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哲学探究 はじめに

『哲学探究』より 『哲学探究』はヴィトゲンシュタインの第二の主著

この本で発表する考えは、この16年間、私がやってきた哲学探究の結果である。たくさんのテーマについて考えた。意味の概念、理解の概念、文の概念、論理の概念、数学の基礎、意識の状態などなど。これらについての考えはすべて、コメントとして、短いパラグラフとして書きつけた。おなじテーマについて、コメントが長めにつながっていることもあれば、ひとつの領域から別の領域へ突然ジャンプしていることもある。--最初は、すべてをI冊の本にまとめてしまうつもりだった。どんな形の本にするか、いろんな時期にいろいろ思い描いた。しかし基本方針にゆらぎはなく、考えというものは、ひとつのテーマから別のテーマヘ、自然に破綻なくつながって、すすんでいくべきものだと思っていた。

16年間の成果をまとめようとしては何度か失敗して、気がついた。この方針では絶対にうまくいかないだろう。もしも、私の考えたことを、自然の傾向に逆らって、一つの方向に無理やりすすめていこうとすれば、私が書くことのできた最上のものでさえ、哲学的なコメントにとどまるだけではなのの性質と関係があった。つまり探究をはじめれば、どうしても、ひろい思考領域をあちこちあらゆる方向に旅して回らざるをえなくなるのだから。--この本の哲学的なコメントは、いわば、長くて錯綜したその旅で描かれた、たくさんの風景スケッチのようなものである。

おなじ場所、またはほとんどおなじ場所について、いろんな方向からいつもあらためて言及され、つねに新しいスケッチが描かれる。それらのうち数多くのスケッチは、描きそこないであったり、特徴のないものであったりで、へっぽこ画家のあらゆる欠点をそなえていた。できそこないのスケッチを捨てると、なんとかましなスケッチが何枚か残ったので、ともかくそれらの配置を考えたり、なんども切りそろえたりして、1枚の風景画に見えるようにした。--というわけで、この本はじつはアルバムにすぎない。

生きているあいだに自分の仕事を本にすることは、つい最近まで、じつはあきらめていた。しかし、本にしたいという思いが、ときどき頭をもたげてきた。そのおもな理由は、講義や口述ノートやディスカッションで私が伝えた仕事の成果が、さまざまに誤解され、程度の差はあれ薄められたり、切り刻まれたまま、流布しているのを見聞きするようになったからである。おかげで私は自分の考えをきちんと伝えたいと思うようになり、その気持ちを静めるのに苦労した。

4年前に、私の最初の本(『論理哲学論考』)を読みなおし、『論考』の考えを説明する機会があった。そのとき突然ひらめいた。以前の『論考』の考えと新しい考えとをひとつの本として出すべきではないか。新しい考えは、以前の私の考え方と対比され、それを背景にしてはじめて、正しい光のもとでながめられるのではないか。

というのも、16年前にふたたび哲学と取り組みはじめてから、私は、あの最初の本に書きつけたことに、たいへんなまちがいがあることに気づかざるをえなかったからだ。まちがいに気づいたのは、フランク・ラムジーが私のアイデアを批判してくれたおかげである。--その批判にどれくらい助けられたのか、私自身はほとんど判断することができないが--ラムジーとは、彼の死ぬ前の2年間、『論考』のアイデアについて何度も何度も議論を重ねたものだ。ラムジーはいつも強力で確かな批判をしてくれたが、ラムジー以上に私を助けてくれたのが、ここケンブリッジ大学の教員、P・スラッフアさんである。長年にわたって、たえず『論考』の考えを批判してくれた。その批判に刺激されて、この本のなかでもっとも実り豊かなアイデアが生まれたのである。

私がこの本で書いていることは、ほかの人がいま書いていることと重なるだろうが、その理由は、ひとつだけではない。--私のコメントで、私のものだというスタンプが押されていないものについては、--これからも私のオリジナルだと主張するつもりはない。

私の考えたことをここに公表するわけだが、あまり自信がない。私の仕事はみすぼらしく、この時代は暗い。誰かの脳に光を投げかけたいのだが、それは不可能ではないにしても、もちろん、なかなかむずかしい。

私の書いたものによって、ほかの人が考えなくてすむようになることは望まない。できることなら、読んだ人が刺激され、自分の頭で考えるようになってほしい。

いい本をつくりたかった。けれどもそうならなかった。だが私には手を入れる時間が、もうない。

1945年1月、ケンブリッジ
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行きも帰りもポーチ一つ

新しい議論方式

 議論するための新しい方式をどこで、どういうカタチにするのか、これも大きなテーマです。未唯空間でやった細かい所、詳細の部分はもっと分化させます。具体的にします。同時に、全体のコントロールを未唯空間で行います。

人にぶつかってばかりいる

 見えないことはさほど、意味を持たない。むしろ、内側を見るには、丁度いいかもしれない。そういうつもりでいます。それにしても、町で、人にぶつかることが多い。回避活動はしていません。

