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豊田市図書館の4冊

007.64『やさしくはじめるスマートスピーカープログラミング』
204『齋藤孝のざっきり!世界史』歴史を突き動かす「5つのパワー」とは
209『父が子に語る世界歴史2 中世の世界』
209『岩波講座 世界歴史4 地中海世界と古典文明』

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ヨーロッパに行けないのは理不尽

肉の日です。モスのにくにくにくバーガー
内科。HbA1c=6.9。一時の8後半から画期的にダウン。血糖値も100以下。なのに、ヨーロッパに行けないのは理不尽です。
おしりが痛い。クッションがほしい。
スタバのお気に入りの場所はヨーロッパ系の外人に占有されている。
内なる世界で全体を意識する。これは点は全体を含むのと同様。位相の始まり。存在の力で意識できる。全ては自分であること。
第9章「変革」の根幹。9.6で3つを取り上げる。詳細は番外とする。

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資本主義と民主主義の危機を哲学する ガブリエル


『欲望の資本主義3』より 資本主義と民主主義の危機を哲学する
ソーシャルメディアはカジノだ
 忘れてはならないのは、私たちがこうした企業に搾取されていることです。メールを送受信したり、ネットニュースを見たり、検索したり、買い物をしたり、動画を見たり音楽配信を受けたりといった、私たちがインターネット上で行っている行為はすべて「労働」です。その労働がデータ付加価値を生み出し、何十億ドルというおカネがカリフォルニアの口座に支払われるのです。
 ソーシャルメディアはカジノのようなものです。人々はインーターネット上の書き込みや投稿画像に「いいね」をクリックしたりすることで、いねば「賭け」をしています。投稿者はフォロワーを集めていく。ポイントを稼いだ人は大儲けができる。その構造の中で、ユーチューバーの成功者が増えれば、それは賭けに参加したユーザー側の利益にもなります。
 しかし、最も利益を上げているのは、投稿者や「いいね」をクリックするューザーではなく、胴元、つまり、ソーシャルメディアの運営管理者です。これはカジノとまったく同じメカニズムです。しかも、ソーシャルメディアは、世界中のどのカジノより不公平なカジノだと言えます。どんなダーティーなカジノより、GAFAの方がはるかに汚いと断言できます。
ソーシャルメディアと民主主義の危機は同じ現象である
 --GAFAなどによるバーチャルな世界、つまりデジタル社会は、現実の社会にどのような影響を与えていると思われますか。ソーシャルメディアなど、情報のデジタル化によって構築された社会システムは、持続的なものではありません。交通規則のない高速道路と同じで、いつかは壊れてしまいます。既に多くの犠牲者が出ています。このようなテクノロジーを使った暴力や犯罪、組織的なテロが起きています。しかし、そうした現象だけでなく、グローバルな価値観そのものが崩壊しつつあり、それが「民主主義の危機」だと言われています。
 民主主義の危機とソーシャルメディアは、実は同じ現象です。二つは別々の事象ではありません。メディアが世論を操作し、その結果世論が不安定になることで民主主義が危機に陥る、といったような構図ではありません。そうではなく、この二つは一つの同じ現象なのです。
 人間の社会性は、本来、自分と距離の近い世界で構築されるものです。私たち人間は、肉体があってこそ存在し得るもので、それ以外はすべて想像上の、つまり架空のものです。その上うな意味で、現代の世界には完全に架空のグローバル社会が存在しています。そこは生身の人間ではなく、アバター[仮想空間でのユーザーの分身]たちの世界です。そしてこのアバターが引き起こす様々な社会的ダイナミズムが、民主主義を崩壊させるのです。
 民主主義は今なお、私たちと距離の近い世界、例えば、国家や政府、古典的経済などにおいては人々の結びつきを保っています。しかし、インターネットが構築する新しい社会システムは、こうした世界に破壊をもたらします。
