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日本が戦争をするのは20年後

パートナーからのメール

 朝7時半に、パートナーからのメールが入っていた。全然気がつかなかった。相談相手が居なくて、困っているとのこと。

 それに対して、孤軍奮闘しても埒が空かないから、組織の力を求めるように。組織の「要」に居ることを自覚すれば、周りが味方に見えてくると希望的観察を述べました。

 コンサルティング的なことは避けないといけないのは分かっているけど、パートナーの様子が見えてくると、どうしても言いたくなってしまう。

日本が戦争をするのは20年後

 日本が戦争するとした時に、陸軍も海軍もないのに、出来るはずがない。するとなると、宇宙軍しか考えられない。だけど、宇宙(といっても、数百Km上空だけど)は完全にアメリカに抑えられている。今のうちに、宇宙軍を作り出すことを20年計画を行って、アメリカに対抗するしかない。

 戦争の目的は、新しい環境世界を作りだすかという一点に絞るしかないでしょう。20年後に国という単位が意味をなさなくなっているだろうから。それからすると、どんな戦争になるのか。

 その時に、日本だけが旧態依然たる国があるとしたら、日本対全世界の戦いになる。何のために戦うのかをハッキリさせないと、その頃の「市民」は動くことはないはずです。

本を読む理由

 本を読む理由の一つは、こんなもんで出版できるんだという安心感を得るためです。

第8章はかなり咀嚼しないといけない

 今日中に、未唯宇宙の第2章を終えて、第8章に行きましょう。第8章も中々、面倒くさいです。第5章と一緒で、販売店をテーマにしている。退職した今となっては、過去のことに近い。だけど、パートナーがその中に居る以上は、どうなるのか、どうしたらいいのかを真剣に考え抜きましょう。

 表現は軽くしておきます。あくまでも、ヒントです。パートナーへの具体的な指針になるはずです。
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図書館はどこへ行くのか

『挑戦する図書館』より 情報技術・ネットワークの進化と図書館 情報技術と図書館サービス

図書館はどこへ行くのか

 誰もが、いつでも、どこででもコンピュータ情報通信ネットワークにアクセスして知識や情報を入手できるとなると、図書館は必要なくなるのではないかという考えが生まれる。それに、過去の図書も含めてあらゆる本がデジタル化されネット上に公開されれば、本に収録されている知識や情報はネットワークから入手できるようになる。図書館という空間や施設そのものが無駄だと考える人も出てくるだろう。

 図書館の外のネットワーク空間と図書館のなかを隔てる壁はなくなる。図書館がネットワーク空間に飲み込まれてしまうのか、図書館の空間の独自性を維持できるのか。知的な創造に関わってきた図書館は、近い将来、図書館そのものの存在を問われることになるだろう。基本に立ち返って、図書館とは何かを考えなければならない時期にさしかかっているといえる。

 「価値創発」に関しては、図書館としても考え方をまとめておく必要がある。ネットワーク上で出合う知識や情報から新しい知識や情報が生まれる。それに伴い、図書館の知的な創造の場としての地位は低下する。これはやむをえない。だからといって、図書館として手をこまねいているわけにはいかない。ネット上で出合い、新しく生まれる知識や情報だけが、知識と情報のすべてではない。すでに前章でもふれたように、図書館としては、人と人の交流によって生まれる知識や情報があることを確認しておくことが必要だ。

 人と人のリアルな面と向かった交流は、人格的な面も含めたさまざまな情報をお互いに交換し合うという特徴がある。

 その特徴を生かし、新たな知識や情報を生み出すためには、図書館の空間を再構築し、さらに図書館員の役割も見直さなければならない。図書館員は、相談・回答サービス、情報発信、調査・研究に関わるだけでなく、地域社会のさまざまな活動に関わり、かつ、そのなかで人と人を結び付けるコーディネーター、コンシェルジュ、ナビゲーターの役割も果たすことになる。図書館員の研修や再教育は喫緊の課題だ。ここでは、図書館とは何かという問題に挑戦する前に、現在進んでいるIT化か図書館にどのような影響をもたらすかを見ておこう。まず、現在進行中の日本のIT政策から見ていくことにする。

「公共クラウドの構築」について

 「公共クラウドの構築」は図書館のシステムをも対象とするもので、一部の図書館はすでに運用を始めている。クラウドを導入している図書館の事例は、富士通やNECのウェブサイトのなかのクラウド関係のページにある。また、二〇一四年のライブラリー・オブ・ザ・イヤーで優秀賞を受賞した福井県鯖江市図書館は、クラウドの先進事例としても評価された。コンピュータ関連経費などの面から見ると、県庁や教育委員会と話し合って条件が整備され次第、クラウドを採用、参加する方向で取り組むべきだろう。

 「宣言」と直接関係が深い事柄は、以上のようなものとなる。しかし、IT化はこのほかにもいくつもの検討課題を図書館に突き付けている。それらについて以下で考えてみたい。

集合知のレベルアップと図書館サービス

 またインターネット上には質問・回答の専門ウェブサイトもある。「Yahoo!知恵袋」などがそれだ。これらは質問が寄せられると、それを見た人が回答を寄せ、そのなかから質問者は自分の質問の回答にふさわしいと判断したものを採用するという仕組みである。つまり、どの回答を最適と判断するかは質問者の自己判断・自己責任に任されている。

 私もかつてレファレンス演習で学生に出した問題がネット上の質問・回答サイトに出ているのを見たことがあった。四つの回答が寄せられていたが、すべて誤っていた。どれも当て推量で、回答の根拠が示されていない。こうしたことは日本人によるネットヘの書き込みでは珍しくないので、べつに間違っていたからといって目くじらを立てることではない。

 集合知は確かにネット上のすばらしい成果といえるが、そこには誤りもある。しかし、それでもレファレンス・サービスの質を変えることにはつながっていくだろう。図書館界内部での集合知の創造も一層強化していく必要がある。