 マックはまた、グラコロをやっているんですね。見えなかったので、エッグバーカーにしてしまった。

行きも帰りもポーチ一つ

 資料は新幹線の中に置いてきてしまった。もらった名刺も。まあ、トレースはできます。結局、行く時も帰るときも、このポーチ一つです。

 持って行った四つのツールを使いました。キンドルHDで未唯空間の項目変更、キンドルパーパーで読書、ICレコーダは講演内容の録音、iPadminiは録画しました。色々な側面で使えるものです。ポーチ一つに収めています。

 ここに来ている、技術者と言われる連中は、スマホ一つでやっているのでしょう。

ケータイを持って行かない

 千人以上居た人たちでケータイを持っていないのは、私ぐらいでしょう。それで選択してもらえばよかったのに。

 これも内なる世界です。コンテンツ重視です。自分の中の内なるポリシーです。それでいながら、ケータイをどう使って、スマホにどう出すかを考えています。ポータルをタブレットと同じイメージではなく、チャッターモバイルを用いたパターンにしていけば、時代が付いてきます。

冬の季節はミカロスの気分

 また、冬の季節です。会社ではミカロスの気分の雰囲気なんでしょう。今は、黒のフードをかぶりたい感じです。

 右足の親指の付け根が腫れています。昨日、豊田市まで歩いただけなのに。やはり、身体のことは外の世界にしましょう。

池田晶子

 帰りの新幹線で、池田晶子さんの「考える日々Ⅲ」をキンドルで読んでいた。

 「所詮、この世は、所詮、この世のことだもの」というのが口癖です。

 「考える人は、どうやっても、この世の中はどうでもいいということに、結局なってしまう」

 シンクロしますね。

 池田晶子さんの人生観は、常に死を考えています。40歳まで生きてきたことに感慨を持ってあたっていた。まあ、どうでもいいけど、その感覚です。

 それとやっぱり、知らない間に生まれてきたこと。親との関係でもセックスとの関係でもない。

 私の目が見えないこと、親指が痛いこと、そんなことは他の人には分からない。そういう人たちとどのようにコミュニケーションが取れるのか。取れるはずがない。それを前提とします。やはり、どうでもいいことはどうでもいい。

 組織に縛られようとする人間は好きにはなれない。他の人間に判断をゆだねたら、自分の人生ではない。

次元の圧縮・拡大

 集合が点になるというのはすごいことですね。それで、その点での次元を圧縮したり、拡大したりできる。これの現実的なカタチ。

ビブロバトル

 ビブロバトルが日曜日にあります。私が選ぶとしたら、どんな本なのでしょうか。

 「白夜の国の図書館」でのロバニエミ公共図書館、「複雑性とは何か」エドガール・モラン、古い所では、「戦争と平和」そして、デカルトの「方法序説」「感性論」

 当日は、皆は何を言ってくるのか。
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七つのシンプルな質問

『人類との対話』より 第七の対話 多くの人が答えたがらない質問

この七つの質問は魂の深い部分から生まれた。そして質問された相手を、魂を探す旅へと誘い、やがて世界を変えていく。

長く問い続けていく必要のある三つの質問

 1.全世界七十億人の人々がみな同じもの(平和、安全、機会、繁栄、幸福、そして愛)を望んでいるのに、なぜ手に入れられないのだろうか?

 2.生命について、わたしたちがまだ完全に理解しておらず、理解すればすべてを変えられるものが、あるだろうか?

 3.わたしたち自身、そしてその人生と目的について、まだ完全に理解しておらず、理解すれば、わたしたちの経験や現実をよりよいものへ変えられるものがあるだろうか?

とても力強い質問だ。答えるにふさわしい問いかけだ。たとえ答えが出せなくても質問自体に価値がある。

だが誰が問いかけるのがよいだろう。

政治家? 違う。国王、大統領、首相、州知事? いやそれも違う。聖職者? そうではない。教育者? 少しはいるかもしれない。軍や経済界、産業界のトップ? 違う。

ごく普通の人々が夕食のテーブルで? そう、それがいい。そこから始めるのがふさわしい。

わたしやあなたのようなごく普通の人々が、世界中のあらゆる場所で問いかけることから対話が始まる。そして、それが次の質問へと続く……。

人生の基礎となる四つの質問

 4.わたしは何者か?

 5.わたしはどこにいるのか?

 6.なぜそう思うのか?

 7.そこでわたしがやろうとしていることは何か?

この質問を無視して進化する人はいない。これらの質問(人生で大事な質問はいくつかあるが、これはその根本にかかわるものだ)を聞いたときに感じる迷いを、解決しなくてはならない。そうでなければ、何をしているのか、なぜこんなことをしているのかわからないまま、何日も考え込むことになってしまう。

これは、今多くの人が感じている状況と同じだ。だから世界はこんなひどい状態のままなのだ。

わたし自身も、この四つの問いに答えを出すまで先へ進めなかった。(もちろん今も絶えず新しい答えを探している。一日中、自問自答を繰り返していることさえある。その意味で言えば、これらの質問は何かを与えるだけでなく、何かを変える力を持っている)

最初の質問はまさに鍵だ。これに答えれば、すべての扉を開くことができる。いちばん大きな謎、つまり、わたしたちのアイデンティティに関する謎について深く考えようという質問だ。名前を知りたいのではない。この宇宙で、自分のアイデンティティが何なのかと尋ねているのだ。

この質問に対する「正しい答え」は存在しない。あなたが出す答えがあるだけだ。

二つ目の質問は一見簡単そうに見える。だが答えを出すのは容易ではない。

わたしはどこにいるのか?

