡した。

米国とEU、全欧安全保障協力機構(OSCE)、それに独仏首脳と新たに選出されたウクライナ大統領ペーロ・ポロシェンコ――ウクライナの新興財閥の一人――も加えた紛争終結のための数々の国際的試みによっても、目ぼしい打開策は生まれなかった。二〇一四~一七年の間に計一一の個別の停戦合意があったが、どれも長続きしなかった。もっとも重要な試みである二〇一四年九月五日のミンスク議定書で、戦闘は一時的に下火になったものの、たちまち停戦違反が起き、停戦は数週間で死文化してしまった。ウクライナとロシアに独仏を加えた首脳による協議を受けた二〇一五年二月一一日の第二のミンスク停戦合意も、結果はたいして変わらなかった。一縷の希望が時折そうして兆したものの、プーチンは自国内でウクライナに対する姿勢への支持があることを確信して、おおむね不屈の態度を取り続け、ウクライナ全土を不安定化し、同国が欧米の軌道に引き込まれるのを阻止しようと狙っている様子だった。

ポロシェンコの目標は、その正反対の方向を向いていた。ウクライナのEU加盟という彼の希望が、予見できる将来において実現する可能性はまったくなさそうだった。ウクライナの汚職と経済・政治運営の失敗のひどさ、そして、ウライナがいささかでも加盟の展望を抱けるようになる前になすべき大改革の必要性が、あまりにも大きすぎて、EUとしてはその展望を抱けなかったのだ。しかし、二〇一四年九月一六日に合意されたウクライナとEUの間の新たな連合協定は(発行は二年後の予定だったが)、ウクライナをロシアに近づけようとするプーチンの戦略が不首尾に終わったことを示す一つのしるしだった。

ウクライナ国内では、紛争の各勢力がすみやかに足場を固めていた。双方とも折れなかった。二〇一四年九月、ウクライナ国会はナショナリストの反対に抗して現実に妥協し、ドンバスの事実上の自治を意味する諸権利を認めた。一〇月二六日にウクライナのほとんどの地域で実施された最高会議(国会)選挙では、親欧米姿勢の諸党が勝利したが、一一月二日に実施された分離選挙(ロシアのみが承認)では、驚くまでもなく、親ロシアの分離主義に対する圧倒的支持が示された。予見できる将来、ウクライナの領土分断を克服する明確な道はなかった。それでもプーチンは譲歩しようとしなかったし、おそらく出来なかったのだ。国内での立場を危険にさらすわけにはいかなかった。ロシア国内では当然ながら、メディアが東部ウクライナの分離派勢力に対する支持を、国家の威信問題として伝えているのだ。いずれにせよ、ロシアに支援された分離派による暴力のパンドラの箱は、いったん開かれてしまうとたとえプーチンが閉じようとしても閉じることができなくなった。EUが科した制裁は、ロシアがウクライナで非妥協的姿勢を示すたびに強化された。当初は目立った影響はなかったものの、口座凍結と渡航禁止に加え、金融、エネルギー装備にまで拡大された二〇一四年九月以降、ロシア経済の悪化に一役買い、効果を表わしはじめた。欧米に残された他の唯一の選択肢は、中欧及び東欧におけるNATOのプレゼンスの強化だ。ポーランドとバルト諸国の兵員数が増強され、二〇一六年にはポーランドで軍事演習が実施された。ロシアもまた――国境の内側でだが――軍事演習を行うに及んで、ロシアと欧米の関係は冷戦終結後のどの時期よりも緊張した。

二〇一七年三月までに一万人(四分の一は民間人)近くが殺され、数千人が負傷、一〇〇万人を超す人びとが戦闘のために住居を追われた。激しいプロパガンダ戦争では、真実が明らかな犠牲者だった。だが、ロシアが紛争の主要な扇動者だったことを疑う余地はほとんどない。そして、ロシアの支援がなければ--その規模を隠す見え透いた試みがなされたけれども分離派勢力は武力闘争を続けられなかっただろう。にもかかわらず、プ―チンにとってウクラ―ナ紛争は完全な成功にはほど遠かった。たしかにドンバスはほぼ自治地域になった。だがプーチンは、ウクライナの大部分を西欧から遠ざけるのではなく、西欧に近づけ、その過程でウクライナの国民感情を強めてしまった。ウクライナ抜きではプーチンの「ユーラシア経済連合」(ユーラシア関税同盟がそうだったように、EUに対応する組織が意図されていた)の構想はほとんど成果がなかった。とかくするうちに、ロシア経済は制裁(そして石油価格の下落)にひどく苦しむようになった。それに、プーチンはおそらく、ロシアと欧米の関係を取り返しがつかないほど傷つけてしまった。では、なぜクリミア併合に加えて、ウクライナで戦争を促したのだろうか?プーチンの戦略目標は何だったのか?