 集合知を基盤として将来優れたスマートマシンが登場し、ネット上の多くの質問に対して正確な答えを導き出すようになるだろう。そうなったとき、人間の役割・仕事はどうなっていくだろうか。レファレンス担当の図書館司書は、どのような仕事の内容にシフトすることになるのだろうか。シフトできなければ、仕事がなくなるという恐れさえある。

資料情報のデジタル化とオープン化

 資料のデジタル化は急ぎ進めなければならない事項である。世界の趨勢から見ると、日本の資料のデジタル化は遅れている。図書館では特に、地域資料のデジテル化か急務だ。問題は著作権である。国立国会図書館のような対応はとれない。そのうえ、地域資料は、著作権者の現住所がわからない場合が圧倒的に多い。著作権者の了解をとってデジタル化するという作業は非常な困難が伴う、というよりほとんど無理といっていいだろう。そのため、フェアユース(公正な利用)という考え方を導入して、デジタル化ができる道を開くよりほかにないように思われる。図書館界として議論をまとめ、国民に提案するのだ。

 またデジタル化の範囲も問題になる。日本の場合、古くから紙が存在した。読み書きは鎌倉時代の後半にはかなり普及した。そのため、手書きの文献の数は非常に多い。地方に行くと、屋根裏や戸棚の奥などに墨で書かれた文書がどこの家にも積み上がっている。これらのごくごく一部が地域の図書館や博物館に収蔵されているだけで、ほとんどは放置されている。デジタル化の技術でこうしたものを残すことも考えたほうがいいのではないか。

 いま一つの問題は、そうした文献を読みこなす人が少なくなっていることだ。もう半世紀ほど前になるが、私が早稲田大学文学部で学んだときには古文書を読む科目があったが、いまはもうない。ごく一部の県立図書館が古文書を読む講座を開いているが、日本の知的な文化を継承するという点では、こうした試みはもっと広範囲におこなわれるべきだろう。

住民による電子書籍の作成支援

 かつて、ガリ版刷りの図書や雑誌を作って売ることが若者たちの間ではやった時代があった。東京・神田の三省堂書店、東京堂書店、ウニタ書舗などにそうしたコーナーがあって、そこで売ってもらった。若者文化の一つだったが、エレキギターに取って代わられて衰退した。

 現代の若者は電子書籍を作って売っている。秋葉原ではもうだいぶ前からCD-ROMに収めた漫画やコミックを売る店があって、若者でにぎわっている。図書館でもウェブサイトにコーナーを作って、そこに展示して読んでもらうなどしていい。図書館が音声動画入りの電子書籍を作ることができるソフトを製作して無料配布してもいい。講座を開いて参加者に作ってもらう。もちろんシニア向けの講座も用意しよう。電子書籍も一つの文化になるだろう。
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対立する陸海軍の主張

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

確固とした方針の決定を先送りし、安易に日米開戦へと踏み切った日本。緒戦を勝利したとは言え、その戦争の方針をめぐって陸海軍の対立はむしろ開戦前より一層深まっていった。このままではいけない--一九四二年二月九日に開かれた大本営政府連絡会議の後、急進、戦争方針の二元化に向けて陸海軍の中堅官僚たちが動きはしめた。

当時、陸軍省軍務課長だった佐藤賢了は、その取りまとめにあたった軍官僚の一人である。遺族の佐藤巌さんは、生前佐藤賢了が繰り返し語っていた当時の事情を次のように話す。

 「大きな戦争としては日清、日露があるわけですけれども、そのどちらでも、終結の見込みが立たないままに戦争に踏み切ったのだと。それがどういうわけか日本の陸海軍に(体質として)染み付いた。終結の方法を考えずに戦争に入るということを当たり前のこととして考えるようになっていた、ということを聞かされたことがあります」

佐藤賢了は大量の手記を残している。『大東亜戦争回顧録』と題されたそれには、当時の政策立案者としての苦悩が記されている。

 「戦争を終結に導く方策は、開戦よりもさきに考えておくべきものであることは、戦争指導の鉄則である。しかし、こんどの戦争は遺憾ながら、戦争終結については自主的計画も見通しもはっきり立てられなかったのである」

大本営政府連絡会議の招集から二週間ほどが経過した二月二二日。東京赤坂の山王ホテルに、今後の戦争方針をまとめるため、佐藤たち陸海軍中枢の課長十人が集まった。連絡会議での意見集約の困難が見込まれる中、議論を陸海軍双方の譲歩可能な落とし所に導くため、事前に国策の原案をすり合わせることが目的だった。しかし、突破口を求めたはずのこの実務者会合でも、議論はたちまち紛糾した。

海軍省の担当者は、海軍が構想した積極策を主張したという。

 「緒戦の結果は、非常に偉大であった。この戦果を徹底的に拡張し、敵に立ちなおって反攻に出る余裕を与えないことがきわめて肝要である。太平洋における総反攻の基地は豪州であるから、先手を打って豪州に作戦しようではないか」(『大東亜戦争回顧録』)

あくまでオーストラリアヘの拡大攻撃を主張する海軍。陸軍はこの時、海軍から持ち出された豪州作戦に驚きつつ、即座に反論した。

 「それはむちゃだ。豪州作戦などは開戦前から趾画もなければ考えてもいない。この作戦計画を実行するには、陸軍にはすくなくとも十二個師団を要し、軍隊輸送と補給のため、百五十万トンの船を徴傭しなければならない。そんなことをしたら、国家が心臓マヒを起こしてしまう」(同前)

それに対して、海軍が陸軍の方針について問い質すと、今度は陸軍が従来の自らの主張を声高に繰・り返した。

 「経済封鎖は破れた。既定計画にもとづいて占領地域を開発建設し、その資源を内地に運んで戦力化していく。今後、海軍に大いに力を入れてもらいたいのは護衛作戦だ。また、島々に飛行機と防備をほどこして戦略基地網を構成して、敵の反攻を迎え撃つ準備が急務だ。豪州作戦などとはとんでもない」(同前)