あなた自身はどこに存在しているのか。つまりあなたが自分の存在を感じられるのはどこにいるときなのか。どうしてそう考えるのか。あなたは現実の生活の中で、自分の存在をどうやって感じているのか。

わたしがここで述べているのは概念的なことだ。あなたがいる場所についての地理的な説明(わたしは地球に住んでいます。地球とは太陽から三番目に近い惑星で……)を知りたいのではない。あなたがその場所を概念としてどう捉えているのかを知りたいのだ。

何かを学ぶ場所、たとえば学校として捉えているのだろうか。それとも試験のようなものとして捉えているのだろうか。自分の力を証明し、人と競い合う、勝者と敗者が生まれる場として捉えているのだろうか。

あるいは概念として説明できる場所がなく、太陽系の惑星のひとつにいるといったような説明しかできないだろうか。

わたしたちが自分自身を見つけられる場所はどこだろう。あなたの心はそれを知りたがっている……わたしはどこにいるのか?

この質問も先ほどと同じで「正しい答え」は存在しない。だがわたしは、この答えを出すまでは、自分の人生経験を入れておく引き出しをつくることができなかった。それがなくては、せっかくの経験も意昧のないものになってしまう。それではアリや(エと変わらない。わたしたちは人間をもっと複雑な生物だと思っていた。おおよその平均寿命はわかっている。この先何も起こらなければ、あとどれくらいここにいられるかもわかっている。では、こことはどこなのだろう?
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SFDCのサプライズ

一年ぶりの東京出張

 今は、5時前です。この時間だと、暗いんですね。月が出ています。ミカロスの気分で行きます。何も求めるものはない。持っているのは、メガネとキンドル二台だけです。服装は、トルコとの皮コートだけです。

自分を見直す

 自分自身をどうして、見直すかが課題になりそうです。そのためには、「人類の対話」のロジックを使います。見直せば、宇宙の力が使えます。意思の力と大きく違うのは、その部分です。存在の力です。

 底辺で持っているはずだけど、これを説明するのは、言い方が難しい。「人類との対話」にしても、胡散臭く感じる。

 見直すことで、何が重要なのか。多分、自分一人ではないということと自分一人だということを認識することでしょう。どうしても、哲学的になってします。

 見直すことの最大は存在を見直すことです。Oなどを見ていると、独善的です。なぜ、あんな狭い世界で、独善的でいられるのか。居て、何のメリットがあるのか。どこで降りるのかが重要です。存在を見直すことが、店舗コミュニティの情報共有でも一つのキーワードになります。

 では、何を考えるのか? 一つは歴史を考えないといけない。そして、空間の広がりの社会、できたら、宇宙、そして、自分たちの存在をなす哲学。そういうのをどのように考えて、行動していくのか。

 知識と意識のナレッジベースにはどういうものがあるのか。これは、それぞれの人によって変わってきます。それが考えられるのは、そこに起因できるものを持っていることです。

ミカロスの気分

 そして、ミカ猿です。三猿ではなくて、ミカザルです。ミカロスの気分で思い切ったことをしましょう。それを決めましょう。カウントダウンだけでは、頭に来ます。

 ミカロスで偶然が私に何を与えてくれるのか。それを楽しみにしましょう。それにキッチリ応えましょう。5月の前立腺ではないけど、ああいうことも含めて、どうプラスに持って行くのか。

スタバのノート

 名古屋駅中のスタバには、書き込みできるノートがありました。「どこどこへ行ってきます」と「何を飲みました」ということが書かれています。

全てを知りたい

 全てを知りたいというのは、未唯空間レベルです。未唯宇宙まで行けるかどうか。

SFDCのコンファレンス

 チャター・モバイルは使えそうですね。

 マークの講演を聞いてのメモ。「お客様のインターネット」という言葉を乱発していた。プラットホームの概念のところは消化不良ですね。アマゾンのように、一般を対象としているのと異なり、企業に依存している部分が弱さとして、表されている。

 会社名は「セールス・フォース」ではなく、やはり、「ソーシャル・フォース」にしないといけない。ミッション自体を変えることです。

 マークに期待したが、単に一番一番を繰り返すだけです。マークも企業の制約の中にいる。組織の論理を突破できない。市民ポータルでは、アマゾンと一緒に考えるしかない。

 色々なものが変わったことを強調していた。その次のロジックが示されなかった。当然、人だけが変わっていない。ゲーム化などで、ツールに依存しているだけです。やはり、それぞれの人の内なる世界を作り込まないといけない。店舗コミュニティの情報共有でやれるだけのことはやりましょう。

 そう考えると、パートナーを戻してほしい。ミカロスの気分が増すばかりです。

SFDCのサプライズ

 SFDCのサプライズがありました。座席の下の封筒の中に、サンフランシスコまでの往復航空券(ファーストクラス)・ホテル・ドレームへの招待券が入っていた。書れてはいるけど、贅沢です。

 Windows2000のサンフランシスコの発表会に比べると、日本人はのりが悪い。

 本来は私のところへ来るはずだったけど、SFDCの営業に邪魔された。偶然が逃げた。
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項目名の変更 次の世界

