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スペイン--内戦から市民社会へ

『流動化する民主主義』より スペイン--内戦から市民社会へ

西側の自由社会はポスト全体主義の時代にあり、グローバル化と(部分的な)規制緩和、民営化に特徴づけられた市場経済、そして今までのところ繁栄の巨大な波のなかで生きることを学習している。福祉改革や管理され、国家とコーポラティズム的諸制度に強く影響されたある種の資本主義の崩壊はこの学習過程の一部であると言える。多くの国の国民が福祉国家と「管理された資本主義」における共同協定を第二次大戦後の繁栄および安定と結びつけて考えてきた。これらなしで生きることを学ぶとしても、それらの欠落による不安の感情から逃れることはできない。理解できることだが、この不安に動揺した人々は成り行きを劇的に表現し、社会構造が四分五裂し、過去の社会的妥協が見直されるのを目のあたりにするなかで社会的結合が縮小していると考える傾向にある。これらの妥協をつくり出した政党や労働組合、その他の職業組織、そして教会がそれらを維持する意思と能力を失ってしまったのは何故かと問うとき、そしてこれらの公式的な結社に対する人々の無関心がその理由の一つとして指摘されるとき、人々は「社会関係資本の縮小」といったフレーズの中にその不安の適切な表明を見出すのである。

しかしながら、この不安を相対的に同質的な全ヨーロッパ規模、そして全世界規模の社会経済秩序へ向けた長い移行の生みの苦しみであると考え、したがってより肯定的な態度をとるもうひとつの見方が存在する。もし、我々が新たな結社の形に着目し、もしくは古い結社に新たな装いを与えることによって、いかに適応するかを学び、また、もし我々が連帯を再定義するための機会であるととらえるならば、市場経済の拡大を(それに伴う疎外とフェティシズムヘの否定的な含意を伴った)世界の商品化の圧倒的なプロセスと見る代わりに、我々はそれを自由の秩序へ向けた一歩であり、それに伴う社会的結合のかたちであると考えることができるかもしれない。

そのような実際の適応の過程は国ごとに、そして固有の伝統のなかで発生しているド例えば西ヨーロッパでは、過去百年にわたるリベラル〈アングロ・サクソン)、社会民主主義(スカンジナビア)そしてキリスト教民主主義(大陸)のそれぞれの福祉システムの伝統のなかで起こっているのである。フリッツ・シャルプが示唆するように、様々な国の政策の遺産やローカルな制度的(そして文化的)制約によって、ヨーロッパの福祉システムを国際的な生産および資本市場(ときには労働市場を付け加えることができるかもしれない)に適合させるという問題には多様な解決の仕方がある。しかしながら、同時に、それぞれの国は他の国の経験から学ぶことができ、他の国で成功したように見えたものを試してみたり、いくつかの伝統の要素を組み合わせてみたり、複合型の制度と起こるであろうことに対する複雑な正当化に終わることもあるであろう。したがって一度ある解決策がある国で見つけられると、文化的な拡散によって他の国に伝わり、ローカルな道徳言説に翻訳され、ローカルな状況に合わせて調整される。そのような多様性の結果は種類の収斂と両立するものであろう。

この過程は、多様な形態の連帯と関連して、異なったタイプの社会関係資本を明確に区別する、そして現代社会における社会的統合という古典的な問題とのこの理論の関連をも検討する、社会関係資本の理論の発展と結びついている。このことが、市民的な社会関係資本と非市民的な社会関係資本との間の区別を強調すること、さらにその作業を市民社会の理論を参照しつつ行うことによって、この章で試みようとしていることである。

筆者はある社会がいくつかの歴史的ステージを経るなかで、各種の社会関係資本がその正反対のものへと変容していく過程に関心を抱いている。スペインは、とりわけ内戦時代から、権威主義体験ののち自由民主主義へといたっている。私はとりわけパットナムの規範と協力のネットワークと信頼感への着目がスペインの事例において有用であると感じている。しかし、私は社会関係資本(および狭義の意昧での市民社会)に関する文献のなかでネットワークを公式的な結社の社会的組織に還元するような、またアンケートへの回答における(人間関係および組織間における)信頼もしくはその欠如の表明を社会関係資本の道徳的次元の評価とするような一般的傾向には不満を持っている。対照的に、ネットワークという語の幅広いコンセプトは筆者が呼ぶところのゆるやかな形の社会性(家族や家族を中心としたネットワーク、仲間集団、祝祭)を包括するものであろう。同様に、態度や価値観、規範などの潜在的な表現の具体化として実際の行動に筆者は関心を抱いている。同時に、いくつかのタイプの社会関係資本に付随する正当化の言説(道徳的理由づけや説明)を検討することが不可欠であると私は感じている。最後に、私はこの展開に経済や政治が果たす役割が注目されるべきであると考えている。
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電子書籍の本来の意味