陸軍が最も懸念していたのは、戦線が仲びきることだった。兵力は移動距離の二乗に反比例すると言われていた。島づたいに南下を続ければ、その度に進出した島の手前に補給基地をつくらなければならなくなる。それを繰り返していくうち、前線の兵力は次第に先細りになっていくからだ。陸軍は、この戦線の距離と補給の関係の重要性を、広大な中国大陸で身をもって体験していた。

また豪州作戦には、徴用船舶の数そのものにも大きな無理があった。佐藤の『大東亜戦争回顧録』によると、開戦当時の日本の船舶は約六六〇万トン。陸海軍が三九〇万トンを徴用し、残りの二七〇万トンを国民生活と軍需のための生産用にあてていた。ただし、戦争継続にはつねに三〇〇万トンガ生産用にあてられていなければならず、初期攻撃が終わった後、軍は一一〇万トンを生産用に返すことになっていた。ところが豪州作戦で陸軍だけでも新たに一五〇万トンを徴用する事態になれば、生産用船舶は必要量の半分以下となり、軍需生産も国民生活も立ち行かなくなることは目に見えていた。

戦線が伸びることに対する海軍の認識の甘さは身内も指摘するほどだったようで、輸送や補給に関する疑念は海軍内部でも囁かれていた。

 「私がいた南方方面でも、陸上防備など敵の上陸に対抗すべき(備え)はほとんど何もできていなかった。南方方面は敵の主作戦線と考えていたはずなのに、こんな状態だった。輸送、補給の面も気掛かりだったので中央にたびたび要求したが、『君は弱気だな』と茶化されてしまう始末。これでは山本長官の『はじめの一年か一年半は暴れてみせる』といった発言もどうかな、と思ってしまった」(川井巌・海軍第四艦隊参謀証言)

一方、泥沼化した日中戦争の決着を優先課題として位置づける陸軍は、そもそも海軍主導で始められた南方での戦いに関心が薄く、持久論に終始するばかりであった。海軍は元来、この戦争自体が勝ち目のないものであるという認識を持っていた。緒戦の真珠湾やマレー半島での作戦が成功したとはいえ、米英の反攻は必至であり、戦局が有利なうちに米英を叩き続けて戦意を喪失させる以外に、戦争終結の道は開けないという判断であった。陸軍に対しても、中国大陸でさかんに大長期戦だの、持久戦だのと喧伝していたが、それで解決し得なかったではないか、中国が相手だから持久戦でもつのかもしれないが、国力でけるかに勝る米英相手の大戦争で持久戦などをやっては、それこそ心臓マヒだことの思いがあった。短期決戦に持ち込むしか勝つ見込みはないのだと--。

 「陸軍というのは大陸ばかりをにらんで国防をやっておる。海軍はアメリカをにらんで西太平洋における決戦ということばかりを考えてやっておる。これを本当に消化して、日本の向かう国策はこっちだ、このけじめが最後までつかないままでいたと」(佐藤賢了証言)

こうした陸海軍の収拾のつかない対立を、国際日本文化研究センターの戸部良一教授は次のように解説する。

 「陸軍は、アメリカを叩くなどということは、そもそもあまり考えていませんから。その一番基本的な部分のすり合わせがどうも最初になされていなくて、戦争を始めてしまった。アメリカとの戦争は海軍に預けて、あとはオレ知らないよ、自分たちでやるよという行き方ですから、海軍に対してもなかなか説得力をもち得なかったのだと思います」
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南方の資源

『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』より

日本のはるか南、太平洋に浮かぶ熱帯の島、ボルネオ(カリマンタン)島。

日本の国土のおよそ二倍の面積を有し、現在はインドネシア、マレーシア、ブルネイの三か国が領有するこの島は豊富な資源を産出する。石油、石炭、金、鉄、スズ、ボーキサイト……。ことに良質な石油資源がこの地の重要な産物であることは、時を経た現在も変わりない。

 「日本が来た時は、いまの四十倍の石油が採れたからね」

と現地の国有石油会社「ペルタミナ」の担当者は話す。

七十年前、イギリスとオランダが植民地として領有・経営していたこの島へ、戦争という蛮行を犯してまで日本を駆り立てた理由は、まさにその石油をはじめとする資源にあった。

なぜ、それほどまでに日本は南方の資源を渇望したのか、開戦前の事情を少し整理しておこう。

日本はもとより地下資源の乏しい国である。当時、日中戦争が泥沼化しつつも日本がなんとか国力を保ち得ていたのは、アメリカとの貿易が国家経済の支えになっていたという背景があった。石油や鉄といった戦略的に重要な資源の大半をアメリカからの輸入に依存していたのが当時の日本の実態である。

しかし、日本の強引な大陸進出策に態度を硬化させたアメリカは、まず一九四〇年一月に屑鉄、航空機用燃料などに輸出制限を加える。対日経済制裁の始まりであった。さらに同年九月に日独伊三国軍事同盟が成立すると、日米関係はさらに悪化する。両国の対立は鮮明になり、屑鉄、鉄鋼が全面的に輸出禁止となるなど、アメリカの制裁はますます強化され、イギリス、オランダもこれにならった。

物資の窮乏を打開するため、日本は代替供給地の獲得を急がねばならなかった。そこで目をつけたのが、豊富な資源を有するアジア太平洋の南方地域である。しかし、オランダ領東インドに石油などの供給交渉を行うものの、アメリカの圧力などもあって四一年六月に交渉は決裂。また、海軍が民間商社を通じて独自に試みたブラジルやアフガニスタンなどでの油田、鉱山の獲得交渉もやはりアメリカの圧力の下に頓挫し、民間ルートでの資源調達の途もこの頃には閉ざされていた。

そして一九四一年七月、さらに厳しい経済制裁が日本に課されることとなる。

石油などの資源獲得に向けた南方の拠点づくりのためフランス領インドシナ南部に日本が軍を進めると(南部仏印進駐)、アメリカは態度を決定的に硬化。保有する対日資産の凍結をけじめ、アメリカは日本へは石油を一滴たりとも売らないという全面禁輸に踏み込んだ。さらにイギリスは口英通商航海条約等の破棄、オランダは日蘭石油民間協定の停止を表明。大陸で戦う中国を含め、強力な対日経済制裁の包囲網(ABCD包囲網)を形成し、日本の封じ込めを図った。