分化

 スタッフ・市民:スタッフは内なる世界を持つ お客様から信頼を得る 市民は分化して、専門家をめざす 多くの人が生きることができる
 コミュニティ:コミュニティに対する情報共有 ポータルでメッセージ支援 市民コミュニティで個人の分化 社会の流れを共有に変える
 会社・社会:企業の分化で高度サービス化 組織の分化で多様化に対応 行政は分化して、市民と協働 国は分化して、TGALを徹底
 関係づけ:個人の発言から組織の分化 店舗コミュニティで概念の明確化 お客様要望をコミュニティで把握 社会コミュニティで市民の分化

意識
 意識の成り立ち:ソクラテス、デカルト、ルソー ベンサム、アダム・スミス、ロック カント、ヘーゲル、ニーチェ フッサール、ハイデガー
 自己意識:日本は組織に依存する体質 意識を変える地球規模の課題 情報共有が変革のトリガー 個人の分化から意図して変える
 公共意識:意見を述べることから始まる 意見が述べられる情報共有環境 共有意識で新しい行政 社会インフラはコンパクト化
 日本人の意識:大丈夫という錯覚で思考停止 企業はモノつくりに固執 企業の意識から変えていく 多様な世界観で新しい民主主義

未来
 存在と無:投げ込まれた存在と位置づけ 存在の力を強さに変える 宇宙の果てに並んでいる自分 多重宇宙に存在する意味
 ジャンルの未来:お客様とメーカー企画を直結 集合が点になる新しい数学創出 個人と全体企画がつながる社会 地域主体となる歴史の変節点
 LとGの階層:国民国家でローカルが分化 L(コミュニティ)をG(行政)が支援 L(コミュニティ)とGG(超国家)関係 LL(個人)とG(コミュニティ)の関係
 LL=GGの未来:個人の分化状態を把握 コミュニティで知識と意識の場 地域インフラを作り上げる 理念に基づく環境社会の実現

サファイア循環
 事務局:サファイア循環を見える化 依存体質からの脱却を図る パートナーの役割を深化 新しい議論方式で政治に参画
 新しい民主主義:国への不信感で社会保障が破綻 存在の力の民主主義を志向 マーケティングが資本主義を凌駕 国民国家は社会の位相化で変質
 歴史の中の循環:137億年の物語で環境社会を見る 日本は国民国家の限界を突破 地域はLmGからGmLに再構成 2050年の区切りでLL=GGに到達
 革命のシナリオ:サファイア革命は非同期に実現 複雑性に従い、周縁から変革 個人の分化で議論方式をとる 教育につなげ、革命を維持

歴史を哲学する
 個人の役割:ムハンマドが中東の歴史を変えた ヒトラーに権力を集中された ナポレオンが国民国家を志向した 歴史は意思の力で変わってきた
 周縁の状況:国民国家と民主主義が変わる 近傍の発想が数字を変えた 先人の思いが市民に武器を与える ITツールが歴史を変える
 歴史が変わる:環境社会に対応するミッション 歴史はコード化で加速する 存在の力で分化して、生き残る ネットと情報共有で市民参加
 2050年の到達点:2050年で宇宙の区切りをつける 人類は存在の力を試される 市民主体の超コンパクトな社会 歴史の循環のビッグバン

サファイア革命
 国のあるべき姿:国は産業支援で推進力を確保 図書館クラウドなどインフラ提供 超国家でアジア全体を支援 国際の連携で平和をもたらす
 地域で支える:地域コミュニティの情報共有 GmLのグーグル発想で分配 企業拠点を中心にいい社会 組織の発想で都市の多様性
 複雑性が支配:周縁の出来事が中核を変革 開かれた世界が宇宙を感じる 内なる世界で存在を感じる 情報共有で世界をつなぐ
 ソーシャル社会:状況を把握して、カーシェア展開 高度サービスでコラボ革命 企業ソーシャルで活性化 お客様主導のマーケティング

全てを知りたい
 知るということ:偶然で歴史の分岐点にいる 知ることは存在そのもの 偶然が示唆したものを知りたい 存在の力から先を知る
 まとめるモデル:数学体系として、LL=GGに至る 情報共有が公共意識につながる 存在と無が未唯空間となる サファイアが社会の位相化になる
 未唯宇宙の活用:知り得たことを未唯空間で表す 知るための情報源は拡大した 個人の分化の例としての未唯宇宙 内なる世界で全てをつなぐ
 分かったのか:知ることで存在を確かめる 問われれば、全て応える 超人として、山を下りる 全てを知り、次の頂に向かう

生まれて、死ぬ
 存在の力:孤立と孤独から考えてきた 存在と無で宇宙とつながった 真理を求めて、内なる世界での答 放り込まれた存在で生きる
 考えること:数学・歴史などの交差的アイデア 偶然は私のために用意されている 考え抜いて、先が見えてきた 絶対的存在のために
 知ったこと:宇宙の旅人からマルチバース 内なる世界に社会を取り込む 近傍系のアイデアを拡大させる 社会の位相化で歴史の分岐点
 死ぬ時の思い:大いなる意思の力に導かれ 時間と偶然が与えられた 自己肯定のために全てを知る さいごはどうでもいい
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2050年の歴史の分岐点

