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私はクレーマー

上にまいります。扉が閉まります。→上にまいります。首が絞まります。

パートナーへの回答

 Q)販売店での活用がわからないし、連携根拠がわからないから担当部と今日打合せしました。私が上手く仕切れず、落ち込みです。

 A)お客様へのメール発信は、システムの枠を超えるものに成りつつあります。発想を変えたシステム設計が必要ですね。その時に必要なのは思考の柔軟性ですよ。

私はクレーマー

 大腸検査前の診断で年休です。

 11:45の予約に対して、余裕をもって、11時間に病院到着。

 受付に予約券を出したところ、日時が昨日でした。30日と言われて、そのまま、歯医者の日程を変えて、年休届を出していた。書類は見ていなかった。

 こういう時も、全然、平気です。なにしろ、私は本質的にクレーマーですから、自分が悪いとかで割り引くことはなく、平然と権利を要求します。

 2年前のDB(ドイツ鉄道)のアーヘン駅での返金要求で自信をつけています。先週の薬局へのクレームもその系統です。このまま、歳のせいにして、要求していきます。
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OCRの5冊

『「地元」の文化力』

 参加のパラドクスと地域社会のゆくえ
 地域とのつながりの再検討
 参加のパラドクス
 同心円モデルと螺旋上昇モデル
 ハイブリッドな文化
 二重の存在としての移動者

『ヤスパース』

 ヤスパースの歴史観
 歴史の起源と目標
  歴史に対する態度
  歴史意識の二面性
  歴史のなかでの決断
  歴史観と世界史
  ヤスパースの歴史観
 世界史の構造
  世界史の基軸の問題
  世界史の基軸時代
  基軸時代設定の意義
  世界史の四段階
  先史時代
  人類の起源
  古代高度文化
  基軸時代後の進展
  東洋の停滞と西洋の発展
  西欧の科学と技術
  人類全体の時代
 現代--科学と技術の時代
  近代科学の成立とその特徴
  近代科学成立の理由
  近代科学とキリスト教精神
  近代科学の変質と逸脱
  技術の本質とその逸脱
  労働の変革と機械化
  大衆の発生
  現代の総括

『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』

 終わりなき競争からの脱却
 徳への回帰
 基本的価値を実現するための社会政策
 ベーシック・インカム
 広告を減らす
 富裕国と貧困国

『心理学辞典』

 感情
 01 感情の定義と性質
 02 感情心理学の方法
 03 感情の機能
 04 感情と進化 生物の様々な器質的特徴が進化の過程で
 05 感情と文化
 06 感情と身体・生理
 07 感情と評価
 08 感情と認知 経験的にも理解できるように、感情は
 09 感情と表情
 10 基本情動
 11 自己意識的感情
 12 社会的感情
 13 感情と社会的行動
 14 感情とストレス
 15 情動知能(感情的知性)
 16 感情の発達

『ヴィトゲンシュタインの言葉』

 1 考えることについて
 2 言葉について
 3 心について
 4 人生について
 5 人間について
 6 世界について
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ウィットゲンシュタインの真似

ウィットゲンシュタインの真似

 ウィットゲンシュタインの真似をして、映画館で、一番前の席で頭をクリアしましょう。これを月曜日のセレモニーにします。それが面倒な時は、ロビーで考えます。何しろ、月曜日は映画館です。

 ウィットゲンシュタインって、あんなにやさしい人間だったかな。『ヴィトゲンシュタインの言葉』は超訳しすぎ。それとフィルターがきつい。

パートナーの相談

 20:22から55分の会話。結局、会話になっていなかった。意図するのはやめましょう。

 Q)この室の役割は何でしょうか。

 A)単純です。メーカーとして、販売店の役に立つことです。以前は直間比率が基準だったが、時代は大きく変わった。ニーズの多様化であり、グローバル化です。その時点で作る部署が他に移ったということは、販売店と共にどうしていくのかを考えていくのが役割です。その時の販売店はシステム担当でなく、先行きを悩んでいる経営者層です。

 Q)次回打合せ資料ができなくて困ってます!相談にのってくださいね!