 アメリカの例を見てみましょう。国土が広大なアメリカでは、やり取りする相手が遠く離れているケースが多く、ソーシャルメディアはもともと、離れ離れになった家族や友人知人同士が手軽に連絡を取り合える手段として利用されていました。つまり、最初は、自分に近い関係の人たちとの繋がりを保つための便利なツールだったのです。
 しかし、今日では、多くの人々が姿の見えない相手とやり取りをし、架空の繋がりを持つようになりました。そのコミュニケーションは完全にフィクションで、小説を読かのと同じです。そうした架空のコミュニケーションに大部分の時間を使っている人々は、顔が見える相手との真のコミュニケーションをほとんど行っていません。哲学における存在論の見地からすると、私たちの日常は、ほとんどの時間をビデオゲームに費やしているようなものです。身近な人との手軽で安価なコミュニケーション手段として普及したソーシャルメディアが、身近な人々同士のコミュニケーションを破壊しているのです。
 --それが、民主主義を崩壊させるということですか。
 その通りです。インターネットは決して政治的に中立なプラットフォームではありません。見えない影がインターネットを支配しているからです。
 例えば、初期にはたくさんの検索エンジンがありましたが、今ではグーグルの独壇場です。私たちは様々な形でインターネット空間に繋がり、インターネットから十分な情報を得ている気分になっています。誰もがほんの数分で、新聞を読かのと同じような満足感を得ることができます。しかしこれは大きな誤解です。我々は情報を得ているのではなく、いわば小説を読んでいるのと同じです。あるいは、テレビドラマを見ているようなものです。
 トランプについて、インターネット上で毎日様々なニュースが発信されます。彼が傘を持っているとかいないとか、アイスクリームをいくつ食べたとか、ホワイトハウスで誰とどのくらい話したとか、誰をクビにしたとか……。そのような記事を配信することで、(人々はトランプについて十分な情報を得たと錯覚し)真実は覆い隠されてしまいます。「メイ首相のダンスステップ」や「ユンカー欧州委員会委員長の皮肉」といったタイトルの記事も同じです。
ジャーナリズムの危機
 これは、ジャーナリズムの危機です。トランプやトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領、習近平らがジャーナリストたちに批判的だからではありません。それも困ったことですが、より深刻な問題は、批判的でないジャーナリズムが横行してしまっていることです。
 真のジャーナリズムとは簡単には見えないことを白日の下に晒すことです。しかし、ソーシャルメディアで拡散されるニュースは、内容が非常に表面的です。トランプに関しても、私たちは彼の言動の上辺しか知ることができず、トランプに関連して起きている事象を深く理解することはできません。これが今日、インターネット社会が生み出した時代の潮流です。そして、ジャーナリズムの危機は民主主義の危機でもあります。ジャーナリズムなどの力によって真実を突き止めようとする姿勢が失われた民主主義は、もはや民主主義として機能しないからです。
 そして、この状況はソーシャルメディアの背後にいる「誰か」に巧妙にコントロールされています。
 実際の政治で重要なことは、リソース(資源、富)を分配すること。そしてリソースを分配するには、マテリアル(原料、材料)を変形・変換することが前提です。マルクス主義の古い命題の一つは、「分業の基盤となるのは労働である」ですが、労働とは、結局のところ、マテリアルや于不ルギーを様々な形態に変形・変換することです。
 先に指摘した通り、インターネットでニュースを見たりメールを送ったりすることは実は「労働」です。そして、その「労働」が、背後に隠れ目に見えない「誰か」に、ジャーナリズムを危機に陥れる原動力として利用されています。ネットで配信される表層的なニュースを読んでいる私たちは、それが「労働」であることや、背後に「誰か」がいることに気づかずに、十分な情報を得たと錯覚しています。こうした構造が、ジャーナリズムの批判精神そのものを危機に陥れているのです。