ミカロスの気分

 物語は詳細で述べましょう。

 ミカロスの気分はそれで作り上げます。

第九章のキーワード

 第九章をコミュニティと情報共有というキーワードでまとめましょう。

 第八章と異なり、第九章は環境社会がテーマです。そこでのコミュニティは内部の世界です。コミュニティの機能そのものは第八章でハッキリさせて、それを第九章で市民の間に拡げていきます。

 情報共有も、黙っていては何も情報は集まらないし、発信できません。マスコミなども含めた、新しいカタチにしていく。

 一番大きいのは、民主主義制度まで及ぶということです。環境社会という以上は、政治とか行政とかに拡大していきます。そこには、別の人たちが現れます。

 コンパクトシティにしても、青森市ではないけど、試行錯誤してやっている。これは世代をまたいで、最低でも、20年とか30年という代物です。

 地方では、そういうカタチで進んでいけるけど、中央まで及ぶものは少ない。だから、様々な実験をどう活かしていくのかのアプローチもあります。

 存在の力は、完全に人間の覚醒を意味します。全体主義は、個人が全体が従属させたけど、今度は全体を個人に従属させる時です。これこそ、真の革命です。

 ただし、これは制度だけではない。どこまで参加できるのか、参加できないものをどうするか。そういう位相的な感覚も必要です。

人間は目的を持たないと意味がない

 「アンドロイド」で気になったことがあります。人間は目的を持たなくても生きていけるけど、モノは目的がないと捨てられる。これは逆ですね。

 モノには目的は要らない。使う人によって、目的が付与される。人間こそが目的が必要です。すべての人間はすべての中心であるべきです。捨てられるとか、そういう類ではない。次元が違います。

トルコとの皮コート

 トルコの皮コートを着てきたけど、ちょっと寒いです。このコートが着られる季節は少ないです。防寒服にはなりません。

全てを知る

 全てを知るのに、丁度いい本が二冊あります。それを今日、とりあえず触ろうか。一冊は「人類の対話」です。もう一つはウィットゲントシュタインの「哲学探究」です。

2050年の歴史の分岐点

 2050年の歴史の分岐点は、人類の試金石なんでしょうね。2050年に折り返した後に、どうなるのか。単にコンパクトな町だったら、折り返しとは言いません。何が変わるのか。様相が変わるのか、心が変わるのか。

 一番大きな変化は、人間の心になってくるでしょう。だけど、そう簡単にできるわけないし、それを維持できるわけがない。それをいかにカタチにするのか。その意味では、国民国家と同じレベルかもしれません。それまでは、国と国民は異なっていたものが一緒になって、国に支配された。

 今度は国民が国を支配することになる。それだけで、革命と言えるかどうか。何しろ、137億年の歴史の中で考えないといけない。137億年の間に、地殻変動で地中海を湖にしたものが三回起こっている。白亜紀のように、種が爆発的に増えたり、絶滅したりしている。それと同程度のものがどのように起こるのか。

 一番、大きな変化があるとしたら、多重宇宙との出会いなんでしょうね。時空間が交差する瞬間を見たいものです。

 2050年の時点には、私が存在していないのは確かです。だから、何が起ころうとも、本来関係ないです。身も蓋もないけど、そういうものです。自分の存在が亡くなった時点で、宇宙全体がなくなる。それが存在と無からの結論です。

 それでもやはり、2050年の世界を考えるのはなぜなのか。性なのか。やはり、全てを知りたいところだけかもしれない。興味があるというレベルかもしれません。決して、予言ではありません。予言しても、達成したものを見ることはできない。

 だけど、人類は多重宇宙のような、証明できないものを科学として、作り出しています。それと同じ類なんでしょう。

 まあ、バックキャスティングするには、丁度いいかもしれません。分岐点から考えて、どこまで人類が変われるか。と言っても、一番は存在の力です。それをどこまで理解できるのか。その意味では、「人類の対話」とよく似たところに持って行くことになるかもしれません。
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項目名の変更 環境社会

問題整理
 人口増減と格差:人口増減が環境問題を生む 行政はコンパクト化を望む インフラ格差が社会格差を生む 環境社会に適した暮らし方
 エネルギー問題:フクシマで原発の限界を露呈 エネルギーは地域に分散 市民と連携したエネルギー政策 社会インフラのスマートグリッド
 静脈系の流れ:廃棄物をどこに回すのかの問題 リサイクルを共有で考える 静脈系を主にした循環型社会 高齢者問題は循環型社会の課題
 環境問題の制約:25%削減に束縛されている 生活者発想で多様なエネルギー 地下資源も地域で循環させる 国の方針は不明確

環境社会の動き
 日本の活力:少子・高齢化は社会保障に影響 不安定化を地域の活力で対応 地球規模の課題を地域で対応 国を超えて、流れが拡大
 市民と地域:消費者から生活者の発想 多様な地域の知恵を活用 地域協働で新しい行政を具体化 車に依存しないコンパクトシティ
 企業とインフラ:モノつくりからソフト化へシフト クライシス想定の社会インフラ 共有概念で市民と合意形成 産官学連携のスマートシティ
 市民主体の形態:市場主体民主主義は破綻 国による分配能力は限界 国に依存しない民主主義 夢が市民を強くする形態