 A)頑張ります。詳細、教えてください。

 Q)処理フローをイメージしていますが、どういうレイアウトでどこまで書けばよいのかわからない。業務フローでもないし、皆さんはどうしてるんだろう。

 A)フローチャートの分岐を直接書くのは難しいかも知れない。まずは、データの流れをイメージすることです。皆がやっているのは、画面遷移ですね。これだと決め付けになってしまう。
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世界について

『ヴィトゲンシュタインの言葉』より

世界とは、人や物がさまざまに関わっている事実のこ

世界の創造より世界の持続のほうが大きな奇蹟だ

 信仰を持っている人は、「神が世界を創造したのだ、これこそ最大の奇蹟ではないか」と言う。その人が感嘆しながら言うようによしんば神が世界を創造したとして、今ここにある世界はいったい何なのか。

 創造されたその世界がまだ持続してここに存在しているほうがより大きな奇蹟ではないだろうか。

 いや、そもそも、世界の創造と持続はもともと一つのことだったのではないか。

 つまり、神はまだ世界に深く関わっている。

 (『哲学宗教日記』)

自然は自然法則を知らない

因果の法則は人間がひねり出したものにすぎない

 世間の人々がしばしば話題にし、その存在が当然であるかのように信じられている「因果応報」の法則というものは存在しない。

 ただいつも、自然の法則が貫かれるだけだ。

 あるいはまた、一般的に因果というならば、それは物理法則や力学の法則のことだ。そこで貫かれているのは非情な論理だけだ。

 あるいはこうも言い換えられる。事実の起こり方が、人が考えてひねり出した物理的因果の法則にあてはまっているだけだ。

 (『論理哲学論考』)

自然法則はしょせん人の言葉にすぎない

科学信仰は世界を退屈にする

迷信は不安や恐れから生まれ、宗教は深い信頼から生まれる

娯楽から学ぶこともできる

ほんの小さなウソでも、決して真実ではない

ありふれたものに神秘を見出せ

人生と世界の本当の謎は日常の中にひそんでいる

偶然などというものは存在しない

 人には偶然に起こったように見えることすら、あらかじめ充分に起こりえる可能性を含んでいたのだ。

 つまり、わたしたちにとってそれが偶然に見えているだけにすぎない。

 あるいは、自分の思慮不足から予測できなかっただけのことなのに、ありえないことが起きたかのように驚きつつ、それをあまりにも偶然なことだと名づけているだけである。

 だから、いつでもあらゆることが起こりえる。何が起きても不思議ではない。そして、あらゆることを自分が起こしえる。

 (『論理哲学論考』)

可能性は現実ではない

時間は流れるものではない

人それぞれの背景によって体験は全然違うものになる

体罰は腹立ちを物にぶつけるのと同じだ

力づくでは植物の芽は出ない

哲学は詩のように書くことしかできない

美しい薔薇は汚物の中から芽吹く

センスだけでは芸術は生み出せない

古典作品は太陽のように沈んでは昇る

神の命令は理由のない掟だ

神はそばにいなくても確かに存在する

聖書の真偽は科学的真偽とは関係ない

自分をありのままに見る勇気が必要だ

自分を新しくすれば取り巻く世界も変わる

世界を変えたいなら自分を変えよ

 この世界があまりにもひどいから変えたいというのか。

 この世界を、もっとやさしさに溢れた世界に、もっと新鮮でみずみずしく、そしてもっと美しくしたいというのか。

 そのために戦争や革命や流血が必要なのだろうか。

 いや、そうではない。世界を変えたいのなら、自分自身が変わらなければならない。すると同時に、世界は変わった自分と同じように変貌す そして、きみ自身が幸福に生きるならば、世界はもっとも大きくなって輝くだろう。

 (『論理哲学論考』)

他人に影響された自分は元に戻す必要がある

自分を商品にするな

空想は決して実現しない

自分を引き受けるしかない

自分が思う自分の性格は他人が見ている自分の性格とは違う

相手を理解したいなら、相手の中に自分自身を見つけよ

 わたしたちはどのようにして他人を理解し、ときには同情を寄せたりあるいは喧嘩することができるのだろうか。相手と言葉が通じるから?