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OCR化した3冊

『一冊で学び直せる哲学の本』
 フッサールの現象学
  現象学の誕生
  現象学的還元と本質看取
 ハイデヅガー 存在の本来性とは
  存在論的差異
  現存在と世界-内-存在
  本来性と非本来性
  現代思想の源流
『ソーシャルメディアの生態系』
 プラットフオームの生存競争
  ルネサンス以前のミーム
  グーテンベルクが生み出した「マスメディア」
  マスメディアからソーシャルメディアヘの「進化」
  変容するネットワーク構造
  1対1から1対多へ
  ネットワーク生態系が動き出す
  報道機関対ブロガー
  ニュー・ロンやシナプスがメッセージを運ぶ
  生まれては消えてゆく
  「フリー」と衝突した所有本能
  二つの世界のいちばん悪い部分
  「レベニューシェア」という考え方
  フェイスブックによる「検閲」
  「王者」フェイスブックヘの挑戦
  スナップチャットの「瞬間性」
  グーグルやフェイスブックと共存できるのか
  低コストでアクセスできる
  ドーキンス対ブルーム
『欲望の資本主義3』
 文明論的に見た資本主義の未来
  資本主義を読み解く歴史家 ハラリ
  すべてが自由なら社会は崩壊する
  権限の分散で勝利した資本主義
  資本主義は宗教だ
  中央集権で力を発揮するビッダデータ
  自由市場が消滅する危機
  AI時代に守るべきは仕事ではなく人間だ
  欲望はエンジンだ
 資本主義と民主主義の危機を哲学する
  気鋭の哲学者 ガブリエル
  真のAIは存在し得ない
  人々を支配しているのは機械の背後にいる誰かだ
  ソーシャルメディアはカジノだ
  ソーシャルメディアと民主主義の危機は同じ現象である
  ジャーナリズムの危機
  「真実が存在しない」のまやかし
  自然主義とポストマルタス主義が生んだポストトゥルース
  自然主義と宗教が支配するアメリカ
  人間の自由と偶然を破壊する自然主義
  哲学は考え方を変えることで社会を変革する
  マルクスは書斎で世界を変えた
  新実在論
  「私たちには自由がある」