パートナーの資料

 パートナーの資料はもっと、生かさないといけない。そこで分かったことをどのように展開していくのか。考え方をどう述べるのか。

電子書籍の本来の意味

 読み方が変わってくる。共同で読むことができる。その後のアクションに向けて、電子書籍を使ったいく。

 読んで、それで終わるのではなく、共通のデータベースになります。それと行動をつなげていけばいい。

 本、そのモノを単に個人の範囲だけではなく、行動のための対象にしてしまう。

 当然、テッド・ネルソンが考えたことを実現していけます。本の参照関係から、誰がどのように言って、それがどのように使われてきたのか、どう変わってきたのか。

 そうなると、本がある意味が違ってきます。新しい世界をどう開くのか。グーテンベルク以来考えたことが電子書籍でつながってきます。

 図書館だけでなく、本が公共のものになってきます。そうなってくると、シェアを先取りしている図書館の意味が出てきます。

 自分に関係しているか、関係していないかで本を選んでいるけど、関係していると言えば、全てが関係しているし、関係していないと言えば、全てが関係していないという状態では、小さなきっかけで新しい方にもってくればいい。そのための道具です。

 本だけでなく、その後背地まで含めて変わってきます。
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デンマークの幸福 恵まれた福祉制度

『「幸せ」の経済学』より

デンマークの人びとがいかにして福祉国家の道を歩んできたかを歴史的に議論してきましたが、福祉の現状について少し述べておきます。福祉の歴史を語ったときに、デンマークの年金、医療制度がどのような財源を用いて、どのような支給原則に立脚してきたかを述べました。それをまとめておきます。それは、職業とは無関係に国民を同一の制度で処遇し、財源は保険料ではなく税を中心に調達したものとなっています。

すなわち、例えば年金であれば高所得者と低所得者に差を設けない定額給付で高齢者のほぼ全員が生活できる年金給付を受けています。ちなみに、年金給付額は夫婦で二○一二年度がおよそ年額二五七万円、単身で二〇一万円前後なので、決して高額ではないけれども恵まれた給付額といってよいのです。この額だと貧困の高齢者は出現しないでしょう。

他の社会保障制度についても述べておきます。まず医療ですが、原則は一患者が支払うべき医療費はほぼ無料です。医療システムは初期段階の医療を行う家庭医と保健師、高度な治療を行う第二段階の専門医や病院に区分されており、もし家庭医で対応が困難なときは専門医に送られるのです。原則無料という極めて寛大な医療制度なので、国家予算のI〇%を医療費が占めるまでになっています。診療の抑制が試みられており、診察や入院には日数制限や制限項目が設定されていることが多く、これは医療費を抑制するためにはある程度やむをえないことです。

介護制度も原則は無料です。介護を必要とする人は申請を行い、審査の末に介護サービスを受けられます。デンマークにおける特色は、コストのかかる施設での介護はできるだけ抑制して、可能な限り在宅介護を行っていることにあります。従って訪問介護が中心であり、それも二四時間のサービス提供を行っているのです。

以上、年金、医療、介護などのサービス提供はとても寛大なものとなっているのがデンマークの特色なのです。これに関してもう一つの特色は、この国の福祉制度の歴史的発展で強調したように、給付のほとんどを税収で賄っていることにあります。社会保険料での徴収は非常に少なく、税収を年金、医療、介護などの給付に用いているのです。

税金ではなく保険料を失業基金に拠出して運営している制度に失業保険があります。失業したときの手当は月額約二三万円ほどが二年間も支給される寛大なものといえます。過去には四年間の給付をする時期もあったというから驚きです。しかし後述するように、なるべく失業者数を少なくするような労働政策をとることによって、怠惰な人に失業給付を行うということを避けています。

これらの福祉制度がもたらす効果をまとめてみると次のようになります。第一に、国民をほぼ平等に扱うという精神が浸透しています。どこの国でも国民の間に所得格差は存在しますが、少なくとも福祉制度の適用に関しては、格差の存在を理由として福祉制度の給付に大きな差を設けない、という主義を採用しているのです。最低限の生活保障と安心を国民全員に与えているわけです。

第二に、福祉のみならず、教育の分野にも多額の公共支出がなされていることを強調しておきます。義務教育は当然として、高等学校、大学での授業料は無料です。ただし重要なことは、高校進学率は五〇%前後という低さであるし、大学進学率にいたっては二〇%前後の低さということです。日本では前者が九七%、後者が五〇%強であることと比較すると、大きな違いがあります。これだけの低い進学率であれば、無償の高校・大学教育制度も可能なのです。