環境社会に対応
 問題解決の方法:技術開発・インフラ展開はムリ 自分たちで解決できる道 サファイア発想で市民中心に循環 共有概念で社会構造を変える
 環境社会の配置:NPO事務局は考える場を提供 市民は環境意識をカタチにする 専門家は課題を明確にする 行政は市民を環境社会に誘導
 合意形成の仕方:コミュニティでテーマを絞り込む コミュニティでチームを定義 メンバーが立場と知識で発言 コミュニティ合意形成の論理
 2030年の姿:つながりをコミュニティで実現 コミュニティに知識と意識を集約 グローカルのインフラを実現 環境問題で産業のソフト化

2015年から準備
 市民を強くする:SNSで武装化し、自律する 市民が分化し、学習する 地域の特性を生かし、つながる 全体の幸せが自分の幸せ
 地域が独立:行政は全体効率を狙う 税収入を地域に移管する クライシスを想定した対策 市民から始まるマーケティング
 地域から循環:行政は市民の動きが見えない コンパクトでオープンな生活 社会コミュニティで地域活性化 循環型での役割分担
 サファイア革命:存在の力で市民の意識変革 情報共有で緩やかなネット 共有意識からコミュニティ化 新しい民主主義をアピール

社会インフラ
 地域ネット構築:欧州は使わない車は隠す発想 自立の発想で風景を変える 地域をカバーするローカルネット 地域を超えたグローバルネット
 地域インフラ:企業・行政のスマートな地域 LAN/WAN発想でインフラ設計 経済を変え、政治を変える 共有の考えで国民性を変える
 働き方の改革:存在の力で働く意味を考える 地域インフラを自前にする 組織は個人の分化を促す 多くの人が働ける仕組み
 全体を変える:欧州の生活道路は乗入制限 生き抜くために生活者として発言 地域の要望で企業を変える 政治で大胆なインフラ提案

経済体系見直し
 人を生かす経済:ローカルで行い、つなげていく コミュニティでグリーン雇用 高度サービス化で付加価値創出 グローバルはローカルを支援
 持続可能な循環:個人を分化して、各方面に展開 企業意識を使うにシフト サファイアで持続可能性を追求 地域と国の役割を明確にする
 税制を地方に:独自性を発揮できる財源を確保 地域で優先順位を決定 消費税アップで実現できる社会 地域主権で社会保障制度
 環境社会の哲学:意思の力から存在の力へ 公共の概念で知の世界を作る 個人所有の限界からシェアへ 儲かるシェアで幸せ追求

政治形態
 地域の姿:欧州の地方自治は参加型社会 市民意識を表現できる規模 共有環境の図書館を活かす ゲームからコミュニティ化
 国の役割:国民国家は独立を勝ち取る 国は分配と雇用を保証する 地域の様々な試みを集約 新しい民主主義で国民を変える
 政治家の役割:議論し、結論を出す環境をつくる 法案を作り、行政に執行させる 価値観と危機感で平和を追及 多様な意見を事務局で実現
 2030年の社会:ハイパーインフレで生活破綻 コミュニティに人的資源を集中 LL=GGに向け、ゆっくりした変革 組織が分化した産業構造

国際関係
 国民国家の方向:国民国家としての成功体験 日本の次の姿が見えない EUは多様な価値観に対応 各国は環境社会に向かう
 日本の針路:日本は集団的浅慮にある モノつくりで一人ぼっちの国 アジア諸国と連携した国 環境社会で世界の盟主
 国際関係:人口変動に対応して国が動く GGの超国家が出現 LL・GGの環境社会で対応 北欧の新経済理論が見本
 国家連合形態:同一価値観でつながる国家連合 EU・地中海の国家連合 アジアのインド洋・シナ海連合 アメリカ大陸の米州連合
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タカをくくった日本軍と東電

『ニッポンが変わる、女が変わる』より 敗戦と原発、その失敗の本質

上野 3・11以後読んだ本の中でもっとも参考になった本が、経営学者の野中郁次郎さんらが書かれた『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』ですが、その中に、こんな明快な発言がありました。「戦略の失敗は戦術では補えない。戦術の失敗は戦闘では補えない」。

加藤 その通りです。現場が頑張っても取り返しはつきません。

上野 戦闘の場で、現場の人間がどんなに最善を尽くして戦っても、戦術、戦略が誤っていればうまくいかない。個人の英雄的な努力では限界があります。その戦略、戦術の失敗に踏み込んだレポートは、この4つの中にありましたか?