もっとも簡単な説明が、もっとも理にかなっている。本質的には、プーチンは大国としてのロシアの失われた威信と地位を回復しようとしたのだ。元KGB将校として、プーチンはソ連の崩壊を、二〇世紀最大の地政学的破局として語っていた。彼の目には(そして多くの同人の目には)、ソ連の崩壊は、世界における大国としてのロシアの地位と誇りを劇的に低下させてしまった。ロシアの指導者たちは旧ソ連共和国諸国をロシア独自の影響圏として眺め続けていた。だが、多くの人びとの目には、共産主義の崩壊は、かつて強力だった国に屈辱を加えた。米国が唯一生き残った超大国として世界を牛耳る一方で、ロシアはマフィア国家に堕してしまい、大方のロシア人が崩壊寸前の経済に苦しんでいるのに、クロイソスの富を享受する強力な新興財閥が支配している。ロシアは、NATOがかつてのロシアの影響圏へロシアのまさに戸口であるバルト諸国までも拡大するのを防ぐ力がなかった。欧米の目から見れば、NATOは敵意のない組織だが、ロシアはそれを危険と見ている。欧米では人道的行為として見られた一九九九年のNATOのコソヴォ介入は、モスクワでは憤激を引き起こした。同盟国を守る防衛組織としての、NATOの限定的役割を乱用するものと見られたのだ。だが、ロシアは介入を止めることができなかった。要するにロシアは、一九九〇年代を通じて深刻な国民的屈辱感に苦しむ旧大国だったのだ。

プーチンはたしかに、多くの国民的誇りと国内のまとまりを取り戻した。ことあるごとにナショナリズムを意識的に呼び覚ますことで、確かな国民的支持基盤済的不満の広がりに対する平衡力――を手にした。ウクライナとクリミアは一八世紀以来、ロシア帝国の一部で、大国としてのロシアの地位に欠かせなかったし、のちにはソ連の影響圏の重要な構成要素だった。プーチンは二〇一二年に、ソ連消滅後の空間を再統合する任務について語っていた。ところが、二〇一四年のヤヌコーヴィチの追放は、ウクライナの対ロシア依存を固めるという目標を害してしまった。それへの対応が、東部及び南部ウクライナと、究極的には同国全体を不安定化させるという広い目標の一環として、クリミアをロシアに「取り戻す」ことだったのだ。このより広い目標において、プーチンは計算を誤った。明確な出口ルートがないまま、自分がウクライナで解き放った勢力に自らを縛りつけてしまったのだ。後退することも前進することもできないまま、プーチンはロシアを東部ウクライナの泥沼に無期限に沈めてしまった。これはおそらくプーチンが幾晩か眠れない夜を過ごす原因になっただろう。彼が少なくとも満足できたのは、東部ウクライナがモスクワに支配されている限り、EUとNATOへの加盟を目指しかねない統一ウクライナ国家はあり得ないということだった。プーチンは国内では、欧米との対決において賞賛を勝ち得た。シリア内戦は、国際舞台におけるロシアの支配的役割を再び確立するさらなる好機を彼に与えた。二〇一五年のロシアによる軍事介入は、旧ソ連の国境の外側では共産主義の終焉以来初めてであり、恐ろしいシリア紛争の極めて重要な一局面だけでなく、プーチンが世界パワーとしてのロシアの復興を試みる新たな段階をしるすものだった。

クリミアとウクライナをめぐるロシアと欧米の対決は、暗い過去へ逆戻りする恐怖を中欧及び東欧じゅうに送った。これは世界大戦につながるのだろうか?ロシアは東欧の他の国々、そしてひょっとしてその先まで併合するのだろうか?とりわけソ連に併合された苦しみの記憶も生々しいバルト諸国では、その恐怖は理解できたけれども、おそらく誇張されていた。クリミアとウクライナでプーチンは手いっぱいだった。なぜ彼が、バルト諸国を併合し力で抑え込もうとして、問題を増やしたがるだろうか。バルト諸国の非常にはっきりした国民的帰属意識は(東部ウクライナの場合と違って)、かなりの程度、ロシアへの抵抗によって培われたのだ。プーチンが、すでに実行した以上の、ヨーロッパでのより広い拡張主義的計画をもっているという証拠も、まったくなかった。一方、シリアへの介入は、プーチンがロシアの伝統的同盟国シリアとイランを支援して、国際舞台でロシアの力と影響力を誇示するため、米国の政策の弱みにつけ込んだケースだった。しかし、ロシアがソ連のそれに比肩し得る世界的役割への野心を抱いたことを示す兆候はない。そのためには、ロシアの資源だけでは十分ではないだろう。それに、ロシアの国力回復というのでは、非ロシア系民族に訴えそうなイデオロギー的目標には、まずならなかった。