そもそも人間の生まれつきの能力・学力分布を考えると、日本のように高い進学率であれば高校・大学教育についていけない生徒・学生が在籍しているのであり、これは無駄な教育をしている、むしろデンマークはそのことを配慮して進学率が低くなっているので、正当な教育政策であるとの主張です。

第三に、これだけの質の高い福祉と教育が国民に提供されるのであれば、国家はその財源を国民から徴収せねばなりません。二〇〇八年度において国民所得に占める税と社会保険料の国民負担率は、六九・九%と世界の中で最高のグループの負担となっています。ちなみに、スウェーデンは五九・〇%、ノルウェーは五四・八%、フィンランドは五九・二%と、福祉国家である北欧諸国は軒並み高いのですが、特にデンマークの高さが印象的です。これに比べると、日本は四〇一六%とかなり低いといえます。

デンマークに関してよく言われることは、所得格差が大きくないことを前提にして、高額所得者の所得税率は医療賦課税や労働市場献金を含めて約六〇%(なお医療賦課税とは医療給付に用いられる地方税、労働市場献金は失業手当用の財源である)。中間層の税率は四〇%台で、日本よりは高いとみなせます。ところがこれに消費税正確には付加価値税)が二五%の課税率なので、かなり重い負担がデンマーク国民に課せられていることがわかります。

第四に、興味あることには、これだけ高い負担が課せられているにもかかわらず、国民が大きな不満を述べずに、消極的にせよ負担を受け入れていることです。これは、負担に見合う質の高い福祉サービスを公共部門から確実に受けられる、という確信を国民の大多数が感じているからです。「生活に不安がない」という思いが強く、「生活に困ったときには政府が支援してくれる」というセーフティーネットの充実があるからこそ、デンマーク人は高負担を容認しているのです。だからこそ、デンマーク国民は幸福度が世界一高いという判断をしているのです。
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販売店との関係で変えたいこと

販売店との関係で変えたいこと

 変えたいことは、私としては、今後15年で、この会社がやるべきことを、戦略的なことを設計している。パートナーはそこまで行く必要はないです。

 あまり、幅を広くしてしまうと、自分の役割が分からなくなる。私は何しろ、全域です。全てを知りたいことの裏返しです。

 全体を見てから、決めることと、根底です。ベースの部分がどう変わるかが、日本の場合は一番欠けています。中途半端なところで、自分の分野でこうしないといけないと言っているけど、他のところを言われたら、おしまいです。そして、それをやったら、いくら儲かるとか、いくら設備投資がいるとか、人がいるとかの話になります。重要なのは個人です。

 先の世界を作るために必要なものは、哲学であり、数学です。ベースの流れをどう作るのかです。カントはコペルニクス的な展開を果たしたというけど、それまで、曖昧であったものを明確にしたのです。現象学もそうです。

 コペルニクスの地動説も疑う。自分の実感として、現象として、見えない以上は、それを否定する。

 私が考える、変える部分はどうかと言えば、それは明確です。店舗を地域の中で自立させることです。メーカーの拠点であると同時に、センサーである。一体化になって、やっていく。

 メーカーと行政のトップ同士では、実体が付いてきません。地域のコミュニティ同士でカタチにしていくのです。

キンドル・データベース

 キンドルにインデックスを載せて、アクロバット化したら、検索機能が生きてきた。完全に言葉のデータベースが出来上がりました。
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地理 歴史 ★アラブの起源と拡大★

『現代アラブを知るための56章』より

アラビア半島は、不思議なところである。およそ2500万年前、アフリカ東部からョルダン渓谷(死海)にかけてアフリカ大地溝帯が生じた。この地球の大きな裂け目の一部に海水が流入して形成されたのが紅海であり、これによりアラビア半島はアフリカ大陸から分離された。それは世界最大の半島であり、その大半をサハラ砂漠に次ぐ世界第2位の面積を持つアラビア砂漠が覆っている。大地溝帯は今もその裂け目を広げ、半島全体は年2ミリの速度で東へ移動している。推定1000万年後にはホルムズ海峡がふさがって、ペルシャ湾は湖になるといわれている。

このアラビア半島で、アラブは生まれた。「アラブ」という言葉は、紀元前9世紀のアッシリア碑文に初めて登場する。アッシリア王の戦勝記録に「軍へのラクダ提供者」として記されているため、アラブとはシリアからアラビア半島北部にかけての「砂漠の遊牧民(ベドウィン)」という意味になる。その後、古代のギリシャ語文献などでは、ベドウィンに限らない「アラビア半島の住民」に対する総称となる。当初はこのような他称であったが、やがてアラブは半島住民の自称となっていく。