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資本主義を読み解く歴史家 ハラリ

『欲望の資本主義3』より 文明論的に見た資本主義の未来 資本主義を読み解く歴史家 ハラリ
権限の分散で勝利した資本主義
 事実、少なくとも20世紀においては、それが最高の制度だと証明されました。権力を一つの場所に集中させ、中央集権的に決断をする社会の試みよりうまく機能したからです。中央集権の計画経済において、一つの場所で重要な経済的な決断をしていたソ連や毛沢東時代の中国では、社会の経済はうまく機能しませんでした。
 ご存知かもしれませんが、ソ連時代の官僚について有名な話があります。彼らは1980年代に、マーガレット・サッチャーに会いにロンドンを訪問します。ミハイル・ゴルバチョフの時代です。資本主義が実際、どのように機能しているのか、なぜソ連のシステムよりもうまくいっているのかを知るためでした。
 彼らは案内されてロンドンを視察します。証券取引所や大手銀行を見学したり、大学で経済学者と懇談したりしました。スケジュールの途中で、その一人が質問します。
  「ちょっと待って。よくわからないことがある。半日、ロンドンを歩いても、パンの行列は一度も見かけていない。なぜですか」。
 怪討な顔を見せるイギリス人の案内役に、彼は質問の意味を説明します。モスクワでは、エリートたちが人々に十分なパンを供給するにはどうすべきか頭を悩ませている。にもかかわらず、どのパン屋やスーパーでも長い行列ができてしまう。ロンドンには1000万人以上の住民がいるのに、パンの行列が一つもないのはなぜなのか--。
 そして、ソ連のエリート官僚らは「銀行や大学での予定はすべてキャンセルして、ロンドンのパンの供給を担当する人に会いたい。その秘密を知りたい」と申し出ます。困惑したのはイギリス人の案内役です。「そのような担当者はいません」と答えるしかありませんでした。
 資本主義国なら当然のことですが、大都市でパンの供給を担当する役人など存在しません。小麦を作る人やパンを焼く人を決め、小麦やパンの値段を決定する中央の機関もありません。にもかかわらず、十分なパンが供給できているのは、決断する権限を分配しているからです。小麦を作りたい人が小麦を作り、パンを売りたい人がパンを売る。人々がそれぞれ決断する。人々が決断の自由を持つことが自由市場の成功の秘密です。
 自由市場や経済的自由主義のモットーやスローガンは、「顧客はいつも正しい」ということです。共産主義のシステムでは、顧客よりも偉い権力者が存在しますが、自由市場にそのような権力者はいません。資本主義のシステムでは顧客が王様です。お客さんが白パンより黒パンが好きなら、パン屋は黒パンの販売に力を入れますし、一つ1ドルでは売れないとすれば、値段はいくら適正価格でも高過ぎることになるのです。反対に20ドルでも売れるなら、コストからは法外な値段でもそれが価格になります。顧客は王様で、経済全体は顧客を中心に体系化されています。
 もちろん、デメリットもあります。例えば、顧客を操ることは簡単です。そのため、自由市場では広告産業が成長します。広告産業の目的は、消費者の気持ちや欲望を操ることで、実際には必要ないものを必要と思い込ませたり、環境を酷く汚染するような大型の高級車を、それを持てば幸せになれると信じ込ませたりすることです。
資本主義は宗教だ
 --資本主義が自然の法則でないとすれば、その正体は何とお考えですか。イデオロギーでしょうか。それとも、宗教のような事象でしょうか。
 資本主義は人間の作った制度で、自然の法則ではないことは明らかです。そして、イデオロギーでも宗教でもどちらでもあり得ます。人々がそれを妄信すれば宗教と呼ばれるようなものになるのかもしれません。「宗教には神が不可欠である。中心に神が存在することにより、宗教は定義されている」と言う人もいるでしょう。宗教をそのように定義するなら、資本主義はイデオロギーなのでしょう。