そうこうするうち、ウクライナの危機は不安な膠着状態に落ち着き、世界平和やヨーロッパのより広い安定に重大な脅威を与えることはなかった。しかし、ヨーロッパ大陸の全般的危機のもう一つの要素の帰結として、非常に長きにわたって、まさにその安定の重要な支柱であったEUそのものが維持できるのかどうかが、直接的に問われることになった。すなわち「ブレグジット」、英国のEU離脱決定である。

 209『世界の歴史⑨』

大モンゴルの時代

蒼き狼たちの伝説

モンゴル時代の幕あき

草原と森林のはざま

海を遠くはなれ、アジアの内陸へとむかう。海からの風と湿り気はしだいにうすらいで、乾燥した大気が、ゆるやかな風となって夏の草原をすずやかに渡ってゆく。

アジアの大陸のうちぶところに、巨大な高原がひろがる。チベット高原のように、はげしく高すぎるわけではない。北からはシベリアの大森林が迫り、山と渓谷に緑をしきつめて、南側の草原と交錯する。草原と森林が織りなす世界である。

いま、そこをモンゴル高原という。はじめからそう呼ばれていたわけではない。十三世紀のはじめ、モンゴルというささやかな集団が、この高原に割拠するトルコ・モンゴル系のさまざまな遊牧民をとりまとめて、ひとつの政治勢力として浮上した。その名を「イェモンゴルウルス」といった、大モンゴル国である。

.モンゴルという名でくくられることになった雑多な牧民たちは、テムジンあらため「チンギス・カン」と称した男にひきいられ、はるかなる山河をこえて外征の旅に出た。それは、驚異の成功と拡大を、この新興の遊牧国家にもたらすこととなった。

それが、すべての始まりであった。モンゴルという嵐は、ユーラシアの東西を席捲した。そして、ついに人類史上で最大の帝国を形成する。モンゴルが世界と時代の導き手となる道が、ひらかれることになる。―――大モンゴルの時代は、かくて幕をあけた。

蒼き狼のイメージ

人類の歴史に一大画期をもたらした、モンゴルというもともとはまことにささやかな集団の起源については、モンゴル自身も、世界の支配者となってから、ペルシア語や漢文、もしくはみずからのことばであるモンゴル語などで、それなりのはなしを語り綴った。しかし、それらは、当然のこととして、伝説の色彩にいろどられている。

政治権力をにぎり、王者ともなれば、自分たちの出自について美しいはなしをつくるのは、むかしも今も、そう大きくは変わらない。とくにチンギス・カンは、モンゴル時代いご、神聖なる存在とされまさに神になった。

モンゴルの族祖伝承として名高いのは、蒼き狼と惨白き鹿のめぐりあいである。これは、漢語のタイトルは「元朝秘史」、ほんらいのモンゴル語の名では「モンゴルの秘密の歴史」(モンゴルン・ニウチャ・トブチアン)の冒頭にしるされる。

しばしば頭韻の四行、ないし二~五行(もっと長いものもある)詩、つまりあたまにおなじ母音がそろう詩句もまじえたかたちで綴られる『元朝秘史』については、いまわたくしたちは、書かれたものとして知っている。明代のはじめ、洪武年間に、モンゴルの故都の「大都」あらため北平で、モンゴル政権下での漢訳のやり方のまま、漢字音によるモンゴル語原文と、その直訳体による口語ふうの漢文訳(語順はモンゴル語そのままで、訳語は伝統漢文ではない日常会話の白話で使われることば)との完全バイリンガルで構成されたものとして、知っている。

おそらくは、そのもととなるなにかが、「大都」にのこっていたのだろう。その原文が、クビライ時代の至元六年(一二六九)にチベット文字をもとにつくられたパスパ文字で綴られていたか、それとも、チンギス時代に導入したとされるウイグル文字でしるされていたかについては、世界の学者のあいだで意見がわかれる。