なかでもアメリカによる石油の全面的な禁輸措置は日本にとって深刻な打撃となった。戦前の日本は、石油の六六パーセントをアメリカに、イギリス・オランダを加えた三か国には合計九四パーセントも依存していた。アメリカの禁輸措置は、日本にとっては、国家経済の血流を止められるに等しい死活問題となったのである。

戦時の国家経済を統制していた企画院が作成した資料によると、四一年七月時点で日本に残された石油の備蓄量は七百万トンあまり。一日一万トンの備蓄が消費され、それは平時であっても二年ともたぬ量にすぎなかった。先に輸出制限を受けていた戦略性の高い航空機用燃料などは備蓄が底をつきかけていたとも言われている。

避戦か開戦か--。

アメリカの要求に応じて中国から撤兵し戦争を回避するのか、それとも資源調達のために南方地域へと進出するのか。日本は抜き差しならない苦境に追い込まれた。しかし、中国からの撤兵は国内からの、南方への進出は米英からの反発は必至だった。猶予のない経済的圧迫に国策の最終決断を迫られた指導者たちは、日米交渉に一縷の望みを託し、経済封鎖を打開する途を探った。

しかし、結果は冒頭に記したとおりである。日米交渉が続けられる中、一九四一年一一月二六日、択捉島ヒトカップ湾を出港した連合艦隊は、ハワイ真珠湾に向けて移動を開始した。その直後、いわゆる「ハル・ノート」が東京に到着した。その内容は中国と仏印からの完全撤兵など、原則論を繰り返しか、日本にとって極めて厳しいものであった。大本営政府連絡会議は即座に対米交渉の打ち切りを決定した。

こうして、政府首脳のみならず、開戦を支持した軍指導部の者たちでさえその多くが「勝算なし」と考えていた戦争に日本は突入していくこととなった。資源を追い求めて始められた戦争かたどり着いた先は、出口も戦略も判然としないまま、やがて泥沼化していくことになる。
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未唯宇宙項目の見直し 2.数学 2.5~2.6

サファイア理論

 サファイア循環

  部分の思考
   点を定義
   孤立と孤独の世界
   考えること
   周りを取り込む

  部分の行動
   点を拡大
   思いの範囲
   同じモノを集める
   勇気づける

  全体の思考
   部分の思考の積
   循環を見る
   部分を配置
   全体を企画

  全体の行動
   部分の行動の和
   アナロジーで展開
   部分を見越す
   全体の企画を実行

 サファイア機能

  Empowerment
   内のまとまった行動
   内の独自性が活力
   成し遂げる力
   内の内から外

  Interpretation
   外への関数
   内の自律性を訴求
   循環を拡大する力
   内の外から外の内

  Realization
   全体を考える
   先を見た方針
   循環のエネルギー源
   外の内から外

  Facilitaion
   内へ逆関数
   内に情報を集約
   内に戻す力
   外の外から内の内

 部分の位相

  近傍系ありき
   点の領域として定義
   基本空間と同一位相
   あつまりを規定
   基本はインバリアント

  連鎖して集合
   位相空間で距離を定義
   インバリアントで接続
   インターネット基本構造
   LANとWANの概念想定

  連続性を保証
   基本空間と1対1
   開いた空間の安定性
   多様で、雑多な次元
   時空間として拡大

  位相空間をなす
   近傍系から空間を創出
   同一価値観の空間
   既存組織は特異点
   多重空間を構成

 全体の位相化

  統合のベース
   基本空間を設定
   空間の位相を規定
   全体の性格をつくる
   1対1と連続を保証

  サブスペース
   点と全体の中間
   サブスペースを作成
   チェーンを拡大
   コミュニティを想定

  マッピング
   サブスペースの生成物
   要素の状況把握
   サブスペースの正規化
   情報共有でマッピング

  多重空間を構成
   組織を再構成
   個人をターゲット
   個人を取り込む
   全体の位相化

社会の位相化

 内なる世界

  自分の時間
   自分の時間は自分で使う
   μに理解を求める
   何事も逃げない
   どうでもいいことはいい

  考え抜く
   数学を紙と鉛筆で考える
   知恵を確実にする
   マイナスをプラスに転化
   10cmツールを開発

  まとめる
   本のDNAを理解
   多読情報処理
   行動するμの情報
   ブログで表現

  完結性を保証
   存在しても無
   無であることを自覚
   自己中心で行動
   内なる世界につながる

 環境社会のあり方

  集合が点で、点が集合
   全体の思いが自分の思い
   自分の思いが全体の思い
   思いをカタチに
   集合が点で、点が集合

  シェア社会
   シェアして使う
   本図書館は本と場所を提供
   電子書籍とネットで進化
   シェア社会を先行実施

  グローバル化に対応
   グローカル社会を認識
   ローカルを支援
   グローバルに提案
   ローカルの自立と活性化

  新しい民主主義
   知恵と努力で自由を獲得
   未来は平等を求める
   ローカル主体で全体把握
   TGALで新しい民主主義

 アナロジー思考

  アナロジーとは
   既知の空間に投影
   挙動を把握
   逆関数でトレース
   的確な事例を反映

  空間を対比
   近傍の挙動をトレース
   近傍系で全体を包含
   空間をイメージで理解
   疑似空間を創出

  正規空間
   サブスペースを正規化
   要素を目的で割る
   位相空間で制約を打破
   正規空間に投影

  多層空間
   次元の制約を超越
   多層化した空間
   無限次元に埋め込み
   無数のサブスペース

 社会の位相化

  社会の様相
   サファイア生活規範
   内なる思考をカタチに
   社会の成果を横展開
   考えることに集中

  過程をシミュレート
   ムスリムの浸透過程
   Facebookの情報共有指数
   インターネットのTCP/IP
   対話から思考へ拡大

  新しい数学
   考えることの意味
   数学の楽しさ
   考えることは生きること
   足りないものを発見

  未唯宇宙で体現
   全てを知りたい
   宇宙空間の位相表現
   意識と知識を想定
   未唯宇宙を継続
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乃木坂なら見に行きたいのに