 けれど、私は宗教を定義する時、神の存在はさほど重要ではないと考えています。宗教とは、あるストーリーや神話に深い信仰が見られるシステムです。そして、その神話は社会組織や政治そのものがよって立つ基盤となり得ます。その場合、特定の神を中心に信仰していなくても、それは宗教だと言えると思います。少なくとも、場合によっては、資本主義は確かに宗教になります。経済活動を適切に機能させるために人々に現実的なガイドラインを提供するだけでなく、制度そのものが価値を持つからです。
 今日、世界中のほとんどの国は、公言こそしませんが、経済成長が最も重要な価値だと考えています。それは、紛れもなく資本主義的な価値観です。ある国は共産主義や社会主義だと主張したり、民主主義だと胸を張ったり、あるいはユダヤ教の国だ、ヒンズー教の国だ、キリスト教の国だなどと、様々に標榜していますが、現実にはどの国も経済成長こそが最も大切な価値だと「信仰」しているのです。中国の習近平主席であれ、イランのアヤトラ・ホメイニであれ、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相も、アメリカのトランプも、誰の話を聞いても、何よりも信仰しているのは経済成長であることがわかります。
 経済成長こそ、直面するすべての問題の解決の鍵になると信じています。そういう意味で、資本主義は普遍性のある一つの宗教だと言えます。
中央集権で力を発揮するビッダデータ
 --資本主義の未来をどのように予想されますか。
 20世紀の東西の対決で、資本主義が社会主義に「勝利」できたのは、データ(情報)処理に秀でていたからです。社会主義のソ連はすべての情報をモスクワの指導部に集中させ、すべての問題をモスクワの指導部が決断していました。一方、資本主義は、企業や銀行、顧客の間で情報のフローが自由な分散されたシステムで、誰にでも情報処理ができ、自分なりに決断することができました。20世紀においては、そのシステムが、中央集権のシステムよりうまく機能しました。一つの場所で大量の情報を的確に処理できる技術がなかったからです。ソ連の情報はすべてモスクワの指導部に集まりましたが、共産主義の官僚たちはその情報をうまく理解し、適切な判断ができなかったのです。そのため、社会主義のシステムは自壊しました。
 しかし、今日は事情が異なります。AIや機械学習、ビッグデータのアルゴリズムなどの新たな技術が現れたからです。一つの場所で大量の情報を処理し、的確な決断をすることが可能になるかもしれません。ビッグデータやAIは分散型よりも集中型の方が効率良くデータ処理ができます。ビッグデータでは、一ヵ所により多くのデータがあればあるほどアルゴリズムが良くなるからです。
 医学や遺伝学の分野でそれは明らかです。ビッグデータに関する大量の研究は、パターン認識と適切な統計に基づいています。ある一人の医療記録とその人のDNAを見るだけでは、特定の遺伝子が特定の病気の原因であることを知ることはできませんが、10億人のデータを集めることができたら、統計により解明の鍵が得られます。
 自由主義の社会では、プライバシー保護の問題かおり、そのようなことはできません。しかし、中国のような国では、政府が「中華人民共和国の人民は全員、国立の遺伝子銀行にDNAのサンプルを渡さないといけない。また、すべての治療記録のアクセスを許可しないといけない」と言えます。一気に、10億サンプル以上の世界で最も大きな医療・遺伝子データベースができ上がるわけです。それをもとに、最高の医療のアルゴリズムを作ることができます。
 もしそのようなことが現実に起きれば、世界中の人々が最善の医療を求めて中国に殺到するでしょう。自分の遺伝子情報を提供すれば、将来どのような疾患にかかる可能性が高いか知ることができるからです。人々が殺到すれば、データベースはさらに巨大になります。
 フェイスブックの構造はそれに似ています。フェイスブックの優位性は、みんながそれを使っていることにあります。ソーシャルメディアのアカウントを作成する時、大半の人はフェイスブックに登録します。探したい人や繋がりたい人が、そこにいるからです。その可能性が低い小さなソーシャルメディアに行く人は、多くありません。
 このように、集中型のシステムは資本主義の自由市場とはまったく違う働きをしています。21世紀においてはそれが有力なシステムになるかもしれません。
 