頭四行、ないし二五行の詩ということが示すように、そもそもは、まず語り謳われるものとしてつくられた(なお、こうした詩の伝統は、トルコ・モンゴル系の遊牧民に古くからあったものだろう。小川環樹が、トルコ族の民歌だとした「勅勤の歌」も、まさにそうである。さらに四行詩という点にこだわれば、イランにおける脚韻四行詩のルバイヤートとも、おそらくは無縁でないとされる)。それが、モンゴル時代のいつかの段階で、文字化されたのである。そのモンゴル時代、いまやすっかり王族や貴族となって、世界の各地に散っていたモンゴルたちは、専門家の語り部が独特の声音で弾き語る先祖たちの英雄物語に、心おどらせて聴きいったことだろう。自分たちの家祖とされる人物が、国家草創の英主チンギス・カンと、いったいどんな経緯でめぐりあい、その創業にどのように参画したのか。

ふむ、そうか。われらが先祖は、こうしたことで、チンギスの覇業に貢献したのか。さればこそ、現在の自分たちの富貴も、このようにあるのか。

おそらくは、モンゴル遊牧民連合体の絆を確かめるものとして、チンギスカン物語といってもいい『元朝秘史』は、まずあった。

その劈頭に登場する蒼き狼のイメージは、モンゴルたちの心に、はるかなる国家のみなもとを飾るシンボルとして、雄々しく美しく映ったことだろう。

噴仙洞とエルグネ・クン

もちろん、狼を先祖とする考えは、トルコ・モンゴル系の遊牧民たちだけにとどまらず、ひろく中央ユーラシアに暮らす人びとにみとめられる。『周書』の突厥伝は、六世紀に出現するテュルク帝国の先祖たちについて、ひとつの伝承として狼に育てられたはなしを書きとめる。また、現在のハンガリー国民の主体をなすマジャールたちは、東方からの征服者として、九世紀、ハンガリー平原にあらわれるが、かれらも狼祖伝説をもっていたことは、よくしられている。

こうした狼にかかわるイメージは、モンゴルが、もともと純粋な草原の民ではなく、多分に森林の狩猟民の面影をのこす「遊牧狩猟民」だったからだという考え方がある。鹿を追う狼というイメージは、森に暮らす狩猟民の観念を反映するのだという。これは、おそらくそうだろう。

そうしたことにつらなる別の族祖伝承として、『集史』が語る「エルグネ・クン伝説」が想いおこされる。はなしのあらましは、こうである。

いまを去ることおよそ二〇〇〇年、モンゴルと呼ばれていた部族は、別のトルコ諸部族との戦いに敗れ大虐殺された。わずかに生きのこった二組の男女は、敵から逃れ、四方が険しい山と森にかこまれた地にたどりついた。難渋のあげくにやっと通れるほどのかすかな隘路がただひとつあるだけであった。ところが、そこには、牧草が豊かに茂る素晴らしい草原がひろがっていた。その地の名は、エルグネ・クンといった。エルグネとは険しいこと、クンとは岩壁のことである。

ふたりの男は、ノヤズとキヤンといった。ながい間、かれらとその子孫たちは、その地に暮らした。婚姻をかさねて人口がふえ、その草原だけでは生活しにくくなった。かれらは相談して脱出路をさがし、鉄鉱のでる山に決めた。いつも、そこから鉄を溶かしていたからである。森から薪と炭をあつめ、七〇頭の牛と馬を殺して、鍛冶のためのふいごをつくった。そして、いっきょに火を吹きたてて鉄の岩壁を溶解させると、一すじの道が開けた。かれらは、一団となって外の広大な草原世界にでていった。

はなしのなかのキヤンこそ、モンゴル王族のキヤン氏である。また、そもそもテムジンという名は、鉄をつくる人とか、鍛冶屋を意味することも想いおこされる。じつは、このはなしは、『周書』突厥伝が語る突厥の始祖伝説ととてもよく似ている。

いわく――、突厥の中核部族をなす阿史那氏は、むかし隣国に敗れて、いったん全滅した。ただ十歳になるかならないかの男の子だけが、足を切りおとされて生きのこった。それを牝狼が育て、成長後、交わって懐妊した。ところが、まだひとり生きのこっていることを聞いた隣国の王は、人をやって男子を殺させた。牝狼だけは逃れて、高昌国の北の山中に入った。山には洞穴があって、そのなかは牧草が茂る草原であった。周囲は数百里で、山に囲まれていた。狼は、そこで一〇人の男の子を生み、それぞれの子は外から妻をつれてきて子孫がふえた。やがて、みなともに穴を出て、外の世界におもむき、金山(アルタイ山のこと)の南で柔然の鉄工となった。