 そうではない。言葉が通じるだけでは相手を理解できない。

 わたしたちが理解しあえるのは、相手の中に自分自身を見つけることができるからだ。相手の文化や価値観がまったく異なる場合、あるいは相手の反応が自分とはまったく似通っていない場合、言葉がわかっても相手を理解できなくなる。

 相手の中に自分自身とそっくりなものをたくさん見つけることができるから、相手の気持ちや考えを理解できているのだ。

 (『哲学探究』)
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人間について

『ヴィトゲンシュタインの言葉』より

自分が正しいと思い込んでいる人は怠け者だ

 自分の意見が絶対的に正しいと思いこんでいる人は、ある傾向の考え方だけをえんえんと頭の中にめぐらせていて、そのためにいつも同じか似たような結論を出してばかりいる。

 こういう状態は、偏食する人と同じだ。習慣をくり返すばかりで、他の料理の味、別の見方、まったく別の考え方の道があることを知らないこういう人は頑固で意志が強いように見えはするが、実は怠け者だったり、臆病かつ小心であることも少なくない。

 (『哲学探究』)

体の感覚のほうが信念より事実に近い

 人が信じていることをつき崩すことはとても難しい。信念を持っている人は、その信念こそ正しいと信じきっていて、聞く耳を持だない。

 そういう人でも、自分の体の感覚についてはしばしば信用しないことがあるし、感覚などはそれほど信用できるものではないとすら思ってい

 これはとても不思議なことではないか。体の感覚のほうが、自分の信念よりもずっと事実に近いはずなのに。

 (『哲学探究』)

行ないが人を表す

弱さとは苦しみを受けとろうとしないこと

苦しみよりも安楽を求めるのが弱さだ

人助けは自分が困らない程度にしかしないものだ

人間は誰しも自分に甘く、都合のいい考え方をする

ゲームには参加する人の精神が現れる

人は自分が何者かを知らない

まっとうに生きるのは他の人のため

人は好きなものにしょっちゅう触れていたがる

「ものわかりのいい人」が本当にわかっているかどうかはわからない

多くの人の視線が注がれたものが価値を生む

人は一本の雑草さえ自分の力でつくることはできない

顔は「魂」だ

絶望している人は自分の判断が正しいと信じ込んでいるだけだ

休日は自分の仕事をぼんやりと遠くから眺めてみよう

行動に理由はない

解釈の違いは人生経験から生まれる

似たような生活をしている人の倫理観は一致する

 だいたい似たような生活をしている人の倫理観はほぼ一致するものだ。彼らがふつうのこととして考える善悪や美醜は同じだ。それは意見や考えが同じだからというふうに見えるが、実は生き方や生活形式が同じだからなのだ。

 だから、当然のことながら一般市民の倫理観と暴力団の倫理観はちがうものになる。富裕層と貧困層の倫理観も。天才と凡庸な人の倫理観も。雇用者と被雇用者の倫理観もまた。

 この二層は生活の形式において離れているばかりか、別々の現実に生きているのだ。

 (『哲学探究』)

女性は教育係としての男性を必要とする場合がある

目ではなく感覚で見ている

才能とは泉のようなもの

才能が人にわかるようではまだ薄っぺらだ

天才は光を一点に集中させる

時代の先行者はやがて時代に追い越される

他人と自分を分ける心から憎しみが生まれる

敵方の旗を燃やしても気休めにしかならない
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考えることについて

『ヴィトゲンシュタインの言葉』より

他の誰も自分のようには考えてくれない

きみがいいと思ったら、それでいい

比べるのは悪い癖だ

考えるとは、映像をつくり出すこと

わたしたちは論理的に考えるが、考えたことが正しいとは限らない

 わたしたちは論理的に考える。なぜならば、考えるときに使う道具である言葉とその文法はもともと論理的なものだからだ。

 だからといって、論理的にいつも正しく考えることができるとは限らない。考えた一文ずつは確かに論理的だけれども、次の文とのつながりがまちがっている場合があるからだ。

 それにまた、考えたことがいつも現実に即しているとも限らない。現実というものは人が考える範囲よりも、言葉が覆う範囲よりも、ずっと広く多彩な変化をするからだ。

 (『論理哲学論考』)

わたしたちには直線的に考える癖がある

別のルールで考えろ

つまらない考えに揺さぶられていないか?