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トヨタ--無消費から世界へ

『繁栄のパラドクス』より
トヨタ--無消費から世界へ
 自動車メーカー、トヨタはどうだろう。低価格でコンパクトなトヨタカローラはつねによく売れている。トヨタに成功をもたらしたおもな要因は、安価な労働力や政府からの援助ではない。それらももちろん役には立ったが、トヨタは戦後、より重要で、より永続的な、ある要因によって成長した。
 1937年に創業したトヨタ自動車株式会社は、日本と東アジア地域の無消費に焦点を当てたプロダクト開発をおこなった。当時の人は誰も、トヨタが将来、世界第5位の収益を上げる巨大企業になるとは想像しなかっただろう。日本ではそのころまだ、31万輛近くの荷馬車と11万1000輛の牛車が行き来していた。道路の大半が未舗装で、そうした道を自動車で走行するのは不経済で危険な冒険でもあった。道が悪ければ車は故障しやすい。全長の5分の1しか舗装されていなかった戦後の日本では、動かなくなった車が道路脇のあちこちで見られた。トヨタはそうした国内事情を考慮して車をつくった。当時の社長、豊田喜一郎は言明している。「トヨタは、荒れた道路に耐えられ、東アジアの人々にとって実用的な、経済効率のいい車を開発しなければならない」
 当時トヨタが日本で生産していた車はアメリカの消費者が満足できるレベルのものではなかった。しかしトヨタにとってそれは問題でぱなかった。先進国への輸出を考えるまえに、日本と近隣アジア諸国の巨大な無消費をターゲットとする心構えだったからだ。トヨタが日本国内の販売台数と同数の車両を北米に輸出するようになるのは1980年のことだ。しかし北米への輸出を開始したあとも基本的な戦略を変えることはなく、ガソリンを大量に食うアメリカ車を所有できない、アメリカ市場の低所得層をターゲットとした。
 トヨタが、フオード、GM、クライスラーといった既存の自動車メーカーと競争するのではなく、まず、無消費をターゲットとするという戦略を取ったことは、日本の発展にとって大きな意義があった。その理由を大きく4つにまとめてみよう。
 第一に、トヨタは本拠地である日本に、マーケティング、販売、流通、教育、サービス、製品サポート等、自動車業界に付随するあらゆる職種を引き入れるローカル市場を創造した。一例として、卜ヨタは名古屋の中部日本自動車学校を設立している。これが他の自動車学校のモデルとなって、日本での自動車の普及に貢献するとともに、トヨタ車の販売台数も押し上げた。もしトヨタがたんに安い労働力を利用して自動車を生産し、外国に輸出するという低コスト戦略を取っていたなら、自動車学校には投資しなかっただろうし、その自動車学校に1958年、新入社員にトヨタのセールスメソッドを教育するための「トヨタ・セールスカレッジ」を設置することもなかっただろう(その後、「日進研修センター」を建設)。無消費をターゲットにするには、プロダクトの効果的な製造や出荷に関する専門知識だけでなく、その地域の実情に関する知識も不可欠となる。
 第二に、無消費をターゲットとした戦略が成功したことで、活気ある市場が生まれ、長期的な雇用を創出する土壌が形成された。トヨタが新しい工場を設立し、国内の消費者に向けてますます多くの車を販売するようになると、より多くの従業員が必要となった。たとえば、多くの会社が豊田市(豊田という市の名称は、トヨタがそこに会社と工場を置いたことに由来する)で自動車の製造にかかわるようになり、1962年には2・7だった求人倍率が、1970年には7・1にまで増加している。また、全国のトヨタの販売店数は1938年にはわずか29店だったが、1980年には300店を超えた。トヨタの成長を雇用面で見ると、圧巻としか言いようがない。1957年、トヨタの従業員数は約6300人だったが、10年後には5倍以上の約3万2000人となった。現在、トヨタは日本の7万人を含め、全世界で36万9000人以上の従業員を雇用している。トヨタの初代会長である豊田英二は、従業員の教育および育成に関する方針について、「物をつくるのは人だ。したがって、物づくりのまえに人を育てなければならない」と述べている。こうした方針が、専門の教育訓練部門の設置や、販売店で働く中堅従業員の教育を目的とした職業訓練学校の設立につながった。
 第三に、無消費をターゲットとした企業戦略は、地域の規制や制度の枠組みを、その地の実情に沿った、適切なものに変えていった。ジェフリー・アレクサンダーが著書“Japan's Motorcycle Wars”(日本のオートバイ戦争)のなかで述べている。「日本の道路を走行する車両の数が増加するにつれ、交通法や車両登録、運転免許制度、走行路の取り締まり等、一貫した政策の必要性が急速に高まった」。つまり、車両というイノベーションが普及したことで、日本特有の状況に適した政策が促されたことになる。このように、イノベーションは往々にして規制に先行する。存在していないものをあらかじめ取り締まることはできないからだ。
 第四に、とくに自動車産業の場合、無消費をターゲットとした戦略は日本経済に新たな産業を生み出した。車の販売やサービスに関連する仕事をはじめ、物流および輸送業界、安くなった交通費を背景に国内旅行業界も拡大した。学校や病院へのアクセスがよくなり、郊外の開発も進んだ。
片づいていないジョブから生まれたカローラ
 もし、トヨタが戦後、日本の無消費をターゲットにするのではなく、アメリカの三大自動車メーカー(フオード、GM、クライスラー)と競争する道を選んでいたらどうなっていただろう。それでもトヨタは成功し、日本は繁栄していただろうか? じつはトヨタはそのころ、ほんの短期間ではあったがアメリカ市場に打って出た時期がある。
 1958年、トヨタは日本国内で成功したあとに、主力車であるトョペット・クラウンを携えてアメリカ市場に乗り込んだ。クラウンは日本で非常によく売れた車種であったため、幹部陣はアメリカでも売れると考えていた。しかし結果は大失敗だった。ある観測筋はこうコメントしている。「クラウンは日本の荒れた道路に適合するよう設計された車であり、アメリカのなめらかで流れの速い道路には合わなかった。時速が60マイル(約96キロ)に達すると激しく振動し、ドライバーはバックミラーを見ることができないほどだった」。敗北を認め、トヨタの経営陣は1961年には撤退を決断した。しかし永遠に去ったわけではなかった。
 アメリカ市場について研究を重ね、現地の消費者の「片づいていないジョブ」を理解したあとで、トヨタはカローラを生み出した。のちに販売台数が世界一となる車だ。トヨタはビッグ3と競争するのではなく、異なる戦略を取った。トヨタの〝販売の神様″と称された神谷正太郎は、小型車は家庭の2台目、3台目の車として重宝され、ビッグ3とまともにぶつかることはない、と当時の戦略を振り返っている。
 トヨタの成功は、他の日本企業にも影響を与えた。日本最大の自動車メーカーであり、現在も世界のトップクラスを維持しているトヨタだけでなく、日産、ホンダ、三菱、スズキ、マツダ等、日本経済の形成に大きく貢献した自動車メーカーがほかにも数多く存在する。