ほとんど同工異曲といっていい。モンゴルのほうは、狼祖伝説と別ものになっているだけである。モンゴルという集団が、ひろい意味でのトルコ系の人びとという「大海」のなかにいたことも、よくうかがわせる。

この連動現象には、さらにもうひとつがくわわるかもしれない。それは、北魏太武帝の祭文を洞壁に刻してあることから、鮮卑族の北魏王朝の発祥にまつわる地とされ、近年とみに知られるようになった嘎仙洞(ガ・シェン・ドン)である。興安嶺の北部にあるこの洞穴は、アムール(黒龍江)の上流のアルグン河、すなわちモンゴル語ではエルグネ河畔から森林のなかをわけ入る。ようするに、エルグネ地方なのである。嗅仙洞の位置、洞穴のあり方、そして北魏王室の拓跋氏の先祖がそこにいたという『魏書』の記述は、意外なほど時をこえてエルグネ・クンのはなしと似かよう。

「エルグネ・クン」と嘆仙洞、そして鮮卑・突厥・モンゴルの連動――。これは、はたしてなにを物語るのか。

謎のチンギス・カン

さて、チンギスカンである。この男は、本当によくわからない。

顔も容姿も、確実なことは、ほとんどわからない。「中国歴代帝后像」におさめられた有名な肖像画がしられているが、もとより中国ふうに描かれた想像画にすぎず、どこまで真実にちかいのかは、わからない。

中央アジア遠征中のチンギスカンを見た伝聞記録として、ある史書には、髪の毛のうすい大男だったと述べている。当時チンギスは、すくなくとも六十歳ちかくには達していたはずである。当時の六十歳は、重い。チンギスは王者となったとき、もはや老人であった。なお、大男というのは、なににつけ目立つことがもとめられる遊牧民のリーダーとしては欠かせぬ要件であり、おそらくは大柄だったということを、否定することはできない。チンギスは、年齢さえさだかでない。他界したのは、「集史」によれば一二二七年の陰暦八月十五日と、これは確実だから、ようするに生年がわからないのである。「集史」は、一一五五年の誕生とする。そうだとすると、満七十二歳で没したことになる。ただし、これは少し作為が目につく。トルコ・モンゴル系の人びとは、十二支とおなじ一二獣暦を用いており、チンギスは、ブタの年(亥の年のこと)に生まれ、ブタの年に没したという。一二年のまわりを六回分かさねて、生涯を終えたといいたいのである。「六」には、聖なるニュアンスがある。

ところが『集史』は、そういいながら、「チンギス紀」において、チンギスが誕生してから最初の一二年についてはなにも伝えられるところがない、といい切って平然としている。みずから、一一五五年の誕生が根拠に乏しいことを吐露している。根拠のあるなしにかかわりなく、『集史』は、一一五五年の誕生にしたいのである。

チンギスがプタ年の生まれだとすると、たしかになにかと都合がいい。生年と没年が、おなじブタ年になるだけでない。まだテムジンといったかれが、高原の覇者へと大きく浮上するのは、一二〇三年の秋、主筋にあたるケレイトのオン・カン(もしくはワン・カン)を一瞬の隙をついて奇襲で嬉し、高原の東半分をおさえてからである。『集史』はそれを、「天佑」にめぐまれたと表現する。ようするに、ラッキーだったというのである。

じつは、このときから、チンギスについて、東西の史料がほぼ足並みをそろえておなじことを述べはじめる。つまり、テムジンが確実な権力者として、周囲からその存在を認知され、警戒されだしたときであった。いわば、このときから、テムジンという男の人生は実像化する。その重大な年が、ブタの年なのである。

さらに、一二〇三年から、ひとまわりした一二一五年、つまり、一二二七年に他界するまでのちょうど中間にあたる年、女真族王朝の金帝国にたいする足かけ五年の戦争を、全面勝利で終えた。金の首都の中都(現在の北京市街の西南地区にあった)は開城し、金朝は黄河の南に逃れて、アジア東方の最強国から河南と陝西を保つだけの二流国に転落した。反対に、誕生後まもない新興の「モンゴル・ウルス」は、いっきょにアジア屈指の強国にのしあがる。

一二〇六年に結成されたばかりのモンゴル遊牧国家にとって、一二一一年から開始された「モンゴル–金戦争」は、存亡をかけた大戦争であった。チンギスは麾下のモンゴル軍を、ほとんどこそげるように引き具して、乾坤一擲といってもいい大勝負に出た。そして、五年のあいだずっと、ゴビの北の本拠地にかえることなく、金帝国の北境にあたる内蒙草原にはりついたまま集団生活を送り、ただひたすら金帝国を攻撃しつづけた。