これを背景に、アラブとはまず「遊牧民」であるとされる。遊牧民はアラビア語でバドゥ(ベドウィンの単数形)であり、これと対照をなす言葉に都市住民を意味するハダルがある。ハダルもまた後述するようにアラブであるのだが、ハダルにとってバドゥはアンビヴァレントな関係にある。バドゥが「純粋なアラブ」「アラブのなかのアラブ」という積極的な意味で用いられるとき、それはハダルにとっても憧れや誇りの存在となる。だが、逆にハダルが「文明化されたアラブ」とされる場合バドゥはハダルにとって「野蛮」な存在となる。

アラブにかかわるもうひとつの対照語に、アジャムがある。アジャムとは「非アラブ人」を指す言葉だが、そこには「アラビア語ではない言葉を話す者」という意味がある。アラブ人に限らず民族の定義は押しなべて困難であるが、アラブとアジャムという対照関係からすれば、アラブとは「アラビア語を話す者」という意味となり、上記のバドゥもハダルもこれに含まれる。「アラビア語」という言葉が、アラブ人の自己規定にとって最も重要な要因であることは疑いない。

しかし、古代のアラビア半島ではアラム語やサバ語など、多くのセム系諸言語が用いられており、アラビア語はそのひとつに過ぎなかった。これらさまざまなセム系諸言語のなかで、アラビア語が突出して優位に立ち半島の共通言語となるのは、7世紀におけるイスラームの成立を契機としている。周知のようにアラビア語は「コーランの言葉」であり、半島でのイスラームヘの改宗は、他のセム系諸言語を用いていた人々を急速に「アラビア語を話すアラブ」としていった。それゆえ、多くのアラブ人キリスト教徒などが存在するにしても、やはりイスラームはアラブの規定要因として大きな影響力を持つこととなる。

そして、このアラビア語化に伴うアラブの拡大はアラビア半島にとどまらない。同じ7世紀から始まる「アラブの大征服」は、現在の中東地域一帯のイスラーム化、アラブ化をもたらした。もちろん改宗とは異なり、アラビア語化には長い年月がかかる。たとえば、エジプトでアラビア語が日常的に用いられるようになったのは、11世紀ともいわれている。また、イランやクルド、ベルベルなど、イスラーム化のなかでアラビア語化か生じなかった地域ももちろんある。各地での経緯はさまざまであるにしても、アラビア語化した住民はアラブ人となって、現在の中東内外におけるアラブ人につながっていく。

さらに、アラブの規定要因としてはずすことのできないものに「系譜」がある。これは、旧約聖書に記された人類の歴史とアラブの祖先とが、結びつけられていることを意味する。中東では一般に、「方舟」で知られるノアの長男であるセムが、アラブ人とユダヤ人の祖先であると考えられている。セムの子孫であるカフターンは、南アラブ(カフターン・アラブ)の祖先。カフターンの兄弟の子孫にユダヤ教最初の預言者アブラハムがおり、その長男で追放されるイシュマエルの子孫であるアドナーンが、北アラブ(アドナーン・アラブ)の祖先。アブラハムの二男イサクが、ユダヤ人の祖先とされる。現在のアラビア語は、北アラブが用いていた北アラビア語であり、イスラームの預言者ム(ンマドが生まれたメッカやその一帯に分布していた。現在のイエメンを中心とする地域で南アラブが用いていた南アラビア語(既述したセム系諸言語の一部)は、イスラームの成立以降に消滅し、南北のアラブはひとつとなっていく。

旧約聖書に民族の起源を求めることの背景には、アラブ諸部族の系譜が大きく関係している。部族はその紐帯を成員間の共通の祖先に求めているが、アラブの諸部族はその祖先をカフターンやアドナーンまでつなげ始める。その作業は「アラブの系譜学」としてイスラームの成立以降の学問ともなり、アッバース朝中期(9世紀)にはその基本的な体系が完成された。その後も各地で系譜学の作業は続き、征服後にアラブ化した諸部族も含めて、彼らの系譜はセムまで連なるより壮大な伝説的系譜に収斂された。

以上の「遊牧民」「アラビア語」「イスラーム」「系譜」は、いわばアラブにかかわる説明の最大公約数的なものである。しかし、これらだけでは「現代アラブ」の説明にはならない。なぜならば、現代のアラブは近代に入って初めて現れた、「国家の構成主体としての民族」と位置づけられているからである。それは、ナショナリズムや近代的なアイデンティティそのものであり、新たな「アラブ人」の出現であった。
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言葉にする