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マスメディアからソーシャルメディアヘの「進化」

『ソーシャルメディアの生態系』より プラットフォームの生存競争
グーテンベルクが生み出した「マスメディア」
 そうした中にあらわれたのが、ヨハネス・グーテンベルクだ。彼が自身の発明品を使って最初に印刷した本は、聖書だった。これは非常に賢い選択だった。読者となる人々の大部分のパターン認識能力と、聖書というテーマはぴったり合致していたからだ。だが印刷技術が生まれたおかげで人々は、それまでローマ教会から押しつけられてきたのとは大きく異なる強烈な思想にも近づけるようになった。口頭によるコミュニケーションには当事者が距離的にも時間的にも接近していることが不可欠だったが、印刷技術はより広く速い情報の拡散を可能にし、口頭でのコミュニケーションにつきものの時間と距離の制約を徐々に崩していった。当時の社会における他の大きな発展的変化とともに--その一つが、最初は私立の、さらには公立の教育が導入されたことによる識字率の向上だ--印刷技術は、それまで教会がっくりあげてきた階級構造を壊す働きをした。印刷技術は中産階級に道を開き、教育を受けた新しい階層である彼らは、社会をいかに組織するか、そして世界をいかに理解するかについての、それまでになかった新しい考えへと通じることができるようになった。
 そして、そうした考えを求める人々に情報を提供するために、また別の強烈なアイデアが登場した。それはグーテンベルクによって解き放たれた強大で新しい出版の力を利用した、私たちが「マスメディア」と呼ぶ概念だった。皮肉にも、当時あらわれた最初の文学は消費や性愛や喜劇などの世俗的な喜びを扱ったものだったIそしてそのパターンは、インターネットの勃興期にも繰り返されることになる。
 社会のコミュニケーション構造の進化において訪れたこの新しい時代は、教会の唯一の教義から人々を解放し、情報共有の世俗的モデルをつくる手助けをした。文字の読める人々が増え、権威とは別に配信される情報が求められるにともない、新しい種類の書き手や編集者が登場するようになった。こうして誕生したのがジャーナリストだ。ヴォルテール、モンテスキュー、ロック、ジョン・スチュアート・ミルなどの進歩的な哲学者たちに触発された彼らは、権力者の世界観に沿っているかどうかに頓着せず、政治や文化についての新鮮な見解を自由に発表した。
 そしてメディアの組織は19世紀中ごろには、広告枠を製造者に売れば自分たちの事業の資金を得られることに気づいた。成長しつつある中産階級の消費者市場に手を伸ばしていた製造者は、そのために広告枠を必要としていた。こうして報道組織の規模や影響力は増大し、常駐の執筆者たちが非常に広範囲のテーマをカバーし、「スクープ」を書くようになった。イギリスでは、産業革命以降、出版物の数は急増した。アメリカでは19世紀に各地で新聞が誕生した。それらの新聞のアプローチは政治哲学的にも倫理的にも多様だったが、全般的にこのメディアという産業はジェファーソンの言う「自由な人間、自由な財産、自由か思想」の原則を体現していた。
 20世紀になると、情報を獲得したり配布したりする新しいシステムが生まれ、メディア産業は進化の新局面に突入した。写真や無線、映画やテレビ放送、そしてのちにはケーブルテレビなどの技術が、大衆により広く、より効率的にメッセージを送ったり思想を広めたりする新しいツールを提供した。20世紀を通じて西洋の文化を形成してきたのはこうした技術--つまり新聞、雑誌、書籍、ラジオやテレビなど--にほかならない。それらは20世紀のあいだ、人々の生活の中心に座を占めていた。アメリカ人がラジオで大統領の演説に耳を傾けたり、CBSテレビでウォルター・クロンカイトが「今日はこんなところで」という決まり文句を口にするのを見たりするとき、そこには目に見えないきずながたしかに生まれ、ともに番組に耳を傾ける人々は西海岸から東海岸まで一つに結ばれていた。共同体をつくりあげるうえで、放送メディアは過去のどんな技術もかなわない力をもった。
 そして、教会にも当局にも指図を受けることのないメディア業界は、大衆の思考形成に大きな力をふるうようになった。それは、露骨に行われることもあれば、ひそかに行われることもあった。たとえば、テレビ音声の調節のおかげで、間大西洋アクセントと呼ばれる話し方(訳注:アメリカ英語とイギリス英語の発音を混ぜ合わせて「標準的」にしたアクセント)が非公式にではあるが権威の座を得たことも、その一つだ。私のようなミシシッピ風のゆっくりした話し方が権威から遠ざかったのは、あるいはそのせいであるのかもしれない--。
マスメディアからソーシャルメディアヘの「進化」
 だが、影響力を拡大したとは言ってもマスメディアは依然、一つのクラブのような存在だった。メディア業界のオーナーの多くは配下の記者の仕事に干渉するのを控えたし、バランスの取れた報道原則を少なくともリップサービスとして口にしたりはしたが、それでも、こうした組織が行使する中央集権的な力を手放そうとはけっしてしなかった。編集委員会や番組プロデューサーは、いわばニュースの門番だった。大衆が何について知り、何について知るべきでないかを決めるのは、こうした人々だった。彼らはいわゆる「オヴァートンの窓」を定義した。「オヴァートンの窓」とはジョゼフ・P・オヴァートンの提唱した、政治家が自分たちにとって政治的に容認可能とする思想はごく限られているという考えだ。こうした組織が中央集権的に「メッセージング」を統制するとはつまり、ニュースのネタ元と書き手のあいだに緊密な関係が生じるということだ。
 ちょっと想像してみよう。ソーシャルメディアがより開放的になった時代でも、ホワイトハウスのジャーナリストたちは、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の身体障がいについて、あるいはJ・F・ケネディの性的奔放さについてはレポートで言及しないと同意していた。それは、「公衆の利益」を損なわないためだとされた。そのおかげでわれわれの暮らし向きが果たして良くなったかどうかはともかく、今やそうしたやりかたは競争原理からいって不可能になっていくだろう。
 ソーシャルメディアによって、メディアという産業は飛躍的な進化を遂げた。私の考えによればそれはこの先、グーテンベルクの印刷技術発明と同じほど大きな影響を社会にもたらすはずだ。だが、ここでもう一度言っておきたいのは、ソーシャルメディアの進化が必ず前向きな利益をもたらすわけではないことだ。しつこいようだが、もうI度言っておこう。進化と進歩はイコールではない。私たちが今ここで言っているのは、ソーシャルメディアとは社会の情報通信構造における、より進化した状態だということだ。そして、進化を逆戻りすることはできない。現在のソーシャル・オーガニズムをもたらしたのは進化のアルゴリズムであり、その中でいま私たちは、水平的に分散された巨大なネットワークで結ばれている。それによって私たちはかつてない高い情報処理能力を与えられ、以前よりもずっと速く何かを考えついたり、思考を複製したり解釈したりできるようになり、またそれらをずっと広範囲に広げることもできるようになった。