難問は雑草のように根こそぎ引き抜け

常識の中に逃げるな

本当に理解するには生活経験が必要だ

因果論を捨てよ

求められているのは「論理的に正しい答え」ではなく、「現実に通用する答え」だ

問題は必ず解決できる

理解とは見晴らしのよさのこと

「たら、れば」で考えることから悲劇が始まる

虚栄心が思考を妨げる

思考は特別なものではない

帰納法を過信するな

 くり返し起こったことや事例に共通する点を見つけ、そこに一般的なものを見つけだすのが帰納法だ。

 たとえば、これまで見てきた猫はみんなネズミをつかまえたから、どんな猫でも必ずネズミをつかまえるものだという一般的結論を出すことだ。

 しかし、こういう帰納法はちっとも論理的ではないし、確度も高くはない。なぜなら、これまでにくり返し起こったことが明日もまたくり返されるとは決まっていないからだ。

 そして何をどれと結びつけて共通点とするかというのは、人の経験と心理によるものにすぎない。

 こうして人は帰納法に頼るばかりに、新しい事態に対処できなくなったり、安心しながら以前と同じ手法を用いて商売に失敗したりするのだ。

 (『論理哲学論考』)

「考える」ということにも人それぞれ違う解釈がある

比喩が考え方を束縛する

知識を疑い、自分でとことん考えよ

思考とは記号を並べ替えること

「知っている」と思えば進歩は止まる

哲学は難しくない。混乱しているだけだ
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考えることについて

『ヴィトゲンシュタインの言葉』より

他の誰も自分のようには考えてくれない

きみがいいと思ったら、それでいい

比べるのは悪い癖だ

考えるとは、映像をつくり出すこと

わたしたちは論理的に考えるが、考えたことが正しいとは限らない

 わたしたちは論理的に考える。なぜならば、考えるときに使う道具である言葉とその文法はもともと論理的なものだからだ。

 だからといって、論理的にいつも正しく考えることができるとは限らない。考えた一文ずつは確かに論理的だけれども、次の文とのつながりがまちがっている場合があるからだ。

 それにまた、考えたことがいつも現実に即しているとも限らない。現実というものは人が考える範囲よりも、言葉が覆う範囲よりも、ずっと広く多彩な変化をするからだ。

 (『論理哲学論考』)

わたしたちには直線的に考える癖がある

別のルールで考えろ

つまらない考えに揺さぶられていないか?

難問は雑草のように根こそぎ引き抜け

常識の中に逃げるな

本当に理解するには生活経験が必要だ

因果論を捨てよ

求められているのは「論理的に正しい答え」ではなく、「現実に通用する答え」だ

問題は必ず解決できる

理解とは見晴らしのよさのこと

「たら、れば」で考えることから悲劇が始まる

虚栄心が思考を妨げる

思考は特別なものではない

帰納法を過信するな

 くり返し起こったことや事例に共通する点を見つけ、そこに一般的なものを見つけだすのが帰納法だ。

 たとえば、これまで見てきた猫はみんなネズミをつかまえたから、どんな猫でも必ずネズミをつかまえるものだという一般的結論を出すことだ。

 しかし、こういう帰納法はちっとも論理的ではないし、確度も高くはない。なぜなら、これまでにくり返し起こったことが明日もまたくり返されるとは決まっていないからだ。

 そして何をどれと結びつけて共通点とするかというのは、人の経験と心理によるものにすぎない。

 こうして人は帰納法に頼るばかりに、新しい事態に対処できなくなったり、安心しながら以前と同じ手法を用いて商売に失敗したりするのだ。

 (『論理哲学論考』)

「考える」ということにも人それぞれ違う解釈がある

比喩が考え方を束縛する

知識を疑い、自分でとことん考えよ

思考とは記号を並べ替えること

「知っている」と思えば進歩は止まる

哲学は難しくない。混乱しているだけだ
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岡崎図書館の10冊

335.8『ファンドレイジングが社会を変える』非営利の資金調達を成功させるための原則

361.4『メディアの臨界』紙と電子のはざまで

223.5『カンボジア 密林の五大遺跡』

410『数学記号の誕生』

146.8『実践・家族面接』匠の技法に学ぶ

699.6『プロパガンダ・ラジオ』日米電波戦争幻の録音テープ

336.3『オーガニゼーションズ』現代組織論の原典

134.9『超訳 ヴィトゲンシュタインの言葉』

135.5『ドゥルーズと狂気』

289.1『坂本竜馬からの手紙』全書簡現代語訳
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『心理学辞典』感情