SKEのセレモニーで豊田市駅には多くの人が出ています。2時前なのに、松丈のコロッケが売り切れて、店が閉店になっていた。今日ばかりはマクドナルドも混んでいます。ロッテリアもですが。スタバはもう、グチャグチャ。早々と出て来た。こういう時に、豊田市の街は渋滞になります。脇道を通って、帰ってきた。事故に気を付かないと。

FBに「SKEじゃ、しょうもない。乃木坂かモーニング娘。なら行くのに」とアップしたけど、まるで反応なし。関心なさそうですね。

それにしても、生駒と櫻井が三列目とは驚きですね。真夏は二列目で妥当だけど。
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中国を揺るがせた激動の一年であった一九七六年

『70年代と80年代』より

毛沢東、周恩来の死と小平の復活 第一次天安門事件 1976年4月5日

中国を揺るがせた激動の一年であった一九七六年

 一九七六年一月、卓越した外交家、調整者と言われた周恩来が逝去した。四月、周総理を追悼する清明節をきっかけに「第一次天安門事件」が勃発した。それを口実に小平が再び全ての職務を失い失脚した。その後、小平批判運動が全国に吹き荒れる中で、七月初めにもう一人の「革命の元勲」朱徳将軍がこの世を去った。同月末には二十四万人もの死者を出し、都市全体が壊滅したといわれる「唐山大地震」が起こった。そして九月、「中国革命、建国の父」と言われた毛沢束が逝去した。

 この時点では、小平を政権から追い落とした功労者で、毛沢東の思想的追従者といえる江青、張春橋、姚文元、王洪文の「四人組」が次期権力の中枢を占めるかと思われた。が、毛の死後一ヵ月後に、彼ら一派は華国鋒を中心とする「反四人組連合」によって、一網打尽に逮捕・監禁され、その後再び陽の目を見ることなくこの世を去った。「四人組」の失脚は直ちに小平の再復活かと思われたが、さしたる実績もないままに毛沢東の庇護のもとで中央に登ってきた華国鋒が、党主席、中央軍事委員会主席、国務院総理の三権の長を独占し、の復活をかたくなに反対し続けた。七六年は「辰の年」(何か大きな変動のある年)と言われていたが、まさに中国にとって激震の一年であった。

 三権を独占した華国鋒は、毛沢東の威信に依拠しながら自らの権力基盤の強化に取り組んだ。その最大のポイントは「郵小平復活の阻止」であった。が復活することはとりもなおさず自分の地位が脅かされるからであった。しかし党内に高まる郵小平待望論と、小平の巧みな戦術に乗せられ、結局七七年七月十六日に開かれた党の第十期中央委員会第三回全体会議で失脚前の全職務に復帰することが承認された。一例を紹介すると、は二度にわたって華国鋒と党中央に手紙を書き、「自分はもう老齢の身(当時七十二歳)である。これからは華主席と党中央のために残された人生を捧げたい」「華主席をトップとする党中央万歳!」などと記している。華はそれでも警戒を続けたが、これらの手紙を党内の幹部に回覧し、公に示すことでの復活を受け入れたといわれる。したたかな小平は、復活後直ちに毛沢東思想を掲げながら、後述するように毛沢束信奉者たちの排斥を図る取り組みを開y始し、大きな政治的混乱を起こすことなく、四人組グループ、華国鋒グループを権力の座から一掃することに成功したのであった。七六年から七七年にかけての中国は、周恩来、朱徳、毛沢東の死といった巨人の相次ぐ他界、四人組の失脚、そして那小平の復活と華国鋒の孤立化など、政治局面においては文字どおり「激動の嵐」といった感じであった。

 しかし基本的な方針や政策が大きく転換したかと言えば、必ずしもそうではない。毛沢束時代にモデルとされた「工業の大慶」「農業の大案」に学ぶ全国会議は七六年秋、七七年春に開かれ、五〇年代後半にできた農村の人民公社制度も維持されたままであった。文化大革命も「毛主席の偉大な功績」として礼賛され続けていた。したがって当時の実感から言えば、積極的に市場経済を導入し、近代化に邁進する今日の中国の大転換に結びつく源流を直接にこの時期に求めるのはやや誇張したとらえ方であろう。本格的な転換にはまだ越えねばならない難関があったのである。

政治中心の「革命路線」から経済重視の「改革開放路線」へ

 小平の基本的な国内戦略を見るには、七四年から再失脚する七六年四月までのの発言・行動を確認しておく必要がある。七五年三月、彼はある重要会議の講話の中で、「いま全党で大いに重視せねばならぬ大局がある。……第一段階では八○年までに独立した比較的整った工業体系と国民経済体系をうちたてる。第二段階では、二十世紀末までにわが国を近代的農業、近代的工業、近代的国防、近代的科学技術を備えた社会主義の強国に築き上げる。……これが大局である」(『小平文選一九七五-八二年』)と力説している。

 しかもこの時期、郵は既に党・国務院・軍の全面的な整頓の必要性を説いただけでなく、経済回復のために海外からの資金・技術導入の必要性までも主張していたのである。毛がなお存命中で自身が文革の最大の被害者であったことを考慮すれば、あまりにも大胆なまでに「脱文革」的であった。これらはやがて「四人組」による小平批判・攻撃、再失脚の絶好の口実となった。が、七七年の再復活直後から、はまさに失脚前の主張どおり大胆に邁進し始めたのである。毛の後継者を自認し、党・軍・行政のトップ華国鋒も経済に関しては周恩来の「四つの近代化」を支持し、経済回復に力を入れていたのでしばらくは那との並走が成り立っていた。