この大勝利により、新生モンゴル国の将来は開けた。前後五年の国家ぐるみの集団生活は、雑多な牧民たちの寄せあつめにすぎなかった「モンゴル・ウルス」を、文字どおり一枚岩にした。勝利にともなう多くの収穫物も、チンギス麾下の牧民騎士たちに、この指導者、このウルスであればともに生きてゆきたい、とおもわせるに十分な効果があったことだろう。そうした重要な節目の年が、またしてもブタの年であった。

かたや、東方の中国正史としての『元史』は、六十六歳で没したとする。一一六一年の誕生というわけである。この場合でも、聖数といっていい「六」のくりかえしである。ようするに、チンギスの誕生から幼年期少年期・青年期については、すべて伝説のかなたにあるといっていい。

「ウルス」という国家意識

チンギスという個人も、かれが出身したモンゴル部という小集団も、確たる政治権力に浮上するまでの素性や来歴については、どちらも闇のなかにある。それを真剣にあれこれ論じても、しょせんは小説と大きくは変わらない。

歴史として意味があるのは、「モンゴル・ウルス」という遊牧民の連合体をつくってからである。それこそが、モンゴル世界帝国の原点だからである。では、「ウルス」とはなにか。

「ウルス」ということばそのものは、モンゴル語である。じつは、外蒙を国域とする現在のモンゴル国も、「モンゴル・ウルス」というのが本当の名である。「ウルス」は、トルコ語の「イル」もしくは「エル」に相当する。六世紀から八世紀に、モンゴル高原を中心として、中央ユーラシアの天地に雄飛したいわゆる突厥、すなわちテュルク帝国も、その本質は牧民連合体であり、それを「イル」もしくは「エル」といった。

ようするに、モンゴル語の「ウルス」は、その流れをくみ、ユーラシアの内側の世界に生きる遊牧民たちに独特の集団概念といっていい。辞書・事典ふうに語釈をすれば、「ウルス」も「イル」「エル」も、「人間の集団」を原義とする。そこから、部衆、国民、さらには国そのものも意味することになる。現在のモンゴル国の「国」は、まさにその意味で使っているわけである。

『集史』には、アラビア文字によるペルシア語の表記のため長音化したかたちになってはいるが、「ウールース」と、モンゴル語そのままの語形でしきりにあらわれる。これにかぎらず、「集史」には膨大なトルコ語・モンゴル語の語彙が使われ、とくに遊牧国家システムにかかわるテクニカル・タームは、ほとんど原語のままで出てくる。おそらくは、ペルシア語-アラビア語に訳しようがなかったことと、そもそもトルコ語–モンゴル語をはなす遊牧民たちばかりでなく、モンゴル帝国の全域で登用されたペルシア語をはなすイラン系ムスリムたちもまた、そうしたモンゴル本来の概念語については、そのまま使っていたことを反映するのだろう。

そうした『集史』に見られるウルスの用法をしらべると、やはり「国」にちかい意味で使われている。ただし、農耕地域における国家や、西欧型をモデルとする近現代の国家とはちがい、土地や領域の側面での意味合いは限りなく希薄で、あくまで人間集団にウェイトがおかれている。つまり、固定された国家ではなく、人間のかたまりが移動すれば、「国」も移動してしまう類の国家としてである。その意味では、はなはだ可動性にとむ、融通無礙な国家であった。

超広域の巨大帝国に発展するもとの「モンゴル・ウルス」とは、そういう集団概念なのであった。人のかたまりをもとに、可変性と移動性を本質とする「ウルス」という国家意識――。これこそ、モンゴルの驚異の拡大の鍵である。

周到な戦略構想

それにしても、モンゴルウルスは、またく出来合いの国家であった。にもかかわらず、誕生まもないときから、まことに内政・外交ともに、周到きわまりない手配りで、わずかな乱れをみせることもなく、すべてが整然と、おしすすめられている。

多言語でしるされる数多くの原典史料をつきあわせ、そこから割りだされる確実な国家政権としての行動を考えると、おそるべき用意周到さが目につく。計算ずくの布石・展開に、おもわずうならざるをえないことも、しばしばである。国家として、子供時代がないのである。はじめから、大人になってしまっている。それは、いったいどうしてか。

いくつかの原因と要素があるだろう。まず、モンゴル・ウルスそのものは、たしかに出来合いだったが、それよりまえ、すでに長い遊牧国家の伝統が脈々とあったことは、無視できない。