『心理学辞典』より 感情

今から遡ることおよそ2千4百年前、プラトンは、人の魂が理性と熱情という全く異種なる2頭の馬車馬によって引かれる様を思い描いていた。彼の想念の中では、あくまでも、理性は魂を正しき方向へと導く端正美麗な賢馬であり、他方、熱情は魂を悪しき方向へと導く胡乱醜悪な悍馬であったのである。実のところ、こうした喩えは、多少形を変えながらも、古今東西、多くの社会文化において、暗黙裡に共有されてきたものといえる。ヒトを人間たらしめるのは、あくまでも理性、すなわち人の心の認知的機能であり、熱情、すなわち人の心の感情的側面は、人間本来の崇高なる精神生活をかき乱す、無秩序で非合理的なものという扱いを受けてきたのである。そして、こうした感情に関する見方は、心理学の歴史の中でもほぼ同じであったといえる。確かに心理学における感情に対する刮目は、心理学の祖ともされるジェームズの中に既にあったわけであるが、その後、とりわけ行動主義が心理学を席巻する中、感情は徐々に心理学の中心的課題から除外されるに至る。人間の感情的側面が取り上げられることがあっても、それはどちらかといえば、不適応や狂気等との関連で問題にされることが多かったのである。

しかし、近年、こうした非合理性を前提視する感情観は大幅に揺らいできている。感情は理性あるいは認知と対立するものではなく、むしろ、それらと協調的に結びつき、人の種々の適応を支えるものと考えられるようになってきているのである。それは一つには、生物学的機能という視点から、感情が、ヒトという生物種においても今なお、個体の生き残りや繁殖を高度に保障する役割を果たしていると考える向きが大勢を占めるようになってきたからであり、もう一つには、社会的機能という視点からも、顔や声を通して発せられる種々の感情が人と人との間をつなぎ調節し、また社会やその価値観及び制度を維持する上で、必要不可欠な働きをなしているという認識が一般化してきているからにほかならない。感情が、ここに来て、生物学的にも社会的にも、ある緻密な法則性の内にあり、様々な場面で人を合理的な行動へと導きうると考えられるようになってきているのである。

それでは、こうした理論上の大きな転換は、どのような知見に支えられて生じてきたのだろうか。本領域では、近年、とみに進展著しい感情研究の先端的知見に基づきながら、主観的情感のみならず、神経・生理、表情・行為傾向と、多側面にわたる人の感情の性質と機序、またそれに密接に関連するストレスや感情的知性等のトピックについて概説を行う。

本領域は内容的に、大きく五つのセクションからなっている。

第1群では、感情研究の最も基礎的な部分、すなわち感情とは何か、どのような性質と機能を有しているか、心理学の中でそれはどのように研究されうるかを扱っている。 01では、感情と総称されるものが、情動(emotion)を中核として、気分(mood)、情感(feeling)等、幾つかのカテゴリーに分けて把捉されうることを示した上で、それらに通底して在るものは何かについて解説する。02では、感情が基本的に、情感、表情、生理的変化等、複数の構成素からなるものであり、そのため、その研究法も多岐にわたることを記す。03では、感情の働きが個人「内」機能と個人「間」機能に大別されうること、そして感情の本質が、正負両面の両刃性にあることを概説する。

第2群は、感情の成り立ちに関わる二つの対立する理論的立場を取り上げたものである。04では、ダーウィン以来の、感情を進化の産物と見なし、少なくともある特定の感情は、ヒトに生得普遍に備わったものであるとする感情の進化的見方について触れる。それに対して05では、感情の文化相対性を前提視し、種々の感情が社会文化的に構成されるのだとする感情の文化的見方について解説を行う。

第3群は、感情を構成するそれぞれの構成素に関する各論になっている。06では、ジェームズとキャノンの論争という形で、心理学の中で最も早くから研究が行われた感情の身体・生理的側面に関して、その要点を記す。07では、感情の発動及び各種感情の分岐に先行する認知的機序として、精力的に研究が展開されている認知的評価(appraisal)を取り上げ、その基本的な理論モデルの概要を示そう。一方、08では、いったん生起した感情が今度は、記憶や思考といった後続の認知的活動にいかに影響するか、また感情が音楽や絵画といった芸術活動にどのような働きをなしうるかなどについて、そのあらましを記す。09では、感情の表出的側面、ことに顔の表情に焦点化し、それが他の個体に対して、どのような機序でいかなる意味を発するのか、また表情が翻って主観的情感に対してどのように影響しうるかなどに関して解説を行う。