パートナーの相談

 パートナーとは、4時半から6時半まで、相談にのっていた。といっても、考えとか、表現をまとめることのフィルターの役割をしていた。私には有意義な時間です。

 パートナーの中では、ロジックが決まっているから、それを書くためのプロセスです。これこそは、自分の為です。本当は、すべての制約を外して書きたいけど、それは口頭で言うつもりです。苦労しますね。

 相談に乗りながら、実は自分自身の内側の世界を作り出したというのが実体です。今までも、そういうカタチでやってきた。パートナーの発想は刺激的です。絶対的な存在である限りは、決して、否定はしません。

言葉にする

 自分がどう思っていて、どうまとめたいのか。それを言葉にすることです。考え方さえまとまれば、覚悟を決めれば、答えは出ます。

 そして、答えはいくつもあります。自分が役割を意識しているかどうかです。皆と問題意識を合わせることも必要になるから、組織と言うのは面倒ですね。

 私の場合は、デカルトのように、自分一人で作ったものの美しさを追求したから、その悩みはなかった。数学者は皆、美しさを評価基準とします。他人の評価はどうでもいい。

 問題解決は、2つ上ぐらいから見ないとダメです。そういう点で、問題解決できる人間がパートナーの近くに居ない。皆、一つ下ぐらいで、押し込みを掛けます。
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総力戦におけるアメリカの軍事戦略

『総力戦の時代』より

「アメリカ流の戦争方法」は、ラッセル・ウェイグリーによって一九七三年に生み出された論題であり、アメリカが南北戦争以来、殲滅もしくは消耗によって敵を打ち負かすための圧倒的な経済的、軍事的優位を達成するために、工業生産力と技術力を用いてきたと主張するものである。これはまた、いかなる交渉や妥協の余地をも排除し、敵の完全なる打倒を目指したものである。

ウェイグリーはベトナム戦争の最中にこの本を書いたのであったが、アメリ力流の戦争方法の将来的な有効性については、当時、イラクやアフガニスタンでの二度の経験を経た今日の我々と同様に悲観的であった。

しかしながら、一九四一年から四五年までは、日本に対して、このようなアメリカの自己不信が立ち入る余地はなかった。そこでは我々は、活力、暴力、驚くほどの技術革新とともに、アメリカ流の戦争方法が押しすすめられるのを目撃したのであった。かつていかなる強国も、第二次世界大戦の太平洋戦域ほどの巨大な規模の、複雑な「大洋戦」を戦ったことはなく、手強い相手に対してのそこでのアメリカの完勝は、当時として驚くべきものであったのと同時に、今日から振りかえってみても、驚くべきものである。

ヨーロッパと太平洋におけるアメリカの作戦行動を可能にした「生産の奇跡」については、広く言及されているので、ここでは要約するだけにとどめたい。戦時におけるアメリカの工業生産高がその頂点に達した一九三九年から四四年にかけて、アメリカのGDPは五五パーセント上昇し、GDPに対して軍事部門が占める割合は、一九三九年には一・四パーセントであったものが、四四年には四五パーセントにまで上昇した。兵器を製造するため、民生品部門-自動車や他の現代の便利な品々--は、戦時中抑制されていた。それにもかかわらず、戦争中経済の窮乏を耐え忍んでいた日本とは対照的に、なんとアメリカ人の生活水準は実際に上昇したのであった。

アメリカの第二次世界大戦中の支出の総計は二八八○億ドルである。この数字は現在の貨幣価値に換算すると三兆六〇〇〇億ドルである。インフレ率を調整した数字で見ると、この数字はニューディール政策の経費の八倍、朝鮮戦争の経費の九倍、ペトナム戦争の経費の五倍である。第二次世界大戦の間、アメリカは日本の一一倍の石炭、二二二倍の石油を産出し、一三倍の鋼鉄、四〇倍の砲弾を生産したのであった。

戦争の最初の年、アメリカは主力艦の四〇パーセントを失い、日本は三〇パーセントを失った。アメリカはその損失を素早く埋め、その後は拡充させた。日本は、戦争が続く間、最初の損失を埋め合わせることさえなかった。一九四〇年のアメリカ海軍の建艦割当だけで、日本海軍の過去一〇年分の建艦予算を上回るものであった。一九四三年に日本のドックで建造中の空母はわずか三隻であったが、アメリカでは二二隻が建造されていた。日本の航空機生産はアメリカの二〇パーセントにすぎなかった。一九四二年中、アメリカは四万九〇〇〇機の航空機を作ったが、日本はたったの九〇〇〇機であった。戦争の全期間に、アメリカは三二万五〇〇〇機の戦闘機を製造したが、日本は七万六〇〇〇機だけであった。