ふるく瀕れば、匈奴帝国がモンゴル高原を中核地域にして、強大な遊牧国家を三〇〇年いじょうの長期間にわたって保持した。匈奴と南北に対峙した漢王朝が、そのごの中華帝国の基本型をつくったように、匈奴帝国で確立したパターンが、いごの遊牧国家の枠組みを決定した。

国家全体が、東西に左翼(東方)・中央・右翼(西方)の三大部分にわかれること、社会組織としては、十人隊百人隊・千人隊・万人隊という十進法体系の軍事組織に編成されたこと、そして君主は、その縦と横の中心にいて、政権中核となる自分の遊牧宮廷に、国家の各部分の長たちの子弟をあつめ、人間組織の面でも国家全体のつなぎ手となること、などである。こうしたシステムは、柔然、突厥、遊牧ウイグル、キタイ(本書では「キタン」ではなく、「キタイ」の表記を採りたい。筆者は、一時期、「キタン」を使用した。それは漢語表記「契丹」とのかねあいから、古くは「キタン」と発音されたのだろうと考えたこと、それに「キタイ」の語尾の「イ」は、ペルシア語の影響もありうることなどからであった。しかし、八世紀の突厥碑文で「キタニュ」としるされているものが、十世紀以降のウイグル文書では「キタイ」と語尾変化していることが示すように、キタイ帝国期からモンゴル時代においては、やはり「キタイ」と発音されたことは明白であり、あえて「キタン」と表記する必要はないと考え直した。ここにおわびして訂正したい)などでも踏襲された。チンギスのモンゴル・ウルスもまた、まぎれもなくその後継者であった。一二〇六年のウルス結成ののち、対金戦争に旅立つまでの五年ほどは、まさにそうしたマニュアルどおりの国家システムづくりと内政整備にあてられたのであった。

しかし、なんといっても直接には、キタイ帝国の知恵と経験が、それをささえたキタイ族の武将・行政官の子孫たちとともに、そっくり新興モンゴルに投入されていたことが大きかった。

中華風には「大遼」とも名のることのあったキタイ帝国は、十世紀から十二世紀はじめまで、中華本土の北宋王朝を圧して、アジア東方の覇者であった。遊牧国家でありながら、旧渤海国のマンチュリア、中華本土の北辺のいわゆる「燕雲十六州」(燕は現在の北京地区、雲は大同地区)をも領有して、遊牧と農耕の両世界を支配するすべを身につけた。それまでにないかたちであり、歴史上におけるキタイ帝国の意味は大きい。

十二世紀のはじめ、キタイ帝国は、マンチュリアに出現した女真族の金王朝に喰いこまれて国家が瓦解したが、それはキタイ連合体の内紛のためであり、キタイ族の多くは、表面上の主人になり代わった女真王朝の金帝国のもとで、そのまま横すべりして生きつづけた。さらに、キタイ国家瓦解のさい、王族のひとり耶律大石は、モンゴル高原を経由して、その地の遊牧民をひきいつつ、中央アジアにおもむき、そこで第二次キタイ帝国を樹立した。

つまり、モンゴル出現のころ、高原をはさんで、東の金帝国のもとにいる東方系キタイ集団と、西には、中華風に「西遼」とも呼ばれた中央アジア版の第二次キタイ国家そのものと、ふたつのキタイ族の群れがならびあうように存在していたのであった。そのうち、東のキタイ集団のリーダー格の耶律阿海・禿花の兄弟をはじめ、金朝治下でも屈指の立場にあったキタイ伝統貴族の流れをくむ人びとが、金帝国を見限って、高原の覇者となるまえの段階からテムジンのもとに投じていた。これらキタイ族の「ブレーン」たちこそ、チンギスとモンゴルを導くプランナーであり参謀であった。

キタイ三〇〇年の知恵が、モンゴルというパワーにリンクしたとき、かつてない統制された国家と軍事力が出現した。もちろん、すでに老成しきったチンギスカンという求心力の存在こそ、それらを束ねるかなめではあったが。

「時」がモンゴルをもとめた

そして、もうひとつ。モンゴルをとりまく周囲の国際情勢が、まことにモンゴルに有利に働いた。というよりも、まるで時代がモンゴルの出現を待っているかのようであった。十二世紀後半から十三世紀のはじめ、ユーラシア大陸をぐるりと見まわして、不思議なことに、これといって強力な国家や政権は、見当たらなかった。