第4群は、感情の様々な種類に関する各論となっている。10は、多くの場合、ヒトが進化の過程で獲得したものとされ、その発動機序も最もシンプルなものとされる、いわゆる喜怒哀楽、すなわち基本情動を取り上げる。11では、恥や罪悪感、誇りといった、自己意識を基盤として生じる、より高次で複雑な感情たる、自己意識的感情に関してその概略を示す。12では、自己意識的感情とも重なるが、人が他者との関係性の中で経験する、妬みや嫉妬、あるいは公正感や感謝といった、種々の社会的感情を取り上げ、それが社会的比較等、いかなる社会的認知の下で生じうるか、また、それが対人関係にどのような意味を有しうるかについて説明を行う。

第5群では、感情を巡る心理学の中の主要トピックを扱っている。13では、感情が、ことに集団状況で、どのような社会的行動と結びつき、何を引き起こしうるかについて、流言、扇動、ハニック等との関連も含めて、解説を行う。14では、感情とストレスの密接な関連性を前提とした上で、ストレスがいかなる機序で生じ、時に心身症等の重篤な問題を招来しうるかなどについて、感情労働の問題等にも言及しながら、要点の整理を行う。15では、近年、ポピュラー・サイコロジー等においても議論のかまびすしい、感情的知性を取り上げ、現行の様々な理論モデルにも触れながら、感情・表情の理解や制御の側面も含め、それがどのように概念規定されうるか、また実践的にいかに応用されうるかなどについて説明する。最後に16では、感情の発達に関して焦点を当て、乳児期からその後の発達過程において、基本情動や自己意識的感情がいかに萌芽し、発達するのか、また感情の理解や制御の能力が、どのような要因との関わりの中で、子どもの内に徐々に準備されてくるのかなどについて、これまでの基本的な知見をまとめておくことにしよう。
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広告を減らす

『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』より 終わりなき競争からの脱却

消費に駆り立てる圧力に拍車をかけているのが、広告である。広告は、消費者がすでに欲しいものの入手を「お手伝いする」だけだとよく言われる。それが本当だとしても、私たちの主張は揺るがない。そもそも人は欲しいものではなく必要なものをまず手に入れるべきだ。それにいずれにせよ、広告が欲しいものの入手を手助けするだけだという説明は真実ではない。

毎度のことながら、経済学者は複雑な問題を単純明快だが誤ったやり方で説明しようとする。広告の役割についての彼らの説明は、「合理的な消費者」仮説に基づいている。すなわち合理的な消費者は、競争市場において効用を最大化するような購買決定を下す。このモデルでは消費者はすでに明確な「効用関数」を承知しているので、広告でその選好が変わる余地はない。広告の唯一の役割は情報提供であり、製品の名称、品質、価格などを知らせて、消費者がよりよい選択をできるようにする。だから子供の保護や詐欺行為の防止以外の目的で広告を規制する必要はないという。広告についての好意的な見方はいろいろあるが、基本的にはこのパターンの変形である。どのような方法をとるにせよ、広告は消費者がすでに欲しかったものの入手を手伝うにすぎない、ということだ。となれば、定義からして消費者が買いたいものを買うのだから、「過剰消費」ということはあり得ない。

この「広告=情報提供」論は、かつてはいくらか頷けるところもあった。二〇世紀前半の広告は、比較的事実に基づいていたからである。だがしだいに広告は現実から乖離するようになり、今日では大半の広告が情報を含んでいるとは言いがたい。その目的は製品について何らかの雰囲気を醸し出し、魅力を強調して誘惑すること、要するに、広告を見なければ欲しいとは思いもしなかったものを欲しがるように仕向けることだ。大成功を収めた二〇〇三年のiPodの広告では、里一いシルエットの人物がネオンカラーを背景に陶酔して踊り狂うだけで、それ以外何も登場しない。この広告の目的が情報提供ではなく感覚刺激にあることは、どうみても疑う余地がない。