加藤 戦略論のプロを検証委員会に入れていたのは来電だったかな。ただ来電はもちろん、自分が責任者だという自覚がないままに書いています。

上野 私はもっと批判的に見ています。責任逃れが東電の報告書の目的です。

加藤 戦略・戦術・戦闘という3つの段階で言うと、日本はいつも戦闘にあたる部分、出先の踏ん張りに注目が集まりますね。津波から守るためにお年寄りを背負って山を登った自衛隊員の奮闘を、褒める。たしかに立派なのです。ただ、自衛隊員がフル出動しなければならないような人災をもたらした、規制庁と来電の不作為という根本への追及を止めてはいけない。戦争についても同じです。兵の苦闘へは目がいきますが、兵の大半を餓死させたような作戦をそもそも選択した大本営の決定の誤りは見えにくい。開戦決定時に会議に挙げられたデータは、巧妙に操作されていました。たとえば撃沈される船舶量を予測する際、あえて、第一次世界大戦時の古いデータを用いて過小に積算し、日本の造船量をもってすれば大丈夫と会議でぶつ。今回の事故でも、津波の高さの予測、配管の不具合部分の過小評価など、数値という点での楽観があったのではないでしょうか。

上野 私はもっと厳しい見方をしています。東電事故調については、「想定外」という言葉はすべて内部情報の隠蔽です。実は貞観地震についても、2006年に津波専門家から情報が上がっていました。あとで出した改訂版はその事実を認めましたが。国民の批判的な目に耐えきれなかったのでしょう。

加藤 コスト意識が、第一にきたのでしょうね。

上野 海軍がなぜ敵の兵力を見誤ったかを、渾地さんが見事な一言で「タカをくくっていたんでしょう」とおっしゃっている(笑)。来電も夕力をくくっていたのです。

加藤 一見すると説得力のある数値を出しているようですが、要は、「だから安全」だ、との結論を導くためのものですね。先に結論ありきで、説得材料がかき集められる。東電の度し難さは、事故の検証報告書の段階でも、過去の地震や津波の事例について、自分に都合のいい学会の数値だけを載せているところです。

上野 こうなると、私も陰謀史観説を信じたくなります(笑)。

加藤 東電の事故調は、読んでいて苦痛でした。誤りを認めてしまっては、誰かに迷惑がかかる、とでもいうような書きぶりでした。

上野 本人たちに責任者としての当事者意識がないんですよね。戦略という点では、「絶対負けるはずのない戦争」が、原発の「絶対安全神話」とオーバーラップします。

加藤 日本社会に通底する、組織の悪弊なのでしょう。ため息が出ます。
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定年後うつ病

『57歳からの意識革命』より

男性にとって定年制度はじつにむごい制度です。政府は65歳まで働けるようにしろと言っていますが、65歳でもまだまだ元気です。十分に働ける人を辞めさせる定年退職は、社会からの退場宣告にも近いのではないかと私は感じています。

私は定年の近い患者さんたちには皆「なんらかの形で仕事を続けたほうがいいですよ」とアドバイスしてきました。仕事が無理ならボランティアでもいいから社会に関わり続けることです。家に閉じこもったり、ごろごろしているのが一番いけない。これは私の治療経験からの確信です。また、私は病院以外のいろいろな活動でさまざまな高齢男性の方と接してきました。病人ばかりとおつきあいしてきたわけではないのです。

定年退職によって隠居生活に入ってはいけないというのは、そういう見聞のうえでの確固たる思いです。

患者さんたちの多くは仕事のストレスでうつ状態になったので、定年後は早く仕事のストレスから逃れたいと言います。そして私が「じつは定年後のほうがつらいんですよ。仕事を続けたほうが絶対にいいですよ」とアドバイスしても、とりあえずゆっくりしたいと言って退職なさいます。そうしてしばらくは旅行や趣味のゴルフ・釣りなどを満喫し、また読書などに打ち込むのですが、次第に体調が悪くなってくるのです。早い人で数か月、遅い人でも2、3年くらいで症状が出てきます。結局、現役時代と同じようなうつ状態になるのですが、この「定年後うつ病」は簡単には治せません。現役時代はストレスが多いためにうつ病になったのだから、ストレスを少なくしたり、ストレスの避け方を工夫すれば事足りました。しかし、何のプレッシャーもないと、人はやる気を失ってしまいます。定年後はストレスのないことがストレスになるのです。だから対応がむずかしい。

あるデータをご紹介しましょう。それは定年後の男性の自殺が意外に多いことを示しています。「年代別の自殺者数」に関する厚労省の平成15年の統計です。

これによれば、女性の自殺者数は、20代後半から50歳くらいまでほとんど変わりません。

それに比べて男性の自殺は、年齢が上がるごとに増えていきます。

これは、男性は仕事のストレスの影響を受けやすいからだと考えられます。では、仕事をリタイアしているはずの60代前半の男性の自殺者があまり減らない(10万人あたり58・4人)のはなぜでしょうか。

60代以上の男性は時間に追われることもありませんし、失敗が許されないというストレスもありません。経済的にはそれほどゆとりがなくても、多くの方が退職金をもらっているでしょうし、年金があります。そういう人たちがなぜ自殺に追い込まれるのでしょうか。

その理由は、この年代の男性が仕事を辞めて引退し、自分の社会的役割を見失ってしまい、強い孤独感と喪失感の中にいるからではないかと想像されます。

まだ働いている50代後半の男性の自殺者数は10万人あたり71・1人とすべての年代の中で最も多いわけですが、これも、定年退職後の不安が強く影響していると思われるのです。

気持ちがしっかりしていれば、人は多少の病気や経済的な問題で死のうとは考えません。自分は世の中に必要ないのではないかと落ち込んでいるときに、病気を患ったり経済的に行き詰まったりすることが、自殺への大きな引き金になるのだと思います。あるいは逆に、病気や経済的問題がうつ状態を引き起こすのです。どちらにしても、病気や経済的な問題が直接自殺の原因になるとは考えられません。