早くも一九四三年には、アメリカは、太平洋での戦争にその資源のわずか一五パーセントを費やすだけで、後に見るように、日本との戦争の形勢を逆転させることができた。統計上の数値だけでも、両国の経済力の甚だしい差を示している。この文脈において、戦前の日本海軍が「条約派」と「艦隊派」に分裂していたことを思い起こしてみると良い。「艦隊派」は一九二〇年代と三〇年代に、ワシントン会議での五カ国条約とロンドン海軍軍縮条約を破って、それ以上に建艦することを主張していた。「条約派」は、日本に認められた六〇パーセントの建艦比率を遵守することを主張していた。建艦比率を遵守することが、日本のような相対的に弱い国にとって、アメリカに対して何らかの競争力を維持する最善の道-唯一の道-であり、一度アメリカが圧倒的に優位な産業基盤を解き放ち、海軍の大規模な拡張に着手したならば、日本を易々と破綻させるであろう、と主張したのであった。

それでも、経済的、物質的優越が戦争の結果を左右したのではなかった。困難な闘いが雌雄を決したのである。山本五十六は、「米国海軍及米国民をして救う可からざる程度にその士気を胆喪せしむること是なり」として真珠湾攻撃を強く迫ったのであった。山本は、日本は戦場で勝つ必要はない、と主張したのだ。日本が目指す勝利は「ワシントンのホワイト(ウスでの降伏である。(中略)彼の国の今日の政治家たちは犠牲を払う覚悟ができていない」としていたのだ。日本人は、日本がアメリカに打ち勝つことは決してないであろうと想定したのと同時に、アメリカ--一九〇五年のロシアと同様に、アメリカはヨーロッパでの戦いと、太平洋を越えての長い進軍によって疲弊していた--が日本を打ち負かすことはなく、その代わりに、単に妥協するであろうと想定していたのであった。第二次世界大戦における枢軸国の多くの戦略上の誤算のなかでも、これは最悪の誤算であった。
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かんがえる

『発達心理学事典』より

「かんがえる」ということは、どういうことであろうか。この問いの答えを出そうとすること自体が「かんがえる」ことである。まず、フランスの古典哲学思想などから、「かんがえる」ということの意味をかんがえてみよう。

「我思う、ゆえに我あり」(ラテン語でCogito ergo sum)は、哲学者デカルトが「方法序説」などで述べたことばとされる。「私」というものの存在は、「かんがえる」ということと切り離してはありえないということを端的に示した力強いフレーズである。

「思う」と「考える」はあわせて「思考」という成語となっている。しかし、この二つは同義ではない。「わが子のことを思う」と、「わが子のことを考える」を比較すると、前者にはさまざまなめぐりゆく「行方定めぬ思考」が含まれるのに対して、後者は何らかの「結論を出す思考」という印象が強い。「この問題を考えなさい」は思考の結論(多くは正解)を求める表現として普通に使われるが、「この問題を思いなさい」は日本語の表現としてほとんど意味をなさないことからも、「思う」と「考える」の違いは理解できよう。

「人間は考える葦である」は、哲学者パスカルが遺稿集「パンセ」の中で用いた有名な表現である。実際のところ、「葦」という植物が現代の日本人にとってあまり身近ではないために、「考える葦」という表現にはさほど親しみが感じられないが、パスカルは「人間はひと茎の葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」と述べ、弱いけれども「考える」という強みをもった存在として人間を規定している。そして、人間の尊厳のすべては考えることにあり、よく考えることが道徳の根本原理であると言い切っている。

彫刻家ロダンが制作したブロンズ像『考える人』は、右ひじを左の太ももに置いて座る独特の姿勢とともに、日本人にも古くからよく知られている。東京・上野の国立西洋美術館の前庭にも置かれているこの像は、ロダンが装飾美術館の門を制作するとき、ダンテの『神曲』に着想を得て門を「地獄の門」と名づけ、当初はその門の頂上で詩想に耽っているダンテ自身を表そうとしたが、夢想が創造を生み出す力強い過程を表すように、より一般化されたものであるといわれている。

思考の発達過程を研究したスイスの思想家ピアジエは、このような「パンセ」を重視するフランス思想の伝統を受け継いでいるのである。

スイスのフランス語圏の地域で生まれたピアジエは、ヌーシャテル大学に学び、若くして軟体動物の研究で理学博士を取得した後、「発生的認識論」という壮大な理論体系を築こうとした。ピアジエの発生的認識論は、認識の系統発生を調べる科学史研究と、認識の個体発生を調べる認知発達研究の二本柱からなる。