こうした事実を突きつけられても、経済学者は広告についての寛大な見方を変えようとしない。ただ、多少の言い訳はしている。たとえば、製品情報をまったく含まない広告であっても、すくなくともある一つのことだけは消費者に伝えるという。それは、広告主である企業は、大枚の広告予算を投じる程度には製品の評判を気にしている、ということだそうだ。別の説によれば、広告は製品のイメIジを強化することでその製品の価値を高めるという(あなたは単にルノーを買うのではない、va va voom"〈ワオー、スゴい!〉も買うのだ、という具合に)。中でも最も独創的なのは、ゲーリー・べッカーとケビン・マーフィーの主張である。彼らによれば、仮に消費者の選好が広告によって変わるとしても、それは選好を変えることの事前選好(お好きならメタ選好と呼んでもかまわない)が存在したからだという。これ自体は別に悪いことではない。鉛筆を買ったら鉛筆削りが欲しくなるのが悪いことではないのと同じである。ただ、鉛筆とはちがい、広告はこちらから求めるわけではない。べッカーとマーフィーがあっさり認めたように、「広告には不安や焦燥を生んだり、他人の成功や幸福への羨望を掻き立てたり、さらには親あるいは子に対して罪悪感を募らせる効果もある」。広告が愉快な記事やテレビ番組に埋め込まれることが多いのはこのためで、広告を見るマイナス効果を埋め合わせるという。それでも、人々が自発的に広告を見るという事実からすると、広告は好みを変えさせるというよりは、何かの足しになるとみなされているらしい。たしかにインターネットはご親切にも、ユーザーの注文履歴と類似の商品を「お奨め」してくれる。

広告に関するこれらの新古典派的な見方は、人々が市場に来るときにはすでに選好は定まっていて、それを最大限に満足させようとするという前提に薬づいている。しかしこの見方は、市場が満たすとされる選好そのものを、じつは市場が形成していることを見落としている。ヘーゲル哲学を基礎とするマルクス主義の伝統のほうが、人間の欲望(あるいは彼らの用語に倣うなら「ニーズ」)が変化しやすく関係性に左右されやすいことに敏感だった。ヘーゲルは、「ニーズは……必要性を直接感じた者によって生み出されることよりも、その創出から利益を得ようとする者によって生み出されることのほうが多い」と書いている。この考え方が、やがてマルクーゼのコンシューマリズム批判(第2章参照)やガルブレイスの『新しい産業国家』(一九六七年)の基礎になった。ガルブレイスは同書の中で、生産プロセスを掌握する生産者は、消費者のニーズを自分たちの生産物へと誘導すると指摘した。一九五〇年代に全米最大手の広告会社の社長だったスタンリー・バーネット・リーザーも、同じことを述べている。

「消費者は二台目のクルマの必要など感じていない。こちらが必要だと気づかせない限りはね。このニーズを消費者の頭の中に作り上げなければならない。二台目のクルマがどんなにすばらしいか、気づくように仕向けなければならない。ときに消費者は、そんなものを買うという考えに敵意を抱いていることさえある。だが広告は、こちらが望む方向に需要を変える力のある教育的な手段だ。もっと高い生活水準があるのだと人々に教えれば、現代の生産性と資源に釣り合う程度まで消費を増やすことができる」

広告が貪欲に火をつけるのだとしたら、制限する理由は十分にある。実際にも、酒やタバコなど「悪行商品」の広告は規制されているし、子供を広告から遮断する措置も講じられている。たとえばスウェーデンとノルウェーでは、子供向け番組での広告は全面的に禁止されているほか、一二歳以下の子供をターゲットとする商品の広告も禁止である。またヨーロッパの多くの国では、広告を番組の前後にまとめて放送するよう指導している。こうすると視聴者はCMを見ずに済ませられるので、広告主はテレビ広告に食指を動かさなくなる。残念ながらイギリスでは、過去数十年間の全体的な傾向として、広告規制を強化するどころか緩和の方向に向かっている。保険会社の広告を禁じる規制は一九八四年に廃止され、アメリカ流の保険金請求がどっと増えた。テレビ番組の中でのプロダクト・プレイスメント、すなわちスポンサーの製品を番組中で使用することは禁止されていたが、これも二〇一一年に解禁となっている。ただしいまのところ、まだその影響はあきらかではない。
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