 しかし、の策略はまず経済路線で静かに、徐々に華国鋒グループを包囲していくことから始まっていた。華国鋒は経済の回復・発展をあまりにも急ぎ過ぎたために、中国自身の経済水準を無視して西側から大量の先進的なプラントを購入した。五〇年代後半の毛の経済政策「大躍進」の失敗をもじった、「洋躍進」と呼ばれるものであった。そのため僅かばかりの外貨はすぐに底をついたうえに、石油など中国白身の貴重な資源を担保にとられるようになった。「文革派」でもある華の周辺には実務的な経済テクノクラートはいなかった。は五〇年代からの毛の経済政策の批判者でもある大物経済テクノクラート陳雲と組んで「洋躍進」批判を展開し、まずは「経済調整政策」に転換させた。

 同時に華国鋒指導部の幾人かを辞任させ、そこに胡耀邦、趙紫陽、万里、姚依林ら小平や陳雲の息のかかった人材を配する。さらに七八年には郵小平を失脚に追い込んだ七六年四月の「第一次天安門事件」の名誉回復を実現し、「四人組」だけでなく華体制を支える幾人かの中央指導者も関与しているとして失脚に追い込んだ。このように、華国鋒を支える指導者たちを徐々に華国鋒から引き離すことによって大きな混乱を導くことなく華体制を弱体化させることに成功したのである。

 小平の「改革開放路線」への大転換は、よく言われる七八年十二月の党十一期三中全会であった。しかし実質的な大転換はこの会議前に十一月十日から十二月十五日にかけて開かれた党中央工作会議という特別の場であった。華国鋒は依然として「毛沢東の後継者」として毛路線の継承を訴えたが、小平派、陳雲派、文革からの復活老幹部らの見事な連携によって「党の工作重点の移行」を主要議題にすることに成功した。興味深いことにこのプロセスでは、小平はほとんど表だった動きを見せていない。しかし同工作会議の閉幕で総括報告を行ったのはもちろん郵その人であった。その講話は「思想を開放し、実事求是の態度をとり、一致団結して前に進む姿勢を取ろう」と題するものであり、中国の再生に向けて大胆な呼びかけを行っている。それを踏まえて党十一期三中全会は、「大規模で嵐のような大衆的な階級闘争の時代は終わった」、「重点工作を経済の近代化に移行する」と高らかに宣言した。華国鋒はこの時点でもなお党主席のポストは維持していたが、中央軍事委員会主席は小平に、国務院総理は趙紫陽に交代させられていた。そして八一年には党主席のポストも胡耀邦に奪われ、完全に実権を失った。

 八二年の党第十二回全国代表大会は文字どおり郵小平時代の幕開けであった。しかし新設された党の最高ポスト・総書記には郵は就かず、のもっとも信頼の厚かった胡耀邦が就任した。国務院総理は趙紫陽が、復活した国家主席には李先念が就き、は唯一中央軍事委員会主席のポストを握るのみであった。はおそらく、政治安定のために軍を掌握しておくことは必要である、しかし既に七十八歳の高齢に達した自らではなく若い胡耀邦や趙紫陽を前面に立たせ、自分は後ろで支える役を担うことで、長期にわたる近代化路線を固めていこうとしたのであった。まさに「小平時代」の始まりと同時に「ポスト小平時代の模索」の始まりなのであった。その後の歴史は、それ自体が試行錯誤した過程であったことを示している。とりわけ胡耀邦、趙紫陽の失脚は自ら「決断」したとはいえ、の予期せぬ事態であった。が、の敷いた「改革開放路線」はむろん深刻な課題を生みながらも、疑いなく「大輪」を咲かせていったのであった。
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経済危機は予測できるか?

『市場は物理法則で動く』より

ヘッジファンド同士の熾烈な競争が、フィードバックという爆弾の導火線に火をつけて、何十億ドルもの大金を数分で失わせることがある。光速でおこなわれるコンピューター・アルゴリズム取引のせいで、市場は気難しくなり、一秒未満のタイムスケールで「スパーク」しやすくなる。フィードバックによって生み出される過剰な楽観主義と悲観主義の波によって、市場や経済全体が衰えていくが、そうしたフィードバックのなかには、人間心理の深い部分に根ざすものもあるかもしれない。自己調節機能のある安定的な均衡状態は、経済学やファイナンス論における標準的な状況とは決して言えないのだ。たとえミルトン・フリードマンがそうした意見に我慢できず、その後の数世代の経済学者に、自分と同じ考えを信じ込ませたとしても。

今日の経済学の論文誌は、慢性的な失業率や貧困の高さから、企業による談合、共通通貨の安定性(または安定性の欠如)まで、あらゆるものの説明に均衡モデルを応用した論文であふれかえっている。もちろんそれは悪いことではない。こういった現象の多くには、正反対の力の間のバランスという要素が含まれている場合もあるし、均衡思想によって、物事の仕組みを大まかに理解できることも、ときにはある。しかし残念なのは、こうした均衡論の議論が排他的なことだ。七五年ほど前、先見の明のある経済学者数人が思い切って均衡論の先へ進もうとした。彼らの研究は、完全に忘れ去られてはいないまでも、意図的に隅の方へと追いやられてしまっている。

世界大恐慌の後、経済学者たちは当然ながら、「見えざる手」が経済を最適な結果へとまっすぐに導いてくれるというバラ色の物語は、もはや受け入れがたいと考えるようになった。イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズはかつて、一時的な経済需要の不足が増大して、経済を困難な低迷期に追いやり、さらには自己持続的な不況にまで発展すると主張した。ケインズ以前には、アメリカ人経済学者のアーヴィング・フィッシャーが、ケインズ以上に明確な形で、市場と経済が制御不可能になるケースは何百通りもあると主張していた。バランスの取れた均衡状態にある経済というのは「想像の中でしか」あり得ず、波一つない大海原を探すようなものだと考えたのである。

フィッシャーは特に、楽観主義や金融緩和、負債の拡大といった波は、必然的に「負債デフレ」と、長期にわたる金融引き締めと経済不況(もう聞き慣れただろうか)につながるのだと指摘した。