認識の系統発生的研究の成果は、1950年に『発生的認識論序説』全3巻にまとめられ、第1巻「数学思想」、第2巻「物理学思想」、第3巻「生物学思想、心理学思想、および社会学思想」という構成である。認識の個体発生については、ビアジェらは、子どもとの問答的対話を通じて、言語・数・量・空間・論理性など幅広い広いテーマで数々の実証的研究を行い、思考の発達過程を明らかにした。

ピアジェの発生的認識論では、思考の発達は「シェマ」「同化」「調節」「均衡化」という概念を用いて説明される。シェマは認識の枠組みというような意味であり、生物はさまざまな活動を通じて外界から体内に物質・エネルギー・情報の取り入れ(同化)を行うと同時に、その取り入れ方のパターン(シェマ)を学習する。あるシェマで同化を繰り返していくうちに、シェマが有効でなくなるときがくると、シェマの修正やシェマの追加を行う必要が出てくる。このことを調節という。シェマの同化と調節は、絶えざる均衡化に向かう相互に補完的な活動である。
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メガネは読書に不要

やはり、メガネは不要

 今日散歩に出る時に、知らない間にメガネを掛けたまま、出掛けました。やはり、モノを読む時に不便です。いつものキンドル3台のバックだったので、取ったメガネを持って行き先がない。

多読

 読むことと、考えることとは違います。読むことは格闘技です。体力勝負です。考えるのは、想像力です。

 大量の意見を相手にする多読の仕方を整理させましょう。読書家に言わせると、多読は悪だと言われます。

 啓蒙家はたくさんの知識が必要なので、多くの本を読まねばならない。強靭な精神で、自分の思想体系に同化して、有機的に関連付けた全体を示す。増大する洞察の支配下に置くことができる。

 自分の頭で考える人は、建設的で、根源的なモノを取り扱うことになる。自分の考えを自らの表現にしていく。

数学の世界

 数学の世界では、私たちは、肉体的な精神であり、重さもなければ、困苦もなく、地上のいかなる幸福も美しく、実り豊かな精神が時を得て、自らのうちに見出す幸福には叶わない。

 考えが今、頭にあるということは、目の前に恋人が目の前に居るようなものだ。真に価値があるのは、自分自身のために考えたことだけである。存在を確認することは、すべてを知ること。何か、変な三角関係ですね。

丁度いい時に、丁度いいもの

 丁度いい時に、丁度いいものが提供される。今回もそうです。10㎝のところでの環境しかないところで、キンドルが現れた。200gだから、寝ながらでも持てます。

 マッキントッシュもそうでした。欲しい時に現れます。だから、この最近は逆に考えています。道具から、何を要求されているのか。

 人はなかなか、そうはいかないですね。パートナーの異動に関しても、それが何を意味しているのか。

欲望を抑える

 欲望を抑えることができれば、あくせく、しないですむ。女性に対しても。その時に、時間が経ってくることは、欲望ではどうにもならない。

 だけど、時間でしか解決できないことも多い。だから、時間を忘れることが重要かもしれない。

タブレットをどう使うか

 タブレットはやはり、知識と意識を保証する本です。

 本が作る世界がどうなるか。グーテンベルグ以来の世界です。最初の聖書は十何冊だったけど、その後に何万冊、何億冊になっている。それによって、全てが変わったわけではない。人間の考える能力は相変わらずです。だけど、伝播能力は上がってきた。

 今後はコミュニケーションが先にあって、人間が変わってくる。これが何をなしうるか。個人の捉え方が変わってきて、その伝播が変わってくれば、当然、人は変わってくる。新しい意味の国民国家のシナリオです。
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民主主義の「欠陥」とは何か?

『強靭化の思想』より 「死者」を巡る政治学と民俗学

民主主義を採用する政体には、少なくとも2種の重大な危険が存在している。

一つが、多数者の専制であり、もう一つが、沈黙の民を黙殺、圧殺してしまう危険性である。

ここに、「多数者の専制」とは、社会善への配慮を欠く一方で私的利益や自集団の利益の増進にのみ関心を抱く傾向を強く持つ「大衆人」が、政治的権力を掌握する事態を意味する。こうした事態に陥れば、社会善が増大する見込みはほぼ絶望的に消滅することとなる。なぜなら、かつてオルテガが指摘したように、社会のあらゆる地域、あらゆる階層に住まう「大衆」が全ての権限、すなわち、「主権」をひとたび完全に掌握すれば、その大衆から逃れて何らかの政治的活動を行うことが不能となるからである。