東方の最強国、金帝国は、モンゴル出現のころ、表面上は文化の華がさく全盛期のように見えたが、そのじつ内外うちつづくダメージでひどく痛んでいた。総人口は、当時の正式な登録人口だけで四八五〇万をかぞえるほどの大国金の人口については、五三五三万という数字もあるが、文献上で少し問題があり、ここではあえて採用しない。なお、後述する南宋国の最大人口もあわせ、これに関連する事情については、拙著『耶律楚材とその時代』白帝社、一九九六年、一二~一二二ページにおいてやや詳しく述べている)であったものの、キタイ族の大反乱と黄河の大氾濫、それにともなう大飢饉によって、国内は沈論した。それを見すかすように、江南の南宋国が、八〇年ほどの和平を破っていっせいに軍を北上させた。金朝は余力をふりしぼって迎撃し、南宋軍をおしかえして、逆に国境線の淮水ラインをこえて長江ラインまで迫るいきおいを示した。予想と反対のなりゆきにすっかりあわてふためいた南宋政府は、事実上の独裁者であった韓佐冑を、文字どおり誠にし、そのかわりに平あやまりにあやまった。

このまことに愚かしくあさましい「金-南宋戦争」は、一二〇六年に始まり一二〇八年に尻すぼみで終わった。一二〇六年といえば、まさにモンゴル・ウルスが誕生した年であった。大義名分論・君臣論・正閏論、そして華夷思想が大好きな南宋国が仕掛けた愚挙は、生まれたばかりのモンゴル遊牧連合体に、順調に育成する国際環境と時間のゆとりをあたえたのであった。

南宋が演出してくれた「ひま」がなければ、はたしてチンギスのモンゴル国がどうなったか、知れたものではなかった。高原の牧民たちが、ウイグル遊牧帝国の瓦解いご、三百数十年ぶりに、ついにひとつとなったことの意味を、周辺の諸国は恐怖とともによく知っていた。とくに金朝は、かねてより、高原に少しでも有力な勢力があらわれると、すぐに介入して強力な統一権力の出現を阻止するのを国是としてきた。もし、南宋の破約と開戦がなければ、弱っていたとはいえ、金朝は、すぐさま生まれたてのモンゴル・ウルスへ必死の攻撃を仕掛けたことだろう。じつは、金帝国のほうから、モンゴル・ウルスをたたけるチャンスは、このときしかなかっただろう。それがわかっていながら、南宋軍を迎えうつために、南のかた華中へ兵を繰りださなければならなかった金朝の武将たちは、内心歯ぎしりする想いだったことだろう。

その南宋国は、みずから「半璧の天下」などと、もったいぶった格好をよろこんだように、どこか自虐めいた自尊・虚勢が目についた。そのじつ、公式に登録された人口数でいえば、なおまだ最高値で二八〇〇万ていどにとどまり(南宋時代でも、中華本土全体からみれば、江南はまだあくまでも「田舎」であり、金朝のおさえる「中原」にはおよばなかった。しろ、江南は、モンゴル時代に北からの資金や人間が入って、開発に加速度がつく。なお、宋代中国史の研究者が、北宋の人口を一億いじょう、南宋の人口を六〇〇〇万とする根拠はどこにあるのだろうか)、社会の産業力・生産力は頭抜けてはいたものの、国家としては二流国で、せいぜいのところ華北情勢の様子をうかがって小股すくいをねらうほどの力しかなかった。甘粛地方の西夏国は、モンゴルの脅威をもっとも身近に感じていた。モンゴルの本拠、ルコン、トーラ、ケルレン三河の上流部の平原にほどちかい最前線のエチナにおいて、西夏の防衛兵士たちが決死の覚悟を固めていたことを伝える記録が、今世紀のカラ・ホト遺跡の調査でみつかっている。西夏には、みずからモンゴル・ウルスをたたけるだけの国力は、もともとなかった。

いっぽう、東西トルキスタンをおさえたはずの第二次キタイ帝国は、だいぶまえから求心力を失い、急速に威信を低下させつつあった。やはり、せいぜいが高原の覇権争いに敗れた遊牧首長をかくまってやり、折を見てふたたび送りだしてやるくらいのことしかできなくなっていた。

さらに、一五〇年ほどまえ、西アジアに覇を唱えたトルコ族のイスラーム軍事政権、ルジューク朝は、もともとの分裂体質から数個の権力体にわかれゆき、もうこのころは、すっかり昔日の面影はなかった。ゆいいつ、アム河の下流部に出現したトルコ系のイスラ―ム王朝、ホラズム・シャー王国だけが勢いがあり、ちょうど東のモンゴルとおなじようにいまや浮上しようとしていた。


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 マクニールの『世界史』に原因に遡ろうとする記述をやっと見つけた