一九四〇年代には、ニコラス・カルドアやジョン・ヒックスといった経済学者たちが、経済活動が自然に上下動しやすく、均衡状態に落ち着こうとしないことを示す数学モデルを構築した。こうした初期の研究は、基本的な不安定性は気象の多様な変化だけでなく、ほかにも多くのものの原動力になっていると考える、当時の最先端の科学思想に同調するものだった。一九五二年、コンピューター理論の創案者であるイギリスの数学者アラン・チューリングは、正のフィードバックや不安定性は、生命そのものの基礎であり、特に細胞が分割して体のさまざまな部分に分化していく、胚発生という神秘的なプロセスで重要だと指摘した。今では、チューリングの考えが正しかったとわかっている。生物の世界では、実際に正のフィードバックが、私たちの生命に欠かせない特殊化したニューロン、血液細胞、筋組織、内臓を作り出し、制御しているのだ。

しかし、科学の他の分野がこうした洞察によって繁栄していたとすると、一九七〇年代の経済学は異様なほど内向的だった。「合理的期待」革命の後、経済学は均衡論の殻に閉じ込められてしまい、市場のダイナミクスを、本格的な研究には向かないテーマとして扱うことが多かった。現在、自然の不安宗性に関するフィッシャーやケインズの洞察は、否定されないまでも、密かに均衡モデルに取り込まれて、事実上無力化されてしまっている。

経済学者たちは、信念を持った少数派をのぞいては、過去数十年に起こった非常に重要な科学的発ほの数々を事実上無視してきた。そうした発見には、たとえばカオス理論や、地形から銀河の分布までふらゆるものに見られるフラクタル構造の科学などがあり、これらはすべて非平衡プロセスから生じるのだ。現在では、不均衡的な考え方が徐々に復興し、その結果、経済・金融システムの継続的な変動は、外部からの「ショック」が何もない状態でも、ごく普通に生じることがわかってきている。私たちは、「見えざる手」による無条件の効率性を、過ぎ去った時代の妄想と見なすことを覚えたのだ。

しかしこの最終章では、別の問題を考えたいと思う。気象予報官は、嵐を理解するだけでなく、その予測でも大きな成果をあげている。アメリカの平野部ではたびたび竜巻が発生するが、それによる死者の数は六○年前より少ない。竜巻が発生しやすい気象条件になると、アメリカ気象局が正確な警報を出すからだ。ここで、ある単純な疑問が湧いてくる。これと同じことを、経済学やファイナンス論でもできるだろうか。有用な将来予測は可能になるだろうか。

この本を書いている二〇一二年六月の時点では、経済紙はさまざまな憶測で沸き返っている。ギリシャ、スペイン、ポルトガル、イタリアがデフォルトの瀬戸際にあり、その脅威は、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカの大手銀行に及ぶという。金融機関の間に広がった相互作用という不穏な網の目は、欧州の通貨統合全体を危うくするものだ。昨日、証券会社から私に届いたアラートメールは、「ユーロを救うには三日間しかない」というジョージ・ソロスの論説記事が掲載されたという内容だった。はたしてユーロは救済されるのだろうか。世の中の意見は、「欧州のリーダーたちはユーロを破綻させないだろう」と楽天的に信じるものから、「この通貨はおそらく絶望的だ」という悲観的な(私から見れば現実的な)ものまで、さまざまだ。本書の読者はすでに、この歴史的なドラマで次に何か起こったかを知っているだろう。だが現時点では、事態が明白だとはとても言えない。

将来どんなことが起こるのかを知るのに役立つ、欧州経済のコンピューターモデルは存在していない。そもそも、モデルを作ろうという考えが馬鹿げている。そうしたモデルを考え出すこと、それが存在すること自体が、人々の行動様式を変え、予測が不確かになってしまうからだ。この点は議論の余地がないばかりか、社会科学では実際に問題にもなっている。社会科学の理論は、人々がそれについて知った時点で、現実を変えるという逆向きの作用をして、理論そのものを間違ったものにしてしまうのである。

多くの人々は、この種の議論を「そのとおり」の一言で片付けている。天気を予測するように、経済学やファイナンス論の予測をする時代は来ないと考えているのだ。私には、これはあまりに性急な結論のように思える。「予測する」という言葉には、もっと微妙な意味合いがあるからだ。
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関東軍の独断専行に対する天皇陛下

『「文藝春秋」で読む戦後70年』より 松本清張 私観・昭和史論--明治官僚制の崩壊と先端技術

関東軍を代表とする軍の出先機関が中央の参謀本部や陸軍省の統制に服していたなら、破滅的な戦争への暴走は防止できたであろう。司令官にその行為が見えたならば、ただちに喚び返して任を解き、責を問うべきである。その第一号の該当者が山県有朋自身であった。

日清戦争のとき、山県は第一軍司令官となって出征、二十七年十月、鴨緑江を渡河して九連城を陥れた。大本営はここで冬営を命じたが、山県はそれを退嬰策なりと一蹴、桂太郎の第三師団に攻撃を開始させた。第三師団は敵中に深く入りすぎて重囲に陥り、三ヵ月間苦闘した。山県は勅命により東京に召還され、天皇に拝謁して第一軍司令官と枢密院議長とを同時に解職され、監軍という閑職に追いやられた。山県の独断専行が甚だしいために、これ以上彼を軍司令官にしておくと大局的な戦争遂行ができないというので参謀次長川上操六が伊藤博文に泣きつき、勅命召還を乞うたという。

のちの関東軍の独断専行もこのように処分すればよかったのだ。しかし、時代は陸軍の第一の実力者山県を処分した当時とはくらべものにならないくらい陸軍の暴力が強大になっていた。

それでもまだ僅かながらこれを防げるチャンスがあった。張作霖爆死事件をめぐる「聖断」と田中義一首相である。

昭和三年六月、国民党の北伐軍に圧迫されて北京から退去する張作霖の乗った列車が、瀋陽付近の満鉄交差点で日本軍に爆破され張作霖は横死した。田中内閣はこれを「満州某重大事件」と称して閣内で処理しようとしたが、元老西園寺公望は、