この点において、「多数者の専制」は、「独裁者の専制」よりもさらに深刻な事態であることが分かる。専制者の専制を覆すには、当の専制者を滅ぼせばそれで事足りるし、専制者が少数者であるが故に、専制者から隠れて活動を行うことも可能であった。しかし、多数者の専制は、一部の人々や組織を滅ぼすだけでは覆らず、しかも、社会の至る所に専制者の監視の目が行き届くこととなるのである。それ故、例えばナチスドイツによる全体主義は、その全体主義に反する人々がレジスタンス活動を行う余地が十分に残されていた一方で、大衆による全体主義には、「大衆に反逆」しようとするレジスタンス活動を行う余地が極端に制限されてしまうのである。

無論、こうした全体主義的な事態であっても、その「大衆人」が社会善の増進を目指す存在であるのならば、それはそれで望ましいことであることは指摘するまでもない。しかし、「社会善への配慮を欠く」という一点こそが、大衆が大衆であることの定義なのであるから、残念ながら、大衆による多数者の専制がひとたび社会を席巻してしまえば、その社会では、自助努力によって自らを「改善」していく力の全てが消滅してしまうこととなるのである。

民主主義は、こうした政治学的に恐ろしい事態をもたらしうる可能性を秘めているという点で、非常に重大な危機を孕んだ政治思想なのであり、「直接民主制」こそが最善の政治制度であることを声高に主張していたミルですら、この重大な危険性の存在に対して重大な注意を払うべきであるということを、あわせて強く主張していたのである。

ただし、「多数者の専制」に一旦陥れば、自助努力によってそれを改善することがほぼ絶望的になるとしても、「そこに完全に陥ることを抑止すること」は、当然ながら可能であろう。その時に、重要な役割を担うのが、「沈黙者に対する配慮」なのである。

もしも、民主主義の意思決定過程において、その政体に関与する全ての人々の意見を十全に配慮することができるのなら、「多数者の専制」がそう簡単に実現することはない。

なぜなら、言うまでもないが、それぞれの人々はそれぞれに多様な意見を持っている。しかも、一人の精神の内にもまた様々な互いに矛盾する意見や志向性が共存していることもあり得る。例えば、保守的なある施策Aを支持する人もいれば、革新的なある施策Bを支持する人もいる。さらには、一人の精神の中にも、保守的な施策Aに対して一理を感ずることもあれば、見方を変えて革新的なある施策Bに対して一理を感ずることもある。

もしも仮に、民主主義の意思決定過程において、こうした、真に多様な意見、あるいは、「思い」をくみ取ることができるのならば、そう容易く、特定の意見が世論の多数を占めることとなるというようなことはない。例えば、我々の現代社会にそういう思慮深さが十分に残されているのなら、全ての新聞が構造改革路線を支持したり、公共事業に反対的態度を表明したりするような事態は容易には訪れていないであろうし、「民主主義的であればそれでよい」という風潮がこの世の中を席巻するというような事もまた容易くは生じていないであろう。

しかし、多数決や投票を基調とする「民主主義システム」は、様々な意見や思いをくみ取ることを「阻害」する傾向を強く持っている。例えば投票による意思決定を考えるなら、投票を行った上で敗れさった少数者達は、政治的決定に本質的影響を及ぼすことが不能となり、社会的に「沈黙」せざるを得なくなってしまう。

無論、現代日本においても「少数者の尊重」の重要性が論じられることがしばしばである。しかし、真に少数者を尊重するのであるならば、投票によって結論を導く以前に、少数者の主張の美点を含んだ代替案を検討することこそがまず求められるべきであろう。

それにも関わらず、そうした代替案を検討する前に、投票を行い、結果を決めるといういわゆる「多数決的民主主義」は、少数者の意見を黙殺、圧殺する装置として機能し得るのである。

こう考えれば、民主主義の中でもとりわけ「多数決的民主主義」は、強制的に「沈黙の民」を創出していく装置ともなりうるのである。そして、さらに言うなら、先に指摘した多数者の専制の危機が訪れ始めた社会においては、「多数決的民主主義」を推進すればする程に、「社会善に顧慮せずに私的な利益にのみ配慮を示す大衆的意見」の雄弁さを導き、それとは逆に、公益に配慮する多くの人々の「沈黙」を導き、それらを通じて、「多数者の専制」がより円滑に導かれてしまうこととなるのである。

それ故、「多数決的民主主義」は、大衆的・利己的な特定の意見や考え方、ひいてはイデオロギーの力を増幅させ、非大衆的で非利己的な大量の「沈黙の民」を創出しつつ、大衆的・利己的な意見や考え方以外の意見や考え方を圧殺し続け、最終的には、「多数者の専制」を導きうる力を秘めた「重大なる危険性」を孕んだものなのだ、という解釈が、(かつて、オルテガやミルやプラトンが論じたように)十分に成立し得るのである。
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