がんの患者さんで死にたいと言う人もいるでしょうが、むしろ最後まで治療法を求めて東奔西走したりしてがんばる方のほうがはるかに多いのではないでしょうか? うつ病でないかぎり、普通の方は生に執着すると思います。私の患者さんにも、病気を抱えていて、ときどき死にたいとおっしやる方がいますが、メンタル面を治療すれば、そういうことは言わなくなり、死にたいと言っていたことが嘘のように元気に暮らしていらっしやいます。

自殺の原因がうつ病であり、孤独がその引き金になっていると確信するからこそ、私は引退すべきではなく、できれば仕事をし、無理ならボランティアでも何でもいいから、社会的な絆を持ち続けるべきだと主張しているのです。
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「分化」と「統合」のバランス

『組織を強くする人材活用戦略』より 組織を「分化」する

高度な分化が必要な時代に

 社員を変えるには、組織の枠組みを変える必要があります。

 工業化社会に過剰適応したサラリーマン社員を、ポストエ業化社会に活躍できるプロの社員に変え、その能力を引き出すには、どんな組織にすればよいでしょうか。

 以下、それを説明していくことにします。

 組織論には、古くから「分化」と「統合」という対立する概念があります。

 組織の中にはさまざまな部門があり、それぞれの部門が特有の環境と対峙しています。たとえば研究開発部門の環境は不確かで変化が激しく、逆に製造部門の環境は確実性が高く比較的安定しています。そのため各部門は、それぞれの環境に応じた特徴を備えなければなりません。研究開発部門には長期的な視野や独創性、柔軟な思考力を身につけた人を配置し、自由かつ柔軟なマネジメントを行う必要があります。

 一方、製造部門には正確性や迅速性の優れた人を配置し、規律と統制に重点を置いたマネジメントが必要になります。また営業には、人当たりがよく交渉力やサービス精神のある人を置き、成果を意識させながら自律的に仕事をさせることが大切です。

 したがって、複雑で多様な環境に直面している組織ほど、それぞれの環境に応じて「分化」した部門を抱えるわけです。しかも部門間の差異はいっそう大きくなります。その結果、一つの会社の中に、まるで違う会社のように異質な下部組織ができることもあります。

 一方で組織は、全体の目的・目標を達成するために部門間の調整や協力が欠かせません。それが「統合」です。すなわち、組織には「分化」と「統合」のバランスが必要なわけです。

 問題は、そのバランスをどこに見出すかです。

 企業を取り巻く環境は複雑化、多様化する一方です。

 自動車や電機製品一つ取り上げても、少品種大量生産から多品種少量(変量)生産へとシフトし、製品ごと、仕様ごとに独自の市場や顧客層を相手にしています。サービス業や小売業も、多様化する顧客のニーズに応えられるよう、会社としては多様な人材と体制を整えておかなければなりません。また技術革新や流行のサイクルも、以前に比べると格段に短くなっています。

 グローバル化の影響も見逃せません。企業が世界各地へ進出すると、現地の特性、ニーズに合った経営が必要になり、多様な人材が求められます。同じ技術者でもアメリカと中国、インドでは要求される能力、仕事内容はまったく異なります。マネジャーの役割も当然違ってきます。したがって、雇用・人事管理もまた、現地の風土や慣習、法制度、労働市場に合わせなければなりません。

 それだけ「分化」の必要性が大きくなってきたわけです。

IT化で統合が容易に

 一方で、ポストエ業化の時代には、それほど強固な「統合」は必要でなくなっています。

 第一に、IT化によって周辺作業から解放された社員は仕事の守備範囲が広がり、一人である程度まとまった仕事を処理できるようになりました。サービスや営業の仕事では、従来は数人で行っていた仕事を単独でこなすケースが増えていますし、生産現場でも組み立て作業などで一人生産システムが普及してきています。歩調を合わせて一緒に働く共同作業の必要性がそれだけ減ったわけです。

 第二に、そもそも統一性や両二性を要する仕事は、それを得意としている機械やコンピュータに任せればよいでしょう。そしてインターネットやモバイル端末などを活用すれば、「分化」しながらも容易に「統合」できます。会議を開いたり、直接会ったりしなくても、Eメールやテレビ会議などで済む案件も少なくありません。

 このように、必要な「分化」と「統合」の均衡点が「分化」のほうヘシフトしているのです。

 こうした環境の変化を敏感に察知して組織を再設計している企業があります。

 たとえば、リクルートは自社の業務が多様化するなかで、それぞれの事業環境に適した経営を行うため、2012年に社内のカンパニーを分社化しました。リクルート・ホールディングスにいるスタッフは分社化した会社からの出向扱いにしていることからも、「分化」への強い意志がうかがえます。

 また、京セラのアメーバ経営、パナソニックの事業部制復活なども、多様な環境に適応する「分化」戦略ととらえることができます。そのほか、創造的な仕事に携わる社員や顧客サービスを担当する社員などは独立子会社に移し、そこでは独自の了不ジメントを行っている企業もあります。
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