 「かくの如き事実があったとすれば、これを軍紀によって立派にただしてこそ陛下の御面目も立ち、国際的信用も維持することができる。かくの如きことを闇から闇に葬ると、日本の陸軍の信用をますます失墜し、ひいては国家の面目を傷つけ、聖徳を蔽うことになる。かくの如き明白な事理をまるで弁えず、これを闇から闇に葬ろうと努めている連中にも実に困ったものだ。この事柄だけは西園寺も見逃すことはできぬ」

と云い、人をして田中にすすめ、天皇に報告させた。

田中は、西園寺の激励もあって、張作霖爆殺の責任者(関東軍司令官村岡長太郎中将、関東軍参謀河本大作大佐ら)を軍法会議にかけ、この旨を天皇に上奏すると閣議で主張した。閣議は一致して反対し、行政処分で収拾すべきだという白川義則陸相の意見を支持した。閣議のみならず、政友会の党員はみな行政処分に加担した。田中はなおも軍法会議を主張してやまなかった。このころの田中は立派であった。

そのあいだにも西園寺からの田中への懲憑はしばしばであった。

かくて昭和三年十二月二十四日午後二時、田中は宮中に参内した。「作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人が関係しているものの如く、目下鋭意調査中ですが、もし事実とせば法に照らして厳然たる処分を行なうべく、詳細は調査終了次第陸相よりその旨を申上げます」と上奏して退下した。天皇からは「国軍の軍紀は厳格に維持するように」との言葉があった。二十五日、田中は各閣僚に個別に、また二十六日には閣議に於いて総理大臣として決意を告げ、併せて意見を徴したのであった。だが各閣僚は、田中首相がだれとも相談することなく元老と謀って、かかる重要なことを独断で上奏したことを難じた。

昭和三年二月の総選挙では与党の政友会が議席を減らしていた。不戦条約で政府は枢密院にいじめられた。そうした苦労を重ねた末に、張作霖爆殺の責任者を司法処分(軍法会議)とせずに行政処分(予備役編入、停職など)にする方針を陸軍中央から迫られた田中は、やむをえず閣議にはかった。全閣僚異議なく承認した。田中の挫折である。

そこで、四年六月末、田中は参内して、「その後、調査いたしましたが、日本の陸軍には幸いにして犯人はないということが判明いたしました。しかし警備上の責任者の手落ちについては、これを行政処分をもって始末いたします」と上奏した。

天皇は、

 「この事件を犯人不明としてその責任者を単に行政処分で終らせたということは、帝国の陸軍の綱紀を維持する所以でないということを御妙念になり、田中総理に対し、

 「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」

と言って奥に入られてから、鈴木侍従長に向って、

 「田中総理の言うことはちっとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」

と言われたのを、侍従長もまだ就任早々で慣れないから、その陛下のお言葉をそのまま総理に言ったので、田中総理は涙を流して恐催し、即座に辞意を決して総辞職を決行し、田中内閣は遂に倒れた》

田中が「最初に言ったこと」とは、前年十二月二十四日の上奏のことである。

なお、これ以後、天皇は内閣関係者に直接影響を与える政治的発言を控えるようになったという。

もしこのとき、村岡関東軍司令官と河本参謀とを軍法会議にかけることができたら(両人が作霖爆殺の首謀者であるのは「東京裁判」で明らかにされた)、その後の盧溝橋事件もなかったろうし、関東軍による満州国のでっちあげも困難であったろう。犯人は片端から軍法会議にかけられるからだ。

張作霖爆殺事件で軍法会議をあれほど強硬に突張っていた田中義一の腰くだけも(田中は辞職後まもなく病死)、西園寺が「君側の奸」と狙われるようになったのも、軍・民連繋の右翼暴力の波によった。

天皇は軍紀の粛正を望んだ。ゆえに田中の変節を悪んだ。声色を敢えて動かして彼を叱責された。不興をこうむった田中はいたく衝撃をうけた。しかし、天皇の追及は陸軍大臣に及ばず、また後継内閣にも及ばずして熔んだ。それ以上にわたると、君臣の間の秩序に乱れがくるからである。君臨すれども統治せずという抽象的な言葉を引合いに出すまでもない。この場合は天皇をとり巻く官僚制の秩序である。

創業明治天皇のときは、君臣のあいだはもっと友だちつきあいに近かった。それを引き離して天皇を超権威のきらびやかな玉座に孤立させたのは明治後半になってからである。伊藤博文や山県有朋であろう、とくに山県であろう。これについては、あとで考えることがある。
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姪との会話は楽しい

借りた本の処理

 朝から、昨日借りた本を元町のスタバで行っています。「黒板」の絵が芸術ならば、「スリーブ」の絵も芸術になります。いかにメッセージを送るか。

姪との会話は楽しい

 結局、10時半からのスタバでのデートになりました。妹からは、娘が電車に一人で乗るのは久しぶりなので、メールが二度も入った。「箱入り娘」状態です。

 2時間40分、様々なことを話した。最後の40分は妹が入ってきたので、話題が狭くなった。

 急に外耳炎になったこと。フランクフルト空港での乗り継ぎ時に気絶した。ギリシャでの検査で精神的なものと決めつけられた。ギリシャの医療費の安さ。レバノンワイン。私のデジタルライブラリの検索機能。ギリシャ人はお節介だけど、フィンランド人は人見知り。1492年のスペイン・ポルトガル、そしてイスタンブールの情勢。第2次世界大戦後のギリシャとアメリカ介入。レバノンのアレッポのこと。アテネでの生活(何もしていない)。取っ掛かりとしての日本人会の図書ボランティア。ギリシャでのイチジク栽培は野放図。丁寧な農作物という感覚はない。イチジクは勝手になっている。お互いが持っている筆記具がほぼ同一。ノートへの拘りも同様。フランクフルトでの気絶はやばかった。私も急に眠くなる。タブレットの電池の持ち。スタバのバリスタ。幹大の結婚相手がいない。未唯と同じで混んでいるところには行かない。私が入院した経緯。奥さんのお茶スケジュール。

 それにしても、無花果栽培でのギリシャと日本の違いまで話題になるとは。さすがに農学博士ですね。
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