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ハイデッガー 存在の本来性とは

『一冊で学び直せる哲学の本』より
フッサールの現象学
 現象学の誕生
  フレーゲは、論理学の刷新によってラッセルらに分析哲学を創始させると同時に、認識の客観性に関する厳密な考え方によって、ドィッのエドムント・フッサール(1859~1938年)に影響を与えました。
  19世紀、特にその後半の哲学では、カントの認識論が批判されてきました。カントの認識論では、外界にある物自体を正確に認識することは、原理上不可能です。すると、ある認識が正しいという客観性は、保証されないことになってしまいます。これでは、学問をしようにも、足もとがいつもグラグラしているような状態です。
  この問題を乗り越え、学問の基盤となる確実性を得るために、フッサールが構築したのが現象学の方法です。
 現象学的還元と本質看取
  現象学は、「主観の外側に、客観的世界が実在するはずだ」という日常の思い込みを、いったん判断停止(エポケー)してカッコに入れます。
  こうして純粋な意識の内面に立ち戻ると、たとえば目の前のコップを見たとき、「コップが、私の主観的な意識の中に現れてきた」というふうに感じることになります。あらゆる対象が、j王観の意識の中に現れてくるもの〃として認識されるのです。このように、主体が向き合うすべての対象を、主観の体験の中に回収する手続きを、現象学的還元といいます。
  さて、この意識に現れた世界(現象)を、ありのままに見つめれば、ものごとの本質を直観的に察知できるとフッサールは述べます(本質看取)。つまり、コップの(客観的な)「物自体」にはふれられないけれど、「コップとはどういうものか」について、何らかの(主観的な)了解は得られるのだ、といっているのです。
  そして、この直観された本質は、他人とも共有できるものであり、学問の確実な基盤にしてよいのだと、フッサールは主張しました。学問的な確実性を、〝客観性〟から〝主観が直観する本質〟へと置き換えたのです。以後、多くの哲学者が「思考の原理」として、現象学の方法を採用することになります。
ハイデッガー 存在の本来性とは
 存在論的差異
  ドイツのマルティン・ハイデッガー(1889~1976年)が、主著『存在と時間』(1927年)で打ち出した思想は、それまでの哲学にはない問いを含んだものでした。彼は、「従来の西洋哲学は〝存在するもの〟を問うことはあるが、〝存在そのもの〟への問いを忘れている(存在忘却)」と批判し、存在についてダイレクトに問い直すことが必要だと説いたのです。
  ハイデッガーのこの問いを可能にしたのは、存在論的差異という独自の発想でした。これは、存在者(存在するもの)と存在(存在しているというまさにそのこと)を区別する考え方です。ハイデッガーの「存在」は、個々の事物ではなく、存在すること自体なのです。
 現存在と世界-内-存在
  この存在論的差異のアイデアと、師であるフッサールの現象学の方法にもとづき、ハイデッガーは人間の存在を分析していきます。
  理性をもった人間は、「存在とは何か」と問う能力をもちます。つまり人間は、ひとつの存在者でありながら、存在について考えることができる、特殊な何者かなのです(だからこそ、存在への問いは、人間の分析を通して考察されます)。ハイデッガーはこうした人間のあり方を、「現に存在することが明らかになる場」といった意味で、現存在と名づけました。
  また彼は、人間を実存として見ます。キルケゴールのところにも出てきましたが、実存とは、当の主体に固有の生を生き、固有の関心からものごとをとらえるものとしての人間のことです。
  さらにハイデッガーは、人間は世界-内-存在であるといいます。これは「人間は世界の中に、ほかの存在者とかかわりをもちながら存在している」という意味ではありません。人間は、まわりの事物を固有の関心でとらえることによって、自分が現に生きる世界を開いている、ということです。つまり、もともと客観的に世界があるのではなく、人間が実存的にものごととかかわるときに、その人の世界が開かれると、ハイデッガーは考えているのです。これは、主観の外側に客観性を想定するカントの認識論を乗り越えようとする、現象学的な発想です。
 本来性と非本来性
  さて、本来は存在について問う能力をもつ人間ですが、普段は自分の存在を忘れ、日常生活に没頭しています(頽落)。このような非本来性の中にある人々を、ハイデッガーはダスーマン(世人)と呼びました。ダス・マンとしての人間は、存在への問いをあいまいにし、軽薄な好奇心から空談(どうでもいいおしゃべり)ばかりをくり広げ、周囲の人にまぎれてそれなりに楽しく暮らしています。
  しかしハイデッガーは説きます。実存としての人間は根本的に孤独であり、また、死への不安に取りつかれた存在者だと。そして、ほかのだれでもない自分の死の可能性と向き合うとき、存在の本来性に目覚めるのだと。自らの最期を見据える死への先駆的覚悟を通じて、日常生活への埋没から抜け出し、かけがえのない人生を真剣に生きられるというのです。
 現代思想の源流
  『存在と時間』の哲学は、キルケゴールの実存をふまえ、現象学的方法によってデカルトからカントに至る認識論の超克をめざし、ニーチエ的な〝あるべき人間の姿〟を模索する、というふうに、近代西洋哲学の問題意識をすべて引き受けた上で存在の意味を問い直す、野心的なものでした。よるべない孤独の中に生きる近代人の不安が、見事にすくい取られてもいます。
  ハイデッガーの思想は、現代思想の出発点ともされます。

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新しい魔方陣

新しい魔方陣ができた。8個を表現する。
 ○○○
 ○ ○
 ○○○
1章から10章までの表現
 ①⑦⑩
 ③⑨
 ⑤⑧
 ②④⑥

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